奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

新聞掲載コラム5編-1


  勝ち組に共通しているものは何なのか。
まず言えることは、経営者の人間性なり個性なりが、明確に建物、商品の品揃え・陳列、サービス、料理などにはっきりと表現されており、いわゆる経営者の顔が見えていることである。勝ち組で、大々的な宣伝に依存しているところは少なく、来店経験者によるクチコミの拡大に、最大の苦心を集中している。チラシやパンフレットひとつを例にとってもきめ細かな配慮がされいる。特に顕著なのはオリジナル性が高い点で、手作り100%でないにしろ経営者の個性や思い、趣味が前面に出ている。この点、負け組はどこかで聞いたようなコピーが使われ、見栄えはすばらしいが、いかにも専門業者任せあることが一目瞭然である。同様のことはホームページ(以下HPと略称)の場合だと、なおいっそう明確である。
旅館・ホテルの例で、示してみたい。
山口県H市のビジネスホテルAは大手ホテルにたいして、設備で劣る、宿泊料ですら並ばれて苦境に陥った当ホテルの唯一の活路は、小さいこと、家族経営の強みを生かすことしかなかった。その中心ツールが食事である。通常ビ今やジネスホテルの場合、朝食の喫食はそれなりに見込めても夕食はまず見込めない。それが夕食の喫食率80%超、朝食は100%に近い。そしてこの家庭料理の評判が口コミで広がり、安定的な宿泊を確保できるようになった。強みの発揮は、もちろん食事だけではない。最後のお客が帰るまで起きていて、ルームキーを手渡しする。時折、お客と家族を囲んでのミニイベントを開いたり、地域イベントにご案内と、家族経営の特徴が出やすい分野で、実にさまざまな試みを実施している。最近では、HP上に一月、毎日の夕食メニューを写真を付けて紹介。常連客に楽しみを持たせるだけでなく、いわゆる見えない客に、食事が「売り」のビジネスホテルであること。さらに「家庭的なビジネスホテル」であることをメッセージしている。 ビジネスホテルでは珍しいケースと思われるが、こうしたあり方に共鳴するファンが多いことは、ここのHPの驚異的な訪問数、そして放置しておけば、このITでの申し込みだけで、満室になる危険性すら生じていることでも理解できよう。.
 まったく反対の事例もある。N県M町のMは先に上げたAとは、部屋数は10室だが、全体的な規模は倍ほど大きく、雇用者も五人ほどいる。しかし親子二世代の家族経営であることには相違はない。これまで和風割烹旅館として料理と細かいサービスで、高い評価を得ていた。それが最近近代的な洋風ホテルに改装。若干だが価格アップ引き上げた。真相オープン後一月も立たないうちに料理とサービスが落ちたという評判がたち、利用率を落としている。多額の設備投資償却、高い人件費や材料費、建物なりを年間を通して維持するための管理費,広告宣伝費などがかかっている。だから最低その分だけは見合う価格でなければ困るし、そのためにコスト削減もしなければ、という気持ちは理解できる。しかし利用者は違う。売り手の事情などまったく関係ない。常に自分にとっての有利、不利で判断する。その結果が利用率減少として現れるのである。
かって自分の所在地域ではなく自分のホテル内に、一切のお金を落としてもらうため、館からお客を外に出さないシステムを作り上げた某大手ホテルが、今苦しんでいるのも同根とみてよい。だから、問題は経営者が意識してその誘惑から脱し得るかどうかの意志力如何になる。こうした、商いの本質を無視した自分だけ良しとする論理と業界の旧態依然性からの誘惑に屈したことが、利用客の拒否を招き、負け組の辛酸をなめている事例は、実に多い。取引は対等であるが、内実、売り手と買い手の間には、根本的な違いがある。買い手は、その旅館なりホテルなりを選択しなくとも、別のところを選択すればいいし、場合によっては旅そのもの取りやめにしても、なんらかまわない。しかしホテルや旅館にとっては、自分のところが選択されないと、その分の収益は確実に減じ、大仰な言い方をすれば、その企業にとっては死活問題になる。この怖さを経営者が実感しているかどうかの認識の差が、提供しているサービスの品質の高い低いを左右しているといえる。
その結果、売り手の売上げが決まる。にもかかわらずこのことに無関心の経営者が多いのは不思議である。


