沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第2回研究会 上


1. 前文(ファシリテータ:屋嘉比 収)
2. 人権(ファシリテータ:難波田 到吾)
日時 2004年11月13日(土)
場所 文系総合研究棟703


【前文】
○屋嘉比収氏   今回で2回目ですが、簡単な自己紹介をさせてください。沖縄大学の屋嘉比と申します。この自治研の研究会には前々から関心があったのですが、日程が合わずになかなか参加できず残念に思っていました。関心をもった背景には、当時僕は玉野井芳郎先生の研究生で、1985年に玉野井先生が中心に提起されました沖縄自治憲章の作成過程でも、その雑用係もやっていて、当時玉野井先生がとても苦労されていたのを知っていました。それから20年が経った今日、その時よりも自治研が一歩踏み込んだ試みをやっているとの認識があり、非力ながらなんとかその末席に名を連ねたいという思いがありました。

 前回参加した際に、自分なりに関与できる部分は何かと考えたら、やはり前文しかないということで、きょうは前文について簡単な話題提供をしたいと思っています。

 先週の土曜日にメールで送ったものが、2枚目の私が書いたもので、1枚目は前回の照屋寛之先生の執筆した自治州の基本法ですね。この前文に対して私の簡単な感想が2枚目の私の書いたものです。今日はそれに書かれたものしか考えていませんので、その文章に沿って話しをしたいと思っています。
まずは、前文を貫く論旨といいましょうか、それについてほとんど異論はございません。
しかし、文章としての構成といいましょうか、前文の組み替えや、あるいは内容や語句についての吟味が必要ではないかと考えております。

 特に、これは前回の会議で翁長先生から出されていました基本法の根拠や法的位置付けという問題とも関連すると思いますが、僕自身はやはり前文の中でこの基本法の全体像としての論点は、やはり押し出したほうがいいのではないかと考えています。これは基本法における前文の位置づけとしても、非常に重要な点だろうと思っています。さしあたり前文を読みまして、気がついた点を3点指摘したいと考えています。

 一つは、これは非常に重要な問題だと思いますが、やはり沖縄の自治自立宣言、沖縄のことは沖縄で決めるという、そういう自決権の宣言を、前文の中で鮮明にしたほうがいいのではないかと私は考えています。かりに自決権の宣言をするのなら、どういう文章や表現にするか。これは、多分議論のあるところだと思いますので、ぜひ皆さんで論議していただきたいと思います。

 その際に、沖縄といってもむろん琉球列島を考えているわけですが、ここでは奄美諸島を含むのかどうかわかりませんが、沖縄の他に宮古・八重山があり、個々の島々の個性がございます。それが列島の中の穏やかにつながって、島の連合ということもありますので、その点はすでに議論されていると思いますが、その個性的な島々の連合ということを含めまして、沖縄のことは沖縄で決めるという沖縄の自決権の宣言をしたいと考えていますのが、まず、1点であります。

 二つ目は、自立宣言の背景にある、平和への希求です。私自身は歴史学を専攻しており、今の国際、国内状況に対する危機感、これは照屋先生の書かれた前文においても指摘はされています
が、もっと強調したい。やはり平和への希求という点を強調したいと思います。

 これは特に、沖縄の位置といいましょうか、日本本土とは違う沖縄の歴史体験、特に戦争の体験や記憶がもつ意義を新たに語り直すことが重要ではないかと、最近とくに強く思っております。例えば、従来言われていますが、地上戦は、日本の中で沖縄だけが、硫黄島は別にしましても、人が住んでいるところでは、地上戦は沖縄だけだったわけですね。その時に、何か沖縄戦の方が日本の中で例外であるととらえられますが、しかしアジアに座標軸をとってみると、地上戦がなかったところがむしろ少ないわけで、地上戦がなかった日本本土がむしろ例外であるといえる。だから、今後、沖縄州を考えるときに、日本という枠組みだけでなしにアジアとの関係性において考えてみたい。地上戦を体験した沖縄から、アジアとの関係で日本とは違う独自なイニシアチブをとれるという点が、むしろ重要ではないかと思っています。そういう意味で言うと、今後のアジアとの戦争や戦後補償の問題において、やはり沖縄からの平和の希求という問題は強く押し出したいと思う。これはたぶん安保の問題や防衛の問題を含めて、最近は東アジアの政治状況において、国際政治の問題と歴史認識の問題のつながりも指摘されていますので、日本とは異なる沖縄の位置に基づく歴史認識の部分はやはり強調しておきたいと思っています。

 三つ目は、これは今の状況と深く関わっていますが、この基本法では沖縄に住んでいる住民の命を守るということ、それを最優先するということをやはり宣言したい。今回のイラクの人質問題や米軍ヘリ墜落事故に対しても、国民を守らない国家、あるいは住民を守らない自治体とはいったい何なのかということを、あえてこの沖縄の方から問いかけてみたい。そういう意味でも、住民の命を守るというフレーズを、前文の中にぜひ入れたいと考えています。今、思いついていることでは、その三点です。

 したがって、今回、道州制をにらんで、この基本法を提示するわけですから、画一的な道州制、各地域割りで都道府県から拡大して道州になるという認識ではなしに、やはり一国多制度という、沖縄の自治と分権を提示するために、より一歩踏み込んだような、本土の道州制にはない沖縄の自治・分権の構想を示すような、これは文章でどう表現するかは議論していいと思いますが、こちらの構想や案として強く押し出したいという思いがございます。

