信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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第三章 第八節:分節線

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第八節:第二の「分節線」――レスターからケンブリッヂへ

1894年、ケンブリッヂにあるエマニュエル教会からフォーサイスを牧師として招聘したい旨、強い要請がなされた。フォーサイスはこれを受諾する。フォーサイスは健康上の理由から三ヶ月間休暇を取った後、ケンブリッヂへ赴任する。しかしこの休暇も功を奏さず、ケンブリッヂ着任後わずか一週間後、妻マリアは病気のために他界する。この頃の様子をストッダートは以下のように叙述する。


  外部からの強い要請を受けて、フォーサイス博士はケンブリッヂへの転居を決意した。
  まさにその時、博士は家族に起こった厳しい問題に悩まされていた。
  長い間続いたフォーサイス夫人の病は、博士がこの大学の町に着任した翌週に、
  死によって終止符を打ったのである。
  そして博士自身もほぼ二年にわたって精神を病んだ。
  この病によって博士は自らの仕事に深刻な支障をきたすことになった。

妻の死によって齎されたフォーサイスの病は、容易に快復へとは向かわなかった。ジェシーは以下のように振返る。

  ケンブリッヂにおける最初の三年間、父の健康は良くなるというよりもむしろ悪化して行きました。
  父の病の症状は、まるで深刻な心気症に罹った様子でした。

以上のように、レスターからケンブリッヂへと転居する数年間は、フォーサイスの生涯にとって困難な時期であった。そしてこの時期は、フォーサイスにとって一つの「転機」となった。そしてその転機を画するかのように、一本のエッセイを、この時期に、フォーサイスは発表する。このエッセイは、フォーサイスの生涯における「転換」と「継続」の両相をよく表すものとなる。以下、この「エッセイ」への反響に注目し、フォーサイスの生涯を画する「第二の分節線」を取り出してみよう。


A.1888年から1894年の間の変化

『クリスチャン・ワールド』の追悼文は、フォーサイスの思想的変化をレスター(1888年~1894年)の時期に始まったと見、その変化の終了をケンブリッヂ(1894年~1902年)の期間中と見て、以下のように記述する。


  このケンブリッヂの時期の間に、彼を異端と見る嫌疑は消えて行った。
  この嫌疑は、フォーサイス博士にいつまでも付きまとっていたものである。

この追悼文によると、フォーサイスの「新しい神学的視座」が明確に周知されたのは、1896年レスターで開催されたイングランド・ウェールズ会衆派連盟定期総会でフォーサイスが行った説教「聖なる父 」であるという。



註:フォーサイスと親しかったジョーンズは、過去のイングランド・ウェールズ会衆派連盟の例会で行われた説教の内、最も感動した二つの説教の一つとして、この1896年の説教を挙げている。特に、この1896年の説教は、大幅に加筆修正されて説教集The Holy Father and the Living Christ, London: Hodder and Stoughtn, 1897.に収録されて発表された際、大きな反響を呼ぶこととなった。更に、1893年にはイングランド・ウェールズ会衆派教会連盟の書記に任命されている。Times, 17 Feb. 1893, p. 11.を参照。あるいは、1986年にレスターで開催されたイングランド・ウェールズ会衆派教会連盟の秋季総会において、フォーサイスは「ヨハネ福音書17章11節から、人々と諸国の道徳的感性に対するキリスト教の影響を主題として」説教の任に当たっている。



