ちょっと本を作っています

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第四章 私の出会ったイイ女列伝

第四章 私の出会ったイイ女列伝




野際陽子さんの場合

場所はJR線飯田橋の駅ビル。

ラムラと名付けられた建物の一階に、コージーコーナーって喫茶店がある。

一番奥の目立たない席に、私とTさんが座っていた。

Tさんは今から十数年前まで、芸能プロダクションの社長をしていた。

詳しい事情は知らないが、俳優で実質オーナーのCさんと揉め事があったらしい。

その後は私の事務所で遊んでいたのだが、俳優さんたちが次々と相談を持ち込む。

Tさん、人がいいものだから、すぐ相談に乗ってやっている。

そのころもミュージシャンのNとの関係が取りざたされた女優の相談に乗っていた。

彼女もまだまだ売れっ子。

スターとしての絶頂期の真っ只中にある。

「私、関係がないんです。それなのにテレビと週刊誌に追い回されて」

一生懸命慰めていたTさんだったが、突然、彼女たちの結婚が発表された。

「あちゃー、一番騙されたのはオレだったのか」

「あの子が中学生の時に、北陸で見つけて、それからズーっと面倒みてきたんだけどなー」

「相手の男もすげえ人気があるから、心配だよ。うまくいくのかなー」

そんな話をしていた頃だった、野際陽子さんに会ってくれないかと頼まれたのは。

その時からすでに、十数年が過ぎてしまった。

だからこれは十数年昔の話なのだ。

「あちゃー、あれだもんな野際さんは」

Tさんの声に促されて入口のほうを振り返ると、おりしもモデルのような女性が登場した。

まさに登場したという表現がピッタリなのだ。

幅広い帽子にサングラス、風もないのにスカートの裾がフワリとひるがえっている。

野際陽子さんと知らなくても、男性も女性も振り返ってしまう。

多分このときすでに五十代半ばだったんじゃないだろうか、


「お待たせ。Mさんですよね。お噂はかねがね」

「Tさんが余計なことを吹き込んでいるんでしょ。野次馬みたいなもんですよ、私」

一通りの世間話が終わるころ、もう一人の女性が現れた。

今日の主役はこの人なんだ。

「ご紹介しますね。私のパリ時代のルームメイトなんです、彼女」

「今はフランス人と結婚してベルギーに住んでいるんですよ」

「もと向こうの航空会社のスチュワーデス。私の友だちなんです」


野際さん、そしてTさんを介して彼女の原稿は預っていた。

そして読み終えていた。

「わざわざ申し訳ありません。面白くなかったでしょう。私の原稿なんて」

「でも日本を離れていると、ついつい書きたくなるんですよね。日本語で」

「向こうでの生活が長いものですから、日本のことは分からなくて」

「野際さんぐらいしかいなくて、ご相談できる人が」

「相談に乗ってよ。ダメならあんたのパリ時代のこと書いちゃうよって脅したんです」


この原稿は、まったくムリだった。

たとえ自費出版でも大幅に書き直しが必要だった。

「なるほどねー。やっぱり私、日本を離れ過ぎていたのね。発想があちら風なんだ」

「そうよ、あなたは外見は日本人でも、中身はどっぷりヨーロッパの人よ」

「なによ、あなたもパリに住んでいたころは青春を謳歌していたじゃない」

女性二人の掛け合い漫才が始まってしまった。

「ねえ、社長さん聞いて下さいよ。野際さんってすごくもてたんですよ、向こうじゃ」

「かっこいい男の子を次から次へと見つけてくるんだから。ほんと天才ね」

「あなたこそモテモテだったじゃない。いい男たちをはべらしてさ」

「いっそのこと、パリの思い出って本にしたら。野際さんも登場させて」

とTさんが合いの手を入れる。

「うん、だったら書くこと一杯ある。野際さんの話ばっかになっちゃうけど」

「やめてよね。私に仕事が来なくなるーう」

二人で暮らしたパリのアパートの話が次々とはずんだ。


