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沖縄自治研究会
復帰時の沖縄自治州構想について 下
先生は、30数年前に提唱された沖縄自治州構想について、間違ってなかったと思うとおっしゃっていますが、私もそうだと思います。
いま沖縄を含めて日本全体が道州制に向かっています。先生が30数年前に提唱された構想は歴史に残る構想だと思いますけれども、これそのままで今日の道州制論議に有効でしょうか。それとも、先生は副知事もなさった経験もありますし、これから沖縄の現実政治に適用しようとすれば、琉大教授時代の構想は修正すべきだとお考えでしょうか。
○比嘉幹郎 私の昔の論考は、紙面の都合や私の能力の限界もあって、やはり、具体性に欠けていると思うんですね。それは、中央政府と沖縄県との関係、より具体的には行政機能や権限の配分、財政問題などいろいろあろうと思うんですが、ただ、そこでは政治学者としての基本的な政治姿勢というのを強調した積もりです。その点では間違っていないんじゃないかなと思っています。
ただ、具体性に欠けるというか、いろいろ地方自治の問題がありますから、それをどのようにするかというのはそれぞれの分野の専門家たちが調査、検討して提言しなければならないと考えていました。結論的に言いますと副知事を経験しても基本的な姿勢にはかわりはありませんし、最近の政府の動きを見ていると、かえってその姿勢が強化されたのではないかと思うくらいです。
○司会(江上能義) 先生の論文を少し離れまして、これからの沖縄の将来についてですが、今、沖縄は道州制に対する対応を迫られていますけれども、それについてはどうお考えですか。
はっきりいって今のままだったら、沖縄は小さいので九州と一つになったほうがいいとか、沖縄の経済界では、できたら一番お金のある東京と一緒になりたいとかの意見が出ていますが、いかがでしょうか。
○比嘉幹郎 この点については、コンセンサスができているんじゃないかと私は思っているんですね。つまり、沖縄県は単独で一つの自治体・州にならなければならないと。その前提として、沖縄は、日本の中でも地理的、歴史的、文化的にも特殊な地域ですので、九州は一つと言いますが、交通、通信などの発達で、実際その特殊性を踏まえて一個の独立した特別県にしなければなりません。ある意味では、九州各県とはだんだん離れてきているという気がしますよね。例えば交通の便や仕事の上で東京のほうが近いんじゃないかなという感じがする。かつて沖縄県は、鹿児島県や熊本県と行政連絡会議を定期的に持っていた。これももう必要ないといってなくなってしまった。自然現象の面でも遠いということで、天気予報でも九州・沖縄と分けていますよね。また沖縄は、陸地面積は非常に小さいけれども、海域を含めれば日本で一番大きいですから。この広い海域を確保しておくだけで日本全国に貢献することができると思いますよ。
私のもう一つの持論は、日本の国際化は沖縄から始まるということです。徳川時代の鎖国政策撤廃もそうだし、ある意味では第二次世界大戦でも沖縄を拠点として日本本土を攻略し、軍国主義日本に終止符を打った。これからも沖縄を出発点として日本全国が変わるんじゃないかと思っています。
従って、自治の問題でも、沖縄がモデルになって日本を変えていけばいいんじゃないかなと考えています。
○司会(江上能義) どうもありがとうございます。
話は変わりますけれども、早大の私どもの大学院(公共経営研究科)に、ジェトロのシンガポール事務所に4年間、勤務した女性の方が在籍して学んでいますが、その彼女が「沖縄は国際交流、国際交流とよく言うけれども、港にはガントリークレーンがたった一つしかない上に、国際線もごくわずかしかないのに、よく国際交流の拠点なんて言えますね」と話していました。 「それはやはり、これまで沖縄が巨大な米軍基地を抱えてきたのに、まったく自分の権限を持てないで、中央政府のいいなりになってきたからこうなったんじゃないですか。沖縄が一国二制度的な自治権を持っていれば、沖縄の現在の姿は相当、変わったんじゃないですか」といわれて、私は返答に窮してしまったんですが、先生はどう思われますか。
○比嘉幹郎 そうですね。一国二制度を採用し、日本政府も行財政面で支援し、沖縄に自治権を持たしたら、港湾や空港なども整備され、貿易も国際交流も盛んになると思います。
この頃言われている、何々特区とか一国二制度とかいったのは、まさしくそうじゃないですか。沖縄自治州とか、特別県とかいうのは、そういったものの政治版です。
しかし、折角特区や自由貿易地域をつくってもあまりにも政府の制約が多すぎる。私が副知事のころ、自由貿易地域を那覇市の米軍港の隣につくり、当初は申し込みが殺到しましたけれども、制限が多すぎて企業は徐々に撤退して、これはやはり中央政府の官僚の全国画一的なものの考え方を基本にした発想なので、やはり規制が厳しくなる。門戸を開いて外資導入を積極的に進めなければならない。
復帰以前にアメリカのアルミ企業が入ろうとしたときに、日本のアルミ企業組織が政府にプレッシャーをかけて、とうとうやめさせたこともあります。また、石油の輸入もアメリカのメジャーがちゃんと沖縄を守っていました。だから、沖縄独自のやり方をさせればよかったけど、やはり中央の統制下に置かれると非常に難しくなる。教育面においても、例えば、私たちは琉球大学の先生でしたけど、米統治者に言わせると、大学の先生の給料はもっと上げないといかんということでした。しかし、復帰の時点で、文部省は沖縄における大学の先生の給料は高すぎるので調整しようと言い張り、数年かけてだんだん下げたんですよ。そういったことですから、自ら決めて実行するという地方自治の本旨に基づいて行政を進めなければならない。全国の一環としてやり画一的になりがちなものですから、貿易や国際交流なども非常に難しいですね。
