一 夢 庵 風 流 日 記

vol.1 ~ vol.5


     ちょっとばかし私の好きな人物のひとりである
      「ブッダ」さんのことを書いてみたい。

     生年:紀元前6~5世紀頃。
     生地:現在のネパールのターライと呼ばれる地方の盆地。
        釈迦族の王子として誕生。
        父:スッドダーナ 母:マーヤー


qq



 誕生伝説は有名だ。
 マーヤー夫人が出産のため実家に帰る途中、立ち寄ったルンビニー園の樹下で
 誕生し四方に7歩あるいて、右手で天を、左手で地を指し、

 「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられている。(←まあ、これはないよね)

 釈尊29歳のとき、人生の意義について深く悩むようになっていたので
 城を出てすべてを放棄して出家することとなる。
 「大いなる放棄」と呼ばれるこの出家、その後、悟りを開くのが35歳である。

 出家後、様々な苦行をするお釈迦さんだが、ここで述べるほどのことではない
 一体、釈尊はなにを悟ったのか、なにに悩んだのか? 
 その部分に焦点をあて、話をすすめようと思う。   次回につづく。



  「一切皆苦」
 仏教は「人生は苦なり」であり「人生に苦あり」ではない。
 お釈迦さんは「人生は苦なり」と自覚し、その苦からの脱却を図ろうとする。

 お釈迦さんは、「老、病、死」の人生問題に悩んで出家し、修行し、
 悟りを開いたのだが、「老、病、死」に悩むとはどういうことか?

 これは「老、病、死」に代表される「思い通りにしたい」という
 自我欲望と「思い通りにならない」現実との狭間で悩んだということだ。

 自我欲望=ナイモノネダリ・カギリナクネダル ことを特徴としている。

 このときお釈迦さんは自我を必要以上に振り回すことの禍を
 おそらく感じ取っていたのであろう。
 同時に、自分が生きているのは自我欲望を振り回している世界である。

 「自我の世界に生きていて、しかも自我を超えるという、これは難しい」

 人間は老いる、病気にもなる、死ぬ、その摂理をコントロールすることは
 出来ない、どう足掻いても克服できない現実があるのだ。

 瞑想によって目覚めた体験、その内容とは・・・   次回にしましょう。



 菩提樹の下で悪魔に打ち勝ち瞑想によって目覚めた体験の中で
 お釈迦さんは幸せに浸っていた。

 お釈迦さんが目覚めたその内容をあえて言うなら

 「無常とか無我、ないし空、縁起などという言葉で示される世界の「真実」
 (仏教では法という)に否応なしに包まれ生かされている自己」
 に気づき目覚めたのだ。

 その結果、次のようにお釈迦さんは納得した。

 我々は無常なら無常という真実を知識としては知っていても、
 身体ではうなずいていない。

 だから、自我欲望が存分に働きだして無常なるものを無常とは見ずに
 常なるものと思い誤る。

 財も名声も若さもいつまでも自分のものだと思っている。
 いつまでもあると受け止めている、これは幻想だ。

 いや自分の生命や生活、さらには世の中のことすべてが真実に生かされて
 いることを忘れると、自我の織り成すヴァーチャルリアリティーに
 等しくなってしまう。

 そこに没入していると、真の自分を見出せない。
 思い通りにならない現実に振り回されている自分がそこにいる。

 話は変わって面白い逸話でアングリマーラという殺人鬼の話をひとつ。

 アングリマーラは人を殺し指を切り取り首飾りにしていた。
 99人目まで人を殺めており、100人目にばったり出くわしたのがお釈迦さんだった。

 「おい坊主、俺様はアングリマーラ、ジッとして動くんじゃねえ」
 「・・・・・・・・・・」
 「いまから、坊主、おまえの指をいただくぜ、だから動くなよ」
 「・・・アングリマーラとやら、私は動いてないよ」
 「う~ん、確かに・・・じゃあおとなしく殺されやがれ」
 「うむ、さあ斬りなさい、私は動いていないのだよ、さあ」
 「な、なんでだろう、こいつは只者じゃねえな、なぜか斬れない・・いや斬らねば」
 「アングリマーラよ、動いているのは君のほうだ、私の//こころ//は
  まったく動じていない、悟りによって私の//こころ//は不動だよ。
  でも君の//こころ//はあっちこっちにふらふらしてるね、自分の欲望に
  振り回されて動じているのはアングリマーラ、君なんだ」

 少し話を勝手に簡略化、演出してしまったがわかりやすい逸話である。

 自我欲望を抑制し、コントロールすることの重要さを説いたお釈迦さん

 ここからが本番

 無我、縁起などの言葉の意義に触れ
 次回から、この壮大なお釈迦さんの悟りに少し迫っていきます。



 「四苦八苦」という語がある。四苦は「生老病死」であり

 「怨憎会苦」(怨み憎しみの有る人と会わなければならない)
 「愛別離苦」(愛しい者とも別離する苦)
 「求不得苦」(求めて得ざる苦) 
 「五取薀苦」(以上まとめて生きることが苦)   

 これを合わせて四苦八苦。

 この中で「求不得苦」だけで意は尽くされるであろう。

 人生は常に「求めて得ざる苦しみ」があり、それを自分で作り出しているのが
 私達人間の性ではないか?というのだ。
 お釈迦さんの「自我欲望を抑制しなさい」といつも言うのは、ここに理由がある。

 欲求不満と同時に、こうした苦にさいなまれている自己存在は本当に依るべき
 自己が見出されていないがゆえに不安定だ。 
 私たちはそういう状況にいる。

 それこそ、お釈迦さんは「人生は苦なり」といったのだ。

 次回に続く・・・



 お釈迦さんのいう苦は、日常生活における苦楽のうちの苦を
 取り出しただけのものではない。

 感覚的に苦なること、楽なることを含めて、カギリナクネダリ、かつ
 ナイモノネダリ続けて自我欲望に振り回されている自己存在を危ういと
 思い苦と呼んだ。

 つまり「一切皆苦」とは現実の人生の単なる描写ではなく、
 実存的な宗教的自覚の内容としての「人生は苦」なのだ。

 お釈迦さんの自覚内容は、しかし、同時に私達人間すべてに適応する
 事柄である。

 だからそれを一般的に敷衍して「一切皆苦」というのである。

 通常の人生の苦楽はそれなりに対応すると同時に、実存的な人生苦は
 修行によって乗り越え、涅槃、悟りの境地に至れというのだ。

 次回に続く・・・


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