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中二の長男が、生まれて初めてチョコをもらった。なにしろ、私は息子にはチョコはやらない主義。恋人でもないのに、なんでやらにゃならん。第一、母親からもらって嬉しいものなのか?そのへんは分からないけど、とにかくやっとことが無かったから、ほんとに生まれてはじめてのチョコレートだった。ちっちゃい袋に手作りチョコ一個と、パイの実一個が入っていたそうだ。いかにも義理だが、さぞ嬉しかった事だろう。もし今年ももらえなかったら、やっぱりあんまり可哀相だから買ってやろうと思っていたけど忘れてた。あーよかった。めでたい♪めでたい♪
2006.02.15
今のところ、日本の選手たちはなかなか苦戦を強いられている様子。もともとあまり詳しくはないのだけれど、加藤条治くらいは知っていた。足の裏が筋肉の塊と化し、土踏まずがへこむどころか盛り上がって、足の輪郭からまるでヒレのようにはみ出している…。今朝、ダンナが「あぁ~。せっかく夜中に起きて観てたのに…。」と言いながら起きてきた。「あら、だめだったの?スケート。」「うーん。メダルは取れんかった。」「あの子も?ほら…加藤なんとかって…」はっ。今、私、「あの子」と言った。オリンピック選手のことを「あの子」と言ってしまったっ…。く~~~っ。高校球児を「あの子たち」と思ったときは「私って、大人になったわ。」と感慨深かったものだ。しかし、あの「あの子」とこの「あの子」では同じ「あの子」でも全然違う「あの子」だぞ。「早く迎えに来い」と言われちゃ、お月様もヒクね。( -_-)フッ
2006.02.14
子供の頃から心が一杯いっぱいになったら月を見つめて心の中でつぶやいた言葉。「ああ。早く私を迎えにきて!」するとなぜだか胸のつかえがスッと消えて楽になる。月の光は不思議。今夜は十五夜。
2006.02.13
きょうはいい天気。洗濯日和。せっせと干してます。ダンナが。( ̄ー+ ̄)ニヤリッ あ、私も掃除機はかけたよん~ヽ('ー`)ノ~
2006.02.12
ダンナは給料取りだから必要ないが、義両親は年金生活者なので毎年この時期の一大イベント。いつもは、近所の市民ホールにやってくる税務署の特設会場で、半日がかりで並んで確定申告していた。本当は、パソコンで作成できる事を知っていたのだけれど、「確定申告はかくあるべき」というじいちゃんの考えを変えることは難しかった。オマケになぜかばあちゃんが行かなければならないという、これもじいちゃんの激しい思い込みのために、「行ったって分からん」というばあちゃんに付き添って私まで、大の大人二人して行っていたのだ。去年からは赤ん坊付きで、そりゃもう大仕事だった。ところがじいちゃん大ピンチ!今年から特設会場が廃止になったという知らせ。窓口で申告をするなら車で1時間弱の税務署まで行かなければならない。そうでなければ、自分で書類を書きそろえて郵送するようにという書面と共に、「ネットで作成」の案内が送られてきた。それを見たじいちゃんは、目がテン。http://www.nta.go.jp/category/kakutei/kakutei.htmというurlを見ただけでパニック状態に陥った。「みさこさん、これ分かるね?」「どれどれ。ふんふん。分かると思うよ~。」で、さっき作ってみた。途中、一箇所分からないところがあって、サイトに載っていた番号に電話したが、丁寧に教えてもらえてなかなかgood♪収入額と控除額を入力すれば自動的に計算されて、還付金の額がポンと出てくる。横で見ていたじいちゃんは、「いやぁ~。インターネットっていいねぇ。」と、大いに感心。とっても感謝されてしまった。そのままネットで申告してしまえるのだが、そこまではじいちゃんの許容範囲を超えるようで、プリントアウトして渡した。今、横のダイニングテーブルでいそいそと封筒に入れているところ。お役に立てて、なによりです。
2006.02.10
福岡市美術館で行われている栄光の大ナポレオン展に行ってきました。ナポレオン展は今まで何度かありましたが、個人的には5年ほど前に三越ギャラリーで行われたものがよかったです。ナポレオンの生涯に迫り、栄光と挫折、何者にも屈しない強靭な精神力に心を奪われました。今回は、また別の視点で。ナポレオンは美術・芸術を篤く保護しました。それは自身のプロパガンダの為という側面が大いにあったとしても、彼の偉業の一つには間違いありません。今回の展示はその部分に焦点を当てたものになっていました。入り口を入った正面には、有名な「アルプス越えのナポレオン」の絵が堂々と。絵画・工芸品など、当時の繁栄がしのばれるものが300点以上。特にジョセフィーヌのティアラをはじめとする宝飾品は、照明も工夫されてすばらしかったです。一緒に行った友人に、1600個のダイヤモンドがちりばめられたティアラを指して「被っていいよって言われたらどうする?」ときいたところ「被るよ~!被る、被る!」と。私だったら「辞退する…」この辺りが、私が今はじけられない理由かもしれません。なんにしても、目の保養、心の保養になりました。
2006.02.09
さて、しばらく更新していなかった間にあったことを少し。いつものように「ライター 募集」で検索していたある日。一つの募集記事を見つけた。「社員で書いてきたHPの記事を、このほど外注することになりました。」「仕事の指示を出しただけで後は丸投げ…などと言うことはいたしません」「電話やメールなどで、細やかなフォローをいたします」「ベテランよりも、これから!というライターさんを募集します」これは!私の事を呼んでいる?早速、まだちょっとしかない経歴を全てびっしりと書き連ね、応募メールを出した。すると返事が。「作品を拝見いたしました。一度直接お話をしたい。東京までおいでになれますか…」と・・・東京。頭の中を色々な事が駆け巡る。4人目は、もうすぐ幼稚園だ。入園手続きはとうに終わっている。なのに、収入のめどは全然ついていないぞ。東京・東京・東京…そういえば、前にも東京まで面接に来れないかと聞かれて断った事があったな。本気でするなら、東京に行くくらいしないとだめなのか?航空券を調べてみると、搭乗日まで日にちがないので割引がきかず、往復4万円以上。う~~~~ん。子連れでもいいかと問い合わせると、それでもいいから来て欲しいという返事。よし。ここは決断時かもしれない。と、思って航空券を購入した。だけど、やっぱり不安。福岡から東京へほとんど初めて、それも2歳の子を連れて出かけるというのは、私にとってそれはそれは大ごとなのだ。出発二日前になって、地元で知り合った在宅ライターさんに電話をかけてみた。帰って来た返事は「どんな事でも経験になると思うけど、私だったら…うーん。行かないかなぁ」その会社のHPをいろいろ見たところ、たぶん情報商材を使ってみんなで儲けましょう―という事をしたいのだろうと思う。純然たるライターの仕事とは言えないかも。そういう方向に興味があって、追求したいと思うのだったらいいのだけれど、そうでないなら…。そういわれると、合点がいく事もいくつか。よく考えて、結局いくのは止めにした。この決断が、よかったのか悪かったのか。つまりは自分が気持ちを定め切れなかったということだ。行って話しを聞いて、もし自分が思っているような仕事じゃなかったら…正直、航空券代が惜しかった。電話で話した時言われた事「ターゲットを絞る」お金が欲しい!が先走ると、よからぬ話も寄ってくる。自分が得意とする分野を定めることが、後々の仕事に繋がることになる…。そうだねぇ。でも、私の得意とする分野ってなんだろう?広くあさぁぁぁ~~くの人間だからねぇ。今回の勉強料、航空券のキャンセル料3600円也。実はこの手の勉強料、今まで結構払ってきてるのだけれど。
2006.02.07
なんかこのブログってば、くら~いところで更新が止まっているから、とっても空気が淀んでいる。今、私はとても元気ですので、もしご心配くださった方がいらしたらごめんなさい。ありがとうございます。続きを書こうとして、筆が止まってしまった。←キーボード相手でも言うのかな?あらすじだけ書くと…自分のうつ病(とおぼしき症状)はアダルトチルドレンでは?と気づく。実母との対決を経て、それでは何も解決しないと悟り、一旦は自分の中で納得したと思い込むことで症状が軽快。しかし、義両親との同居を機に次第に自分を追い詰めていく。心療内科にも通ってみるが、医師との相性が悪くそれも中断。4人目出産で、経済的に自分がどうしても何らかの仕事をせねばならないと思い立つ。在宅でデータ入力などをし始めて、ますます家事が大変に。しかし、家事・育児・仕事とフル回転する毎日の中で、いつしか自分を認める事ができるようになっていた。「私がんばってるじゃないの」と。やがて、自分がやりたい仕事はライティングなのだと気持ちを定める事ができた。まだまだ不安や戸惑いと戦いながらではあるが、なんとか自分の足で地に立っている。私にとっては、両親と同居する事、子供を四人持つ事、在宅で仕事する事が必要だったのだ。…といった感じ。自分自身の内面を整理する為に書こうと思ったが、いざキーボードの前に座ると書けない。どこか胸が痛む感じがある。そう考えると、まだ完治はしていないのかもしれない。いつ、あのどうしようもない虚脱感に襲われるのではないかと言う不安が、正直いうとまだ消えない。人は誰でも多かれ少なかれ、そんな気分を抱えているものだろうけれど。ということで、続きはもうちょっと整理がついたらいずれ書く事にします。
2006.02.04
じいちゃんの話がひと段落ついたところで、次に書く事はどれにするか考える。やっぱりばあちゃんとの事だよなぁ、と思う。じいちゃんの一件は、確かに大変だった。でも書いてみて、自分の中で随分整理がついていたことが分かった。すでに退院して一年半が過ぎ、状態が落ち着いたじいちゃんは、引きこもりがちではあるがその為返ってほとんど手がかからない。ばあちゃんは…元気だ。まず断らせていただけば、ばあちゃんは「いい人」だ。意地悪ではないし、割とあっさりしているし、優しい人だと思う。それでも、廊下をこちらへ向かって歩いてくる足音を聞くと憂鬱になる。これは、世界中の嫁と姑に課せられた永遠のテーマだろう。「相容れない」そう。どうしても受け入れる事ができない部分。そこを自分のなかで処理し、生き方そのものに昇華できればすばらしい事だが。 *********************じいちゃんばあちゃんがもと居た所は、バス一本で福岡中どこへでも行けるとても便利な場所で、福岡の中でも有数の高級住宅地を抱えている町だった。ところがそこから車でわずか30分余りしか離れていないこの町は、バスで福岡市内に行くにはたった一つのルートしかなく、車に乗らない者にとっては不便なところだ。都落ちした、という侘しい思いがあったようだ。それでも同居を始めた頃、ばあちゃんは一生懸命がんばっていた。家の1階の掃除は自分の仕事と決めたように、毎日せっせと磨いた。家はこういう風に掃除するものなのかと、恥ずかしながら私はその時目からウロコが落ちたのだった。土地に慣れようという気持ちがあったのだろう。毎日買い物についてきた。(正直、これには参った)同居し始めたときに一旦じいちゃんの生活態度が落ち着いたように見えたことで、始終「みさこさんのおかげ」と口にした。当然私も、いっぱいいっぱいに気を張っていた。が、もともと家事が下手で、すぐに汚れた茶碗を溜めてしまうし、掃除機だって気が向いた時しかかけないような生活をしていた私のすることは、ばあちゃんにしてみれば見ていられなかったのだろう。夕食後は、休む暇もなく茶碗を洗い出す。「私が後で洗うから、置いといて。」と言っても、「いいよ、いいよ。」と手を止めない。「こんな風に茶碗が溜まっていると思うと、かえって気になってしょうがない」のだという。そう言われると、今度はこっちの気が重くなる。すでに洗い始めているばあちゃんの手からスポンジを取り上げるわけにもいかず、とぼけた振りで「ごめんね~。ありがとう。」と言う私。放っておいてくれたらいいのに。本心ではそう思っていた。結婚以来、実は私はずっと鬱を引きずっていた。長男が小学校入学するのと同時に今の家に越してくる直前まで、ノイローゼ状態で心療内科にも通っていた。本当の事を言えば、なにもかもほったらかして、じっとうずくまっていたい気分だった。昼間、人に会っている時は空元気が出るので、「悩みないでしょう」と言われることさえあったが、朝起きた瞬間から「何もしたくない」という気持ちと戦いながら過ごし、夕方やっと少し出てきた元気も、夕食の支度で使い果たしてしまう。勢い、家の中はいつも散らかっていて、それを見るとまた落ち込むという悪循環。同居を始めるまでは、食器の後片付けは真夜中か翌朝にしかできない状況だった。しかし義両親をうちに呼び寄せたのは、ほかならぬ私だ。ここで責任放棄をするわけにはいかない。その義務感だけが、身体を動かす。だが、心の空虚は気づかないままにひどくなっていた。
2006.01.29
