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人間はつねに進化している。生物学では退化も進化であるという意味で。或いは反動も前進であるかも知れない。負けることも、勝ちになるだろう。正確には勝ちに繋がると言うべきか。人民は、負け続けているが、懼れることはない。人類は何れ、本当の意味で合理性を獲得するだろうからだ。来なければどうするかを悩む必要はない。その時は、人類には未来が消えているからだ。私たち人民は、何ものかに従属しているだろうか。追われし者たちだろうか。そうあらねばならないために何を為すべきなのだろうか。苦悩することには慣れているだろう。これまでも相して来たし、これからつづくだろう。それは、常に人民のサイドにいることだ。自分の信じる正しいものが何かを考え続けることだろう。敢て、他人を傷つけたいとは思わないが、そうなるかも知れない。相手は、所謂「敵」でも「味方」でもない。友人であるだけだろう。季節は巡ってくるだろう。繰り返されるシーズンは、ヘイフリックの限界のように、やがて細胞分裂を終わりにするように、めぐり来る季節の中で人生を終わりに導くだろう。真冬の寒さは、そのことを知らせてくれるのかも知れない。ニ月は、そのことを私に教えてくれているようだ。今朝の寒さは、凛としている。昨日、ブログに載せた Suleika の引用は誤字脱字があるかも知れない。勉強用に載せたまで、だ。「西東詩篇」の有名な詩で、翻訳では勿体ないから・・・。段々と重くなる身体と、萎縮していく脳があるとしても、まだ噛み砕くだけのエネルギーがあることはうれしいことではあるだろう。何を食べても旨いだろう。親しくした多くの知人たちと、このまま逢えないままかも知れないが、悲しいことはない。人として、繋がっているだろう。多様な人生があり、人民のサイドに立てばいいのだ、から・・・。
2007.01.31
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モタモタしていたら、もう明日は二月になってしまった。寒気団が張り出して寒い二月のスタートになりそうだ。別に死ぬほどの寒さではない。こころが凍りつかなければいい。西欧の精神的ルーツとは何だろうか。それは手に負えないものだろうか。最近のニュースで、些細なことで簡単に人を殺しているのではないだろうか。人間の尊さをどこまで学んでいるだろうか。そうさせている社会の背景とは何だろうか。処罰を厳しくすることが、そういう犯罪を減少させることはできないだろう。何が、現実と言えるのか。その認識がなければならないだろう。ご都合主義では駄目だ。もっと真剣でなければ真実を見失うかも知れない。それは、現在の日本をどう観るかでもあるだろう。「美しい日本」とか、世界レベルだと言えるだろうか。柳沢大臣の「女性は、産む機械だ」とする発言は、単なる失言ではない。それを、言い逃れようとする政府や本人の姿勢こそが問題だ。それこそ、世界の日本の評価にもなるだろう。安易なことばがこれまでも命取りにもなってきたではないか。柳沢が言っていることは女性蔑視の何ものでもない。そんな大臣が、厚生労働相なのだから恐れ入るし、安倍首相は辞めさせないと言い切っている。このままで頑張って欲しいのだそうだ。何をどう頑張るのだろうか。安倍首相の思想自体が危ういのではないだろうか。同じ穴の狢ではないのか。厳しい寒冷の二月が来るだろう。
2007.01.31
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ゲーテの生前も死後も、相愛の詩人マリアンネは思い出のハイデルベルクを度々訪れている。とくにハイデルベルクからネッカー川を数キロ遡ったノイブルクの旧修道院を好んだ。彼女の晩年、1850年頃にはドイツ鉄道で、フランクフルトから行くことができた。修道院は、1825年に友人の弁護士が買い取り、親しい人たちの安息所だった。1860年10月3日から5日にかけてノイブルクに滞在した。そしてハイデルベルク城を訪れた。遠縁のエミーリーエ・ケルナー夫人が「ゲーテとズライカの原型」を書いている。「小さな石門のそばで、マリアンネは立ちどまって、一人にさせてほしいと言った。彼女は庭に入っていったが、なかなか戻って来ないので、付き添いの私は心配になって、同じ門を通って中に入った。・・・人けのない緑の林の中に彼女は物思いにふけって立っていた。両手を合わせ、顔には涙があふれていた。そこで彼女は、この庭の中でゲーテは自分にキスをした、と語った。・・・城の中庭から出て、右にまがると、公園のみちばたにいちょうの木が立っています。彼女は、そこに立ちどまって、日傘でいちょうの葉をニ、三枚取ろうと試みて、<これが、ゲーテがあのとき、葉を一枚ちぎって、私にくださった木です。そしてあの詩を作って送ってくれたのです。>つまり、彼女が「西東詩篇」のズライカであることを明かしました。」マリアンネについて「彼女は死に付いても、感傷的になることなく、間近に迫っている避けがたいできごととして語っていた。生に対する愛がいつも彼女の中に目ざめており、たえず彼女を若返らせた」とヘルマンも「ゲーテとズライカ」の終わりに記している。ハイデルベルクからフランクフルトに帰り、その後二ヶ月、病気らしい病気もせず、死ぬ二日前にも夕方散歩したくらいだった。1860年12月6日マリアンネは、この世に別れを告げた。フランクフルトの中央墓地に埋葬された。その飾りもない鉄の十字架には、 「愛はやむことなし」(Die Liebe horet nimmer auf.)と刻まれた。このまえ借りたかった本「ゲーテ相愛の詩人マリアンネ」を大学の図書館で借りてきました。また、振り出しに戻りつつあります。>ハイデルベルク城のゲーテ記念塔周辺。
2007.01.31