そして、本文の構成内容を、(1)基本姿勢の表明、(2)歴史的な経緯や認識、(3)経済的自立と政治的自立(これは前文にありましたように基金をつくるというのも賛成ですので、そのような案を入れる)。(4)東アジアの中の沖縄という視点、として組み替えてみる。そういう構成内容で組み立てたいと考えています。はどうだろう。今回は細かなことは考えていませんが、もう一回機会を与えていただけるということになっていますので、その時には文章にして提起したいと思います。

 もう一つは、さっきの平和の問題を含めて基地問題は避けて通れませんので、仮に沖縄の米軍基地が東アジアの公共財として認識するのであれば、利益だけでなく負担も均等に担うべきだという、昨日もたまたま佐藤先生たちのシンポジウムを聞いていましたら、そのような議論になりまして、やはり沖縄から日米安保の問題だけでなく、東アジアにおいて仮に米軍のプレゼンスが平和の貢献に役立っているというのなら、利益だけでなく負担も応分に東アジア全体で補ってほしいと、沖縄側から提起できるのではないか。これについてはすでにいろいろな方々が最近おっしゃっていますので、このような問題意識も組み込んだらどうだろうかというふうに思いました。

 あと、語句について表現の問題ですが、いくつか気になった点がありました。

 例えば前文の2行目の「正しく他府県にない歴史の体験」という、これどういう意味なのかち
ょっとわかりませんが、それは沖縄独自な歴史的体験という表現に変えた方がいいのではないか。あるいは「第二次大戦」という表現。これは日本史でいうと「アジア・太平洋戦争」で、その末期の沖縄戦という言い方が定着しております。あるいは「祖国復帰」という言い方の検討も含めて、皆さんと議論ができればいいと考えています。前文の基本的な考え方という、ちょっと大雑把な話になりましたが、以上が私の感じた感想です。あとは、皆さんのご議論をよろしくお願いします。


○島袋純氏  自決の宣言ということについてなんですが、照屋寛之先生の文章にも一応沖縄のことは沖縄と決めて書いてはあるんですが、これはやはり人民の自決権、自己決定権という概念に絡ませたような明確な権利宣言というのをやってですね、前文で権利宣言の書みたいなイメージをつくったほうが確かに僕もいいと思います。これは前々からずっと思っているんですが、スコットランドでも「権利の請願」、あるいは「権利の請求」というクレーム・オブ・ライツ(Claim of Rights for Scotland)というところからまず始まりまして、前文的なものなんですけれども、それから具体的な中身に入っていったという経緯がありますので、沖縄の人民、人民というとちょっと色のついた用語なんですけれども、沖縄の人々、ピープルがどんな権利を持っている、どういうことができるんだという、要するに自分たちの将来像に関して自分たちの統治の内容を自己決定できるという、そういった宣言を念頭において、それが垣間見えるような文言にしていったほうがいいんじゃないかなと思います。

 それから3番目のことなんですが、屋嘉比さんの話で。沖縄戦のおそらく一番大きな特徴は、アジアでもなかなかできなくて、こんどのイラクのフセインがもできなかったことは、住民を人間の盾として使うということなんですよね。これはもしかしたら、中国で国民党軍とか共産党軍はやったかもしれませんが、明らかに国家が組織的に、正規軍が住民の盾として、現地の住民を戦争の真っ只中に巻き込んで防波堤に使ったんですよね。フセインがバグダッドでやるかなと思っていたけど、さすがにあのフセインさえもできなかったことを、沖縄では日本軍はやってしまったんですよね。これが何よりも大きな特徴で、人間の盾として使い物にならない、おかしい、変な動きをするやつはスパイとして殺していくというのが非常に大きな特徴ですので、国家が国民を守らないどころじゃなくて、国民を盾として使うと。その部分をどうにか入れられないかと。これ結局、沖縄や沖縄の人々を軍事的な盾として使うというのは、戦後もすべて使っていくという基本的な姿勢として一貫しているのではないかという気がして、それが命を守るか守らないかというレベルではなくて、命を犠牲にして盾として使うという、そこまでいっているように見えるので、そのニュアンスを出したほうがいいんじゃないかなという気がします。

 それから、「祖国復帰」に関しては僕はあまり好きな言葉ではないので、「日本復帰」とか「沖縄返還」とかそういう言葉にかえていくのに賛成です。以上私の感想です。


○曽根淳氏  基本的には、きょうご提示いただいたような整理というのは、賛成かなと思いました。ただこの前文の位置付けについて、もう少し、前に議論があったのかもしれませんが、整理が必要なのかなと思うんですけれども、今まず書かれているものを見たときに、先ほど最初に権利宣言みたいなものがないというか、要するに前文の機能は何かと考えるかということなんですけど、この歴史認識が中心になっているというのは、前文の機能というものとちょっとずれている部分があるのかなと。その説明としては必要だと思うんですけど。前文の役割というのをきっちり決めて、今の内容は、こういう自治基本法にしたいなという気持ちの部分だと思うんですけど、自治基本法の前文として考えるのであれば、法律そのものを提議するようなものを中心にしていったほうがいいのかなというのが一つあります。

 それから、今島袋さんからあったような歴史認識の部分は重要だと思います。だけども、これから先の沖縄のあり方を決める時に、どれぐらいの比率でそういう歴史的な認識に割くべきなのかと。ないのはおかしいと思うんだけれども、この8割は歴史認識で前文としてさっき言った機能が果たせるのか、そのへんを少し考えて、先ほどあったご提案のあった組み替えというんですかね、そういうものを考えていったらいいのかなと思いました。


