信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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最初の公開文書


解説は、 「日曜日に、教団を考える」 に書きました。

1877年11月1日付『英国独立派』への投書

拝啓

 このたび、「宗教としての聖餐〔Religious Communion〕」をめぐる論評を公にする機会を頂けたことを心から嬉しく存じます。私が今、公にするところのこの論評は、決して貴紙を批判するものではないものと存じます。というのも、もしこの論評が貴紙への批判めいたものであるならば、そもそもこのような機会を得ることはできなかったはずだからです。

 私の考えによると、この問題は、極めて重要な問題です。この問題によって、会衆主義という立場そのものの未来が決せられてしまいます。この問題は、一般に理解されているよりもはるかに重大な問題です。それはつまり、キリストの教会であるところの会衆主義の未来にかかわるような大問題なのです。

 もし会衆派教会連盟〔the Congregational Union〕が、単なる「宗教的な目的」のために存在するだけの組織であるとしたら、どうなるでしょうか。「本質的に必要とされる事柄と、人生の実際的な必要」によってその組織の内実が明らかにされるような、そんな団体へと会衆派教会連盟が堕してしまったら、いったいどうなってしまうかということです。つまり、ある困窮への意識がその最終目的となっている、そんな団体となってしまったら、どうなるでしょうか。会衆派教会にとって必要だと私たちが認知する「何か」を目指す組織――私たちに今認知できる程度の「何か」を目的として、その目的の為にあらゆる犠牲を払うためにキリスト教会の本質を揺るがせにしてしまうような、そんな組織になってしまったら、そのとき、会衆派教会連盟という存在は、いったいどうなってしまうでしょう。つまり、会衆派教会連盟が、単なる一つのクラブや同好会となってしまったならば――実にしばしば、宗教的生活と言うものはそうしたものに引き込まれやすいものです――そのようなことになってしまったならば、いったいどうなってしまうでしょうか。

 そのようになったとき、会衆主義という立場は、教会に人間性の象徴と帰属先を求める人々のほしいままとなる。そのようになったとき、会衆主義という立場は、一つのセクト以外の何ものでもないものになってしまう。ひとつのセクトになってしまうということ。それはつまり、実際的な方面において主教制教会〔国教会のこと、以下同じ〕の組織よりもはるかに劣った機能しか持たない組織へと、会衆派教会連盟がなり下がる、ということです。

 私は、会衆主義というものが、私の周囲の人々にとって、諸セクトの中でも最も展望の開けたものであると、確信しています。しかし、それはいったいどのような理由によるのでしょうか。それは決して、会衆主義というものが実際的な方面に対して有力な力を持っているからではありません。そうではなくて、会衆主義が持っている自由というもの、あるいは、会衆主義のうちにある自由への手ごたえというもの故にこそ、会衆主義には未来があるのです。

 会衆主義が有する力とは、自らを新しい時代の要請に適応させるものなのです。その力故にこそ、会衆主義は未来の教会に向けて至上の貢献をすることができる。「全体としての神聖なる存在」と言うような表現をすると、すぐに冷笑を以て応える人がいます。そうした人々は、「未来の教会」などという言葉を見た瞬間に、きっと、嘲笑することでしょう。躁病的嘲弄〔Tarentine jeers〕というものがあります。この病を癒すためには霊的な血潮が必要でしょうが、そんな癒しなど、きっと行われないことでしょう。

 今日のセクトはすべて一過的なものです。今日のセクトが一世紀以上継続する「教会〔the Church〕」となるだろうと予言する勇気は、どんな大胆な人も持ち合わせていません。今日のセクトをより良い、より自由な、より大きな教会へと可能な限り変えて行くこと。このことを目指す人こそ、本当の意味で実際的な目的のために献身する真の礼拝者だと、私は思っています。

 私は、会衆主義に賛同するものです。その主な理由は何でしょうか。会衆主義こそ、他のセクト以上に、教会の生命の気高い形式を実現できる可能性と潜在力を持っている――それ故に、私は会衆主義に賛同しているのです。「私たちの今日・明日の事柄」を決定づけるために存在するのではなく、「神の家族すべてを含みこむべき教会」を考える手がかりとして、会衆派教会は存在している。そうでなければ、会衆主義というものに、私は何の意味も見出しません。我々は、今まさに成長しつつある国民的宗教理念を体現すると公言すべきなのではないか。宗教界の最良の部分から、「理解〔comprehension〕」を求める普遍的な要求が、立ちあがってきています。この要求に対して、我々は拒絶を以て応ずるべきなのでしょうか。