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Suleika(マリアンネ作)Was bedeutet die Bewegung?Bringt der Ost mir frole Kunde?Seiner Schwingen frische RegungKuhit des Herzens tiefe Wunde.Kosend spielt er mit dem Staube,Jagt ihn auf in leichten Wolkchen,Treibt zur sichern RebenlaubeDer Insekten frohes Volkchen.Lindert sanft der Sonne Gluhen.Kuhlt auch mir die heiBen Wangen,KuBt die Reben noch im Fliehen,Die auf Feld und Hugel pragen.Und mir bringt sein leises FlusternVon dem Freunde tausend GruBe:Eh noch diese Hugel dustern,GruBen mich wohl tausend Kusse.Und so kannst du weiter ziehen!Diene Freunden und Betrubten.Dort wo hohe Mauern gluhen,Find'ich bald den Vielgeliebten.Ach! die wahre Herzenskunde,Liebeshauch, erfrischtes LebenWird mir nur aus seinem Munde,Kann mir nur sein Atem geben. Sukeika(マリアンネ作)Ach, um deine feuchten Schwingen,West, wie sehr ich dich beneide:Denn du kannst ihm Kunde bringenWas ich in der Trennung leide!Die Bewegung deiner FluggelWeckt im Busen stilles Sehnen;Blumen, Augen, Wald und HugelStehn bei deinem Hauch in Tranen.Doch dein mildes sanftes WehenKuhlt die wunden Augenlider;Ach, fur Leid muBt'ich vergelhen,Hofft'ich nicht zu sehn ihn wieder.Eile denn zu meinem Liben,Spreche santt zu seinem Herzen;Doch vermeid'ihn zu betrubenUnd verbing ihm meine Schmerzen.Sag'ihm, aber sag's bestcheiden;Seine Liebe sei mein Leben,Freudiges Gefuhl von beidenWird mir seine Nahe geben.
2007.01.31
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グルントヘルシャフト(荘園制)は、中世及び近世においてもっとも重要な経済的および社会的組織形態のひとつであった。しかし、これは抽象的で包括した概念ではなく、近代歴史学・法学の整理概念である。中世後期および近世の法学者にとって、土地の処分権は、荘園制の本質的構成要素であった。荘園制とは、土地の授受がなされ、荘園領主と隷属農民相互の権利・義務が定められるための機構を生み出す制度とみなされたものだ。即ちグルントヘルシャフトとは、土地の貸与を受け、それを自己の経営で耕作し、経済的に利用する人びとに対する土地所有者の支配という意味である。領主の所有権は、土地の貸与によって強く制限された。隷属農民が貸与地に課せられた義務を規則どおりに履行する限り、領主にはその土地を取り戻す可能性はほとんどなかった。隷属農民は、荘園領主による勝手な土地没収から法的に保護されていたのである。土地の処分権から、土地を耕作する人びとに対する支配権が生まれた。純物権法的な関係を超えた、身分法的特徴を帯びたものだ。この人的隷属関係は、多くの場合、一種の「誠実宣誓」Huldigung によって儀式化した。隷属農民をさす「グルントホルデ」ないし「ホルデ」と呼ばれた。他方、隷属農民は領主に対して「保護と庇護」Schutz und Schirm を求めた。隷属農民は、経済的な困窮に陥ったとき、貢租を免除ないし軽減され、播種用の種、種畜あるいは建築材料を支給された。裁判で権利を守り、不当な差し押さえ、略奪や暴力から保護する義務が領主にあるとされたのだ。シュヴァーベンシュピーゲル(1274)・法書。 Wir suln den herren dar umbe dienen, daz si uns beschirmen, unde beschirment si uns nit, so sin wir in nit dienestes schuldig na rehte. Der Schwabenspiegel nach einer Handsechrift vom Jahr 1287. Hrsg. von F.Lassberg.Tubingen 1810. S.133(Neudruck hrsg. von Karl August Eckhardt, Aalen 1972). 荘園制は、中世の多様な支配、社会組織と政治・社会・宗教・文化上の生活を支える経済的基盤でもあった。とくに中世のうちに進展して、中世文化の開花の基礎となった社会的分業は、主として荘園制に組織された農業の経済力に基づくものだった。
2007.01.31
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レーエン制の第二の起源は、フランク王国において国王直臣の形でのこっていたゲルマンの従士制であった。ゲルマン的伝統を源流とする従士制の思想は、メロヴィング朝フランク王国の政治および社会的生活に絶えず一定の影響を及ぼしていた。とりわけ誠実の概念は、古いスタイルの封臣制の結合関係に持続的に影響に与えた。こうして、服従の義務は、誠実の義務に徐々に取って代わった。また託身は奴隷の儀式という本来の性質をなくしていった。誠実宣誓が従士制から封臣制に継承されたことは、封臣の倫理的価値上昇にとって重要である。8世紀中葉以降、封臣はハントガングにつづいて誠実宣誓をなしたことが証明される。「レーエン制的宣誓」Lehnseid は「従士制的宣誓」および「一般臣民宣誓」に区別される。封臣は社会的威信を獲得した。もう一つの要素は、レーエンの目的物である恩給地であった。封臣制と恩給地とがはじめから一体であったかは研究の一致をみない。いずれにせよ、8世紀までには、託身と誠実宣誓によって設定される人的な紐帯とレーエンの目的物の授与との間には緊密な関係を出来上がっていた。恩給地の受領は、封臣制的結合の本質的な構成要素とみなされた。国王は、武装能力を有するすべての男子自由人を戦陣に召集する権利をもっていたのである。
2007.01.31
