シアトルからこんにちは

シアトルからこんにちは

2002年11月前半の日記


どこでパンを買えばよいだろうか?
ヨハネによる福音書 / 6章 5節

イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」



イエスは、ご自身が群集に食べ物を与えるつもりでありながら、
フリポとアンドレに尋ねた。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか?」

悲観的はフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」

もうすこし楽観的なアンドリューは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

と答えた。

イエスがおこなったいくつかの奇跡を見ていながら、フィリポもアンドレも現実をみて、問題の大きさに圧倒されていた。



ウエブには書けないが、いまある問題を抱えている。その問題は長年の試練なのでもう考えるのがいやになって、神様に、早期解決を求めている。

ところがきのう、ある人のHPでこんな節を示された。

<問題がやってきても、その問題をまるで友人のように
> 受け入れましょう。
> なぜなら神はその問題を用いて、私達のうちに
> 働いてくださるからです。
>
> <被援助者が突然に元気になった時は、逆に注意が必要です。
> 被援助者は神様の望まれる、ゆっくりとした
> 忍耐を伴うプロセスを通っているでしょうか?
> もう苦しむのは嫌だと、安易な解決に逃避していないでしょうか?

主が問題に答えてくださるとき、どのような方法をとられ、いつ解決してくださるかは、私達の選択ではない。

私達の務めはただ主を信じることだ。

主を信じよう。

目を大きく見開いて、主のなさる業を、見逃さないように、信じて待ち望もう。







11月 14日 木曜日 のち
霊的な極貧
マタイによる福音書 / 4章 4節
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

ルカによる福音書 / 11章 5節
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

ヨハネによる福音書 / 6章 63節
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。


イエスが5000人の人に食べ物を与えた奇跡は、今日イエスが、霊的な命のパンを多くの人に与えたい事と同じだ。

先日おともだちのKさんと話していたとき、彼女がクレイで読んだ話を分かち合ってくれた。

アフリカのある男の子が、グレープフルーツのジュースを自分で飲むことも出来なくなった弟に長い距離をあるいて、運び、口伝えに与えたそうだ。この話をしながら、「こんなに人を思う心が自己中心の人の多いアメリカにあると思う?」と泣きながら言った。

アメリカだけでなく、経済的に豊かな国では、実は自分達が霊的にどれだけ貧困であるか忘れてしまうことが多い。

霊的に貧しい人はたくさんいる。

次女と一緒にミッションで、タイランドに行ったことがある。
少年達の目がきらきらと輝いているのをみて驚いた。アメリカや日本の少年達の中には死んだ目をしている若者がたくさんいるのを見慣れていた私にとって、ショックだった。

アメリカの最も大きな問題はイラクでなく、「孤独」だと思う。
経済大国、競争社会の生み出した現代問題だ。

外観は富裕でも、霊的に飢餓死しそうな人もいる。

命をパンを欲しがっている人を追い払わず、イエス様の寛大な命のパンを分け合いたい。







11月 13日 水曜日 のち
光の中にあるもの
弁護者キリスト

ヨハネの手紙一 / 2章 1節 から12節

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。


楽天で知り合ったWakaさんが「マザーテレサ 愛と祈りの本」を送ってくださり、少しずつ読んでいる。

「平和は微笑みからはじまります」の章から、

何年か前のことですが、ある教師のグループがアメリカからカルカッタに来たときのことです。カガートにある「死を待つ人の家」を訪問した後、私に会いにきました。
かえる前に、1人の教師がその日の訪問の記念として、なにか日常の生活に役立つことを話して欲しいといいました。

「お互い微笑みあいましょう。奥さん達に微笑みかけてください。


するとひとりが言いました。「マザー、貴方は結婚していらっしゃらないからおわかりになっていないのです。」


笑い話のようなこの話。

正直だなと思う。

知らない人にほほえむ事のほうが、家族にほほえむことよりどんなに簡単なことか?

家族の間ではちょっとしたことで、けんかをしてしまう。そんなとき、ほほえもうとすると、顔がひきつったようになる。


「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」と聖書にある。兄弟を赦さない人は、今なお闇の中にとどまり、兄弟を愛する
人は、光の中にいます。


主の教えは明瞭だ。一言「赦しなさい。愛しなさい。」

シンプルでいてとても実行するのが困難だ。というか自分の力では不可能だ。聖霊様の力によってのみ可能になる。

おもしろいことに主に従うと私達の健康まで回復される。現代病はストレス関連の物がおおいが、ストレスの原因は人間関係が多い。こじれた人間関係の理由は赦せないことが根源だ。

神様のおきてを守ると、元気になる!

