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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ
第13回:信条
二学期 第六回(通年第13回):信条論
1.「聖書」「制度」「信条」=「ソフト」「ハード」「マニュアル」
前回まで、教会の基礎であるところの「聖書」と「制度」について、ご説明をしてきました。この二つは、一面において繋がっています。「教会の基礎」として、聖書は「正典=カノン=ものさし」です。それは、キリスト教徒にとって「聖なる団体」であるところの教会を作り出すための「ものさし」となり、教会の制度や組織はこの「聖なる書物=聖書」に基づいて、「聖なるもの」として構築されるのです。つまり、キリスト教徒にとっては、聖書は教会を作り出す「ありがたい書物」。ですから、キリスト教徒は、聖書を一所懸命に読みます。たとえその意味が分からなくても、分からないなりに、とにかく読む。読むことに宗教的な価値がある。だから、教会の礼拝では必ず聖書が読まれます。礼拝に出ている人の中には、難しい聖書の解釈に興味を持てない人も、いるかも知れません。でも、とにかく聖書を読む。そうすることで、人生に意味が生まれ、幸せに生きていくことができるはずだと、そのように信じているからです。それは、一つの信仰です。
キリスト教徒は一般に、「聖書は神様の聖なるお言葉だ」と、そう信じているのです。だから、キリスト教の学校では、チャペルを整備して、そこで聖書を読んで聞かせる。忙しい学校ですと、礼拝の時間を確保することはとても難しい。でもとにかく、たとえ十分な説明ができないとしても、聖書を読んでお祈りをすることを大事にする。短い時間では、聖書の意味が分からないかもしれない。でも、聖書の言葉に触れる機会を与えることで、青年期の人格形成に大切な「何か」を与えることができるのではないか――キリスト教主義の学校では、本気でそう信じて、忙しい中で礼拝の時間を作ろうとしているのです。
キリスト教徒にとって、聖書は「神の言」とされます。「神の言」というのは、特殊なキリスト教用語です。意味は、「神様の言葉」ということですが、他の神様や仏様のありがたいことばとは区別して、「聖書に書き表されている神の言葉」を、キリスト教の世界では「神の言」と表記することになっています。そして、聖書こそ「神の言」だとそう信じる人々が、聖書に基づいて、教会を作った。教会の制度や組織も、聖書が基準(ものさし)となる。それで、聖書は「正典」となり、教会の基礎となったわけです。
教会にとって、「聖書」と「制度」とは、ちょうど、ソフトウェアとハードウェアのような関係にありそうです。キリスト教という宗教が立ち上がった。その魅力は、「聖書」というソフトに練り上げられた。でも、それはカタチを持っていない。なんとか、「聖書」というソフトを現実の世界で持続的に起動させたい。そこで、「聖書」というソフトに合わせて、「制度」というハードが構築されました。それは見事なハードウェアでした。そのハードが見事であったために、「聖書」というソフトは、半分くらいしかインストールされないでも、問題なく世の中が回ったのです。それが、中世の1000年でした。でも、1000年が経つころ、問題がたくさん蓄積されてきました。それを解決するために、宗教改革において、「聖書」の中で使われていなかった部分が大量にインストールされた。ちょうど、インターネット接続のためのソフトを、NTTドコモが携帯電話に本格導入して以来、携帯電話はネットツールに変身したことに、それは似ています。それまでは、ネットはパソコンのもので、携帯電話は電話だけのために使われてきたのです。しかし、インターネットをめぐる様々なソフトが携帯に投入されて、携帯電話はまるで別の道具になってしまいました。同様に、西欧の中世的「制度」のハードウェアに、使われていなかった「聖書」のソフトウェアを導入したら、現代の西欧システムが起動を始めた。「聖書」と「制度」の関係は、だいたいこのようなものだと思われます。