○質問者(潮平芳和) 琉球新報の潮平と申します。
1971年の論文では、開発庁、総合事務局に関して割と否定的な立場、見解をお持ちだったようですけれども、実際に副知事も経験された後から今日のこれまでの沖縄振興の歩みをご覧になって、開発庁あるいは総合事務局の功罪について、どういうふうにお考えか、あるいは考えが変わったのかどうかをお聞かせください。
○比嘉幹郎 大変、微妙、複雑で難しい質問ですね。ある意味ではよかったかもしれませんけれども、ある意味では良くなかったと思う。
というのは、総合事務局とはいうものの日本官僚制の一つの特徴であるセクショナリズム・縦割りの弊害がみられた。各省庁からの出向ですから、その出先機関みたいなものなんですね。例えば土木建築部の用務だったら、総合事務局の担当官のところへ行き結局は建設省に行くとか、こういった形になっていた。だから、総合的にやろうとしても縦割り行政になって、総合事務局の段階で総合的な企画ができない。予算の獲得にしても、知事のほうが自由裁量でもって優先順位を決めてある政策を推進しようとしても、省庁内の調節が難しい。
そればかりではなくて、沖縄の場合には基地問題を抱えているんですね。基地の担当はだれかと言ったら、総合事務局にはいないと言うんだな。開発庁に行きますと、うちの管轄じゃないと言う。外務省か防衛庁の所管だと逃げる。その後、次第に事情がずいぶん変わり、現在では沖縄振興計画では基地問題も含めて考えていますね。まさに隔世の感がします。
第2次振興開発計画の策定の段階で文言の調整にかなり難渋しました。米軍基地の計画的整理縮小を主張し、その「計画的」という語句を入れるために大激論しましたが、結局受け入れてくれませんでした。
また、首里城復元の問題で、今は復元されたから誰も問題にしませんけれども、当初、開発庁に行ったらどこの県が、県の城を政府の金で復元したかと言う。沖縄県は特別だと。なぜ特別かといったら、もし首里城の下に日本軍の司令部がなかったならば、京都、奈良みたいに残されていたはずだと。何言っているんだと。いや、だれがそう言ったかと聞くので、米軍が空からビラを落としていましたと言ったら、そのビラ持ってこいと。開発庁でも、文化庁でもさんざん言われたことを今でも覚えています。
その反面、よくやってくれる省庁もありましたけどね。だから、総合事務局や開発庁自体の問題というより、担当する役人の問題と言えるかもしれませんね。例えば62年の沖縄国体がありましたね。国体は実現したけれども、その実現にこぎつけるまでには、随分苦労しました。国体をやりたいと言ったら、文部省の横柄な一課長が、若夏国体というのがあって沖縄はやったんじゃないかと。あれは復帰の特別国体であって、本格的なものじゃないと言ったら、何を言っている、あれも国体だよと言って。それで、しょうがないから当時の大里喜誠沖縄県体育協会会長と相談して別の角度から攻めていろいろ交渉して、やっと実現したんですよね。先の首里城復元の問題でも、しょうがないから外堀を埋めようと西銘知事と相談して、城の周囲の塀をつくってだんだん攻めてきて、政治的配慮でやっと実現したようなものでね。
このように、中央政府との関係でかなり厚い壁がありました。開発庁の中には、親身に沖縄のことを考えてやってくれた人もおりますけれども、しかし一般的に官僚というのは、なかなか思い切ったことをしないし、2,3年無難に過ごして異動します。
だから、私は沖縄総合事務局や沖縄開発庁が沖縄県民の要求を抑制する機関になるのではないかと懸念したのです。米国民政府というのがありましたね。しかし、それはある意味ではよかったと思います。どういう意味で良かったかというと、アメリカでは現場主義というか、ワシントンから遠く離れていても、地元の意見を尊重するわけですよ。しかし、日本政府の場合はそうではない。地元の事情はわからんでも必ず東京に持ち帰って東京で決定する。日本とアメリカを比較すると、日本の場合には権限や機能の委譲があまりなされていないと言うことです。
現在では、通信技術も発達しているから、もう政策決定も東京に持ち帰えらなくてもできるかもしれませんね。
○司会(江上能義) それと関連しますが、いま沖縄1次振計、2次振計の話がありましたけれども、沖縄振興開発計画は沖縄県知事が作成して、すなわち最初の発案者は沖縄県知事ということになっています。でも、いま先生がおっしゃったように、沖縄県はやはり縦割り行政の総合事務局との調整で大変なエネルギーを必要としたのではないかと思われます。
それと、その県のイニシアチブというのは、実際にはどの程度あったんでしょうか。
○比嘉幹郎 皆さんもご存知のように、「調整」という言葉、英語ではコーディネーションと言うんですが、これは行政での一番大事な原則なんですよ。調整というのは、いろいろな意味で使われる言葉です。行政にはほかに監督の限界など、いわゆる原理と言われるものがありますが、調整というのは最も大事なもので、復帰以前は琉球政府と米国民政府の間で政策策定・執行をめぐり事前・事後調整がありました。
しかし、まず日本政府の場合には、そのような弾力的なものではなく、文
書で事前にちゃんと調整しなければいけない。振計などは一語一区厳しくチェックし、事前に了解してもらって、県の案として提出します。行政で記録を大事にするということは結構ですが、事前の調整をやりすぎて、もともとの提案者の声は記録には残らないのです。
それで、かなりすりあわせというか、根回しというか、そういったことが非常に重要視されて、こっちがこうしたいと思っても、やはり一応お伺いは立てて、事前に調整してから案を出すということでした。