精神科への半年の入院後、家に帰って来たじいちゃん。入院中は、とにかくわがままだった。入院前から自分の主義を曲げない人だったが、それは自分の部屋に閉じこもって、自分の居心地を守るための我がまま。決まったものしか食べないとか、昼にしか起きないとか、本人の思うようにさせておけばよかったのだ。しかし入院中は、やれどの銘柄の缶入りココアをもってこいと言い、そのために市内を端から端まで車で買いに行かなければならなかったり、差し入れた物が気に入らないと言っては、何度も持っていきなおしたり、「今日、今から来い」と言ってきかなかったり、ほとんど二日に一度はなにかで病院に面会に行ったのだった。生活のペースはじいちゃん中心。でも、そのことに気づかないほど毎日必死だった。でもそれが、じいちゃんが落ち着きを取り戻した理由の一つかもしれない。入院前は自分の部屋に閉じこもり、家族ともほとんど口を利かず、存在を忘れられたように感じていたのだろう。それが、たとえ不本意な精神科への入院であっても、自分が言ったことを家族がほとんどなんでも聞いてくれる…。寂しさが少しは軽減したのではないだろうか。退院してきてからは、一切酒を飲まない。去年、アルコール依存症の主婦が書いた本がドラマになっていたが、その様子を見て、じいちゃんが酒を飲まないということがどれ程大変なことかと感心する。そして、度を越した我がままも鳴りを潜めた。しかし、なんの楽しみもない毎日。昼前に起きて食べるのは、わかめとたまねぎと卵の味噌汁にご飯。夕方6時に風呂に入り、夕食はいわしの缶詰の味を付け直したものとマグロの刺身とご飯。毎日その繰り返し。家族と顔を合わせる食事時もむっつりと黙り込み、たまに話しかけてもめんどくさそうにジロリと見て、「んぁあ~…」と曖昧な返事をすればいいほうだ。あんなに悩んでいたはずの飲酒を、やめさせることが本当によかったのかとまで思うようになった。そのじいちゃんに変化が現れたのは、3ヵ月程まえ。四人目の孫、美月がはっきりと言葉を話し出してからだ。「じいちゃん」と呼ばれるとやはり嬉しいようで、手をとって遊んでやったり、声をかけてやったり。私がパソコンに張り付いていることが多いため、美月はじいちゃんばあちゃんの部屋に入り込んで遊ぶことが多くなった。上の子たちと違い、美月はじいちゃんに対して気遣いがない。それがまたいいようだ。「じいちゃん!」と言うなり、布団で寝ているじいちゃんの周りを駆け回ったり、上に飛び乗ったり。ばあちゃんが歌う歌を覚えて、声を合わせて歌ったり。そのたどたどしい歌声が、じいちゃんとばあちゃんの心をほぐす。じいちゃんの目に少しずつ光が戻り、朝、顔を合わせれば「おはよう」と声を交わすようになった。生活のリズムは相変わらずだが、じいちゃんの体から生気が感じられるように変わってきたのだ。「堕すのかと思った。」と言われた子が、じいちゃんばあちゃんの希望の星になったと言っていい。人生とは、分からないものだ。
2006.01.23
パンツの一件は私にとって衝撃的な出来事だったが、じいちゃんも多少は気が済んだのか、その頃から少しずつ態度が柔らかくなっていった。かかってくる電話は相変わらず私しか取る者はいなかったが、その時の第一声が最初の「お前は誰か?!」から「みさこか?!」(普段呼び捨てにしたことはなかったのだが)になり「みさやんか?!」(これにはびっくり。)そして穏やかに「みさこさんね?」と変わっていった。週一回の医師の面接も功を奏したに違いない。とはいえ、医師・看護師からの説明では、じいちゃんは面接の時自分の話はとめどなく話すが、医師の話になると目をそらし全く聞こうとしない。「お義父さんは、お耳が遠いのかしら…?」とも尋ねられた。たしかに、すこし聞こえにくいことがあるようだが、どうもそのせいだとは思えない。やはり自分の周りに殻を作っていたのではないか。医師に退院の時期を尋ねると、3カ月では短すぎると言われた。その程度の期間では、退院した日に「祝い酒」となる。半年からもしかしたら1年。本人が、入院した理由を本当に自覚できるまでは退院できないと。それを聞いて、家族は複雑な気持ちだった。一年も入院させるなんて…一年で退院してくるのか…日に日に病院でのじいちゃんは落ち着いていった。基本的に、面会は面会室でする事になっている。始めの頃は心の荒れ狂うじいちゃんが、到底自ら面会室に足を運ぶはずもなく、私はしかたなく病室までご機嫌伺いに行っていた。しかし落ち着くに従って、病棟の生活リズムを守るようになり、面会室での面会も問題なくできるようになった。そればかりか、患者のリハビリとして行われる菜園活動に参加したり、レクリエーションに参加したりして、いつの間にか模範患者に。そんなじいちゃんの様子を聞いて、ばあちゃんもすこしずつ落ち着きを取り戻した。「先生が、奥さんはまだ面会に来られませんかって言ってるって。」折を見てそう声をかけると「…行ってみようか。」という返事。入院して3ヵ月以上が経っていた。やがて外泊許可が出て、週末には帰ってくるようになった。その頃から、じいちゃんが耳を疑うような事を言い出した。「先生が、『あんたはもう救いようがない。家族ももう帰って来んでいいと思っとる。ここで死ぬまで一生過ごせ』と言う。」それを聞いて家族はびっくりした。「そんな。それなら、こんな風にしょっちゅうお見舞いには来ないよ。」しかし、家族の顔を見るたびにじいちゃんは同じ事を訴えた。夫もばあちゃんも、もちろん私も、それが本当なら黙ってはいられない。夫と私は、医師との面談を申し入れた。医師は驚くと同時に怒りを隠しきれないようだった。それでも努めて冷静に話そうとしているのが分かった。「アルコール依存を克服するのは大変難しい。今までの自分の経験でも、退院した患者さんで完全に克服できたのは10%にも満たない。10年間断酒していても、ほんの一瞬で逆戻りというケースも無数にあるんですから。お父さんには、なぜここにいるか分かっているかといつも話しているんです。それをご自分が納得しない限り、退院はできないと。」医師の診察の際に立ち会う病棟の看護師たちに尋ねてみても、じいちゃんの言った言葉に皆驚いていた。しかし夫は、医師に対する信頼の根っこが揺らいでしまった。じいちゃんの言うとおりの事を言ってはいないかもしれないが、少なくとも患者がそういう不安を感じるような事を言っているに違いないと。事実は分からない。ただ、患者側と医師との信頼関係が崩れてしまうと、修復は難しい。やがてじいちゃんが医師に「私も生まれ変わらないといけない。酒もやめなければ」と言ったと聞き、家族はじいちゃんを退院させようと決断した。入院して半年後のことだった。
2006.01.18
その日、いつものように病院に行くと、じいちゃんの部屋が変わっていた。それまでの部屋は、おばあさん患者が勝手に入り込んで困るというので、ナースステーションのまん前の部屋に移っていたのだ。しかし今度は、夜通しついている灯りがまぶしすぎるといって、自分の部屋のドアにはめ込まれたすりガラスに、びっちりと新聞紙を貼り付けていた。看護師が困ったように笑いながら、近づいてきた。「お義父さん、下着のままで廊下を歩かれて…。」ああ。やってくれている。家でもパンツ一枚でいて、冬には「寒い」と部屋の温度をドンドン上げる。じいちゃんの部屋のドアを開けると、熱気で一瞬むせ返るほどだ。他の者が暑いんじゃないかなどとは考えない。それを病院でも押し通しているのだ。「最初はお風呂に入らないと言って聞かなかったんだけど、入ったら入ったで、お風呂から部屋まで戻る時にパンツ一枚でね。」精神科医の病棟には、色々な人たちが入院している。でも、裸で廊下を歩く人を見たことはない。「すみません…。」「いえ、お嫁さんが謝る事ないのよ~。でも、お家でも相当手を焼いてるんでしょうね。」あはは…とあいまいに笑いながら、じいちゃんの部屋のドアを開けて中に一歩入った。「洗濯物を取りにきました。」じいちゃんは、無言のまま服を脱ぎだした。「あ、今着ているのも着替える?」返事はない。そのままどんどん脱いでいく。私は慌てた。「着替えるなら、私出ようか…。」そう言っている間に、部屋を出るタイミングを逸した。なにしろお構いなしに脱いでいくので、部屋のドアを開けるにあけられないのだ。あけると真正面にナースステーションがある。仕方なくドアの方を向いて立っていることにした。すると、「ふん」と言う声と共に、じいちゃんは脱いだシャツを私に押し付けてきた。洗濯しろという意味らしい。やれやれと思いながら振り向くと、なんとじいちゃんは最後に一枚だけ履いていたパンツをその場でずるりと下ろし、片手で「ふん」と私に突き出した。一瞬の間。どうしてさっきドアを開けて廊下に出なかったかと後悔した。それこそ素っ裸になったじいちゃんの前で開けるわけにはいかない。抜き差しならない状況に、しかたなく宙に揺れるパンツに手を伸ばした。生暖かい。部屋を出ると、看護師が私の顔をみて駆け寄ってきた。「どうしたの?なにかあった?」いま起きたできごとを話すと、「まあ」と呆れて、「言いたい事は言っていいのよ。ここは病院だから、家ではできない喧嘩もできるのよ。」と言った。私にはとうてい無理な話だが。夕方夫が仕事から戻ると、もう黙っていられなかった。「もういやだ。どうして私だけがじいちゃんの面倒を見ないといけないの?こんな事まで我慢しないといけないの?おかあさんのお陰だって、いくら言われたって、ありがたくもなんともない!なにもかも私に押し付けて!もう行かない!あなたが自分で行ってちょうだい!!」夫はそれから2~3日の間、じいちゃんの病院へ通った。が、仕事をしている夫にはそれは無理な話だと私も本当は分かっているのだ。結局、病院へは私が行くしかないのだった。
2006.01.16
じいちゃんが入院してしまうと、家の中に漂う空気はふっと糸が切れたようになった。しかし、残った者たちそれぞれは胸の内にしこりが残った。それは、入院間際にじいちゃんから投げつけられた言葉で受けた傷だったり、こうなる前に何かできなかったのかという自問だったり、病院へ投げ込むような非道な事をしてしまったという自責だったりした。はっきりしているのは、じいちゃんは自分たちを恨んでいるということ。客観的にじいちゃんがどんなに理不尽な事を言ったりしたりしたとしても、じいちゃんにとっては全部理由があるのであり、病院に入れられるなんて不本意極まりないのだ。入院して体から完全に酒が抜けきるまでの一週間余り、じいちゃんは隔離部屋から出られなかった。入院当日その部屋をのぞいた夫によると、壁といい、床といい、なんとも言いようのない汚れ方をしていて、そこに古びた布団が敷いてあるだけの侘しい部屋だったという。一般病室に移り病棟内を自由に動けるようになると、じいちゃんは早速電話してきた。恨みのエネルギーは少しも衰えていないばかりか、隔離室での1週間はそれをますます増幅させていた。電話を切ったばあちゃんは、ぶるぶると震えながら言った。「もう私は電話に出ない」ばあちゃんの様子を見ると、そうさせない訳にはいかなかった。じいちゃんは電話口で、俺をこんな目に遭わせやがって…と罵ったらしい。電話の機能を調整して、病院からの電話がかかると「○○病院からお電話です」と呼び出すようにた。これで間違えてもばあちゃんが電話に出る事はない。それは、私がじいちゃんからの電話に出なければならないという意味だ。翌日また電話があった。「はい。」病院からだと分かるので、私は努めて明るい声を出した。「誰か?」じいちゃんの乱暴で威圧的な声に、その一言で私は震え上がった。本当に、受話器を持つ手がぶるぶると震えた。「スリッパを持って来い!こげな、病院のスリッパで歩きよるもんなんか、おらんとぞ!俺の事ば、病院に放り込めばどげんでんよかと思うとっちゃろうがぁっ!」「そんなことないよ。」私の言葉が終わらないうち、電話はぶつりと切られた。平日の昼間。家には私と赤ん坊以外誰もいない。スリッパを持って行かなければと思うが、体が動かない。一人であの病院へ行って、ものすごい形相のじいちゃんと対面する。考えただけで震え上がってしまった。しかし行かなければ、じいちゃんはまた荒れ狂うかもしれない。事情を知る友達に頼んで病院まで付いてきてもらい、やっとの思いでエレベーターに乗った。じいちゃんがいるのは重症患者の病棟なので、エレベーターを降りたところに頑丈な扉があり、スタッフが鍵を開けないと内側からも外側からも開けられない。インターフォンでスタッフを呼び、鍵を開けてもらって名を名乗りながら、もうこの人にスリッパを預けてしまおうと思った。「これを渡してもらえますか?」「え?いいですけど、ご本人に会われないんですか?」しかし、そう言葉を交わしている所へ偶然にもじいちゃんが現れたのだ。果たして、その目は怒り、恨み、悲しみ、苦しみといった感情を全て抱え込んで、亡霊のように暗くぎらついていた。持って行ったスリッパを一瞥してからその目で私を見据えて、「これじゃない」と付き返した。私が抱いている孫も、隣に立っている友達も全く目に入っていない。帰りの車の中で、友達が「あれでは、一人で会いには行けんわ。」と言った。それからは毎日のように電話がかかってくるようになった。「○○病院からお電話です」そのたびに、ばあちゃんは哀願するように私を見る。電話の内容は本当に些細な事で、そんな事でいちいち呼び出すなというような事なのだが、じいちゃんの言葉にはいつも「俺がこんなに辛い目に遭うのはお前のせいだ。」という響きがあり、無理やり入院させたという負い目を感じている私たちはそれに歯向かう事ができなかった。電話にも出られないばあちゃんが、もちろん病院にいけるはずもなく、結局私は毎日のように病院へ行き、じいちゃんの恨み言を聞かなければならなかった。友達に甘えるわけにもいかず、私は自分の神経をわざと鈍らせようと努力した。じいちゃんから何を言われても、何をされても気にしない、と。病院では、妻であるばあちゃんが一度も来ないことを不審がられた。そして私を良いお嫁さんだ、じいちゃんは感謝しなきゃならないと言った。夫は事あるごとに「ありがとう。ごめんね。お母さんじゃなきゃこんな事できないよね。結婚したのがお母さんでよかった。」と言った。じいちゃんは病院でも我がままを言い放題し放題で、スタッフもほとほと手を焼いていたのだ。やはりいつものじいちゃんではなかった。いつもならばあちゃんには我がままを言いながらも、外に向かっては気遣いをしすぎるくらいなのだ。だから同居を始める前に一度同じ精神科に入院したときも模範的な患者で、なぜここに入院しているの?と聞かれたほどだった。それなのに、今回は世の中全てを敵に回している。やはり、家族に裏切られたという気持ちがそうさせているのか。しかし、いくら病院で嫁の株が上がっても、夫から感謝の言葉を述べられても、私にも限界というものがあるのだ。
2006.01.14
