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日常の診療で、水を摂りすぎないようにと指導すると、「1日なんCCだと良いのですか?」と聞いてくる人が少なからずいる。
その人自身が持っている、「飲みたい」感覚と、「もういい」という感覚を頼りにする他はない。その日の気温や運動量によって、必要とする水分は変わって来るのですから。
無理してでも1日2リットル飲みなさいなんて、愚の骨頂です。誰かの利益のためですよ。
自分の感覚を信じないで、外の尺度に自分を合わせようとする。万事このような世の中である、病気にならない方がおかしいと思いませんか。
自分の有り様を、世の価値観に合わせようとするからおかしくなる。子供も、学校に過度に適応しようとする、いわゆる「まじめ」な子がおかしくなってるんです。
先祖供養も、自分の気持より方法や作法にに心を配るから続かないのです。先祖供養なんて必要ない。
要は、繋がってる命に手を合わせる心があれば良いだけの話。墓も仏壇も、方便、気持ちを形にしただけのもので、必要ない人には無駄なこと。それぞれの人の有り様によって自由であればよい。
欲が悪いなんてだれが言い出したのだろう。
ただ、過ぎた欲は自分の身を滅ぼす。
では、過ぎているかどうかは、どこで判断するのか。
「これくらいはいいよね?」って、誰に投げかけるのかが大事。
自分の感覚に、自分に問うのが当然の理。人に投げかけるべきじゃない。
たとえば、食べる量を例にとると、茶碗一杯で満足する人と3杯で満足する人がいたとする。
それぞれ器というものがあって、それを越えて食べると調子が崩れるのである。ちょうど良いかどうか、自分に尋ねないで誰に尋ねるのだろう。
成人の1日摂取カロリーを計算して、その通りに実行すれば、病気にならない方がおかしいくらいだ。
もっと、自分の感性を信じて欲しい。
自分の感性が信じられない・・・
安心を求めて、人に・外の尺度で自分を計ろうとすると、自分を明け渡すことになり、安心が手に入らないばかりか混乱を極めることに繋がります。
そればかりか、外に判断を求めることは、人間としての尊厳を自ら手放すことに繋がる。
自分を外にゆだねると、家畜化される。