JIMI JIMI SHAKE

イサブ、この1枚にやられた!!集

フィルモアイースト

ジミヘン「ライヴ・フィルモア・イースト」
ジミヘンほど、死後にこれほど多くの作品がリリースされたミュージシャンはいないでしょう・・・。彗星のように現れ、そして去ったジミヘンことジミ・ヘンドリックスは、エレキ・ギターの演奏に革命を起こした最大の立て役者だ。エリック・クラプトンやピート・タウンゼントを始めとするどのイギリス出身のブルース/ロック・ギタリストも、自分がジミの一番の親友だったと語っている。彼は他人を惹き付ける魅力の持ち主だった。天才的なギター演奏とソウルフルで高らかなヴォーカル・スタイルは全ての人を虜にしたね。66年から70年にかけてジミは自分のストラトキャスターに生命を吹き込み、それまで誰も出したことのないようなサウンドをギターから絞り出したっていう・・・。ドラムスにミッチ・ミッチェル、ベースにノエル・レディングを迎えて結成したジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスでヘンドリックスは、まったく新しいサイケデリックなブルースの世界を創造した。――早すぎる死から30年近く経った今でも彼の音楽は相変わらずパワフルで人気があり、他アーティストたちに影響を与え続けている。ジミヘンのライブアルバムなどは、たくさんあるけど、なんといってもこのアルバムは黒人バンド「バンド・オブ・ジプシーズ」が織り成す並外れたコンビネーション。「イザベラ」のこのテイクは個人的に、他のどの音源の「イザベラ」よりもカッコEと思うね~。テンポがたまりません!圧巻です。


ジョン・レノン・アコースティック

ジョン・レノン「ジョン・レノン・アコースティック」
今さら何を語ればいいのか?っていう・・・。 世紀を超越し、語り継がれるであろう伝説のグループ、ビートルズ。多くの人々に愛や夢や希望を与え、音楽を革新的に活性させたのは周知のとおりだ。その中でも、ジョン・レノンのカリスマ性は群を抜いててね・・・。主夫生活のため音楽活動を休止し、息子ショーン・レノンが発した「パパはビートルズだったの?」の一言から、80年『ダブル・ファンタジー』でシーンに復帰。しかし、その直後、自宅ダコタ・ハウスの前で狂信的なファンに射殺され、人生の幕を降ろしてしまった。なんとも皮肉な話だね~。この死によって、レノンは崇拝されるようになったと発言する者もいる。でも、果たしてそうであろうか?彼はソロ活動において、ビートルズ時代より大きなマインドで「ラブ&ピース」を唱え、音に託した。力強いギターが鳴り響くR&Rナンバーから、温もりの中にも喪失感が漂うスローなピアノ・ナンバーなど、まるで身を削って作り上げられるかのような音には多くのリアルが息吹いている様に感じる。またそこには、悲痛なまでの母性愛や、ヨーコと息子へのピュアな愛、そして政治的主張が存在し、内省的で不安定なレノンの心をうつし出した素の姿があったような気がしてならない。多くのリスナーは、そんな彼の姿から(家族)愛や言論の自由に対し、共感を得たのではないだろうか? そう、ソロ・デビュー作『ジョンの魂』(70年)で呈示したレノンのソウルは、今後も世代を超えて愛され続ける至宝でしょう。このアルバム、レコード屋さんで見っけたとき、手が震えて大変だったな~。アコGのジョンはシブすぎるんですよね。ジョンのシャウトほど、泣けるシャウトって見当たらないんですよ。僕の場合。


ライ・クーダー

ライ・クーダー「ブーマーズ・ストーリー」
ライ・クーダー。この学究肌のギタリストが自ら曲を書くことは皆無だが、アメリカの伝承曲、古いロックンロールやR&Bをカヴァーし再構築する手腕は、他の追随を許さない。また、ハワイアンやキューバ音楽などワールド・ミュージックにロック・ファンの目を向けさせた功績は大きいと言える。
クーダーは、タジ・マハールとのブルース・バンド"ライジング・サン"を経て、スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアを開始。金属の棒で弦を引きずるスライド・ギター・テクニックを武器に、数多くのロック・バンドやシンガー・ソングライターの作品に名演奏を残した。そして70年、ヴァン・ダイク・パークスをプロデューサーに迎えた『ライ・クーダー』でソロ・デビューを飾る。以後、大不況時代のフォーク・ソング/ブルース/カントリーなどや、人々が忘れていた民謡を探し当てては、ロック的なアレンジを施したり、ハワイ、メキシコの音楽と掛け合わすことで新しい生命を吹き込んだ。さらに、映画音楽の世界にも進出し、スライド・ギターを効果的に使用したアンビエント・ルーツ・ミュージックとでもいうべきサウンドを構築。クーダーがプロデュースした、キューバのスター・ミュージシャンによる "ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ"の作品は記憶に新しい。
このアルバム、大好きだな~。