2階に上がって、まず119番を回した。「酔って暴れるんですが、精神科へ運んでもらうことはできますか?」「いやぁ…その場合は、警察に電話をしてもらわないといけませんね。私たちが迎えに行っても、ご本人が乗らないと言ったら強制はできませんし。」という返事。やっぱりだめか。119番も初めてだったけど、110番なんてダイヤルしたことない。が、躊躇してはいられない。私は意を決して電話のボタンを押した。1・1・0数回の呼び出し音の後、応対の声が聞こえた。事情を説明しながら、私はここでも断られるのではないかと不安で仕方なかった。一通り私の話を聞き終わると、警官は「お義父さんは、さみしいとよ。とにかく出動はするけれど、パトカーが来ることが決して解決になるとは思わんよ。」と言った。その言葉に責められたような気持ちになったが、とりあえずはほっとして子供の頃に聞いた、“精神病院の黄色い救急車”というのは嘘だったのか…。と、ぼんやり考えた。電話を切って居間に戻ると、冷蔵庫の前で夫と義妹が二人がかりでじいちゃんを抑えていた。「離せぇっ!俺は昼飯を飲むとたい!俺の昼飯を邪魔すんな!これが、これが俺の昼飯ぞ!おい、よく見とけ!このビールが俺の昼飯ぞ!これしか俺の食うもんはなかとぞっ!」私は胸を矢で射られたような気がした。私が昼ごはんを作るのを放棄したことが、じいちゃんの引鉄を引いてしまったのだろうか。その後も、ばあちゃんへ、夫へ、義妹へ、それこそ私が知らないような昔の事まで引っ張り出して、とめどもなく恨み言を叩きつける。その一つ一つが、言われる当人にとっては胸をえぐられるような苦しみだった。人がどうすれば傷つくか、残酷なまでに知り尽くしているかのようなじいちゃんの言葉に、その場にいる者は皆ズタズタだった。「お父さん、しっかりしてよ!あの優しかったお父さんはどこへ行ったの?!」義妹の叫びがむなしく響いた。じいちゃんはきっと、それまでたくさん傷ついてきたのだろう。だから、どうすれば人が傷つくのかよく分かっているのに違いない。今はそう思える。でもその時は、なぜじいちゃんが言葉のナイフを振り回すのか思いやる余裕はなかった。「さみしい」などと言われても途方に暮れるばかりだった。パトカーがサイレンも鳴らさず、回転灯もつけずに到着し、入ってきた二人の警官を見てじいちゃんの態度は一変した。それまでどろんとした目を据わらせてあたりを睨みすえていたのが、にわかに背筋を伸ばし、目の充血さえも消えてしまった。「どうされましたか?何かありましたか?あぁ、私はなんてことはないんですよ。ちょっと夫婦喧嘩をしたまでで、家族が大げさに騒いだだけですからご心配なく。」警官たちはこのような場面は慣れっこなのだろう。うんうんと温厚にうなずきながら、じいちゃんを病院へ行くように説得してくれた。とはいえ、当人はよもや精神科へ行くとは思ってはいない。家族が心配しているからという警官の言葉にしぶしぶ従い、行きつけの内科にでも行ってお茶を濁そうと思ったようだった。パトカーで病院へ連れて行ってもらうわけには行かないが、例外として家の車の後ろを病院まで付いてきてくれた。車の中で内科ではなく、以前入院していた精神科へ向かっていると知って、じいちゃんは再び大声で吠え出したが、車を降りたあと病院の中まで警官が送ってくれたおかげで、なんとか診察室に入ることができた。精神科に入院といっても、本来は本人の了解がなければ入院することができない。しかし今回のように暴力を振るったりした場合、家族の承認を得れば強制入院という手立てが打てる。しかしその場合、個室に拘束されて体内のアルコールが完全に抜けきるまで、人によっては何週間も一歩も外へ出ることはできない。それでもいいかと聞かれて、家族は一瞬迷った。本当にこれでいいのか?間違えていないか?でもこれが、やり直しできる最後のチャンスかもしれない。ばあちゃんはほとんど心神喪失状態で、自分の名前を書くことも難しかったが、義妹の手を借りながらなんとか手続きを終わらせた。夫と義妹は病室に入ったじいちゃんの様子を見に行き、そこでも散々言われて戻ってきたが、その病室の荒れ果てた様子に義妹は涙をこぼした。こうしてじいちゃんの入院生活は始まった。
2006.01.11
2階に上がって、まず119番を回した。「酔って暴れるんですが、精神科へ運んでもらうことはできますか?」「いやぁ…その場合は、警察に電話をしてもらわないといけませんね。私たちが迎えに行っても、ご本人が乗らないと言ったら強制はできませんし。」という返事。やっぱりだめか。119番も初めてだったけど、110番なんてダイヤルしたことない。が、躊躇してはいられない。私は意を決して電話のボタンを押した。1・1・0数回の呼び出し音の後、応対の声が聞こえた。事情を説明しながら、私はここでも断られるのではないかと不安で仕方なかった。一通り私の話を聞き終わると、警官は「お義父さんは、さみしいとよ。とにかく出動はするけれど、パトカーが来ることが決して解決になるとは思わんよ。」と言った。その言葉に責められたような気持ちになったが、とりあえずはほっとして子供の頃に聞いた、“精神病院の黄色い救急車”というのは嘘だったのか…。と、ぼんやり考えた。電話を切って居間に戻ると、冷蔵庫の前で夫と義妹が二人がかりでじいちゃんを抑えていた。「離せぇっ!俺は昼飯を飲むとたい!俺の昼飯を邪魔すんな!これが、これが俺の昼飯ぞ!おい、よく見とけ!このビールが俺の昼飯ぞ!これしか俺の食うもんはなかとぞっ!」私は胸を矢で射られたような気がした。私が昼ごはんを作るのを放棄したことが、じいちゃんの引鉄を引いてしまったのだろうか。その後も、ばあちゃんへ、夫へ、義妹へ、それこそ私が知らないような昔の事まで引っ張り出して、とめどもなく恨み言を叩きつける。その一つ一つが、言われる当人にとっては胸をえぐられるような苦しみだった。人がどうすれば傷つくか、残酷なまでに知り尽くしているかのようなじいちゃんの言葉に、その場にいる者は皆ズタズタだった。「お父さん、しっかりしてよ!あの優しかったお父さんはどこへ行ったの?!」義妹の叫びがむなしく響いた。じいちゃんはきっと、それまでたくさん傷ついてきたのだろう。だから、どうすれば人が傷つくのかよく分かっているのに違いない。今はそう思える。でもその時は、なぜじいちゃんが言葉のナイフを振り回すのか思いやる余裕はなかった。「さみしい」などと言われても途方に暮れるばかりだった。パトカーがサイレンも鳴らさず、回転灯もつけずに到着し、入ってきた二人の警官を見てじいちゃんの態度は一変した。それまでどろんとした目を据わらせてあたりを睨みすえていたのが、にわかに背筋を伸ばし、目の充血さえも消えてしまった。「どうされましたか?何かありましたか?あぁ、私はなんてことはないんですよ。ちょっと夫婦喧嘩をしたまでで、家族が大げさに騒いだだけですからご心配なく。」警官たちはこのような場面は慣れっこなのだろう。うんうんと温厚にうなずきながら、じいちゃんを病院へ行くように説得してくれた。とはいえ、当人はよもや精神科へ行くとは思ってはいない。家族が心配しているからという警官の言葉にしぶしぶ従い、行きつけの内科にでも行ってお茶を濁そうと思ったようだった。パトカーで病院へ連れて行ってもらうわけには行かないが、例外として家の車の後ろを病院まで付いてきてくれた。車の中で内科ではなく、以前入院していた精神科へ向かっていると知って、じいちゃんは再び大声で吠え出したが、車を降りたあと病院の中まで警官が送ってくれたおかげで、なんとか診察室に入ることができた。精神科に入院といっても、本来は本人の了解がなければ入院することができない。しかし今回のように暴力を振るったりした場合、家族の承認を得れば強制入院という手立てが打てる。しかしその場合、個室に拘束されて体内のアルコールが完全に抜けきるまで、人によっては何週間も一歩も外へ出ることはできない。それでもいいかと聞かれて、家族は一瞬迷った。本当にこれでいいのか?間違えていないか?でもこれが、やり直しできる最後のチャンスかもしれない。ばあちゃんはほとんど心神喪失状態で、自分の名前を書くことも難しかったが、義妹の手を借りながらなんとか手続きを終わらせた。夫と義妹は病室に入ったじいちゃんの様子を見に行き、そこでも散々言われて戻ってきたが、その病室の荒れ果てた様子に義妹は涙をこぼした。こうしてじいちゃんの入院生活は始まった。
2006.01.11
日に日に精神状態が悪くなるじいちゃんは、酒を飲んで茶碗をばあちゃんの方へ投げてよこしたり、ドアを叩きつけるように締めたりするようになり、ばあちゃんとは口を利かなくなった。例によって他の者には妙に愛想よく話しかけるのだが、子供たちがそれに付き合うはずもなく、夫はいつも帰りが遅いし、結局家中で口を利くのは私だけになった。週に2度、ばあちゃんは決まって出かける用事があり、その日はじいちゃんの昼ごはんを私が用意することになっている。じいちゃんは食べ物に独特の癖があり、ひとつのメニューが気に入ると当分の間、徹底してそれしか食べない。その頃のお気に入りは素うどん。鍋の中で溶けてしまうのではないかと思うほど、クタクタと煮た麺をスープの中に入れるだけだから、手がかかるものでもない。その日私は午後から用事があり、じいちゃんのうどんを作って声をかけた後、急いで自分の昼食を食べて出かけた。ところが家に戻ってじいちゃんに「ただいま」と声をかけると、ジロリとにらんで返事をしない。いつもの事ながら何が理由かわからないが、どうも私にもだんまりモードになっているようだ。気にしないでおこうと思った。辛いのは結局本人だ。しかし夕方ばあちゃんが帰ってきて、じいちゃんから聞き出したその訳を聞いて私は頭に血が上った。「うどんが冷めていた。」猫舌のじいちゃんは、できたてを食べられない。ばあちゃんも気をつけているのだが、それでも「こげな熱いもん、食われるか!」と文句を言う事が時々あった。それで私はうどんの器をわざと温めなかった。「うどんができたからどうぞ。」と声をかけてから、なかなか食べに現れなかったのは自分じゃないか。それを、「うどん作ってから自分の昼飯をゆっくり食べて、それから俺に声をかけたに違いない。」とご立腹だ。確かに、じいちゃんが居間に現れるのと同時に私は家を出たが、それだけ急いでいただけの事。自分は呼ばれてから何をそんなにぐずぐずしていたんだ。そもそもそれだけの理由で、よくもまあ人ひとりの存在をまるっきり無視するようなことができるものだ。私は、じいちゃんの昼ごはんは作らないと決めた。やってられない。いい年したじいさんの子供じみた我がままに振り回されるのはごめんだ。向こうも口を利かないだけに、昼時になると自分で勝手にカップ麺を作って食べるので、これ幸いとお気に入りのカップ麺を山ほど買って置くことした。好きにしておくれ。私はしらない。いつもならターゲット以外の者とは口を利くのだが、このときじいちゃんはとうとう誰とも口を利かなくなった。みんなもじいちゃんが部屋に入ってきても何も言わない。そんな日が数日続き、ある朝ボソッと私に「おはよう」と声をかけてきた。でも私は返事をしなかった。私の中で積もり積もった気持ちが意地悪に形を変えていた。そんなある日、事態は急変した。私が二階にいると、下からじいちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。この頃では珍しいことではないが、私は耳をすませた。ガタガタと椅子が激しく動かされる音に続いてドアのけたたましい音がして、ばあちゃんの「痛い、痛い!」という悲鳴が。ただ事ではない。あわてて階段を駆け下りると、うずくまるばあちゃんにこぶしを振り上げるじいちゃんの姿があった。「何してるの!」とっさに私はじいちゃんを羽交い絞めにした。「はなしてくれんね!こいつは、こいつは、こげんでもせんと分からんとたい!」鼻息荒くそう言いながら、今度は足でばあちゃんを蹴ろうとするじいちゃん。ショックで動けないばあちゃんを何とか遠くへ追いやったが、少しでも力を抜くととたんに殴りかかろうとするじいちゃん。そこへ二階から中学生の長男が、何事かと降りてきた。そうだった。今日は熱を出して学校を休んでいたのだ。夫の職場に急いで帰るよう電話をするように言った。そう遠くない職場からとるものもとりあえず夫が帰ってくるまで、私はずっとじいちゃんを押さえていなければならなかった。夫がなんとかなだめてじいちゃんを居間のソファーに座らせた。ばあちゃんは自分の部屋で泣いていた。義妹も電話で呼ばれて飛んできた。そしてこんな日がくるのではないかと恐れていたと涙を浮かべた。ソファーに座ったものの、獣のような恐ろしい声でわめき続け、隙があればばあちゃんを殴りに行こうとするじいちゃんを見ながら、義妹は私にこっそりと言った。「救急車を呼んで。だめなら警察に電話して。」
2006.01.06
あけましておめでとうございます。昨年はボチボチとしか更新しないにも拘らず、読みにきてくださったあなたに感謝いたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。------------------------------------------------------封印が解けたといっても、今回は育児ノイローゼと言うわけではなかった。その証拠に、気分が落ち込んでどうしようもないときに、赤ん坊を抱きしめるとなんともいえない落ち着いた気持ちに満たされた。原因は自分でもなんとなく分かっていた。自信がないのだ。「自分らしくしていいんだよ」といわれても、自分らしさが分からなかった。自分を貫く芯が定まらず、今何をするべきなのか分からない。ただ頭にあるのは、両親と波風を立てずに暮らすことだけ。子供のことも、夫のことも二の次。常にじいちゃん・ばあちゃんが気分を害していないかどうかだけが気になって仕方なかった。そして、自分がそう思っていると悟られるのを恐れていた。いつの間にか始終不安な気持ちを抱えるようになり、そのうち「死」という言葉さえ脳裏に浮かぶ。でも本当に死ぬ勇気はない。それがまた自己嫌悪につながっていく。暗い螺旋階段をひたすらに下っていくような日々。私の母は少々エキセントリックな母親で、子供の頃からいつも母親の顔色ばかり伺っていた。思春期には親に反抗しもしたが、母のすさまじいヒステリーにかなう筈も無く、結局折れるのはこっちだった。そんな風に人の顔色ばかり伺っているうちに、私はちゃんとした自己形成をしないまま大人になってしまったようだ。精神状態というのは伝染するのだろうか。そんなある日、ばあちゃんが涙目で「不安で不安で仕方がない」と訴えてきた。同居を始めて2年が過ぎていた。ばあちゃんにしてもじいちゃんの顔色を伺いながら、私たちに気兼ねをしていろんな事を我慢する毎日だったのだろう。同居を始める理由だったじいちゃんの酒癖は、始めこそおとなしくなったもののすぐに朝から飲むようになり、更に飲むと不機嫌に黙り込むかクダをまくようになっていった。おそらくじいちゃんだって、同居のストレスが溜まっていたに違いない。部屋から一歩も出てこないとはいえ、物音や明かりや人の気配が、じいちゃんにとっては自分の領域を侵す異物だったのかもしれない。そのうちに、夜中に起き出してはビールと一緒に睡眠剤を飲むようになった。その量も日に日に増えて、私は朝起きてからばあちゃんと一緒に、夜のうちゴミ箱に投げ込まれたビールの空き缶の数を数えるのが日課になった。元の木阿弥だ。いよいよ何のための同居だか分からなくなってきた。ついにばあちゃんは総合病院の心療内科に通うようになった。そういう状況で、私は自分の鬱々とした気持ちを誰にもいえなかった。これ以上家の中にノイローゼ状態の人間がいたら、目も当てられない。大丈夫。大丈夫。まだまだ、私はがんばれる。そう自分に言い聞かせるだけの元気がまだなんとか残っていた。しかし家の中に渦巻き始めた得たいの知れない影は、ますます暗く重くなっていく。じいちゃんは飲むたびにばあちゃんを口汚くののしるようになり、それが目に見えてどんどん酷くなってきた。「これはアルコール依存症だよ」私は夫とばあちゃんにそう言ったが、二人はなかなかそれを認めようとはしない。家族というのはそういうものなのだろうか。「ちょっと機嫌が悪いだけ」「酒が好きだからしょうがない。これ以外に楽しみがないのだから。」しかし、朝・昼・晩と飲み続け、夜中に眠れずにまた飲む。これを依存症といわずになんと言うのだろう。第一、飲んでいるときのじいちゃんの様子は決して楽しんでなどいないではないか。そして、認めようが認めまいがどうしようもない事態が起きたのだった。
