信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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第10回:制度・組織

二学期 第三回(通年第10回):制度・組織


1.はじめに(復習)

 前回は、教会がなぜ広まったのか、その秘密をお話しました。キリスト教は、自由参加で離脱自由な、敷居の低い宗教です。その特徴から、色々な人が勝手に入り込んできます。どんどん人数が増える、と同時に、色々なタイプの「キリスト教」が生まれて、混乱が生じます。その混乱の中で、キリスト教徒同士が敵対し合うような事態も生じる。それで、みんなが困ってしまいます。自由は大切だろうけれど、とにかく「統制」が取れないと、自滅してしまうかもしれない。そうしたわけで、「正統」というものが生まれることになりました。

 「極端に異なった意見」に立つ立場のことを、「異端」といいます。それは、「グノーシス」についてお話した時、申し上げたことでした。この「異端」と反対の言葉が、「正統」です。「正統」とは、「正しい統制」を確保する立場のことです。それは、「正当」ではありません。つまり「正しく当たっていること=本当の真理」とは、すこし、意味が違います。「正統」というのは、「秩序のために正しい統制を取ること」なのです。もしかすると、それは間違いかもしれない。迷信でもなんでも、「統制」が取れるなら、それが「正統」となります。逆に、「正当」な意見であっても、秩序を乱し統制を妨げるなら、それは「異端」となる。

 もともと、「教会」というものは「エクレシア=寄り合い」でした。単なる「寄り合い」です。それは、熱意や信仰によって形作られ維持されるものだった。でも、それだけでは、混乱が生ずる。それでは困る。だから、枠組みを決めて、統制を取って、混乱をおさえ込もうとする。それで、「正統」な教会とは何であるか、その基準が作られることになります。教会はその基準を作るのに、500年近い時間をかけました。それでもとにかく、基準が作られる。その基準に従って、「正統な立場の教会」が確定する。逆にいえば、その基準に従って「異端の立場の教会」が特定する。そして、混乱は回避される。

 私たちの教科書では、この基準を三つに分けて説明しています(教科書21頁)。実に手際のよいことだと思います。その三つというのは、「主教制度、正典としての聖書、正しい信仰を言い表す信条」の三つです。そしてそれが「教会の基礎」になったと、教科書は説明していました。

 今日から、この三つの基礎について、4回をかけて、皆さんにお話したいと思います。今日はその第一回目として、「制度・組織」について、ご案内いたします。


2.制度・組織

 教科書の21頁下の段には、「使徒のあとつぎ」という項目があります。「使徒」というのは、「イエスの直弟子」という意味です。キリスト教徒は「イエスの弟子」を自任する人々ですから、当然、その中で「イエスの直弟子」は、一番「偉い」ということになる。「偉い」ということを、「権威」と言います。「偉い人」は「権威をもっている人」です。その人が「正しい」と言えば、それはやっぱり「正しい」気がする。それが、「権威」というモノの性質です。

 教会が混乱して喧嘩が起ったとしても、「権威」を持った人が仲裁してくれれば、問題は片付きます。どっちが悪くて、どう仲直りしなければならないのか、「権威」を持った人が決めてくれる。でも、「権威」を持った人がいなくなると、どうなるか。

 「使徒=イエスの直弟子」は、人間ですから、当然、いつか死ぬ。つまり、いつかいなくなってしまいます。そうすると、「偉い人=権威を持った人」がいなくなる。これは困ります。それで、その後継者が、「権威」を受け継ぐことになる。具体的には、使徒の弟子たちが、権威を継承するわけです。でも、その人もいつか死んでしまう。そうするとやっぱりまた困る。困ることを繰り返してもしょうがないから、教会は制度をつくり、組織を整えていきました。「権威」を持った「偉い人」の役職を決めるのです。そしてその役職にある間は、その役職故に、その人を「偉い」とする。

 学校では、「校長先生」が一番「偉い」とされます。それは、その校長先生個人が立派かどうかよりもむしろ、その「役職=校長職」が偉いのです。教会の場合、「偉い役職」を、「エピスコペー」と呼びました。これはギリシャ語で、「上から(エピ)+見る(スコペー)」という意味です。しばしば地面に這いつくばり、時には地下に隠れているキリスト教徒たち全体の面倒を見る人、という意味です。実際、ローマ帝国がキリスト教を迫害した時、キリスト教徒たちは地下組織の非合法集団として存在していましたから、この「エピスコペー」は、家々を歩き回り、信者さんたちを励まして回りました。それで、この「エピスコペー」は「歩き回る人」という意味を持ったと、ある学者は語っています。

 「エピスコペー」という言葉は、日本語に訳しにくい言葉です。英語では「ビショップ」と訳されるのですが、これは、「司教」「主教」「監督」などと訳されます。訳語が、統一されていないのです。東北学院がつながりを持っているプロテスタントの伝統では、だいたい「監督」という言葉が使われますから、教科書21頁には「監督と呼ばれる人々があって」と書かれているわけです。東ヨーロッパに広がっている「正教会」や、イギリスの国教会であった「聖公会」等では、これを「主教」と呼びますし、カトリック教会では「司教」と呼ぶ、ということも、覚えておかれると、教会に行った時、便利かもしれません。