私たちの教科書では、教会の基礎は「制度・組織」と「聖書」と「信条」であると纏めてあります。この最後の一つ、「信条」とは、一体何でしょうか。
「信仰の箇条書き」のことを、「信条」と言います。それは、「ハードウェアのような組織」「ソフトウェアのような聖書」という表現に合わせて言うならば、「マニュアルのような信条」という意味になる。このことを、今日はご案内したいと思います。
2.全世界共通の「マニュアル」
キリスト教の最大特徴は、その「敷居の低さ」にあります。多くの宗教が「出家」のようなことを求めるのに対し、キリスト教は「信じる者は救われる」とだけ、言うのです。信仰があればいい。後のことは、後から考えよう。
この「敷居の低さ」は、キリスト教の強みですが、逆に、キリスト教の弱点にもなります。誰でもキリスト教になれるということは、本気でない人でも、本気の人でも、とにかく信仰をもったなら、キリスト教徒として対等に扱われるということです。それは、ご都合主義的なキリスト教徒をたくさん作りだすことにも、なるのです。
1945年まで、日本においては、キリスト教は「邪教」であり「非国民の宗教」でした。キリスト教徒であるということは、差別といじめの対象になる、ということを意味したのです。1945年まで、日本人がキリスト教徒になる、ということは大変な決意と覚悟を要請することでした。しかし、1945年の夏以降、これは一転します。日本が戦争に負け、国連軍の責任者としてマッカーサーが日本にやってきます。マッカーサーは筋金入りのキリスト教徒でした。日本を占領している最高指導者が、筋金入りのキリスト教徒である――このことで、日本のキリスト教徒の地位は、劇的に変化します。すると、人々は大挙して、教会に集まってきたのです。日本がキリスト教国になるのも間近だ、と、その時の教会の人々は本気で考えたほど、キリスト教はブームになります。特に若い人たちは、教会を「たまり場」としました。日曜日になると、教会には人が入りきらなくなる。そんな光景が、1960年代まで続いたのです。
でも、今、教会においでになればよくわかると思います。「ブーム」は過ぎ去って、教会から人はいなくなりました。今、どこの教会も、「ブーム」の時に得た信仰を律儀に守る少数の誠実な人だけが残り、大多数の人々は、教会のことを忘れて生きています。それが、日本の現実なのです。
この日本の現実は、世界中で繰り返されてきたところです。キリスト教徒になった方が都合がよい、あるいはキリスト教徒になることは格好良い、となりますと、キリスト教徒が急に増える。参入自由の敷居の低さです。ドッと、人が集まってくる。でも、都合が悪くなると、人は静かに去っていきます。離脱も、自由だからです。
そもそも、「信ずる者は救われる」という宗教です。信じているかどうかは、心の問題です。心は、見えません。だから、ごまかしが利く。本気の人も、本気でない人も、見分けがつかない。それが、「敷居が低い」というキリスト教の本質から来る、弱点なのです。
この弱点は、容易に克服できません。これは、キリスト教の本質に根ざすものだからです。それでも、何か手を打たないと、やっぱり困る。困った教会は、とにかく「信条」というものを定めました。「信じる者は救われる」として、何を信じているかについて、簡略な表現で箇条書きにしてまとめておく。そして、その箇条書きにされた「信仰」の内容を受け入れている人を、キリスト教徒として認め、仲間として遇しよう。
ハードとしての「制度・組織」が作られ、ソフトとしての「聖書」が起動する。そのあと、その宗教を使いこなさなければなりません。宗教は、人の心が体を使って行うものです。どうしたら、それを使えるのか。そのマニュアルに当たる部分が、「信条」ということになります。つまり、この「信条」が分かっていれば、いつでも、どこでも、誰でも、キリスト教という宗教を使うことができる。逆に、このマニュアルがなければ、キリスト教という宗教は、なかなか、使いこなせない。
