信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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説教「かみはわがやぐら」

大学チャペル説教「かみはわがやぐら」

 10月31日は、宗教改革記念日と定められています。「宗教改革」が、今から500年近く昔のドイツで起こった。そのことを、10月31日は記念する日なのです。

 今から500年前のドイツで、いったい何が起こったのでしょうか。宗教改革とは、いったい何だったのでしょうか。それは、私たちにとって、どんな意味を持つのでしょうか。

 皆さんは、「日本」が始まった年がいつであるか、ご存知でしょうか。「日本」というのは、国の名前です。であれば、当然、誰かがどこかで決めて、始まったはずです。では、「日本」は、いつ、始まったか。

 歴史学的に言えば、702年、今からちょうど1306年前に、「日本」という国の名前が正式に国際的に承認されました。それまで「倭」と呼ばれていた国の名前を「日本」と改め、支配者の名前を「天皇」とすること。それは、今からだいたい1300年前に定まった事柄なのです。

 しかし、そう聞くと、私たちはすこし変な感じになります。今から1300年前に定まった事柄だとするなら、当然、いつか、終りが来てもおかしくない。「日本」は1300年前に私たちの祖先によって定まったにすぎない事柄であるなら、私たちの心ひとつで、「日本」をやめて新しい国にしてもいい、はずだ。しかし、私たちはそんなふうに考えたこともありません。いつまでもあっていいはずのもの――そのように、私たちは「日本」というものを考えています。1300年という時間の積み重ねは、存外大きなものだと言えます。

 私たちは1300年という時間の積み重ねの只中に、今、存在している。その事実は巨大で、有無を言わさない「空気」を私たちに与えます。私たちは、自然と、「日本」というものは普通に存在し、存在し続けるのが当たり前だと感じる。そう感じさせる空気の中に、私たちは生きている。

 宗教改革、とは何でしょうか。それは、言ってみれば、みんなに「当たり前」を感じさせている世間の空気を切り裂く事件でした。

 キリスト教会は、だいたい2世紀にはその形をはっきりさせるようになります。そして、そこからだいたい1300年ほどたったころ、キリスト教会は西ヨーロッパを覆い尽くす巨大な共同体を作り上げていました。ちょうど、今の私たちが「日本」というものを疑わないように、その頃の西ヨーロッパの人々も、キリスト教が作り出す共同体について、疑いを抱かない空気の中に生きていた――そのように、想像してみてください。

 1300年以上の時間の積み上げを背景に、巨大な空気が醸成されています。現状の世間に様々な行き詰まりを感じ、息苦しさを覚えながら、空気の圧力の下に、皆が言葉を自制しあい、本当のことを言わない。そんな世界が、今から500年ほど昔の西ヨーロッパにも、広がっていました。しかし、そこにひとりの「KY」が登場します。それは、聖書とキリスト教の学問をひたすらに嬉々として学ぶ、ある種のオタク的な、30代半ばの修道士(つまりキリスト教のお坊さん)でした。その人の名前を、マルティン・ルターと言います。

 この修道士は、当時の空気を切り裂くような言葉を発し、当時の人々の考えもしなかった行動を取り始めます。言葉と議論で事柄の本質を問い質し続ける。それは、「KYだ」として多くの人々の顰蹙を買う、冒険的な行為です。その活動の最初が、1517年の10月31日なのです。

 空気を読まない、というより、1300年の時間をかけて醸成された空気に、真っ向から逆らうのです。ルターが買った顰蹙は、いかばかりだったでしょうか。完全に、世間から浮き上がります。もちろん、なかには理解を示してくれる人々もいました。しかし、圧倒的大多数は、冷ややかな目でルターを眺めています。そして、無視できない程度の人数が、ルターに対して敵意と憎しみを抱いて行く。

 空気を読むことを拒絶するとき、私たちはすぐ、世間から浮き上がる。そうなると、私たちは何に困るでしょうか。まず最初に困るのは、「言葉」です。何を話しても、誰もまともに聞いてくれない。何を話しても、馬鹿にされる――空気を読まない人がまず最初に直面するこの困難は、しかし、本当に深刻な困難でもある。心から真剣に語る自分の言葉を、誰も聞いてくれない。そうであればこそ、一層真剣に考え、真剣に語る。しかし、そうであればあるほど、人はいよいよ耳を傾けてくれなくなる。却って、真剣なこちらの様子をからかい、あるいは黙らせようとすらする。

 人は、言葉を押さえ込まれるとき、いよいよ言葉を語り出したくなります。「黙れ!」と言われるとき、いよいよ語りたいと思う。しかし聴き手がいなければ、言葉の出口がありません。そうやって、私たちはいつしか、心を歪め、いじけて、黙ってしまう。そうやって、いよいよ「空気」はその支配力を増し、同調圧力を増して行く。