  なぜ「おもてなし」か

 商店街を中心にした中小商店の衰退は目を見張る。近隣型の商店街には若者の姿は少なく、高齢者ばかりが目]立って活気がない。古いアーケードを撤去し、新しいモダンなものに取り替えた川内市中心商店街にしても、集客増には結びついていないときく。
商店街が賑わうためには、商店街を構成する個々の商店が繁盛店になることが絶対条件である。繁盛している商店には消費者が求める商品の品揃えがあり、陳列やPOP等に秀でた工夫がある。しかし、それは前向きな商店ならどこでもやっている当たり前のことである。重要なのはお客に気持ちよく買物をしてもらい、繰り返し繰り返し足を運んでいただくことに対する「対応」である。
 これを「おもてなしの心」とよぼう。地域の繁盛店となるための神髄が、実はここにあるのに商店街復活の対応と関心は、ハードやソフトと称するノウハウ技術に集中していることに疑心を口に出すものは少ない。
考えてもみよ。まずいお菓子をどんな立派な設備の商店街やお店で販売したといても、あるいは最高レベルの接客を行ったとしても、「売れ続けること」という商いの本質に近づくことは不可能なのだ。この原則の根底にあるのは「相手のことを想う気持ち」である。 このことは、換言すればお客を知り、お客が求める商品やサービスを製造ないし仕入れし、提供するということである。買うのはお客なのだから、そのお客のことをよく知らなければ商売になるわけはないのである。
 地域住民と同じ町で生活している地方の近隣商店街にすら、何回も来店し買物をしているのに、お客の名前を知ろうとも聞こうともしない店主や販売員が多い。これはせっかくの対話や接客が、自社・自店にある商品を売ることに関心を集中し、またその都度、その都度の完結型の対応であるからである。だがこんなことを何年繰り返してもお客を知ることにならないし、個々の顧客ニーズの把握や、顧客情報の蓄積はなされない。
お客から希望する商品を問われて、「あいにく、、」とどんなに丁重に断ろうと、お客にしたら自分の欲しい商品がこの店には存在していないこと、ひいては自分には関心を持ってくれていないという疎外感を感じることには変わりがない。
 商店主は、何気なく「うちの商品は、、、」といったいい方をする。そのこと自体はかまわない。しかし、その商品を食べるなり、着るなり、消費するのは購入者であるお客であって店側では決してないことをもっと強く自覚すること必要だと思うのだ。
商店主は、その商品なりサービスを販売して「糧(かて)」を得ている。糧が商人の命を養っているわけだから、いわば白身の分身ともいえる店舗や商品に対して、せめては鮮度チェックやホコリなどがつかないように拭くぐらいのことぐらい徹底して欲しい。来街、来店することは、いうなれば消費者は「時間や労力を消費している人」といえる。すなわち「命」を消費しているのだ。だから、商人は「おもてなし」としてそれを浪費させない心遣いをすることが肝心なのだ。これは店内のことだけでなく、商品の配達やご用聞きにまで思いを広げて考えて欲しい。すなわち顧客の行動パターンやライフスタイルを熟知し、柔軟に対応する姿勢が大切である。いつも心配りをおろそかにしてはいけないということである。お客が来店中、急に雨が降りだしたとする。あいにくその人は傘を持っていない。困惑するその人に対して、さりげなく「よかったらこれを使ってください」と傘を貸してあげる。そのための置き傘は常に用意しておくことだ。そういうことだ。それを雨降ったらこれ幸いと「傘、激安500円、やすいよ」と大声あげて売り込むのを「対応」と称する小賢しい商人が増えた。だから、嫌われる。だから売れないのだ。
 街やお店の活性化とは、実はこうした本質的なことからのアプローチなのである・
地域密着の商いはまず隣人を知ることから始めよ
経済のグローバル化が進展すればするほど、「地域の盾要性」はますます高まっていく。地域を知るということは、まず自らの隣人を知ることから始まる。地域とは運命共同体である商店街や中小商店にとって、そこに沽征・勤務する消費者はかけがえのない隣人であり、化殺与奪を握るステークホルダーである。低価格だけで購買の恵思決定をせず、人の汎もりや気持ちよく貢物をしようとする「同じ空気を吸っている」生■活者がそこにいる
はずである。誠心誠な、杣乎の立場に立って、柵乎を思いやる気持ちを念頭に附き行動すれば、必ず良い、反応を、心してくれる。「安いで、安いで、一」うてや」と声をからして連呼しても道行く人は振り向一」うともしない。求めていることに対応していないからである。「○○さん、ご主人の好物のスルメイカ、新しいのが入ってますよ、刺し身でいか
が」「△△さん、この前買っていただいたブラウスに風合いと色合いがぴったりのスカートを仕入れてきましたよ」と吉ダをかけてほしい。
双方向のコミュニケーションは必ず会話を促進し、その結果、商店が得る情報量が増えていく。顧客も自分を大事にしてくれる店に足を向ける。こうして繁盛店への道が開ける。