ニール・ヤング

ニール・ヤング「グレイテスト・ヒッツ」
ウッドストックにはCSN&Yで、LIVE AIDにはソロで存在感あるロック魂を見せてくれたニール・ヤング!ダメージ・ダン・・・カッコいいな~。生涯現役のロック男。彼の魅力をあえて一つあげるとするならば、あまりに美しく切ないアノ声である。寂寥感やリリシズム、ダンディズムあふれる究極の詞世界とその珠玉のヴォイスが見事に溶け合い、全世界にセンチメンタルとノスタルジーの洪水をもたらす。バッファロー・スプリング・フィールド、CSN&Yといった歴史的ロック・バンドのメンバーとしてもあまりに有名な彼であるが、ソロ・デビューしたのはCSN&Y参加以前の69年であった。以降、約30年に渡り本当に多くの名盤、名演を生み出していく。1st『ニール・ヤング』に始まり、『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、『ハーヴェスト』、『今宵その夜』、『ハーヴェスト・ムーン』といった至高の作品群、そしてザ・バンド解散コンサート『ラスト・ワルツ』における勇姿、ジム・ジャームッシュ監督のドキュメント映画『イヤー・オブ・ザ・ホース』で見られる盟友クレイジー・ホースとの熱い魂の交流etc……とても語り尽くせない……。


CCR

C・C・R/「ウィリー・アンド・ザ・プアボーイズ」(’69年)
グラム・パーソンズを例外とすれば、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルほどアメリカ音楽に影響を与えたバンドはいないだろう。スワンプ・ロックやカントリー・ロック、ヒルビリー・ソウル、それに南部のR&Bの要素も取り込んだ彼らのサウンドは、他のバンドには出せないユニークなものだった。67年にカリフォルニア州でジョン・フォガティにより結成されたこのバンドは、ゴリウォッグスという名前で<ファンタジー・レコード>から7枚のシングルをリリースしたが、鳴かず飛ばず。翌年にはクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルと名前を変え1stアルバムをリリース。荒削りなサウンドのシングル「スージーQ」がリスナーに受け、ヒットを記録した。地理的にサンフランシスコのヘイト・アシュベリー・シーンに近いところにいたCCRではあるが、「フォーチュネイト・サン」などの曲を聴けば彼らが当時流行りのヒッピー・カルチャーに共鳴していなかったことは明らかだ。フォガティが作曲した快活な「ダウン・オン・ザ・コーナー」は、白人男でもファンキーな音楽を演れることを実証するものだった。バンドは72年に解散したが、フォガティはその後もCCRを継承する曲の数々を作り続けていった。