 レスターの時期からケンブリッヂの時期の間に、フォーサイスの思想的立ち位置の変化があったという見方。この見方は、いくつかの点で支持し得るものと思われる。

 先ず、既にフォーサイスは、レスター在任中の1891年、会衆派教会の牧師として会衆派連盟から認められ、レスター・ラトランド会衆派教会連盟総会における議長職に任じられていた 。しかしながら、レスター時代にフォーサイスと初めて面識を持った者の記憶によると、レスターにおけるフォーサイスは「尚、異端的と目されていた 」という。しかし、1894年、フォーサイスはケンブリッヂのエマニュエル教会からの招聘を受けることになる。このエマニュエル教会は、後述する通り、オックスフォードのマンスフィールド・カレッヂ・チャペルに比肩する役割をケンブリッヂにおいて担っていた教会である 。ビンフィールドが注目する通り、この教会への牧師就任要請は、「会衆派教会連盟の主流派」の強い意向を受けたものであったという 。従って、レスターにいた1888年から1894年の間に、徐々に、会衆派教会の指導的立場の人々の目にフォーサイスの変化が明らかとなった、と考えられる。

 我々は、この「変化」に注目したい。

 この「変化」を象徴するものとして、一遍のエッセイがある。レスターにおける最後の年、1893年にフォーサイスが著したエッセイ、「啓示とキリストの人格 」である。


B.第二の分節線:1892年前後

 フォーサイスの生涯における「継続」と「転換」を考える際、1893年の「啓示とキリストの人格」は一つの鍵となる。

 ケイヴはフォーサイスの著作全般を振返り、以下のように述べる。


  フォーサイスのより深い福音の理解は、内容豊かな彼のエッセイ「啓示とキリストの人格」において初めて表現された。
  このエッセイは『信仰と批評』と題された1893年の論文集に寄稿したものである。
  このエッセイに、我々は後のフォーサイスの教説に独特な個性的調べを見てとることができる。

フォーサイスはこのエッセイを、1892年春から夏にかけて書いた。即ち、レスターでの終わりの頃、自身のみならず妻の体調も著しく悪化する中で、このエッセイは練られ温められ書かれた。

 我々は、1872年から1876年の期間を、フォーサイスの生涯における「転機」と見做し、そこにフォーサイスの生涯における「分節線」を置いた。エッセイ「啓示とキリストの人格」が執筆された1892年前後という時期には、この「転機」と共通するものが見られる。

 第一に、両方の時期共に病があった。前者は病の為に学業を断念し、後者は病の為に政治活動の自粛を余儀なくされた。

 第二に、両方の時期共に別離があった。前者は故郷スコットランドを離れ、後者は妻との死別(1894年)があった。

 第三に、両方の時期共に出会いがあった。前者は妻マリア、ブラウン、ピクトン、そしてリッチュルと出会い、後者はデールと出会ったのである。

 ここで1892年前後を、フォーサイス神学思想の「転機」として捉え、フォーサイスの生涯における「分節線」をこの時期に置くことにする。


C.エッセイ「啓示とキリストの人格」への反響

 「啓示とキリストの人格」というエッセイは、必ずしも注目を集めたわけではない (「しかし次のことは指摘しておきたい。『信仰と批評』第三版が発行された際、複数の書評が書かれたのだが、フォーサイスのエッセイに言及はなかった。そこでは他の、そしてより低い意義しかないエッセイが賞賛されていた。」とケイヴは言っている) が、その反響から、レスターからケンブリッヂに移る頃のフォーサイスに起こった「転機」について、「転換」と「継続」を巡る二つの示唆を読み取ることができる。


C‐1.出会いによる「転換」

 第一に「転換」の相について。これは、かつて「レスター会議」を非難した連盟の指導層の一人、デール との出会いを通して知られるものである。

 1892年の春から夏の間病気の為にウェールズで静養していたデール を、フォーサイスが訪れた。そのときの様子をデールは同年8月31日付けの私信で以下のように述べている。


  フォーサイス氏が三週間ここに滞在しました。
  彼は非常に教養溢れる人物で、神学―― つまり、組織神学――に、
  今日一般の傾向に比べて大変鋭い関心を向けている人でした。
  彼はここで啓示についてのあるエッセイを書いていたのです。
  これは幾人かの若い人々――アデニィ、ホルトン、ベネット、他に一人か二人の人々 ――によって
  企画された本に寄稿するためでした。