○宮里大八氏  私のほうも前文を前メールいただいた時読んだのと、あとは今回の提案についてちょっと感想を述べたいと思います。

 今、曽根さんからありましたように、歴史認識が現状では主になっているということなのですが、歴史認識を踏まえた上で今後どう展開していくかというのをもう少し付け加えたほうがいいのかなというふうに感じます。

 その際に、例えば最初の1ページ目の下から2行目のほうにありますけれども、「平和関連の国際機関を積極的に沖縄に誘致し、独自の平和政策を目指すべきである」とありますが、こういう誘致とか、具体的な話というのは、前文に踏まえるよりも、どこか項目立ててつくったほうがいいのかなというふうに感じました。前文はあくまでも全体の沖縄自治州基本法の流れに沿った形で述べて、その後で細かなものに進んでいくという流れのほうがよいのかなというふうに感じました。以上です。


○曽根淳氏  同じことで、国の責任で自治・自立の基金を創立するという部分ですか、こういうところも前文にはいらないんじゃないかと思いました。


○佐藤学氏  今曽根さんがおっしゃったことを私も言おうとして。こういうところに議論をしていたので、これの印象が強かったので多分ここに入ったのではないかと思います。位置付けというところで、歴史的なところから、じゃあ何でかという理念を述べるとすると、そこのところをもう少し補充する、細かい具体的なところは、ここには必要ないだろうというのは私も賛成です。今言いたかったのは、きのうのシンポジウムであった議論というのは、2枚目の屋嘉比先生が書いてきてくださった下のほうで、米軍のプレゼンスが、米軍基地が東アジアの公共財とするならばというところで、昨日パネリストの一人が、こういう趣旨の発言をして、会場から非常に厳しい反論があって、終わった後からも難詰受けて、それのとばっちりが私のほうにもきて、なんだこの研究所はみたいなことを言われたんです。多分こういう形の議論を入れた時に、ちゃんと説明しないと、どういう批判がきたか、反論がきたかというと、米軍の存在というのは必要不可欠、絶対善のものとして認めるのか、何だお前はという、そういう話になって、またパネリストの若い同僚が「じゃ、あなたは米軍は絶対悪というんですか」とか、そういう売り言葉に買い言葉になってしまった。パネリストの彼も別にそんなことを言っているんじゃなくて、今すぐに米軍が東アジアから全部抜けるわけにはいかないし、抜けたらそれはかえって様々な意味で不安定要素になるであろうと、そうすると当面米軍がいるということは、前提としなければいけない。いつかは米軍がいなくなる、あるいは軍事力で平和を維持するということはやめるにしろ、当座の問題として米軍がいることは認めざるを得ないではないか、だとすればという、そういう論理の組み立てで、東アジア全体で受け入れなければいけないのではないか、彼が出してきたのは、沖縄の日本国内での負担もそうだし、それから東アジア太平洋地域での米軍の沖縄への集中度というのは非常に高いという、そういう数字を出してきたんですね。もしも今、当座の問題として、米軍の存在というのが必要とされているという、他の国も認識しているんだったらば、それは共有されなければいけないんだろうということを言ったんですね。ここのところの、屋嘉比先生ここに書かれた議論を盛り込むとなると、ちゃんと説明しないと、この自治研は親米・親ブッシュ団体だと思われかねないということでした。


○藤中寛之氏  先ほどの佐藤先生の指摘に関連するので、ちょっと発言させていただきたいと思うんですけれども。自分はこの作成に当たった道州制の導入という、実際に社会で進んでいるということが背景にあるということを踏まえまして、ちょっと指摘させていただこうと思います。

 屋嘉比先生は、米軍基地を東アジアの公共財とするならという形で、従来は日本というものに限定されたものを東アジアに広げるという形の議論を展開されているんですけれども、道州制の主要なテーマとしては、沖縄が九州と一緒になるのかどうかということが、今現在は多分大きなものとしてありまして、たまに皆さんのところに配らせていただいたんですけれども、「グローカル知事平松守彦のその発想と実践」というところから、引いてみました。これは、結局例の104号線越えについて、当時九州地方知事会の会長だった平松さんが、苦渋の選択として受け入れるということをしたということの話なんですけれども、非常に今現在の九州地方知事会で、道州制において沖縄を含めるのか否かという議論をしている際には、とっても沖縄の基地負担を九州全部で痛みを共有してくださいよみたいなことを沖縄側が言うんですけど、とても九州としては非常にそれは受け入れ難いという、しーんとなってしまったというそういう状況が非常にありまして、このことというのは仮に、沖縄が九州と一体となって、ある意味で周辺地域化された場合は、沖縄の基地問題というのが非常に大きな争点になりにくいということを暗に示す状況であると思います。だからこのへんのこともありますので、東アジアという形で広げてしまうということで、現在、進んでいる道州制の導入という場合の論点が、ぼやけてしまうのではないかなという危惧がありまして、メールでもご指摘したんですけれども、この場で発言させていただきました。

 次の点なんですけれども、歴史認識の点なんですが、最近、沖縄振興計画というのが出ているのですが、この中では沖縄の特殊事情として、第三次までの沖縄振興開発計画であった歴史認識のところが削除されておりまして、この点の事情とかもしっかり踏まえた上で新しく歴史認識を入れるのでしたら論理構成というのをする必要があるのではと思いました。

