癒しの休憩室

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詩)記憶



Leonid Kogan - Cantabile, Paganini






「記憶」

後生、大事に抱えている

自分の産んだ美しい子供のように
記憶を

半分が男のもので
他の半分が、あなたのものだ

それ以上、大きくはならない子供
無邪気でいつまでも可愛いままだ

ギターの音のように、時々つま弾き出されて
あなたを泣かし、脅かし、うろたえさせる

今となっては、誰も見ることがないのに
記憶って何処にあるんだろうね

痛み出した僕の胃袋にのなかにしまいこんであるの?

どこにあるのか、わかるかい?
もう見えないのに、そんなに大切なの?
その記憶

あなたのせいじゃないのに、思い出しては何回も泣かされ、苦しめられ
苛まされたじゃないか。
あなたが愛した人のためだったのに

決して、わかってくれようとはしなかったじゃないか。
あなたの命のことを

急がしそうだったから、決して追いつめなかった。
その人の確信のために、あなたは引き下がったじゃないか

だから悲しい記憶だけが、体のどこかに蓄えられて、
ある日突然、胸が熱くなる

不意打ちを食らったように、震えるんだ

むせび泣くことなんか、考えてもみなかったことなのに

後生、大事に抱えている
自分の産んだ美しい子供のように
記憶を

せめてあなたが自由を母のように思い、
私が自由を父のように思えたならば、
こんなにも悲しい日々を過ごさなくても、良かっただろうに

もう少し、あなたの孤独を慰める術があっただろうに。

あなたが、そんなにも孤独を噛みしめ、
それが私を襲い
二人して、まみれていくしかなかったのなら、
私達に授かる子供は、いつも
盲の娘。

誰にも相手にされずに生きていく盲の娘。
何も見ることも出来ず、祝福にも縁がない。

彼女に声をかける若者は少ない。

美しい娘であっても、眼が見えなかったら、厄介者。
美しいだけに、とても見てはいられないだろう。

可哀想な私達の盲の娘。

彼女には、記憶と言うものがない。
生まれてこの方、自分の顔さえ見たことがないんだよ。
私は、そんな娘の父親だ。

年を取ることさえも忘れて、つかえてきた。
盲の娘のために、もう取り返しのつかない日々が横たわる。
死んだヘビのように。

とても美しい娘なのに、自分の声が聞こえない。
年を取ったことさえも忘れて、つかえてきた。

着るものも、みすぼらしく、凍えた手で、来ないかも知れない明日の希望を待つ。

すべて、この娘のために待っている。

いずれ時が来て、幸せを得られて、解放が始まる、その時まで。

とうとう白髪の老人になってしまった。
それでも、待っている。
その時まで。

愛とはそう言うものだ。
人は愛するとき、しかも深く愛するとき、
ふと、かたわらに自分にはやっかいな、美しい娘がいることに
気がつく。

美しいものの中に、必ず、やっかいな盲のむすめがいる。

まだ、後生、大事にあたためている。
自分が産んだ美しい子供のように。
記憶を。

今では、もう見ることも出来ないのに、あたためて離さない。
生きていけるだけの、これからのために。

それが「別れ」であっても、大切にあたためて離さない。

決して、男だけのせいじゃないだろう。
半分を男が持っていき、ほかの半分を
あなたが、あたため始めた。

孵るのかわかりもしない卵を、何日も何日も優しく抱いている。

眼を瞑って、なんて穏やかな顔をしているんだろう。
あなたは。
初めて私を受け入れてくれたときのように、
なんて、なんて悲しい瞳なのだろう。

ねえ。
闇の中で呼び合おうよ。
大きな声でなくてさ。

お互いの名前を呼んで御覧よ。
追いかけて行くんだよ。

背中ばかりを見て過ごしてきた。

今、泣きじゃくっても抱きついて、引き戻して
「嫌だ」と言うんだよ。

もう、びくつくことはない。

背中ばかりを見て過ごしてきた。

今、誰の記憶も、この闇に溶け出して一体となるときが来た。
御覧、誰もが「何も見えない時」がやった来た。

そこで、いつもの通り、呼んでおくれ。

”私のお父さん”

か細くて、高貴な声だ。

君は闇の中で泳いでいたんだよ。

”私のお父さん”

さあ、誰もが何も見えなくなる時がやってきた。

闇の中でお互いの名前を呼び合おう。

やっと会えたんだね。

私の美しい娘は

もう、眼が見えなくなって来た私を呼んでいる。

あきらめないで!

名前を呼び合うんだ。
狂おしいほど呼び合うんだ。

迷子になった時の君のように

ここにいるよ。
安心して。
ここに、ほら、ここにおいで。

私はもう、動けない。

もう一度、小さな頃のように髪を撫でてあげるから。
私を探しに来ておくれ。

目が見えなくなって来ても、覚えているさ。
可愛い君のことだもの。

それに、君の匂い
こんなにも優しい香り、、、ああ、近くに来ているよね。

この暗闇の中でも漂ってくるよ。

私の事も覚えているだろう。

一緒に微笑んだ。

せの指を数えようとして、いつも、小さな首をかしげ途中で諦めてしまった。 
それでも幸せだったんだ。

私の盲の娘よ。
離しはしないさ。
安心しておくれ。
僕が君の父親だ。

世界が滅んで、太陽が閉じて

墓場がいたるところに出来て

もう父も母もいなくなって

閉じこめられることもなくなって

互いに探し当てることしかなくなったら、

闇の中で、アネモネの花を摘んで
最初のところで出会おう。

君の一番好きな匂いのする花を、闇の中で探し出そう。
急にかけだしていっては、くんくんと嗅いでいたっけ。

僕も、殆ど眼が見えなくなってきて、

君の姿も見えなくて、周りの人も見えなくなっていく。

こちらにおいで。
来てくれたなら
高く、ひたすらに高く
抱いてあげるよ。

聞こえないくらいの小さな声で
君は驚くだろう。

やっぱり難しい音楽さ。
僕はそう言う風に出来ている。

静かなところだ。
誰にもわからないように近づいておいで。

みんなも不安でしかたがないのさ。

君はずっと闇の中にいた。
無限の中を泳いでいた。

いつものとおり、こちらにおいで。
ほら。
僕を見つけるのは、君が一番早かった。

いつも、大事に抱えている。
自分の産んだ美しい子供のように。
記憶を。

あなたの血潮に染まった記憶。

あかに染まった使い古しの、お気に入りの本のように
懐かしい別れ。

あなただけのせいじゃない。

半分は男のもので、ほかの半分があなたのもの。

ほかのものなら捨てられたけれど、記憶だけは抱えていくしかない。

何処にしまったかわからない記憶が
ある日、待ち伏せしていて
不意に、あなたをうろたえさせる。

あなただけのものではない記憶。
あなただけのせいじゃない過去の別離。
今となって、何処で見ることが出来る?

美しいもののなかに
必ず
あなたにはやっかいな盲の娘がいる。

人が人を深く愛するとき、
その娘の背中を美しく思い
うろたえる。




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