この時お会いしてからわずか一年で、野際さんのイメージがガラリと変わった。

またその後、野際陽子さんがドラマに出演する機会が多くなった。

子育てを卒業したのと、彼女のイメージが大きく変わったことが理由のように思える。

私が出会った頃は、まだまだ綺麗な中年女性を売り物にしていた。

ところがそれが「マスオさんのお母さん」のイメージが登場すると、180度転換した。

いまやキャラクター俳優となった野際さんしかいない。

女性は変身する。

雰囲気から見栄えまで。

上手く伝えられないが、ほんのわずか一年で、サナギが蝶になった。

うーん、表現が適切でないな。

蝶が何になったのかな。

適当な言葉が見つからないが、存在感を増した野際陽子さんって、私が出会った時よりも、もっと輝いているように見える。



戸川昌子さんの場合

待ち合わせたのは渋谷の青山学院に近い「青い部屋」。

そこは、戸川昌子さんのパブラウンジだった。

私はそのとき、ある化粧品の販売会社の販売促進部長兼広報室長をやっていた。

出版事業のつまずきで、数億の借金を抱えていた私のアルバイトの一つだった。

そのころ私は、数社の役員や社長を兼務していたのだ。

人には、「出稼ぎ」と自嘲気味に説明していた。


商品開発をしたのが某有名病院の院長夫人。

政治家もからみ、システム販売の業者もからみで、事業が進み始めた。

動くお金も半端じゃない。

そのくせ販売システムも未完成なら、宣伝計画も立たない。

「やってくれ」と経営者団体の理事長に頼まれて、私が乗り込むことになった。

まずはイメージキャラクターを決めなければならない。

それも大物でないと。

候補に挙がったのが、戸川昌子さんとデビ夫人だった。

本業が出版屋の私だ。

デビ夫人を口説くのは自信がなかったが、戸川昌子さんなら小説家でもある。

さっそくアポを取って、会ってもらうことにした。

この戸川昌子さん。

最近ではあまりテレビに登場しなくなった。

話を進める前に、若い人たちのために説明が必要かも知れない。

シャンソン歌手として一世を風靡。

江戸川乱歩賞受賞作家。

数ある受賞作品の中でも最高傑作と謳われる。

四五歳で初出産。

高齢出産の代名詞にもなった。

そして熟年離婚。

この熟年離婚という呼び方も彼女の本で知られるようになる。

要するに大物なのだ。

いろいろな意味で。


マネージャに促されて戸川昌子さんが現れた。

テレビで観たとおりの厚化粧だ。

一通りの挨拶を終えて、戸川さんの著作の話を切り出した。

商品説明なんて最初からするつもりもなかった。

質問されても答えられない。

一応は戸川さんの過去の作品はすべて読み込んである。

勝負はこちらと思っていた。


「茗荷谷の女子アパート。そちらに住み込んでおられたそうですね?」

この話を始めると案の定、戸川さんが打ち解けてきた。

「あそこ男子禁制ですよね。でも私は入ったことがあるんですよ」

「以前働いていた出版社の大先輩が、あそこに住んでいるんです」

茗荷谷の女子アパートとは、大正時代に建てられた同潤会アパートの一つだ。

当時としては画期的、かつモダンな建物として話題をさらった。

戸川さんが子供の頃、母親がこの女子アパートの住み込みの管理人をしていた。

当然、彼女もこのアパートで子供の頃を過ごした。

そのことを彼女の小説で知っていたのだ。

「どうしても中を見てみたくて、頼んだんです」

「その先輩が、人の居ないのを確かめて合図を送ってくれたんです」

「飛び込みましたよ。思い切って」


戸川さんの表情から、身内の人間と話すような気になったことが伺えた。

それにしても戸川さんの飲むこと、飲むこと。

何とかっていうカクテルらしいが、ビールをトマトジュースで割っては飲み干している。

トマトジュースの空き缶がズラーっと並んでしまった。

「ねえ、熟年離婚って私の本はまだ読んでいないでしょ」

「私がサインするから持っていってよ」