 最後になりますが、島袋先生が指摘された点なんですけど、(3)の沖縄自治州では、沖縄住民の命を守ることを何よりも最優先としたいという点に関連してのお話なんですけれども、前文ではその趣旨に沿うような文言を入れればいいと思っているんですけれども、「無防備地域宣言」というのが背景としてあったらおもしろいかなというふうに思ったので指摘させていただきました。以上です。


○曽根淳氏  無防備地域宣言って何ですか。


○藤中寛之氏  これは、ジュネーブ条約に基づくものなんですけれども、ジュネーブ条約追加第1議定書に基づくものなんですけれども、これというのは一定の条件を満たしたら、軍隊が攻め込んだりしたらいかんということが、国際法上保障されるというものです。簡単に言ったらそういうことで、自分論文も書いていますので、あとでお送りします。


○屋嘉比収氏  今、何点か指摘していただいてありがとうございます。ちょっとこういうふう名ことを考えているんです。

 確かに今、道州制というのは、沖縄が九州に組み込まれるといいましょうか、九州と一緒の道州制の流れというか、そういう話があって、それに対して沖縄側からどうするかという問いかけが、いまの道州制についての議論の文脈があると思うんですね。僕は、それを画一的な道州制の導入という考え方ではなしに、沖縄の自治や分権という一国多制度を含んだ形を前面に押し出したほうがいいという考えなんです。その時に、2点ございまして、一つは、島袋さんが前回の那覇でのシンポジウムで、つまり道州制の問題を含め自治権の問題を考えることは、国民国家をいかに相対化するかという点て゜あることを前面に出されたわけですね。僕は、その指摘に非常に共感を持ちました。例えば、僕の問題関心で言うと、愛郷心といった場合に、パトリオティズムをどうとらえるか、非常に難しい問題がありますけど、沖縄の自立を考えるとき、国民国家の形成の道筋とは違ったあり方を考え模索したい。それは、国民国家の問題を、沖縄から考えるときに、日本だけでなく、同時にアジアに開く視点を持ちたい。だから国民国家を一歩手前の地域というところで相対化する視点とともに、アジアという視点、アジアというと、例えばさっき言った歴史認識の問題がどうしても重要になるんですね。日本とは違う歴史認識をもつ沖縄からアジアを考える視点を持ちたい。沖縄からアジアを考えるときに、これは僕の中で看過できない、除くことができない問題だというふうに思うんです。

 したがって、僕の部分は歴史認識の部分が前面に出ておりますが、この前文の構成内容に書いてありますように、歴史的認識の部分は2番です。最初は、前文の基本姿勢の表明。次に歴史的経緯や歴史認識の部分。照屋さんが書かれた前文の中に、あえてこの部分を付け加えたいという趣旨です。だから、きょうの僕の話ではほとんど歴史認識の話が中心になってしまいましたが、全体の前文構成については、さっき言いましたように、論旨にはほとんど異論がありませんので、あえてその部分を付け加えたいということです。そしてできれば、さっきの国民国家の相対化という視点。それを考える手立てとして地域、あるいは愛郷心かどうかは議論のあるところですけど、アジアの視点を導入したいと考えています。だからむしろ藤中さんがおっしゃったように、今の道州制の流れを踏まえつつも、しかしあえてもう一歩踏み込んで、沖縄側から提案したほうがいいのではないか。そういう点で言うと、藤中さんが書かれた無防備地帯の設定、僕はあの論文を読ませていただきましたが、非常におもしろい提起で、その重要性は強く認識しておりますので、そういう問題も前文に入れるかどうかについて、皆さんで議論をしたいと考えています。


○島仲徳子氏  前文の下から13、14行目2行についてですけれども、沖縄の独自性を説明する際のよりどころの1つであります「文化」に関する意識についてです。
「他府県にない独自の文化圏を作り上げる可能性を秘めている」、という表現になっています、これは、今後、そういう可能性がある、という意味かと思いますが、しかし、現在の沖縄の文化というのは、すでに独自性を持っているのではないかと思います。これからの可能性ではないような気がします。


○野原氏  今回私初めて参加して、皆さんがメーリングリストでやり取りしているというのを今聞いて、ああそうかと、先にきてこれ読ませていただいてどういう趣旨でやっているんだなと少しずつ確認しながらやって、発言しようかどうか迷っていたんですけれども、一応私今までの流れの中で、私の意見を少し述べさせていただいて、ピントがずれていたらごめんなさい。

 文章として前文みたいなことをどういうふうに掲げていこうかという話になっているのかなということで話は進んでいるかと思うんですが、シマダ先生から、何名からもあったように、一つはこの文章に関しては、道州制については沖縄の自治ということに関しては、一つは権利の宣言という文章みたいにしたら私もいいんじゃないかなと思います。そのもう一つ、権利の宣言的な文章にしてもらって、もう一つの文章として添付として沖縄の歴史的背景という形で、背景として細々必要なことがあったら説明して、2部立てにしてもらったほうがわかりいいんじゃないかなという気がしてます。

 それともう1点は、これは私の思ったことですが、一つは今前文の中に要約されているのでなかなか言葉選びが難しいと思うんですけれども、歴史認識について今、先、話し合いましたように、沖縄の独自性の文化をつくれる可能性を秘めてるとか言って、可能性というよりは、あるのではないかという話をされており、私も全くそう思います。

