一 夢 庵 風 流 日 記

vol.6 ~ vol.13


 私は何? 自己とはなんだ? ⇒お釈迦さんは「無我」と答えている。

   ここで原始仏典を出そう。

 「私には子供がいる、財産がある、と誇らしげに思いつつ、人はそれが失われると悩む。
 しかし、すでに自分が自分ではない。どうして子供や財産が自分のものであろうか」
     (ウダーナヴァルガ)1.20

 これは子供や財産が無くなった人への励ましとみるといい、自分でさえ
 自分の思うようにならないのに、財産や子供が思うようになるわけがない。
 失われたことは残念だが、すべては無常なのだと、
 自分の思い通りになどなるものはないのだと説いているのだ。

 いつまでも悲しみをひきずらないように励ましているのだ。

 自分でさえ自分の思うようにならないではないか、ましてや自分の分身である子供も
 別の人格だし自分の財産も所詮は「自分」ではない、「他者」である。
 すべては無常であるのだというお釈迦さんの説法だ。


 お釈迦さんは「オレという存在」と「オレのもの」という自己の所有物は、
 無常という真実を知らず、私たちが勝手に妄想して「いつまでも在る」と
 考えている観念でしかないと言い放っている。

 お釈迦さんの説いたアン・アートマン(当時のインドの言葉、アートマンは自己、
 自己に属するモノ、アンは否定辞)は基本的には「無我」ではなく「非我」であり、
 我執を捨てよ、という実践的意味合いの強い教えなのである。

 アートマン(我)が存在するかしないかという議論だと、アン・アートマンは
 「無我」と理解されるであろう、事実、原始仏典の中ではアン・アートマンが
 説かれており、お釈迦さんは思想家として哲学的な議論に参加して
 「アートマンは無い」と主張したのだと理解された時期もあったようだ。

 しかし、お釈迦さんは形而上学議論は意味が無いとして参画していない。

 これは重要で、お釈迦さんはいかに生きるか?という意味での思想は
 説いたが、哲学者ではない。
 具体的な形で「自我」を調整する実践によって心の平安を説いた人なのである。

 だから「無我」ではなく、「非我」を説いた人だといえるのだ。
 (アン・アートマンはインド思想では無我であり、仏教も他宗派との交流で
 無我と主張するようになる、微妙な意味の違いだが、お釈迦さんは非我、
 無我と非我は別段矛盾するものではない)

 自己とは何か、という実存的な問いに対して、お釈迦さんは非我・無我と答えた。
 自我欲望を振り回し、思い通りにしようとする自分は結局、
 破綻をきたすので、本当の自己ではない。

 さりとて、実体的で永遠不変のアートマンのような存在は縁起、無常、無我の
 真実に反するものであり、認められない(死や病は現実的に必ず存在する)。

 縁起生であり、無常なるものとしてあり続ける存在そのものが本当の自己の姿であり、
 真実に随順して「無常を生きる」ところに本当の自己実現が在る、
 とお釈迦さんは説いている。

 何か実体的な物を指してこれが自己だ、というのではない。
 真実を生きるプロセスの中にこそ、真の自己がはたらきだすと言っているのだ。

     次回は、「縁起」・・・




    「縁起」
 縁起とは「因縁生起」を略した言葉だ。

 どんなものもそれ自体では存在せず、他の何物かに「縁って」いる。
 だから仏教ではキリスト教の神のような絶対的な存在はないと考えられる。

 因縁とは因は原因、縁は条件である。

 ひとつのミラーボールが動くと、四方のミラーボールに映り次第に波及する。
 世界のどんなものも他のすべての存在と関わっている。
 個と全体の関係をいうと、網という全体があるなら個々の網があり得る。
 例えば地面に石をばら蒔いてみたりする、ひとつひとつ取り上げることが出来る。
 しかし、この世は違う、まるで糸に繋がれたビーズのように
 かかわりあっていて、その総体を全体というのだ。

 後代の仏典に「帝釈の網」という比喩がある。
 帝釈天が地球にすっぽり網をかけるという話だが、網という全体を人間の社会、
 自然環境、世界、地球、宇宙と見ればこの比喩の正当性はより具体的になる。