 ここで、主教制教会を引き合いに出して、「理解」ということの可能性について、我々なりの考えを展開してみましょう。
 「理解」ということそれ自体が望ましいものであるということ。このことに反対する人はいるでしょうか。「理解」ということそれ自体への反対意見を、会衆派教会連盟が一度でもしてみたとしましょう。私は、別に、それが致命的な問題になるなどとは考えません。連盟という教団の教勢は国民生活の中にいよいよ広がっており、その体制において、一部分にせよ大部分にせよ、決定的な損害を被ることになることなど、ないことでしょう。教団が「理解」という事柄に拒絶を以て応じたとしても、それはサヴォナローラの踏襲をするにすぎないのです――サヴォナローラはこう言いました。「我が党派の大義は神の国の大義である」。あるいは、教団が「理解」という事柄に拒絶を以て応じたとしても、それはローマ・カトリック教会がしばしば語る言葉へのオウム返しとなるだけのことです――ローマはいつもこう言います。「私はそんなものを信じない。たしかに、神の国はとても気宇壮大なものでは、ある――但し、そんなものからは遠く離れていさせてくれ。私は、私が愛するものと共にそんなものとは無関係に過ごしたいのだから」。


 以上の議論によって、聖餐を巡る議論を会衆主義連盟の重大案件であると考える私の論拠が示されます。聖職者による専横をもたらす精神というものを考えるとき、レスター会議は中世の公会議に似て見えてきます。あるいは、サイモン博士はまさに聖職者による専横を体現していると言ってよいでしょう。サヴォナローラの言葉やローマ・カトリック教会の常套句というものは、そうした聖職者による専横を覆い隠す言い逃れだと、そのように思われるのです。貴紙に掲載された記事には、侮蔑的な思いが潜在しているように思われました。憚りながら申し上げますが、それはもしかすると、絶望の影が貴紙の写植に差こんできた表れではないかと、そのように思えてならないのです。

 「キリスト教の聖餐〔Christian Communion〕」に関して、様々な回覧状が作成され、あるいは様々な意見が表明されました。しかし、それ自体、何の問題もないことです。知的な信仰(教理上の事柄に対するものであれ、事実関係に対するものであれ)と霊的な態度や気質について、そこには(もちろん関連もあるだろうが)相違があるということ、そのことについてであれば、アロン博士ですら、お認めになることと思います。真に結構なことです。

 作成された回覧状は、こう語っています。霊的な聖餐の可能性を決定するものは、個別の事案において、常に第二義的な意味しか持たないのだということ。それはちょうど、我々の社交関係を決定する際、常に気質や精神(spirit)が第二義的な意味しか持たないのと同じなのだ――こうした事柄を語る人々の出席を求める会議の開催を明示すべく、件の回覧状は作られたのです。

 そして、その回覧状に賛成しない人々も、その会議に出席しました。その人々は押しかけた人々ですが、ひたすら礼儀正しく語っていました。その礼儀正しさ故に、集まったすべての人は、何ひとつ後悔すべきことをしないで済んだのだと、私はそう確信しています。

 しかし、「聖餐」という表現を巡って、大きな誤解が生じました。アロン博士は、会議において、事実と異なることを印象付けてしまったのです。それに続く発言者は、ほとんど皆、それに追随してしまった。これが、貴紙に掲載された論稿に現れる大きな誤りなのです。

 もちろん、「聖餐」という語が表現している教会的な意味について、権威を以て言葉を発する者ならば誰でも、きちんとした理解を持っているべきでしょう。つまり、聖餐において第一に考えられるべきは、「聖餐の杯」のことであるということ。このことは、権威を以て発現するすべての人が知っていてしかるべき事柄です。さて、今私が言及している事柄、つまり、今騒ぎになるほどに問題にされている事柄とは、「開かれた聖餐〔open communion〕」を巡る問題です。

 講壇交換といった事柄は、本当にどうでもいい問題です。それはいつも必要なものではない。それは、言ってみれば、ある人を晩餐に招待するかどうか考える、という程度の問題です。それは、もっと大きい問題、もっと本質的な問題が片付いたとき、自動的に片付く問題なのです。もっと大きな問題とは何か。それはつまり、その人と同じ思いを抱きあえるかどうかという問題です。それが片付いたとき、万事は解決する。教会〔Church〕の主な機能は、礼拝です。説教ではない。究極的でもっとも普遍的な礼拝が行われるとき、我々は我々の一致を示すことになる――つまり、その時、聖餐において、我々は一致を示すことになるのです。

 「私にはユニテリアンたちの友達がいます。このユニテリアンたちは、聖餐式に共に預かるべく、私を訪ねて来てくれます。私は、彼らの思いを完全に尊重しています。」そのように、私は何度も、繰り返して申し上げてきました。あるいは、我々の指導的牧師たちも同様のことを語ってきました。しかし、このような考え方が会衆派教会において一般的なものであるなどと、私は考えていません。むしろ、田舎の教会においては、これは特殊な意見と見做されるでしょう。

 たとえどの地方であっても、神学的同意を前提として聖餐杯の交友を考えている人々にとっては、見解の相違というものが常に付きまとうことになるのです。もし聖餐の交わりという事柄が理論的前提を必要とするものであるとなれば、神学的最小限度を設定しようとして試みられる議論のすべてが頓挫します。なぜなら、どれだけ重要な事項について議論しようとしても、その義論はすべて、「監査」として機能してしまうからです。たった一つの論件、たとえば、受肉についての理論に話を絞ってみたとしましょう。「監査」として、18歳の若い御婦人に受肉という理論を問い質してみてごらんなさい。そんなことをすれば、その御婦人はきっと、即座に寄宿学校を追われることになるでしょう。