 既に申し上げた通り、「エピスコペー」は、信者さんたちのいるところを歩き回って励ます仕事でした。ですから当然、歩ける範囲が決まってきます。それで、一人ひとりの「エピスコペー」が担当する地域が決まってくる。その地域の区割りを、「教区」と呼びます。たとえば、カトリック教会では、東北地方を「仙台教区」と呼んだりする。人々は自分の住んでいる地域の世話を見てくれる「エピスコペー」をもち、その指導・監督の下に、「正統なキリスト教会」を作っていく。こうして、制度と組織が基礎となって、「教会」というものが立ち上がっていくことになります。

 最初、「エピスコペー」は、迫害や困難の中で苦しむ信者さんのお世話係でした。でも、いつしか、ローマ帝国がキリスト教を利用するようになります。最初はキリスト教を公認し、そして遂にはキリスト教をローマの国教とするに至る。それは紀元300年代に一気に起こった大変革でした。

 今まで、非合法の日蔭者であったキリスト教が、100年の間に立場が逆転する。これは、教会の組織に大きな変化をもたらします。それまで「お世話係」だったはずの「エピスコペー」が、いつしか支配者になって行く。支配の権力を与えられるようになると、「エピスコペー」の間に闘争が生まれます。そして最終的には、ローマ帝国の東西分裂を経て、西欧においては、大都市ローマを教区として担当していた「エピスコペー」が、「首位」を獲得することになります。それ以来、宗教改革に至るまで、西欧において「権威」は「ローマのエピスコペー」に集中することになる。それで、「ローマのエピスコペー」を「ローマ教皇」と呼んで、特別視することになりました。こうした特別視は、伝説的な説明を身にまとうものです。ローマ教皇の場合、それは、「ペテロの後継者」でした。つまり、「ローマ教皇は、イエスの一番弟子であるペテロの後継者なのだ」という理解です。今でも、ローマ・カトリック教会においては、この理解をまじめに信じて、制度や組織を精密に作り上げています。そして、ローマ・カトリック教会は、この「エピスコペー」から始まる制度・組織(それを「主教制」と呼びます)を非常に大切にする特徴を持っています。


3.「制度」のオモテとウラ

 「制度」というものは、とても便利なものです。それは、時代の変化に耐えて教会を支えることになります。

 もともと、「権威」は、偉い人格に与えられます。立派な人格を持ち、人々を感服させるから、その人は「偉い」とされ、権威を与えられる。でも、時間がたつと、どうしても、人材不足になります。迫害で権威をもった人が殺されたりする。立派すぎる指導者がいるために後継者が却って育たなかったりする。そうして困った時、「それほど立派でない人」が選ばれて、後継者になる。その時、その人ではなくて、継承された地位・職責が、「権威」を帯びることになります。それが、「制度」というものの強みです。

 最初、「エピスコペー」は尊敬される大宗教家でした。命をかけて信徒さんたちのために尽くす人です。だから、「エピスコペー」は尊敬された。でも、その人たちがいなくなる。殺されたりして、突然他界する。そうすると、残った人で「エピスコペー」をしなければならなくなる。そのうち、“偉い人だから「エピスコペー」になる”ということが逆転して、“「エピスコペー」なんだから(あの人はホントは大した人格ではないけれど)偉い”となる。偉いのは「エピスコペー」という「職」であり、その職に就いている人の人格ではない。

 現在、「エピスコペー」という言葉は、「監督職」「主教職」「司教職」と呼ばれています。つまり、それは「職」なのです。「職」として、「エピスコペー」は、今も継続している。たとえば、私はこの夏に牧師の資格試験を受けました。私は神学者ですから、もしかすると、平均的な牧師よりもたくさん勉強しているかもしれません。でも、それだけでは「牧師」になることはできない。教団のエピスコペーの職にある人(私たちの教団では、総会議長がこれに当たります)が認めた委員会の試験を受けて合格し、そしてその職にある人に許可されて初めて、私は牧師になる。こうして、今でも、「職」としてのエピスコペーは現在まで継続している。ここには、2000年間変わらない教会のカタチが見て取れます。

 このカタチは、強いものです。たとえ教会が人材不足に陥ったとしても(しょっちゅうそうなります)、誰が偉いかは、「職」によって決まる。エピスコペーの職に誰かが就けば、その「職」の権威(偉さ)の故に、物事の決済のシステムは機能する。これは、安定した秩序を、教会に齎しました。