主はなんて素晴らしいのだろう。







11月 12日 火曜日 のち
クリスチャンファミリー.クリスチャン教会
使徒言行録 / 2章 46節
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


よくあの教会の牧師の説教がいいからあの教会は盛んだとか、あのクリスチャン・ファミリーはお父さんが敬虔なクリスチャンだから主が祝福してくださっていると言われているのを聞く。

ところが使徒行伝によると、「毎日皆がひたすら心を1つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、」

「民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたとある。」

牧師の説教が良かったから、救われる人々を増やされたのではなかった。

この節を読んで、がっくりきた。と言うのは、牧師がいい説教をすることのほうが心を一つにすることより、容易なことだからだ。

家族の場合もそうだ。ただお父さんが聖書を毎日読むとか、お母さんが、祈ることは容易だが、皆が心をひとつにして、パンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をするなんて、一週間に一度(あるいは一ヶ月に一度)できればいいほうだ。

昨日楽天のHPで紹介した「The Power of a Praying Wife」のなかに「Shut Up and Pray for your husband.」と書いてあった。

まさにこれが鍵だ。

いま主が私に要求しているのは

「Shut up and pray(黙って祈る)」ことだった。





11月 11日 月曜日 のち
私という人間は一人しかいない。
この近辺の人たち伝道するため、ジャパニーズ・クリスチャンフェローシップを始めるための最初のミーテイングがあった。

ある韓国人学生の話

Kさんは、3人兄姉の真中だった。お兄さんとお姉さんはとても優秀な方で、両親は「あんたはダメだね。」と言われて育った。

そのせいでKさんは劣等感を持っていた。

高校に入って音楽専攻を選ぶとなんと自分はピアノの才能があることがわかった。これでやっと親に認められる。自分に特別な賜物があったのだと嬉しかった。

ところが音大への受験は狭き門で、Kさんは入学試験に落ちた。

ふたたび「おまえはダメだ。」といわれる親を後ろに、韓国を捨てる決心をしてアメリカに来た。

コミュニテイ・カレッジに行って、そのあと、4年生のワシントン大学に転校し、他のことは何もせず、ただピアノと勉強に励んだ。この頃過食症になり、食べては吐くの繰り返しだった。

大学を卒業するには、自分で作った曲を書かなければならない。考えがまとまらず、卒業見込みが少なくなりかけていたとき、或る日、突然主から音楽を与えられた。

音譜を一日で書き上げ、教授に見せると、これは大学院入学間違いない作品だと太鼓判をおされ、卒業だけでなく、大学院へも入れてもらえることになった。

話を聞きながら、何の気なしに言われた言葉の傷の深さに驚く。


そういえば私のお友達で東大に行った人がおっしゃっていた。
「東大に入って初めて親がおすしを食べさせてくれた。東大に入れなかったらおすしなんて出なかったろう。」と。

世の中にはいろんな親がいるものだ。

話を聞いていた2人の女性も似たような体験を語った。

親の一言で、ここまで傷つくとは...

という私も次女だったので散々だった。

「おまえは男の子のはずだった。」「最初の子供は女の子でもいいけど、2人目は、絶対男の子がほしかった。」と、両親は口をそろえて言っていた。失礼な話で、私が生まれたとき、顔を見て「やった!男だ」と思って、良く見ると女だったのでがっかりしたとか...なんという話だ。

とにかく、男尊女卑の両親の言葉は心に刺さり、私はいつも女性であることは、劣っていることだと思い込んでいた。

女子中学校、高校と行って、「男性的ね」といわれるたび、嬉しかったのを覚えている。

クリスチャンになって、霊にあって男も女もないと知ったとき、すごく嬉しかった。主には男も女もない。

心を開くもの全てに主は話し掛けてくださる。

心の解放の話を聞くたび、主は素晴らしいなと思う。

今まで縛り付けられていた劣等コンプレックスから解放されて感謝の気持ちに変わる。

奇跡だ。

私も今では親を赦している。全力を尽くして育ててくれたことを感謝している。

私も娘達も心の傷を持っているのかもしれない。

神様、彼女達の無意識でも意識の中からでも傷を癒してください。そして、貴方の完全なる愛で包んであげてください。

娘達が自分の尊さを心から感じますように。

主が十字架にかかってくださったほど愛してくださっているのだと
感じますように。

劣等感で悩んでおられる方、主は貴方をユニークに作られたのです。歴史の中であなたという人はたった一人なのです。

失敗も成功も全ての体験を通して貴方が今ここに生かされているのです。

自分のユニークさに感謝しましょう!