 それから、文章のいたるところで歴史認識をどうしたらいいのかということをもう1回時間があったらたたいたほうがいいんじゃないかなという気がするんですね。私なりに読ませていただいて、歴史認識をどうとるかというのは、それぞれについても相当いろんな開きがあると思うんですね。それをどういうふうに集約するかということは、もう少し議論する必要があるのかなと私は思ってます。例えば簡単なことをいうと、上から3行目で、「自治・自立の選択の道を閉ざされ」と書いてあるんですが、そのあとに、「歴史の節目節目で自己決定することができなかった」というんですが、これはできなかったのか、沖縄の人がやらなかったのかという問題も含まれていると思うんですね。そのまま怠けちゃったというとおかしいかな、我々自身の沖縄側の問題として、そこも議論する必要があるだろうし、その後に、上から6行目、「その後の沖縄の発展に大きな障害となった」と書いてあるんですが、沖縄の発展の大きな障害の、「発展」って何なのと。どういうふうな認識しているんだろうか。これ、私の認識ですと、本土と切り離された中で、沖縄の発展、経済的な発展は問題あったかもしれないけど、沖縄の独自性の発展ということは、阻害されなかったと私は認識しているんですね。もしそれが、施政権が離されてなかったら、もしかしたら沖縄の独自性ももうとうに潰れちゃって、一地方になっていったんではないかなという気がするんで、発展というのをどこでとらえるかというのがあると思うんですね。

 それから、その下に基地経済に過度に依存したため、第二次産業の育つ余地がなかったというんですけども、「基地経済に依存したため」というのは確かだと思うんですが、「第二次産業の育つ余地がなかった」ということに関しても、これは我々自身が沖縄側としてそれを育てるための何か施策とか、何か考えがあったんだろうか。その中で育たなかったんだろうかとか、そこをもう1回振り返る必要があるんじゃないかと思うんですね。ですからいろいろ読んでいくと、いろんな認識をどうとらえるか、この歴史事実をどうとらえるかというのは、それぞれの見方・考え方があると思うので、やっぱり時間をかけて議論をしたほうが、私はいいんだろうという気がします。そして権利宣言に関しても、自治沖縄が道州制の中で、自治として沖縄が独立性を持とうとする時に、もうちょっと広い意味から、私もさっきアジアとか、いろんなこと言ってましたけど、広い意味からとらえたほうが、沖縄の自治としては確立しやすいだろうと思うんです。沖縄の基地を他の県に対しても痛みをわかってくれというのは、沖縄側の私は甘えだと思いますし、確かにそれはあるんでしょうけども。これはもちろんとらえ方です。だからと言って、どこかに基地を受けてくれるところがあったらというけど、そこはまた受け入れたくないというのも、さっき話があったように、まさしくそうですしね。だから、もうちょっと我々がどういう形でとらえるかみたいなことは、我々の歴史認識と体験の認識を、今後どういうふうに我々がとらえるかという認識まで、もうちょっと深める必要があるのではないかと思うんですね。そうではないと、沖縄の道州制については、沖縄の自治をしっかり持とうという訴えそのものが、結局、沖縄側だけの問題という形でとらえれば、結局はもとの沖縄というんですか、我々は犠牲を強いられているんだから、ちゃんとやってくれよという立場から脱却できないというんでしょうか、そしたら本当に自立できる、道州制に対しては沖縄が自立するというチャンスを、逆にまた同じように歴史の中で繰り返しているだけではないかなと気がして、とても危惧しているんです。その意味では、さっき言って繰り返すようですけれども、沖縄の体験を歴史認識としてどうとらえるかということを、もっと、大変でしょうけど、時間で議論する必要が僕はあるんじゃないかと思っています。ちょっと長くなって恐縮ですが。


○濱里正史氏  今、歴史認識という話があったんですけれども、むしろ認識、言葉尻だと思うんですけれども、沖縄の特性を認識というよりも事実を淡々と述べておいたほうが、いいのではないか。先ほど、無防備地域という話がありましたけれども、流れとしては、結局世界的にみると、大きな国に挟まれた小さな地域というのは、紛争の火種になると。ですから、もう少しさかのぼって中国の一部だったころから、要するに大きな国の一部だった、いろいろ世変わりしてきたという、そういう日本のほかの地域とは違う特性をもっていると。これは、日本の中では特殊だけれども、世界的にみると、スイスとか、コスタリカとか、そういうところは、同じような特性を持った地域があって、そういうところは周りの紛争の火種になるので、周りの国の、例えば沖縄だったら、日本とか中国とかアメリカということで、けんかしないために、ここにはお互い手を出さないでおこうという話になってくると、無防備地域宣言と。その延長上であれば、米軍基地をここに置かないのは日本のためでもあるし、アメリカのためでもあるし、中国のためでもあるというような話につながっていく。これは、認識というよりも、沖縄が置かれた、そういう持って生まれたというか、置かれた、昔からの特性がそういうふうなことにつながっていくと。