ところで、復帰後、10年毎の振興開発計画、1次振計、2次振計、3次振計がありました。その大きな柱は格差是正と自立的発展の基盤整備でした。この二つだったんですが、格差是正して全国画一的に本土並みになるよりは、そろそろ、沖縄らしさも出したほうがいいんじゃないかということで、格差是正が次第に影をひそめて沖縄の特殊性を活かした振興が強調されるようになりました。
第2次振計を一語一区じっくり読まないと気づかないことですが、その中に「国の責務において」という文言を入れるのに随分苦労しました。この振計の策定と推進の責任者は日本政府か、それとも沖縄側か、これは最も基本的な問題でした。結局、開発庁を説得して「国の責務において」という文言をいれてもらいました。
その他、調整された官僚用語はたくさんあります。促進するとか、推進するとか、主体的に自分が推進するときは推進すると。側面的には促進。こういった一言一句、調整したんですよ。
そういったことで、行政官も大変苦労します。日本は日本のしきたりで、予算獲得のときも復活のときも形式的な調整もありますよ。これは最初からお膳立てされて、このごろは少なくなったようですけど、以前は局長段階とか大臣段階とか決まっているようでした。マスメディアの記者の皆さんがよくご存知だと思います。
○司会(江上能義) 言葉から何から何まで固めるまでに相当、県側と総合事務局側で調整した。でも、固めたら修正ができない、大変難しいということですね。そのとき、やはり県側から総合事務局に持っていくんですか。
○比嘉幹郎 問題があれば、どちら側からも持ち寄るのですが、修正することは大変難しいということです。
○司会(江上能義) 話は変わりますけど、下河辺さんに昨年、インタビューしたら、最初の沖縄振興開発計画である第1次振計の作成にあたっては、琉球政府が作った案をそのまま飲んだというふうにおっしゃったんですが、そんなことはあり得ることでしょうか。
○比嘉幹郎 しかし、復帰準備室というのがありましたからね。準備委員会の中に、日本政府側とアメリカ政府側、そして琉球政府の代表がいましたので、三者でいろいろ検討されてから1次振計も策定されたと思います。やはり琉球政府が出したものをそのままというよりは、日本政府ともかなりすりあわせしたと思いますよ。
というのは、私たちは今このように自治州論議をやっていますが、このような議論が当時報道されていないということからして、日本政府側の意向がかなり入っていると思うんですよね。
準備委員会のアメリカ代表と私は話した事がありますが、私の英語で書かれた論文を読んで日本政府に対する批判的部分は、復帰後に困るだろうから、少しトーンダウンして書いたほうがいいよと言われた事もありますけどね。
○質問者(島袋純) 連邦制国家の基本的原理なんですけど、構成国家、いわゆる州ですよね。州がすべて主権を握ると。それで、原則として書かれてないことはすべて州に属する。アメリカ憲法なんか特に典型なんですけれども、連邦政府には17カ項目限定列挙的にその権限を州から委ねると。州から委譲するという方式ですよね。
ですが、日本国は要するにユニタリィスティトで体制国家を原則としていて、それで日本国憲法に基づけば、実を言うと連邦制というのはできにくいというか、できないような原理にならざるを得ないと思うんですよ。
それで、復帰前、やはり沖縄自治州あるいは対等合併といっても、日本国憲法の中に入るのであれば、結局、連邦制は導入できないと読まざるを得ないという部分があると思うんですね。
要するに、沖縄が主権を持つ、一国の小国となり得ると。だけれども、一定の権限をアメリカ合衆国の憲法みたいに17カ条か共通政策をつくって譲渡すると。そういう形式で契約を日本と結んで、復帰したらもちろん連邦国家的なものになるかもしれませんけれども、当時単に日本国憲法の中に入る、その中で考えられる最大の権限というときには、連邦制度ではない特別県制的なものにしかならざるを得ないということに、どうしても論理的にはなると思うんですけど。
その点については、幹郎先生ご自身はその連邦制というのは本当にアメリカ的な連邦制なのか、それとも特別県的なものを考えているんですか。
○比嘉幹郎 言葉のあやで、そういったほうがわかりやすい、手っ取り早いだろうと思ってやったんですが、もちろんアメリカの合衆国は、日本と国づくりが全然違いますからね。だから、連邦制といったことは考えておりませんでした。先ほども言ったように、州のほうが憲法も持っているし、いろいろなことをやって、州が委ねるだけが連邦政府の権限ですよね。一方、日本の場合、もともと中央集権体制なのでその中で最大限にどういったことができるかを考えました。憲法の中に地方自治の本旨が謳われていても、それが必ずしも明確ではないので、住民自治という立場から最大限の権限と機能を沖縄が保持するという特別県を考えました。
日本復帰したら、日本政府に依存して経済的によくなるとかいうことはあまり考えませんでした。いろいろな比較するものだから不平不満はでてくるので、自治や自立を優先的に考えました。自分たちで自治体をちゃんとやっていくんだということで、経済面はそれ相応の発展を甘受しなければならないと思いました。米軍基地の問題もそうなんですけれども、自分たちで決めていくと。これが一番大事なことじゃないかなと思いました。だから、日本では現在でも道州制が論じられておりますが、アメリカのような連邦制は難しいと思いますよ。ただしかし、地方分権をどこまで推し進めるか。これが大きな問題ですよね。
○司会(江上能義) 今、わが国では憲法改正論議が盛んなんですけれども、どうせ改正するのであれば、こういう道州制とか連邦制とかの方向に憲法改正すればいいんですよね。
そういう声がなぜか出てこないんですね。そのへんのところがやはり日本の政治が未成熟なところじゃないかなと、私自身はそう思わざるをえない。ほかにどなたか質問がありますか。
○質問者(曽根淳) 沖縄県の曽根と申します。