2006.01.04
家に帰ると、当然ながらその日から普通の日常が始まる。夫もじいちゃんも、昨日まで私が布団の上でしか生活できなかったなどということには関心はない。2週間も実家でのんびりしていたんだから、もう大丈夫だろうと思っている。理解しろと言うほうが無理な話だろう。経験しようがないのだから。「赤ん坊が出てくれば便秘が解消したみたいにすっきりする」くらいの認識だ。そう割り切らないと、こっちもやっていられない。覚悟はしていたものの、家事は相当辛かった。台所に立っても、シンクに腕を突っ張って立つのがやっとという状態で、どうやって食事の準備をしたか覚えていない。うちは物干し台が2階なので、ぬれた洗濯物を抱えあげなければならない。一段上に籠を置いては、自分が一段上がる。階段を昇りきったときには肩で息をした。それでも夫や子供たちに手伝ってもらいながら、どうにかこうにか毎日を暮らしていた入院したばあちゃんは、医者の説明では血液検査の結果炎症反応が異常に高く、身体のどこかに何らかの炎症があると思われた。しかし体中を検査しても、その原因が分からない。強いて言えば、肝臓に水の溜まった袋ができていて、その水がにごっている。が、それが発熱の原因とは言いがたいらしい。入院してすぐに熱は下がったのだが、原因がはっきりしないまま退院させられないということで、結局1ヶ月入院していた。私は自分で車を運転する自信が持てず、病院へ様子を見に行くことがなかなかできなかった。洗濯物などは夫が仕事帰りに病院に寄ってとってきてくれた。病院は、職場から家への道のりと反対方向。それでも夫はほぼ毎日顔を出した。「そんなに毎日行ってたら、自分がしんどいよ。洗濯物なら何日分かまとめて洗えばいいんだから」と言うと、「病院で退屈だろうから」と言う返事。息子とはありがたいものだ。しかしさすがに疲れたのか、2週間ほどして一日行かずに帰って来た日があった。それまで用事などで行けない日は、前日病院を出る前にそれを伝えていたようだが、その日はなにも言わずに行かなかった。するとばあちゃんから電話が。「なんで今日は来んかったと?黙って来んなんて。」その不満げな様子に、夫は怒った。「俺みたいに、毎日病院に来る家族はそんなにはいない。ばあちゃんを思ってのことだ。それをありがたいという気持ちはないのか。一日行かなかったくらいで、文句言われたんではやっとられん。」と、私に言う。ばあちゃんに言ってちょうだい。そもそも自分で蒔いた種だ。という言葉を飲み込み、私はばあちゃんに電話。「最近急に仕事が忙しいらしくて、ちょっと疲れてるみたい。毎日行くのは難しいみたいよ。」1ヶ月後退院してきたばあちゃんは、ベッドに寝ているだけの生活をしていたせいで、足元もおぼつかない。年をとってからの入院は、思いのほかダメージが大きかった。まだ70前なのかだから、少しすれば元のとおり元気になるだろうと思ったが、筋肉が弱ると同時に気力も弱るらしい。すっかり老け込んで、それから抜け出す気配がない。もはや自分のことだけで精一杯。もはや誰かの為に動いたり、気を使ったりということを一切止めてしまったようだった。私は出産を通して動こうと思っても動けない辛さを知った分、ばあちゃんの辛さも分かる。無理をさせてはいけないと思った。とはいえ、自分の身体もまだすっかり元通りではなかった。妊娠中に第五腰椎がひしゃげてしまったのでいつも腰がだるい。台所に立っていると辛さに涙が流れてくる。そんな状態から抜け出すのに、産後半年もかかってしまった。その間に、私は自分を責め続けた。こんなに辛いのは、私がだらしなかったせいだ。どうして妊娠なんてしてしまったのだろう。職場にも一年もいられなくて迷惑をかけてしまった。ばあちゃんが入院したのも、家の事を押し付けられたからきっとストレスが溜まったんだ。家の掃除も満足にできない。洗濯物も溜まってしまう。こんなお母親のところに生まれてきて、子供たちはかわいそう。優しくて、仕事がさばけて、しっかりした人がお母さんになってくれたら、その方がみんな幸せなんじゃないか。以前経験した育児ノイローゼは克服したのではなかった。自分の奥に押し込んで蓋をしていただけだったのだ。その封印が破られた。
2005.12.29
今までに3人のお産経験があるので「出産の時痛いのを我慢すれば、後はどんどん元気になるだけ」だとたかをくくっていた。助産婦さんも看護師さんたちも「片桐さんはベテランだから―」と、特に心配もしていないようだった。ところが予想は大きく外れた。最初の子を産んだとき、3階の病室から1階の診察室に向かうエレベーターの中で、私よりもずいぶん年上の産婦さんに会ったことがある。すっかりやつれて、よろよろと壁に寄りかかり、立っているのがやっとと言う状態。直視するのが気の毒なほどだった。そして4人目出産後の私が、まさしくその状態。出産後初めてトイレに行く許可が出て、看護師さんが迎えに来てくれたので立ち上がろうとしたが、目の前が真っ暗になりそのまま倒れこんだ。その次は導尿が嫌でこっそり自分でトイレに行こうとして、手すりにつかまらなくては立てないことに気づいた。壁にもたれてズリズリと足を引きずりながら向かうトイレの、なんと遠いこと。廊下には手すりがあるが、途中病室のドアのところはそれが切れている。その手すりの切れ目が恐ろしい。体中の筋肉が弛緩してしまったようで、寝返りを打つのも一苦労。実家に戻って1週間すぎても、ほとんど状態は変わらなかった。母が掃除機をかける間のたった10分間、赤ん坊を抱いて立っていただけで、その後半日は泥のように眠ってしまう。実家に2週間とは言ったものの、回復の状態によってはばあちゃんの言うように1週間で戻れるかもしれないと思っていたが、身体はそれまでの出産では経験したことのない状態だった。出産は回を重ねるに従って回復に時間がかかるし、年齢的なものもあるだろうが、やはり妊娠中にばあちゃんに意地を張って少々無理をしすぎた。そのしっぺ返しだ。愚かなのは自分だ。2週間目が終わろうとするころ、ようやく布団の上でしばらくの間座っていられるようになったが、立ち上がって家事をするなんてまだとても無理。折しももうすぐ小学校は夏休みという時期だった。2日後終業式が終われば、子供たちを実家に呼び寄せることもできる。後1週間、実家にいさせてもらえないだろうか―ばあちゃんにそう頼もうと電話をすると、受話器から聞こえてきたのは弱弱しい声だった。3日前から熱が下がらないと言う。近所の病院でした血液検査の結果を聞いて、看護師をしている私の妹は血相を変えた。数値は、その病院の医者が「様子を見ましょう」なんて悠長なことを言っている場合じゃなかったのだ。すぐに妹が車でばあちゃんを大きな病院へ連れて行った。そしてそのまま緊急入院。家にはじいちゃんがいる。私は帰らないわけにはいかなくなった。
2005.12.27
出産に対するばあちゃんの不安は膨らむ一方。毎日、「ああ、どうしよう」「私は心配で心配で」。おいおい。私にどうしろというのですか。どんなにオロオロしても十月十日で出てきちゃうんだから。そのたびに「今心配しても。なんとかなるよ。」と言う私。「なんとかなるって、あんたたちはそれでいいかもしれんけど。」ってね。あなたが産むんじゃあるまいし。そういいながらも、日がたつにつれてばあちゃんも落ち着いてきた。そのうち「まあね。赤ちゃんが生まれて一からその成長に関われるというのは、私たちにとってもいいことかもしれないと思うよ。」という言葉が出てくるほどになった。が、やっぱり一筋縄ではいかないのだった。「産後、実家にはどれくらい帰るつもり?」「そうねぇ。1ヶ月と言いたいところだけれど、上の子たちを連れて行くわけにもいかないから、2~3週間お願いしたいのだけれど。朝は自分たちでパンを食べて学校に行くし、晩ごはんと洗濯は大変だと思うけど。」「それなんだけど、私は自信がないから、一週間で帰ってきてくれん?」は?一週間?「ごめん。あんまり言わないようにしてるけど、今でもずいぶん体がしんどいのよ。産んだそんなにすぐに元通りに家事はできないと思うんだ。」精一杯平静を保ってそう言った。そりゃ、じいちゃんばあちゃんがいなけりゃ、すぐにかえってきて布団敷きっぱなしでいられるよ。でもそうはいかないでしょう。しかしばあちゃん曰く「帰ってくれば、私が手伝うから。子供たちが何を食べるかもよく分からんし、私に任されても困るのよ。」実家の母と妹は怒った。1週間なんて、お産をなんと心得るか!しかし、出産後そのばあちゃんとずっと生活していかなければならない私。ここで関係を決裂させるわけにはいかないのだ。怒りまくる実家と、ばあちゃんの板ばさみになってしまった。なんで私がこんな目に遭わなきゃならんのだ。結局、間をとって2週間実家に戻ることになった。産婦人科に入院している期間を入れて、産後3週間あればそこそこ元気になっているだろう。それでも実家では4人目で高齢出産だと心配し、ばあちゃんは長いと不満げだが、どうしようもない。いよいよ陣痛が始まった。夜中の12時ごろ、産婦人科に行こうと玄関で靴を履いているとばあちゃんが部屋から顔を出して「がんばってね。後のことは心配しないでいいからね。」と言ってくれた。その一言で安心して、車に乗ることができた。まずは産むことに専念しよう。6時間後。至極順調に4020グラムの女の子を出産。部屋に帰ろうとして、自分の身体が今までの出産とは比べ物にならないくらい参っていることに気づいた。分娩台からストレッチャーに移動するよう言われたが、首を持ち上げることすらままならないのだ。
2005.12.27
しばらくはあれこれ思い悩んだものの、ついに4人の子の母となると腹を決めた。とはいえ、上の3人のときと違い、今度は親との同居に加えて仕事もしている。それまでの妊婦生活とはずいぶん様子が違った。前は体調がすぐれないと、割りと簡単に晩ごはんはほか弁にしたものだが今回はばあちゃんの手前、そう軽々しく弁当にしたいとも言えない。一度、どうにも体が重くて、夫に弁当を買ってきてもらう事にした時ばあちゃんに何がいいかと聞くと「私は家にあるもので何かするからいい。」と言うのだ。これがまた。そう言われると、なんだかこっちも買いに行きにくくなる。「そう。じゃあみんなも、あるもので何か作って食べようか。」と言うと「そうよ。」やっぱり、そうだったのね。弁当なんて買ってんじゃないわよっ…てことですか。これは、「妊婦だから云々」は通用しないと覚悟を決めた。なにしろ、ちょっとしんどいと言うと「何いってるの。私より30歳も若いのに。」といわれる。それでも、3回に1回は「高齢出産なのよ。きついのよ。」と反論はしたが、20歳と26歳のときに出産したばあちゃんにとってやっぱり“お産は病気じゃない”のだ。私だって、31歳で3人目を出産した時は、生んだ3日後には2歳の娘を抱いて産院の中をうろついてしかられた。そのくらい元気だったんだけれど…。条件のいい職場だったが、妊娠9ヶ月目で退職した。最初は2ヶ月くらい産休をもらって復帰するつもりだったが6ヶ月ごろに差し掛かると、余りの辛さに体が悲鳴を上げだした。事務所では椅子に座っているのがやっと。立ったり座ったりするたびに、骨盤がミシミシと音を立てる気がする。それと言うのも、ばあちゃんに意地を張っていたのだと思う。家では、妊娠前と変わらず、いやそれ以上に家事をこなした。料理はぜったい手を抜かない。掃除も、普段滅多にしないワックスがけを床にはいつくばって、ひざの皮をめくりながらやった。今思えば、我ながらバカだった。意地なんて張るもんじゃない。相当体に負担がかかっていたようだ。出産直後にそれを思い知った。
2005.12.23
それまでの生活リズムが変わり、自分では気づかないうちにストレスがかかっていたのだろうか。どうも女性特有の体のリズムが狂ったようだった。働き出して2~3ヶ月経ったころ、ふと気づいた。あれ?ない。大体、28日周期でキチンとやってくる月の使者がその月は待てど暮らせど来ないのだ。ん~~~。。。。まさかねぇ。これはどう解釈すればいいのだろう。リズムが狂って遅れてる?それともリズムが狂って…おめでたぁ?!果たして、産婦人科で言われた言葉は「おめでとうございます。」でもそのときの私は、素直におめでたいとは思えなかった。夫も、産むことに賛成ではなかった。実は育児ノイローゼ経験者の私。どうにかこうにか、それを乗り越えてやっと末っ子がもうすぐ一年生。仕事も見つけて、自分の時間も持てるようになってさあ、これから!と思っていたのだ。辛い、暗い、重たいあの日々がまたよみがえるのではないか。その恐怖は身も震えるほどだった。私と同じような年齢で出産した友人も周りにはたくさんいる。その人たちに相談もした。皆、口をそろえて「産んでよかったと思う日が必ず来るって。」と言う。そのとおりだと思う自分もいる。が私より11歳年上の夫のことを考えると、また迷う。なにしろ、定年になるときに生まれてくる子は小学生なのだ。幾夜も泣きながら夫と話をした。夫の心配は私のこと。私が耐えられずに、どうにかなってしまうのではないか。ばあちゃんにも「どうしたらいいと思う?」と相談した。「それは、あんたたちが決めることだから」という返事。縁があって私たちのところへやってきた子だと思うと結局「産みたい」とは思えないままだがどうしても「産まない決断」ができなかった。そのことをばあちゃんに話しこれから色々お世話をかけるかもしれないけど…と言うとまたまた信じられない返事が返ってきたのだ。「堕すのかと思ってた。」更に「私は赤ん坊の面倒は見られないから。」何か他に言うことはないのかと思ったが「面倒を見てもらおうとは思ってないよ。心配しないでいいから。」と言うのが精一杯だった。両親は、子供たちが大きくなって、面倒な子育てに関わらなくてもいいから同居に踏み切ったという面があるのは確かだ。だが、泣きながら相談してきた相手が、どんな気持ちで決意したか想像は付くはず。少しは推し量ってくれてもいいではないか。と、正直恨みがましく思った。そればかりか、ばあちゃんはじいちゃんに私の妊娠の事を告げられないという。告げると、じいちゃんが精神的にバランスを崩すというのだ。それから毎日「ああ、どうやって言おうかねぇ。」「また今日も言いきらんやった…」とため息。子供を産むのがそんなに悪いことなのか?産む前にノイローゼになりそうだ。つい夫に「やっぱり産むのを止めようか」と言ったが、夫の「二人で産むと決めたんだから、ばあちゃんが何を言ったからって気にするな。」という言葉に思い直した。私からじいちゃんに伝えようかと言うと、話の持っていきかたがあると断られ、やっとばあちゃんが伝えたのが2週間後。話してみれば「そりゃぁ、階段には気をつけんといかんなぁ」という一言が返ってきただけだったそうだ。ばあちゃんは、じいちゃんという人を理解できていないのじゃないか?私はそう思った。
