2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全11件 (11件中 1-11件目)
1
12月30日金曜日。母の入院、二日目。12時過ぎに訪ねると、ちょうどお昼ご飯中。どろんとした流動食を女性の介護士さんがひと匙ひと匙、口に運んでくれる。母はおとなしく口を開け、ゴックン。ちゃんと飲み込めている。「おいしいですか?」返事はナシ。でも、昨日は緊張で開きっぱなしという感じだった母の目が、少し穏やかな、どこか観念した様子。熱も下がってきているとのこと。肺の炎症は、誤嚥性のものではないかということだった。大きなモノではないので、さほど心配はいらないようだ。ちょっとホッとする。で、尋ねてみた。「私は誰でしょう?」「知らん」ひと言で処理。なるほど、普通に戻って来た。食事のじゃまになるし、洗濯物を持って20分ほどで退散した。
2017.04.30
コメント(0)
12月29日木曜日。朝9時、介護タクシーに来てもらう。電話でのぼくの頼み方がまずかったのか、介護タクシーは車椅子を積んできてなかった。でも、ドライバーさんが、これから向かう医師会病院へ車椅子を取りに行ってくれた。家に車椅子が入るのは初めてだ。ドライバーさんは手慣れたもので、母をベッドから抱き上げて車椅子に乗せてくれる。心配だった玄関の上がりかまちの段差も車椅子を後ろ向きにして、大きな車輪を利用して簡単に降りた。そして、車椅子のままタクシーへ。母が自分で歩けるときにさえ、車に乗せるまでかなりの時間がかかったのに。助かった。タクシーに乗ってしまえば、医師会病院まではものの3分。内科で診療。まずは検尿。だけど、自分で採取することが出来ないので、チューブを挿入して採ることに。検査室の奧から、母の叫び声が聞こえる。同時に、なだめすかす看護師さんたちの声も。かわいそうだし、申しわけなくも感じる。血液検査、胸のレントゲン、内臓のCTスキャンと検査が続いた。そして、レントゲンとCTスキャンの写真が並べられた診察室で医師から説明を受ける。「胸には小さな炎症がありますが、高熱が続くようなモノではないですね。内臓にも顕著な所見は見られません。しかし血液検査には炎症反応がしっかり出ているので、原因が分かるまで患者さんを預からせてください」で、そのまま入院。母の様子を見、ぼくの話を聞いて、「そのまま入院になるかもしれませんねぇ」と言った介護タクシーの運転手さんの言葉が現実となった。母を病院に残し、いったん家に戻る。そして、入院に必要な身の回りの品々にマジックで母の名前を書き、大きめのバッグに詰めて、病院へUターン。すると、母の入った病室には「面会謝絶」の札が。ギョッとしたけど、入院当初の患者は、看護師さんの目が常時届くこの部屋に入ると聞いてホッとする。電動ベッドで半身起こしてもらっている母は、手の甲に刺さった点滴のチューブを、「これは、なに?」と言いながら、物珍しそうに見ていた。早くも抗生物質の投与が始まった。とにかく、まず熱を下げようということらしい。男性の看護師さんがやってきて、嚥下のチェック。ゼリー状のモノ(ブドウの味がついているそう)を飲み込ませつつ、指先にはさんだ測定器で酸素量を見る。嚥下と酸素量とどういう関係があるのかは「?」だけれど、「結構いい数値ですね」とのこと。別につらそうな感じもない母は、元気にゼリーを飲み込む。そして、指先に取り付けた酸素測定器をはずそうとする。チェックのためだからと言ってもダメ。でも、看護師さんは、「もうちょっとがまんしましょうね」と優しく声をかけながら、辛抱強く数値を計り続けた。午後2時過ぎ、病棟の担当医から説明を受ける。まだ若い、男の先生だ。診察室で見た胸のレントゲンとCTスキャンの映像を再度参照しながら、より詳しく説明してくれたが、要約すれば「今のところ、発熱と体の傾斜の原因は分からない」とのこと。「体が傾いたり、急に歩けなくなったのは、高い熱のせいかもしれないし、脳に原因があるかもしれません。脳のMRIも撮りますが、年内の診療は今日まで。検査技師はもう休みに入っているので、本格的なチェックは年が明けた4日からですね」年内ギリギリ、間に合って良かった。家に引き上げる前、母の様子を覗く。点滴を受けながら、おとなしくベッドに横になっている。辛そうな様子はないし、不安げなところも見られない。年末年始をここで迎えるんだなぁ、松が開けたら退院出来るかな・・・なんて考えながら病室をあとにした。それから4か月。母は自分の部屋に戻らないままだ。
2017.04.29
コメント(0)