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フランク王国6~8世紀にレーエン制は踏み出された。メロヴィング時代に、自由身分の人間が国王などの強力な主君の保護支配に服するということが起こっている。「託身」Kommendation は、commendatio(委託)に由来している。 Qui se in alterius potestate commendat: Domino magnifico illo ego enim ille. Dum et omunibus habetur percognitum, qualiter ego minime habeo, unde me pasecere vei vestire debeam, ideo petii pietati vestrae,et mihi decrevit voluntas, ut me in vestrum mundoburdum tradere vel commendare deberem ; quod ita et feci, eo videlicet modo, ut me tam de victu quam et de vestimento, iuxta quod vobis servire et promereri potuero, adiuvare vel consolare debeas, et dum ego in caput advixero, ingenuili ordine tibi servicium vel obsequium inpendere debram et de vestra potestate vel mundoburdo tempore vitae meae potestatem non habeam subtrahendi, nisi sub vestra potestate vel defensione diebus vitae meae debeam permanere. (Formulae Turonenses Nr.43...)この史料では、物質的欠乏が、自由人を主君の権力に服従させる要因である。従属関係は、託身する者が主君に対して勤務と服従の義務を負うがゆえに生まれる。しかし自由身分と両立するものでなければならない。主君は、封臣に衣食の生活必需品を保障する義務を負う。契約は終身契約であるが、その任意性がとくに強調されている。それは奴隷化ではない。
2007.01.31
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やたら家族が三毛猫を可愛がるのは、何かのフラストレーションだろうかと思ったりしていた。発情期の猫が、メス猫を追いかけているらしく、昨日も何回か外に出したが、午後、家の前の公園で中学生くらいの少女たちが遊んでいたが、三毛猫をみると騒ぎ出した。豪い人気者である。それで、ピーンと来るものがあった。成る程、女の子たちは可愛いものが好きで堪らないようだ。抱いたり世話をしたりする。私などは長年男をしているので、そういう感情は成人の女性にしか湧かないが、女性は、母性本能があり、(勿論何らかの理由で、ない女性もいるが・・・)赤ん坊や、可愛いものを愛するという衝動をもっているようだ。そういう愛情に支えられて子供たちは育つのだろう。それが少女期にペットを欲しがる理由の一つではないだろうか。今更だけど。頭では解かっているが、意外と家族のこととなると解からなくなるらしい。公園の少女たちの多寡が猫をみただけのはしゃぎ様をみて、妙に納得する思いがした。愛されたいという欲求と、愛したいという気持ちが大切なのだろう。それが呼吸のようにバランスが必要なのだ。そのためのペットがあるとすれば、このペットブームも判らないではない。愛されたいと、愛したいという願望が、ペットである猫たちに向かうとしたら、それは、我が家でも何かの移動の季節なのかも知れない。そういう思いもして来た。これから、朝風呂に入ろうかと思っている。それから、そのあと、8世紀前半のレーエン制の文書範例を引用するつもりだ。
2007.01.31
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「封建制」Feudalismus と「レーエン制」Lehnswesen という二つの語は近代でつくられたことばであり、ドイツ語では多く同義語的に用いらている。「封建制」は、最も古い使用例は9世紀後半であり、当初は土地ではなく動産を意味した。併し、10~11世紀にフランスでレーエンの意味<beneficium(恩給地)>を獲得した。この意味の変化は、封臣が主君から本来は生活物資だけを受けていたのが、ここにようやく土地を支給されるようになったということだ。「レーエン制の時代」Lehnszeitalter(ハインリヒ・ミッタイス)は中世と同一ではない。レーエン制は8・9世紀のフランク王国で展開し、おおよそ10世紀から13世紀の間に最盛期を迎えた。レーエン制は、中世後期にはまだ大きな役割を果たしていたが、近世になると急激にその意義を失った。しかし、それが完全に消滅したのは18~19世紀初頭にかけてのことであった。広い意味での封建制は、いくつかの特徴をもつ特定の社会秩序であり、「封建社会」Feudalgesellschaft をさす。この用語法は18世紀のフランスからうまれた。そこでは旧体制(アンシャン・レジーム)が「封建体制」あるいは「封建制」と呼ばれ、国民会議は1789年8月11日にその廃棄宣言をした。この反封建的スローガンとして生まれたこのコンセプトはドイツにの継受され、政治学、哲学、歴史学および社会学の用語にも採用された。封建制概念は、広く考えれば封建的な諸要素がはっきりと指摘される他の国々や文化圏(日本、中国、インド、エジプト、トルコ、ロシアなど)にも適用可能だ。だが、世界的な社会形態としての封建制の本質的特徴とは何かという問題について定説はない。封建制度は、マルクス主義の歴史観にとっては格別の重要性をもつ。奴隷制度と資本主義の中間にあるのが、封建的社会秩序であると位置づけられている。封建的体制は世界史的な社会形成の序列における必然的な段階としてどこでもみいだせるという学説でもある。>ハイデルベルク城よりの眺望。昨年暮れに旅行したけれど、もっと勉強しておけば良かったと思う。それにしても、次から次と興味の尽きない空白のスペースがあるだろう。
2007.01.30