まず、きょうは本当にありがとうごました。
自分は復帰の頃は小学生だったので、単純に独立論があるのは知っていたと思うんですが、こういう住民自治を求めた論文があったということを最近まで存じ上げなくて、これを初めて読んだときに非常に感動しましたので、それをまずお伝えしたいと思います。
あと、二つほどお伺いしたいんですが、当時こういう論文を書かれて、実際の世の中の、さっき実践というお話がありましたけれども、例えば政治に対してこういう自治をやったらどうかというようなコミットメントというか、働きかけをされたのかどうかということと。
あと、今改めてこの自治を沖縄で実現するためには、沖縄県民全体の精神的な合意が必要だと思うんですけど、大国に対していろいろとこれから議論していくためには、やはり政治状況というのも、ある意味変わっていかなければいけない部分というのがあると思うんですね。
先ほど縦割りの話があったんですけど、戦前の沖縄の政党を研究されて、
戦後沖縄の政党というのはみんな縦割りでこの国の政党の傘下に入ってしまった。単純にそうではないところもあるんですが、これによる弊害というのがあると思うんですけど、新たに沖縄自治を考えていくときに、一般レベル、行政レベル、それから政治レベルで、全部で議論していかないといけないと思います、そのときに沖縄の政治というのが、先ほど権力奪取を求めて自然発生していくという話があったんですけど、沖縄の自治を求めて何か変わっていく部分というのはあり得るのかどうかということをお伺いしたいと思います。
○比嘉幹郎 二つの質問があったと思います。この報告会冒頭で学者の役割について述べました。まず一つは政治現象の分析、批判。それにとどめるというものの考え方。それから一歩進んで、提言、そしてさらに行動を起こすこと。私は、一政治学者として、沖縄の復帰のあり方を分析、批判、そして提言までしました。それを行動に移す時間とエネルギーはありませんでした。それでも、沖縄の長い歴史からみて、復帰の時点で沖縄州あるいは特別県にするのは千載一遇の好機ではないかと考えていました。しかし、当時は琉球大学の教授は公務員で、表だった政治活動は難しかったと思います。
あと一つの質問は本土化された沖縄で自治を実現することの問題ですね。これは非常に難しい質問ですね。政党だけでなく、商工会議所や労働組合、その他社会団体が系列化されました。そのような状況下で特別県制にするにはどうするか。やはり、県内の各界各層で充分議論して合意形成を図らなければならない。沖縄ナショナリズムの台頭になるかも知れません。しかし、道州制は全国民的問題ですから、これを効果的に進めるためには全国民的なレベルでものを考えないといけないと思うんです。これが非常に難しいんですね。やはり本土と沖縄との認識のギャップがあると思いますから。他府県の人々の理解と協力も必要です。大変難しいけれども、自治県制を実現するために最大限の努力をしなければならない。実現すれば、沖縄の政治、経済、社会などあらゆる面で大きく変わってくると思いますよ。沖縄特別県政が実現すれば、他所との系列下を脱却して、県政内独自・独特の権力闘争がみられるようになるかも知れません。
○質問者(高里鈴代) あれは1989年、平成元年でしたか。参議院に喜屋武さんと対立してお出になったんですが。午前中は、下河辺さんのことを学んだときにヒストリー。沖縄の歴史というのがどういう形で動いていくのかというのも考えるきっかけになったんですが、あのとき参議院に比嘉幹郎さんが当選していたらどうだっただろうとふと思ったんですけれども。
印象として、こういうふうな独立論、独立州というような、それこそオプリティカルサイエンス的にきちっと考察なさりながら出されている状況の中で、ずっと私たち普通の沖縄県民の印象は、比嘉幹郎さんは学者でもあったけれどももう保守の人だというような、そういうずっと印象のほうが強くて、こういう客観的なもの、あるいはそのとき、質問は書かれたことで、学者でもあるわけなんですが、どういう沖縄県民の反応と言いますか、支持や反発はそういうものがあったのか、これを発表されて共感を得られたのか、むしろ反発が多かったのかということと。
その後、副知事などもなさりながら、どうしても保守施政、県政の中にいらしたわけなんですが、持っていらっしゃることをどういうふうに展開されようとしたか。そのとき何かご苦労があったり、エピソードがありましたら伺いたいと思います。
○比嘉幹郎 私のこれまでの歩みに対する批判を含めてのなかなか難しい問題ですね。私の基本的なものの考え方や思想はこれまで発表した論文を読めば分かると思います。私が立候補した1989年の参議院選について言及されていますが、ご存じのように選挙というのは、その時々の情勢にかなり左右されます。
この選挙の最大の争点は消費税導入問題でした。私は消費税には必ずしも賛成ではなかったけれども、自民党の公認だったので、当然のことながら消費税に賛成する候補者とみなされ、大失敗でした。支援者の強引な意向で立候補したが、それはちょうどカマキリが路線に立って、電車を止めようとする図だったと思う。(笑) しかし、あえてそんな時でもやらんといかん場合があるわけですよ。リーダーに選出されるには、リーダーの資質だけでなく、やはり状況判断も大事なのです。
私の著書や論文については、それぞれ読者の評価に任せたいと思います。つぎに、副知事時代のことですが、自分としては政治学者として実際の行政も体験してみたかったし、また県民党的立場で職務に励んだ積もりです。