母の「右へ右へと体が傾く」状態は、翌日の12月27日になっても回復しなかった。食事はベッドで横になったままでとる状態が続き、トイレに歩いて行くことも出来ない。夕方には熱が38度台にまであがってきた。いつまで様子を見ればいいのだろう?本人を見ても辛そうな様子は全然ないのだけれど、それを“元気がある”ととればいいのか、“自分の体調が分からない”と危ぶんだ方がいいのか、それが分からないのが困る。翌日28日。朝から体温は38度台半ば。薬を飲み始めてもう10日目になる。さすがに変だと、9時過ぎにかかりつけ医を訪ねて紹介状を書いてもらい、家の近くの医師会病院へ電話。ぼくが午前中に予約に行き、午後に診てもらうということが可能かどうか尋ねる。回答は、午後に診療は出来るが、そのためには11時までに紹介状ともども患者本人を連れてこないとダメだとのこと。母を起こし、保てない姿勢を支えながら着替えをさせ、トイレに行かせ、車に乗せて・・・。こりゃ、到底間に合わん。ということで、この日に診てもらうことは諦めた。「きつい?」「い〜え、ぜーんぜん!」ベッドの中で、母は元気だ。
2017.04.28
コメント(0)
昨年のクリスマス・イヴ。朝、母の熱を測ると37.3度。あまり高くないなとは思ったけれど、土曜日だし、1年の最終週に突入してしまうので、もう一度診てもらっておこうとかかりつけ医へ。先生は胸のレントゲンを撮ってくれて、「やっぱり肺炎じゃないですね」ちょっとホッとする。年越し出来るようにと、風邪薬と抗生物質を1週間分、もらって帰ってきた。二日後の12月26日、月曜日。母の体に異常が起きる。立てない。そして、座っていても姿勢を維持できない。ベッドに腰掛けさせても体が右へ右へと倒れてしまう。それまではゆっくりゆっくりだけど自分でトイレまで行けたし、時間はかかるけど自分で食事をすることが出来ていた。それが、箸を手にしても体が倒れていくので、食べ物を口に持って行くことが出来ない。脇に座り、支えながら食べさせようにも、体は横へ横へ・・・。仕方ないので、ベッドに横になったまま食べさせた。食欲はあり、「おいしい?」ときくと、「おいしい」と答える。これが本当に美味という意味なのか、ぼくの言葉のおうむ返しなのか、認知症が進んでいるからよく分からない。口に運べば運ぶだけいくらでも食べそうだったので、適当なところで切り上げた。母は特に不服そうでもなく、ベッドで横になっている。しかし、どう対処すればいいのか?見る限り、本人は苦しそうな感じもないし、どんな気分なのか尋ねても要領を得ない。母はこれまで一回だけ、同様の状態になったことがある。確か一昨年の5月ごろだった。朝から姿勢を維持できず、きちんと腰掛けておれない。ゆらゆらと体が倒れていく。パーキンソン病の知人がいるが、その人が“オフ”になったときとよく似た感じに見えた。早めに病院へ連れて行こうと思っていたら、時間が経つにつれ徐々に回復していく。おや?と思っていると、お昼頃には普通に戻っていた。今回もそうなのかも。今日は様子を見よう。そう思った。
2017.04.27
コメント(0)
今日、姉が病室に行くと、母はアイスノン無しでうつらうつらしていたそう。「でも、額に手を当てると、ちょっと熱があるみたい」そんなメールが来た。12月の半ばからだから、4か月、ずっと熱があることになる。倒れる前は炎症だったんだろうけど、今は違うんだろうな。脳の調節機能がきちんと働いてないんだろう、やっぱり。38度以上とか高い熱は出ないけど、ゆるゆるずっと熱があるのもきついだろう。起きているときに様子を見ていても、本人がどう感じているかが分からないのがちょっと困るな。
2017.04.26
コメント(0)
母は37度半ばの熱を出していることが多い。なので、ほぼいつもアイスノンを頭の下に入れてもらっている。「熱が出るのは、どこかに炎症があるから。でも、お母さんの場合は脳の真ん中に出血していて、その近くには体温調節を担当する部位があるので、その影響かもしれません」主治医はそう説明してくれた。ぼくは日記をつける習慣はないけれど、母が認知症かな?と感じたころから、その様子を携帯のカレンダーにメモしている。それを見直して、倒れるまでの経過を振り返る。母が熱を出したのは、もう4か月以上前。12月18日のことだ。なんとなく顔が赤いなぁと思った。「きつくない?」と尋ねると、「ない」という返事。熱は37度ちょい。「私は平熱が低い」というのが元気なころの母の言い分だったので、用心のためにとかかりつけの内科に連れて行ったのが翌19日、月曜日だった。「予防接種もされてますし、インフルエンザではないでしょう」医師はそう言って、風邪薬と抗生物質を処方してくれた。