 私達ひとりひとりの人間、動物たち、木や草などが網目である。
 個々の網目は全体があるから存在しうるのであり、
 逆に、個々の存在が社会、世界、地球等の全体を支える。
 互いに係わり合い、縁起しているのが真実の姿なのであり、
 それを大切にしていく生き方が共生というものであろう。

     次回は「中道」について・・・



 この世はどんどん狭くなっている、船、飛行機、インターネットと近くなっている。
 しかし、逆にどんどん自我は増大していると思う。
 様々な欲望が目の前に現れるのだから仕方ない。

 そこで「中道」について書いてみよう。

 主体的に生きる=中道  

 まず中道とは、AとBという二つの目標の真ん中ではない。
 右と左の真ん中ではない。 じゃあなんなんだ??

 私が中道を歩いている、Aがグッと右に傾いたとしよう、
 そうすると私は相対的にBに近づくこととなる、Aから離れることとなる。
 この時点で、真ん中を歩いていないのだから、進路を変更して
 Aに近づき、新たな中道を歩くこととなる。

 でもこれって、自分が右傾化しただけのことであり、逆にBの動きにあわせて
 動けば真ん中は確かに歩いているが、左傾化したことになる。  

 これは、妥協というものだ。

 中道とは、判断の基準を自らに持つことだ。

 常に錘はぶら下がっていて、姿勢が変わろうともある一定の位置にある。
 全体が左傾化すれば錘は右にあるだろう、それでいいのだ。

 基準に従って判断をする、その判断に結果的に多くの人が同調し賛成する。
 そういった意味で普遍的で道理にあった基準と判断だということができる。

 それこそが「中道」である。

     「中道」まだまだ続きま~す。




 「修行者は二つの極端に近づいてはならない。
  ひとつは諸々の欲望において欲の快楽にふけらないことである。
  他のひとつは、自らを苦しめる苦行にふけることである。
  両者とも我々のためにはならない。
  仏はこの両極端に近づかないで、中道を悟ったのである。」

 お釈迦さんは、王子であったから快楽を知っている、
 そして苦行も経験したから苦も知っている。

 そして中道の実践が四諦八正道だと云っている。
 (四諦八正道は後で詳しくやります)

 お釈迦さんは出家前は琵琶の名手だったソーナという修行一辺倒の比丘に琵琶の話をした。

 「弦は強く締めすぎても、正しい音は出ない。調和の取れた締め方をして、
  はじめて正しい音が出る。そのように修行も中道を心がけよ」

 ソーナは自分なりに緩急をわきまえ悟りを開くことになるのだが、弦の正しい締め方、
 正しい音階はひとつに決まっていようが、それを合わせるまでのやり方はソーナの判断だ。

 修行の中道の中身はソーナという修行者個人の判断によるものだ。
 つまり「これしかない!」という決め方は中道ではないということだ。

 私たちが人生の諸問題を「中道」で受け止めようとするとき、
 最終的には何が善で、何が悪かということに関わってくる。

 中道の実践には各人の信仰、ということは自分が信じている宗教的真実への
 誠実な対応が大前提となる、まあこれは当然であり、
 そうしないと中道は単なるエゴでしかなくなってしまうのだ。

 もちろん宗教信仰でなくても、人間としての普遍的な理法がある。
 人間の理法に常に立ち戻り、その実践に努力することが
 中道に生きることといえるのではないか。

 中道とは何らかの実存的な根拠の上に、誠実に生きる指針であり、
 それが真の主体性の確立といえるであろう。

     次回は「四諦八正道」の解説、お話・・・



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       <四諦八正道>

 四諦とは「四つの真理」であり、苦、集、滅、道のこと。
 最重要なのは八正道を歩くという実践なのだとお釈迦さんは説き続けている。
 そして、なぜ八正道を歩かねばならないかの理由を
 明らかにされているものが四諦なのだ。


