ア 平成1O年8月15日,被告会社から本件書籍が発行された。本件書籍の著者は被告東中野であり,同被告は亜細亜大学の教授(政治思想史・日本思想史等)である。本件書籍は,平成18年12月末日現在,第5刷まで総数約1万2900部が発行され,日本国内で頒布されている。 イ 平成13年,本件書籍の繁体字中国語版である「徹底検證『南京大屠殺』」が台湾の前衛出版社から発行され,台湾において頒布された。発行部数は2000部である。 ウ 平成17年,本件書籍の英語版である「THE NANKING MASSACRE: Fact Versus Fiction A Historian's Quest for the Truth 」が株式会社世界出版から発行され,日本国内において直接販売により頒布された。発行部数は,ハードカバー版3000部,ソフトカバー版1250部である。
(3) 本件記述について(甲1)
被告東中野は,本件書籍において,「南京安全地帯の記録(一)」の事例219(昭和12年12月13日ころ,南京市内の新路口において,夏(シア)家と哈(Ha,ハー)(なお,後述する資料では馬(Ma,マー又はマア)とされている。)家の人々が日本軍兵士によって殺害され,その場にいた「8歳の少女」は負傷しながらも生き残ったとされている事件。以下「新路口事件」又は「本件事件」という。)を取り上げ,この事例の「(生き残った)8歳の少女」について次のように記述した(末尾括弧内のカギ括弧部分は本文中の小見出し。以下, (1) ないし (3) の記述を一括して「本件記述」という。)。 ①「『漢語大詞典』によれば,夏淑琴の姓の『夏』は Xia(シア)と発音する。しかし,これまでの検証からも分かるように,『8歳の少女』の姓をシアとするには無理がある。『8歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される。」(「8歳の少女(夏淑琴)がマギーに語ったもう一つの話」247頁~248頁) ② 「『8歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり,事実をありのままに語っているのであれば,証言に,食い違いの起こるはずもなかった。」(同248頁) ③ 「さらに驚いたことには,夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである。」(「夏淑琴が『マギーの遺言』に登場」250頁) なお,本件書籍の英語版(前記(2)ウ)では, (1) の記述のうち「『8歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される。」との一文は削除されている。
a.「bayonet」は,本来「銃剣で突く」という意味であり,必ずしも「殺した」と訳すべき単語ではない。そして,フィルム解説文では,その 3,4行後に「After being wounded the 8-year old gir1」の文言があり,「the」の定冠詞の用法からしても,「8歳の少女」はその前に記されている「bayonet」された「7,8歳になる妹」 (another sister of between 7-8)を指すことが明白であるから,「7,8歳になる妹」は銃剣で刺されたにしても命までは奪われなかったと当然に解すべきであって,現に同じ英文を翻訳した「資料ドイツ外交官の見た南京事件」(石田勇治編集・翻訳)はそのように訳している。しかも,被告東中野自身,本件書籍の他の部分(245頁)では「第七に,銃剣で『重傷』を負った8歳の少女が何とかショック死を免れた。・・それはなぜなのか。」と述べ,上記の「bayonet」を「銃剣で突いた」と解釈しているのである。「another sister of between 7-8」は,「the8-year o1d gir1」の属性を包含しており,「7,8歳になる妹」を,後に続く文章では「8歳の少女」と簡略して表現することは広く行われているところであり,少なくとも両者を別人と判断する合理的根拠とはなり得ない。さらに,「8歳の少女」は傷を負った後「母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った」のであるから,殺された2人の母親のうちどちらかが「8歳の少女」の母親だったのであり,「8歳の少女」がマアの家族でもシアの家族でもなかったわけがない。 b.1939年1月26日時点で数え年9歳の人間は,満で換算すると7-8歳となる。マギーは,原告の年齢を数え年で9歳と聞き取り,満で換算したと考えることもできる。「8歳の少女」が自己の年齢を正確に把握しているはずであるという前提自体が経験則に反するし,このような極限の混乱状態におけるマギーの記述が完全に正確無比であることの方が不自然である。 また,マギーの日記(1938年1月30日)の原文には,生き延びた「8歳の少女」は家主ハーの娘であったとは記載されていない。
「《12月13日, 約30人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて,中に入れるよう要求した。 玄関を,①マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると, ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上,もう誰も殺さないでと,マアの死体に脆いて頼む②シアさんMr.Hsiaをも殺した。なぜ夫を殺したのかと③マアの妻が尋ねると,彼らはマアの妻をも殺した。 ④シアの妻は⑤1歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが,そこから引きずり出された。そして、1人かもっと多くの男たちから裸にされ,強 姦された後,銃剣で胸を刺されて殺された。その上,陰部に瓶を突っ込まれ,赤子も銃剣で殺された。 それから,何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには,シアの妻の⑥76歳と⑦74歳になる両親,それに⑧16歳と⑨14歳になるシアの娘がいた。この娘たちを彼らが強 姦しようとしたその時,祖母が娘を守ろうとして拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと,祖父も殺された。 それから,2人の少女が裸にされた。上の少女は2,3人に強 姦され,下の少女は3人に強 姦された。その後,上の少女は刺されて陰部に芋を詰め込まれた。下の少女も銃剣で突き殺されたが,母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。 