11月 10日 日曜日 のち
伝道
ヨハネによる福音書 / 12章 32節
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」



伝道したいと言う気持ちと、どうやったら、私を見るのではなく主を見てくれるのかと考える。

イエスは、伝道と言う大切な仕事を聖霊と人間に任せた。
私達が聖霊様の声に従って、言動するとき、人はイエスを受け入れる。

何人かのノンクリの友達にイエスを知ってもらいたいと思って、共通点もあんまりないのに交際を続けている。

特にハイテクの仕事をしている人たちは頭もいいし、クリスチャンが、「ただ信じなさい。」と言うことに対して頭の悪い人がクリスチャンになると思い込んでいる人もいる。

伝道をしたいという気持ちがあるのになかなかイエスをうけいれてもらえないとき、投げ捨ての気持ちになってしまう。

でも今朝のこの聖書の言葉によると私がイエスを上げれば、イエスは全ての人を、自分のもとへより寄せてくださるとある。

だからこの約束を信じてただイエスを上げよう。

主イエス様私のために十字架にかかってくださってありがとう。
また死を克服して、今も生きてくださってありがとう。

今日もまだ生かされているということはまだ私には、なすべき仕事が残されているのでしょうね。





11月 9日 土曜日 のち
悔い改めるということ
毎日私のイーメイルにdaily breadを送ってくれる友達がいる。

http://www.gospelcom.net/rbc/odb/odb.shtml

かれこれ1年以上になるが、毎朝なんとなく楽しみにしている。

今日のdaily breadでは、「悔い改めなさい。神の国は近いのだから」という節からだった。

「悔い改める。」というのは、ただ改善することではなく、まったく方向を変えることだ。

下を向いていた人が上を向き、東を向いていた人が西を向くことだ。

例えば、いつも自分中心に物事を考えていた人が、神を喜ばせる用に考えるとか、自分のことが嫌いで、いつも不満に思っていた人が自分を受け入れて感謝するとか。
主人に対して不満を持っていたのに、弱点をも受け入れて感謝するとか。教会で傷つけられた人にたいして、悪い感情をもっていた人が、赦す決心をするとか。