実際、キリスト教は、見事な「マニュアル=信条」を作り上げました。マニュアルは、大きすぎると、読んでもらえませんから「失敗」です。逆に、小さすぎて足りないと、やっぱり「失敗」ということになる。本当に掛け替えのない部分を、本当にコンパクトにまとめる時、そのマニュアルは「成功」となる。そういう意味で、キリスト教の「信条」は非常によくできているように思います。
キリスト教の「信条」は、全世界に通じるものが二つ、そして西欧と日本などで通じるものが一つあります。この三つが分かれば、皆さんはいつでもキリスト教徒になれる。この三つの言わんとするところを理解して、それを「本当だ」と思えば、それでキリスト教徒になれるのです。
世界に通じる「信条」とは、「ニカイア信条」と「カルケドン信条」です。両方とも、しっかりとした会議で決定されたものです。「ニカイア信条」は、ギリシャの近く、トルコ半島の伝統ある都市ニカイア(現在のトルコ・イズニク)で325年に開かれた教会会議で決定されました。「カルケドン信条」は、やはりギリシャのすぐそば、トルコ半島の都市カルケドンで451年に開かれた教会会議で決定された信条です。
それから、もうひとつ、西欧の教会ではどこでも通用する信条があります。それは、「使徒信条」と呼ばれるものです。これは、起源が分かりません。有力な学説によると、2世紀半ばごろに作られた「ローマ信条」を改良し、4世紀ごろだいたい出来上がり、9世紀には確定したものだそうです。起源も成立の経緯もよくわからないので、「使徒の信条」という大げさな名前がつけられているわけです。
「ニカイア信条」と「カルケドン信条」は、世界中の教会で共通して用いられる信条です。これが分かれば、東欧諸国でも、アフリカのエチオピアでも、あらゆる場所の教会でキリスト教徒であることを証明できます。ただ、日本では、この二つの信条はあまり人気がありません。むしろ日本の教会では「使徒信条」がとても一般的に用いられています。これは、日本のキリスト教が西欧の人々によってはじめられたことに関係しています。西欧では、「ニカイア信条」や「カルケドン信条」よりもむしろ「使徒信条」が好まれてきたという経緯があるのです。ちなみに、「使徒信条」は、皆さんがお持ちの『讃美歌』の566番に全文が記載されていますから、そちらをご覧ください。
3.キリスト教の神と、信条の中身
それでは、これら三つの信条の中身は、どんなものなのでしょうか。細かい議論は、たくさんあります。ここでは、その核心部分だけを取り出してみましょう。皆さんが(何かの都合で)キリスト教徒になろうと、そう思われた時、この信条の中身を知っておられれば、きっと便利だろうと思われます。
キリスト教の信仰の箇条書きですから、やっぱり、第一に大切なのは、キリスト教の神様のことになります。三つの信条は、その問題を中心に考えると、分かりやすくなります。
キリスト教の神様の名前は、一体何か。ご存知の方は、まず、いないはずです。実は、今のところまだ、誰もその「名」を知らないでいるのです。「いや、ヤハウェではなかったか?」と不審に思われる方もおられるでしょう。確かに、学者は現在、キリスト教の神の名を「ヤハウェ」と推定しています。でも、それは推定でしかなく、そしておそらく、間違っているのだと、私は思います。
そもそも、キリスト教の神は、ユダヤ教の神でした。そして、ユダヤ教の名は、絶対の秘密事項でした。これを軽々に口にするものは三代・四代にまで及ぶ呪いをかけられる。戦争や天変地異だって起こるかもしれない。とにかく、聖書の神はそのように戒めています。だから、ユダヤ教では、神の名は「YHWH」という四文字で表わされるのですが、その読み方は、誰も知りませんでした。ユダヤの言葉、ヘブル語は、文字にするときに子音だけを書いて、母音を書きません。だから、誰かが読み上げてくれないと、それは読めないのです。そして、ユダヤ教徒たちは、自分たちの神の名を秘密にした。年に一度だけ、大きなお祭りのときに、神殿の一番奥にある秘密の間で、厳重な儀式の後、こっそりと大祭司が神に呼びかける。それ以外には、決して神の名を呼んではいけないことになっています。
