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鎌倉の道を辿ると、
入り組んだ谷が作り出す翳の面を思わずにはいられないことが、
しばしばある。
かって権勢を誇った栄華の跡は石碑と化し、
その権勢の護持を祈るため、また、
一方では葬り去った政敵や戦乱で没した名も無き人々の霊を慰撫するために
創設された寺社は、あるいは廃され、
あるいは時の流れに大きな変貌を余儀なくされている。
しかし、
なおこの地には「中世」という言葉そのものが我々に喚起するある種の感慨が、
その形をとどめて存在しており、
谷や切通しの石仏・石塔、山中や山腹の「やぐら」・墓塔
・供養塔などはその証である。
鎌倉は、
源頼朝
が鎌倉幕府を開き、
続く室町幕府が鎌倉府を置いて関東支配の拠点となった地である。
この地は、日本の中世が封じ込められたような不思議な街である。
山々は幾筋もの谷を作り出し、
谷は豊かな自然を育みつつ四季折々の彩りを見せ、
多くの古寺社や鎌倉特有の「やぐら」・石仏・石塔などを懐にいだき、
尾根道からは輝き霞む海が遠望される。

手前よ舞殿・本殿


「鶴岡八幡宮」・舞殿 「鶴岡八幡宮」・本殿


太鼓橋(左) 太鼓橋(右)
「鶴岡八幡宮」は頼朝の鎌倉入り以来、鎌倉の中心として存在し続け、由比ガ浜へと続く
若宮大路にはニノ鳥居・三ノ鳥居の間に「段葛」と呼ばれる参道が今に残る。
鶴岡八幡宮は幕府の儀式や行事も当宮を中心におこなわれたといい、
戦国武将や徳川幕府にも
厚く信仰され、積極的な寄進や修造がなされている。
若宮大路に設えた一段高い参道<段葛>は
三ノ鳥居を入った左右の<源平池>と称される蓮池も
源平池にかかる橋も、
頼朝が夫人 (北条正子)
の安産を祈って社前から由比ガ浜まで、
まっすぐな道に直し、
葛石(縁取石)を両側において参道としたものである。
源平池は向かって右側を白蓮(びゃくれん)を植え三つ(産)の島を配して「源氏の池」、
左を紅蓮(ぐれん)を植え四つ(死)の島を配して「平家の池」としたと伝えられる。



「平家の池」 弁天社 「源氏の池」
当宮の石段左側に<公卿の隠れ銀杏>といわれる大銀杏(平成21年3月10日の強風で倒れた)が
あった。

<公卿の隠れ銀杏>の再生根元 境内の「若宮」庭園
鎌倉幕府三代将軍源実朝は大銀杏に潜んでいた兄頼家の子の公暁(くぎょう)に
殺されたという。
鶴岡八幡宮をあとに、「来迎寺」から源頼朝墓・「覚園寺」、さらに
「永福寺跡」を経て「瑞泉寺」へと歩む道は、歴史のもつ重さを一入実感させられる。

源頼朝墓」墓標 「源頼朝墓」
三方に山をめぐらした勝景地、紅葉ヶ谷に「瑞泉寺」はある。本寺はまた、古来より
花の名所としても知られている。
<二階堂道うん>が開基、
「瑞泉院」として創建されたが、
足利基氏
が再興して
「瑞泉寺」と称されるようになったという。
足利基氏は尊氏の子で
初代鎌倉公方として関東を支配した。