保守県政でもいろいろな意味で県益を推進することができます。例えば米軍と交渉するにしても、「基本的には敵意に囲まれた基地は効果的でない」とはっきり言いました。それはだれの言葉かと聞かれたので、ダレス元国務長官の言葉だと答えました。それで、アメリカ側も理解しているようでした。夜間演習を始めたときは、照明弾を上げると私たち県民は沖縄戦を思い出し嫌だからやめろと抗議したし、演習で残っている不発弾はきれいに片づけてくれと何度も言いました。そしてまた現場主義というか、現地の司令官の意志で決められる政策もあるのでいろいろ折衝もできましたしね。
ともあれ、なかなか思うようにいかないこともありましたが、やはり基本姿勢は崩さない積もりでした。いわゆる保守とか、革新とか言っても、それほど大きな差はないんじゃないかと私は考えています。革新といっても革命を起こすわけではないし、保守といっても反動ではない。漸進主義というか、ものごとを徐々に変えていくのが保守のものの考え方で、それはある意味では革命を先取りするようなものです。革命を起こさないようにちゃんとやるということです。
基本的にはそういった姿勢というものを持ちながら、日常的行政事務に取り組みました。大きな政策決定や幹部人事などは西銘知事がやりました。私は過去の経験を活かして人材育成や国際交流に力を入れました。
しかし、やはり基本的には保守といえば保守でしょうね。伝統や祖先を崇拝するし、漸進主義者ですから。革新といえば、理想を掲げて大上段に構えて交渉しその中から譲歩を得るということでしょう。保守、革新双方の姿勢が時と場合によっては必要ではないかなという感じがしますね。例えば今、日米地位協定改定の問題があります。これは安保条約に基づいてやっているんだから、安保を破棄すれば終わり、問題はなくなるんじゃないかと。とは言っても、現実的にはいろいろ問題があるんだから、これらの問題を解決しなければならないので、地位協定改定の実現に向けて努力しているわけです。
○司会(江上能義) あと先生、沖縄自治州構想への県民の反応はどうでしたか?
○比嘉幹郎 それほどなかったんじゃないかなと思います。復帰という世替りに0殺されたんですかね。でも私は学者の義務として少なくとも啓発活動はやらんといかんと思いました。こういったことはちゃんと記録に、記録は大事ですから残しておかんといけないと思って書きました。また、日本地域開発センターなどの主催でシンポジウムをしたことも覚えています。それでもあまり反響はなかったと思います。
○司会(江上能義) それは、やはり復帰を目前にして、いろいろなことを急いでやらなければならなかったので、県民の関心がそこまでまわらなかったんですか。
○比嘉幹郎 そうでしょうね。やはり復帰ということが、当面の大きな関心事で、それを自治と結びつけて我々が解釈するようなことは考えなかったのでしょう。とにかく異民族支配からの脱却というのが大目標になっていて、日本政府がどうのこうのとか、地方自治はどうなっているんだとか、けちをつけたり批判などすると、かえって復帰運動の足を引っ張るように、考えたんじゃないですかね。
そういったこともあって、とにかく復帰を理想化していた。日本国憲法の適用を受けるのだと考え、その憲法には民主主義も自治も人権も保証されているんですからね。ただ、現実的には、本土では憲法に反する逆コースを歩んでいると分かっていてもね。
○質問者(比嘉俊雄) 浦添市から来ました比嘉俊雄と申します。よろしくお願いします。
今、経済不況の中では、なかなか自治権の確立とか、自治についての議論となりますと、なかなか出しにくい状況があるんですね。
しかし、今、沖縄はどちらかと言いますと、市町村段階でも県もそうだと思うんですが、いかに本土政府からお金をもらって何々をつくるんだというような、どちらかと言いますと振興策に溺れているような感じがするんですが、その状況等についてはどのようにご判断なされますでしょうか。
○比嘉幹郎氏 これも非常に難しい問題だ。やはり振興策というのは元来、自立発展の基盤整備のための政策です。だから、沖縄は長期的視点に立って、何をしなければならないかを考えなければならない。何でもかんでもくださいという根性を起こしたら困ると思うんですよ。そうではなくて、長い目で見てこれが沖縄の将来のためになる、そして持続的な発展に寄与するものを重点的に選択して要求しなければならない。
しかし、困ったことに制度上の規制があってはなかなか思うようにいかない。振興策と言うけれども、現実的には制度的に許される範囲内で出来るだけ多くの予算を中央政府から持ってくることにあくせくしている。
また、制度上裏負担というのがあるので、市町村の段階で事業をするにしても裏負担しなければならない場合もある。
政治というのは所詮駆け引きですから、やはり自分がこう思ったらこれをやるということですから、駆け引きは大いにやってもいいんだけれども、ただ、制度的に束縛されてやるのは問題ではないかと思いますがね。
○質問者(照屋寛之) ちょっと話戻るんですが、先生のお話の中で、中央公論に発表なさって、そんなに反響がなかったとのことですが、中央公論としては、先生あるいは久場先生、いろいろな先生方にこの自治州の基本構想みたいなものを書かせたということは、その時、それを受け入れるまで土壌はなかったけれども、そういう土壌をつくりたいという先駆的な考え方で、中央公論はいろいろな企画をなさったんですか。
○比嘉幹郎氏 中央公論としては、これは特集ではないでが、やはり当時沖縄問題を皆さんは意識して沖縄の識者の意見や分析を発表しておくべきだろうと考えたんじゃないですか。そこで私は沖縄自治州構想論を主体的に書いたのです。そういう土壌づくりを企画していたとは思いません。反応も大きくなかったと思います。そういった考えもあったかもしれませんが、それは向こうの意図ですから、それはわかりません。
○質問者(照屋寛之) 「世界」とか「中央公論」からするとこれまでの沖縄のように本土政府の言いなりにはならないで、沖縄独自で自治構想というのは考えなさいというか、自己決定できる沖縄あって欲しいという沖縄へのメッセージであったとも解することもできるのではないでしょうか。