      「インターネットビジネスの意味するもの」

 インターネットの世界では、「最初にビジネスモデルを作り上げた者が成功者となる」といわれている。これは「創業者利益」という言葉に置き換えられるから、なにもインターネットビジネス固有のことではない。しかし違いがある。それはスピードが速く、その受益期間が短いことである。だからそのノウハウを真似して二番煎じを狙っても無駄になる。
この点が、追従グループもそれ相応に利益を得てきた従来型のノウハウやツールと違う。これらはインターネット固有の世界といってよい。
日本人はすぐノウハウやモデルをアメリカや過去の成功者に求める。最近は、著名経営者が主催する塾や囲む会が盛況だそうだ。少年少女の親衛隊もどきに信望する経営者を追っかけまわしている中小企業経営者も少なくないという。
 しかし本来ノウハウとは真似ることではなくて「自ら創り出すこと」であり、独自性が求められるものである。独自性とは、演繹ではなく帰納的であり、「机上の理論と議論」から生まれるものではなく「現場の発想と決断」の産物である。
 ところでインターネットでのオンラインショッピングでは送料がかかる。ところが割高な要冷もののクール便すら事業者負担するところが出始めた。現場を知らないと、「そんな採算に乗らないことをやれるか」、とか「利益を削って量で勝負の戦略か」と、いうことで結局こうしたことは追従しない。だから「最初にビジネスモデルを作り上げた者が成功者となる」。どうして事業者負担ができたかというとこうだ。
 店頭売りの場合はその日の売上を予測して、パン・お菓子を製造、惣菜を揚げたり煮たり、また魚や肉を切りケースに並べる。当然売り切ることができない分は廃棄処分される。
ところがインターネットでは注文が来てから、来た分を用意すればいいから廃棄ロスがない。店頭陳列で悩まされる万引きロスも発生しょうがない。だから、この分で送料負担はできるのである。
 まず最初に、消費者利益を優先した戦略を採用した企業の名前がインターネットの世界であっという間に広がり、インターネートブランドが構築される。
 Eメールなど、いわば世界をまたにかけた井戸端会議であるから、近所の主婦たちによるおじゃべり(チャット)の比ではない。だからほかの業者が追従し真似をしても追いつかない。
次にあまり数量を期待できない特殊な商材の販売については、インターネットではどうなのか見てみたい。
たとえば鹿児島・枕崎には、カチンカチンに冷凍した鰹の首を落とすギロチンの技術を、電動薪割り木として生かした事例が、かつて異業種交流会で注目された。ところがこうした特殊な製品は需要先が限られ量が見込めないからどうしても高額になる。だから売りにくいといった悪循環に陥り、せっかくの貴重な商材が流通に載らない。こうした例は多く実に残念なことである。また世界のどこかで、それを探している人にとっても不孝なことである。  こうしたものはインターネットを活用し、世界中に紹介すれば、たちまちマス商品に生まれ変わり、価格も安くできることになるのである。
インターネットは、従来の大企業対中小企業とかいった、規模の論理、どこの国のどこに立地しているかといった所属や位置の概念すら、その垣根をとってしまう。
当然、事業の視点も変わってくる。まず何ヶ月後、何年後に投下資本を回収するなんて事業計画は存在し得ない。だから長期経営計画のような変化を織り込んでない硬直性と拘束性の強いこれまでの経営手法や管理システムは使えなくなる。
「即、黒字、常に黒字」といった視点から豹変的対応を恐れず行動する者だけが生き残れる。それもモノづくりと販売力が経営の重点になる。何しろ、消費者からみたら購買先がグローバル化してその選択眼が厳しくなるのは当然であり、売る側から見たらライバルは大型店とか隣の上位都市といった従来レベルに加えて、世界中のおびただしい数のバーチャル商店をライバルとして生き残っていかねばならないからである。
そして、扱う商品のキーワードは『高粗利益率』、『低販売費比率』、『高商品回転率』であり、経営的のメルクマールは、『高利益』と『高流動性』ということになる。
 商いは、ますます個人べ一スの商売に特化してくるだろう。なぜなら購入先が増えることと、その結果消費者の個性化、わがまま度,欲求度が高くなってくるのは当然だからだ。
これを店側からみたら、売れ筋は自分で作れるし売り先も自分で確保出来ることになる。いうなれば先行したものが小ビジネスで一人勝ちし、他の企業が追従してきたときには、もうそのフイ-ルドはないという「勝ち逃げ」パターンこそがインターネットビジネスのイメージである。だからこの世界では敏捷性と小回り性が不可欠になる。まさに中小企業の得手分野が発揮できる時代なのだ。
 すでにここ数年以前から、既存企業とインターネット上のサイバー小企業との戦いが続き,徐々に時流不適応型の典型、既存マンモス企業などが淘汰されつつある。
インターネットビジネスこそ新しい流通の時代の黎明の象徴なのだ。