この言葉が、実は悪魔のささやきだったのだ。

「すみません、そろそろ最終電車の時間なんです」

私の言葉に返されたのが、この「持っていってよ」だった。

本が一冊と、どういう訳か戸川さんの化粧箱が持ってこられた。


サラサラと戸川昌子と書かれて、さあ持って返ろうとすると、「まだよ」と言いながら、化粧用の口紅や、私には絵の具としか思えない化粧道具で絵を描き始めた。

これがまた凄い。サラサラと桜の散る春の景色を描いていく。

ようやく描き終わった頃には、終電車もない時間になっていた。

しょうがない、タクシーで帰るかと思った途端、

「ねー、糊を持ってきて」

今まで描いた春の景色とサインの上に、スプレー糊を吹きつけ始めた。

その上に今度は金粉みたいな、えーと、若い人たちが顔にちょこっと付けているやつ。

アレを振りかけ始めたのだ。

こりゃ乾くまで待つしかないと、私は座り直した。

「私、歌うわよ。あなたのために」

エーッまだ。

おいおい、どうなってしまうんだよ。

そんな私の気持ちを知るや知らずや、歌い始めた。

私もシャンソンは嫌いではない。

まして超一流のシャンソン歌手の戸川昌子さんだ。

そのように思っていたのも、最初の十分ぐらいのことだった。

即興で、私と出会えたことの喜びを歌ってくれた。

ところが、ところがなのだ。

終わったと思ったら、語りを入れて一呼吸を置いて次の歌詞が始まる。

たぶんピアノの演奏家と、何か合図の方法があるのだろう。

いつまで経っても終わらない。

一舞台を務められるくらい、戸川さんの歌が響きつづけた。

「分かったよ。分かりました。どうぞお好きなように」

ついに私も諦めた。


ようやく開放されてお店を出たときには、当然のように表は明るくなっていた。

カァー、カァーと、都会の空にカラスが飛交っていた。

そして、命をすべて吸い取られたような私がいた。

戸川さんナイーブなんですよ。

顔に似合わず。

そして淋しがり屋なんですね。

そこで私の感想です。

可愛い女性です。

イイ女なんです。

顔に似合わず。



水の江滝子さんの場合

「あの子? あの子は違うよ。姉さんの子だよ」

「ここに住んでいたこともあるけどね」

あの子とは、ロス保険金殺人で話題になった三浦和義氏のことだ。

ちょうど私と水の江滝子さんが仕事をしていたころ、週刊誌が騒いでいた。

三浦和義氏が水の江さんの隠し子だというのだ。

確かに、三浦和義氏と水の江さんはそっくりな顔立ちをしている。

「アチシ、アチシに子供がいたら、ハーフだよ」

「たぶん金髪をして生まれてきたろうなー。それ以外に覚えはないねー」

冗談とも本気ともつかない言葉が返ってきた。

水の江さんの自宅の居間での話である。


水の江さんと会ったのは、今から二十年ほど前。

私が自分の出版社を起した直後だった。

でも、私の出版社から水の江さんの本を出そうとしたわけではない。

事業資金稼ぎのための苦肉の策として、水の江さんに協力を求めたのだ。


会社を作った時の資本金なんて、三ヵ月もしないうちに底を尽いていた。

よしそれならば、よその出版社に企画を売りに行こう。

でも、企画だけじゃ大した金にもならない。

著名人を著者にでっち上げて、企画料、編集料、さらに印税のピンはねをしよう。

私の頭には、このような悪知恵だけは、すぐに浮かんでくる。

「著名人と趣味」の企画がいい。

これならば編集料もガッポリとふんだくれる。

さっそく水の江さんに電話を入れた。


「なにー。聞こえないわよ。アチシは耳が遠いんだからね」

「えっ、本の話! 聞こえないわよ。電話じゃダメよ。来なさいよ、こっち」

突然、水の江さんの家に行くことになってしまった。

「場所。エーとね。小田急線の○○駅で降りてね。タクシーに乗んなさいよ」

「エッ、タクシー。分かるわよ、ターキーのウチで」

「分かんなきゃ、三浦和義で騒がれている人んちといいなよ」