○比嘉幹郎 沖縄問題といってもそれほど知られなかったもので、やはり復帰するからには沖縄の人々の考えているのはどんなことかというのを国民に知らせたかったと思います。
今は沖縄関係の図書や情報も多すぎるぐらいですが、当時はまだまだ少なかったですよ。
○司会(江上能義) ちょっと補足させてもらいますと、これは私の個人的考えですけれども、沖縄側のこういった比嘉先生をはじめとする沖縄自治州論といった地方自治強化論を支援するような考え方というのが、日本本土側にも当時、あったのではなかろかと思います。
それは、思い起こしてもらえればわかるんですけれども、美濃部都政が1967年に登場しまして、屋良革新主席の登場はその翌年の1968年です。その当時、美濃部さんだけではなくて、あとに大阪では黒田府政が登場しますね。1960年代後半から1970年代にかけて革新自治体がどんどん出てくるんです。これは中央集権体制への批判ですね。
そして、革新自治体によって日本全体を変えるという、時期的には第2次自治体改革と言われる流れの中で沖縄のこういう問題を考えると、実は『中央公論』がそういった地方分権や住民自治の趨勢を反映させていたのではなかろうかなと思います。
○質問者(照屋寛之) 当時、沖縄は米軍統治下にあり、いわゆる本土とは違った政治行政システムをとっていた。これを復帰に際して特別自治州として沖縄側から主張することは自治の視点から極めて意義深いですね。
○司会(江上能義) そういう部分も私はあったんじゃないかということです。それで沖縄から主張しているのも取り上げて、それを先生がおっしゃったように、沖縄の自治体構想を日本の地方分権民主化の突破口にしようという、そういう主張に共感するような、そういう土壌が少なくとも『中央公論』の編集部にはあったんではなかろうかと私は考えます。
○質問者(屋良朝博) 沖縄タイムスの屋良です。よろしくお願いします。
復帰の前から自治州という考えをお持ちの先生が、県政の実務を経験なさって、政治も詳しく、今も自治州への思いは変わられてないというお立場で、沖縄県にとって最も有効な次の一手は何でしょうか。自治を実現する上で。
○比嘉幹郎 基本構想を具現化するためにこの研究会があるんじゃないですか。(笑)皆さんがどうするか研究していただきたいと思います。例えば、財政面はどうするか、今日これから皆さんは地方自治体の財政について勉強すると聞いています。
私の考えでは、自治を実現する上で沖縄で一番大事なことは、やはり県および市町村の中央政府への依存体質を改善するための行政改革だと思います。より具体的にいいますと、その改革は、肥大化した組織や機能のスリム化と行政の効率化を含みます。
この行政改革を進めないといけない。無駄が多いと思うんですよね。例えば、県と市町村の議会議員の数や一般職員の数が多すぎるので、その数を削減するとか、民間ができることは民間にまかすという機能のスリム化などが必要です。
このような行政改革を通して、最小のコストで最大限の効果を上げる、効率的行政を実現できるでしょう。
今から皆さんが、沖縄における自治はどうあるべきか具体的に研究して、この面はどうしようか、これはどうするかということでいろいろ研究して欲しい。とにかく、沖縄にとって一番大事なことは、中央政府への依存体質からの脱却ではないかと思います。
○司会(江上能義) それは、現実に無駄の多い地方自治体から、そういったものを足下からちゃんと直すことから始めようということですか。
先生は今、ブセナリゾート株式会社の社長ですが、その立場から官を見て、非常に無駄が多いとお感じなのですか。
○比嘉幹郎 はい。ある意味ではそうです。法的規制もあって、民間が能率的にできるものでも民間に委託されないばかりでなく、公行政が逆に民間企業の足を引っ張っている事例も少なくないと思います。
○司会(江上能義) 行政のほうから足を引っ張るんですか。
○比嘉幹郎 そういったところもあります。例えば外郭団体が数多くありますね。社会の変化に対応して不必要あるいは非効率的な外郭団体は整理する必要があるんじゃないかなと思います。土木建築産業や観光産業などの分野でも抜本的な見直しが必要でしょうね。例えば、住宅公社は民間の宅地建物取引協会とタイアップし、観光コンベンションビューローは民間の観光関係企業と調整して、その基本的な役割を見直さなければならないと思います。
しかし、そうかといっていきなり生首を切ってからみんな辞めさせるわけにはいきませんね。だから、沖縄県もやはり中央と同じように民間ができることは民間にさせるという基本原則で、もう行政改革をじゃんじゃん進めていかなければいけないんじゃないかなと。
それは、ほかの分野でも私は言えると思いますよ。
○司会(江上能義) 次に稲嶺知事に会われたら、そこのところを強調して話していただきたいと思います。
○質問者(前津榮健) 沖縄国際大学の前津です。
私は、1974年の琉大の入学で、先生の講義を数回聴講したことがあります。きょうは勉強させていただきました。ありがとうございました。
1点だけお聞きしたいんですけれども、先生は、沖縄州は軍事外交などに関する特定の権限以外はすべて持つべきだとお考えですか。
○比嘉幹郎 基本的にはそうです。具体的には検討が必要です。
○質問者(佐藤学) ……それで、先ほどもお話があった革新自治体の時代があって、それを受けての中央公論がということのお話なんですけど、私、当時まだ子供なので、はっきりわからないんですけど、革新自治体を支えた政党は何を考えていたかというと、票勘定をもっぱらやっていたというように、知事なりあるいは政令指定都市の首長をとるという形ではその革新自治体をバックアップするということはやったけれども、果たして自治制度から変えていくということを、社会党なり共産党なり当時の革新自治体を支える政党がやったかというと、私はそういうことなかったと思うんですね。
