信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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説教「十字架と食卓」その2

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「十字架と食卓」その2

前回、先々週の説教で、
私は、イエス様の親族がイエス様を狂人扱いしたと、
そんなお話を、申し上げました。
一族の恥だから、連れ帰らないと・・・と、そう思って、
家族がイエス様の所に来ていたのです。

でも、イエス様の運動の勢いは止まりません。人々はどんどん、集まってくる。
家族の心配を他所に、その人気はウナギ登り上昇し続け、
世間の評判は天井知らずに、高くなる。

すると、イエス様の家族は、そのうち、考えを変え始めます。

>こりゃ、本物かもしれない。

そうして、家族はイエス様に言うのです。

>こんな田舎でボツボツと運動していてもしょうがないじゃないか。
>さあ、首都エルサレムに出て行って、ひと旗あげてこいよ。

しかし、イエス様は、頑なにこれを拒みます。

だいたい、イエスという人は、とても慎重な人です。
様々な病に苦しむ人を、どういうわけか、癒すことができるようになった。
そうなって、人をどんどん助けますが、
でも、必ずその度毎に、イエス様はこう言って聞かせます。

>このことは内緒にしておいて下さいよ。

イエス様は、よくわかっていたのだと思います
――自分がしていること、自分が語っていることが、
   どれだけ、世間の真逆を行くことであるか。

男女の差、身分の別、出身地の違いは、神様の前に関係ないということ。
人を愛すること・人を信じることは、馬鹿を見る事ではないこと。
世間からツマハジキにされているロクデナシにこそ、
神様の支配が最初に届くということ。
神殿や王宮に、何の栄光もないこと。

こうしたことを、イエス様は語りました。
それは、世間の非常識を語ることです。顰蹙を買うことです。
でも、それを語った。

当然、その結果、風当たりが強くなります。

そして、イエス様は慎重になる。
奇跡によって巻きあがる自分の人気の沸騰に、ひとり、懐疑的になる。

自分の周りに集まっているほとんどの人は、
単純に、ご利益を欲しがっているだけだ。
うっかり神輿に乗ったら、大変なことになる――イエス様は、慎重になる。

でも、いろいろあって(それは実にドラマチックな出来事の積み重なりです)、
遂に、イエス様は決断します。

エルサレムに行こう! 

イエス様は、綿密に計画を立てたようです。
まず、日時を定めました。

当時のエルサレムは城門に囲まれたローマ風の大都市です。
その城門をくぐる日は、「過ぎ越し祭」の日にしよう。
そう、決めたようです。

そう決めた背景には、大きな物語があります。
モーセの物語、出エジプトの物語です。

今日、司式者に、旧約聖書をお読みいただきました。
その最後にあるとおり、今日お読みいただいたのは、
「主の過ぎ越し」という宗教儀式に関する決まりごとです。

宗教儀式、といっても、
お経を唱えることでも、讃美歌を歌うことでもありません。
それは、食事をすることです。
ただし、特別な食事です。
特別、というのは、食べるものが特別なのです。
パンを食べるのですが、
そのパンを、いつもと違うものとします。

パンを焼くと、ふっくらします。おいしいものです。
これは、イースト菌を入れて、一晩程度、寝かした結果です。
時間をかけて、おいしいものを作る。それが「パン」です。

「主の過ぎ越し」の食事は、この「時間」をかけない食事です。
イースト菌を入れない。
小麦粉を水でこねて、そのまま、焼く。
もちろん、固くて味気がないものになります。
それでも、それを大至急食べなければならない。
だから、苦い味がする菜っ葉を一緒に食べる。
そうやって、大至急、ご飯を食べる。
無理やりに、おなかをいっぱいにする。
それが、「主の過ぎ越し」という宗教儀式です。

これは、何を意味しているのでしょうか。
それは、色々な「二文字」で表現できます。
それはつまり、「脱出」です。「脱走」です。「逃走」です。
もう少し長い言葉で説明するならば、こうなります。
苦しみからの解放の出来事が、
尋常ならざる不穏な空気の中で起こったのだということ。
このことを、この食事によって、人々は記憶する。
脱出を覚える宗教儀礼。それが、「過ぎ越しの祭」なのです。

今日、礼拝の最初に、不思議な歌を歌いました。
「エジプトのイスラエルに」と題を付けた歌。
かつては「行け!モーセ」と題されていた歌です。
その歌は、こうしたものでした。

>エジプトのイスラエルに 解放を!
>苦しむわが民を 解き放て!
>行け、モーセ、告げよ、ファラオに。
>わが民を 解き放て!