「トンチンカン」   

「従業員買い物割引制度を導入して優遇したのに、ウチで買わずよその店で買い物する。愛社精神を植えつける従業員教育をして欲しい」と、Aスーパーの経営者からの依頼である。安く買える従業員が買わないのであれば、お客はいっそうのこと買わないはずだ。その理由を見つけることが、重要課題のはず。それを愛社精神の欠如というから、思わず大笑いしてしまった。
従業員が自分の店で買い物をしない。だから対策として従業員割引制度を設けた。それでも買わない。その事実は価格以外に買わない理由があることを、如実に示しているではないか。それを「裏切られた思いです」と彼はいう。
 「なぜ彼女たちは、安くしても買わないのでしょう。考えてみたことがありますか」
曰く、「悔しいですが価格でしょう。その頃、郊外に大型スーパーが出店しましてね。ウチも精一杯価格を安くしたのですが、やはり大手にはかないません。お客は安い店に流れてしまう。でも我慢ならないのはウチの連中で、ライバル店で平気で買い物する。その神経を叩き直さねば、ウチはダメになる」。
 価格競争が高じると経営者は、利益確保に躍起になり、品質より原価に意識がいく。その結果、当然商品の品質が落ち、品揃えも偏る。安くして売れ残ると目も当てられないから廃棄処分に目をとがらせる。これまでみてきた経営事例ではみなそうだ。S市にあるビジネスホテルの経営者は、板長が廃棄した食材を、「もったいない。加工すればつかえるじゃないか」と叱った。これは食中毒事件となった。またある中堅食品スーパーでは、鮮魚売り場や精肉売り場の冷ケースの半分が、二次加工食材で占められていた。表向き理由は「2次加工食材充実による利益の確保と差別化」であるが、実は生鮮物が売れ残り、廃棄処分が増え利益が低下。それで廃棄すべき食材を2次処理・再加工したというのが真相である。
 こうした2次加工処理は、パートさん達の仕事である。彼女たちは、仕事は命じられた通りやる。だが買い物をするときには消費者であり、一家の主婦である。妥協は決してしない。結局このスーパーは、"噂"がたち、それが原因による客離れにより、販売不振で、倒産した。
 当然、Aスーパーの問題の本質が愛社精神の欠如などではない。せっかく従業員が、自店で買い物をしないという行動により、経営者に情報発信をしても、的はずれな対応でその情報を消し、あるいは取り違えてしまう。これをトンチンカンといわず、何といおう。 だがこうしたことが、商店街や個々の店で行っているバーゲンセール、シール3倍セール、イベントなどとどう違うのか。消費不振をリストラで対応しているといったことはどうなのか、と問われ、「違う」と断定できるであろうか。
 世は今や、総トンチンカンだらけの時代だ。だからこそ、ことの本質を問うことが強く求められるのではなかろうか。