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問題の三毛猫の去勢オペの予約を動物病院に電話で問い合わせたら、いまはオンシーズンらしい。来月20日を13日に押し込んで貰った。腕の良い獣医らしく忙しいようだ。何せ、三毛は、1歳過ぎたかどうかで精力はばりばりだ。その走る姿は、まるで精悍で、メス猫ではないが、惚れ惚れするような走り方をする。どこかチーターを思わせるような走り方をする。昔から、何でも走る姿が好きである。人間の走るのも好いが、動物の走る姿は、どこかぞくぞくするような、血が沸き立つ想いがして来る。朝10時にまでに来院すれば夕方には引き取れるとのこと。前日の午後から食事をさせないでおくようにとの注意だった。手術後食べたものが気管に詰まることがあるらしい。どうやら呪医の話ではメス猫がいるらしい。三毛の挙動不審もそのメス次第なのだろうけれど、この際オペをしておいた方が、との妻子たちの意見である。猫好きの方から、そうした方が、とのことでもある。猫の青春は、人間の都合で踏み躙られるだけか。
2007.01.30
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山頭火1940年没。享年58歳。松山の草庵で本人の希望とおりポックリ往生したらしい。季語などに 捉われない自由さが珠玉の輝きを放っている。どうやら生きる自信が無くて揺れつづけるのだろうか。 亡き母が、よく腐りかけた林檎を買って来て食べていた。当時は、少し恥ずかしいと思っていた。 勿論貧乏の所為もあるが、腐敗した処を切除して美味しいと母は、言って食べていた。私も食べろと 言われて食べていたが余り気持ちは良くなかったのを覚えている。今それを考えると、単に母がグルメ なのではなく、母のライフスタイルであったと思う。食い意地は張っていたのではなく、見掛けは悪くても 美味いものがあるのだ。耕畝は、堂守を生きておれば、山頭火はいないだろう。 見かけばかり捉われて、生きようとしているのではないだろうか。 うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする。山頭火
2007.01.30
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「幸せのちから」主演のウイル・スミスが好演していましたね。「幸福は追求するものだ」という意味のアメリカ人の精神がよく解かる映画でした。”the pursuit of happiness" なのですね。ただ、一流会社への就職が即幸福だ、という視点が、果たして正しいのだろうか。それとアメリカの一流会社の就職試験が、ペーパー優先ではなく、厳しい実務の審査をされるらしいことがわかりました。貧しさが半端ではないことも。選り抜かれたものだけがリッチになるのが当り前だという思考で良いのだろうか。努力したものが報われることは異存がないとしても、20人に1人しか採用しないという選抜は果たして公平な社会なのだろうか。アメリカのサクセス・ストーリーは、どこか欠落した部分が多い気がしてならない。結果がよければ何でもありなのだろうか。実力のあるものが切捨てられている部分があるに違いない。仲間にならなければ席を得られないのではないか。同じ仲間には親切で、それ以外には冷たいという利己的な遺伝子ではないだろうか。帰宅して、大学から借りていた本の返却日だと気付いて、慌てて大学に行ってきました。ついでに新刊本を借ろうとしたのですが、大学受験の関係で今日はできないとのことで諦めました。大学も、新入学まで、忙しいのでしょう。稼ぎ時なのでしょう。
2007.01.30
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これから、一寸覗いてこようかと思っています。アメリカン・ドリームなんでしょうね。でもそれが、今のアメリカの姿なのではないのだろうか。他人に抜きんじようとする努力が賞賛される社会ですからね。ひとはそういうサクセス・ストーリーが好きですね。僅かの希望を捨てられないひとが多いのではないだろうか。それを煽るのが映画でしょうか。勿論文学やメディアだったりするのでしょう。それは悪ですか。どう係わるかは、一様ではないし、評価は難しいでしょうね。私たちは、そういう社会に生きており、善悪が裏腹にあるのではないだろうか。ひとは、それこそ、善のみに生きることはできないでしょう。単純に見分けの付くことではない。貧しいものが善を為すとも限らないだろうし、裕福な人間が皆卑しいひととは言えないでしょうね。でも、分別しなければならない。>我が家の発情した猫が、どこに行くだろうかと追跡してきましたが、どうやら近くのゴルフ場に消えていきました。野良猫でもいるのでしょうか。猫だって子孫を残そうとしているのでしょう。それを邪魔するのが人間の都合で去勢させられたりする。それも、野良猫を増やさないためなのですね。難しい。
2007.01.30
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フランクの法史料において従士団は、国王直臣団という特殊な形で現れる。「サリカ法典」によれば、国王の従士団の成員は国王の保護下におかれて、三倍の人命金が認められた。従士の人命金は600ソリドゥスとされた。自由身分のフランク人の三倍の額だ。人命金とは、殺人に対して被害者の親族に支払われる賠償金のことだ。その額は地位や身分にに応じて段階付けられていた。Rectum est, ut qui nobis fidem pollicentur inlesam, nostro tueantur auxilio. Et quia illi fidelis, Deo propitio, noster veniens ibi in palatio nostro una cum arma sua in manu nostra trustem et fidelitatem nobis visus est coniurasse: propterea per presentem precernenus ac iobemus, ut deinceps memoratus ille inter numero antruscionrum conputetur. Et si quis fortasse eum interficere presumpserit, noverit se wiregildo suo soledos sexcentos esse culpabilem.(Formulae Marculfi,MGH Form.S.55)国王の手のなかで「臣服と忠誠」を誓う。宣誓後、国王直臣の仲間に加わり、以後国王の保護を享受した。さればゆかん、サンチョパンサよ!
