信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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「トルコ虐殺事件」解説その0

「トルコ虐殺事件」 の、解説です。
学会で発表した原稿から、註のほとんどを除きました。
もとの原稿を欲しい、と思われた方は、ご連絡ください。
喜んで差し上げます。トップページの 「メッセージを送る」 から、どうぞ。

第一回目の「その0」は、
フォーサイス研究全般における、 「トルコ虐殺事件」 の意味を論じています。

もしかすると、フォーサイス研究に興味のない方は、退屈かも知れません。
「その1」 で、 「トルコ虐殺事件」 の要約を開始しますので、
退屈と思われた方は、どうぞ、スキップしてくださいませ。

でも、フォーサイスが最後に書いた文書のことなど、
ちょっとしたトリビアも入れてありますので、よろしければ、どうぞ。

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「最初期フォーサイス神学の内容・背景・意義」
川上直哉

0. はじめに

(1)先行研究における課題

 フォーサイスの伝記的研究及び初期のフォーサイス神学思想の研究は、現在に至るまで課題として残されている。1949年、ブラッドリーは「P・T・フォーサイスの神学:1848-1921 」をエディンバラ大学に博士論文として提出し、1952年、インディペンデント・プレス社がこれを『P・T・フォーサイス:人物と業績 』として出版した。ブラッドリーの功績は、逐次刊行物等の一次資料を活用し、詳細な伝記的研究を進めた点にある。しかしその後、ブラッドリーの研究を乗り越えるものは現れていない。ほとんどの研究書は、フォーサイスの「著書」のみを資料とし(つまり、逐次刊行物は資料として採用せず)、ブラッドリーの伝記的研究を無批判に受け容れて、フォーサイス神学を理解し、叙述している 。

しかし近年、詳細な文献目録が整備され 、他方、大英図書館のオンラインサービスの充実など環境が整備された結果、逐次刊行物に記載されたフォーサイスの論稿郡を容易に参照できるようになった。このことにより、過去より申し送られてきた課題に対し、我々は、今までよりも遥かに容易に取り組むことが可能となったのである。

とりわけ、フォーサイスが著書を発表する以前の神学思想について、新しい光を投げ込む道筋が付けられたことは重要なことと思われる。以下、フォーサイスが最初に著書を発表した1886年 以前のフォーサイス神学思想を、便宜上「初期フォーサイス神学」と呼ぶこととする。




註:この「初期」という区切りは、あくまでも便宜的なものである。フォーサイスの生涯を伝記的に手繰り、その思想的変遷を検討するならば、「初期フォーサイス神学」としての区切りは1876年から1890年に見出される。この点については他日を期したい。




本研究の目標は、この「初期フォーサイス神学」解明の課題に向け、その最初の論稿(説教)に注目し、その背景と内容、そしてフォーサイス神学全体の中における意義を検討する点にある。


(2)フォーサイスと政治的現実

 フォーサイスは、南アフリカの中国人「苦力」問題についての公的意見表明 、あるいは教育法を巡る受動的抵抗運動への参与 、そして第一次世界大戦における英国政府への強烈な支持表明 など、政治的現実と向き合いつつ積極的に発言した。ブラッドリーは次のように述べている。「フォーサイスの生涯と活動を知らない人がフォーサイスの著作リストを部分的に見たら、フォーサイスの本職はジャーナリストだ、と思うかもしれない。 」このブラッドリーの表現は、「初期フォーサイス神学」においてもあてはまる。フォーサイスは著書を発表する前に、二冊のパンフレットを出版しているが、そのいずれも社会主義を論じたものとなっているのである。

 しかし、フォーサイスの政治的現実との取り組みについて注目する研究は、決して多くない 。フォーサイス神学とフォーサイスの政治的活動との関係は、先行研究における空白地帯であると言うことができるだろう。

 実際、フォーサイス神学とフォーサイスの政治的活動との関係を知ることは、フォーサイス像全体を知るために重要なことであると思われる。というのも、文書として記録されたフォーサイス「最初」と「最後」の言葉が、政治的現実と向き合って生み出されたものであったからである。