ディキシー・チキン

リトル・フィート/「ディキシー・チキン」(’73年)
初めてこのアルバムを聴いた時、彼等のセカンド・アルバムとはまったく別のアメリカの新しい時代のロックだと感じた。台頭しまくっていたサザン・ロックやザ・バンド、さらにSSWなのか良く判らないようなロック・シンガーの音を探りまくっていた時、最も格好良く、先端を行くアルバムなんだなと思った。良くリトル・フィートがアラン・トゥーサンやニューオーリンズ・サウンドを取り上げてとか言われているが、そんな要素はどうでも良いほど思惑通り一音一音がセンス溢れるサウンドに唸っていたっけ。その73~74年の頃のロック・アルバムには一連独特の雰囲気があって、当アルバムがその頂点にあった…と勝手に個人的に思っているわけですが、それはブルースやR&B~ソウル、ゴスペル等々を吸収しても、その表現方法が如実に前時代と異なるわけで、それがリトル・フィートがオールマン・ブラザース等とは違うわけで、そういった現れは、ポール・バターフィールドのベターデイズなんかも近いのかもしれない。様々な要素がごった煮で吸収されているから、やはりニューオーリンズ風なのかもしれない。 これまでに見せてきたローウェル・ジョージのブルース・マナー・スライドは、しっかり楽曲の良さを活かすスタイルで地を這うように緊張感を与えている。勿論、ポール・バレル(ヴォーカル&ギター)やサム・クレイトン(パーカッション)、ロイ・エストラダの代わりにケニー・グラッドニー(ベース)といったメンバー増強により多彩な顔を示すようになっているが、ボニー・ブラムレット、ボニー・レイット、グロリア・ジョーンズ等のコーラスを大胆に取り入れたこともアルバムの特色付けになっている。混沌とするスリル感に満ちた「トゥ・トレインズ」や「ファット・マン・イン・ザ・バスタブ」、アラン・トゥーサンのアーシーな「オン・ユア・ウェイ・ダウン」、オリエンタルに聴こえてしまう「ジュリエット」等が大好きで、ローウェルのなんとも言えないヴォーカルにぞっこんだった。全体に再演しようともできないミディアムなテンポは、今聴いてもなんとも素晴らしい!ロック喫茶で「ディキシー・チキン」から始まるサイドAでも、「フール・ユアセルフ」からのサイドBでも大歓迎だったな。


レット・イット・ブリード
ローリング・ストーンズ/「レット・イット・ブリード」(’69年)
1962年、ロンドンでデビューしたロック・グループ。黒人のリズム・アンド・ブルースに強く影響を受けた力強いサウンドと若者の不満や愛や喜びを直接うたいあげた歌詞でたちまち人気を得、60年代にはビートルズと並び称された。中心となるのはミック・ジャガーとキース・リチャーズ、そして初期にはブライアン・ジョーンズも重要だったが、脱退後プールで変死した。ビートルズが知的な方向へ向かっていったのに対し、ストーンズはつねにロックの肉体性・官能性を重視し、ミックを中心としたそのライヴには定評がある。1.ギミー・シェルター2.むなしき愛3.カントリー・ホンク4.リヴ・ウィズ・ミー5.レット・イット・ブリード6.ミッドナイト・ランブラー7.ユー・ガット・ザ・シルヴァー8.モンキー・マン9.無情の世界・・・・何なんだろう?いちいち、文献紐解いて説明する以前に、うれしくて、涙がこぼれた1枚です。イサブ、これぞ、ストーンズ最強の1枚と信じている。


追憶のハイウェイ61
ボブ・ディラン/「追憶のハイウェイ61」(’65年)
ロック史上に残る超名曲の1曲目「ライク・ア・ローリングストーン」をフィーチャーしたアルバムである。裏ジャケットにも見られるように、ディラン自身も初めてエレキ・ギターに持ち替えてレコーディングした。まだフォーク歌手のバッキングをロックバンドがやっている風情だった前作からさらに深化したディラン流ロックの完成形がここで聴ける。60年代のみならず、ロックの歴史に多大な影響を与えた最高傑作の1つである。なお、このアルバムでオルガニストとしてデビューしたアル・クーパーほか、参加ミュージシャンたちの鬼気迫る名演も聴き逃せない。『追憶――』によってディランが完全にロックとフォークの融合をはたしたのは65年だった。翌66年にビートルズは『リボルバー』,67年に『サージェント・ペパー』をこの世に送り出して,ロックはこの一連の事件により社会に多大な影響力を持つようになった。他の2枚も同様,ディランはその存在を確実に時代に刻印する。