こちらがせめて住所だけでも聞こうと思っているのに、プッンと切れた。


小高い山の上というか、山の中に水の江さんの家はあった。

「ハイハイ、ジュエリーデザインの本ね。イイヨイイヨ、手伝ったげる」

話はどんどん進む。すべて二つ返事なのだ。

「印税はほとんど払えないんですが」

「イイヨイイヨ、任せるよ」

すべてがこんな調子で進んだ。

「これがアチシの作品。全部載っけてもいいよ」

宝石箱というよりは、チョット大き目のカステラの箱のようなものに詰め込んである。

「適当に選んでよ。アチシちょっと向こうで休んでいるから」

ガラガラとテーブルの上に宝石を積み上げて、水の江さんが消えてしまった。

あとに残ったのは、私とあまり綺麗じゃない犬二匹。

結局、一時間近く水の江さんは席を外したままだった。


「アチシ、痛風なんだよ。ほら」

見ると両手がパンパンに膨れ上がっている。

「ほら、こっちも」

両足も瘤状にゴツゴツと腫れ上がっている。

「どう、使えそう?」

「あのー、私は宝石はまったく分からなくて……。ところでこれ、お幾らぐらいですか」

「そうだねー。材料費だけで一億ぐらいかな。もしかしたら二億ぐらい使ったかな」

開いた口が塞がらなかった。

後日、水の江さんに聞いてみた。初対面の人間にアレは無用心でしょうって。

「犬が教えてくれるのよ。それにあんた人を騙しそうにないしね」

その時も傍らに、薄汚い犬が二匹いた。

「これ、甲斐犬っていうんだよ。純粋種はもうほとんど残っていないらしいね」

フーン、この犬が面接官だったんだ。

「この犬人見知りすんだよ。あんたの膝では寝ちまったけどね」


この後、ライターを連れて足繁く、水の江さんのお宅へ伺うことになる。

その間に石原裕次郎氏が亡くなり、テレビ局が水の江さんの家に押し掛けたこともあった。

石原裕次郎氏を世に出したプロデューサーが水の江さんだったのだ。

三浦和義氏、石原裕次郎氏の話題のたびに取りざたされたが、水の江滝子さんこそ大スターだった。

と言っても、私の年齢でも知らないことだ。

せいぜい私の年齢で知っているのは、NHKの人気番組だったジェスチャーで、水の江さんが女性軍のリーダーだったことぐらいだ。

その時の男性軍のリーダーが故柳家金語楼さんだった。

そうそうそれと、女の六十分とかいう朝のバラエティー番組のレギュラーでもあった。


それよりはるか以前の時代が、水の江さんの全盛期に当たる。

戦前の松竹少女歌劇団の花形スター。

さらには戦前の労働争議、軍艦以外はすべてやって来たといわれる松竹争議の時の委員長。

戦争勃発直前に、アメリカへ亡命。

戦後日本へ着いた時は、群衆が押し寄せて、英雄となって帰還した水の江さんを迎えた。

余談だが、山口百恵さんの引退興行のとき、会場近くを通りかかったことがある。

人、人、人の波が溢れていた。

「凄いねー。これだけのファンが集まるなんて」

私は傍らの編集部長に話しかけた。

「そうでもないよ。社長は知らないだろうけどさ、ターキーさんの時はもっと凄かった」

ターキーさんとは水の江滝子さんのことである。

私も水の江さんの若い時の写真を見せてもらったことがある。

昔の化粧なので私にはピンとは来なかったが、彼女には『男装の麗人』の異名があった。


そのターキーさんが、なぜジュエリーデザインを始めたのかを語ってくれたことがある。

「コレコレ、これがホントーは一番高価なんだよ」

ずんぐりと豆のような金の塊に、小さなダイヤモンドが光っている。

「これはね、ブリリアンカットのダイヤモンドを逆さに埋め込んであるんだよ」

「誰も気が付かないだろ。この中に大きなダイヤが入っているなんて」

「女はね、力がないから、イザとなったら自分の体か宝石しか売り物がないんだよ」

「戦争中、アメリカでイヤというほど味わった」

「女は亭主をたぶらかしてでも、宝石ぐらい身に付けておかないとね」

「イザというときのためだよ」


[後日談]