 フォーサイスが学長を務めたハクニー・カレッヂで副学長の任あったアンドリュース(Andrews, Herbert Tom, 1864-1928. フォーサイスの娘ジェシーの夫。)は、フォーサイス最晩年のエピソードを次のように紹介している。


フォーサイス博士は政治について本当に鋭い関心を持っていた。
病の中にある数ヶ月の間、日々新しい活力を得ながら輝いていた時のこと、
博士が最後にペンを執ったのは、ウィントリンハム夫人宛の三枚の手紙であった。
博士は夫人のルースにおける勝利に祝福の言葉を送ったのだ。
手紙だけでは充分でないと思った博士は、手紙に感動的なイラストを描き添えた。
圧し掛かってくる消耗の中ですり減らされた博士の鋭くも熱心な精神が、このイラストによく表れていた。


即ち、確認されているフォーサイス「最後の文書」は、1921年に英国史上二人目の女性下院議員となったウィントリンハム(Wintringham, Margaret, 1879-1955.)宛の、熱意を込めたイラスト入りの手紙であった。そして、確認されているフォーサイス「最初の文書」は、1876年のフォーサイスの説教の記録であった。同年に起こったトルコ人によるブルガリア人虐殺事件と、その事件に対する英国政府の外交姿勢を非難する内容が、この説教の主題となっている。

以上から、次のことを指摘しておきたい。即ち、「最初期フォーサイス神学」の背景・内容・意義を確認することは、フォーサイス神学とフォーサイスの政治的現実に対する態度との関係を把握する端緒となる、ということである。


(3)フォーサイスと「イングランド・ウェールズ会衆派教会連盟(C.U.E.W.)」

 フォーサイスの生涯全体における「初期フォーサイス神学」の位置づけを考える時、 “「スコットランド人」フォーサイス”という観点を強調することは意義あることと思われる 。フォーサイスへの追悼の言葉に、「その変遷する履歴全般を通じて、様々な意味でフォーサイスは典型的なスコットランド人であった。このことは彼を知る全ての人にとって明白であった。 」とあり、「フォーサイスはスコットランド人らしい遠慮深い人であった・・・彼はしばしばスコットランド的な言葉遣いと言い回しをあえて選んだ。 」とある。即ち、人はフォーサイスに「スコットランド人」の特質を見た。しかし、フォーサイスは24才でスコットランドを離れて以後、旅行その他を除いて、一度も故郷に帰ることなく、イングランドに根を下ろして生活した 。

 ガーヴィー(Garvie, Alfred Ernest, 1861-1945.彼はロシア領ポーランドからの移民であった)がスコットランド会衆派教会の代表として出席した会議で、フォーサイスはイングランド・ウェールズ会衆派教会連盟(Congregational Union of England and Wales)代表として初めてガーヴィーと出会ったというエピソード は、フォーサイスの生涯の一つの側面をよく表しているように思われる。1876年に牧師となって以来、フォーサイスはイングランド・ウェールズ会衆派教会連盟の一員であり続けた。

 「初期フォーサイス」の連盟における立場は、厳しいものであった。

 1876年から1885年まで、フォーサイスは連盟に認められず、会衆派教会連盟が発行する年鑑( Congregational Year-Book )にもその名が記載されなかったという。



註:ブラッドリーは、 Congregational Year-Book について以下のようにコメントを付す。「この年鑑において、フォーサイスは1884年にハクニーで初めて牧師の職に就いたことになっている。この誤記は1889年版まで改められなかった。」




しかし、1889年にはレスター・ラトランド州会衆派教会連盟の議長に選出され、また、1905年にはイングランド・ウェールズ会衆派教会連盟議長にも就任している。

 ここに、所謂「回心」の問題が指摘される。

 即ち、「初期フォーサイス」はある時点で神学的「回心」を経たのだ、とする議論である。この議論はブラッドリーとブラウンの研究 によって強く主張され、現在に至ってもほぼ「定説」となっている観がある。しかし、既述の通り、「初期フォーサイス神学」の研究は必ずしも充分になされてきたわけではなかった。今後、「回心」の問題は、研究の展開と共に再考を余儀なくされるものと思われる。

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