2005.12.19
私が就職した9月は、そこでは一番忙しい季節の始まりだった。普段は日・月が定休日だが、秋は日曜日も出勤という日が多い。それに、私の前任者は15年以上事務方を一手に引き受けていていろいろな仕事は全て彼女の頭の中にあった。別の言い方をすれば―書類の整理はむちゃくちゃだった。それがろくに引き継ぎもないままの急な交代でどこに何があるのか、ぜんぜん分からない。辞めた彼女にいちいち電話で聞いていたがそのうち電話も繋がらなくなってしまった。私は書棚や机の引き出しをひっくり返しているものといらないものを分けることから始めなければならなかった。同じ種類同士、同じ事務用品同士をひとつにまとめレターケースに仕分けて片付けてその引き出しに何が入っているのかシールを貼る。誰が見ても、どこに何が入っているのか一目瞭然になるのにゆうに1ヶ月はかかった。今までの資料なども、ファイリングがバラバラであちらこちらに飛び散らかっている。もちろん順番もばらばら。それも整理整頓。それらの作業と同時に、今現在の事務もしなければならない。最初の1~2ヶ月の目も回るような忙しさはそれまで11年間専業主婦だった私にとって新鮮だったがやはり疲れが溜まる。ついに私は昼休みに家に帰らないことを宣言しようと決意した。自分の気持ちはきちんと伝えなければ相手は知りようもないじゃないか。と思うことにした。「やっぱり、お昼は事務所で食べる。その方がゆっくり時間を取れるから。悪いけど、お昼は家にあるもので食べてください。」ばあちゃんはもの好きもいるものだという顔をしたが私はやっと昼休みを自分の手中に収めたのだ。それからは12時の時計の音と共に部屋中のカーテンを閉め私一人になった事務室のドアの鍵を内側からかけてゆっくりとお弁当を食べた後は、ソファーで寝転がるという幸せな1時間を過ごすことになった。環境が急激に変化し忙しくなったが生活に張りが出て、気持ちはかえって元気になった。と、思っていた。が、思わぬところに落とし穴が待っていたのだ。自分で言うのもなんだが女性の体というのは、案外ナイーブなものだと思い知らされることになる。
2005.12.15
じいちゃんとは言葉を交わすことさえほとんどないので、逆に何もないときには摩擦も起きない。しかし、相手がばあちゃんとなるとそうもいかない。いやでも口を利かないわけにはいかないし、一緒の部屋にいてしなければならないこともある。まあ、お互い様だろうが。仕事に出ることが決まったとき、ばあちゃんは「そりゃ、今は私たちは元気だけど、仕事に出てしまって私たちが動けなくなったらどうするの。」と言った。「そうなったらその時考えるよ。」と、私は仕事を始めた。ほんとうに、ばあちゃんも元気でなんだって自分でできる。そんな“もしもの話”に付き合っていたら、何もできない。朝、幼稚園へ子供を送ったあと職場に出かける。9時から12時まで仕事をして1時間の昼休み。午後は1時から3時まで。家から自転車で2分ほどの距離で、通勤は至極便利だった。昼ごはんは弁当を持っていこうと思い、そうばあちゃんに言うと、返ってきたのは驚くべき返事だった。「私の昼ごはんはどうなると。」はい?今、なんと言われましたか?「わ た し の ひ る ご は ん は ど う な る」と、言いましたか?……もしもし。あなたの肩から伸びているその長いものはなんですか?そう。腕ですね。手ですよね。おしりの下に2本延びているのは?足ですねぇ。ついでに言わせてもらえば胴体のてっぺんにくっついているのはなんでしょう?そうそう。頭ですね。使わんかい。使わんかい。頭と手と足を使わんかい!確かに同居すると言ったのは私だが、「隠居してください」なんてひとっことも言ってませんが。いい大人なんだから、自分の昼ごはんくらい自分でしてくれぇぃっ!……という心の叫びに蓋をして「そうね。じゃあ昼休みは帰ってくるから。」と言った私。“いい嫁仮面”だった。自転車で2分とはいえ、事務員は私だけで昼休み留守にするなら戸締りをして出なければならない。家に戻って、昼ごはんの用意(まあ、ラーメンかうどん程度のものだけど)をして、食べて、後片付けをして…あっという間に12時40分。どんなに遅くとも12時55分には自転車を漕ぎ出さないといけない。が、一休みだってしたい。ちょっとソファーに横になると、ばあちゃんが「あんた、もうあと10分しかないとに横になって。」と言うのだこれが。昼休みになんてなりゃしないと思いながらラーメンをすすっていると、ばあちゃんが「ほら。家に帰ってきたほうが気分がゆっくりするでしょう」あ~~~っっっ!!あなたは、あなたは、あなたは間違えているっっっ!!!……という心の叫びにも蓋をして「うん…。そうね…。」と言った私。つくづく自分が情けなかった。実際、同じように忙しい昼休みを過ごしている人もたくさんいるとは思う。贅沢な悩みだったかもしれないが、私はじいちゃんばあちゃんと、ちょっと距離を置く時間が欲しかったのだ。それなのに結局、ばあちゃんの言うことをはいはいと聞くしかない自分って…なに?
2005.12.12
さて。作った高野豆腐料理の写真をアップしようと目論んでいたのに、思い出したときには全て胃袋の中だった。; ̄ロ ̄)!!それより、作ってからもう4~5日経ってるし。ちなみに、これを作りました。高野豆腐、本当に久しぶりに食べました。やっぱりばあちゃんは使ったことなかったみたい。「これって、水で戻すんやろう?え?10秒でいいの?」と言ってましたから。テレビで見て想像していたとおり、おいしかったです。薄く短冊切りにすると、スポンジみたいな食感は気にならなくなり、だんなも結構いけると言って食べました。お試しあれ。
2005.12.12
テレビで高野豆腐の特集があった。そういえば子供の頃は母がよく料理に使っていた。口にいれて、そぉーっと噛むとじゅわじゅわ~っとダシが染み出て、口いっぱいに広がる。ふわふわと柔らかくて大好きだった。でも夫の家では高野豆腐を食べる習慣がなかったようだ。結婚したばかりの頃、一度煮物を作ったが一目見るなり「なんだぁ?こんなの人間の食いもんじゃないだろう?スポンジじゃないか」と言って箸もつけなかった。どうやら存在すら知らなかったようだ。それっきり使ったことがなかったが、今日の特集で高野豆腐のスバラシイ効能を知ったのだ。それは“保湿力”!!これにはアンテナぴぴぴぴんだ。実は私は「尋常性乾癬症」という持病がある。症状は今落ち着いていて、たまらない痒みというのはないのだが脛は毛穴がぷつぷつとふくれ、カサカサして突っ張った感覚がいつもある。尋常性乾癬症は、膚の再生がうまくいかないという病気なので高野豆腐を食べたからと言って原因そのものがなくなるわけではないがお風呂に入っている間は痒みがとまるので膚の水分を保つことができれば、症状は軽くなるんじゃなかろうか。よっしゃ。今夜は高野豆腐だ。
2005.12.08
春に越してきて、夏、秋と、じいちゃんなりに生活を変えようと努力はしていた。酒は相変わらず飲むものの、昼間は近所の様子を覚えるといっては散歩に出たり、夏にはセミの抜け殻を拾ってきては孫に見せたりした。秋になれば近所の神社へ銀杏拾いに出かけて、いつも一緒になる人たちの様子を面白おかしく話して聞かせたりもした。だが風が冷たくなり、外へ出るのが億劫になると、その意欲はみるみる萎んでいき「俺は寒いのだけは好かん」と、部屋にこもってしまった。おまけに、寒さが増すにつれて酒の量もどんどん増えていく。朝(と言ってもほとんど昼だが)からウィスキーのお湯割りを飲み、おやつだと言ってビールを飲む。そして夕食時にはビールと日本酒。こんなに酒びたりでいいはずがない。ばあちゃんは「機嫌よくお酒を飲んでくれるんなら、別によかろう。だって他に何の楽しみもないやけん。」と言う。その口調はまるで私を諭しているようで、話しているうちに私は自分の方が間違えているのだろうかと錯覚しそうになる。夫はじいちゃんとほとんど口もきかないで、ときどきその様子を横目で見ながら不機嫌な顔をするだけ。ばあちゃんが酒を止めさせたいと思わない理由は、じいちゃんの食事のこともあった。じいちゃんは偏食が激しく、食べる料理がほんの数種類と限られている。どんなに重ならないようにと気を配っても、週に3回は同じメニューになるのだ。二日前と同じメニューになるときは、皿を変える…と、ばあちゃんはそれは気を配っていた。(ただ同居を始めたとたん、「主婦はみさこさんだから」とそれを全部私に丸投げされたのには閉口したが。)その限られた料理も、じいちゃんは酒の肴としてなら食べるが、飲まなければ何も食べないのだ。確かに酒が入っていい調子になると、気分よくしゃべる事が多かった。私も一人で憎まれ役をするのもバカバカしいので、そのうちまあいいかと蓋をしてしまった。やがて季節は春になった。しかし、じいちゃんが散歩に出ることはもうなかった。酔っても気分がよくなるより、むっつりと黙り込んで目を据わらせる事の方が多くなっていった。そういう時は、二言目には「どうせ俺はもうすぐ死ぬんやけん。」「俺なんて酒飲んで死ねばいいったい」と言う。夕食時の雰囲気も重くなり、次第に子供たちの食事とじいちゃんの食事の時間をずらすようになった。部屋でも一人。食事中も一人。ばあちゃんが一緒にいるとはいえ、話しかけてもろくに返事もしないならいないのと一緒だ。不思議なことに、そんな状態でも尚、ばあちゃんはそれを異常だとは思わないようだった。それどころか「なーんも楽しみの無いとに、こげんして文句も言わんで居るだけで偉いと思うよ。」などと言う。もはや理解不能だ。「ふうん」とあいまいな返事をするだけで私は精一杯だった。部屋で病人のように寝ている以外は酒と食事と風呂と排泄だけの生活。「楽しみはこれしかない」という酒を飲めば機嫌が悪くなる。何を食べても硬いというじいちゃんが、なんとかおいしく食べられるようにと、細かく包丁でたたいたり、筋を切ったり、隠し包丁を入れたり、融ける直前まで煮たりと、どんなに心を砕いても、ほんの一口食べただけで無言で箸先で皿を向こうへ押しやる事さえある。それでも「一口食べたね」とうれしそうなばあちゃん。これが共依存というものだと後で知った。私はだんだん参ってきた。昼まで開かないじいちゃんの部屋の雨戸も、昼間から居間に漂う酒臭さも、じいちゃんのしかめ面も、ばあちゃんがおろおろとじいちゃんの機嫌を伺うようすも、全てがピリピリと神経に障る。だからと言って、こちらまで不機嫌な顔をするわけにもいかない。そんな頃、近所で事務員を募集している事を知った。なんとか一日数時間でも家を離れたいと思っていた私は、面接を受け合格の通知をもらった。9時から3時までのパートタイム。これで息がつけると思った。
2005.12.07
義母は19歳で7つ年上の義父と結婚した。小5のときに父親が亡くなり、母親が朝から晩まで身を粉にしてして働いて育て上げた4人娘の長女だ。小さいときは、母親はダムや橋などを建設する会社の現場監督として日本中を転々とする父親に付き添い、義母は農業を営む祖父母に預けられていたという。経済的には十分潤っており、両親からたびたび送られてくる小包には、熊本の田舎にはそぐわないようなきれいな洋服が入っていた。しかし、娘が目の前にいない親が送ってくる洋服はどれも大きすぎて、それを着て学校に行くのは悲しい思い出でしかない。父親が亡くなり、それからは生活も苦しくなった。だから中学を卒業したら、小倉で住み込みの見習い看護婦をして仕送りをした。そんなとき、義父に見初められて結婚。田舎娘から見れば、小倉は都会だ。働くことだけで必死だった義母は、義父と知り合い初めて都会の空気に触れた。パフェもあんみつも生まれて初めて食べたし、親に紹介されたとき会った義姉の美しさにも圧倒された。(義姉はミスなんとかだったらしい)姑と4人の義弟・義妹との同居。収入は夫である義父からしかない。結婚して外にいた義兄・義姉も含めて義兄弟達からはいじめられ、その義兄弟も認める、兄弟一気難しい義父の嫁として姑に仕え、ぎりぎりの収入でどうやって生活していたか思い出せないという。なにもかも義父のペースに巻き込まれて始まった生活の中で、義母にとって口ごたえなどもってのほかの事だった。我慢して、我慢して、どうしようもなくなったら家を飛び出し実家に帰る。でも実家でも心配させまいとして、なぜ帰ってきたか理由を言うことはなかった。そんなふうに、こと義父に関しては徹底的に我慢することを癖にしてしまった義母。その癖は、私達との同居を決めるときにも表れた。本当は同居したくはなかった義母。義父が眠れずノイローゼ状態になり、二人での生活が困難だったとしても、そこには30年かけて作り上げた友人・職場…自分の居場所があったのだ。同居しようと私が持ちかけ、それに周りも同調した。でもそれは、毎晩夜中に呼び出される事に疲れた私達の都合ではなかったか。「その気持ちはありがたい」と言いながらも、なかなか決断できない義母を息子夫婦と娘夫婦が取り囲み「どうしたいの?」「大事なのはお母さんの気持ちだ」「私達は同居するのが一番いいと思うけど、お母さんはどう思うの?」と詰め寄った。そうでなくても精神的に参っていた義母。そうそう簡単に決断などできないのだ。同居するのかしないのか。それだけでなく、他にも選択肢はあったかもしれない。結局こちらが言い伏せたのではないかと思う。「そうすることが、義父にとって一番いい」それが同居を決める理由だった。つまり義父の事しか考えていなかった。義父の状態が落ち着くことが、義母にとっても幸せだと私達は考えた。でもそれは非常に表層的な考えだったと今は思う。「同居することにした」と、いくつかあったかかりつけの医者に話すと、どこでも「年をとってからの引越しはよくない」と反対された。でも寂しい義父にとっては周りに人がいた方がいいに決まっていると私達は思った。しかし、「年をとってからの引越し」の辛さが身にしみたのは他でもなく義母だった。義父はどこに行っても、結局自分の部屋に閉じこもっているのだ。どうしてあの時、もっと義母よりの気持ちで考えられなかったのか。それだけみんな切羽詰ってはいたのだが、それにしても。同居してから一回りも二回りも小さくなった気がする義母をみると、そう思う。私が義両親と同居していると知ると、みんな「偉いねぇ!」と言ってくれる。私も「でしょう?もっと言って、言って!」と返す。でも胸のうちには、義母への申し訳なかったという気持ちがある。だから「同居してやった」とは思えないし、思わないようにしないといけないと思う。