実は、この歌は、ユダヤ教とキリスト教の出発の歌なのです。
ですから、今日は最初の讃美としてこの歌をご一緒に歌いました。

奴隷として苦役に苦しむ人々は、有史以来、常に存在しています。
今から3500年以上前の、当時最大の超大国エジプトでのこと。
神様は、この苦役に苦しむ奴隷たちの叫び声を聞いた。
そして、モーセを送って、超大国の王(ファラオ)に対し、宣告します。
「わが民を解き放て!」

苦しむ者を「わが民」と呼ぶ方。それが、聖書の神です。
この「聖書の神」が、この世界に登場し、活動を開始した。
この「神」の出現によって、世界は変わりました。
世間によって苦しめられている人々を助け出される神様が、
この世界に登場し、活動を開始したのです。

当然、その「神様」の働きは、世の中に軋轢を生みます。
社会に混乱と騒動を引き起こす。
実際、大帝国エジプトは、ひっくり返ったような騒ぎになります。

世間を騒がす不届きな奴ら――そのように、エジプトの奴隷たちは見做される。
身の危険が迫っている。
だから、大急ぎで荷物をまとめて、今すぐ脱出しなければならない。

長い旅に出るのだから、腹ごしらえがいる。
でも、パンを焼いている暇はない。
だから、小麦粉を練って、焼いて、無理にでも食べて、
すぐに出発しなければならない。
旅支度を整えて、大慌てで食べる食事。
これが、「過ぎ越しの食事」なのです。

この「食事」をすることを、宗教儀礼の中心にしたお祭りが、
イエス様の時代、イエス様の国で大規模に行われていました。
これを、「過ぎ越しの祭」と言います。

イエス様は、この「お祭」の時に、エルサレムに入城しようと決めました。
なぜでしょうか。
はっきりしていることがあります。
それは、イエス様が、ご自分をモーセになぞらえていた、ということです。

エジプトの奴隷の大脱走、
その大事件の首謀者は、モーセという人であったと、聖書は伝えます。
モーセは、奴隷を解放するために神様に遣わされました。
「行けモーセ、告げよファラオに、わが民を解き放て!」と
私たちが歌ったとおりです。

イエス様については、こんな話が福音書に伝わっています。

>私の言葉を聞いてちゃんとそのとおり生きるとき、
>そのとき、あなたがたは自由になるよ。

イエス様は、こんなことを語った。
すると、聞いていた人たちが怒り出してこう答えた。

>私たちは奴隷ではない。
>なぜ、自由になるよ、なんて言うのか、失礼な。

すると、イエス様は答える。

>あなたがたは罪の奴隷だよ。
>本当は、あなたがたは奴隷なんだ。
>ただ、それに気づいてないだけだよ。

世間の空気の奴隷。
文化・習俗の奴隷。
一族のしきたりの奴隷。
宗教の奴隷。
組織の奴隷。
――気づかないうちに、私たちは、何かの奴隷になっている。
理不尽なことを見聞きして、本当は「それはおかしい」と思いながら、
それを口に出すこともできない。口に出すことも、させてもらえない。
そんな場面が、至る所にある。

私たちは、何かの奴隷になって、
世間の歪みを温存し、理不尽のしわ寄せを誰かに押し込んでいる。

イエス様は、そんな「奴隷」に解放をもたらす言葉を語りました。
それが「福音」です。
イエス様は、その時代に現れた第二のモーセ、だったのです。

しかし、どんなに語っても、なかなか伝わらない。
「奇跡」のご利益で、確かに人気は急上昇しますが、
本当に伝えたいことは、ぜんぜん伝わらない。
そのことに、イエス様は気づき始めます。
そして、決断するのです。

エルサレムに行こう!

人気絶頂の時です。
イエス様のエルサレム入城は、大変な熱気に包まれました。
首都・大都市エルサレムが、イエスを歓呼する声で、鳴りどよめいたのです。
そのとき、ちょうどモーセがエジプトでしたように、
穏やかならざる空気が、エルサレムを満たしました。

そして、イエス様が最初にしたのが、神殿の占領です。
イエス様は、おそらく間違いなく、
多くの群衆を引き連れて、神殿に乗り込みます。

当時の神殿は、その世間の中心でした。
政治も経済も文化も、神殿を中心に展開していたのです。
そこに、イエス様は乗り込み、テロを起こします。
神殿の中で大暴れをする。

今日、お手元に、その様子を描いた絵をお配りしました。
Gustave Doré (1832 - 1883)の絵。
Gustave Dor└

19世紀に描かれたものですから、これはもちろん、イメージです。
ただ、聖書に書かれているこの出来事は、
こうした暴力的なイメージを、常に、画家たちに与えてきたようです。
たとえば、レンブラントも、非常に猛々しいイメージで、この場面を描いています。

レンブラント
怒り猛るイエス様の姿がそこにあります。

世間の歪みを固定し、理不尽を吹き荒ませる、その震源地・発信源を、
イエス様は、神殿に見ました。
そして、神殿を機能停止に追い込んだのです。

まるでモーセの活動のように、
それは華々しく、荒々しくも不穏当で、暴力的なものでした。

神殿に組みする人々、世間を支配する権力者、当時・当地のエリートたちは、
唖然とし、為す術もなく、頭を抱えます。

実は、これまで何度も、危険人物であるイエスを殺害しようとして、
この人々は失敗してきました。
そのツケが、こうやって目の前に繰り広げられている。
世論は完全にイエスの味方になってしまった。
神殿は機能停止し、経済は落ち込み、
政治権力は自分たちの手から失われてしまった。

権力者たちはただひたすら無為に、イエスの運動を、遠巻きに見ていました。

イエスは、勝利したのでしょうか。
モーセのように、解放を成し遂げたのでしょうか。

なるほど、一見、勝利したのです。
それは確かなことです。
歪んだ世間を作り出し、それによって権力と富を手に入れていた人々は、
為す術もなく、イエスを眺めるばかり――。

しかし、この「勝利」は束の間でした。

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