こう考えていくと「悔い改める」ということは努力では出来ない。

神様に明渡す。

手のひらにのせて、それを主に広げて、「これを貴方に委ねます」と言って、捧げる。

そのあとは、こわれたレコードのように同じことを繰り返して祈らない。

主の言葉を信じて、主が引き受けてくださったのだから、平安をうけとって感謝する。

「絶えず祈りなさい。」というのは、同じことを繰り返して祈りなさいという意味ではなく、たえず、「信じて感謝しなさい」という意味なのかもしれない。

例えば、愛する人が救われない。

同じことを、毎日繰り返すのではなく、聖霊様がその人の心の中で働いておられることを信じて感謝する。

私のような罪人を救ってくださったのだから、愛する人を救うことも可能なはずだ。

主を信じよう。
主に委ねたことを再び、自分のところに取り返して、練ったりしない。

主は私を愛しておられるのだから。







11月 8日 金曜日 のち
人の言うことなんて気にしないで。
ヨハネによる福音書 / 5章 41節

わたしは、人からの誉れは受けない。
しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。



もし、イエスが、ただ慈善事業をして、困っている人を助けただけなら、「良い人」として、受け入れられていただろう。

ところが、イエスは気が狂った人と思われるようなことを言った。
「私は神の子である。」

律法に縛られず、安息日でも奇跡を行った。


そのため律法学者達は、イエスを拒絶し、殺そうとした。

イエスは、ただひとすじ神の命令に従い、人の噂など気にしなかった。

日本で生まれ育った私は、よく母に、「人がこう言った。」とか「ああいった。」と言う理由で、たしなめられたのを覚えている。

親の言葉、学校の先生の言葉、親戚の人の言葉、友達の言葉、近所の方の言葉と、がんじがらめだった。

人の目を気にする生き方がイヤでイヤで仕方なかった。

ところが自分が親になってみると、つい私も人の噂を気にするように変わっていた。

先日あることがあって、娘がずいぶん悩んで「でも人が、私のことを悪い人だと思うといけないから...」と言った。

そのとき聖霊の力を感じて、「人の噂なんて気にしないで、自分のことを大切にしなさい。」と強く言った。うっすらと私の目には涙がにじんでいた。

自分を愛せないで何年も苦しんでいる娘への心からの励ましの言葉だった。

人の言うことなんて気にしないで。噂なんて風と共に消えていくのだから。あなたには関係ない。

神様は貴方のことを愛しておられるのだから、その愛の中に身をおいて、自分を十分愛してね。

もっと幼い頃から何度も言っとけば良かった。

でも「神様のなさることは時にかなって美しい。」と聖書にある。

今私が心からそう思えるようになったのも、信仰の道のりのおかげだと思う。

人のうわさなんて気にしないで。

神様は貴方を愛しておられるのだから。






11月 7日 木曜日 のち
希望
ローマの信徒への手紙 / 8章 24節 ~28節

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。


ゆうべ、あるひとから相談をうけて、話を聞いているうちに状況の厳しさにだんだん心が重くなった。

つくづく私にはカウンセラーは無理だなと思った。

余談だが、カウンセラーの仕事をしているYさんの話では、カウンセラーの仕事は元気でなくては出来ないそうだ。彼女は、運動をしたり、楽しいことをしたりして常に自分を大切にし、健康でいる努力を重ねているそうだ。

悩みを聞いてると私まで暗くなって、このままでは悪い夢でも見るかもしれないと思った。

ふっと聖霊の励ましを感じた。「これが成長の痛みなのかもしれませんよ。この機会をばねにして、もっと霊的な成長をなさるかもしれませんよ。」

この声が聞こえたとき、はっと我に返った。

そうだ。現実の状況は、神様が計画なさったことなのかもしれない。

これが益となるのだ。

「この試練がstepping stone となり、ますます信仰の筋肉が強まっていけますように。」と祈ったら、希望が湧いてわくわくしてきた。

神様ありがとう。





11月 6日 水曜日 のち
「それでは一体、何をしたらいいのですか?」
イエスは命のパン

ヨハネによる福音書 / 6章 22節

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」



神様の仰ることってすごくシンプルのようですごく困難だな...
「教会に一週間に一度行きなさい。」とか、「一日に3回祈りなさい」などと律法的なことにしたがうのはやさしい。

何も心の中の態度を変えなくてもいい。ところが、主は私達の信頼を求めておられる。



5千人にパンを与えたイエスを見た弟子達は、この人のそばにいれば食いはぐれがないと思っってついてまわった。

主は霊的な食べ物の話をしていたのに、人々は、単に食べ物をもとめていた。

イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい。」
とおっしゃった。
「それでは一体、何をしたらいいのですか?」
と弟子が訪ねるとイエスは

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。
」と仰った。

ですから、聖書に私達が誇るものは何もなく、全て神様の恵によって、救われたとあるのです。

「神を信じること」が私達の働きなのです。



ふっと夫婦関係でもそうだなと思う。
例えば私が家事をするとか、子供の面倒を見て良妻賢母のふりをしてももし、信頼できなければ夫婦ではない。
たとえ、主人が良い仕事をして、高給かせいだり、家の修理をしてくれても、信頼できなければ実質的にこの夫婦関係は存在しない。

豊かな夫婦関係は、お互いを信じるところにある。




ヘブル書11章1節
信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。



私達の主イエス・キリストの恵が貴方とともにありますように







11月 5日 火曜日 のち
恐れることはありません
湖の上を歩く
ヨハネによる福音書 / 6章 16節 ~21節

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。


聖書の中で「恐れるな。」と言う言葉は良く聞かれる。何故なら、恐れは不信仰だからだ。

私の叔父は漁師だったので朝早くから毎日船をだして、魚をとりにいっていた。或る日私も便乗していったが、船酔いして散々だったのを覚えている。暗い瀬戸内海で、幼心に「命がけの仕事だな」と思った。

急に暗くなって、強い風がふいて湖が荒れ始めたとき、イエスが水湖の上を歩いて船に近づいてこられるのを見て、弟子達は恐れた。

イエスは「私だ。恐れることはない。」とおっしゃった。

困難に遭ったとき神様の意図なのかそうでないのかわからないとき一番苦しむ。
でもイエス様は私達と共にいてくださり、平安を与えてくださると約束しておられます。

恐れることはありません。
貴方の苦しみも悲しみもイエス様はご存知なのだから。



あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と預言者イザヤは言いました(43:2)。










11月 4日 月曜日 のち
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」
ヨハネによる福音書 / 6章 5節

イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。



イエスが、フィリポに
、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と聞かれたとき、フィリポは、問題のみに集中していた。
いかにこの問題が大きく困難であるかを考え、下を向いていたのだろう。