2005.12.04
結婚して最初の4年間はアパートに住んでいたが、下の階の住人は単身赴任のおじさんで、昼間はだれもいなかった。その後一戸建ての借家に移り、中古の家を買った。そんな訳で、うちの子供たちは家の中を静かに歩くという感覚が分からなかった。一方両親は、30年近くも鉄筋のアパートの最上階で暮らしていたので、近所の物音が気になることなどなかった。その両者が同居すると、どうなるか。じいちゃん、ばあちゃんは「うるさい!階段で跳ね回っとるのは誰ね!?」子供たちは「えー?誰も何もしてないよ。」木造の家で防音構造なども特にないので、物音が家中に響く。子供たちは今までどおり、普通に歩いているつもりだがじいちゃんばあちゃんにとっては、耐えられない騒音。それに、小4・小2・幼稚園児という3人が揃えば静かであるはずがない。自分たちの部屋はあるが、部屋にこもるような年でもなく、夕方になれば居間に集まって、ふざけて走るわ、騒ぐわ。夫と私は慣れっこなので、それまでほとんど気にしたことがなかったが居間と廊下を挟んだ部屋にいる、じいちゃんたちにとっては辛かった。「子供部屋にテレビを置かんね。」ばあちゃんがそう言った。それだけは避けたかった。子供部屋にテレビがあれば、居間は静かになるかもしれない。でもそれだけは絶対にするまいと決めていたのだ。しかし、日ごとに険しくなるばあちゃんの顔に、ついに負けた。「うちは子供中心ですから」同居を始めるときに私が言ったその言葉は、むなしく砕け散った。そうは言っても、子供たちがたちまちおとなしくなるわけではない。ある日の夕食後。じいちゃんはまだ食事が終わっていなかったが子供たちは居間のテーブルの周りをグルグル駆け回りながらキャーキャー大騒ぎし始めた。私は、子供の声を右から左に流しながら、新聞か何かを読んでいた。読み物に没頭すると、少々の騒音は気にならなくなる性質なのだ。これがよくなかった。「お前ら、静かにせんかっ!」突然じいちゃんが声を荒げた。一瞬、子供たちの動きが止まった。「分かったんかっ!静かにせんかぁっ!!」そういうと、じいちゃんは席を蹴って部屋に戻り、そして、私とは一言も口を利かなくなった。10日間。こちらから何を話しかけても、一切返事をしない。それどころか、私の存在すら無視するように廊下で行き会ってもよけることもせず突き進んでくる。最初、私は途方に暮れた。厄介なことに私以外の家族には、いつになくにこやかに言葉をかけるのだ。だからばあちゃんも子供たちも、じいちゃんが機嫌がいいと思っていた。心配をかけると思い黙っていたがついに3日目に、ばあちゃんに打ち明けた。口をきかなくなったきっかけは、心当たりが確かにある。だからと言って、なぜ口をきかないのか理解できない。そう言いながら、泣けて泣けて仕方なかった。ばあちゃんは私を気の毒がったがそれは昔から腹が立ったときの常套手段でじいちゃんの気が済むまでどうしようもないと言った。「ごめんね。かわいそうにね。」私にそう言うしかないばあちゃん。40年以上連れ添っても、じいちゃんの横暴に一言も返せないのか。私は暗澹たる気持ちになった。しかし5日も続くと、じいちゃんの方こそ哀れに思えた。いくらじいちゃんが孫に優しい声をかけても、子供が寄ってくるのは私のところ。70も越えて、いったい何をやってるんだか。そっちがその気なら、なにもこっちが下手に出る事はない。そして10日目。朝、洗面所で会ったときじいちゃんが言った。「おはよう。」じいちゃんの気が済んだ瞬間だ。やれやれ。これで透明人間の気分を味会わずに済む。もちろん、私も何もなかったかのようににっこり笑って「おはよう。」と応えた。しかし透明人間体験は、相手を変えながらその後いくどとなく降りかかることになる。そうしながら実はじいちゃん自身が透明人間になっていくことも知らずに。
2005.11.30
滑り出し好調に思えたじいちゃんと孫たちの関係は、すぐに冷えていった。孫たちがじいちゃん、じいちゃんと懐いて寄り付くのを喜んでいたようだったが、実はじいちゃんにとってそれはストレス以外の何ものでもなかったのだ。やがて、部屋に子供が入るのと追い出すようになり、話しかけても返事をしなくなった。じいちゃんは、自分の領域に他人が入り込むのに耐えられないのだ。布団にもぐり頑なな表情でテレビを観るじいちゃんに話しかけるのは、とても勇気のいることで、しだいに子供たちはじいちゃんから遠のくようになった。不安で寂しくて、お酒に逃げて自己嫌悪という悪いサイクルを繰り返す日々。もう十年以上診療内科の薬なしで眠れないじいちゃんは、やはり病気なのだ。しかしその頃、家族の中ではそのことを口にするのはタブーだという暗黙の了解があった。じいちゃんは、病気っていうわけではい。ただちょっと気難しいだけだ。でもその考えは、じいちゃんの気持ちから目をそむけているだけで、じいちゃんのためにはならなかったのだ。じいちゃんにとって、一人で留守番する寂しさより、大勢の中で一人ぼっちの寂しさは、余計に骨身に染みたかもしれない。たとえそれが、自分が蒔いた種から出たことだとしても。
2005.11.28
世代を超えて受け継がれる親子関係は、確かにあると思う。義父と夫。夫と息子。母と私。私と娘。だからしょうがない、とは思わない。結局、運命は自分が作り上げるものだと思う。残念ながら、夫は父親との良好な親子関係を築いたとは言いがたい。そして、危うくわが子との親子関係も破綻しかねないところだった。夫には、理想の子供像があったようだ。いわゆる「腕白でもいい。たくましく育ってほしい」というタイプ。残念ながらうちの長男は、それとは著しく異なっていた。最近知り合いの6歳の息子が「広い意味で言うと、自閉症の枠のなかに入ると言ってもいい」という診断を下された。だったら、うちの子もじゃなかったの?と、その子を見ながら思う。小さい頃の息子は、昼間はドンと座ってニコニコしていた。ただ、ニコニコしているだけ。いたずらもしないし、おしゃべりもしない。近所の人たちから「まだバイバイも言わないの?」「聴力の検査を受けたほうがいいかもしれない」と言われて泣いた。夜になると豹変し、泣き喚いて手がつけられない。9時になると抱いて外を歩き回らなければ眠らない。やっと眠っても夜中の12時になると起きて、毎晩決まった手順で水を飲まなければならない。ひとつでも手順が狂うと、狂ったように泣きそのまま眠らなくなる。乳幼児健診でも引っかかり、保健所での個人面談で「言葉は少し遅いですがアイコンタクトもできているし、まあ心配することはないでしょう」とは言われた。でも幼稚園に行くようになっても捉えどころがない感じ。「空気のようだ」と私が言うと、幼稚園の先生が手を打って「上手いことを言いますね!」先生から言われるのはいつも「ともくんは自分の世界を持っています」それを複雑な気持ちで聞いた。いつも心ここにあらずで何かを考えているように見えるが何を考えているのか分からない。夫は、そんな息子をなかなか受け入れることができなかった。「ぼーっとするな!」「シャキッとしろ!」打てば響くような返事が欲しい夫は、それができない息子に苛立ち手を上げることもしばしばだった。父からいつも怒鳴られ、叩かれて萎縮しない子供はいない。時と共に、夫と息子の緊張関係は強まり、家中をぴりぴりとさせていた。夫が息子を責めるたびに、私は正面切ってかばった。そうせずにはいられなかったのだが、それでますます空気は張り詰めた。両親と同居して、なにが一番助かったかと言えば、この関係にふっと風穴が開いたことだった。長男は小学校4年生になっていたがまだ幼く、じいちゃん、ばあちゃんが一緒に住むようになるのを素直に喜んだ。じいちゃんも孫たちに囲まれた生活が始まるのがうれしくて、なにかにつけて話しかけてきた。息子は、じいちゃんが自分を必要としていると感じたようだ。そのことが、自信の芽生えにつながったと思う。夫も心理学を学ぶ機会を得て、それまでの息子への接し方を省みたようだった。お互いに少しずつ成長して、二人の関係が緩やかに変化したのがはっきりと分かった。今では息子にそんな頃があったとは想像しにくい。野球部で真っ黒になり、勉強は試験の前だけがんばり、休みの日は友達と遊びに出かける、普通の中学2年生だ。夫との関係は…いい距離感を保っている。それでいいと思う。夫も息子も当然ながら別の人格なのだから、仲良し親子じゃなくても別にいいじゃないかと思う。二人と接する私自身が揺るがなければそれでいいのだ。相変わらず、こっちの質問にとんちんかんな答えを返すこともあるが、私には、割といろんな事を話してくれる。「母さんはオレの理解者だと思ってる」などと、ありがたい言葉も頂戴した。もし同居を始めずに、緊張感に満ちた生活をあのまま続けていたら。このことだけは、両親に心から感謝したい。
2005.11.27
両親の部屋は襖のある二間続きの和室で、じいちゃんとばあちゃんがひとつずつ使っている。その襖は、ふだんはいつも開けっ放しなのだが、その日は夕方まで締められたまま。どうしたのかというと、夕べの出来事が尾を引いているらしい。夜、ばあちゃんがお風呂に入っている間に、3時間のタイマーが切れてファンヒーターが消えてしまった。ファンヒーターはじいちゃん側に置いてあるのだが、じいちゃんは布団に入って眠ってしまい気づかなかったらしい。ばあちゃんがお風呂から上がりしばらくすると、目を覚ましたじいちゃんが「ファンヒータのスイッチを入れなかった」と言ってプンプン怒る。「寒くなかったから、切れているのに気づかなかった」というばあちゃんの言葉で怒りにさらに拍車がかかり、翌日になっても「寒くないって言ったやないか。」と言って、ばあちゃんが襖を開けるのを拒否したのだ。「子供と同じ」と呆れるばあちゃん。「子供だったらかわいいけれど、じいちゃんじゃかわいくないよ」と私。そういえば、私にも覚えがある。同居を始めて最初の電気代の請求書が来たとき、びっくりして私は思わず大声で読み上げた。「に…2万8千円?!」とたんにじいちゃんは部屋に閉じこもり、その夜は部屋の電灯をつけようとしない。部屋のテレビもつけず、ばあちゃんの部屋のテレビを不自然な格好で首を伸ばして見ようとする。暗くなったので、「なんで電気つけないの」と言って私がつけると、「消さんね。俺が電気を使うけん、電気代の上がるとやろうけん。俺が使わねばよかとやけん。」明らかにすねている。「なに言ってるの。そりゃ私だってびっくりしたけど、使わなきゃならないものはしょうがないでしょう。」「いいや。俺が悪いとやけん、真っ暗でもしょうがないと。」これは、正面切って言っても通用しない。「頼むけん、電気をつけてくれんね。じゃないと、私がこの家を出て行かんばならんけん。」「えっ?」「だってそうでしょう。じいちゃんにそんな思いをさせるような嫁は、この家にはおられんでしょうが。」「…じゃあ、…つけんね。」今じゃ、冬には電気カーペット・ファンヒータ・パネルヒーター全開で、一月3万5千円でございます。はい。こんな調子で、じいちゃんがへそを曲げるととても厄介。「もう、ファンヒーターが切れたこと以外に考える事が無いっちゃろう。困ったもんやね。」と、私が言葉を続けると、ふっとばあちゃんの口調が変わる。「いつもはこげん怒らんとやけどね。珍しく怒って…。」珍しくはないぞ~と思いながらもちょっと反省。少々腹が立っても、他の人からは自分の相方の事を色々言われたくないのだ。夫婦とは微妙で、絶妙で、ありがたいものだ。じいちゃん、もっとばあちゃんを大事にせんとといかんよ。
2005.11.23
「お前みたいなヤツ、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」などと物騒なことを言ったことがあるだろうか。むろん、豆腐の角に頭をぶつけたって死にゃしない。だって豆腐は柔らかいもの。でも、世の中には「硬い豆腐」があることを初めて知った。じいちゃんが冷奴を食べながら言ったんだ。「この豆腐、硬かぁっ!」耳を疑った。どうすれば豆腐が硬いと思えるのだろう。じいちゃんにとって硬いものは、他にもいろいろあった。マグロの赤みの刺身。クタクタ茹でた、ブロッコリー。じいちゃんはほとんどの歯が自前で、おまけに歯槽膿漏。本人の性格もあってか、いつも決まったものしか食べない。たまに絹ごしではなく木綿豆腐を出すと、「硬くて食べられない」とのたまわく。世の中、そんなばかなというようなことがまかり通る時があるのだ。
2005.11.20