 考えてみて下さい。我々が今引きずり込まれているところの神学理論を、我々の現実に、単純に適応してみるとしましょう。そうすることで、錯誤を引きずり降ろし、面従腹背をするように促すことになるとすれば、どうなることか。礼拝における主要な項目としての「キリスト者の聖餐」という事柄を、単に参加する人の善良さによって測るのだと言ってみるとしましょう。そして、聖餐式において、それがキリストのご性質に対する忠誠と記念を表明する特別な行為であることを、どれだけ熱心に表明しようと願っているかどうか、そのことを以てその人の善良さを測るのだと言ってみたら、いったいどうなることか。更に、参加者が聖餐において表明しようと願うその願いが、よく知られた人物のあからさまで有害な生き方によってねじ曲げられたものではないかどうかに気を配るべきだと、そう言ってみるとしましょう。そうなった先には、いったい何が待っているでしょうか。

 私は、受肉を信じています(ただしそれは厳密な意味で、ではないかもしれません。貴紙に掲載された論稿には、「受肉したキリスト」ということが書かれていました。しかし、私はそのような考え方を退けるために、受肉を信じています。すなわち、「受肉した神」という意味で、私は受肉を理解しているのです)。私は奇跡を信じています。しかし、それであればこそ尚更に、私は真理を信じています。もし、受肉や奇跡と言った事柄が人間の霊的な成長にとって不可欠の真理であるならば、賢き御霊は我々より以上に今まさに働き給いて、受肉や奇跡といった事柄がもつ普遍的な信仰を保持されることでしょう。ですから、私たちは決して、今の時点で誰かが受肉や奇跡といった事柄を受容れないからという理由でその人を懲罰にかけるような所業には、加担すべきでないのです。

 受肉や奇跡という事柄を信じることができないという多くの人々がいます。その人々を懲罰にかけるとするならば、それはつまり、キリストの名によって呼ばれるすべての人によって守られるべき聖餐の営みから、その多くの人々を除外することを意味します。それはつまり、迫害ということです。それはつまり、キリストの御名を愛し栄光を帰したあの聖なる晩餐にふさわしからぬ事柄です。聖餐は、すべての人の主の晩餐です。それを制裁の道具としてしまうことは、聖なる晩餐をいよいよ逸脱させることなのです。

 私たちは、キリストのご性質を説明するなかで、受肉という事柄を理解するようになります。もし、キリストのご性質への礼拝という点で逸脱していない人がいたとして、その人をキリストにある兄弟、あるいはキリストの満ち満ちた様を証しする同労者、あるいはキリストの信仰を発展させるために貢献する仲間であることを認めない、そのような態度をとってしまうとするならば、我々は、我々自身の秩序の中に沈み込み、深い意味での不信仰に陥ることでしょう。

 キリストの霊に注目しましょう。その時、神は我々の神学的な諸信仰〔theological beliefs〕に御目を注ぎ給うことでしょう。真の神学的な諸信仰が生み出され得る空気〔atmosphere〕が、ただ一つだけあります――それは、自由の御霊〔Free Spirit〕です。ある一つの有力な結論を得たとしても、それを懲罰の基準としてはいけません。そんなことをすれば、真理の探究は決して成功裏に終わることはないのです。


 もう一言だけ、申し上げます。

 貴紙は、会衆主義的な「正統主義」ということを論じておられます。貴紙は、「正統主義」なるものの基準をどこかに見出すのだと言っておられるのでしょうか。様々な決定を下したレスターの騒々しい人々の故に、我々はその「正統主義」の基準を決定できるとお考えなのでしょうか。レスター会議の参加者は、自らの立場にもとづいて、ある決定事項を表明しました。しかし、疑いもなく、それは実行不可能な空文です。レスター会議の参加者は、明確な声明を発表しました。しかしそれは、会衆主義の霊的な内実を指し示すものなのでしょうか。その生命は、会衆主義に立つ諸教会の多数派の意見として受容れられるものなのでしょうか。正統主義の確立ということと、件の声明文との間に、いったい何の関係があるというのでしょう。

 会衆主義とは、ひたすらに教会的〔ecclesiastical〕な立場である。それは神学的〔theological〕な立場ではない。これが、真実というものです。実際のところ、もし教会〔Church〕が存在し持続するとするならば、それは明確な神学的結びつき〔theological nexus〕の欠如の故であるということ。このことは、常に顧みられなければなりません。我々は、定式化された信条を一切持っていないということ。このことこそ、私たちの誇りとなってきた事柄なのです。

 以上のことを覚えるとき、次のように結論付けることができます。今話題となっている理解の精神〔spirit of comprehension〕の内に、キリスト教の未来が生命をもって胎動している。この精神と戦うのか、あるいは、この精神を助けるのか。このことによって、あるいは我々の終着点は破滅にもなり得るし、あるいは、我々の終着点は栄光と成功に輝くことになる。以上です。


敬具
P. T. Forsyth, M. A.
SHIPLEY, YORKS.


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