 体験でいうならば、本島は地上戦で多くの人民が死んだけれども、先島は死ななかった。あまり死ななかったですね。全くではないですけど。それはなぜかというと、軍隊というものが置かれていなかったからだと。結局、そういう火種になるようなところに軍隊を置いてしまうと、いつかその火種が爆発して、そこに住む人が巻き込まれてしまうんだというそこの事実を、これは認識ではなくて、そういう流れで世界にも同じような特性を持ったところがあるということを、もう少し先の琉球王朝ぐらいのところから、沖縄のもって生まれた特性というような形で、解釈云々ではなくて、そういうところなんだというトーンでいけば、2枚目にあります平和への希求とか、沖縄の住民の命を守ることを何よりも最優先するということが、沖縄でどういうふうに実現するべきかということに、前文でははっきりと言わなくても、そういう特性があるということを述べておけば、そういう認識につながっていくんだと。前文で認識を述べるのではなくて、前文ではその認識のもとになる、根拠となる事実を述べておくのがいいのではないかなと。
 もう一つ、僕財政担当しているのであれですが、この間与那国行った時に、10年ぐらい前に、与那国の今国有林になっているところは誰のものでもなかったと。税金を取られ始めて、個人が町有地に移管したと。町有地も税金取られるので国有地にかえたのが今の国有地だという話がありまして、これ沖縄全体にいえると思うんですけれども、沖縄という地域が自ら日本に入るということに一度も決断しなかったのに、いつのまにか大きな国有地を持って大きな領海を持っている。要するに、沖縄という地域は、またこれも沖縄の特性として、大きな領海を有しているわけですけれども、沖縄という地域は、大きな領海とわずかな土地ですけれども、これを日本国と共有することによって、日本も国益を得ている、利益を得ているという、この歴史の特性と沖縄の地理的な特性ですね、ここを前文に述べておいてもらえると、実はここで基金というような話を持ち出さなくても、実は沖縄という地域は日本に大きな国益をもたらせている地域であるという地理的特性を持っているということであれば、やはり自治、そこに日本の国民だと思っている人が住んでいる、人が住むということが日本にとって重要なことなので、きちんとした財政措置なり、自治権なりを認めてくださいという話につながっていくのではないかなと思いまして、前文ではそこに判断をそのまま認識を書くというよりも、そこの沖縄の特性を淡々と書いたほうがいいのではないかなというふうに感じました。長くなりましたが、すみません。


○玉城和宏氏  私自身もすぐ何かサブファシリテーターになっておりまして、メールを出しただけで、具体的なリターンは全部いただいておりませんので、内容はちょっとわからないんです。それから、私1月いっぱいで沖縄大学のほうの内地留学が切れるということもありまして、最終的なレベルまで責任を持っていけるかどうかちょっと非常に不安なところがありますので、そのへんのところをちょっとご容赦願えればと。これちょっと前置きですけれども、私がメールでも出しましたように、専門は数学です。だから、数学の成り立ち、それから数学の認識、それは自然系の認識、あるいは人間の心理学的な認識も全部入ってくるのですが、基本的に、沖縄の場合の歴史認識、やはりこれは非常に必要だと思います。その歴史認識をみた時に、琉球王朝のことをよく皆さんおっしゃいますけれども、その時は自治権をある意味では持っていたと。上位からの支配があって、上のほうの王侯貴族と、それから武士と、それから下のほう一般も、少なくとも自治権を持っていたと認識しております。それは、沖縄という地域で経済的にも政治的にも閉じていて下位組織も必要だとされるという認識です。その後はどうなったかというと、私自身の認識ですと、植民地政策であると。全部植民地なんだと。アメリカ世も、日本世も、薩摩が入ってきた時も、基本的に現在も僕は植民地だという認識をしております。

 だから、そういうふうな認識の背景には、何があるかというと、沖縄が主体性を持つというところの基本的な実質的自治権は一切認められてないという状況把握を私はしております。個人的には。だから、憲法の専門家でもありませんし、法律の専門家でもありませんけれども、基本的な私自身のウチナーンチュとしての感覚からいいますと、これは植民地にされて、権利を与えられずに、生活発展の正しい方向も見失い、振興策とか、何かというと箱物であるとかバーターをさせられて、お金をちょうだいという、そういうふうな形になっている。だから、アメリカの世のときも、私もちょっと個人的に調べてみたりしましたけれども、実際にウチナーンチュを労働力として確保したいというために、B円という高いレートの軍票をセッティングもしてありますし、それからドルのほうにすぐ替えてしまうと。そうすると、国内の生産というのは、農業とかの生産に関わる事業は成り立たない。基本的には輸入したほうが安い。そうしますと、そこのところの土地を耕すよりは、軍用地のほうに働きに行って、それでドルをいただいて、それでもって品物買ったほうが非常にコストが安い。つまり、住民は生活の簡単な方向へ舵を切ってしまうという状況を米軍に作られてしまっている。この状況を把握するために、私は社会を生存空間という概念でとらえております。生存空間の中身はどういうことかというと、基本的に生物と同じで、安全空間、つまり自分がどこにいたら安全かと。それから、食糧確保、すなわち食料空間。そういう二つのメインなところで生存空間が一応成り立っていると考えております。

 その生存空間の中にはどういうことがあるかというと、社会的事象を物質を含めて状況とみなすことのよって、社会の状況認識が必要になる。だから皆さんがおっしゃったように歴史認識というのは、過去からの状況認識の一環であります。社会認識が状況であることから作用によって変化を受けやすく、状況を保全するのも変化させるのも情報が重要であり、そういう情報の中にいろんな手段・テクノロジー・作用、あるいはアメリカの作用とか日本の作用とか、いろんな作用がそこに入ってきます。

 そうしますと、その変化の中で、アイデンティティ、沖縄のあるべきアイデンティティというのは、どういうふうに見るべきかというところが自然に出てくると考えておりますので、やはり歴史認識というか、植民地であったという認識を直接条文に出すか出さないかは別としましても、基本的に皆さんがおっしゃっている自治権とか、いろんな自分たちの権利とおっしゃっているのは、全部はもらってない、植民地だから与えられてない。そういうふうなところにすべて起因しているというふうに思います。

