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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ
音楽と礼拝
内容についてのコメントは、
「音楽と礼拝」翻訳をアップしました
で、どうぞ。
__________________________
P・T・フォーサイス「音楽と礼拝」
Peter Taylor Forsyth,
“Music and Worship,”
Homiletic Review
, v. 67, Jan. 1914.
音楽と礼拝を分けることはできない。
「音楽と礼拝が如何に結びつくか」という問題があるだけである。
教会において音楽に用いられる楽器が正当なものであるかを見分ける主な基準は、
その目的に資するものであるかどうかという点に存する。
もしその楽器が礼拝と音楽を分離してしまうなら、その楽器の使用はやめたほうが良い。
「教会とは世俗的なもの(例えば劇場やコンサートその他のような)と結びついているのだ」とか
「教会とは霊的なものよりもむしろ審美的なものだ」といったような感想や意見を、
楽器の使用によって人々に抱かせてしまうとしたら、
そうした楽器の使用はやめたほうが良い。
コンサートの楽曲、あるいはそうした音楽の様式は、礼拝の精神とは異質なものであろう。
それは宗教的なものかもしれないが、礼拝には向かない。
教皇レオ13世
〔Papa Leone XIII,1810年3月2日-1903年7月20日、ローマ教皇在位:1878年2月20日-1903年7月20日〕
は自らの教会の音楽を控えさせ、そして礼拝を破壊し始めていた現代的様式を拒絶した。
もっとも、この教皇の判断は、結果としてシスティーナ礼拝堂での礼拝をパレストリーナ様式
〔精緻なポリフォニー技法。ルネサンス音楽の一つの極致〕
に限ろうとしたものに過ぎなかったのだが、しかしもしかすると、この教皇の判断を歓迎する人がいたかもしれない。
しかし、二流の作曲家ではなく、一流の作曲家で、
しかも芸術を二義的な位置に据え置く人が、教会音楽にとって必要とされているのだ。
キリスト教の礼拝音楽は、第一に、歴史的には、ユダヤ人教会の習慣から始まった。
第二に、宗教的には、キリスト教の諸讃美歌[hymns](例えば「マニフィカート」「ヌンク・ディミティス
〔シメオンの賛歌。「今こそ汝は去り行かせたもう」という歌い出しのラテン語からNunc dimittis.と呼ばれる。〕
」あるいは「テ・デウム
〔ローマ・カトリック教会の賛歌のひとつで、『感謝の賛歌』〕
」)が、キリスト教徒の信条から溢れ出てきた。
そして第三に、実際問題として、初期の教会における真理の告白を広める為に、キリスト教の礼拝音楽は生み出された。諸信条は歌われたのである。
後に、ルターの讃美歌に見られるとおり、音楽は宗教改革に翼を与えた。
そしてウェスレーの場合に見られるとおり、メソジスト運動の初期にも同様の働きを音楽が担った。
ここで、讃美歌にとって愚劣で不愉快な事柄の多くが、教会と教会の真理を表明するよりもむしろ、公衆を魅了し強い印象を与えることを目的とする人々のうちに見出される、ということに、
注意を喚起しておきたい。
教会音楽とは、世間を惹き付けるよりもむしろ教会を表現する為に存在するのだ。
賛美[praise]とは、世間の評判よりも教会に対してこそ、より一層必要不可欠のものなのである。
最初のキリスト教の礼拝はこの上なく素朴なものであった。
それで、礼拝音楽は声を用いるだけのものであった。
教会とユダヤ教の分離、そして教会によって為されたユダヤ教への異議申し立てが、
初期の礼拝を素朴なものとする要因の一つとなった。
音楽に関して言えば、ユダヤ教からの遺産とユダヤ教への反動の両方があったのだ。
ユダヤ教の神殿において為される儀式は、入念に作りこまれたもので、
交唱と楽器を用いたものであった。
一般にユダヤ教徒は清教徒のようであると考えられがちなのだが、
殊音楽に関しては、この考えは誤解を生むことになる。
但し、シナゴーグでの礼拝は非常に静かなものであって、
キリスト教会は大きな影響をそこから受けている。
