人々の憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。
つまりそれは、人に執着があるからである。
富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。
この執着から苦しみ悩みが生まれる。
初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、
そのうえ老いと病と死とを避けることができないから、
悲しみや苦しみがある。
しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、
悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、
すべての悩み苦しみはあとかたもなく消え失せる。
さらにこの執着を押し詰めてみると、人々の心のうちに、
無明と貪愛とが見いだされる。
無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、
因果の道理に暗いことである。
もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、
この無明と貪愛とのはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、
良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。
すべての人びとは、常によこしまな思いを起こして、
愚かさのために正しく見ることができなくなり、
自我にとらわれて間違った行いをし、
その結果迷いの身を生ずることになる。
業を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、
自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。
だから、結局のところ、
憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、
この心である。
迷いのこの世は、ただこの心から現れた心の影にほかならず、
さとりの世界もまた、この心から現れる。
この世の中には、三つの誤った見方がある。
もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが
否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、
すべて運命であると主張する。
二つには、ある人は、それはすべて神の業であるという。
三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。
もしも、すべてが運命によって定まっているならば、
この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、
みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、
運命のほかには何ものも存在しないことになる。
したがって、人びとに、これはしなければならない、
これはしてはならないという希望も努力もなくなり、
世の中の進歩も改良もないことになる。
次に、神の業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、
同じ非難があびせられ、悪を離れ、
善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。
だから、この三つの見方はみな誤っている。
どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。