ところが、今から1900年ほど前、ユダヤ教が徹底的に攻撃を受けます。正確に言うと、ユダヤ教徒が総力を挙げてローマに抵抗し、独立運動を展開するので、ローマがムキになってこれを潰しました。ユダヤ教の神殿についてはその土台から掘り返し、ユダヤの土地には塩を蒔いて不毛の地とし、その土地の名も「パレスチナ(ユダヤの伝説上の宿敵であるペリシテ人の土地)」と変えてしまう徹底ぶりです。その破壊の過程で、大祭司も、そして神殿での儀式も、永遠に失われてしまいました。そして、神の名も、永遠に失われたのです。そして、20世紀になり、学者が必死に議論を重ねた結果、おそらく「YHWH=ヤハウェ」だろう、と、そういう合意ができました。(でも、いくら「ヤハウェ」と呼んでも、何のタタリもありませんから、きっと、これは間違いなのだろうと、私は思っています。)
20世紀になるまで、キリスト教徒は「YHWH」を「エホバ」と呼んでいました。これは、ユダヤ教の一般の人たちが、日常生活の中で、自分たちの神様を呼ぶ言葉を真似たものでした。ユダヤ教の人たちは、普段、自分たちの神を「アドナイ(主)」と呼んでいたのです。自分たちの人生を決定づける「主=あるじ」が、自分たちの神である。
私たちは、生きていて、分からないことにぶち当たります。その時、その原因を説明できれば、ホッとする。でも、全く説明のつかない理不尽なことが、人生にはついて回ります。なんで自分はモテないんだろう。なんで自分はイケメンでないんだろう。なんで自分はこの程度の頭脳なんだろう。なんで自分の家はお金持ちでないのだろう・・・こうしたことに悩む時、理由が見つけられないために、私たちは困ってしまう。困ってしまう時、古代人、特に一神教を信じた人々は、その理由を「眼に見えない唯一の神」に帰しました。この世界の因果関係から切り離された、超越する神。想像も及ばない天の果てにいる神であれば、この理由のわかない出来事の説明をつけてくれる。そうした考え方は、皆さんには疎遠かもしれません。でも、どうでしょうか。皆さんも、理不尽なことに悩まされる時、「神」ということは考えないでしょうが、よく似たことを考えると思います。それはつまり、「運」ということです。把握できる因果関係を越えて、分からない「運」がある。だから、「運」が悪ければ、こういう悩みにぶつかるのだ――と、そう納得することができます。理解はできなくても、とにかく、納得できる。それは、心の健康を保つためにとても大切なことなのです。
ただ、「運」とか「神」というものは、時々、人の心を追い詰めることもあります。運が悪い、ということは、もうダメなんだと、そんな気になることもある。神様が怒っているのだと思いこむと、これから私はずっとダメなんだと、そんな気になることもある。何しろ、想像することもできないような遠くにいる「神」とか、遠くにある「運」です。それは、手が届かないものですから、私たちは不安になるかもしれない。だから、「これを買えば運気が良くなりますよ」と嘘をついて、高額の壺を売りつけたりする悪い宗教が出てくる。
そういう宗教は嘘だ、ということを、断固主張した人がいました。一人は、ムハンマドという人です。この人は「YHWH」という神を「アッラー」と呼び、その卓越性と慈愛とを説いて、イスラム教を始めました。ムハンマドよりも少し前、ムハンマドのいた場所よりも少し北の方で、同じことをした人が、イエスです。イエスは、「YHWH」という神について、画期的なことを人々に教えました。「主」と呼んで怖がっている人々に、自分たちの神は「父」だと教えました。これが、イエスの思想の一番根幹の部分、最重要の部分になります。
イエスは、神を「父」と呼ぶ。「父」といっても、皆さんはあまりピンと来ないかもしれません。皆さんの「父」は、あるいは、「臭くて・ウザくて・ウルサイ」かもしれない。私も父親ですから、なんとなく、わかる気がしています。でも、イエスの場合は、そういうものとは少し違います。それは、イエスの家庭環境を考えないと、分からないことなのです。
実は、イエスは、お父さんが誰だかよくわからない人であったようです。「お前の父親は誰だ」と、イエスは敵から嘲られたりしている。どうやら、イエスの父親は、イエスのまだ幼いころには亡くなっていたらしい。あるいはおそらく、イエスの母親は、イエスの父親を特定できない事情があったのかもしれません。つまり、暴力によって身ごもったのかもしれない。当時・当地の状況を考えると、如何にもありそうなことです。
ですから、イエスにとっての「父」というのは、「理想の父」という意味です。もう少し現代化して言えば、それは「理想の親」というイメージ。親は誰でも、子供を大切にしたいと願います。でも、いろいろな制約があって、弱さの中で、「現実の親」は子に対して、理想的には振舞えない。だから、どうしても子供から「臭い・ウザい・ウルサイ」と言われてしまう。でも、そういう「現実の親」ではなくて、「理想の親」を、イエスは、神の姿としてイメージした。皆さんの親御さんたちが「そうありたい」と願うような、そんな「理想の親」。それが、「YHWH」と書かれ、「アドナイ=主」と呼ばれている私たちの神なのですよ――日本の今の感覚でいえば、「運」とは、実は、「理想の親」のようなものですよ――と、そう教えたのです。だから、絶望したり諦めてはいけない。だから、何度でもやり直せばいい。安心して、生きていきなさい。
これは、大きな思想です。特に、「負け組」の人々にとって、この教えは人生に新しい活力を与えるものとなりました。そして、「キリスト教」が生まれる。イエスの弟子たちは、イエスによって新しいチカラを得て、生まれ変わったつもりで生きて行く。だから、イエスはその人たちにとって「キリスト=救い主」となる。
イエスをキリストと信じた人たちは、「イエスが神を父として示した」ことを大切にします。そしてそれは、「イエスは神の子なのだ」という信仰になっていく。それで、たとえば「イエス(Ιησουs)+キリスト(Χριστοs)+神(Θεου)+子(Υιοs)+救い主(Σψτηρ)」の頭文字をデザイン化した「魚」のマークが出来上がったりするわけです。
こうしたキリスト教が、次第に拡張し、ローマ世界に広がると、議論が沸き起こります。ローマの知識階級は、ギリシャの哲学に通じていました。ギリシャ哲学は、「キチンと筋の通った説明」を求めます。「イエス=神の子」というのは、つまり、どういうことか。ギリシャ的知性は説明を求めます。「イエスは神なのか、人なのか」。
ギリシャ人の問題意識も、分からないことはありません。「神=父」であるなら、それを示してくれたイエスは「神の子」となる。「父=子」というのは、遺伝情報的には、ある程度正しいかもしれません。ただ、イエスは断固として「人間」として処刑されたのです。だから、「復活」という信仰がある。それで、キリスト教徒は「信仰のたたかい」を耐え抜いたのでした。ということは、「“神=父”≠“イエス=子”」でないと、説明がつかない。
でも、説明することが、どれだけの意味を持つのでしょう。大事なのは、絶望していた人が希望を回復し、捨て鉢になっていた人が立ち直り、人生を投げていた人が生き生きと生きることができるようになる、ということです。それは、「イエス=キリスト=神の子」が神様として救ってくださった、という喜びの体験である――そう考えて、ギリシャ的な思考を「屁理屈」として疑わしく見る人々もいました。主にそれは、ローマ帝国の西側の人々の感覚でした。
ギリシャ的思考は、やはり、ギリシャを中心に展開しています。ギリシャは、ローマの東側にある。それに対して、ローマの西側には、もっと実践的でもっと現実的な考え方が根強くあります。それは、ラテン的思考、と言えるかもしれません。東側のギリシャ的思考と、西側のラテン的思考。この両者が、次第に衝突するようになります。キリスト教が分裂するかもしれない。そんな危機感を持った人々が、教会全体の会議を開いて、この問題を解決しようとする。その最初の成功事例が、325年の「ニカイア公会議」です。そしてその会議で決まった信条が「ニカイア信条」でした。
「ニカイア信条」での争点は、「イエスは神であるかどうか」に絞られました。大変な議論が交わされ、その議論は流血沙汰まで引き起こします。そして、とにかくこぎつけた結論は、こうです――「イエスは、神(父)と、本質を同じくする存在である」。まず、これが、世界で共通する信条の最初の核心部分となりました。
この結論は、対立する両者の妥協によってこぎつけたものです。ですから、論争はまだ終わっていません。とにかく、教会の分裂を防ぐために、いささか玉虫色に、結論は出されたわけです。そして、案の定、また新しい論争が立ち上がる。
「イエスは神と同質」ということは、とにかく分かったことにする。でも、よくわからない。イエスは、つまり、人なのか、神なのか。イエスの中の「神」と「人」は、どういう関係にあるのか・・・。
また、大議論が巻き起こります。そして、451年、とにかくまた会議を開催することができ、とにかくとりあえずの結論を出すことができました。それが「カルケドン信条」です。
「カルケドン信条」の結論は、実に妙なものとなりました。イエスの中の「神」と「人」の性質について、この信条は四つの原則を提示したのです。その四つとは、
(1)イエスの中の「神」と「人」は、混ざらない。
(2)イエスの中の「神」と「人」は、それぞれ変化しない。
(3)イエスの中の「神」と「人」は、分裂しない。
(4)イエスの中の「神」と「人」は、分離しない。
意味が、お分かりになるでしょうか。この信条は、二つのことを定めたのでした。まず第一に、「何も決めない」ということを決めたのです。つまり、議論はこれからもどんどんやってよい、結論は先送りだ、ということを、この信条は決めています。そして第二に、「これからの議論の枠組み」だけを、決めたのでした。議論の戦いは継続してよいけれど、それはこのリングの上でやりなさい、ということを、この信条は決めたのでした。
「ニカイア」と「カルケドン」の二つの信条の構造を良く見てください。これは、実は、「制度」と「聖書」の構造と、よく似ています。そしてそれは、西欧世界の構造と、よく似ているのです。
「制度」として、教会は枠組みを作り上げました。そしてそこに「聖書」をインストールしたとき、議論は沸騰し、「制度」は劇的な進化を遂げた。議論は沸騰したのですが、教会の枠組みは、壊れなかった。それで、教会は同一性を保ったままに進化を続けた。
同様に、西欧世界も、教会が定めた枠組みの中で「中世」という時代を過ごし、そしてその枠組みを残しつつ、その枠組みの中で、構造を一変させて、現代のシステムを構築することになります。劇的な変化と、堅固な枠組み。このふたつが重なり合って初めて、西欧世界の驚異的な魅力と威力が、現実化する。その雛型が、「信条」に見てとれるわけです。
4.おわりに
「ニカイア」と「カルケドン」。この二つの信条で、世界共通の信条は確定されました。その後、教会内での議論は様々に展開して、もう、会議で纏めることができなくなります。この後も信条は盛んに作られますが、それは全教会を包摂するような大きなものとなりませんでした。
それでも、西欧世界を包摂した信条が残りました。それは、「使徒信条」です。これは、「ローマ信条」を素に、時間をかけて西欧に浸透しました。そして、西欧の教会が移植された日本においては、この「使徒信条」が最も一般的な「信条」となりました。この信条は、実に簡潔に聖書の神のことを説明しています。まず、天地万物すべての創り主として、「父なる神」を設定します。そして、その「ひとり子」で「私たちの救い主」である「イエス」を「キリスト」として認める。その後、イエスの生涯を簡単に纏めてから、このイエス・キリストが私たちを救ってくれるために将来また登場するのだと、そう宣言しています。それから、教会を今も成立させている「聖霊」があるのだと言い、罪の赦しと永遠の命はこの聖霊によって与えられると、そう宣言して終わります。
「使徒信条」は、西欧世界のキリスト教をよくあらわすものです。それは、その後の西欧世界の歩みの雛型になっている。このことは、3学期の初めに御案内することにいたします。
以上、教会とは何かを、皆さんにご案内してきました。次回は、この「教会」というものが、ローマ世界の中でどうやって生き残り、そしてどうやって足場を築いていったか、その様子を御案内することにいたします。
これで今日の授業は終わります。
第14回は
こちら
からどうぞ。
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