      「支え」     
 「生き残る、強い企業(家)」はどんな条件を備えているのだろうか。第一に、消費者の支えの上にのみ企業はその存続を許される。だから経営者のなすべきことは、第一にどうしたら消費者に支持されれつづけるか、という命題を立て、その範疇内で戦略を立案することになる。第二に、それを手と足と口を使い、具体的に消費者に伝達する行動力が不可欠だ。どんな高遭な'念や戦略が採用されようとも、具体的に見える形で表現されないのではまったく無意味になるからである。第三は、消費者を含め、仕入先、取引先、それに従業員の協力をいかに有機的に結合させ、いわゆる組織力として機能させ得るか、の3点である。個々企業の業績は、好不況といったマクロ的外部要因にあるのではなく、正しい理念・戦略、そしてお客に支持される戦術を選択し、それを取引先や従業員の協力を結集し具体的に示しえるかどうかの経営者の手腕にあることになる。
 こんなせち辛い世の中で、しかも競争激化の中でそんな悠長な考えでやっていけるか、という反論もあろう。たしかに一時的に、そしてより簡単に増収増益を得る方法はいくらでもあるだろう。しかし、それらの方法では、繁栄し続けることは決して出来ない。断言していい。一過性の成功が、後々に大きな不幸や悲劇を生んでいる事実は、これまでの夥しい事例が証明しているところである。
 とくに消費者を結果的にだましたり、取引先をいじめたり、従業員の犠牲の上に得られた業績は、まさに砂上の楼閣に等しい。舞い上がった高さだけ落下することは必死で、会社や個々人に与える傷は往々にして致命傷になっている。
 真にその行動が「消費者のために」であるなら消費者が支えてくれる。仕入先も良い取引先として支えてくれる。従業員の幸せを考える事業であれば、従業員は一生懸命働く。
 きれい事で言っているのではない。倫理や道徳の話をしているのではない。人間の持つ本能、欲望からみれば、人は皆、自分が可愛いに決まっている。自分の利を欲する。だから、利を与え続ける人を求め、見つけたら放したくないのは、当然のことだろう。これが逆に経営者が「自分の儲けのため」、「会社のこと」だけを考える人であるなら、どうであろう。とくに最近の消費者は実によく商人の姿勢と行動を見ていて、いつも自分にとって、いわゆる「正義の味方」を支持している。かりに2つの目では、見逃すことがあったとしても、夥しい数の大衆の目をだまし続けることは、不可能になってきているのだ。だから一時的に儲けを得ることは出来ても、その儲け続けることはできない。繰り返すが消費者、取引先、従業員の3者から支えられることによってのみ、事業の永続的存続が許され、その関係は自分の利を主張した途端に崩れ、相手に利を与え続けると継続するからである。 こうした、3者のが支えてくれる人問関係の構築こそ事業の本質と理解している。
 このことが理解は出来たとしても、言うは易く行うは難し、勇気と根気がいる。相手の利は充足されても、当面自分の利は満たされないことは、はっきりしているからだ。だからこそ、その苦しさに辛抱できない多くの経営者が、即効性を求め、売り込みを行う。もちろんその時はそれなりに効果がある。しかしそれは一過性的であり、いくら積み重ねても「売れる体質づくり」には結びつかない。むしろ折角育ち始めた体質そのものが崩れてしまい、挫折する事例のなんと多いことか。
 そうしたリスクをさけるために経営者自身が、事業を人との出会いと交流の場として捉え、縁ある人との信頼関係を再構築すること。そのために燃える思いでお客様のためを考え続ける。そうした苦心の過程で生まれる創造性のシステムが、我が社ならではのノウハ
ウになると定義し、その思い(理念))を一人一人の社員全員に浸透させることだ。
 人は戦略を共有した時のみ他の人のために動く。お客も社員も取引先も同じである。戦略を共有する「仲間」の数の多いほどパワーは大きくなるからだ。事業はテクニック以前にこうした流れを造ることが重要である。
 お客は自分が得したいから店に来る。だから事業づくりの要諦はお客を喜ばすものが創造できるかどうかにある。売上はその「結果」である。経営者の関心が、内実的には我が社が、あるいは自分がいかに儲かるか、といったことで人が支えてくれるはずはない。あなたの企業を儲けさせようと思って来る客は一人だっていないからである。
 ところでそもそも売買の成約とは、こちらの売るという戦略と相手の買いたくないという戦略を協力関係にし、売って幸せ、買って幸せの共感の関係作りである。このことが本当に分かっていれば、今の経営のあり方がいかに自己中心で、それが故にあぶなかっしい状態にあるということに気づくはずである。もちろん量の追及を否定しているわけではない。量はあくまで、売り手と買い手の共感の結果だ、と申し上げているのである。
 人は一人では生きていけない。認めようが認めまいが、見える、見えないに関わらず無数の人々の支えのおかげで、生きている。その支えを自ら少なくする人生戦略であるとしたら破滅の道である。だから自分の事業を、この支えを大きくする一つの場ととらえ、事業発展への夢を育てていってほしいと念じている。