出来上がった本を水の江さんに送ったら、お礼にとテレホンカードが送られてきた。

水の江さんの若い時の舞台写真が印刷されていた。

「これ、貰えないかな。我が家の家宝にしたいんだ」

私より二十歳ほど年上の編集部長が頼んできた。

でも、「家宝」ねえー。

最初に水の江さんの本を手掛けたおかげで、ほかの芸能人との話もトントンと進んだ。

ジュディーオングさん、北村栄治さん、アンリー菅野さん、結城美栄子さん、城戸真亜子さん。

ジュディさんだけは病気のために中止となったが他の本はすべて仕上げた。

最初に芸能界の大御所である水の江さんの本を作ったことが良かったのだろう。

「あんたねえー、芸能界だけは顔を突っ込んじゃだめだよ。あんたには向かないからね」

今も耳の片隅に、水の江さんの声は残っているのだが……。



結城美栄子さんの場合

「ね、いいでしょ。私、ここにこれを入れたいのよー」

結城美栄子さんは陶器の人形を作っていました。

この企画も前述の水の江滝子さんのときと同じ、芸能人と趣味をテーマにしていたのです。

お年を召した方なら結城美栄子さんといえばピンと来るでしょう。

最近はテレビや映画から遠ざかっているみたいで若い人に馴染みがないようですね。

昔はNHK三人娘の一人としてドラマの常連女優さんでした。

外交官の娘として外国で育ち、イギリスのロイアルバレー団に所属したこともあります。

アキレス腱を切ってしまってプリマドンナへの夢を断念。

日本へ戻ってからは演劇の道を志したそうです。

でも、海外での生活が長かったので、劇団の入団テストの時には、日本語の問題が読めずに、いちいち試験官に問題を読んでもらったというエピソードもあります。


「ね、お願い。ここはこうしてくんない」

ともかく注文の多い人なのです。彼女の作る陶芸の人形も異色なら、これほど注文の多い人も珍しい。

ところが、私も男なんですね。

上目づかいに大きな目で見上げられ、

「ね、お願い」

を連発されると、全部従ってしまうのです。

気が付けば、実用書とはほど遠い、彼女の独特の世界の作品集に仕上がってしまいました。

これでは私が企画を持ち込んだ先の出版社の意向と余りにも違いすぎます。

どうしようかと悩んでいると、

「ね、お願い。ここもこうして欲しいのよ」

と、さらに彼女の意向を押し付けられる始末です。

お気に入りのデザイナーも自分で見つけてきてしまいました。

哀れにも私には抵抗のすべが見当たりません。

彼女の持つ独特の世界への執拗なまでの執着、そして彼女の確信。

大の男が完全に押さえ込まれてしまったのです。


ついには、本が出来上がるまで、発注元の出版社の役員には何も知らせず、本を仕上げてしまいました。

まさしく詐欺行為。

製作費はもらってしまって、支払いに使ってしまいました。

本が出来上がった時、その出版社の専務は「うーん!」と言っただけで黙ってしまいました。

目の前にあるのは、私の企画書からは想像も出来ない代物です。

でも、ハンパではない出版物でした。

そりゃ私もそうですが、誰も一言も文句を言えない作品に仕上がっていたのです。

売れるかどうかは別にして、出版人としては文句の言いようもないような。

その本の書名は、「ビバ・サーカス(山海堂刊)」。

この本を出したことで、私の企画したシリーズの仕事は一気に終焉を迎えました。

そりゃそうですよね。

企画書と丸っきり違う本を、それも土壇場まで発注元に見せずに、それも相談もせずに印刷まで終わらせたのですから、だまし討ちです。


もちろん本人、結城美栄子さんは上機嫌です。

お礼にご馳走をしたいからと、赤坂にある彼女のご自宅へご招待を受けました。

当日私は、社内の美人スタッフ二名(当時私は面食いでしたから美人以外は採用しなかったのです)を引き連れて、彼女のご自宅へ伺いました。

「前の日からローストビーフを仕込んであるんですよ」

という彼女の言葉に誘われて行ってみると、エプロン姿のご主人が出てきました。

「ウチの人、ローストビーフが得意なんですよ」