なんとも久しぶりの更新。ほったらかしのブログに様子を見に来てくださっていたぼたんちゃんやひっこりんたちに感謝です。先月末にいただいた仕事が、想像以上に大変で、ブログの更新に手が回りませんでした。すみません。その間にも、仕事の上で自分にとって転機となることが色々ありました。うれしいことも、ちょっと辛いことも含めて。まずうれしいことは、今まで参加する機会がなかったSOHOのフォーラムに初めて参加して、福岡で活動していらっしゃるライターさんに直接お会いできたこと。仕事のことでは、メールやネット上での付き合いしかなかったので、生身のライターさんとお会いしていろいろとお話を聞き、元気と勇気がわきました。それから、もしかしたら仕事が広がるかもしれません。詳しいことはまだ書けませんが、ライターとしてやってみたいと思う仕事にめぐり合うチャンスが舞い込んできたのです。でもそれはこれからのお話。いい方向に向かうことを祈ります。それからちょっと辛かったこと。そのフォーラムに参加するために、末の2歳の子を市のファミリーサポートのボランティアの方に、初めて預かってもらいました。案の定、3時間泣きっぱなしだったそうです。そのことも胸は痛んだのですが、割り切ろうと思いました。迎えに行ったとき、子供は泣きつかれて眠っていました。それで少し、そのボランティアのお母さんとお話したのですが、なかなか外遊びに連れ出せないという話になって…。「えっ?公園とかに連れて行かないんですか?児童センターだったら、遊ばせながらお母さんは本を読んだりできるのに。」「そうですね。でも、仕事でずっとパソコンの前に座ることが多くて、その間どうしてもビデオを見たり、一人で絵本を読んだりということになるんですよね。」「えーっ!!かわいそうですよ!」この一言が、自分で想像していた以上に堪えました。「そうですよね。だから、来年から幼稚園に入れることにしたんです。」「…そこまでして、仕事をしないといけないんですか?」その人と私は、たぶん自分の価値をどこに置くかが根本的に違っているのだと思います。少し前の私ならその言葉で「私は間違っているだろうか?」と思い悩んだことでしょう。でもそのとき、どうしてもこの仕事を極めたいという自分の気持ちが揺るがないのに逆に驚きました。ライターとして自信を持って生きていけるようになりたい。そう思いながら日々あがいている自分が結構気に入っているのです。とはいえ、その人が言うとおり子供はかわいそう。一日のうちの1時間余りを、子供のためだけに使うくらいの心の余裕を持ちたいと思ったのでした。
2005.11.20
肌の色が違っても、目の色が違っても、分かり合えないはずはない。なぜって、同じ人間同士だから。確かにそれは真実。でも分かり合うって何だろう。この世の中、自分の知らない事ばかりだと思っていた。思ってはいたがそれがこれ程までにダイレクトに自分の生活に降りかかるとは…。やはり私の考えは甘かった。ダンナの両親との同居を始めて学んだのは同じ人間同士でも、分かり合えない部分があるのだということをきっぱりと悟り、それを受け入れることが必要という事。一緒に生活を始めてからというもの毎日驚きの連続だった。それまでほとんど盆と正月くらいしか行き来していなかったので当然、お互いいいところしか見せていなかった。義父はたまに会えば、気持ちよく酔いながら楽しい話をしてくれ、義母はあくまで思いやりあふれ、細やかに気を使う素敵な姑だった。私だって、食事が終わればサッと席を立って後片付けをしたものだ。だが同居すれば私が片づけが下手で掃除が嫌いだということはすぐにばれる。子供をガミガミ叱り飛ばして、時にヒステリーを起こすことも。決してダンナの三歩後ろを歩くタイプではないことも、モロバレだ。そして私がまず驚いたのは義母がかいがいしく義父の世話をする様子だった。二人が部屋にいるときの様子はわからないが食事をするとき、義父がテーブルに着くと義母はサッと箸をとり義父に手渡す。箸は義父の手元に置かれているのに。2~3品置かれている皿に手をつけようとすると「ああ、それは後から食べんね。ご飯のおかずやけん。」「それは酒のつまみよ。こっちがビールのつまみ。」と、いちいち声をかける。義父が次に何に手をつけようとするか見極めて皿を前に出したり後ろに引いたり。ビールから酒に進み最後にご飯と味噌汁を出すというタイミングを決して外さない。見事といえば言えるのだがまるで義父が食事をする一挙手一投足を目を凝らして見ているかのようで傍にいても息苦しいほどだ。義父は時に「うるさい!どれを食べるかは俺が決めるったい!」と言うものの、大概されるがままだった。その様子を見て「みんなしてじいちゃんをこんな風にしてしまった」という、義妹の夫の言葉を思い出した。心理学で言う「共依存」という関係なのではとも思った。同居する前、酒を飲んだ義父からあれほどひどい仕打ちを受けながら義母には酒をやめさせようという気なんかさらさら無いのだった。「酒以外になんも楽しみが無いとやけんこれを止めさせたら可愛そう。第一、飲むななんて言っても聞きはしないしこれ位飲んで機嫌よくしてくれたら、それでいい」本当にそれでいいのか?内心私は不安だった。実家ではみんな下戸だったので、酒飲みの気持ちはわからない。でも、義父が自分の入院は酒のせいだったとは露ほども思っていない事は分かった。昼ごろまで寝て、起きてきたらビールを飲み、ご飯。夕方まで布団でごろ寝して、気分のままに眠ったりテレビを観たり。6時になったら風呂に入り、ビール、酒と夕食。「同居は、じいちゃんのこんな生活をサポートするためだったのかい?」という気持ちが、私の中でずっとくすぶっていた。ある日曜日。昼前に買い物から帰ってきた私が見たのは居間で子供たちがテレビを観ている横でウィスキーのお湯割りを飲んで酔っ払っている義父だった。「じいちゃん!お酒を飲むのは勝手だけど、昼真っから子供たちの前で飲まないで!子供たちがそれで普通だと思うようなことは止めてください!」子供たちの目の前できつい言葉だと思った。だがここはくさびを打たなくてはと思った。義父はコップを持ったまま苦笑いをして、自分の部屋に戻っていった。それからは子供の前で昼間に飲むことは無くなったが生活のリズムは相変わらずだった。…つづく
2005.11.03
義父はまだ入院していたが退院してきたところでおそらく手伝いにはならないだろう。色々と口出しだけはうるさいに違いないので病院にいる間に引越しを済ませてしまおうということになった。私の普段のぐうたらぶりもさすがになりをひそめ体も頭もフル回転で準備にかかる。受け入れ側はもともとすっからかんに空けてあったのでほとんど問題ない。大変なのは、30年近く住んだアパートの始末だった。押入れを明けると、荷物が出るわ出るわ。写真、レコード、編み機、オーブン…その存在さえも忘れ去っていたものが次から次へと部屋にあふれ出した。中には義父の釣り道具一式という今の義父しか知らない私には信じられない物も。昔は寝袋と釣竿をバイクに積んで夜通し釣り糸を垂らしたそうだ。義父が釣った魚をさばくうち義母は魚の扱いが上手くなったという。家族の歴史を刻んだ物たちなんだなぁ―などという感傷が湧かないこともないのだがなにしろうずたかくつもった埃との格闘だ。天袋に入っているダンボール箱にはこのアパートに引っ越してきたまま空けていないかも…などという物もありひとつひとつ中身を確かめながら、いるものといらないものを分別する。よそ者としてはこれほどの間放って置かれていたものはたぶん全部いらないものだと思うのだが当人たちにとってはそうはいかない。ひとつひとつ確かめては「ああ、これは…」と思い出に耽るのをなんとか押しとどめながら義母と二人で整理した。ちなみに中古レコード店に問い合わせたが郷ひろみと浅田美代子のベストアルバムは一銭にもならなかった。結局、ベランダと6畳間ひとつをゴミで潰して荷物を作り何軒か見積もってもらった中で一番安い「何でも屋」に頼んだ。が、これは失敗。それは、引越しの朝現れたアフロヘアーの兄ちゃんが一ヶ月頭を洗っていなかったからではない。荷物の扱いかたが素人同然で、とにかく時間がかかったのだ。以前自分たちが引っ越す時に頼んだ引越屋は9時ごろから開始して昼過ぎにはほぼ終了したのだが今回の業者は夕方6時になっても終わらない。途中で、一緒に作業している社長の携帯がジャンジャン鳴る。どうも次の予定先から催促の電話のようだ。でもこっちも片付かないと「いいですよ」とも言えない。3人組のチーム内の空気はピリピリ、イライラ、険悪になっていく。こっちは客だというのに気を遣わなけりゃならない。引越しは、安さだけで決めてはならないとその時肝に銘じたのだった。すったもんだの挙句、ようやく引越しも済み一段落。間もなく義父も退院しいよいよ7人家族としての歩みが始まった。…つづく
2005.10.29
もちろんうちが長男だということもあったし、義妹も長男に嫁いでいた。我が家の三人の子供達は、小学校の4年、2年と幼稚園の年中児。そろそろ手が離れて私にも余裕が出てきていたので、今なら大丈夫だと思った。病院の医師達は、高齢になってから環境を変えることは良い結果にはならないことが多いといって、皆引っ越しに反対した。義母も、同居をためらった。義父がどんなに扱いにくい人間か、一番よく知っている。同居することで、私たち家族に苦労をかけることになるだろう。それから、自分が30年間住み慣れた町を離れる決心が付きかねただろう。住んでいるアパートは、福岡市でも有数の高級住宅地にあり目の前にバス停があって、バス一本でどこにでも行ける。それより何より、30年間付き合って築いてきた友人達がいる。一方、私たちが住んでいるのは、福岡市と道一本隔てただけとは言え隣の市で、都会暮らしの人にとっては田舎のイメージが大きい。60歳も半ばを過ぎて、なんでわざわざ知った人もいない田舎に…という気持ちも大きかったと思う。かといって、二人の生活に戻る自信はない。昼間、義母が出かければ、義父はとどまることを知らずに酒を飲むだろう。アルコール漬けに逆戻りだ。でも24時間同じ部屋にいるなんて、耐えられない。結局、同居して義父が一人にならないようにするのが、唯一の道だと決心したようだった。義父はといえば、その時初めて知ったのだが、実は最初から同居希望だったらしい。義妹の話では、私達が結婚した時、披露宴で一人沈んだ顔をしていた義父に理由を尋ねると、「同居じゃないから。」と答えたそうだ。3DKのアパートでどう部屋割りしようとと思っていたかは分からないが、私達が別にマンションを借りたことが不満だったのだ。それほど、寂しがりやだということか。だからうちが家を買ったときは、義父が電話でそれを知らせた自分の兄弟が、即同居と勘違いして引っ越し祝いの置時計を送ってきたほどの喜びようだったようだ。だから、同居に反対の訳がない。もっとも、日なが一日布団にごろりと寝てテレビを眺めているのだから、そこがどこであろうとも関係ないのだが。私達、特に義妹の夫と私の共通した意見は「家族みんなで、義父をこういう人にしてしまった」ということだった。「腰が痛い」と言えば、一日中布団を敷いて寝ていることを許し「寒い」「暑い」と言えば、好きなだけ酒を、ビールを飲ませる。それを止めると、機嫌が悪くなり怒り出すから、止められない。―たちの悪い駄々っ子と一緒だ。「ひとつだけ言って置くけど」一足先に退院した義母と義妹夫婦、そしてダンナの前で私は言った。「うちは、じいちゃん中心には動かないからね。うちは、子供中心ですから。」…つづく
2005.10.28
そんな日々が何日続いただろう。ダンナも、義妹も限界に近づいていた。義妹は、義父を心配して昼間も実家を訪れたがそのころはもう、義父の酒は昼夜を問わない状態で目に入れても痛くないはずの義妹が側にいても不機嫌に黙り込み、返事もしない。車を運転しない義妹が夕方、自宅へ帰るバスの中で思わず涙を落とすと、隣に座る幼稚園児の娘がわざとおどけた顔をして見せるのが切なく胸を締め付けたという。そしてついに、義母は家を飛び出した。「そんなに私が許せないなら、もう離婚しよう!」そういい捨てて、義妹夫婦の家に身を寄せ精神科を受診した。毎晩繰り返される義父の言葉の暴力によって義母自身、不眠に悩まされるようになっていた。診察の結果、心身を休めるために義母は入院することになった。家を出てから数日後のことだった。義妹からそれを聞いた義父は義母を見舞い病院で医師の説明を受けた。義妹と並んで座り聞いた説明は実は義父への診察であり話は自然に義父自身の問題に移り否応なしに、義父は自分が入院することに合意せざるを得なくなった。この事が後々尾を引くのだが―車があって病院へ通いやすかった私は3日とあけずに様子を見に行った。夫婦そろって入院したとはいえ別々の個室でほっとしたのもつかの間義父はなんと義母の病室に入り浸りで義母は気持ちの休まる間がない。義父の姿を見ると、いや声が聞こえただけで動悸がして辛いというのだ。とはいえ「離婚」を口にはしても本当に離婚するだけの決心を義母がしているわけではないのは分かっていた。もし離婚したとしても一人では何一つできない義父をどうするのか。しかし、このまま退院したときに果たして二人は生活していけるのだろうか。また、同じことを繰り返すのでないか―「ねえ。うちが同居するしかないんじゃないの?」私はダンナに切り出した。…つづく
2005.10.23
「ちょっと実家に行って来る。」「えっ?今から?!」「なんか、おやじが酒飲んで暴れてるらしい…。」「お義父さんが?…暴れてる?!」義父が気難しい人なのは分かっていた。定年退職後、一時働いた会社で腰を痛めてからアパートの部屋からほとんど一歩も外に出ない人だった。若い頃から神経質で、仕事の憂さをお酒で晴らそうとして悪酔いし、悪態をついて…という話も、ダンナから散々聞かされていた。でも、まだ60歳半ばで元気なのになんとか外でできる仕事はないのかな。と、私はダンナに何度も持ちかけたが「いや…そういう問題とは違うとたい…。もう、ああいう人やけん、どうしようも無いと…。」と言葉を濁すばかり。義母も義妹も、義父には腫れ物に触るような扱いをしていた。また、事あるごとにダンナは「なあ、お袋にあんまり外出せんごと、お前からも言ってくれんね。おやじは一人で留守番をして寂しそうや。」と私に言うのだ。「えー…。私からは言えんよ。お義父さんがいいって言うから、お義母さんも出かけるんじゃないと?お義母さんだって、あの部屋で二人でじーっとしていたら息が詰まるよ。」「うーん。でもなぁ…。」義妹は、義母に直接「出かけないで、お父さんの側にいて。」と言っていたらしい。たしかに、義母は朝から昼までパートで働いて、そのまま夕方まで帰らなかったり、夜も付き合いで出かけたりと、活動的な人だ。だからと言って、なぜそれを止めないとといけないのか、その頃の私には見当もつかなかった。義父はもう何年もの間心療内科から出された安定剤を飲まないと眠れないでいた。そして、その量は年月とともにどんどん増えていたようだ。それも「薬だけでは効かない」と言ってビールで飲み下すということをしていた。後になって知ったが、その年の正月ごろから夜中に目が覚めて、そのまま朝まで眠れないという日々が2ヶ月以上続いていたという。12時ごろに起きだして、安定剤とビールを飲む。その気配で義母は目を覚まし缶を開ける音で、何本目のビールを飲んでいるのか息を潜めて数えていた。やがて義父は自分が眠れないで苦しんでいるのになぜお前はのうのうと寝ているのかとばかりに大声で義母を罵るようになった。私が知らないずっと昔の話から掘り返し「あの時もお前はああだった。」「この時もこうだった。」と、明け方まで口汚くわめき散らす。それを止めようとするとなおさらエスカレートする。義母は、言われる事にいちいち頭を下げ謝るしかなかった。そんな夜を2ヶ月過ごしてついに義母は電話をかけてきたのだった。ダンナが駆けつけても義父は大声でわめくのを止めなかったが義妹夫婦が駆けつけて、娘婿の顔を見るとそれまでのことが嘘のように大人しくなった。「よその人」の前では“普通”に振舞おうとするのだ。その日から毎晩のように真夜中に電話が鳴るようになった。1時に。2時に。…つづく