まさかイエスに答えがあるとは思っていなかった。

私のHPを読んでいる人からとても難しい問題を抱えている方からメールが届いた。

最初の反応は、「私は医者でも、看護師でも、カウンセラーでもない。トレーニングのない私に相談しても....一体何ができるのだろう?」だった。

そう思ったとき、この節を読んだ。

確かに私には、専門知識はないけれど、イエス様は38年病気だった人を治してくださった方だ。イエス様に祈ればいいのだ。

イエス様にどんなに辛い思いをしているかぶつければいい。そして、自分で重荷を運ばず、イエス様に授ければいいのだ。



イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。



私達も感謝しよう。命を与えてくださった神様に感謝しよう。
主は私達のことを愛してくださるのだから。

希望を捨てないで。

主は貴方を愛しておられます。

私もあなたと心を合わせて祈っています。





11月 3日 日曜日 のち
「良くなりたいか」
ベトザタの池で病人をいやす

ヨハネによる福音書 / 5章 2節

さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。


38年病気だった男は、肉体的だけではなく精神的にも霊的にも不健康だったようだ。
その人にイエスがは「良くなりたいか」と聞いた。
すると病人は、自分なりには努力したのだが、間に合わなくてだめだったとイエスに伝えた。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
この人は心の中であきらめていたのかもしれない。
なんとなく言い訳にも聞こえるような返事をした。

するとイエスは、
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」といわれた。

するとその人は

すぐに良くなって、床を担いで歩きだした

私達にとって38年とは長い時間だが主にとって場所とか時間の制限はない。
だからこの奇跡がワインの奇跡より難しいとかいうことはない。

ところがこの病人の観点から行くとどうだろう?

私がもし38年病気だったら、この人のようにあきらめてしまっていたかもしれない。

ところがイエスは彼に「起き上がりなさい。」とおっしゃった。

この人の可能性を信じてかけてくださった言葉だ。

イエスは紳士なので私達をコントロールしようとはされない。

常に私達の願いを尊重してくださる。

「一体私は何を望んでいるのだろうか?」

神様に正直に自分の願望を言って、

そして神様の指示を待とう。

神様の指示が出たら、従おう。

イエスは「私を愛するものは私の言うことに従います」と聖書でおっしゃっている。

人を恐れず、自分の中にある不安に耳を貸さず、主の仰ることに従おう。
そしたら、心に喜びがあふれてくるのだから...





11月 2日 土曜日 のち
神様の言葉を信じる
役人の息子をいやす
43:ヨハネによる福音書 / 4章 46節 から54節

さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。


私達が心から祈るときは、自分の子供が苦しんでいるときだと思う。

親にとって子供が痛み苦しんでいる姿を見るのは心が引き裂かれるほど辛い。

この役人もおそらく、必死でイエスにすがったのだろう。
イエスに頼めばなんとかしてくれると信じて、

「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。

イエスが

「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」とおっしゃったとき、その人は、何のしるしも証拠もなしでただイエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

そして、彼もその家族もこぞって信じた。

聖書に書かれてあることは信じよう。



ヨハネ3章16節によると、
「神は実にその1人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。」

神様はあなたがイエスを信じることを願っておられます。

もしこれを読んでいる方の中でイエス様をまだ受け入れてない方は、どうぞ、今日、罪の告白をして受け入れてください。

くわしいことは
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/
を読んでください。

貴方のために祈っています。








11月 1日 金曜日 のち
最も大切な仕事
ヨハネによる福音書 / 4章 35節
あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。



今朝、BSFに行く途中ラジオで、Focus on the family を聞いていた。

私の大好きなJames Dobsonが、「What is the utlimate purpose in yourlife?」という質問をなげかけ、彼は、「それは子供を永遠の命に導くことだ。」と言った。

子供達にいい教育を与えることではなく、遺産を残すことでもなく、私にとって最も大切なことはイエス様に紹介することだ。

もし、自分の子供達をイエスに導かなかったら永遠に会えなくなるのだ。

頭をガーンと殴られたような気がした。

私の娘達はずっとクリスチャンスクールに行って、かなり偽善的な面に落胆して、一応教会には行っているが本当に主を愛しているか疑問な状態だ。

もし、娘達が主を受け入れなければ、私は永遠に彼女達に会えなくなるのだ...

涙がポロポロ出てきた。

どうにかして主の愛に導かねば...

とあせると同時にこれは彼女達が願わなければ、起こらないことだ。

BSFのリーダーが言っていたように、実のある信仰生活を送っている人は主と共にいる時間が多いからだ。

主と過ごす時間をふやそう。




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