 私文系ではないので、つたない文章能力しかありませんけれども、基本的に沖縄の人たちが、本土も含めて、アジアも含めて、そこの中でよりよい生活のパターンを築いていくというそのイメージ、歴史的な流れとそのイメージを持って、前文を書かないといけないだろうと、そういうふうに認識しております。ちょっとそういうことだけ申し上げておきます。


○野原氏  自治権に関しては、与えられるものでなくて私たちが勝ち取るものであると私は思うんです。それだけ1点です。与えられるものでなく、我々が取るということです。


○玉城和宏氏  だから新聞に投書もしましたし、主権在民というのが基本的に我々が持っているんだと、持っているけれども日本国憲法の保護下にないというのが。

 よろしいですか。今の質問に関連しまして。実は僕琉球新報のほうに、文壇のほうで怒り心頭に発しまして、投稿いたしました。そこの中に書いたところはどういうことかと言いますと、フランスの人権宣言に照らして、95年の少女暴行事件と、沖国大のヘリ墜落事件の相似性といいますか、相同性というのをそこでみていまして、そこの中には主権が犯されていて、法の下の平等ではない。それがフランスのほうの人権宣言でいうと所有権。所有権はもちろん命も入っております。そういうところをメインにしながら見ていきますと、実は、例えば95年の少女暴行事件の場合には、犯人が特定されたとしても、アメリカ軍の好意でしか我々警察権をもって調べることはできなかったわけです。それからテレビでごらんになったと思うんですが、彼らは全部軍服を着て列席してましたね。軍服を着て列席をするということは、彼らからいいますと公務中であります。公務中ということは、その上司のほうの司令ひとつで、必要であるということを一筆書けば、日米地位協定の関係で、すぐ引き揚げることができます。そういうふうな部分が、実は主権がない所以です。

 それから、少女の場合には、主権と法の下の平等、つまりウチナーンチュだったらそういうふうな事件を起こしたら、法の下で裁かれるのが、それが裁かれてない。それから、もちろん所有権として、自分の命・身体、それは第一義的には女の子が持っているわけですが、それが踏みにじられている。それから、ヘリの場合もそうですね。沖国大が所有権を持っている建物とか、それから大きい木とか全部やられておりますし、そこの司令官を呼び出して、ちょっといろいろ聞きたいといっても、彼らは出頭しません。つまり、裁判権が及んでないんですね。それからあと、所有権はもちろん蹂躙されておりますし、そうすると三権が基本的に機能してないんですよ。三権が基本的に機能してないところというのは、フランスの人権宣言の16条にありますけれども、それはどういうことかと、そういう地域は憲法を持たないんだと。そうすると、日本国憲法がそこの中にはないということです。しかし、それでも主権を持つということは、自然権として必ずあるんだと。それを僕は認めてないというわけではありません。


○屋嘉比収氏  皆さんのお話を聞きながら、論点が、いろんな重要な指摘ございましたが、いま議論したい論点として一つありましたので、それについて話したいと思います。例えば浜里さんが、前文では歴史的事実を淡々と書けばいいのだとおっしゃいました。一方で玉城さんが、歴史認識の重要性を強調されました。この部分はやはり議論したほうがいいと思います。前文で歴史事実だけを書くというやり方と、一歩踏み込んで前文の中で基本方針を述べると共に、歴史認識まで書くべきだという議論だったと理解しています。


○島袋純氏  多分、濱里さんが言われたのは、事実は事実として淡々と書いて、それは脚色せずに書いて、ですが歴史的な事実というのは重要で、そこから例えば万国津梁、平和な国だったというイメージがあったりするんですが、それとか沖縄戦の悲惨さのそういったものは事実として書いておきながら、それから日本国内においてどういう平和の戦略があるか、あるいはアジアにおいてどういう平和の戦略があるかというのを、積み上げればいいという話だったと思うんですよね。ですから、歴史的な事実として、あまり脚色せずに事実的に書いていて、しかも歴史的な認識から出発するような沖縄のあり方というのを書いていかないと、前文にはその前文の役割が果たせなくなるという意味だったと思うんですよね。これは、特にアジアの中での沖縄とか、日本の中での沖縄と考える時に、我々がした歴史的な体験というのは、非常に重要な問題で、だからこそ例えば先ほどの話なんですけれども、米軍のプレゼンスをそのまま肯定するのか肯定しないのか、絶対悪とするのか、絶対善とするのか、その時、議論になったんですけれども、そうじゃない第3の道というか、基本的に軍隊というものを縮小しながら、軍事的な空白地域をつくるということで逆に公共財として沖縄を浮かび上がらせようという意味ですよね。そうなると、この軍事的な空白地域をもたらすための論拠としての歴史的な事実というものを持ってくると。だから、そこで歴史的な事実と将来への沖縄の像がつながってくるわけですよね。そういう発想の仕方でいいんじゃないかと思うんですよ。


○玉城和宏氏  やはりここで集まっておられる方々は、基本的に沖縄が自治権を有するという、そういうふうな強い願望があるわけでして、過去の歴史からもその自治権は認められてなかったという、そういう形で私は植民地政策という話をちょっとしたんですけれども、そのへんの流れですか、過去の状況の流れで我々がほしいものは、やはり自治権であると、自治権であるから憲法第95条の項目に基づいて云々という形でつながるというふうに認識しているんです。