そうすると、こちら1971年の沖縄自治州構想論は本当に非常に衝撃的だと思うんです。そのとき恐らく県外でこういう議論をされた方はあまりいないのではないかという。
あと、特に沖縄自治体の設置が日本国全国の真の意味における地方自治を押し進める突破口となるだろうという。これを、この時点でこういう提言されているというのが、私は本当に恐らくはこれ東京の側は受け入れるだけの準備がなかったり、あるいは提言の意味がわかる人が少なかったんじゃないかという、そんな気がするんですね。
あるいは、いわゆる革新政党が沖縄返還に関して何を考えていたかというと、恐らく自治制度のことを考え、要するに反米、ベトナム戦争の時期ですから、恐らくそれが大きかったんだろうと。そうすると、恐らく指摘されたことは早すぎたのかなと。
あまり反応がなかったとおっしゃっていたとことは、多分、先駆けすぎたことだと。だから、今お読みしても全然古びているわけじゃない、あるいは私たちが議論していることも、ここに書かれていることを今でも30何年たって議論しているようなことがありますので。
ですから、先ほどの話を引き継ぐと、その革新時代ができたことというのは、必ずしも1971年、72年、このころの議論を受け入れる準備になってなかったんじゃないかということをお話ししたかったということです。
○司会(江上能義) 私たち本土の人間から見たら、非常に進んでいて時期が早すぎたんじゃないかと思います。逆に言えば、我々の母体である日本本土がすごく遅れていたということですね。
沖縄自治州構想を書かれた比嘉先生方の感覚からすると、中央集権の強い日本の地方と比べて、自治権とか地方自治とかは当時の沖縄のほうがはるかに進んでいた。米軍相手に戦って勝ち取ったそういう経験からして、沖縄のほうが進んでいるのに、それなのに住民自治の劣った日本政府の下に帰るという人々の不安感というものがあったと思いますね。
○比嘉幹郎 評価していただき、どうもありがとうございます。
佐藤先生には、きょうこんな形で初めて会うんですけれども、お父さんの佐藤竺先生はもう日本の行政学会で大物でございまして、私もかつて行政学会の一員でしたのでよろしくお伝えください。
それはそれとして、やはり沖縄がこれだけ言えたということは、それだけ自治権獲得のために苦労しているわけですね。例えば、琉球政府の行政主席公選というのがありましたね。日本本土では知事を苦労せず直接選挙で選ぶ制度を与えられたわけですけど、沖縄はそういったのがなかったわけですよ。米軍の任命制から立法院の過半数の議員が賛成して選出する間接選挙になって、直接選挙そのものを1968年に勝ち取ったわけですけれども、それまでに至る経過を体験したわけです。やはり民主主義というのは、そういったプロセスが非常に大事だと思います。だから、前に話した日本中央集権体制の中核である官僚制についても、天皇の官吏から国民全体の奉仕者へと、戦争に負けていきなり制度が変わっても意識はそう簡単に変わるはずがない。やはりプロセスが大事です。
○質問者(江洲幸治) 比嘉先生、きょうはどうもありがとうございます。沖縄県庁で今、道州制を勉強しなさいと言われまして、本日は一個人として皆さんのお仲間に入れさせていただこうと思っております。
実は、先生が中央公論に書かれたことは、今でも適用するどころか、行政の中でますます中央からの分権でなくて集権が強まっているなと感じております。その中で沖縄がどうやって自治を拡大するかという言い方が適当かどうかわかりませんが、沖縄らしくこれからどう生きていくかということをいつも考えているつもりなんですけれども、先生にお願いがあります。
例えば、今道州制が第28次地方制度調査会に入りました。北海道がこの前4月の初めに自分たちの案を出してきました。ただ、沖縄と北海道は似ているようで全然違うものですから、我々ふと考えますと、沖縄の場合は先生がおっしゃったように極めて特異な経過がありまして、道州制の中で考えるべきなのか、あるいはこの際、連邦制ということを考えたほうがいいのか、あるいは先生がおっしゃるような、沖縄特別自治体のようなものを今一度改めて考えていったほうがいいのかということで、特に先生からお聞きしたいのは、どういうイメージを我々今後持っていって、さらに、私は行政のほうにおりますので、これをやはり皆さんのこうやって研究されている形をいかに反映していくかということも一つの役目なのかなといった場合に、戦略的な意味も込めましてどういうステップを踏んでいったらいいのかということで、アドバイスがございましたらお願いしたいと思っております。
○比嘉幹郎 そうですね。同時並行的にいろいろ研究を進めないといかんでしょうね。というのは、どういったことかと言いますと、やはり中央と地方の関係、どうあるべきかですね。県庁と政府の関係、そしてまた県庁と地方自治体、市町村の関係、そういったのはどうあるべきかと。
しかし、今、行政改革でも進められているように、地方分権の時代と言われているが、これをどこまで推し進めるか。時間かかると思いますけれども地方分権を推進しなければならない。
それを推進するプロセスのなかで、長期的戦略として、本土で検討している道州制ではなく、またアメリカの連邦制的なものでもない、沖縄の地理的・歴史的特殊性を踏まえた特別自治体を基本的なイメージとして持って、具体的な構想を練ったらいいのではないかと思います。沖縄は独立国になるわけにはいかないけれども、独立国的気概を持つことは必要かと思います。
一国二制度や特区を要請して積み上げていく方法もあろうかと思いますが、できれば大幅な自治をもつ特別県を設定してもらって、そのなかで政治・経済・社会・教育などの具体的制度をつくっていけばいいんじゃないかなと思いますね。