 しかし、人には最後の避け所があります。それは、心の奥底に空いている、秘密の隠れ家です。私たちは、誰にも語れない言葉を抱え込む時、ひそやかに、しかし確かに、語りかける対象を、心の内に持っている。誰もいないはずの心の奥底に、語りあうべき「何か」がある。その最後の場所で、「何か」に向けて語り出す、そんなことができます。それは最後の言葉、究極の言葉です。その最後の言葉こそ、祈りと言われるべきものです。

 英語で、祈りのことをorationと言います。これは、中世の西ヨーロッパで国際共通語とされたラテン語に由来します。ラテン語では、祈りのことをoratioというのです。そして、このoratioという言葉は、もともとは「弁論」とか「議論」あるいは「おしゃべり」を意味しました。つまり、祈りとは、本来、「議論」ということを意味しているのです。

 誰にも聞いてもらえない中で、議論はギリギリと、心の中で孤独に紡ぎあげられます。そのとき、その議論はきっと、本物の「言葉」の集積となる。それは、誰も聞かない心の奥底で、結晶のようにして精製練磨される。そのとき、その言葉は「祈り」となる。そして、そうして圧縮され精製された「本物の言葉」は、世界を変える力を帯びる。

 今から500年ほど昔、西ヨーロッパで起こった出来事は、そのことをよく示しているのです。

 ルターは誰にも聞いてもらえない言葉を語りつづけ、そしてそれは、1300年以上の積み上げを誇る時代の空気を切り裂きました。そして、新しい世界を到来させたのです。それが、宗教改革という事件なのです。

 なるほど、ルターという人はすごい人ですね・・・と、この話をここで終わらせてはいけません。外国の偉人物語、というだけであれば、何も、今の私たちがそれを記念する必要など、ないのです。大切な問いが、残されています。ルターと同じことが、私たちにもできるか、どうか。時代の空気をものともせず、正しいと思う事柄を正しいと思う方法で、恐れずにまっすぐ語り出すこと。それは、恐らく、今の私たちにとっても大切な事柄のはずです。しかし、私たちにそんなことができるでしょうか。それは、宗教的・精神的な天才の所業であって、私たちには到底無理な課題ではないか。私たちは空気の支配の中で粛々とおとなしくやっていくしかないのではないか・・・。

 ルターは、確かに、宗教的な天才でした。しかし、ルターは一人で巨大な偉業を成し遂げたのではありません。ルターは、自分と同じように苦しみ、同じようにギリギリと言葉を紡いだ太古の人々の知恵に養われて、その力を培ったのです。世間の空気に抗い、ギリギリと言葉を紡ぎ、祈りとしてそれを表した太古の文書が、ルターの手元にあった。それは、今日開いている旧約聖書、とりわけその中の、 詩篇 という文書です。

 詩篇には、空気の圧力に呻き苦しむ現場から発せられる、ギリギリの言葉、本物の祈りが刻み込まれています。追いつめられ、孤立無援に苦しむそのとき、心の奥底に輝き出す言葉の光。暗闇の直中で、頼りになるものが皆無となる絶体絶命の窮境で、最後に頼るべき砦。終わることを知らない激しい攻撃の直中で、静かに穏やかな休息を与える安息の場所――詩篇の祈りの言葉は、そうしたものが「ある」ということを、私たちに伝える。ルターは、苦しみの中で、この祈りの言葉を読み、そして、自分の心の中の呻きの言葉を、この祈りの言葉に共鳴させます。そしてその共鳴の響きを、ルターは歌にする。それが、このあとご一緒に歌う讃美歌「かみはわがやぐら」なのです。

 私たちは、正しく生きようとしても、正しく生きさせてもらえない世間にいます。濃い空気が、私たちを圧倒します。私たちは空気を読むことに窮々としている。「正しいこと」や「真理」と言った事柄は、空気の圧力によって、私たちの心の奥底に押し込まれています。しかし、私たちにはルターの歌があり、詩篇の祈りがある。それは、心の奥底で練磨され精製された本物の言葉です。チャペルは、こうした本物の言葉と私たちが出会うために存在します。私たちは「本物の言葉」に触れるとき、自分の心の中に押し込めてしまった「自分の言葉」が共鳴し出すことを感ずるのです。そして、私たちは勇気を得る。空気によって押しつぶされている真理を掴み、空気によって排除されている人の友となる。宗教改革を記念することの意味を、そうしたところに見出してみたいと思った次第です。

祈ります。


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