2005.10.21
同居を見越して、とは言っても家を購入後すぐに両親との同居をはじめたわけではない。「同居を前提に」というのは、ダンナの責任感からの希望であって特に義母は、同居したいという気持ちは無かったようだ。家を探している時にその条件にあった物件をあたっているという話をすると「ありがとうね。でも、私は同居しようと思ってないよ。」という返事が返ってきた。そうは言っても…というダンナの言葉を尊重して部屋がこれだけあれば何とかなるだろうと5LDKの物件に決めた。当時子どもが3人。男の子が二人と女の子が一人。二階の3部屋を私たちが使い一階の二間続きの和室をいずれ両親の部屋にすればいいと思った。築5年。まだ新しい割にはとても格安で、多少、細かい造りに不満はあるものの悪い物件ではないと思った。持ち主は、できるだけ早く売りたがっていた。しかし、家を売り急いぐというのはなにかしら理由があるものだ。入居してから1~2年の間は市役所・税務署・水道局・電気会社・ガス会社それから、その道の人がひっきりなしに訪ねてきた。「○○(前の持ち主)さんのお宅でしょうか?」もしくは「おぅ。○○か。玄関バ開けんか、こルらぁ!」どちらさんも「もう引っ越されましたよ。行き先は分かりません。不動産屋に聞いてください。」と言うと、「それは失礼しました。」と礼儀正しく帰って行くので問題はないが、うちも元の持ち主と一切連絡が取れなくなってしまい、色々困ったこともあった。―というオマケは付いていたが、ささやかな庭を耕し花壇にして、色々な苗を植えたり友達を集めてお好み焼きパーティーをしたりと、専業主婦の楽しみを味わったものだ。そんな日々が3年程続いた。同居話はその後なにも進展せず、このまま立ち消えてしまう気がした。いつ同居になっても大丈夫なようにと一階の和室には仏壇以外の家具を何も置かずにいたがその気もないのに部屋を遊ばせておくのももったいないし二階に詰め込んでいる箪笥類を移動してダンナの書斎を作ろうか。それとも私のホビールームにでもしてしまおうか。そんな事を思い始めたある日。夜中の1時ごろ、電話が鳴った。何事かと飛び起きて受話器を取ると義母の押し殺した声が聞こえた。「息子はおるかいな…」「はい。いるけど、どうしたんですか?」「ちょっと代わって…」ダンナを揺り起こして受話器を渡すとなにやら深刻そうな面持ちで短い会話を交わして電話を切り「ちょっと今から実家に行ってくる。」「…今から?!」実家までは車で20分強。夜中なら15分はかからない。でも夜中の1時過ぎ。いったい何があったんだろう。…つづく
2005.10.19
この間、朝からテレビですごーく懐かしいドラマの再放送があっていた。「それでも家を買いました」三上博と田中美佐子が夫婦役で出演していた、14年前のドラマ。ちょうど私が結婚して子どもを産んだころ。トレンディードラマがまだ賑わっていた、バブルがはじける直前のドラマだ。見たかったけど、慣れない家事と育児でドラマどころではなく、2回目くらいまでしか見られなかったのを覚えている。あまりの懐かしさに、ひと時ボケーッとテレビに見入ったが、14年の歳月は懐かしさを気恥ずかしさに変えてしまった。セリフ回しも、衣装も化粧も、時代がかって見える。長いんだなぁ。14年間って。結局30分くらい眺めたあと、「はなまる」にチャンネルを変えてしまったのだった。ところで「家を買った」と言えば、うちがこの中古の家を買ってからはや8年目。結婚と同時に入居した古い中古マンションから、「一戸建てに住んでみたい」という理由だけで4DKの借家に移り住んだが、その住み心地の悪さに嫌気がさした私が、「引っ越すんなら家を買おう!」とダンナに持ちかけたのだった。ダンナは長男なので、結婚する時に「いずれは同居だと思って欲しい」と言われていたし、いざと言う時に、同居できるような家は家賃が馬鹿にならない。それならばいっそマイホームを買ってしまおう。ああ。なんと殊勝な嫁だったんだろう。私は。偉いねぇと、その頃の私を褒めてやりたいよ。それで、細々と貯めたお金を全部吐き出して、すっからかん状態でこの家を買った。それが後々まで響くのだけど。家計もやっぱり資本金がないと厳しいわね。その頃のことから少しずつ、書いていこうかなぁ。テーマは「年寄りと暮らす」。なるべくグチっぽくならないようにね。気をつけて。では、つづく。
2005.10.18
佐世保バーガーって、知ってる?九州一円のみで流行ってるのかな。そうよね。たぶん。こんなのハンバーガー伝来の地って、佐世保なんだそうだ。佐世保には、米軍基地があってそこの軍人さん相手に店ができたのが最初。でも、「佐世保バーガー」という名前を耳にするようになったのは、この2~3年。ブランディングによるものだろう。ちょっと調べたら去年あたりから全国でもちらほらイベント出店されているようだ。で、この佐世保バーガー。地元佐世保では、九州中からその味を求めて観光客が殺到。佐世保中のバーガーショップがパンク状態になったそうで、ひどい時には3時間待ちとか。ハンバーガーに3時間、待てるかなぁ…私。で、なんと携帯で待ち時間案内をするようになったらしい。市内の主なお店の情報が分かり、待ち時間のロスを軽減…ってそんなにたいそうな物なのだろうか。書くだけ書いたけど、食べたことないんだぁ。ごめんね。佐世保バーガー。
2005.10.15
なにしろ、体が重い。もちろん太ってしまったのが原因なのだが、それにしても最近、疲れがとれなくて辛い。で、最近ブームになりつつある“デトックス”というものの話を知った。食事などを通して誰でも知らず知らずのうちに体内に入る「有害ミネラル」=カドミウム・水銀・鉛etc.これをちゃんと排出できないと、疲れが取れにくいし、カロリーも消費しにくい体になってしまう。そこで、「毒だし」効果のあるお茶が活躍するらしい。ネット上でにぎやかなのはミントティー【レシピをご紹介】○材料(できあがり1L分)○・ペパーミントティー…1パック(純粋にペパーミントだけのやつ。)・レモン汁…大さじ2(ポッカレモンで可)・しょうが…チューブの場合1~2cm(お好みで)・オリゴ糖…適量・お湯…500ml○作り方○1.お湯にペパーミントティーを浸し、10分間ほど蒸らす2.他の材料を加える3.水で割って1Lにして飲む。これが一日分の量。1日に1Lは、きついかな?でもおいしいらしい。一度試してみようと思い、近所のスーパーに行ってみたがペパーミントティーなどという小洒落たものは置いていなかった。通販で買うか。電車代や駐車場代をかけて街まで行くのもしんどいし。味を試したら、報告します。
2005.10.13
車を運転していたら、カーラジオから宇多田ヒカルの「Be My Last」が流れてきた。 母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの?なんとも哲学的な歌詞。なのだが、なぜか聴いているうちに所帯じみた気分になってくる。「Be My Last,Be My Last…ah…」聴けば聴くほど、鼻の奥に近所のスーパーのにおいがくすぶる気がする。あ、そうか。スーパーで買い物中に有線で流れていたのがこの歌を聴いた初めてだったのだ。ちょうどキノコ類の棚の前だった。どうりで歌声とともに、マイタケやシメジが目の前にチラつくはずだ。そう思い当たったとたんその向かいのコーナーで焼いている石焼きイモや斜め前の惣菜コーナーの揚げ物が黄色い電球で照らされているのやその奥で焼かれているサバの匂いまでもが、まざまざと甦った。これはまさしく「パブロフの犬」わぉ。何年ぶりにこの言葉を思い出しただろう。高校時代の生物の山岸先生の顔が、○年ぶりに思い浮かんだ。先生、私はきわめて健全な生物的反応を示しながらこのように地道に生きています。などと、どうでもいいことを考えながら連休最終日は暮れつつある。⇒⇒裏・売り上げアップ支援隊 “気分はホストクラブ?”アップしました☆ お暇ならきてねぇん♪
2005.10.10
近所の内科クリニックで、無料で血液検査をしてもらえると聞いて、いそいそと出かけた。生活習慣についての研究に使うデータ集めらしい。朝食を抜いて9時30分に病院へ。待合室には、知った顔がちらほら。みんな昨日、ダ○キンの交換に来た“サヤちゃんのママ”が情報源だ。血圧を測り、検尿と採血。途中、自分が注射されると勘違いして号泣する娘をいったん家に連れ帰るというアクシデントがあったものの、無事終了。1週間程で結果が分かる。あとは家でアンケートに応えればOK。帰りには万歩計のお土産つきだった。で、本当に一年ぶりくらいで体重を測った。ずーっと体重計に乗るのが怖くて、測ってなかった。4人目を産んで2年経つというのに、やっぱりぜんぜん減ってない。おなかの中身は、もう私の横を走り回っているというのにどこにどうお肉が付いたんだか。(いえ。すみません。見れば分かります。)結婚前からだと15キロ増。まあ、あの頃はやせすぎだったから、4人目を妊娠する前と比べて10キロ増だ。10キロといえば、米袋1つ分。それだけ減れば、体が軽いだろうなぁ。ダイエット…チラつくけど、お饅頭好きだしなぁ。
2005.10.05
私の投稿した記事が載ってます。よかったら読んでやってください。コメントなんかいただけたら、嬉しいです♪「あ、やってる!あなたも私もプチ依存」http://plaza.rakuten.co.jp/sohowork/diary/200510040000/さて。最近ちょっと脳みそオーバーヒート気味かなぁ。いろんな音が頭の中でぐゎんグヮンうずまいて、非常に気障り。子どもの学校のプリントを読もうと思うが、何度字をたどってみても、言葉としてすんなり入って来ない。よくない兆候。なーんにも気にせずに、両手両足放り出して、ポカーンと半日過ごしたいものだ。
2005.10.04
中学校の中間試験が近づいている。夏休み明けの課題テストの成績が、散々だった長男はさすがに“やばくない?”と思ったらしくいつもは右から左の私のアドバイスに殊勝にも耳を傾けた。いや、アドバイスってったって「本屋に行って、参考書を選んで来い!」ってだけのことだけど。試験前の部活が休みになった一日目の放課後、いそいそと本屋に出かけた息子は何軒かハシゴをしてどうにか気に入るものを見つけたらしい。「かあさん、これいいよ。こんなのが欲しいと思っとったっちゃん。おれ。」「ほお、よかったやん。せいぜい頑張ってんしゃい。」「うーん。この調子なら、オレ塾とか行かんでもぜんぜん大丈夫やん。」「…成績が上がってから言わんね。ばかちん。」あ~。来年は受験生。こんな能天気でいいのか、我が息子よ。
2005.10.02
記録的な暑さだった。本当に、10月の気温としては観測史上最高の気温だったらしい。気分はもう秋なもんだからダンナの「弁当もって公園に行こう!」という言葉にヒョイと乗ってしまったのが夕べ。夜は涼しいからね。ところが午前中からうなぎのぼりに気温は上がって、昼ごろにはうだるような暑さ。でも人間って思い込みの動物ね。(うちだけか?)秋=ピクニックに最適♪てな感じで、下ふたりを連れて公園へ出かけました。…ヨレヨレです。10月だというのに、真っ黒に日焼けしました。美月ってば、私にアイスを分けてくれないし。 でも、どんぐりを見つけて大喜び。 子ざるがえさを拾っているわけではありません。生まれてはじめてのどんぐり拾いを満喫しました。 熱射病寸前かというほど、顔真っ赤。もしもーし、どんぐり見えてませんよ~。―長男は試験勉強。長女は友達と約束。いつの間にか、親と遊びに行くのが最優先ではなくなっていた。時の流れを感じたなぁ…
2005.10.01
Amazonからのメールで、平井堅のニューアルバムの予約販売のお知らせがきた。初回生産分限定で、全ミュージッククリップ(約120分) を完全網羅したDVD付き3枚組のベストアルバム!予約しましたよー。カートから「レジに進む」をクリックするとき、ほんのちょっぴり躊躇したけど。だってね、120分もDVDを観る暇あるかなぁ~。ドラマを録画しても、なかなか観ないのに・・・。ベストに入っている曲も、持っているのが結構あるなぁ~。でも、いい。好きだモン。平井堅。それから今ほしいのが、槙原敬之の"Listen to the music" と山崎まさよしのベストね。でも、そんなに買えません(T_T)お金を貯めて、そのうち世間さまが忘れた頃に買いましょう。
2005.09.29
今日は公民館の運動会だった。朝6時15分に集合し、準備に追われて9時開会。私は広報担当だから、ずっとカメラを手に歩き回った。2時30分に終了して、後片付けが終わったのが4時30分。いったん家に帰り、シャワーを浴びて公民館に舞い戻り今度はお世話になった方たちとの打ち上げの準備。6時から始まった打ち上げが終了し、後片付けして家に帰り着いたのが9時半。家に着いたら、自分は何も聞かされていないと、ばあちゃんがおかんむり。夕べ、「明日は帰りが10時過ぎるかも。」と言っておでんの用意をしておいたので、聞いていないはずはないのだが、「すみませんがお願いします。」の一言が足りなかったのだろう。たぶん。他人同士が一緒に住むのは、やっぱり大変。やれやれ。気にしても仕方ないから、気にしないように努める…のも大変だぁ。まあ、今後気をつけよう。
2005.09.25
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