あーあ、やっぱりね。

ミュージシャンとして有名なご主人も、たぶんあの大きな目で上目づかいに見上げられて、

「ね、お願い。大切なお客様なの」

とか何とか言われて、気が付いたらおさんどんをやらされていたのでしょう。

でも、仇は取りました。

江戸の仇を長崎で。

私、酔っ払って、彼女が焼いた自慢のお皿を割ってしまったのです。

「しょうがないわね。○○さんは」の一言でご和算です。


後日、彼女の個展にお呼ばれしたことがあります。

今は別れてしまった家内と一緒に行きました。

そのオープニングパーティの前に、お腹が空いたので食事に出たら、結城さんも一緒に付いてきました。

「ねえ、奥さん。私にご主人のスタイリストをやらせてくんない」

「ねえ、お願い。見違えるようになるから」

いつもの彼女の口ぶりです。

誰にもノーと言わせないような。

私の家内の答えは簡単でした。

「ダメです。お断りします」

「私がいくら言ってもダメなんですから」

「ホント、いいかげんにして欲しいっていつも言っています」

結城さん、黙ってしまいました。

そうだこの手があったんだ。

何か言われたときに、理詰めで説得しようと思った私がバカだったのです。

結城さんの意向を「ダメです。企画と違います」と一言いえば、私は次の仕事も貰えたのです。

簡単な話でした。

でも凄いでしょう、結城美栄子さん。

自分の信念と自分の感性、そして自分の世界をしっかり持った人です。

私は今でも、彼女のハッキリとしたものいいに共感を覚えています。



銀座のクラブ、明美ママの場合

飯田橋にあるエドモントホテルの喫茶室に、明美ママが現れた。

彼女の取り巻きの男性の一人である会社役員に、会ってやってくれと頼まれたのだ。

白いスーツに身を包み、軽くウエーブする髪が後ろにたなびいている。

三五歳で一児の母と聞いていたが、どうみても品のいい大学生風お嬢さまにしか見えない。

素顔のままで来たんじゃないかと思わせるほどの清楚さだ。


「綺麗なだけじゃ、夜の銀座では続かない」

「彼女、文章を書くことが趣味なんだ」

「別な魅力を付け加えたいんだ。知性を滲ませるような」

その取り巻き男性は、彼女の本の企画と出版を、私に持ちかけて来たのだ。

一通りの話を聞いた後で、私は自分の意見を切り出した。


「もちろん売れる本は作りたいと思いますよ。でもそれだけでいいんでしょうかね」

「ル・ジャルダンってママのお店、高級クラブなんでしょう。本が売れりゃいいってことではないと思いますよ」

「確かに今、銀座のクラブのママが書いた『出世する男の見分け方』だとか『こんな男は嫌われる』なんてのが売れていますけどね」

「私なら売れる本っていうよりも、さすが明美ママって違うねと言われる本にしたいですね」

「そうだなー、教科書を作りませんか。銀座のホステスの」

「クラブの最高峰ですよね、銀座のクラブって」

「明美ママはホステスの鏡。自然と周りがそのように思う本なら、やりますよ私」

たぶん私自身、初対面の明美ママに好感を持ったのだろう。

またまたボランティアを始めてしまった。

そして彼女自身、今までの彼女の経験とその実感から、売れる本よりも自分自身のステータスを上げる本作りに興味を示した。


ル・ジャルダンは銀座の高級クラブだ。

大企業の経営者、政治家や医者、さまざまな著名人がいつも席を埋め尽くしている。

さらにもう一つ特徴がある。

ホステスの顔ぶれが異色なのだ。

学歴と筆記試験の結果重視でホステスを採用する。

見た目なんて二の次、三の次なのだ。

ホステス経験は無いほうがいいとまで明美ママは言い切る。

さらに最大の特徴は、明美ママ自身がオーナーなのだ。

銀座の一等地で二十人以上のホステスを使い、この不景気な時代にバブルの頃とまったく変わらないような盛況振りだ。

雇われママが仕切り、閑古鳥が鳴いているクラブが多い中で、まさに異色の存在と言える。

「ともかく一度、お店のほうへ」

という言葉を残して明美ママは去って行った。