この「若い人々によって企画された本」が、『信仰と批評:会衆主義者によるエッセイ集 』である。デールはこの書に寄稿したローレンス(Lawrence, Eric A.)宛の私信において以下のように語っている。

  貴兄のエッセイの他にも、二つ三つの論稿に目を通しました。
  (中略)
  フォーサイスのエッセイは、
  未だ通読しておらず完全に理解できてもいないのですが、
  素晴らしいもので、輝きと迫力において抜きん出ています。

このエッセイが、フォーサイスとデールとの親交を生み出す呼び水となった。ジェシーは以下のように述べている。

  1893年、目覚しい影響を世に与えた書『信仰と批評』に、父は一編のエッセイを寄稿しました。
  これを読んだデール博士はこう言ったそうです。
  「P・T・フォーサイスとは 誰であるか
   彼は私たちの為に、私たち全てが見失った一つの言葉を思い出させてくれた人物である
   ――その言葉とは、恩恵[grace]という一語だ。」
  これが父とデール博士との親交の始まりでした。
  この親交は本当に親密なもので、父にとって深い悦びでしたが、翌年デール博士が亡くなり、
  このご厚誼は悲嘆のうちに突然切り上げられてしまいました。



註:強調はジェシーによる。デールの死は1895年3月13日であった。



ストッダートによると、デールはケンブリッヂ滞在中いつもエマニュエル教会に出席し、役員の責を担ったという 。1892年に始まったフォーサイスとデールとの親交は、1895年までの三年余の間、短くとも深いものであった。デールに寄せるフォーサイスの哀悼の想いは、二編の論稿 として発表されることになる。

 レスターのクラレンドン・パークに在職する時まで、フォーサイスはバルドウィン・ブラウンとアランソン・ピクトンの影響の下にいた (ある教会史家はこの頃の人間関係を「自由主義ネットワーク」と呼ぶ) 。しかしフォーサイスへの弔辞において、フォーサイスと並んで語られる先達はデールであった (既に1910年には、フォーサイスをデールと比肩する神学者と見做す書評が為されている) 。上記のデールとの出会いと交誼が、この変化のポイントとして指摘し得る。衆目の一致する所に従えば、ピクトンとブラウンの線から、デールの線へと、フォーサイスは「転換」した。そしてその時期は、「啓示とキリストの人格」が出版された1893年前後である。

 以上が、1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」への反響から読み取れる、フォーサイスの生涯における「転換」の相の存在である。


C‐2.「継続」の相

 1892年に執筆されたエッセイ「啓示とキリストの人格」への反響から読み取れる第二の示唆は、1872年から1876年の「転機」以来、フォーサイスの生涯において「継続」する事柄が存在することである。それは1876年以来継続してきた事柄と、そして1892年以降継続する事柄を示唆している。

C-2‐1.過去からの「継続」

 上述の通り、フォーサイスの生涯における「転換」を、1893年のエッセイは示唆する。しかし同時に、このエッセイに寄せられた厳しい批判から、フォーサイスが1872年から1876年の「転機」に身に帯びた事柄の「継続」が読み取れる。即ち、リッチュル神学の色濃い反映である。

 スマーヴィル(Somerville, David, 1838-1903.)はエッセイ集『信仰と批評』全体を論評する文書を発表する。スマーヴィルは、このエッセイ集全体にリッチュルの影響がはっきり表れていることを指摘する。


  本書は、最近の非国教会の前進を担う若き代表的な非国教徒の、注目に値する労作である。
  この若き非国教徒たちは
  「聖書における批評研究と神学的な疑問とによって困惑しながら真理を追究する多くの人々の助けとなる」
  という願いを込めて本書を出版した。
  (中略)
  本書を通じて、著者達の見解にリッチュルの思想の影響が見て取れる。
  本書には、かの国における精神の発展と神学教師達の神学的方法論の進歩が示されているのだ。
  しかしながら、本書に収められたエッセイは専門的神学書ではない。
  むしろ実際的な用途に資することが目指されている。