チャック・ベリー
チャック・ベリー「ニュー・ベスト・ワン」
ロックンロールの先駆者、いわゆるロックンロール・ジャイアンツと言われて、エルヴィス・プレスリーやバディ・ホリー、ビル・ヘイリー、リトル・リチャードなどと並んでまず出てくるのがこのチャック・ベリーだろう。"ジョニー・B・グッド"や" ロール・オーヴァー・ベートーベン"など超有名曲に見られる独特のイントロ、テテテ、テケ、テケ、テケ、テケ…というフレーズはチャック・ベリーのトレードマークであり、ロックンロールと人が聞いて思い出す雰囲気を象徴するのがこうした音であることは言うまでもない。よく冗談として言われることだが、もしこのフレーズに著作権があったらベリーは天文学的な単位を必要とする億万長者になったに違いない、というのがある。それだけ頻度の高いロックンロールのイントロ・フレーズが正にこの音なのだ。チャック・ベリーの生年月日には諸説あり、プレス向けのデータなども安定しない。 1926年説とか’31年説とか、1月15日だ18日だ、10月15日だ、16日、18日だといろいろあったが、とりあえず生誕60年記念コンサートのあった1986年を基準に、1926年10月18日、セントルイス生まれというのが今のところ定説となっている。幼い頃はさほど音楽に触れていなかったと言われるチャック・ベリーだが、ティーンエイジャーでギターを弾くようになった頃から、音楽に目覚め始め、スウィング・ジャズやブルースなどをよく練習したそうだ。 40年代の中頃に軽い窃盗罪で捕まったベリーはその後3年間、少年院暮らしをする。出所した彼はゼネラル・モータースの工場で自動車の車体組立工として働きはじめ、また並行して美容学校の夜間部に通い美容師の資格をこの頃取得している。 50年代になるとベリーは結婚。この頃から小さなクラブでバンド活動を始める。このバンドは’55年初めには黒人オーディエンスによって地元セントルイスのベスト・バンドに選ばれている。またこの頃までには、ベリーは自作の曲を作るようになっていた。そんな中、休暇を利用してシカゴへ向かったベリーは、当地でブルースの巨人マディ・ウォータズと出会い、彼の勧めでチェス・レコードのオーディションを受ける。オーディションに持って行って演奏したのは自作の2曲。 "ウィー・ウィー・アワーズ"と"アンダー・レッド"という曲だった。ベリーは前者の曲の方に自信があったのだが、チェス・レコードのオーナー、有名なチェス兄弟はベリーが軽い気持ちで作ったコミック・ソング風の後者が気に入った。ともあれタイトルとアレンジの変更を行った"アンダー・レッド"は、記念すべきデビュー・シングル"メイベリーン"となり、 B面には"ウィー・ウィー・アワーズ"が収められた。 このデビュー・シングルに対する反応は早かった。伝説のロックンロールDJとして知られるアラン・フリード(黒人向けだったR&Bを、ロックン・ロールという言葉を使って広め、それまでに無い若い白人を含むマーケットを開拓したロックンロールの歴史に欠かせない人物)がこの"メイベリーン"を気に入り、自分のラジオ番組でヘヴィ・ローテーション。瞬く間に人気の出た同曲は’55年の夏から秋頃にかけてヒットし、全米ヒット・チャート5位を記録した。この後すぐ、ベリーは米国ロックン・ロール・ファンの期待に応えて、短いながらツアーを敢行。その最初期の段階で以降彼のトレードマークになる「ダック・ウォーク」を披露したと言われている(「ダック・ウォーク」はギターを弾きながら腰を落とし、つま先だけでスピーディに歩き回るチャック・ベリー独特のパフォーマンス。文字通りアヒルの歩く姿に似ているところからその名が付けられた)。


