信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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説教「十字架と食卓」その1

「十字架と食卓」 (3月9日仙台市民教会説教)

新約聖書「ヨハネによる福音書」15章13節
旧約聖書「出エジプト記」12章3~11節

キリスト教というのは、「ご利益宗教」ではないと、
そのように、牧師であった私の父は、しょっちゅう、
幼い私に(私が大きくなった後もずっと)そう言い聞かせました。
キリスト教はご利益宗教ではない。
私はそう言い聞かされて、育ったのです。

確かに、日本において、キリスト教は「ご利益宗教」ではないようです。
キリスト教徒になったら幸運続きでこんなにお金持ちになりました、という話を、
日本においては、あまり聞きません。
家内安全、商売繁盛、交通安全・・・こうした四字熟語と、キリスト教会とは、
どうもあまり繋がらないように思います。

実際、キリスト教の暦を見てみると、なるほどと思います。
キリスト教の暦には、ひとつの特徴があります。それは、「待つ」ことです。

キリスト教の暦は、「待降節」に始まります。
「降誕」を「待つ」から「待降節」。アドベント、ともいいますが、
要するに、
「クリスマスを待つ4週間」という意味で、「降誕節」が定められています。
そして、クリスマスが来る。私たちはこれをとても喜びます。
クリスマスは、1月の公現日(1月6日)までの期間をそのシーズンとします。
つまり、最大取っても、それはせいぜい、2週間です。
しかし、なんと、「クリスマスを待つ期間」は、その倍の4週間もある。

さらに、クリスマスが終わった、と思ったら、
すぐに、「レント」が始まります。
しかも、40日以上も、「レント」は続きます。
「レント」とは、「受難節」と呼ばれる期間です。
40日以上も、「受難」を覚えて過ごします。

誰の受難でしょうか?

キリスト教の中心人物であるイエスその人の苦しみ、受難を、覚えるのです。
それは、ひたすら「イースター」を待ち望む季節。
それが、今私たちが迎えているこの季節なのです。

このように、教会の暦は「待つ」ことばかりのように見えます。
「ご利益宗教」のような手軽さは、どうも、ないようにも、思えるのです。
なるほど、日本でキリスト教が人気を獲得しないわけだと、
変に納得してしまいます。

でも、キリスト教というのは、本当に「ご利益宗教」ではないのか?と、
ちょっと、考えてみます。

ジャンプするためには、しゃがまなければなりません。
本当に喜ぶためには、本当の「ご利益」にあずかるためには、
その前に、待たなければならない。
待つ分だけ、喜びは大きい。そういうことも、あるかもしれません。

今日、司式者にお読みいただいた新約聖書の箇所は、
「最後の晩餐」でイエス様がお話しされる、という場面でした。

場面は、「最後の晩餐」です。

十字架の処刑を間近に控えた、もっとも緊張感と緊迫感のあふれる場面、
・・・の、はずです。

重要な場面ですから、四つの福音書は皆、その様子を詳しく報告しています。
そして、
「ヨハネによる福音書」では、13章から17章まで続く、長い箇所となっています。

「ヨハネによる福音書」において、それは13章から始まります。
「ヨハネ福音書」において、この場面は、冒頭から一気に緊迫します。

イエス様は、自分がもうすぐ殺されることを、悟る。
弟子のひとり、イスカリオテのユダが、
自分を裏切ろうとしていることを、イエス様は、確信する。

その時、イエス様は何をしたか。

緊迫した場面の一番最初、イエス様は、自ら、弟子たちの足を洗って見せます。
そんなことをされた弟子たちはとても驚き、動揺する。
なぜなら、足を洗うのは、奴隷の仕事だからです。
卑しい仕事、それが、「足を洗う」という仕事でした。

何と、この緊迫した場面の最初に、
イエス様は、まず奴隷となって、弟子たちに奉仕される。
それは奴隷の「ふり」をするのではなくて、
実際にその手を汚して、奴隷そのものとなって、仕えてみせることでした。