スマーヴィルはフォーサイスのエッセイに付いても以下の通りリッチュル神学の影響を見出す。

  キリストの業にキリストの人格を同定すること、
  また、キリストについての我々の知識を、キリストの業がもたらす影響から知られてくる事柄に限定すること。
  これらの点において、著者はリッチュル学派の基本的な立場に同意している。

スマーヴィルはフォーサイスのエッセイに対し「思索の為の豊かな糧を備えており、また、宗教的熱情溢れる精神の内に筆が進んでいるにも拘らず、読む者の心を高揚させるエッセイである 」と評価するが、一方で、その内容に困惑している。このエッセイにおいてフォーサイスは、キリストの神性をこの上もなく強調する。従ってフォーサイスはソッツィーニ主義を論駁する。しかし同時に、「キリストの人間性の統一」あるいは「キリストの人間としての従順」についても、フォーサイスは雄弁に語っている。ここに「矛盾」があるとスマーヴィルは見る。例えば、このエッセイにおいてフォーサイスが語るキリストと神と人間の関係について、スマーヴィルは以下のように述べる。

  例えば、我々が神とキリストの一致について理解する際、
  その理解は形而上的にではなく道徳的・宗教的に我々にもたらされるものであると、著者は見做している。
  しかし同時に、
  「神とキリストの一致についての我々の理解」はキリストの従順によって得られるものであるという見解を、
  著者は断固否定している。
  また、「神とキリストの一致についての我々の理解」はキリストが聖化の道を進まれるのに応じてより
  深まって行くという見解についても、著者は一切これを否定する。
  こうしてこの「神とキリストの一致に付いての我々の理解」は多くの神秘の中へと追いやられてしまう。

本論文「第一部」に述べた通り、この1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」を「フォーサイスの回心」の到達点と見るR・M・ブラウンは、フォーサイス神学の到達点に神秘主義的傾向を認めた 。しかしこの「神秘主義的傾向」を帯びたこのエッセイは、尚1872年以来のリッチュル神学の影響を色濃く受けていることを、スマーヴィルは指摘するのである 。

 即ち、1872年から1876年における「転機」以来フォーサイスの思想に齎されたリッチュルの影響が、1893年以降においても継続していることを、1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」は示唆している。

 更に、1892年のエッセイ「啓示とキリストの人格」に向けられたスマーヴィルの批判から、1876年以来「継続」するフォーサイスの姿が、二点、浮かび上がってくる。

 第一に、ソッツィーニ主義を論駁しつつ形而上的なキリスト理解も拒否するフォーサイスの姿勢は、ピクトンの思想(ユニテリアニズム)とは一線を画しつつもピクトンと行動を共にし続けたフォーサイスの軌跡と一致する。

 また第二に、「神秘」がここで指摘されている。「逆説」を蔵した人物として見做されたハクニー時代のフォーサイスの姿が、ここに繰り返して指摘されているのである。


C-2‐2.将来への「継続」

 1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」に対しては、もう一つの批判の声が寄せられている。そこには、この後に指摘されるフォーサイスへの批判が先取りして示されている。このことを確認し、1892年に執筆されたエッセイ「啓示とキリストの人格」において、それ以後のフォーサイスの神学的立場へと引き継がれて行く内容が著されていたことを、以下に示す。

 『ロンドン・クォータリー・レヴュー』誌上に、スマーヴィルのものと同様の批判を、より詳細に論述した書評 が掲載された。この書評者はフォーサイスのエッセイの背景となっているリッチュル学派とは、詰まるところヘルマン(Herrmann, Wilhelm, 1846-1922.)の立場であることを、以下の通り指摘する。