ビートルズ’65
ザ・ビートルズ「ビートルズ’65(キャピトル盤)」(’64)
このアルバムは、最初と最後に『ビートルズ・フォー・セール』と同じ曲を置いてサンドイッチ状態にし、さらに6曲目までは『~フォー・セール』と曲順も同じという構成。それだけに後半の展開がより劇的に響くという効果がある。1.ノー・リプライはジョンの作。言葉を失うほどの傑作。このアルバムは11曲中8曲が『~フォー・セール』から、しかも6曲目までは曲順も同じだが、ジャケットやタイトルが変わるだけで『~フォー・セール』色がほとんど払拭されるのは不思議。ジョン作の2.アイム・ア・ルーザーもアメリカン・フォークのように聞こえる。3. ベイビーズ・イン・ブラック これはジョンとポールの数少ない共作のひとつ。2人が最初から最後までヴォーカルを分け合っているのも珍しい。ビートルズがいかに歌のうまいグループだったか、楽曲や編成がシンプルなだけにより具体的にわかる。この味わいや陰影はビートルズにしか出せない。4. ロック・アンド・ロール・ミュージック はチャック・ベリーのカヴァー。録音はワンテイクで、オーヴァーダビングもいっさいなかったといわれる。お見事というしかない。事実ビートルズは以後、このオリジナル・ヴァージョンを超えるライヴ・テイクを残していない。ジョンにしか歌えない歴史的な名演。5. アイル・フォロー・ザ・サン 1曲目からジョンの存在感が強いが、このポール作の「アイル・フォロー・ザ・サン」から色合いがグラデーション的に変化していく。後半の選曲が『~フォー・セール』と異なるキャピトル盤は、とくにその変化がスリリング。16歳のときに作った曲といわれる。6. ミスター・ムーンライト 日本のビートルズ・リアルタイム世代には、冒頭のジョンの絶叫とともに忘れられない曲。というのもこの曲はイギリスでもアメリカでもシングル・カットされず、しかし日本だけはシングル盤としてリリースされてヒットした。カヴァーではあるが、4人のオリジナルと化している。7.ハニー・ドント このアルバムは、リンゴが歌うカール・パーキンスのカヴァー「ハニー・ドント」から、イギリス・オリジナル盤『ビートルズ・フォー・セール』とまったく異なる世界に突入する。まさにキャピトル盤の個性と魅力全開。この曲はその前奏として聞こえなくもない。8.アイル・ビー・バック「ハニー・ドント」の次は「エヴリー・リトル・シング」だろうと油断していたら、なんとこの曲がやってくる。イギリス・オリジナル盤『ビートルズがやって来る~』から温存していた曲、ここに配置されたことでまったくちがう響きで迫ってくる。じつに衝撃的。9.シーズ・ア・ウーマン 『ビートルズ '65』は、前曲「アイル・ビー・バック」からエンディングに向かってどんどん上昇していく。まさか「シーズ・ア・ウーマン」がこようとは。ポールが書いたヘヴィーな曲。アルバム前半のフォークの香りは消え、異次元に入っていくこの快感!10. アイ・フィール・ファイン「シーズ・ア・ウーマン」とくれば、次はジョン作のこの曲しかない。冒頭の“ボンー、ギュイーン”と鳴るフィードバックには目がさめる。11. Everybody's Trying To Be My Baby (みんないい娘)最後になって、ふたたび『ビートルズ・フォー・セール』と同じ曲でエンディングを迎える。ジョージが歌う、カール・パーキンスのカヴァー。だがそれ以前の構成が異なるために“いつもの「みんないい娘」”とは表情がちがう。だからアメリカ盤はおもしろい。


ラバーソウル
ザ・ビートルズ/「ラバー・ソウル」(’65)
1.ドライヴ・マイ・カー2.ノーウェジアン・ウッド(ノルウェーの森)3.ユー・ウォント・シー・ミー4.ひとりぼっちのあいつ5.嘘つき女6.愛のことば7.ミッシェル 8.消えた恋9.ガール10.君はいずこへ11.イン・マイ・ライフ12.ウェイト13.恋をするなら14.浮気娘・・・・サウンドはもちろん、ジャケットからタイトルに至るまで、完全にメンバーのコンセプトに基づいて制作された、初めてのアルバムだ。ここにきて、ついに彼らはアイドルからアーティストへ脱皮したといえるだろう。音楽的には、アコースティックな音作りを生かした、比較的ソフトな肌触りの作品だ。ジョンによるデカダンスな<9>と、ポール色の濃いフランス語入りの<7>など、ジョンとポールの個性の違いがさらにきわだっている。また、ジョージ・ハリスンの音楽的キャラクターも、このアルバムでほぼ確立された。


狂気
ピンク・フロイド/「狂気」(’73)
実際、コメントするのに、大変困ります。よくわかりません。死ぬ程売れたギネスなレコードらしいよ。僕が生まれた年に発表されたレコードです。ギターは上手いよ。ある意味、この1枚にやられたよ・・・。


マインド・ゲームス
ジョン・レノン/「マインド・ゲームス」(’73)
73年8月にニューヨークにてレコーディングされ、同年11月にリリース。政治色の濃かったアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の後にリリースされた本作は、ジョンの創作姿勢の再方向転換として見なされた。当時、ジョンはアメリカ政府によって命じられた国外退去命令という大問題を抱えていた。ジョンとヨーコはアルバムのレコーディングの直前にニューヨークのダコタに引越し、その同月に「ヌートピア宣言」を行う。アルバムに収録されているわずか3秒の無音トラック「ヌートピアン・インタナショナル・アンセム(ヌートピア国際讃歌)」は、その3秒間にヌートピアへの参加を宣言すれば誰もが理想国家の住人ヌートピアンになることができるというもの。