   苦諦・・・人生は苦であるという真理

 これは当初から述べてきたとおり、どうしようもないことに直面する、
 それは苦である。


   集諦・・・苦の原因は自我欲望であるという真理

 これも述べたとおり、欲望を振り回すことが苦の原因であるということ。


   滅諦・・・欲望を滅すれば苦も減するという真理

 人生は苦であり、苦の原因が自我欲望となれば、
 これを消せば苦がなくなるという理論。 これは少し補足が必要か。
 「滅する」という「滅」の漢語の原語は二ローダ(nirodha)なのだが、
 これはブロックする、さえぎるという意味であり、滅するというよりは
 自我欲望をさえぎる=出来る限り抑える と訳したほうがいいであろう。

 まあ、当然であって、人間大なり小なり欲望はあるわけで、無くすことは不可能。
 「煩悩そのものをなくせ!」よりは「煩悩を(しかるべく抑制して、
 その働きがでることを)なくせ!」と理解するほうが自然であろう。


   道諦・・・その修行は八正道であるという真理

 そして欲望を抑え込む修行は八正道にあるという明快であり、
 実践難しいお釈迦さんの理論が完成する。

 ではここで八正道とはなにか?


     続きは次回で・・・





       <八正道>

 実践の方法を八項目に分けて説くもの。ではその八項目をば。

  1、正見
 正しい見解ということで、お釈迦さんが理解し仏教信仰の根底にある正しい世界観。
 例えば、縁起、無常、無我、三宝帰依などがあたる。


 1、正思、正語、正業
 心、口、身体の行為が正しいことである。
 業とは身体的行為だけではなく、言葉と心の動きも行為とみる。
 「身・口・意の三業」などというのは、その意味だ。

  1、正命
 正しい生活のことである。
 身体、心、言葉が正見にのっとって正しく行われるのなら、生活はおのずと正しくなる。


  1、正念
 念とは記憶、思い出すというほどの意味だが、信仰の生き方をしようと
 常に自分に言い聞かせ忘れないようにし、心にとどめることである。
 常にそうした信仰の生き方が心身を離れないことを理想とするが、
 そのように勤めよ、という目標でもある。
 観音経の有名な「念彼観音力」というフレーズの念も同様だ。


  1、正定
 正しい禅定のことである。禅定、瞑想はインド宗教の基本の行法。
 通常の思考のあり方である主体と客体が分離している二元論を超えて、
 主・客がひとつになる心的状況に導く。
 当然、そこに感得されるものは、単なる思考の内容ではない。
 思考とは必然的に主・客が分離しているところにはたらき、
 自我に裏打ちされているものである。


  1、正精進
 精進とは努力という意味である。
 正見に基づく生活、正念、正定などはそれなりの意欲と努力がなければ実践はできない!
 信仰への努力といえる。


 上記の項目は、それを実践するのも自分の自我の決意だが、同時にその実践を
 おっくうにして理論化を求め、素直にからだに染み込ませるのを妨げるのも、
 これまた自我なのだ。

 自我と自我が争っても収拾はつかない、
 ここに禅定に縁って自我を超えた世界に自分をおく修行が必要になる。

 それゆえに、主・客二分を超え、何物か絶対なる存在とのかかわりを自覚させる行法
 たとえば念仏とか唱題などを禅定の代わりに想定してもいいのだが
 真実をからだに染み込ませ、信仰を支える行法が必要となるのだ。

 次回は、四諦八正道の内容を現代にあてはめる・・・




 「四諦八正道」は医療的思考に似ている。

 病苦のあるとき、まずその苦がどんなものか調べる(苦諦)。
 次に、原因を知り(集諦)、そして対処すると病気は治る(滅諦)。
 ただ、そのためには療養が必要であり(道諦)、それは一時的な対応ではなく
 精神と生活の基本を正し、健やかに生きていくことの中に治療を当てはめていく。

 怪我をする、時間がたてば自然治癒力でおのずと快復するが、医学では、効果的に
 適切に快復させる、さらに、自然治癒力では治らない怪我や病気まで治してくれる。

 そう、心も一緒なのだ。

 心の傷の快復をより適切に、効果的に、そして通常では治らないようなものまで
 癒してくれるのが宗教なのかもしれない。
 また、そういうものが宗教とよべるのではないだろうか?


     次回は、「輪廻と業」、いよいよ大詰めです。


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