2007.01.30
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従士団は、原則的には主君のまわりに集った自由人男子の戦士の共同体である。従士制についての具体的な叙述が中世の英雄叙事詩のなかに、すなわち、北欧のサガ、アングロサクソンのべオーウルフ、ニーべルンゲン伝説、グードルーン伝説の中に見られる。これらの叙事詩は、「従士叙事詩」ともいわれる。従士を率いていたのはたいてい国王や太守などの高貴な男たちであったが、北欧では、従士団がこれらの者たちに独占されていたとは思われない。むしろ従士団への加入は自由意志に基づき、自由男子であれば誰でも加入は可能だった。若者のなかには名声と栄誉を得る為に、信望ある従士団の首領の屋敷に行ってしばらくの間仕える者もいれば、高齢まで主君の屋敷にとどまる者もいた。デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの王権のいっそうの強化は、従士団の拡大をもたらした。親衛隊として君主の宮廷で生活するものは一部に過ぎず、他の者たちは自己の所領に居住した。このアルカイックな組織は国王の支配権や国家構造の重要な構成要素となっていた。フランク王国の建設は、ゲルマン人の民族移動の中で最も重要な出来事のひとつであった。ヨーロッパのその後の発展に影響を与えたからだ。ゲルマン人とローマ人の共存により、ゲルマン、ローマ末期、およびキリスト教に由来する制度、生活形態のよび理念の融合がもたらされたという。フランクの従士制はゲルマン起源の要素のひとつである。しばしば、奸計と暴力が行なわれた。国王は自分の競争相手の家来をそそのかして主君を裏切らせたものの、それが成功すると今度は、不忠な従士には贋物の金で十分だとする立場に立ったのだ。>憐れな三毛猫は、春を迎えて放浪を繰り返しているため、どうやら去勢手術をされる運命のようだ。
2007.01.29
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プレートはアセノスフェアが対流し融解したリソスフェアが地表で新しい地殻となる。反対側のヘリの古い 地殻がアセノスフェアに引き込まれ深部で溶解する。2億年後大陸はひとつになる。第二バンケアとな る。ひとつの大陸とひとつの大海となる。それは、3億年前に形成されたバンケアは、2億年前に分裂し 始めた世界に回帰する訳だ。人間が絶滅したあと1億年後に大量絶滅で陸生の脊椎動物は死に絶え る。そのニッチを埋めるのは、たこ、いかなどの進化した頭足類だという。2億年後には、8トンのいか(メ ガスクイド)が地上を押し歩くのだ。想像するだけで、愉しくなりますね。 ヒトは、通過点でしかない・・・。
2007.01.29
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国会答弁が、官僚の原稿だということが分かるのは、「総理として・・・」というところだろう。自分のことを何度も「私は、総理として・・・」を繰り返していた。これはふつう使う正しい日本語ではない。「私」でいいはずだからだ。それ程有能だと思えない安倍首相が、あれだけ国政の隅々まで理解しているとは到底思えないからでもある。総理が施政方針演説で約束することが、守られた例はあるのだろうか。まあないこともないだろうが、ステレオタイプの空約束ばかりだろう。アメリカ追随でしかない施策ばかりだ。御蔭さまで、個人的な日々で勝手に遣っている。楽天ブログもそろそろ2年近くになるが、まだ飽きずに遣っている。脳の空地が大分未だ残っているからだろう。月日ばかり経過しているが、殆ど後ずさりばかりのようだ。何せ凡人しているのだから仕方がない。それこそある意味で醍醐味がないではないが・・・。>柳川の川下り。
2007.01.29
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もう暖冬のために梅花の走りも早いようだ。ここ数日は寒いが一過性だろう。先日の福岡女子大の構内でほころびかけた梅花を見つけた。あちこちから綺麗な花弁も見えられている。あちこちWEBを覗いていたらいつの間にか夜になってしまった。どこか梅花でも観に行こうかと思っていたが、あっという間に時間は過ぎてしまう。ゲルマン人の観念によれば、部族の繁栄のためには、みなが共同で祭祀を行なう必要があった。というのは、つねに敵に対する勝利、豊作、狩猟の成功、健康、子宝などは、超自然的な諸力の善意と考えていたからだ。それゆえ、「部族のための」数々の祭祀、とくに供する犠牲である「供犠」が行なわれる必要があった。タキトゥスのいう祭司の役目は、「へーグング」と民会の平和の維持と祈祷、供犠、神託のような祭祀の遂行、神々によって保護されている部族の秩序に反する犯罪の処罰だった。厳しい冬の時代を学ぶことはある意味で、私たちの自由の価値を感じさせるものだと思う。新しい定住地を手に入れると、ふつうその部族は、先住民と出会い、彼らと対決しなければならなかった。主な対決の方法には追放、隷属化、共生の三つがあり、それらの組み合わせは多様であり、また変化に富んだものだった。>女子大の梅花は、一部咲き。
2007.01.29
