僕の生きてた生きてる生きる道

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斉藤氏雨にもマケズ

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「  雨にもマケズ・・  」

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岩手県が生んだ詩人、童話作家に宮沢賢治がいます。彼の作品に有名な「雨ニモマケズ」という詩があります。この詩は彼が晩年に使っていた手帳に記されたものですが、そこには病気の苦しみや、どうしたら病気から逃れることができるかという思い、死ぬかもしれないという死の恐怖、そういう気持ちを映し出す言葉がところどころに書きつけられてありました。この手帳の真中あたりにぽつんと現れてくる「雨ニモマケズ」の詩には、最後の方で「デクノボウになりたい」という言葉が記されています。


苦しみと不安の中で賢治はそう書いているわけですが、「デクノボウ」とは何のことなのか、誰のことなのか良くわかりませんでした。最近になってわかったことですが斉藤宗次郎という実在した人物そのモデルになっているというのです。


斉藤宗次郎は花巻のあるお寺の出身ですが、小学校の先生になったころ内村鑑三の影響を受けクリスチャンになりました。内村鑑三はクリスチャンとして日本の近代思想史に大きな史跡を残した人です。斉藤宗次郎は内村の教えを受け学校でも子供達に非戦の思想を教えました。


当時は日露戦争のまっさい中でしたので、そのような行動は公務員として相応しくないと小学校をくびになってしまいました。そこで始めたのが牛乳配達の仕事でした。やがて新聞配達をするようにもなります。花巻中の街から街へ、家から家へ走り回って、毎日のように新聞を届けながら、宣教活動をやっていったのです。1日40kmの道を配達して歩いたと言います。十メートルいっては神に祈り、さらに十メートル歩いては感謝し、木陰や小川のほとりで祈りを捧げたというのです。


面白いことに、そのうちに宮沢賢治と知り合うようになりました。斉藤宗次郎は新聞配達の途中、子供達に会えばアメ玉をやり、病気の人があれば、そのベッドサイドまでいって慰めの言葉をかけるというありさまだったようです。まさに斉藤宗次郎こそ、西に病気の子供があれば看病してやり、東に疲れた母親がいれば代わって稲の束を背負ってやるという生活を普通にやっていた人間でした。そういう斉藤宗次郎の生活ぶりを見ていて、宮沢賢治がだんだんクリスチャンである彼の世界にひきつけられていったのでしょう。


宮沢賢治の詩に以下のようなものがあります。


雨にもまけず

風にもまけず

雪にも夏の暑さにもまけぬ

丈夫なからだをもち

欲はなく

決して瞋(いか)らず

いつもしづかにわらっている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜をたべ

あらゆることを

じぶんをかんじょうに入れずに

よくみききしわかり

そしてわすれず

野原の松の林の蔭の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西につかれた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこはがらなくてもいいといひ

北にけんくわやそしょうがあれば

つまらないからやめろといひ

ひでりのときはなみだをながし

さむさのなつはおろおろあるき

みんなにでくのぼーとよばれ

ほめられもせず

くにもされず

そういふものに

わたしはなりたい

(宮沢賢治)



*宮沢賢治の詩のモデルとなった斉藤さんと言う人(あんまり知ってる人はいないでしょう)、誰も知らないところで命が輝ける人生・・一所懸命な人生(注:コラム「ん~一所懸命?」ぜひ読んでみてください)を送りたいなあって思いますね。


これから、どう生きますか?


あなたのようになれたらなぁ・・ そう言われる人生、素敵ですね!



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