その日は、薬を飲み、食事も普通にすませ、ご就寝。翌日20日、朝4時ころ。ふと目が覚めると、なんだかんだと母の声が聞こえる。二階に寝るぼくの真下に母は寝ているので、床を通して聞こえるのだ。時々、つけっぱなしのテレビ画面に出てくる文字を、夜中にひとつひとつ丁寧に読み上げたりもしていたので降りて行った。覗き込んだぼくの顔を、母は「何しに来たの?」という顔をして見上げた。ちょっと顔が赤いので熱を測ると38.9度。ギョ!本人は平気な顔をしているけど、この頃になると反応が鈍くなっていたので本当は辛かったのかもしれない。それが表情から読み取れないのがもどかしい。解熱剤を飲ませると、お昼前には37度半ばまで体温は下がった。が、21日の夕方には、また38.5度まで上がる。解熱剤を再度投与。この日から3日間ほどは、解熱剤無しで36度台、平熱に戻っていた。良くなってきたな、と感じていたのだけど・・・、
2017.04.25
コメント(0)
午後2時半、母の面会に。起きていた。黒目がちな目で、こちらを見る。今日はなんとなく賢そう。ちゃんと分かってるわよ、という表情をしているとき、ぼくと姉は冗談半分に「賢そう」と呼んだりしてる。しかし、不思議。目をさましていても、心も意識もなんにもないように見えるときもあれば、今日のようにジッとこちらを見つめるときもある。今日は話しかけても反応はなかったけれど、昨日、姉が童謡を歌ってやっていたら、その一節をほんのちょっと一緒に歌ったとか。姉は驚いていたが、ぼくも聞いてびっくり。意味のある言葉を出したのは、倒れてから初めてのこと。数日前は笑顔を見せた。すぐに無表情に戻り、そのままうつらうつら始めたから、感情の表れなのか、筋肉の反射作用だったのか、判然としない。でも、安定してきている感じはする。
2017.04.24
コメント(0)
1月6日の夕方。身の回りの品を運びがてら入院した母の様子を見に行ったあと、近くのパスタ屋で夕食をとろうとしていたら、携帯にメール。姉からだった。「たいへんな時に、一緒にいられなくて何もできなくてごめんね」姉は自身も肺炎にかかり、12月初頭から福岡市内の病院に入院していた。ひとり入院して治療中に心配をかけたくないので、母が12月中旬から体調を崩し、年末には入院したことを彼女には伏せていた。母が入院していることを姉が知ったのは、新年を迎えて帰宅が許されたとき。義理の兄が伝えてくれた。姉は仮の退院でもあり、また、投薬の影響で免疫力が落ちているので、帰宅している間は外出を極力控えるよう主治医に言われていた。母の経過も順調で正月2週目には退院出来そうな感じだし、寒い中面会に行き互いに風邪でもひくと元も子もないので、結局母には会わずじまいで三が日が過ぎると自分の病院へと戻っていった。その二日後に母は倒れた。認知症が進んでいる母に、退院したらあれもしてあげよう、これもしてあげよう。入院中のベッドの上で、姉はずっとそう考えていたに違いない。優しい人だから。その姉が「何もできなくてごめんね」とメールを打つ時の切なさ、無念さを思うと、ぼくは涙をこらえきれなかった。店員も、客もいるパスタ屋で、メガネをはずして目頭を押さえた。姉が見た母の元気な姿は、自分が入院する日の朝、着替えをさせるときの母だったろうか。それともその前日の夜、寝るときに世話をしたときの母だったかもしれない。そんな母が、意識を無くして眠っている。駆けつけたいけど出来ない姉は、その母の姿を病院のベッドでどんな思いで想像しているんだろう。そう思うと、涙が溢れた。泣きながら人前でパスタを食べる日が来るなんて、思いもしなかった。
2017.04.23
コメント(0)
母が倒れた1月5日の午後3時ころ、ぼくは母の病室を訪ねている。相部屋の病室。顔なじみになった隣のベッドのおばあさんが、「あ、息子さんが来た!」大きな声で言った。でも、母はベッドにいなかった。どこに行ったのか看護師さんに尋ねると、お風呂とのこと。軽い肺炎で入院してから1週間ほどたったこのころには、かなり病状も回復していた。5分ほど待っていると、母が車椅子で戻ってきた。「ほら、息子さんが訪ねて来てくれましたよ」車椅子を押すスタッフが、母にそう告げた。認知症がかなり進んでいた母はぼくが誰かは認識できなかったけれど、体を洗ってもらって気持ち良くなったのだろう、彼女なりの明るい顔を見せた。病室に戻った母は、いったんベッドに横になり検温。平熱だった。そして、また車椅子に乗せてもらい、「さぁ、息子さんにさよならして、リハビリに行きましょうね」「どこ、行くの?」「リハビリよ、リハビリ」「どこ?」車椅子を押すスタッフとのかみ合わない会話を残して、母は病室から出て行った。その後ろ姿が、体を起こしている母の最後の姿。今のところは。