喧騒状況の店内。

なんでこんなにお客さんが多いのだろうと思うほどのクラブだ。

賑やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。

「ようこそお出で頂きまして」

と挨拶されるまで、目の前の女性が明美ママだと気付かなかった。

まさしく変身ーンである。

目の前には高価な和服をピシッと着こなし、髪をキリッと結い上げた女性が微笑んでいる。

「私、お化粧をしている間に戦闘モードになっていくんです」

「ここは殿方のディズニーランド。夢を育むところなんですよ」

「必死ですよ、私だって」

そこに居たのは、まさにプロとしてのホステスだった。

わずか数時間前、大学生風だと思った女性の影は、ほんのひと欠けらも残っていなかった。


「演じるんですよ。お客さんの希望する理想の女性を」

「でなきゃ、誰も来ませんよ。銀座のクラブなんて」

この本の中でも幾度か明美ママの言葉を引用したが、ある意味、女性の身の処し方を冷静に見つめ、クラブ経営にまで生かしている。

「私、本当は身体も丈夫で強いんです。でもお客さんは可憐さを求めるんですよね」

私が彼女の中に見出したのは、その強靭なまでのしたたかさを秘めた、彼女の人生哲学だった。

このとき出版した『可憐に、そしてしたたかに』という本のタイトルは、彼女を見ていて自然と湧き上ってきた。

「オレ苦手だよなー、明美ママみたいな女性」

「私も苦手ですよMさんみたいな人は」

「何もかも全部失ってもいいって人は、クラブホステスにとっては天敵みたいなものですよ。見境がなくなるから」

「お客さんを見分けられないとホステス稼業は続けられません」

「その点、社会的地位のある人は失うものがあるから安心ですよ。無茶しません。家庭と仕事、第一なんです」

お宅のご主人、安心ですよ。クラブ通いぐらいは許してあげなさい。



人形作家、土田早苗さんの場合

前述の結城美栄子さんの本を作ってまだ一ヶ月もしない時だった。

私の会社に一本の電話が飛び込んできた。

「えー、初めてお電話するんですが。結城美栄子さんのビバ・サーカスって本、そちらさんで作られたそうですね」

「発売元の出版社に教えて頂いて、お電話したんです」

「旭屋さんでこの本を見て、アッ、これだって思ったんです」

「作ってください。私のお人形さんの本」


おいおい何なんだ、このオバサンは。

ともかく私の人形の本を作ってくださいの一点張りなのだ。

売れる本の企画でないと取り上げられないと何度言っても、聞く耳を持たない。

「分かりました。お役に立てるかどうかは分かりませんが、いいですよ、ともかくお会いしましょうか」

相手の話が延々と続きそうなので、やむなく会うことを承諾した。

こちらの住所を言うと、三時までにはお伺いしますと言って電話が切られた。


約束の時間よりは少々早く、高価そうな和服を着こなした女性が現れた。

「私、土田早苗と言います。女優さんで同じような名前の方がいますが、私の土には点が付くんです」

最初の自己紹介だけはまともだった。

その後はビックリの連続だ。

「旭屋さんであの本を見たとき、私の探していたものがようやく見つかったって、ドキッとしたんです」

「私、お人形を作っています。市松人形なんです。創作人形です」

「新幹線の中でも、もう嬉しくって、嬉しくって。興奮してしまって……」

「えっ、新幹線で来られたんですか? どちらから」

「大阪から来ました。宝塚に住んでいるんです」

あいた口が塞がらない。

旭屋って本屋さんの名前を聞いて渋谷か池袋の旭屋さんを連想していた。

どうやら旭屋は旭屋でも、大阪の梅田本店だったらしい。


「お気持ちは嬉しいんですが、私、人形は専門じゃないですよ。たまたま結城さんの本を作っただけで……」

この女性、私に最後までしゃべらせてくれない。

「一目見れば分かります。今までお人形さんの本で、あそこまで素晴らしい本には出会ったことがありません」

「ほかの出版社や編集の人にはムリです。私、主婦の友社やNHK出版局などで何点か出しています。でもあの本を見れば月とスッポンです」

経費もかかるし、売れないと商売にならないと言うのだが、

「絶対売れます。それに私も千冊ぐらいなら買います。みなさん私の本を欲しがっていますから」

ともかく強気なのだ。

そりゃ本屋さんでちょっと手に取っただけで新幹線に飛び乗るのだから、これはかないっこない。

買取り条件を確認して手掛けることになった。


彼女の作品は、一体を作るのに一年ぐらいかかるという。

それ以上の期間をかけている作品もあるそうだ。

結城さんの本のときに手伝ってもらった梶さんという新進気鋭のカメラマンに協力を仰ぎ、スタイリストも結城さんのときと同じ小山織さんという人にお願いした。

二人とも結城美栄子さんのお気に入りでもある。

さてそれからが大変だった。

土田さん、撮影場所は宝塚にある、とある立志伝中の人物の残した別荘を決めてきた。

まず普通では立ち入れないところだ。

次に彼女の主要作品の借り出しが控えていた。

そのときになって始めて知ったのだが、彼女の作品はびっくりするほど高いのだ。

たかが人形一体のために札束を出す人がいるのにもビックリさせられた。

今現在のそれぞれの人形の持ち主を聞くと、誰もが知っているような超資産家の名前が次々に挙がる。


人形の借り出しの依頼は土田さんがしてくれたからいいようなものの、ほとんどが東京近郊にある。

宝塚への配送を日通の美術運送に相談したら、とんでもない金額を提示された。

保険金額も目が飛び出るような金額が提示された。

それでどうしたかって? 

こうなりゃ自分で運ぶしかないでしょう。

いい年をした私が、両腕に人形を抱きかかえて新幹線で大阪へと向かった。

まるで金塊輸送をしているような緊張感で、トイレにも行けなかった。


すでに絶版になってしまったが『市松人形(千早書房刊)』という本が、そのときの作品である。

某大富豪の別荘で、小雨に濡れ、ガタガタ震えながら、撮影するための人形を支えていた。

私自身の仕事って、人形を抱きかかえて新幹線に乗ったことと、人形が倒れないように後ろで支える役目、後はせいぜいスタッフの選定だけだった。

彼女のアトリエにも足を運んだ。

なるほど一体を作るのに一年以上かかるのも理解できる。

高額な値段が付くことも納得できた。

たとえば市松人形の着物自体がすべて手作りなのだ。

それも反物の織りから染色、仕立てに至るまで全てが彼女の手を経ている。

西陣へ潜り込んで染色を勉強したと本人も言っていた。

貝殻が山積みされているので何かと問うと、これはメキシコの貝殻で、これから染料を抽出するのだという。

西陣の業者さんから彼女に、着物のデザインの依頼も多いそうだが、すべて断わっていると言っていた。

人形以外に興味はないそうだ。


彼女、四国の素封家の家で生まれ育ち、親戚の県知事も務めたような人に孫のように可愛がられたとも言っていた。

小さい時から本物だけを見て、本物だけに囲まれて生活してきたそうだ。

「私、見る目だけは誰よりもあると思います」

人形作家、土田早苗さん。

お嬢さんと言うには年を経ているが、本物のお嬢さん育ちの凄まじさを見せてくれた女性だった。

そう言えば彼女の作品。

どの人形の顔を見ても、土田さんそっくりなのだ。


あなた彼女に追いつき、追い越すことを目標にしますか? 

これだけは辞めたほうがいいですね。

本物のお嬢さん育ちで、さらに市松人形だけをひたすら追いかけてきた女性です。

その二つの要素が渾然一体となったからこそ、彼女の作品は生れたのだと思います。

ぜひ一度、インターネットで土田早苗を検索してみて下さい。

ただし、女優の土田早苗さんと違いますよ。

人形作家の土田早苗さんです。 

でも彼女、市松人形に出会わなければ、どうしていたんでしょうね。



エピローグ


身も心も捧げた女は飽きられる


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