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九世紀末のフランク人の歴史著述家であるプリュムのレギノは、「部族の区別は、出自、慣習、言語、法に拠ってなされる」(diversae nationes populorum inter se discrepant genere, moribus, linqua, legibus)という。出自、慣習と並んで言語は部族に固有な判別標識であった。即ち、部族は言語共同体を形成したのだ。言語の共通性は連帯感を促がし、異なる言語は、反感を生んだといえる。同じ言語や非常に類似した言語を話す異なる部族はお互いに同族と感じていたし、他の部族からもそのように見做された。ゲルマン諸部族が、どの程度に言語上の諸部族と一致するかは、ゲルマン語学でも論議されているが、原ゲルマン語から、東ゲルマン語、西ゲルマン語、北ゲルマン語の3分流をへて、個々の部族言語へと分かれるという系統モデルは現在の研究では否定されている。言語の役割についての研究は、文化の根底を揺るがしかねない重要問題だと思う。語学教育はそういう意味では、日本語文化の崩壊につながる危険をも包含しているだろう。部族イデオロギーを最も特徴的に表現している言語の存在は、安易なものであってはならないだろう。
2007.01.29
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民族社会学者リヒャルト・トゥルンヴァルトは「同じ言語を話し、類似した制度や風俗、慣習を有し、文化装置がお互いに似ている家族、ジッぺ、共同体、集落の集団をヨーロッパ人は「部族(Stamm)」と呼んでいる。しかし、歴史学からは、当該人間集団の自己意識、彼らの共属意識、そして他の集団に対する彼らの対立意識が無視されている。歴史家にとっては、部族意識は部族概念の不可欠な構成要素である。共通の始祖の子孫であるという概念は、純粋で混じりけのない血統という理念と容易に結合する。ある部族のエスニックに純粋な構成は、他のエスニック集団との混合より高く評価されている。ゲルマン人は、明らかにこれを肯定的した観念をもっているように思われる。部族が血統共同体であり、エスニックに純粋であるという観念はいうまでもなく虚構であって、歴史的現実とは一致しない。にも拘らず、それは自己理解の本質的な部分であり、また、政治的イデオロギーの根幹をなす要素であっただろう。そして血統共同体の観念は「部族」関連することばの語源でもある。・ドイツ語の Stamm・ラテン語の gens・ゲルマン語の theodaliut と folk は、どちらかといえば、政治的・制度的な意味での民族を意味する。ドイツから見た日本人とは、単に極東の「部族」のひとつだろうか。それはラージであってもグレートではないのではないか。偶々西欧かぶれの一時期があったにしても、それは物真似としか評価しない世界があるだろう。日本人が、アジアのリーダーと思っているとしたら思い上がりだろう。そう評価されるまでのことは何も遣っていないだろう。>彷徨う我が家の三毛猫は睡眠中。
2007.01.29
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ハンス・K・シュルツェ著。本書はドイツの歴史学部で中世史入門の教科書・必読文献として広く知られているとのことだ。日本語訳の序文に「ヨーロッパの中世史が日本で強い関心をひき、ドイツで人びとを大変に驚嘆させています。・・・ドイツと日本の国制と社会組織にはよく似た現象が見られますので、この著作は、比較研究の手がかりとして役立つでしょう」とある。折目正しい丁寧なことばが寄せられている。それは、明治政府は、ドイツから学んで立憲政治を目指したのだから国制は似ているはずである。併し、その後西洋と東洋との相違がそれぞれ屈折した進化をし、やがて第二次世界大戦では、両国は敗戦という悲惨な経験をした。国制と社会組織の「基本構造」は、基礎となる知識といえるものだ。それを学ぶことは必須ななことだと思うからだ。そして、日本人にとってドイツを学ぶことはルーツを知ることであるだろう。歴史の空間が体系化されたときひとつの時代の社会秩序をみることになる。ドイツ人と同じ本を読むことは、意味があることだ。翻訳本が、どんどん紹介してくれる時代がくるだろう。同じ教科書を勉強することが、やがて価値観の理解にも通じるに違いない。相愛のマリアンネをもっと理解していけば、やがて偉大な詩人ゲーテにつながる道をたどることになるだろう。如何に歴史が、狭い空間の中に拘束されていたかを知ることが重要なのだ。ヨーロッパの中世が、内なるミームの中にあるとしたら、それを知るべきではないだろうか。
2007.01.29
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何故アメリカが悪の枢軸の北朝鮮と交渉するのだろうか、平和へのアプローチがされていると見る向きはあるとすれば、期待は裏切られるに相違ない。ポーズに過ぎないからだ。それを毎日報道してみせる日本のメディアは何なのだろうか。それは、彼らの飯のタネの仕事だからだろう。日本政府もそれと知りながら追随してもいる。拠ってたかってゲームをしているのだろう。国と国とが遣るゲームに過ぎない。そこで犠牲になるひともでるだろうが、そんな事で誰も責任を取らないだろう。それはゲームだからだ。それはまさに仮装の出来事が繰り返されている。今度開かれようとする六カ国協議も、前回と同じ、ひとつのアメリカの戦略であり、北朝鮮の足掻きでしかなく、その他の国のシラケた対応なのだろう。アメリカは、いま極東でアメリカの軍隊を使いたくないだけなのだ。できるだけ時間稼ぎをしたいだけだし、北朝鮮は現体制を一日でも長く延命させたいだけだ。そのためなら何でもする気でいる。その妥協をするか、だけだろう。もしその歩み寄りと言われるものが出たとしても態勢にそれほどの影響はないだろう。つまり敵味方の衝突のだ。やっと、LEGAL RESEARCH が使えるだろうか。それは、これからだ。余り期待してはいない。それ程甘くはないだろう。一部のためのものでしかないからだ。現在の日本社会が開放的になったのではない。らしく見せたいだけなのだ。空っぽのデータを如何にもそれらしく見せているだけだ。それこそアメリカが、日本の政治が遣っているレベルの範囲でしかない。紛らわしいことをするものだが、このプロセスが、何を引き起こすこともあるだろう。虚偽とアドバルーンと、そして、私たちの戸惑いが付き纏うのだ。外は雨が降っているようだ。また真夜中、三毛猫が帰ってきた。起きたら猫好きの娘が餌を遣っていた。どうやらいま熟睡中だ。