      「顔欠」

最近、過疎地、僻地、離島の零細商店を個店指導することに限界を感じている。もちろんその原因の大半は私の未熟さにあるわけだが。しかし産業構造の基盤変化、IT革命時代と称される昨今のような状況下においては、個店の努力は充分、にはほど遠いにしても、小さな店が「自助努力では無理」と断定し得る構造的もしくはシステムテックな課題に挑戦せざるを得ない現実に遭遇していることは紛れもない事実なのである。
 現経済企画長官の堺屋太一氏が、かって渡部昇一氏との対談(「競争の原理」竹井出版)で指摘しているように「社会の活力は商業で決まる」のである。各市町村の将来の発展を考えるとき、商業基盤の整備・活性化が重要な課題の一つであることは誰しも否定し得ないであろう。よく都市にとって「商店街は町(ここでの町は行政単位の市町村を意味する。以下同様)の顔である、といわれる。しかし、現実問題として、本県内においても、町にふさわしい顔としての商業機能の実態はどうであろうか。驚いたことに、ほとんど顔らしい顔はない町や、鼻や口がないのっぺりの顔の町が成り立っている例も決して少なくないのである。「いや顔はあるにはあるが、頭がついていない」といってもいい町もある。
「顔黒」に世を嘆く人はいても、町に街がない「顔欠」に町の遠くない行く末をみて、案じる人は少ない。   
 それはともかく、商店街機能の都市形成に果たす物理的機能と社会的意義は大きい。都市の発展というマクロレベルから見た場合、「商店街の現状はどうなのか、将来どうあらねばならないのか」といったことは当然行政が論議すべき重要課題である。その場合果たして行政は財政投資される場合に、たとえば、行政の財政投資の各産業への分配を投資とみなし、「どの分野への投資が、回収効率と波及効果は高いだろうか」。そして「財政投資予算の各プロジェクトに対する配分に当たって、理想的都市形成上のバランスが計られているであろうか」。この2点に関して論議がなされているかどうかに強い疑問を持っている。
その根拠事例を示しておきたい。手元に2市5町の「(市町村)基本構想」あるいは「総合計画」がある。いずれも90~150ページのボリュウムで、これから10年間、この計画書に基づき行政が行われるわけである。ところが商業とか街づくりに関しては殆ど触れられていない。多いところで見開き2ページ、H町にあってはわずか4行。しかも前期記載の文章と一字一句に至るまで同じ。しかもその間、町長は交代しているのである。
ちなみにこれらの町は誰が見ても顔がない町で、街づくりが最重要課題と公約されているのであるから、公約とは何だ、といいたくなる。首長や議員に公約を果たすという意欲とリーダーシップが欠如し、また顔がない町は生存できないという現状認識と危機感が欠如している証である。 言うならば商業基盤整備の関する公共投資は投げ捨てに近い助成金などより、はるかに期待回収効果の見込める投資なのである。
もちろん、その投資は1にわが町の商業基盤整備に貢献し住民生活に還元される投資か、2にその商店街にとって役立つ投資か(商人の算盤に合う投資か)3にわが町へ直接間接的に利が還元されるか(行政にとって利ある投資か)の3つのフィルターチェツクを経たものに限られるわけだが。 何かをなす場合、それを科学的計算性に裏打ちされたものでなければならないことは企業経営では常識的なことである。この常識を行政も踏まえ、かつ冷厳にその市町村の発展という長期戦略的観点から判断するという意味での公平な財政の分配が計られるならば各市町村はもっと発展すると断じてよい。          
ともあれ今後、行政が街づくりに積極的に関与していかなければ(それは決して補助を増やせとか、陳情を聞け、といったことではない)自助努力だけではどうしょうもない段階まで衰退している商店街が多いという現状認識と、商店街を活性化することは、町全体の発展に確実に貢献する、という2つの意味で、投資のやり甲斐があるという行政の算盤があっていいのではないだろうか。
行政とその首長に、商業基盤整備の立ち遅れもあるいは長期的戦略の欠乏、マクロ的観点に立ったバランス感覚が欠如していることにも、中小商店衰退の一因ありとみている。個店の怠慢を行政に転嫁することはよく言われることだが、その逆もあるといいたかったのである。