つまり、神殿からの反動とシナゴーグからの継承が、キリスト教会にあったということだ。
更に、ギリシャの影響が教会において大きくなるにつれ、その影響は神学に留まらず、
楽器を用いての賛美を止めさせるところにも見られるようになる。
ヘレニズムにおいては、儀式において楽器を用いることはなかったらしいのだ。
キリスト教の賛美はほぼ全く肉声だけで為されることになった。
それはちょうど、異教世界において楽器の使用が世俗的な情熱と軽薄さに結びけられていたのと消息を同じくする。
斯くして、偉大なる魂の音楽は、この段階においてまだ生まれることはなかった。
しかし、教会において黙示録の受容がゆっくり進むにつれ、楽器や声楽の理念、あるいはトランペットやハープや楽団による整然たる賛美という概念が育まれていったのである。
この傾向は紀元600年ごろのローマに開設されたグレゴリアン音楽院の大きな影響によって、更に力づけられた。
そしてオルガンがシャルルマーニュの時代に発明されることになる(紀元800年のことという)。
この発明は、真に画期的な賜物を教会に齎した。
和音の発展が可能となり、現代的で西欧的な音楽の偉大な未来が切り拓かれることとなった。
そしてこの発明が、深く入り組んでいながらも和解と勝利に満ちた魂の群れ、キリスト教によって魂を開かれた者の群れに、影響を与えることになったのである。
キリスト教は音楽を偉大な芸術として作り上げていった。
しかしながら、キリスト教は更に、荘厳なる宇宙の力と平和へ向けた自らの完成を表現する、
特別で独特の音楽形式をも発展させていったのである。
キリスト教はあらゆる音楽と同様、技術的な法則を伴った教会音楽を作り上げたのだが、
更に新生した精神をも作り上げたのだ。
オルガンはキリスト教徒の魂におけるこの豊かさを表現する為に登場した。
多くの人々が、「ある一つの国」の楽器を手にしたのである。
つまり、霊的な神の民と霊的な神の国の楽器として、多くの人々がオルガンを手にした。
オルガンとは礼拝の為の至高の楽器なのだ。
それは三つの点から主張できる。
第一に、
オルガンとは贖われた人類の広大なる讃美の内に物質的世界を引きつれ、充全に参与させるものだからである。
あるいはオーケストラもこの働きを為すかもしれない。
しかし、大人数で為されるオーケストラというものはえてして出しゃばりで聞く者の注意を散漫にさせがちであるが、ちょうどワーグナーが自らの楽団をオペラの舞台の下に隠すように、オルガンというものはオーケストラ的な目障りを排除してくれるものである。
第二に、
オルガンとは、ちょうどメレディス
〔Meredith, George, 1828-1909. イギリスの小説家、詩人、ジャーナリスト〕
が「血沸く情緒[blood-emotions]」と呼んだ類の情熱的な音楽とは性分を異にするものだからである
〔“blood-emotions”は
Diana of the Crossways
, 1897.よりの引用〕
。
オルガンは興奮を掻き立てるものではなく、むしろ整然として荘厳な思いを齎すものだ。
身震いではなく高揚を与え、叫び声ではなく轟きの音を鳴らすのがオルガンである。
バイオリンはおののきを感じさせるが、オルガンは包み込むような印象を与える。
一方は神の高みへと憐れみを求めて昇り行くが、他方は人に齎される恩恵の威厳を伴って下ってくる。
第三に、
オルガンとは、神の御国とその霊感の共同体にとって魅力的な象徴となるものだからである。
全てのパイプの間を風が通り抜ける様子は、
魂一つ一つの多様性に臨在する一つの聖霊の働きに似ている。
御霊はそれぞれの魂に異なった調べ[note]を引き出し、
一つの意志の下に全てを調和させ和解させる。
それで、多くの声が響くのだが、その中で一つの声も無意味なものはないのである。
我々人間というものは、神が造り建て給うたオルガンである。
御霊が各々の魂から各自に特有の調べを引き出し、コンサートの広大な音色へと纏め上げ給う。
贖われた人類とは究極の音楽であり完全な賛美である。
そして音楽とは、あるいはオーケストラの音楽とは、
この瞬間にただ過ぎ行くばかりの知識を表現するものに過ぎない。
その表現を知りたければ、ミルトンの「荘厳なる音楽に於いて
“At a Solemn Music,” 1633-34.
