トルコ虐殺事件:フォーサイス師による説教
"The Turkish Atrocities: Sermon by the Rev. P. T. Forsyth," Shipley and Saltaire Times and Airedale Reporter, 23 Sep. 1876. 訳:川上直哉
適切な外交努力と共感能力を用いて事態を注視することのほうが、トルコに再発防止を委託するよりも、現下生じている恐ろしい出来事に対し、より一層人間的に対応できます。実に、トルコに次いで、我々には現下生じている事柄に対して責任があるのです。トルコは我が国の政府に対して率直に事態を説明しません。
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この数年来、我が国はトルコに対してもっぱら利己主義的な政策ばかりを追求してきたのです。おそらく、我が国の大使は、もっとも強力に交渉をしなければならない正にこの時、最も弱い外交力しか持っていないのです。
フォーサイス氏は以上のように述べ、そして、以下のように更に議論を展開した。
我々はここで、家族よりも高次のもの・国家よりも広義のものの名と向き合っています。我々はここで、あらゆる絆の中で最も広大なものの一部分と向き合っているのです。
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つまり、ここで我々は、キリストの教会[Christ’s Church]の一部と向き合っているのです。我々は今ここで、我々に取り扱い可能な機構の中で、最も巨大で、最も普遍的なものの中にいます。我々は、単なる一個人に過ぎないのではない。我々は、単なる英国人に過ぎないのでもない。我々はキリスト者なのです。つまり、
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我々は贖われた人類の一員なのです。甦られたキリストの霊の影響下、はるか遠い未来の兄弟達との完成された絆を理解するべく召し出された人類の一員――それこそが、我々なのです。
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国家における生活は、この完成された絆に向かうステップの一つに過ぎません。
s国家を超えた高次の絆があります。それは人類という絆です。従って、愛国心を越えた高次の義務というものが、存在するのです。愛国者の前に、贖い主がお出でになる。社会の救い主は、人民の解放者よりも大いなる方である。ある国のあからさまな利害は、いつか人類全体の主張の前に道を譲らなければならない。――これが、世界の国々に対してキリスト教が発すべき使信として、今語られなければならないことなのです。
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キリスト教は中世の時代、欧州に衝撃を与えて生命を蘇生させました。今、キリスト教は、眼前に国家を見据えて、より高次の生命をそこに保たなければならない。つまり、
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連邦化された諸国家[federalized nations]の生命、あるいは、集合的人間性[collective humanity]の生命、あるいは、普遍的兄弟愛[universal brotherhood]の生命を国家の中に保持するという責任を、現代のキリスト教は負っているのです。この方向を指し示す兆しが、数え切れないほど存在します。各国の中にある最良の精神が、この高次の絆を求めて奮闘しています。そして既に指摘したとおり、一つの国民として、我々はこれら諸国の活動を前に、恥じ入らなければならなくなり始めました。というのも、ある途方もない危機的出来事を前にした時、自己保全だけを我々は自らの目標に定めてしまったのですから。
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東方問題は、我々にとって、祝福を伴う懲らしめとなることでしょう。彼の地の人々の恥と苦悩だけが、我々の感性を活性化し、我々が追求してきた政策の正体は何であったのかを、我々に剥き出しの形で顕示してくれます。従って、苦しみにある人々の恥と苦悩とを、我々は忘れることがないでしょう。彼の地の人々の犠牲は、単に自らの国家形成の為に資するものとなったばかりでなく、我々の為にも資するものとなりました。彼の地の人々は政治的自由を自らの国にもたらすことでしょう。そして、かの地の人々は私達に解放をもたらすことでしょう――単に時代遅れの政策からの解放ではなく、道義に外れた、非キリスト教的な、利己主義的理念からの解放を、私達にもたらすことでしょう。
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さあ、想像力と共感の力を駆使して、彼の地の人々の直中に、皆さん自身の身を置いてみてください。戦い、苦しんでいる人々を見てください。死と自由のいずれかを選びつつ生きている人々以外、耐えることができない苦しみが、そこにあります。自らと子どもたちの為に食事を求めて泣き叫ぶ女性達の姿を見てください。あるいは、語りつくせない犠牲そのものであるところの恥に圧し拉がれる死よりも更に痛ましい生命の静寂を、見てください。動かなくなった自らの子供、首を失った兄弟や父祖達や子どもたち――そうしたことの記憶によって、繰り返し身震いし血の気を失う、そのような苦しみに耐えている人々を、見てください。こうした事柄を理解するように、努めてください。もしそうするなら、たとえ確信を持てずに先へと進み行かなければならないときにも、道徳的祝福と道徳的向上を、犠牲の中から刈り取る、そんな喜びを、皆さんは味わうことができます。そして、道徳的祝福と道徳的向上こそ、最も熱心に追い求めるべきものではないでしょうか。皆さんは、
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このような犠牲の山を越えてこそ、より一層キリストの傍へと昇り行くことができるのです。というのも、そうすることによって、
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キリストがご自身の心を寄せられた場所に、皆さんも皆さんの心を留めること、このことを、皆さんは誓うこととなるからです。あるいは、そうすることによって、キリストがお持ちである哀れみと大義と衝突するあらゆる感性を放棄することとなるからです。
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エルサレムについて嘆き悲しんだキリストは、ブルガリアについてどのような思いに駆られているでしょうか。
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近代欧州の国々を誕生させたキリストの霊は、キリストの大義を体現しようとして苦闘するあらゆる国々に臨まれないでしょうか。キリストは、現下の危機的事態という問題に対し、関心をお寄せにならないでしょうか。では、キリストのおとりになる立場とは、一体どちらでしょう?この問に対して、答えはどちらであるか、迷う余地があるでしょうか。今晩、皆さんの力をキリストの進まれる道へと注ぎ出してください。幾ばくかの犠牲を払ったとしても、皆さんには用意された褒賞があります。皆さんは必ず、この用意された褒賞に与ることでしょう。