○野原氏  さきほど、島袋先生がおっしゃったことに私も大賛成です。ああいう形でまとめてくださるといいのかなと思います。それに加え、同じことを言うのかもしれませんけれども、沖縄の自治権を、さっき私も言ったんですが、自治権は与えられるものではなくて勝ち取るものだと思うんですが、沖縄の歴史から出てくる答えとしては、たぶんにこれは私の認識なのかもしれませんけれども、たぶんに自治権を勝ち取るということそのものが、沖縄の歴史体験の中で我々が確認できることは、勝ち取るということは何も相手と争うことではなくて、第3の道で話したように、勝ち負けではなくて別な形で沖縄が自治権を勝ち取るということを、宣言として明確に打ち出したほうがいいような気がしているんですね。内容としてですね。それをどんな文章にするか、私は皆目見当つきませんけれども、勝ち取るという意味が、勝つとか負けるという意味ではなくて、もっと別な形で、我々が文化も含めながら、社会のシステムがいろんな文化のサブシステムとか、経済のサブシステムとか、いろんなシステムがあると思うんですが、それらを全部統合したかたちで何か表現できると、沖縄の体験歴史が自治権の時に大きな意味として、その背景がクローズアップされるのではないかなという気がしています。


○曽根淳氏  皆さんが言われていることは、それぞれ必要なことで別に矛盾はしてないと思うんですけど、やっぱり全体の中での前文の機能というのを考えないといけないと思うんですね。皆さんが言っている思いのたけをずっと書いていくと、本1冊になってしまうので、やはりこれは条文全体で表されるべきところでしょうと。その中で、前文で必要なのは、先ほど島袋さんが言われたように、これからあと位置づけるいろんな、本当の権利を導かせるために必要なものを、ある程度置いておけばいいのかなと。ですから、歴史認識の必要と思われる部分は当然書くべきなんですけれども、それをずっと書いていくと、これだけで終わってしまうので、やはりその機能を考えたボリュームにすればいいのかなと思います。


○佐藤学氏  ま、曽根さんに先越されてくやしいんですけど。もう一つ、今前文の役割ということで、はっきりさせておいたほうがいいのは、これずっと歴史のことを書く(核?)として、そのあとで権利宣言としての前文にするのか、それとも全体の構想を立てるための導入部とするのか、その両方なのかという曽根さんが今おっしゃったことにあわせて、もうそろそろ時間を考えると、前文をどういうふうにするかということを決めないと、屋嘉比先生も困ると思うのでそこのところを今。


○屋嘉比収氏  はい、ありがとうございました。本当に今佐藤さんがおっしゃったような議論を、皆さんに提起いただければと思うんですが。やはり、これは前文の、全体の基本法に関する全体の位置付けの問題だと思うんで、どうでしょうか、今の問題提起に対して。


○島袋純氏  おそらく前文は、A4の1枚で多いほうですよね。ですからこれでやるとしたら、本当に曽根さんが言ったような前文の役割を明確にして、宣言の部分と歴史的な認識というのはできるだけ絞っていって、それで、だけどこれじゃ気がおさまらないという部分があるので、どうしても別に文章をつくりたいですよね。そんな方向で、歴史的な事実とそれから僕はやはりどうしても認識という言葉を使わざるを得ないと思いますよ。我々がどうこの歴史を、この事実を認識しているかという、その部分を書き込んで、それから将来的にはどういきたいかと。将来的にどういきたいかという部分は、また非常に重要になるので、沖縄の自治の未来の像として。ですから、そこの部分は絞りながら、将来像はどういう沖縄の未来像を願っているのかという部分については、また書くと。ですから答えとしては、屋比久さんが書かれたように、1、2、3、4でいいと思うんですけど、この4の中にアジアの中の沖縄というところに、平和に非軍事的な面で貢献できるという点です。しかも先ほど言ったように、軍事的なプレゼンスを前提として善か悪かではなくて、別のタイプの原理をアジアの空間の中でもってくるんだという、その論理を入れていけばいいんじゃないかなと思うんですけれども。


○新崎盛幸氏  途中から参加したので、あまりまだ把握してないんですけれども、前文ですね、やはり曽根さんがおっしゃるように全体構造を、ある意味で示す役割というのがあると思うんです。いろんなお話が出ましたけれども、今の段階ではある程度の歴史やお互い共通している認識はもっていると思うんですね。それで、今の時点で歴史認識をきっちり文面化しなくても、そこをおさえておけば、後でいろんなテーマが出てくると思いますので、そのテーマを全部消化した後に、さらに前文を議論する場がありますから、そこで議論を深めてはいかかでしょうか。全テーマを消化し終えて、また全然違った文面になる可能性もあると思います。前に市町村モデル条例をつくった時も、前文は最後のほうで議論し、結構スタート時点でまったく気づかなかったことも、ひととおり終えていろいろ議論が盛り上がったこともありますし、今の時点でそこまでたたく必要があるのかという気がします。


○玉城和宏氏  やはり、共同のコンセンサスを得るために、野原さんがおっしゃったように宣言の形態、項目の形態ですか、まず項目を挙げていただいて、それでこれとこれとこれは譲れないよねと、そういう絞っていける、例えば重複したり、オーバーラップしたりという思いがたくさんあるはずですので、権利宣言あるいはそういう形、その時に私自身の感じとしては、住民の熱意というか、そういうものをかもし出すような、檄文ではないですけれども、それに近いようなことが必要だと思うんですよ。それを入れることが可能かどうかという、そういうこともあとで議論していただければと思っております。


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