」やブラウニングの「アプト・ヴォーグラー
〔“Abt Vogler,” 1895.〕
」を参照すれば事は足りる。
儀式的な点から言えば、
人々が肉声を以って礼拝に参加する形式のミサにおいて、
教会は繰り返しそこに混乱と貧弱さを感じていた。
美と荘厳さが欠如し、とりわけ一致と品格に欠け、
礼拝というものが含意しているはずの秩序が欠損していた。
人々がミサにおいて魂を表現する為には、
歌や口唱といった音楽が求められるのである。
芸術は人為[artificial]ではない。
我々の時代と社会はいよいよ音楽好きなものとなっている。
表現の器として、音楽はいよいよ一般的なものとなり、
それ故いよいよ自然なものとなってきた。
それで、礼拝はいよいよ音楽的なものとなり、自然なものを欠いては成り立たなくなってきた。
我々は素朴さを必要としているのだが、その中で一つ、需要が増大しているものがある。
それはつまり「自然なもの」あるいは「率直さ」である。
不自然な素朴さは礼拝にとって欺瞞であり不適当なものだ。
そして、そうした素朴さが非常に流行している。
それでは、人々にとって自然な礼拝の形態とは何であろうか。
それは、ある種の音楽的なものである。
個人の礼拝[private worship]においては、
地味な素朴さが自然であろうし、対話のような調べが普通であるかもしれない。
しかし公同の礼拝[public worship]とは、単に個人の礼拝を共同で行うことではない。
公同の礼拝とは個人の祈りが漏れ出てきたようなものではないのだ。
同様のことは、賛美においても当てはまる。
賛美には共同作業という基調がある。
それで、我々は抒情詩を唱ずるのではなく讃美歌を歌うのである
――もしかすると、讃美歌は抒情詩に比べて詩的には劣るかもしれない。
しかしながら遥かに優れて礼拝の目的に適っている。
公同の祈りや賛美をする場合、我々は個人でするようにしてはいけないのだ。
公同の礼拝においては、厚みと広がり、慎みと品位、そして荘重さまでもが必要とされる。
これらは個人の礼拝には不可能であり不必要なものである。
個人の礼拝に存する神との親密さは、公同の礼拝においては不適切なものとなる。
それで、公同の礼拝を自然なものとする為に、音楽が必要となる。
会衆全体の質と品位にふさわしい表現を礼拝に与える為に、楽器の使用も必要なのだ。
教会において人々は音楽に合わせて賛美する。
それは自らの声がおしゃべりをしている時のような調子で目立ってしまうことがない為である。
そのようにして、人々は音楽という乗り物に乗って礼拝へと進み行くのだ。
以上のような意味で、礼拝を会衆的で美しいものとすべく真剣に真摯に努めることを拒むのなら、人々が教会へ行こうとしないと不平を言っても始まらない。
人々の要求が結集したもの、
まさしくそれこそが音楽――但し、音楽家によって指揮されるものではない音楽――なのだ。
ここで繰り返させてもらうが、教会音楽とは第一に教会と教会の用の為に存在している。
教会音楽にとって世間とはあくまで第二義的なものでしかない。
教会音楽は賛美の為に存在し、楽しみの為に存在するのではない。
教会音楽とは霊的なものであって、審美的なものではないのだ。
アンセム[anthem]とは聖歌隊の調和を誇示する演奏ではない。
そうではなくて、アンセムとは「歌となった説教」なのだ。
音楽という注釈を伴ったテキストがあり、
コメントは最大限の慎みを持って語られるべきとされ、
自己顕示は冒涜となる――それがアンセムなのである。
人生とは散文と詩で構成されている。
キリスト者の人生における散文とは、仕事・管理・義務であり、それは実に苦役ですらあるものだ。
キリスト者の人生における詩とは、礼拝である。
そして高次の詩も礼拝も等しく歌と音楽を包含する。
音楽とは心を解き放つ事柄であるが、礼拝も同様である。
従って、共通の礼拝の雰囲気とは音楽である。
会衆は礼拝において調和した音楽的な表現をとる。
説教者は礼拝において雄弁な音楽的表現をとる。
そして会衆も説教者も、露骨な表現を避け、高められた自然さを以って新しく語り出す。
詩は、キリスト教的なものとなるまで、故郷を失ってホームシックの症状を呈する。
つまり、詩とは本来、聖餐の交わりなのである。
礼拝は感性の表現であり、感性は音楽を包含する。
オペラはドラマよりも、更には物語よりも真理を表現することができる。
「語るには余りにも貧しすぎるもの、それが歌」などとよく言われる。
確かに、忌むべき不快な、お高くとまった歌があり、
そのような歌は芸術と情緒を共に引き下げるものでしかない。
しかし、次のように言うことも真理なのだ。
「語るには余りに深く素晴らしいもの、それが歌」。
教会の自己表現としての礼拝は神聖な芸術を包含する。
そこに包含される芸術とは、自然な感性が豊潤に変貌した姿である。
そして数多ある芸術の内で教会は音楽を選び取る。
教会の礼拝が音楽を選び取るのは、
第一に、音楽とは重荷に拉がれた心を解放する芸術だからだ。
世界に打ちのめされた魂は呻き声を上げる。
しかし神に打ちのめされた魂は、メムノン
〔エジプトの世界遺産、ルクソール墓地遺跡西側の巨像。紀元27年の地震で像にヒビが入り、北側の座像が朝日を浴びて温まると、石が膨張して泣くような音を出すので、ギリシャ神話のトロイ戦争に出てくるエチオピア王メムノンのエピソードにちなんでこの名前で呼ばれるようになった〕
が光に触れて歌ったように、歌声を上げる。
言ってみれば、当初、信仰に納得し喜びに満ちた時、信条は歌われたのだ。
教会の礼拝が音楽を選び取るのは、第二に、
音楽があらゆる芸術の中で最も霊的で最も物質的でないものだからである。
音楽において、感性における媒介物はほとんど精錬されつくしている。
音楽とは魂自身の振動そのものなのだ(この点については、拙著
Christ on Parnassus: Lectures on Art, Ethic, and Theology
,1911
〔麻生隆義訳『フォーサイス選集(4)芸術・倫理及神学』長崎書店、1939年〕
第8章を参照のこと)。
歌や音楽に対して、礼拝は余りにも深遠なものである、というのは、真理だ。
我々はただ聴き、そして我々自身の自己表現に絶望するばかりなのだ。
聞こえてくるメロディーは甘美だ。
しかし、聞こえてこないものこそ最も甘美なもの。
〔キーツ(Keats, John.)の詩”Ode on a Grecian Urn”よりのパラフレーズ。〕
最も深淵で、最も天に近いメロディーとは、喜びに溢れた魂によって聞き取られるものだ。
天の真理は地球の音楽に霊感を与えるが、天の音楽は、それが聞こえる時、地上の愚者に霊感を与える。
それで、共同で捧げられる礼拝において、芸術が高尚に過ぎるということは決してないのだ。
むしろ芸術は自らの不適格さを感じ、謙虚さと慎ましさを身に帯びる。
ラファエルの「聖チチェーリア」を思い浮かべてみよう。
“St. Cecilia with Saints,” 1514-1516.
天使のような聖歌隊の歌声が天の割れ目から聞こえてくる中で、
チチェーリアは恍惚のうちに自らの楽器のことを忘れている。
(チチェーリアの手には、全ての楽器が壊れた中で唯一残った小さなオルガンがあるのだが。)
マグダラのマリアは自らの罪と自ら自身を忘れている。
パウロはその手に持った本と剣、つまり神学と戦いを忘れている。
ヨハネは得意の境地に至り、
アウグスティヌスはヨハネに共感を込めた視線を送りながら我を失っている。
しかしながら、
会衆的な礼拝とは、このような神秘的で恍惚に浸る孤独な類のものではない。
そして、音楽的な礼拝とは会衆的な礼拝であるべきである。
その限界内においても、音楽的な礼拝は満足のいく程度手の込んだものとなることだろう。
会衆全体が厳選した合唱隊であるなら、
その時教会の音楽は高次の芸術性を帯びつつ、尚自然で容易なものとなるであろう。
しかし、多くの会衆にとって、
教会の音楽とは応答であり祈祷であり、アンセムであり賛美歌である。
教会の音楽が何と呼ばれるものであったとしても、
ともかくそれは会衆的なものでなければならない。
聖歌隊に歌うことを任せてしまったり、祈ることを牧師に任せてしまうならば、
それは教皇主義である。
音楽による応唱によって会衆が祈りを共有することを、
ローマ教会の残滓あるいは遺物と決め付けるのは、実に奇妙なことだ。
会衆が祈りを共有することは、まさにローマ主義の正反対の事柄なのである。
即興の祈りのような価値ある事柄を一切排除することなしに、会衆は祈りの共有を強く求めるべきであるし、祈祷における開かれた参与の余地――広く開かれた祈り・音楽的な祈りの可能性――を残すよう、強く主張すべきである。
なぜなら、既に述べたとおり、語る様にではなく歌う様にしてこそ、
我々はより一層多く参与の余地を得るからである。
ローマ主義において、牧師は単なる指導者ではなく祭司である――牧師は会衆の代理として働き、会衆の代表以上の役割を担って会衆を支配する。
そして、聖歌隊は第一に聖職者によって構成されていた。
つまり聖職者達が歌ったのだ。会衆は排除されていた。
この状況は現在も尚イタリアでは続いている。
僧侶主義が常にそうなる通り、聖歌隊は指導するのではなく独占する。
しかしプロテスタント主義・チュートン人の性質・民主主義の状況下においては
会衆が聖歌隊であり、アンセムは讃美歌とコラールに対して全く従属的な位置に置かれている。
聖歌隊と呼ばれるものは、
単に礼拝の便宜上、指導者としての役割を果たしているのみである。
同様に、牧師も礼拝においては祭司ではなく、何人の代理人でもなく、
ただ指針を与える役割を負うのみである。
聖歌隊のみに歌わせたり、牧師のみに祈らせたりするのは、教皇主義の残滓である。
聖歌隊の後に続けて誰も声を上げないのだとすれば、
あるいは、牧師が神の言葉を独占しているとしたら、
聖歌隊も牧師も指導者の役割を果たしてはいないのだ。
そしてそのような場合、牧師も聖歌隊も過剰な重荷を背負ってしまい、
多くの場合にそうなる通り、その重荷が牧師や聖歌隊を傷つけることになるだろう。
しかし、もし賛美が会衆的なものであり、演奏ではなく礼拝として為されるならば、
音楽とオルガンは自らの適切な役割を保持することにもなるはずである。
楽器としてのオルガンは魂の器官[organ of soul]である。
礼拝における儀式は儀礼となってはいけないし、
どんな形であれ楽器や芸術家によって占領されるようではいけない。
楽器や芸術家の腕を堪能する場所は他にいくらでもあるのだ。
知解可能な言葉・真理と恩恵を表明した言葉が、
礼拝における第一義的な位置を占めなければならない。
我らプロテスタントの礼拝における主要事項とは、我々から神へのメッセージではなく、神から我々へのメッセージである。
礼拝において人々が為す神への貢献とは、神の賜物に揺り動かされることなのだ。
そしてこの賜物こそ、福音の言葉である。
神から我々に賜る福音によって、全てが創られる。
信仰は聞くことに由来し愛へと成長する。
福音の言葉の至高性と卓越性を、我々は語らなければならない。
神の活きた御言・キリストは、創造の賛美の源にいます。
偉大なる音楽家達が知解可能な言葉の必要を感じ、あらゆる楽器に可能な限りの栄光を捧げさせているということ――この事柄の、如何に真理であることか!