2017.04.22
コメント(0)
今年、1月5日の夕方6時過ぎ、携帯が鳴った。母が入院していた病院からだった。なにかあったな、と思いつつ出ると、「お母さまの血圧が急に上がって・・・何分で来られますか?」と、看護師さんの声。「10分で」答えて、ジャージを着替えて車で向かう。歩いても5分程度の距離だけど、車で行った方がいいような気がした。病院に着いたのは、電話をもらってから10分たってなかったと思う。病室へ上がるエレベーターを待つ。降りてきたエレベーターのドアが開くと、移動ベッドに載せられた母が若い担当医の付き添いで出て来た。酸素吸入をしてもらっていたような気がする。そのままCTスキャンを撮る部屋へ。ドアの脇のベンチで待つこと10分程度。撮影した画像を見つつ担当医が言うには、脳の中央付近に出血が見られるとのこと。「この病院では脳外科の対応が出来ないので、病院を移します」そう言って、担当医と母のベッドはどこかへ消えた。病院のロビーで待っていると、玄関のすぐ脇で救急車のサイレンが鳴り出した。担当医がやってきて、「近くの脳外科病院に移送しようと思いましたが、満床なので、別の病院に向かいます。救急車に同乗しますか?」車を病院の駐車場に起きっぱなしにするわけにもいかないので、搬送される病院の名前と住所を聞いて、救急車に先立って出発する。冬の7時過ぎ。メインストリートももう暗い。搬送される病院を目指して走っていると、後ろから救急車がサイレンを鳴らして近づいてきた。他の車同様、停止してやり過ごす。母が乗る救急車だった。「あちらの世界に旅立とうとしている母親が運ばれる救急車に追い越される体験って、そうそうないよなぁ・・・」なんてことを考えていた。搬送先の病院に着くと、母は集中治療室に入ったらしく、誰もいない。救急の待合室に座っていると、救急車に同乗してくれた担当医が通りかかる。その若い先生も、母が今後どうなるかはわからないし、「十分お世話できずにすみません」「いえいえ、こちらこそどうもお世話になりました」といった挨拶ぐらいしか交わしようがない。待合室で待つこと1時間少し。治療室に呼ばれて行くと、母はベッドに横たわり、グースカ眠っていた。救急担当の医師は、パソコンにCTスキャンの画像を表示しながら、・脳室の壁を破って、脳室内に出血がみられる。・出血の量は大量ではないが、わずかと言える程度でもない。・場所が脳の中央付近なので、手術は出来ない。・出血が続くのか、止まるのかは、経過をみなければわからない。・意識が戻るかどうかはわからない。・予後は決して楽観できない。等々、要するに命を閉じる時も近いという冷厳な事実を、簡潔に、ひとつひとつ、きちんきちんと説明してくれた。ぼくは、なるほどね、と思いながら、かなり冷静に聞いていた。そのまま、母はこの病院に入院することに決定。病状を説明してくれた医師が僕に、「個室にしますか、それとも相部屋に?」「どう違うんですか?」「差額ベッド代が1日6000円ほどかかりますね」「あ、なるほどぉ・・・」夜10時過ぎの救急センターで交わすにしては奇妙な会話だなぁと思ったけれど、でも大事なことだな。夜遅くでもあり、相部屋だと他の患者さんを起こしてしまいそうで申しわけないので、個室へ入れてもらうことに。3階の病室に落ちついた母は、ただひたすら深く深く、眠っていた。
2017.04.21
コメント(0)
今日4月20日は母の誕生日。90歳。卒寿となる日を、母は病院のベッドで迎えた。今年1月5日、母は脳内出血で倒れた。以来、一日の大半をうつらうつら。時に目を開けるものの、声を発することはない。先日、近くにある郵便局の顔なじみの局長さんが、本局のスタッフ同道で訪ねてきた。母の保険がらみで、ご長寿お祝いの還付金があるが手続きをされないので心配して来てくれたのだった。母が倒れたいきさつを局長さんに話そうとして、ぼくは既に記憶があいまいになっているのにちょっと狼狽した。母は軽い肺炎で入院していた。今とは違う病院に。そこで療養していて、ほぼ回復したという矢先にその病院で倒れ、救急病院へと運ばれた。肺炎で入院する前後から、倒れて「回復は厳しい」と医者に告げられるまで、対応できたのはぼくひとり。ぼくの記憶が薄れると、家族はじめ、母の友人知人にその様子を告げることができなくなる。記憶をさかのぼっての、備忘録。そんな感じで、思い出すまま、母の日常を中心に書いていくことにする。
2017.04.20
コメント(2)
全11件 (11件中 1-11件目)
1
![]()

![]()