  「大型商業施設は、社会的癌だ」

 街の衰退の理由の一つに、「わが町は車社会に立ち遅れて、、、」といった声をきく。もっともに思えるが、果たしてそうであろうか。
私には渋谷や銀座などの繁華街が車であふれているとは思えない。大阪の難波も心斎橋にしてもそうだ。はっきりいって車ではなく、人があふれているのである。
もちろんこれは地方と大都市では、現状が全く異なる。東京、大阪などの大都市は、実は車社会などではなく、伝統的な公共交通や歩行に頼っている街なのである。
車で通勤やショッピングする人なんて、ほとんどいない。だからこうした街には人があふれふれ、繁華街がにぎあうのである。
地方商店街の中心は、昔は乗降客の多かった旧国鉄駅周辺、いわゆる駅前通りや旧幹線の国道沿いであった。ここらは密集地で地価が高かった。また地方は、過疎地であればあるほど、一ッ個所で用を足せないこともあり日常生活で車を使わざるを得ない。伝統的な公共交通や歩行に,年々依存できなくなっているのが実態だからである。
 その結果、郡部の駅前通りは寂れ、旧幹線通りも通貨車両の増加やそのための拡幅やバイパス道路の整備により買い物の場所として、その適合性を失うことになる。こうして、商業の中心地は郊外のバイパス沿いに移り、昔からの商店街は寂れてしまった。
地方の町の現状は、近過去の貴重な建物が減少してきているといったレベルではなく、生活環境としての町全体システムが崩壊し始めているといえる。
このことは、温泉地の開発の実態からも、その理由をつかむことができよう。
 普通、観光業者は、自分のホテルなどの施設を大きくし、その中で観光客がお金を落としていくよう工夫する。ほとんどの観光地の歴史といってもよい。そのため、観光客はその街に一歩も触れることなく、ホテルの中で徒ひたすらとどまりお金を落とすよう仕向けられてきた。その結果、当然、温泉街は寂しくなってしまう。北陸の和倉などその典型的な例であろう。
 他方、城ノ崎や湯布院などは、各ホテルは、け内湯だけでなく、温泉街に共同浴場を作り、そこを利用させる。最近話題になっている熊本の黒川温泉街のルネサンスが成功した理由の一つには、そのことにきづき、各旅館が内湯を開放し、観光客に風呂めぐりの楽しみを提供したところにある。そうすると、観光客が温泉に入るため、温泉街を軒並み歩きまわり、街は活気づく。街が活気づけば、社会システムが機能し、生活基盤としての町も潤い、豊かになる。換言すれば、分断されていた社会的システムの有機的結合が図られたからである。
 一企業で広域商圏内の中小商業地に、残されたわずかなオアシス(潤い)まで、吸い取る形でしか成り立たない受験の元にもくろまれたトリアス久山,セキヤヒルズなどに代表される大型商業施設は、観光地における巨大ホテルが,町を壊滅させ,結果としてそのことが自らをも存亡の危機を招いた,二の舞を踏むことは間違いがない。
 まさにがん細胞のごとくその異常とも思える転移(出店)が、自らの生存基盤の人体を侵し続けるここと,同じだからだ。癌は,人体の他の組織との分断と排他性により,異常繁殖をなし、そのことが自らの命取りにもなる。
 他組織体との連結や社会的融合性を無視したパワーセンターなどの大型商業施設は、単に商業的視点からだけでなく社会的シルテムからみて、まさに「癌」そのものである





© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: