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オリンピックが始まりました。いろいろといわれる「東京オリンピック」ですが、ほんとにコロナ禍がない中で開催して欲しかったのは日本のみんなの気持ちだと思います。コロナ感染がどうなるか心配ですが、いいかたちで閉幕をしてほしいですね。<オリンピックサッカー出場国の選ばれ方>オリンピックのサッカー競技は、各大陸予選の上位チームが集う夏季オリンピックで行われるサッカー競技である。男子については1900年のパリオリンピックから非公式ながら競技が行われ、1908年のロンドンオリンピックから公式種目になり、1932年のロサンゼルスオリンピックを除いて毎大会実施されている(FIFAワールドカップとFIFAコンフェデレーションズカップも参照)。女子については1996年のアトランタオリンピックから実施されている(FIFA女子ワールドカップとアルガルヴェカップも参照)(wikipedia)<オリンピックサッカー男子>オリンピック(五輪)のサッカー男子は、年齢制限がある珍しい競技です。国際サッカー連盟(FIFA)が、4年に1度主催するワールドカップ(W杯)を世界一を決める唯一の大会とするために定めた。1992年バルセロナ大会から、原則23歳以下の選手で構成される代表チームで争っている。 <オーバーエイジ枠>1992年のバルセロナ五輪以降、原則として夏季オリンピックの男子サッカー競技は、五輪開催年前年の12月31日の時点で23歳以下の選手(延期となった東京五輪においては24歳以下になる見込み)しか選手登録ができない。だが、バルセロナ五輪の4年後に開催された1996年のアトランタオリンピックでは、“年齢制限に適合しない選手であっても各チーム3名を上限として登録可能とする”ことが決定。いわゆるオーバーエイジ(OA)枠というものが生まれた。OA枠自体は使わないことも可能で、若手の選手たちだけで十分と判断すればメンバーに含まないチームも存在する。OAをどうチームに組み込んでいくかは、各国の指揮官の腕の見せどころだろう。近年では、前回大会のリオデジャネイロ五輪でブラジル代表のネイマールがOA枠で出場。主将を務めてチームを牽引し、見事母国に初優勝をもたらしている。 <東京オリンピック男子サッカー競技の出場国>サッカーU-23日本代表が出場する2020年東京五輪(東京オリンピック)男子サッカー競技の出場国(16国)は下記の通り。アジアからはサウジアラビア、韓国、オーストラリアの3チームが出場。9大会連続の出場となる韓国は、今回の出場チームで最長での連続参加となる。ヨーロッパからはスペインやドイツなど4チームが出場。前回のリオ大会で銀メダルに終わったドイツ代表は、悲願の金メダルを掴み取れるのかが注目される。そのリオ大会を開催国として制した前回王者ブラジルは、アルゼンチンと共に南米予選を勝ち抜き出場。そしてアフリカからはエジプト、コートジボワール、南アフリカの3チームが、オセアニアからはニュージーランドが出場する。28日に東京オリンピックの男子サッカー・北中米カリブ海予選準決勝が行われ、最後の出場国2枠をメキシコとホンジュラスが取得。開催国の日本を含む全ての出場国が出そろった。東京オリンピックの男子サッカー競技は4月21日にスイスのチューリヒで組み合わせ抽選が行われ、7月22日から開幕。8月7日に決勝戦が予定されている。出場16チームは以下の通り。直近のFIFAランキングを調べて記載してみました。 【開催国】○日本(7大会連続11回目)28位【アジア】○韓国(9大会連続11回目)39位○サウジアラビア(6大会ぶり3回目)65位○オーストラリア(3大会ぶり8回目)41位 【ヨーロッパ】○スペイン(2大会ぶり11回目)6位○ドイツ(2大会連続10回目)12位○ルーマニア(14大会ぶり4回目)43位○フランス(6大会ぶり13回目)2位【南米】○アルゼンチン(2大会連続9回目)8位○ブラジル(4大会連続14回目)3位【アフリカ】○エジプト(2大会ぶり12回目)46位○コートジボワール(3大会ぶり2回目)58位○南アフリカ(2大会連続3回目)75位 【北中米カリブ】○メキシコ(3大会連続6回目)11位○ホンジュラス(4大会連続5回目)67位【オセアニア】○ニュージーランド(2大会ぶり13回目)122位~あとがき~ 東京オリンピックの聖火リレー、開会式も済んでいよいよ各競技が始まりました。やはり、日本人の選手が出場する種目には注目し、TVにかじりついてしまいます。ただ、ピンチになるとみていられません。時には、他のチャンネルに切り替えてしまいます。ここまで頑張ってきた選手や関係者の筆舌しがたい努力や困難を考えると、胸がいっぱいになるからです。出場選手みんなに満足できる結果で終って欲しいのですがそうはなりませんね。オリンピックに出場できるだけで、立派ですが。以上
2021.07.25
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最近のウオーキングで目にするのは、既に何回か刈り取りをされた「茶畑」、中には上部が茶色に刈り取られた茶畑もあります。それと、さつまいも畑で、この辺はサツマイモの乾燥芋も名産の一つになっています。最近はどうも、いわゆる野菜等の露地栽培は心持ち少なくなっているような気がします。結構ハウスは目につきます。中はみることが出来ませんが、知人は野菜・果実つくりの匠で、ハウスでトマト、ナス、スイカ、こんにゃく、ズッキーニ、ブドウ、オクラ・・・とたくさんの野菜や果樹を作っています。 あるとき、見慣れない野菜畑で「シソ」のような植えつけられた苗群を見ることがありました。(えごま、撮影筆者)そこで、スマホのアプリの「グーグルレンズ」で少し成長した苗の写真を撮って調べてみました。見た目は「青紫蘇(大葉)」ですが、どうも葉のギザギザや厚みが少し違うようなきもしました。 取ってきた写真を確認すると、どうも「えごま」という野菜であることわかりました。 更に、調べて要約すると、 えごまの葉は大葉によく似ていますが、よく見ると、大葉は輪郭がギザギザしているのに比べ、えごまは丸みを帯びています。 また、えごまには独特の香りがあり味も苦いので、食べるとその違いは明らかなようです。 ... 葉の食べ方としては、焼き肉でサンチュの代わりにえごまを使用して肉を包むという方法が有名のようです。以下は「wikipedia」からの引用、転載です。<シソ(紫蘇、学名:Perilla frutescens var. crispa)>シソは、シソ科シソ属の植物で、芳香性の一年生草本である。中国原産で、各地で広く栽培されている。なお、シソには品種が多く、それらの総称を「広義のシソ」、基本品種である P. frutescens var. crispa f. crispa (チリメンジソ)や代表的な品種であるアカジソ P. frutescens var. crispa f. purpurea を「狭義のシソ」という場合がある。本稿において特に明記しない限り「紫蘇」または「シソ」とは、「広義のシソ」の意味である。食用にする葉の色により赤ジソと、その変種の青ジソがあり、大葉は青ジソの別名である。(自宅の青シソ、撮影筆者)[青ジソ(青紫蘇)]日本では葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青ジソの若葉を摘んだものは「大葉(おおば)」とよび、薬味として用いられることも多い。西日本の一部では「青蘇(せいそ)」とも呼ぶ。香りがよく、ほのかに苦味がある。 [赤ジソ(赤紫蘇)]アントシアン系の赤橙色のシアニジンと言う色素成分を含み、日本では梅干しを作る際に、梅の成分であるクエン酸によってシアニジンが強く赤く発色することで、梅干しの発色や漬物の色づけに使う。葉を乾燥させたものは七味唐辛子に配合されることもある他、ふりかけなどにも用いられる。また、熟さない実を付けた「穂じそ」、花が開き掛けの「花穂じそ」は刺身のつまに用いる。湯で煮て砂糖を加えシソジュースにする利用法もある。居酒屋などで、焼酎などの酒類の割物として提供されるバイスも、赤紫蘇エキスを原料としている。赤ジソは酸に触れると鮮やかな紅色に発色する性質があるが、灰汁(アク)が強いため、最初に塩揉みをして出てくる黒いアク汁だけを捨てる。梅干しづくりで梅の実と一緒に漬けるときは、アク汁を出したあとの赤ジソに、梅酢を少量かけると美しい赤色が得られる。(青シソ、出典:wikipedia)[えごま]エゴマ(荏胡麻、学名:Perilla frutescens)はシソ科の一年草。シソ(青紫蘇)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。地方名にジュウネンがあり、食べると十年長生きできるという謂れから。古名、漢名は、荏(え)。食用または油を採るために栽培される。シソ(青紫蘇)とよく似ており、アジア全域ではシソ系統の品種が好まれる地域、エゴマ系統の品種が好まれる地域、両方が栽培される地域などが見られるが、原産地の東南アジアではシソともエゴマともつかない未分化の品種群が多く見られる。葉などには香り成分としてペリラケトン(Perilla ketone)やエゴマケトン(Egoma ketone、3-(4-Methyl-1-oxa-3-pentenyl)furan)などの3位置換フラン化合物が含まれ、大量に摂取した反芻動物に対して毒性を示す。 (えごま、出典wikipedia)~あとがき~ 便利なスマホアプリができたものです。今回は「グーグルレンズ」というアプリを使って、対象の野菜の写真をとると、この野菜は「えごま」であると調べることができました。今回はどんな野菜かを調べましたが、鳥や薬など調べることが出来て便利です。余談ですが、商品のパッケージの英文など写真をとり翻訳機能で日本語でみることなどもできて助かります。(無料アプリです)。以上
2021.07.21
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静岡県は大きな川が東から富士川、安倍川、大井川、天竜川と4つもあります。支流の河川を含めると結構な川のネットワークがあると言えます。わたしが住む静岡県西部には暴れ天竜いわれる「天竜川」という川で、上流には有名な「佐久間ダム」がある川があります。支流には気田川や阿多古川などのアユの友釣りで有名です。天竜川はいわゆる「池田の渡し」(家康が渡船の営業のお墨付きを与えた)というところがあり、「渡船」制度がありましたが、島田市の「大井川」(有名な「蓬莱橋」がある)は「橋」がなくまた「渡船の制度」もない中でどのように川を渡ったのか、いくらくらいかかったのかなど調べたくなりました。詳しい資料が「島田市観光協会」さんにありましたのでHPでの記載内容を転用、紹介させていただきます。<静岡県の一級河川>4つの大河川以外にも、一級河川として狩野川や菊川があります。東部から西部へと「狩野川」、「富士川」、「安倍川」、「大井川」、「菊川」、「天竜川」となっています。 <箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川>江戸時代、旅人が大井川を渡るためには、人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)というみこしのような乗り物に乗り、担いでもらっていました。その「川越し」の料金所(川会所)や、人足の待合所(番宿)などの風景を再現したのが、島田市の大井川沿ったこの遺跡です。昭和41年8月1日に国指定史跡に指定されています。(大井川川越遺跡(おおいがわ かわごしいせき)※川越遺跡の中で、★印の建物は見学できます。その他は居住しているため見学できません。 <川越制度と川会所>江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われました。しかし、大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかありませんでした。特に大井川は渡船も禁止され、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れました。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄9年(1696)に川越制度ができました。その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれました。最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人でありました。 川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われました。文献には見当たりませんが、川会所は川庄屋がおかれた元禄9年に建てられたと推定されています。川越しは明治維新まで続けられていましたが、明治3年(1870)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止されました。現在の川会所の建物は安政3年(1856)に建てられたもので、川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用されその位置も転々としていました。そして昭和41年(1966)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたのに伴い、昭和45年(1970)8月、現在地に移築されました。 <川越賃銭と越し方> 大井川を渡るには、川札(川越札・油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗り川を越しました。この川札の値段は、毎朝、待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を計って定めました。水深は股通とか乳通と呼び、股通の場合は川札一枚が四十八文でありました。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76センチ)で脇通四尺五寸(約136センチ)をこすと川留めになりました。川越しに必要な川札の枚数は次のとおりです。肩車(かたくま)川越人足の肩にまたがり越しました。川札は1枚。常水以上は手張(補助者)がつくので川札が二枚必要。2.連台越し(1)平連台(並連台)1人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚。(2)平連台(並連台)2人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計8枚。(3)半高欄連台(半手すり二本棒)担ぎ手は、並台と同じ4人で川札4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚。(4)中高欄連台(四方手すり二本棒)担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚。(5)大高欄連台(四方手すり四本棒)担ぎ手16人、手張4人、台札(川札の32枚分)の計52枚。番宿(ばんやど)と川越人足(かわごしにんそく)川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田、金谷にそれぞれ360人と定められていましたが、幕末には、約650人に増えていました。人足たちは、はだかで、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥又は雲に竜の模様)をしめ、お互いに川越取と呼びあい、天下の関取に一脈通じると自負していました。人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番屋であり、年輩者になって川越業務を直接やらなくなった人たちが集まった立会宿や仲間の宿、川札をお金に変えた札場などが近くにありました。 ~あとがき~ 江戸時代、政策として橋がかけられなかったのですが、「渡船」も禁止されていた大井川は川越人足の方に「肩車」か「蓮台」にのって大井川を渡ったようです。もちろん、増水時は川留めなどもあり、結構渡るのは大変だったと想像されます。料金は、川の深さと肩車か蓮台かにより決められており、水の深さが股通48文(1440円)から脇通94文(2820円)プラス川札(担ぎ手の人数分)だったようです。蓮台は人数分掛かりますので結構な出費になります。酒1升が88文(2640円)であったと考えると料金的にはそこそこの出費になるような気がしますね。余談ですが、浜名湖は「今切」から渡船で「新居関所」に行ったようです。何か、当時の風景が懐かしく想定されますね。以上
2021.07.16
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わたしには、中学生から小学生の孫ちゃんがいます。小学校入学前には頻繁に実家に来ていた孫ちゃんも、小学生になるとスポーツや習い事もあり、また自分たちの友だちとの世界もできて、なかなか遊びに来ることもできなくなってきました。「どんどん社会的な世界の広がり」ができているのだとうれしいような、ちょっと寂しいような感じがします。 <実家に来たくなるような、演出!>そこで、孫ちゃんたちが「来たくなるように」、また来たら「期待を超えるような楽しさを感じる」ことができるようにと工夫することにしています。レゴやサッカーや野球のボードゲーム、囲碁・将棋・トランプ・UNO、クラスク、ままごとセット・・・新しいゲームがあると購入してメニューも増やしていますが、大きくなるに従って、興味の対象も変わってくるので年々ゲーム類もバラエティに富んできました。小学校以上になるとやはり「ゲーム機」が人気のようです。そこで、実は孫ちゃん達に人気のある「ニンテンドースイッチ」というものをなんとか購入し、家の大画面TVにつないで孫ちゃんが来た時に一緒に「スイッチ」で遊べるように準備してみました。「スイッチ」があっても、ソフトがないと遊べませんので「桃太郎電鉄 昭和平成令和定番」「マリオゴルフスーパーラッシュ」を通販で購入。さらに、近くの「GEO」に行き、「実況パワフルプロ野球」を購入してきました。サッカーゲームも欲しかったのですが、既に個々に保有しているので保留にしています。先日、末息子の孫ちゃんたちが来て、初めて「桃鉄」をやってみました。想定以上に好評でした。コントローラーも複数購入して、使いまわしをしなくてよくしたのもスムーズな進行ができて良かったように思います。 <スイッチのゲームをしてみると・・・>孫ちゃんたちとゲームをやっていて感じることがありました。自分の小さなときを振り返ると、「同じだなあ」と感じる次第ですが、「勉強」「スポーツ」「ゲーム」など、やはり「勝つとうれしい」のですが「負けると悔しい」のが正直な気持ちです。特に、ゲームで「自分が負け始める」と、とたんに「文句」や「愚痴」「やめようかな」という言葉が孫ちゃんから出てきます。ちょっとみんなにとって嫌な雰囲気になります。楽しくやりたいのが、楽しくなくなるからです。これは予測がついていることですが、「やはり」とその通りになるとちょっと困ってしまいます。 <「負けず嫌い」と「負ける文句」>「負けているときや負けたときに」、文句を言ったり、やーめた!と言ってやめてしまうことがあります。そして、その後の努力もしない。これはわたしのことばでは、「負けず嫌い」と「負ける文句」のとに分類できると思いっています。自分も振り返るとある年齢まではやはり、「負ける文句」の方でしたが、みんなには本当の「負けず嫌い」になって欲しいですね。競争のきついところは「自分が努力しても、友だちもや同級生もすごい努力をしているかもしれない」のですね。ですから、簡単には勝てるようになりません。でも勝つには「努力」が絶対必要です。そのために「あせらず、くさらず、おこたらず」の精神が大切なんですよね。 ~あとがき~ 孫ちゃんたちの成長を見るのは楽しみです。だんだん「自分の思うようにならないと、不満や駄々をこねる」ようになりますが、そのうちに「我慢」をすることや「回りの人」への配慮もできるようになるのですね。ですから、全く心配はないのですが、別の側面から、「駄々をこねた」ときに、孫ちゃんたちにとって素直には聞けなくとも「なぜだめなのか」「悔しかったら、努力して上手になりなさい」などと「諭す」ことの大切さを感じた次第です。じいじ、ばあばにとって親の様に「育てる責任」はなく「かわいがる」ことが仕事みたいなものですので気楽なのですが、ひとこと言いたくなるのも正直なところですね。以上
2021.07.12
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NHK大河ドラマ『青天を衝け』も回を重ね、「渋沢栄一」の若き頃の姿がいきいきと描かれ毎回大きな楽しみになっています。いよいよその後の渋沢栄一にとって、資本主義黎明期を創出する活動のベースとなる知識・経験がこのパリ万博という「洋行」で身に着けていくことになります。また、大阪での経済、経済界に活躍した「薩摩の五代友厚」などとの接点もみられるので興味が尽きません。 (出典:wikipedia、パリ万博幕府派遣団集合写真)ところで、大河ドラマのなかで、徳川将軍家以外に、御三家の水戸徳川家や御三卿と言われる『一橋家、田安家』などが登場します。慶喜も御三卿の一橋家から15代将軍になりましたね。そこで、ちょっと詳しく調べてみました。 <幕末での徳川家>以下の様に、3つに分類されます。① 徳川将軍家(徳川宗家)② 徳川御三家:家康が幕府を守り、将軍を補佐する藩として家格を与えた。水戸家は参勤交代が免除され、常府として江戸に常住した。実際は、御三家はすべて家康の子どもたちです。それにしても、家康も子どもに恵まれましたね。〇尾張徳川家(家康9子義直)〇紀州徳川家(家康10子頼宣)※8代将軍吉宗〜家茂まで〇水戸徳川家(家康11子頼房) ③ 徳川御三卿→徳川将軍家から分立徳川将軍家に後嗣がない際に後継者を提供する役割を担った。実は、この御三卿というのはちょっとよくわかりませんでした。調べると、8代将軍吉宗、9代将軍家重の時代に創設されたようです。〇田安徳川家(始祖は徳川宗武:吉宗の次男)〇一橋徳川家(始祖は徳川宗尹:吉宗の4男)〇清水徳川家(始祖は徳川重好:9代将軍家重の次男)※田安、一橋、清水の通称はそれぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。 (出典:wikipedia 1866年(慶応2年)頃 撮影)御三卿の「家」の性格は、江戸時代の他の大名家とは明らかな相違がみられ、幕府からは各家の当主に10万石が支給されていたが、領地は日本各地に分散して存在しており、これらの領地の支配は独自の代官所によって行われた。 <徳川昭武>パリ万博の団長の「徳川昭武」について調べてみました。徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。優秀な人材であったようで、慶喜からは期待の留学を命じられています。(出典:wikipedia、徳川昭武)パリ万博の集合写真をみると明らかに小柄な「昭武」がみられますが、このときはまだ13才だったのですから(略歴)嘉永6年(1853年) - 誕生。文久3年(1863年) - 上京して佐幕活動に従事。従五位下侍従・民部大輔に任官。元治元年(1864年) - 天狗党討伐に出陣。慶応2年(1866年) - 昭武と改名。清水徳川家を相続。従四位下左近衛権少将。パリ万国博覧会に参加。これ以後、欧州各国を歴訪するなどフランスにて留学。明治2年(1869年) - フランスより帰国、水戸藩主に就任(水戸徳川家を相続)。版籍奉還により水戸藩知事。明治3年(1870年) - 永世禄(3500石)。北海道開拓を巡見。明治4年(1871年) - 廃藩置県。東京に移住。明治7年(1874年) - 陸軍少尉任官。明治8年(1875年) - 陸軍戸山学校教官(生徒隊付)。明治9年(1876年) - アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣。陸軍少尉免官。フランスにて留学。明治14年(1881年) - 帰国。従三位、麝香間祗候。明治15年(1882年) - 大能牧場[注釈 3]を復興。小梅邸行幸。明治16年(1883年) - 家督を甥・篤敬に譲り隠居。明治17年(1884年) - 戸定邸に居住。明治25年(1892年) - 実子武定、子爵授爵(松戸徳川家の創設)。明治30年(1897年) - 従二位に叙位[10]。明治31年(1898年) - 水戸徳川家を後見。明治35年(1902年) - 正二位に叙位。明治36年(1903年) - 勲二等瑞宝章を授けられる。明治43年(1910年) - 死去。従一位、勲一等瑞宝章を受ける[11]。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山(出典:wikipedia) ~あとがき~ 草彅剛さんの「徳川慶喜」は実にはまっていて、実際もこのようなイメージの方であったような気がしてきます。「渋沢栄一」は農家、尊王攘夷志士、一橋家仕官、慶喜家臣、パリ万博、帰国後の500に届く会社設立など日本の資本主義や社会福祉などの基盤をつくられた方ですが、個人の能力、道徳観(論語と算盤)、人間的な魅力に加えて、「平岡円四郎」、「徳川慶喜」などの出会いがその後の活躍につながっていると思うと「人との出会い」は本当に大切なことと思いますね。以上
2021.07.07
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歴史こばなしです。千葉県の内房線に千葉駅からすぐの駅に「蘇我駅」という駅があります。内房線と外房線の分岐する駅です。(蘇我駅:出典wikipedia)以前からなぜあの「飛鳥時代」の有力豪族のひとつの「蘇我氏」の名前が千葉にあるのか不思議に思っていました。蘇我氏は皇極天皇4年(645年)6月14日の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだ「氏族」です。その後、分家はあるものの蘇我の名前をから「石川」「曽我」などの姓に変えたこともあり、「蘇我」そのものの名前は現在ほとんど見る機会はありません。調べると、「蘇我駅」は駅創建当時の地名からとって「蘇我駅」と命名したそうです。その地名を更に深堀すると、蘇我氏との関係が見えてきました。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して「蘇我比咩神社」を創建したという。(蘇我比咩神社、出典wikipedia)〒260-0822千葉県千葉市中央区蘇我2丁目2−7電話:043-261-3450JR蘇我駅から:徒歩13分 / バス7分東京湾岸道路(国道357号線)蘇我一丁目信号を曲がりすぐ※駐車場収容台数:3台 ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。延喜式神名帳には「下総国千葉郡 蘇賀比咩神社」と記載され、小社に列している。天正19年(1613年)、徳川家康が社領10石を寄進した。(wikipedia) <知人からコメントです>知人から早速コメントをいただきました。知識の広がりとふくらみを頂き、感銘を受けましたのでご紹介させていただきます。「歴史小話、なるほどなるほどと感じいるばかりです。初めて知ることばかりですがよく理解できました。小生は別の観点でとても興味関心があるのです。まず神話「古事記」はギリシャ神話ローマ神話にも決して劣らない日本の誇るべき文化だと思うのです。日本人の根っこのようなものが感じられます。弟橘姫がいけにえという残酷な運命を自ら受け入れながら、そけには最も愛と感謝に満たされていたのではないか。『さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも』、という歌に表されています。倭建命(日本書記では日本武尊)はあくまでも古代の英雄が一人の人格に集約された架空の人物とされていますが、古事記では、あたかも実在の人物であるかのように迫ってきます。『倭は国のまほろばたたなづく青垣山こもれる倭しうるはし』、絶唱ですね。」→ありがとうございました。~あとがき~ふと浮かんだテーマでしたが、出身が東京で、千葉には親戚も多くよく内房線にも乗りました。幼少のころ、「蘇我駅」が内房線、外房線の分岐の駅で子どもながらに珍しい名前の駅だと思っていました。歴史のほんの少しだけ深堀しただけですが、①千葉の「蘇我駅」は「蘇我氏」との関係があった、②「蘇賀比咩神社」がここに現存しているなど面白い史実につきあたりました。歴史の史実はどこまで真実かは難しい判断ですが、大きくとらえた中でみると真実・事実とは異なる歴史の可能性などがみえてきて楽しいですね。以上
2021.07.04
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