2007.01.28
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相手が何を言っているか?言いたいのは何か?喋っていることだけが言いたいのではないかもしれない。もっと、本当は違うことを言いたいかも知れない。殊に日本人は、まわりくどい言い方をするし、言いたいことをいわない傾向がある。土台、議論が苦手なひとが多い。だから実力が判り難いはずだ。簡単なペーパーテストに評価などできるはずはないのに、それがメジャーとは情けない。いまのままの日本の教育では世界から置いて行かれる。インドの教育の現状が特集されている。インドの人口11億人の知的躍動が衝撃を与え始めている。インドの未来の可能性は、日本の比ではない。貧しさの渇きに勝てるものはないだろう。そのパワーに圧倒されて日本の学生は吹き飛ばされるだろう。深い知的能力を高めなければならない。どうすべきか。その問題の所在を見出さなければ日本は世界の未来のお荷物になるだろうことだけは確かだ。脳の活動にカネは要らないのは有難いことだ。誰でも参加することができる。学生は皆同じスタート台にいるだろう。
2007.01.28
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すべての道はローマに通じている。本物は、通じているだろう。ニセモノが多いが、一片の真実はあるだろう。それを緻密に繋ぎ合わせるのだ。俳句でも、短歌でも足りないだろう。少しの甘い汁でこころを売り渡してしまうのか。横田めぐみは、13歳で拉致されて、殺されるより酷い仕打ちを受けて、連れ去られた船中で、船酔いで嘔吐に塗れ、爪を剥がして壁を掻き毟ったという。そのために発狂寸前であったという。そういう姿を見ながら、解放しなかったという。それが、国家の意志だったからだ。暴虐に歯向かう手立てはないというのか?誰が、本物の相手だろうか。小さな虫を排斥しても何になろうか。どこからでも、真実を知ることはできる。それができないやつには用はない。長い長い冬を乗り越えることのできるものだけが、夜明けの兆しをみるだろう。
2007.01.28
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今夜は冷えるようだ。日中7℃くらいだったろうか。三毛猫が、出たり入ったりした。どうもゴルフ場の中に行っているらしい。一度、妻が追いかけて、そう言っていた。それでも、夕方になり、また出て行ってしまった。気紛れは、本能の為せることでしかない。図書館より(2月11日迄)・共感する女脳、システム化する男脳・人間の深層にひそむもの・とびきり愉快なイギリス・悪魔と世界終末の幻影・西欧中世史事典・米中奔流・「イラク戦争」検証と展望・日本経済への最後の警告・定年後・リーガル・リサーチ濫読でしかないが、何が釣れるか判らない愉しみがある。そろそろ大学の図書館に出かけたいと思っている。まだ寒いので、外出は億劫である。それでももう梅の開花の報道もされるようになってきたようだ。そして節分がそろそろ近付いてきた。「恵方巻」を知ったのは数年前だが、今年は、妻が仕事のついでに博多駅構内でかって来るそうだ。近くセブンイレブンがあるので、予約の受付けもしている。250万食売れるというから、段々世間でも知られてきたのだろう。今年の恵方は「北北西」らしい。去年は、歯が悪くよく噛めなかったが、今年はどうやらがぶりと噛めそうなのでたのしみだ。噛むということが如何に大切かをしみじみと思い知らされたものだ。また、歯科医から呼出状がきていた。それと車の2年目の点検の案内が来ていた。
2007.01.28
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公立図書館は休みではないので、図書を借りてきた。車で片道3キロ位だろうか。前回借りていた本を1冊忘れて取りに帰りながら、車だからできるけれど、こんな自由も何れできなくなることだろうと思ったりした。いま、勝手にしていることが、それこそ急にできなくなる悲しさは本人でないと決して判らない感情であるだろう。DVD「クラッツシュ」で人種差別主義者の警官が、自宅で父親が病気で小便がでないと便器に座り込んでいるのを介助しながら泣くシーンが印象的だ。皮肉な巡り合わせが人間にはありつづける、その巧みなストーリーに引き込まれる気がする。警官から陵辱を受けた黒人女性が、後日その卑劣な警官から交通事故を起こして危機一髪救われるシーンがあり、黒人女性の困惑が描かれていた。人間は、容易に解釈できる存在ではないだろう。「塞翁が馬」が何時の時代にもあるのだろう。私には、もう死んでしまった面白い名前の伯父さんたちがいた。源、清、明、そして末っ子が、正(父)だ。何か選挙のスローガンのような名前だった。「源は、清く、明るく、正しく」と願い、祖父は名づけたのだろうか。源伯父さんは、早く亡くなり、清伯父、明伯父たちには、可愛がって貰ったと思っている。いつかその思い出を、その気になった書きたいと思っている。図書館から帰りに、少し、近くの公園を歩いてきた。野鳥が池で休んでいた。そういえば鳥インフルエンザが、今度は岡山で見つかったそうだ。これからも伝染し易い渡り鳥の多い九州が危ないといわれているそうだ。野鳥が来る田舎が伝染し易いとは皮肉な話だ。案外、ひとは皮肉な運命に翻弄されるのではないか。期待されたひとたちが、ばたばたと挫折したままだったりする。そして、立ち上がろうともしないのだ。それこそ期待もされないものが、高い山を目指したりしている。人の本当の価値を知るものが、世の中の掃き溜めにされていたりする。突然、三毛猫が一週間ぶりに帰ってきた。気紛れなやつだ。やつの本能は本物なのだろう。>町立新宮図書館の構内の池に野鳥がいた。