ワーグナーは詩によって音楽の欠損を繕った。
しかし、古典におけるこの良い例は、ベートーベンの交響曲第九番である。
この交響曲において、全オーケストラも宇宙の喜びを言い表すことができず、
肉声と言葉とが登場せざるを得ずして立ち現れ、
そして詩が誉れある旋律を以って賛美の冠を捧げるのだ。
ここにこの大いなる作品について語る言葉の引用を、お許し願えるだろうか――
心は喜びの充満と満足を求めて何時までも飢え渇き続ける。
人生における謎と過ち、そして悲劇のうちに、
心は渇望し苦悩している。
空虚と痛みが、
自然の魅力と芸術の呪文を経ても尚、
依然として続いている。
魂を常に満たしめ清めるところのあの現実の確かな充足を、
我々は自然と芸術の内に見出せずにいる。
そしてもしかすると、
喜びと賛美を求めるこの渇望・満足と
宥めと決着を求めるこの熱望が、
魂の音楽芸術それ自体の内には
全く語られていないのではないだろうか――まさにこの交響曲の如く。
即ち、何よりも人生の逆境との衝突、
そしてその嵐・悲痛・とてつもない絶望、
更にこれら全てへの最終的な勝利が、
音楽芸術のうちに全く語られていないのではないだろうか。
まさにベートーベンという天才の面目躍如たるところであるが、
この交響曲の最後の場面において音楽は「ある種の語り」へと変化する。
肉声が楽団に取って代わる。
詩が音楽を助ける為に齎される。
情熱的な思想が前へ上へと進み行くが、その思想を運ぶに当たって、
楽器が余りに弱く曖昧である為に用を為さないということが分かってくる。
音楽の持つ情緒的な主張よりももっと積極的で明瞭で理性的な何かを、
倦み疲れた理想が要請する。
ただ足場だけでなく、身体・形態・表現・行動を魂に与える何かが、
まさにここで必要とされる。
歯切れの悪い、しかし素晴らしく神秘的で音楽的な音があるが、
それは生命の宇宙において究極的な位置を獲得すべく至上の努力を尽くしている人間の魂を完全に表現するには不充分なのだ。
そこで人間の肉声が、楽器の苦闘する状況を打ち破る。
合唱団が活き活きとした言葉を一致して語りながら登場し、
その言葉の持つ聖なる解放と究極の高みに向かって、思想と感性を運び行く。
それは単なる舞台装置ではなく、
技能の妙というものでもなく、
音楽的な整合性が齎した成果でもなく、
驚嘆すべき手際や手腕の開発でもない。
大いなる霊感とはそのように働くものではないのだ。
芸術家の理念における霊的な必然性と、芸術家の力強い思想の動きの本質によって臨むものこそ、大いなる霊感というものである。
芸術家の思想は単なる音を超越し、ある言葉へと至るはずである。
活ける・人間的・合理的な言葉が、
楽器を用いた大いなるオーケストレーションの創作の冠の上に降臨し、
不足を補い破綻から救う。
シラーの崇高なる詩「喜びへのオード
〔“Ode to Joy,” by Friedrich Schiller. ベートーベンの交響曲第九番合唱において挿入される詩〕
」と共に、合唱隊は自然ではなく恩恵の内にある喜び・全人類への普遍的な愛の約束と賜物の内にある歓喜へと雪崩れ込む。
愛の内に没入せよ、汝等無数の者達よ、
そこには全ての人々のための喜びがある。
あの大空という建物を遥かに超えて、
立ちませ、我ら輩(ともがら)が御父の玉座。
文明という金属性のオーケストラの全てを超えて、
人間味溢れる共同の御言葉、即ちキリストが、浮かび上がってこなければならない。
人類の一致、大地の喜び、魂の中の魂、そして神の恩恵が成就するのは、
ただ一人の方の即位式においてのみである。
即ち、
活ける神の御子・知的で芸術的な神の言葉、究極的で気高いキリストの即位式においてのみ、
人類の一致・大地の喜び・魂の中の魂・神の恩恵は、成就する。
神と人そして自然は、人間味溢れ合理的で愛し贖う御言においてのみ、
自らの言葉を充全に見出すことができるのだ。
たとえ、
芸術が完全なる存在の充全なる様を感じたとしても
――まさに信仰はその様を知っている――
以上の事柄は真理である。
たとえまた、
父なる神の栄光へとイエス・キリストの内に人々を贖い兄弟とする十字架と、
この十字架を世界に打ち込む愛の業がもたらす救い、
それらの内に完全なる喜びが瞬く、
その瞬きを、たとえ芸術が感じたとしても
――まさに信仰はその瞬きを知っている――
以上の事柄は真理である。
(おしまい)
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