レディー・ソウル
アレサ・フランクリン「レディー・ソウル」(’68年)
R&B界最高のリズム・ギタリスト、マット・マーフィーを尻にひく、映画「ブルース・ブラザース」でのあのパワフルなかみさん役を見た人にとって、アレサ・フランクリンのイメージは、まさに「ソウル界の肝っ玉かあさん」といった感じに違いないでしょう。しかし、実際の彼女は、少なくとも過去においては、まったく対照的な物静かで常に憂いをたたえた女性であったようです。それこそ、「レディー・ソウル(ソウルの貴婦人)」という呼び名にぴったりだったのでしょう。もしかすると、それは、今でも変わらないかもしれません。

孤独の太陽
keisuke kuwata「孤独の太陽」(’94年)
イサブ一押しの彼のソロアルバム!かなりカッコEぞ!日清パワーステイションの次にカッコE!いや、同じくらいEEE!!!おすすめです。

ダーティ・ワーク
ローリング・ストーンズ「ダーティ・ワーク」(’86年)
当初、「ワン・ヒット」が先行シングルとしてリリースの予定でしたがミックの意見で、「ハーレム・シャッフル」が先にリリースされました。ミックの読み通り「ワン・ヒット」よりも「ハーレム・シャッフル」の方がヒットしました。このあたりのミックのセンスたいしたものですね。この「ワン・ヒット」にはジミー・ペイジも参加しています。短いですがソロもあり、聞けばすぐにペイジとわかります。このペイジの参加は、ライブエイドで再び交流が始まったためだとキースがインタビューで答えてました。ライブエイドの楽しい置きみやげですね。


ピート・ハム
ピート・ハム「7パーク・アヴェニュー」(’97年)
75年4月28日の早朝、バッドフィンガーの中心人物ピート・ハムは自らの手で首を吊り、27歳の若さでこの世を去った――70年代に<アップル・レコード>に在籍し、ビートルズの"弟バンド"と呼ばれて一躍注目を集めたバッドフィンガー。王道をいくブリティッシュ・ポップ・ロックで、「ノー・マター・ホワット(恋の嵐)」「デイ・アフター・デイ」「ウイズアウト・ユー」といった多くのヒットを飛ばした。一見バンドは成功を収めているように思われたが、悪徳マネージャーによって収入は横領。マネージメントもままならない状態が追い討ちをかけ、メンバー間には確執が生まれていく。ハムは苦悩、そして自殺――悲運なバンドの象徴となったのである。時は経ち97年、ハムの愛娘によって一本のテープが作品となった――『セヴン・パーク・アヴェニュー』。ホーム・レコーディングされた、いたってパーソナルなものだ。そこには、父/母/恋人、そして自分自身に対しての想いが綴られた楽曲が美しく、儚げに並んでいたのである。この、死後22年目にして届けられた初ソロ・アルバムによって、改めて彼が独創的で感受性の強い素晴らしきアーティストであると認識されたことは言うまでもなかろう。

キンクス
キンクス「キンクス」(’64年)
『キンクスのアルバムを1枚聴こうとするとき、これが何を選ぶかは実にその時の気分によることが多い。例えば、クルマで1人、高速道路をぶっちぎっている時には、初期のパイ時代のR&Bナンバーから「ユー・リアリー・ガット・ミー」や「オール・オブ・ザ・ナイト」や「ぼくはウヌボレ屋」等の、ちょっととんがった攻撃的なナンバーをチョイスするかなぁ~。晴れた日の日曜の午後にゆっくりとローズヒップティーでも飲んでくつろいでいる時(ホンマにそんなん飲むんかいっ!)はパイ時代の「ゴッズ・チルドレン」や「ザ・ウェイ・ラヴ・ユースト・トゥ・ビー」等の隠れ名曲を集めた日本編集の好盤『アフタヌーン・ティー・ウィズ・ザ・キンクス』がぴったりやー!!夜ベッドに入る前にワインでも飲みながら物思いに浸っているときは、パイーアリスタ時代のバラードを中心に選曲された『THE BEST OF THE BALLADS』で「ウォータールー・サンセット」や「セルロイドの英雄」を聴くのがいい。つまりそれだけキンクスの歴史は40年という膨大な長さなのであり、色々な時代があったのである。ストーンズやフーと同じだけのキャリアがあるのに、どうもキンクスというのはマニアックなファンの中で生き残ってきたという印象が強い。彼らの伝記本を読んでもマネージメントとの対立や、レイとデイヴの長い間の兄弟の確執や、レイとレコード会社とのごたごたなど、その「へそ曲がり、気まぐれ屋」というグループ名に相応しく、キンクスは自らレコード・ビジネスの世界で成功することを拒否し、それを斜めから批判してきた様なところがあった。キンクスというとレイのノスタルジック風味なヴォーカルやメロディから、この日本ではどこかほのぼのとしたバンドというイメージで受け止められているような感じもあるが、レイ・ディヴィスの書く歌詞をよく読んでみれば、社会や資本家や権力やスターシステム等に対する歯に衣を着せぬ鋭い風刺や批判が込められていて、ある意味ではかなり辛辣で過激でさえある。実際の所、レイ・ディヴィスは辛辣な風刺の世界を歌うと言う点ではあのランディ・ニューマンに通じるものがあると僕は思う。

