信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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PPMMより抜粋

Positive Preaching and Modern Mind.  抜粋の私訳

Hodder&Stoughton初版、328~9頁(楠本訳318~9)

そういうわけで、「十字架の内に存在している聖性」というものを説教する説教者は、「かつて存在しなかったような道徳的正義」という利点を持って今日の社会に語ることができるのである。道徳的な事柄は、十字架と大衆の両者にとって、共に第一義的な事項なのだ。「十字架の道徳哲学を説教せよ」とか、あるいは「説教者はキリスト教倫理学の中に閉じ篭れ」と言いたいのではない。そうではなくて、「説教者とは福音を語らねばならない」ということが言いたいのだ。但し、ここで言う「福音」とは「聖なる恩恵と審判の愛という至高の道徳的基調」をその核心に据えたものでなければならない。着実に道徳的情熱を高めつつある大衆に向かって、説教者はこの「福音」を語る。意志に訴えるという現代的風潮は、実は、道徳的意志あるいは良心に訴えるという、キリスト教の使徒にとっては本来よく馴染んだものなのである。

 「キリスト教は信条(creed)ではない。いのち(life)だ」という言葉が、説教壇からしばしば語られる。この言葉以上に世事に遅れまいとする思いがこもった言葉は無いだろう。それではこの言葉の意味とは何か?まさか、「キリスト教とは単なる生活(living)の流儀や作法である」というわけではあるまい。もしそうだとすると、すべては単なる道徳主義に堕することになる。「キリスト教とは感じ方、あるいはある種の共感的な気持ちの連なりである」ということを意味しているわけではないだろう。もしそうだとすると、キリスト教は感傷主義と化す。「キリスト教とは英雄的な模範を模倣することだ」という意味合いでもないだろう。もしそうだとすると、キリスト教は重苦しい律法主義と化すか、あるいは、同様に重苦しい理想主義と化してしまう。もしこの言葉が何かを意味しているとするなら、それはきっと「キリスト教はいのち(life)の問題、つまり道徳的問題を解決するものである」ということに他なるまい。そして更に大いなる事柄として、キリスト教は、いのちに関する道徳的な解決という賜物を我々に与えるものである。ここにもう一つの逆説がある――つまり、道徳的達成・道徳的勝利を、賜物として与えられるということである。


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