それから,兵士たちはもう1人の ⑩ 7,8歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。 この家の最後の殺人は⑪4歳と⑫ 2歳になるマアの2人の子供。children(筆者註・性別不明)の殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され,下の子は刀で真二つに斬られた。 ⑬ その8歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後,母の死体のある隣の都屋に這って行った。無傷で逃げおおせた ⑭ 4歳の妹 her 4-year old sister と一緒に,この子はここに14日間居残った。この2人の子供はふかした米を食べて生きた。 写真撮影者の私が,この話の一部を得ることができたのは,上の8歳の少女からで,詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって,確認と訂正ができた。兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが,2人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと,この8歳の少女は語った。 このような恐ろしいことが起こり始めた時,近所の往民はみな避難民地帯に逃げた。それから14日して,このフィルムに出て来る ⑮老女性 the old women が近所に戻って,2人の子供を発見した。その後,死体が全て取り除かれたあとの部屋 an open space where the bodies had been taken afterwards に,写真撮影者の私を案内したのは,この老女性であつた。彼女や,シアさんの ⑯弟(または兄)Mrs. Hsia's brother と,この小さな女の子にたいする質問を通じて,恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》」(241~242頁)
「The soldiers then bayonetted another sister of between 7-8, who was also in the room. (中略) After being wounded the 8-year old girl crawlded (*2) to the next room where lay the body of her mother. 」
(イ) しかしながら,甲31の1,2によれば,現在マギーの日記として公刊されている英語の文献には,助かった8歳の娘について「 The eight year old girl 」とあるのみで,同女が家主マーの娘であることを示す記述は存しないことが認められる。またこの英語の文献がマギーの日記を正確に紹介したものであるとすると,滝谷二郎が上記「目撃者の南京事件」で紹介した日記の内容と相当程度異なっているが(乙13の85~86頁と甲31の2の327~328頁),本件において「目撃者の南京事件」で引用されているマギーの日記に該当する原文の資料は証拠として提出されていない。
「それに一度,わたしがある家に行きましたら,そこでは11人殺されていて,男の人3人のほかは,みんな婦女と子供で,そのうちの一人は76歳のおじいさんでした。子供では一人が1歳にも満たない赤ちゃんだったのを覚えています。5歳(中国の数え年)【原文は「a children of five (Chinese count)」】の幼い子一人だけが助かり,9歳の女の子が銃剣で背中と脇とを刺されたのですが,なんとか快復しました。【原文は「a girl of nine was bayoneted (*3) in the back and side but recovered 」】(以下略)」
等と記載してフィルム解説文と同様の被害状況を伝え,また同じ書簡の別の箇所では,
「16歳(中国式数え方による数え年で実際には14~15歳)」【原文は「a boy of 16 (Chinese reckoning or 14-15 years old )」】
という表現もしていることが認められる。
(ウ) 上記事実によると,マギーは,フィルム解説文を書いたと思われる時期からさほど離れていない時期に,新路口事件で生き残った年長の少女の年齢について,中国式数え方で「9歳」と認識していたことが推認される。そして,マギーは,当時の中国では年齢をいわゆる数え年で表記していたこと及び満年齢ではその数え年の年齢より1,2歳低くなることを理解していたと認められるから,中国式数え方で9歳(a girl of nine)と説明した少女の満年齢を「7-8」歳と推定し,フィルム解説文では,これを「8歳の少女」(the 8-year old gir1 )と表現したことも十分に考えられるところであり,上記書簡の記述とフィルム解説文の記述からすると,むしろそのように理解するのが合理的というべきである。
「それから,兵士たちはもう1人の ⑩7,8歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。 この家の最後の殺人は ⑪4歳と⑫2歳になるマアの2人の子供children(筆者註・性別不明)の殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され,下の子は刀で真二つに斬られた。 ⑬その8歳の少女 the 8-year old gir1 は傷を負った後,母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた⑭4歳の妹 her 4-year old sisterと一緒に,この子はここに14日間居残った。この2人の子供はふかした米を食べて生きた。」
(3) 当時「8歳の少女」が原告ではないとの理解が一般的であったか ア 甲16,乙8,9によると,本件書籍が発行された当時存在した本多勝一の「貧困なる精神G集」(平成3年9月25日発行)は,フィルム解説文の原文「The soldiers then bayonetted another sister of between 7-8, who was also in tbe room. 」の部分を「同じ部屋にもうひとり7,8歳の妹がいたが,これも刺殺された。」(110頁)と訳して紹介し,笠原十九司も「南京難民区の百日」で上記書籍を引用し, 「殺害されたのは・・彼らの7,8歳の女の子である。」(255頁)と記述していることが認められる(もっとも,本多勝一は,上記記述に関し「この『シア』一家は,拙著『南京への道』に出てくる夏淑琴さんの場合の可能性もあるかもしれない。」と注記している。)。