スティング
スティング「ナッシング・ライク・ザ・サン」(’87年)
ぼくの大好きな、スティングのセカンド。まず彼について語るときは、「ポリス」を抜きにするわけにはいきません。「ポリス」は1977年「アウトランドス・ダムール」でデビューしました。ギター:アンディー・サマーズ、ベース、ヴォーカル:スティング、ドラムス:スチュワート・コープランドの3人組みです。彼らは、その後「孤独のメッセージ」「ゼニヤッタ・モンダッタ」「ゴースト・イン・ザ・マシーン」「シンクロニシティー」以上5枚のアルバムを残して解散しました。泣く子も黙るシングル曲「見つめていたい”Every Breath You Take”」は、みなさんご存知のはず・・・。そこで、このアルバムなのですが、これはポリス解散後、スティングのソロ・アルバムとしては2枚目になります。ソロの彼はジャズ畑のミュージシャンとの交友を深め、サックスのブランフォード・マルサリス(ウィンストン・マルサリスの兄)らと競演しているのですが、ここでは、ファースト・ソロの「ブルー・タートルの夢」よりも、その音の完成度というか、馴染み具合がいっそう深まっているように感じます。ファーストのほうがキャッチーな曲が多く、ヒットもしているのですが、わたしは、この「ナッシング~」の一体感や、叙情的なところが好きです。スティングはこのアルバムを自分の母親に捧げています。なんとなく理解できる気がします。

461
E・クラプトン「461オーシャン・ブールヴァード」(’74年)
クラプトンのレコードの中で一番聴きまくった1枚。僕、あまりクラプトンを聴かないんですが、ま、ディレク&ザ・ドミノスやクリームや彼が在籍してた時代のヤードバーズは聴いたんですがね・・・。けど1年間、ずーっと毎朝これを聴きながら通勤した年もあったほどで・・・。死ぬほど聴きましたよ。・・・コレは。カッコE1枚。人に買ってはプレゼントし・・・っていうのを何回繰り返したのか覚えていないっていう・・・。定番中の定番らしいのですが、そんなことは関係ありません。ま、何も考えず聴いてみてください。

ライトニン・ホプキンス
ライトニン・ホプキンス「モジョ・ハンド」(’60年)
稲妻ブギ・ビートに大胆に開放弦を交えた単弦奏法が切り込む!まさに名作。ライトニンの代表作どころかBLUESの代表作。1960年11月録音。IN NEW YORK と違い、ドラムとベースがバック。1曲目からもう最高。凄まじいです。最高!言うこと無しのアルバム。ブギのリズム感は黒人ならでは!ドロドロのスローブルースも凄い。独特のドスの効いた声は粘っこくダーティーでワイルドなライトニン。「情念の塊り」とでも言おうか・・・かなり泥臭く濃密なブルース。個性的なテキサス・ブルースマンの中でもNo.1の存在感でしょう。彼は飛行機が大嫌いで酒を飲んでフライトの恐怖を紛らわしていたそうな・・・。そんな人間臭さがあの生々しいブルースの根源かも知れません。