それは、「愛」ということを教えたいと願う
イエス様の思いが溢れてのことだったのです。

イエス様は、弟子たちを愛した。そのことを、本気で、身をもって示した。
しかし、その「愛」を裏切る人が、そこにいる。
イエス様は、そのことを知っています。
知っていて、その人の足をも、洗う。
裏切る人のために、奴隷となって、奉仕する。
裏切られることを知っていて、その上で、
裏切る人に、徹底的にへりくだって、最大限の親切をする。
これが、愛というものですよ――そのことを、身を以て、
イエス様は弟子たちに教えました。

そして、その後、イエス様は、ユダに、そっと、言うのです。
「あなたのしようとしていることを、今すぐ、しなさい。」
さあ行け、今すぐに!自分を売りに行け!・・・というわけです。

イエス様は、完全に、覚悟を決めておられる。
静かに、裏切ろうとしているユダの背中を押す。

他の弟子たちは、イエス様がユダに何を言ったのかを理解できません。
ただ、イエス様とユダだけは、この会話の意味を、ものすごく、よくわかる。

そうやって、ユダが出て行ったあとを見送って、
イエス様はゆっくりと、長いお話をされます。
その話は長いのですが、しかし、それは詰まるところ、
緊迫した場面の最初にイエス様がしたこと、
つまり、
「(自分を裏切る者も含めた)弟子全員に
 奴隷となって仕えること、このことが愛だ」
と、いうことを、丁寧に、いろいろな形で、残った弟子たちに伝える、
そういう話になっています。

最高度に緊迫した場面です。
しかし、その場面で延々と話をするイエス様の様子は、
決して、暗いものではありません。

というより、力に満ちあふれています。

何度も何度も、勝利の確信が語られる。
繰り返し、喜びの言葉が語られる。
そして、一再ならず、イエス様は弟子たちを励まして、こう言うのです。
「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう!」

自らに定められた無惨な死に様を、
すでにこのとき、イエス様ははっきりと、見据えています。
にもかかわらずの、この明るさ!
イエス様の強さは、ここにはっきりと輝いています。

この輝かしい力を持った方が、弟子に約束しているのです。
「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう!」
そうやって、繰り返し、イエス様が約束して下さっている。

キリスト教は「ご利益宗教」ではない?
本当でしょうか?
いやいや、キリスト教は、「ご利益宗教」かもしれません。
こんなに強い方が、輝くような言葉で、確かに約束しているのです。
願い事は、何でもかなえてあげる、と。

ただ、イエス様は一つ、心配している様子です。

自分は、これからひどい目に遭う。
きっと、弟子たちも、間違いなく、ひどい目に遭う。
でも、弟子たちがひどい目に遭うとき、
自分はもう、この弟子たちと一緒にはいられない。
弟子たちは、自分なしで、ひど目に耐えないといけない。
なんといっても、これから自分は殺されるのだから・・・

そんなイエス様の心情が、長い話の端々に見え隠れします。

それで、15章に、イエス様は一つのたとえ話を話されます。
「葡萄の木のたとえ」という、有名なたとえ話です。

イエス様は、弟子たちに、こんな風に言います。

>自分は、葡萄の木のようだ。
>だとすると、あなたたちは葡萄の木の枝だね。
>そして、そうだとすれば、
>神様というのは、葡萄の木のお世話をするお百姓さんということになる・・・

このたとえ話は、意味深長です。

神様は、ちょうどイエス様が弟子にしてくれたように、
人間の世話を焼くために骨身を削って働いて下さる。
だから、そのお世話にあずかりなさい。
そのお世話にあずかるために、私に繋がっていなさい。
何があっても、私から離れてはいけないよ――そんなことを、情熱をこめて、
イエス様は語っているのです。

イエス様は、これから取り去られる。
思想犯として逮捕され、政治犯として処刑される。
それは、もう、自明のことになりました。

ユダは、もう行ってしまったのです!

・・・にも関わらず、イエス様は「私から離れないように」と、情熱を込めて語る。

その真意は、何か。

その真意は、今日の聖書箇所にあるのです。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

これは、実に巨大な意味を含みこんでいます。
今朝は、できるだけわかりやすく、その意味を解きほぐしていきたいと思います。

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