○司会(江上能義) 先生は、やはり保守型の政治家なのかなと思って聴いていました。少しずつ良くしていく現実主義的な立場でという意味ですね。
そうすると、やはりどちらかといえば一国二制度的な先生の沖縄自治州論にあまり反応がなかったし、うまくいかなかったから、漸進的かつ現実的なものにしようということでしょうか。連邦制は憲法改正しないと無理ですよね。
○比嘉幹郎 連邦制は、日本の歴史から見ても難しいことです。アメリカでは13州から出発してだんだん数が増えて50州になっていますけれども、それなりの歴史的ないきさつがありますから。日本は逆に260ぐらいの藩があって、各藩が一つの国みたいにしていろいろやっていたのを、まとめて結局47都道府県になったという歴史的背景がある。
ともあれ、復帰の時点は、沖縄を特別県にする絶好の時期だった。みすみす千歳一遇のチャンスを逃した感じだ。もっと早くからこれを主張し、行政のベテランに具体策をつくってもらうべきだった。
もっとも、後で知ったことだが、復帰の前年に屋良朝苗主席のもとで、琉球政府は米軍基地の固定化に対する異議や、「地方自治権の確立」、地域住民本位の開発、厚生、労働、教育、文化などの各分野での必要な法整備を含めた復帰後の沖縄のあるべき姿を謳った「沖縄措置に関する建議書」を作成したという。しかし、この建議書もタイミングを逸し不発に終わった。
このようにタイミングは逸しても、沖縄の地理的・歴史的特殊性にかんがみ、現在でも特別自治県にするべきだと考えている。たとえ、それが実験的なものであっても、できる範囲内で実施し、それが他都道府県のモデルになればよいと思っている。他のところでも、それなりの条件が揃っておれば、実施してもよいでしょう。
○司会(江上能義) ということは、沖縄だけというではなくて、みんなどこでも通用するようなモデルを目指す運び方をしなさいということですね。
○質問者(宮里大八) 沖縄市から来ました宮里ダイヤと言います。きょうは大変貴重なお話、ありがとうございました。
実は私、復帰後の生まれでして、この先生が論文を書かれた年はまだ生まれておりません。きょうは、大変新鮮に話を伺うことができました。先生に2点質問がございます。
1点目が、この論文のほうにも書かれてありましたけれども、本当の自治を実現するために、住民にいかに主体性を持たせるかというところが一番鍵になると思うんですけれども、それをどのような形でリーダーシップをとって進めていくのかというのが私は疑問にと言いますか、先生にぜひご意見を伺いたいと思っております。
もう1点目は、私は沖縄県知事になろうと思っておりまして、どのようにすれば沖縄県知事になれるのかというのを、副知事をなられたご経験がある比嘉先生にぜひお伺いしたいと思いまして、ご質問させていただきました。よろしくお願いします。
○比嘉幹郎 主体性の確立ということは大変大事なことですよ。沖縄の歴史を見ていると、先ほどの振興策との関係もありますが、いわゆる事大主義者というかオポチュニストというか、そういったリーダーが多いんですよね。
「ムンクィシルワーウシュウー」(物をくれる人が我々のリーダー)だという昔の諺がありますね。その諺は、解釈のしようによっては住民が主体で民主主義の発想ともとれるし、主体性のない追従主義あるいは自己卑下ともとれる。本当の意味での主体性を持ったリーダーが、特に国内外の政治に翻弄されやすい沖縄では必要です。
だから、皆さんも研究会を持って主体的に自治の具体構想を練ってください。主体性の確立というのは非常に大事なことで、いつもそれを念頭に置かれていろいろ研究なさって、そして提言もなさったらいいと思います。
それともう1点は、県知事になりたいということですが、これはこの会場におられる皆さん十分可能性はあるでしょうし、頑張っていただきたいと思います。県知事は県内随一のリーダーですが、リーダーを決定する要因は二つあります。その一つは資質ですね。あるいは資源と言ってもいいかな。資質と言っても、パーソナリティーと言ってもいいんですけど。例えば、この人は背が高いとか、ハンサムとかカネとか、そういったものもみんな含めて、ひとくちで資質といえるでしょう。しかし、これだけではリーダーは決まりません。たまたま県知事候補を選ぶ場所に居なかったから選ばれなかったという場合もありますからね。資質を幾ら持っていても、偶然性あるいは偶発性というのもありますから、資質だけではリーダーは決まりません。リーダーを決めるもう一つの要因は状況です。どういった状況なのか、状況が求めているリーダーはどんなリーダーか。だから、リーダーは資質と状況で決まる。換言すれば、リーダーの決定する函数は資質と状況です。だからこの二つの要因を十分頭に入れて行動したら、将来、貴方は県知事になれると思います。
○司会(江上能義) ここにいる方々は皆、強力な主体性を持っておられると思うんですけれども、では住民の主体性を喚起するためにはどうしたらいいのか。住民は「関係ない」と言いますね。その住民に主体性をもっと持たせ、関心を持たせるにはどういうふうな方策があるのでしょうか。
○比嘉幹郎 それは、やはり一般住民に対しても忍耐強く啓発活動をやることでしょう。いざというときには、庶民・一般住民は非常に強いと思うんですよ。だから、啓発活動をして、納得して貰わないとついてこないと思うんですね。
だから、皆さんはパワーエリートの気概を持って、市町村あるいは県、大学でリーダーです。オピニオンリーダーとして大いに頑張って頂きたいと思います。
○司会(江上能義) どうも先生、大変、ありがとうございました。
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