ストーンズおすすめ2
ローリング・ストーンズ「ベガーズ・バンケット」(’68年)
エディは竜介とストーンズの曲を演る約束、覚えてたんだね・・・。

バッファロー・スプリング・フィールド
バッファロー・スプリング・フィールド「アゲイン」(’67年)
バッファロー・スプリングフィールドの2作目であるこのアルバムは、“ベースメント・セッション”で提示された伝統音楽とロックの融合という方法論を公式盤と初めて試みたものであり、また同時に当時の本流であった実験的音楽としての側面も持つ、おそろしく懐の深い作品です。わずか34分のアルバムであるにもかかわらず、ここには当時のロックが思いつく限りのありとあらゆる音楽性が詰め込まれており、かつ決して散漫にはならずに、最初から最後まで見事に緊張感を保っています。前作『Buffalo Springfield』では、スティーヴン・スティルスが圧倒的に目立っていましたが、この2作目ではニール・ヤングのヴォーカリストとしての成長と、リッチー・フューレイの作曲家としての成長によって、三者三様の魅力を発揮しています。この三人のその後の活躍を想像しながら聴くのも楽しいですね。しかし、この素晴らしいアルバムの陰では早くもグループの崩壊が始まっており、ニール・ヤングが脱退と再加入を繰り返したり、ブルース・パーマーが麻薬問題で国外退去になったりしています。ブルースの代役として、ジム・フィールダーやボブ・ウェストがベースを担当しています。また、後に正式メンバーとなるジム・メッシーナがエンジニアとして参加していたり、ゲスト・ミュージシャンとしてジェイムズ・バートン、ジャック・ニッチェ、ドン・ランディらの有名人が参加していることにも要注目です。

クロスビー・スティルス・N&Y
クロスビー・スティルス・N&Y「デジャヴ」(’70年)
1968年に結成されたクロスビー、スティルス&ナッシュに、元バッファロー・スプリングフィールドのニール・ヤングが加わり、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング誕生。1969年7月25日、フィルモア・イーストでその姿を初めて聴衆の前に現わし、その直後に伝説のウッドストック・フェスティヴァルに出演し、話題を集めた翌年の1970年に発表されたのがこのアルバム。ジョニ・ミッチェル作による「ウッドストック」は、ウッドストック・フェスティヴァルについて書かれた曲で、記録映画『ウッドストック』の主題歌に使われた。映画『小さな恋のメロディ』では「ティーチ・ユア・チルドレン」が、映画『いちご白書』では「ヘルプレス」「僕達の家」が使用されたことからも、当時の若者にいかに支持されていたかが窺い知れる。1970年作品・全米アルバムチャートNo.1。


ビッグピンク
ザ・バンド「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」(’68年)
バンドのデビューアルバム。表紙のへたくそな絵はボブディラン。もちろんthe weightも収録。このアルバムを聞いてエリッククラプトンがメンバーに入れてほしいと言ったのも有名な話。サイケ時代の嵐のようなリアルサウンド。5人の才能があふれる寸前のようなアルバムです。一度聞いて違和感を覚えるが、それが気になり何度も聞いているといつかすばらしいものが聞こえてくるそういうアルバムだと思います。

ア・ビガー・バン
ローリングストーンズ「ア・ビガー・バン」(2005年8月)
即買いですよ。60歳のじいさんの奏でる音楽じゃないですよ。。。3曲目が好きだなぁ。。ま、じっくり聴こうかなと・・・。US盤ね・・・。

ジョンハート
        ミシシッピ・ジョン・ハート「トゥデイ」()
古い酒樽から滲み出してきたウィスキーのような、そんな味わいがミシシッピ・ジョン・ハートの音楽にはある。小作人として働きながら歌を書きためていったハートは、60年代初頭に興ったフォーク・リヴァイヴァル・ブームのきっかけとなった人物でもあった。生涯を通じて歌いつづけてきたが、一般に知られるようになったのは、彼が亡くなるわずか3年前のことだった。ハートはすでに29才の時点でいくつかのゆったりとした感じの魅力的な作品を残しているが、時流に乗ることはできなかったのだ。宗教音楽と民衆音楽、黒人音楽と白人音楽、フォークとポップ――対照的に思われるスタイルでもかならず何か通じるものがあるのだということを、ハートはその微妙なニュアンスに富んだ音楽で教えてくれる。誠実で心温まる音楽を愛するファンのあいだで、彼の曲はいつまでも大切に聴き継がれていくことだろう。


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