  短い註の中で、著者は「思想的に、そして時にはその言い回しにおいて」
  マーブルグのヘルマン教授に依拠していることを認めている。
  (中略)
  ドイツ神学に精通しているものであれば誰でも、このエッセイの著者が
  とりわけヘルマンによって代表されるリッチュル主義神学の優れた特徴のいくつかを再生産していることに気づくだろう。



註:とりわけ、ヘルマンの論文 ”Die Offenbarung.” “Der Verkehrdes Christen mit Gott.” “Die Geqissheit des Glaubens.”が反映していると書評者は指摘する。



この匿名の書評者によるフォーサイス批判を要約すると、おおよそ以下のようなものとなる。

 宗教的知(価値判断)と科学的知を峻別すること。宗教的確かさというものは、神がキリストの内に啓示している事柄を直接経験することによって、個人的に達成され得るということ。こうした点に、ヘルマンとフォーサイスの共通の特徴が見て取れる。批評学の影響下においても信仰の位置づけを揺るがせにしない強みを持つこの立場は、魅力的ではあるが、しかし、この立場に対しては、ある懸念を覚えざるを得ない。宗教においてこそ啓示は知られ、科学的真理ではなく信仰においてのみキリストは知られるとした場合、果たして科学的知の意味は失われてしまわないだろうか。キリストはこの地上で何を語り、何を行ったのか。こうした歴史的側面を無視して、果たして我々は何を知ると言うのか。とりわけ、こうした懸念は神学において深刻となる。確かに、「街場の人々」は共観福音書の問題や第四福音書の成立時期について、頭を悩ませたりはしない。しかし、「科学的な立場から、神学者はあらゆる角度の疑問点に答える備えをしなければならない。とりわけ、地上における我等の主の生涯の事実について、平明な問いには平明な回答を用意しなければならない 」はずではないか。そしてその検討の先において、ハルナックが典型的に示すとおり、所謂「キリスト論」は解体されることだろう。しかし、フォーサイスはそのような理路を採らない。結果、フォーサイスの主張は中途半端であり、無理を来たすものとなる。加えて、フォーサイスの一面的な強調が、読者に誤解を与える。「この著者は警句的な表現に拘ろうとする余り、危うい。 」フォーサイスは信仰によって啓示は理解されると言わんが為に、信仰による以外の知を否定してしまう。


  確かに、復活といった事柄は「信仰にとってのみ」信憑性を持つ。
  しかし、その歴史性を確立することを不可能とすることや、
  復活と贖罪は信仰においてのみ「価値」を持つということを、
  神学教師達は満足して受け容れるであろうか。
  聖書の歴史的信用性やそこに示される霊的な真理の信頼性は「貧弱で貧困な要素」であり、
  啓示一般には繋がりのない事柄であり、
  (兎も角も)「歴史的キリストと顔と顔を会わせている」信仰者にとって全くの余剰事項であると見做して、
  我々はこれを諦めなければならないのだろうか。
   (中略)
  我々はフォーサイス氏の手引きを信じることができない。
  このエッセイが今日の困難に対する氏の最善の回答であるとしても、
  それが信用できないということは、まことに残念なことである。

以上が、「啓示とキリストの人格」に対して向けられた批判である。そこには、一点に集中して偏った結論へ到る問題、そしてその偏りの結果、現実の世界での事柄に対する理解を失ってしまう問題が指摘されている。無理を押してでも所謂「キリスト論」に固執する結果、信仰以外の知を否定してしまう、という問題が、指摘されている。

 1893年に発表されたエッセイ「啓示とキリストの人格」は、1892年前後に起こったフォーサイスの「転換」について示唆するものである。そしてそれと同時に、このエッセイは、1872年から1876年における「転機」以来フォーサイスの生涯を貫いて「継続」する相の存在を示唆する内容を含んでいる。フォーサイスの生涯における「分節線」の位置を定め、フォーサイスの生涯における「継続」と「転換」の両相を総合的に把握するために、1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」は注目すべき資料となる。

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