 制度による組織の安定化機能は、西欧型の官僚制度に引き継がれています。日本も、西欧型の官僚機構を導入している国のひとつです。だから、「職」に権威が付帯する。「職」が偉いのであって、「その人」が偉いかどうかは、二の次にできる。だから、ある首相が極めつけの不人気となって、日本中のほとんどの人が「今の首相は偉くない」と思ったとしても、その人が「首相」の職にある限り、その人は日本で一番偉い、とされる。今年は衆議院の総選挙がありました。自民党は大敗北しました。だから、自民党の総裁である麻生さんは、国民から見限られた、ということになります。でも、選挙に敗北したって、関係なく、この国の首相である限り、麻生さんはこの国で一番「偉い」人なのです。職を交代するのには、手続きがいる。その手続きが終わるまでは、麻生さんが一番偉い。そうやって、選挙があっても、政権交代があっても、国民の人気が下がっても、とにかくこの国の毎日は変わらない日常を過ごすことができます。それは、「制度」が支えてくれているからです。

 同様に、西欧において、教会は、一つの制度でしっかり支えられました。エピスコペーはたくさんいたのですが、時間をかけて、「首位」を確定した。ローマのエピスコペーが、首位のエピスコペーなのです。そう決まれば、あとはしっかりしてきます。全てのことについて、「首位」が判断することができる。「首位」のエピスコペーだけで処理できなければ、首位のエピスコペーの判断で、問題の処理をその次の立場の人が任せられる。その人がまた忙しくなれば、首位のエピスコペーの責任で決められた次の立場の人の判断で、その問題を解決する担当者が決められる・・・と、どこまでもどこまでも、「首位のエピスコペー」の責任の下、全てが決済されることになります。「全て」のことが、明快に決済される。本当に、全てのことが、決済される。それは、徹底していました。具体例を挙げるなら、まず、夫婦間の性交渉について、教会は「正しい仕方」を決めて、各家族に教えました。そして、死んだあとのこと(天国とか、地獄とか)について、教会は「正しい仕方」を決めて、周知徹底したのです。そうなるとどうなるでしょう。人間が生まれる前(受精前の性交渉)から、死んだあと(天国とか地獄)まで、教会が管理することができます。そうやって、中世は堅固な枠組みを設立することができた。それが、西欧の世界の外枠となります。

 以上のように、「制度」というものは、優れて便利なものです。人材が足りなくなったり、時代が変わったり、支配する地域の面積が伸縮したり、人間の集団は変化に翻弄されるものです。でも、「制度」をきっちり創ることができれば、そうした変化に対応できる。それは、「制度」というもののオモテの顔です。そして、西欧において、教会は見事な「制度」を整えた。それが「西欧」という世界を形作っていきます。

 「制度」のオモテの面には、皆さんにとって、重要な意味があります。現在の日本は、西欧式の官僚制を基本にして、あらゆる制度が、西欧式の制度です。それは、「誰でも」役職に就けば、組織が動かせるという性質をもっています。天才でなくても、お金持ちでなくても、身分が低くても、カリスマがなくても、「職」に就ければ、巨大な組織が動かせる。それはつまり、こう言うことです――皆さんだって、大きな組織を動かせる、ということ。学校でも、会社でも、国家でも、同じです。皆さんが御自分を「ダメなやつ」と思っていても、それは関係ありません。役職に就ければ、「職」が機能して、巨大な組織が動きます。皆さんでも、誰でも、世界を変えるチャンスが与えられているかもしれない、ということ。これは、西欧由来の「制度」のオモテ面だと言えるでしょう。

 でも、「制度」にはウラ面があります。それは、オモテの面のちょうど反対側にあり、オモテの面の光の影です。たとえば、「職」が決まれば、その職に就いた人の人格は問われない、となります。そうすると、心の中では全然尊敬できない人が「エピスコペー」や「首相」や「校長先生」に就任することもある。すると、困ったことが起こります。本当はそこに権威なんかないはずなのに、その人を尊敬しなければならなくなるのです。2005年、ローマ教皇(つまり、ローマのエピスコペー)が新しくなりました。2009年現在の教皇の名前を「ベネディクト16世」といいます。ほんとうは、この人は、1927年生まれの「ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー」という男の人です。私の知っている多くの人が、これまで、ラッツィンガーさんを強く批判していました。批判する人たちは、ラッツィンガーさんを嫌っていたし、尊敬していませんでした。でも、この人が2005年に「教皇ベネディクト16世」となった。そうなった瞬間、少なくともローマ・カトリック教会に所属している人たちは、この人を尊敬しなければならなくなる。ここに、「制度」のウラの面、影の部分があります。心の中と、態度とが、分裂してしまう、ということです。分裂させることで、時代を乗り越えて、教会は維持されてきました。でも、そこにはどうしても、ウソやゴマカシが入り込む。

 この「制度」が持つウラの面が極大化するとき、教会の崩壊が始まります。西欧において、それは、教会の絶頂期に始まりました。そして、宗教改革によって、教会は分裂しつつ、刷新されていきます。ただ、今日は、教会が基本として「制度」を磨き上げて1000年の安定した時代をつくりあげた、ということだけ、押さえておきたいと思います。

第11回は こちら からどうぞ。


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