2007.01.28
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キャパの写真の紹介が26チャンネルで遣っている。被写体を写しているキャパは写らないが確かに彼は現場にいる。戦場を死んでいくものを写真に残した。私たちの伝えたいことは、その思いはいつもショートしてしまう。だからいつも消化不良だ。こんな社会で健康でいられるなんて、どうせ中途半端な奴なのだ。自分だけが良けりゃいいだけの人間なんだろう。他人のスペースに土足で入り込んでも何も感じない不能なのだろう。腐った空気を醸しいるのは自分の排泄でしかない。そいつを他人の所為にして、生きているなんで、ラットの赤ちゃんと変わらない。ラットの母親は、赤ん坊の排泄物まで嘗めて、育ててやる。それをしてもらえないと一人前の男になれないのだが。勃起しないからだ。戦場で逃げたがるような卑劣漢が、平時では大きな顔をしている。そういう奴をヒーローに思っている阿呆がいっぱいいるだろう。臆病な奴は、せめて戦場をつくらないことだが、そういうやつにかぎって反対のことをしたがるものだ。いつか臭覚を失くすらしい。車の初心者が、わざわざ危険なことをしたがるのと同じだ。
2007.01.28
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ブログ写真のこと他ブログだけど、毎日花の写真を撮りつづているブロガーがいる。その女性は、最近よく私のブログを見に来るし、私もリンクしてその花の写真を見ている。あまりに 熱心で、感心もしているのだけれど、それが早朝の3時とかなので驚いている。こちらはヒマなのだけれど、コメントからも、若い女性のようだからね。花の写真の趣味 のひとは多いので、そういう方がいてもおかしいことではないのだろうけどね。花は一瞬の輝きとシャッターチャンスもあるが、どこかカメラマンの被写体に対する思い があるものだ。だからカメラマンとこころも段々見えても来るだろう。ふと思ったのだけれど、例えば、苗のときから枯れるまで毎日定期観測するように同じから写真を 撮ってみたらどうなのだろうか。あるひとが雑誌で、都庁が完成するまで定点観測する写真を撮っている言うのがあったけれど、それは、人間でも面白いのではないだろ うか。生まれてから死ぬまで、定点で毎週でも、撮りつづけて見れば面白いと思う。また樹木でもいい。例えば、森でも、山でも、海岸線でもどこでもいいのだけれど、 100年でも、200年でも、或いは1000年でも遣れれば面白いものが見れるのではないだろうか。写真は、いまは瞬間の芸術だが、点をラインにしてみたらどうだろうか。 少し、見えるものがあるかもしれない。そういう写真がいくつもあったら、いま忘れていることが多く解かるかもしれない。 ひとつの事を長く続けるようには人間はできていないだろうか。ひとは100年間しか生きていいないからか。もし1000年レベルでこの地球を撮りつづければいい。人類は地球の姿に泪するだろう。ひとは愚かな生物の一つでしかないだろうか。個人の人権無視になるとしているヒト研究が、最も遅れているのかも知れないと思うからだ。
2007.01.28
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十字軍以降も東方へのキリスト教布教がヨーロッパ人の宗教的な情熱としてあったため、経済的な要求とともに大航海に出るための理由となった。中でも、スペインとポルトガルは海上貿易に熱心で、王室が大航海に対して資金的なバックアップをした。マルコ・ポーロ「東方見聞録」等、15世紀から始まる大航海時代のアジアへの好奇心が背景にある。当時の航海技術からすれば、見果てぬ夢を追いかけるような大冒険でもあっただろう。そして国王は、自国の財政を豊かにする為に、新しい富を必要としたのだ。大航海時代のフロンティアスピリットといわれるものが、果たして現代人にミームとして継承され、どれだけ存在しているだろうか。宇宙への旅は、それを予見されるが、まだ僅かの人びとのそれでしかない。かって、先人たちはSFでしか果たせなかった世界が、宇宙を覗く針の穴から拡がりつつある。空気のない世界と、途方もない時間が横たわり、とてもまだ人類の一生では足りない。科学の進化も端緒についたばかりだが、乗り越えようとするフロンティアスピリットが是非必要だろう。その遺伝子が消えない前に旅立つ必要があるだろう。人びとの造り上げたものでは夢がもてなくなり、やがて新天地を目指さねばならないだろう。そこに新しい富を探さねばならない。そうしなければならないだろう。何故なら、地球上の生命は、そのために生まれてきたと言っていいからだ。生命は、常に更に、新しい富を見つけて生きて来たからだ。
2007.01.27
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年間11,000人の高齢者がSEDB(入浴中突然死シンドローム)で亡くなっているとみられる。入浴中に死ぬなんか情けないが、寒い脱衣場から熱い湯に入ったとたん血管が広がって、血圧が一気に下がって意識を失う、立ち上がろうとして、立ちくらみで倒れる。まだ、私もそこまでの高齢者ではないが、寒いと余計加齢が気になってくるものらしい。益軒の「養生訓」で「久しく浴し、身を温め過すべからず」とある。カラスの行水は、悪いことではないらしい。寒い日は、昼間(午後3時~6時)の方が良い。浴槽内の溺死、食べ物の誤嚥。もちをのどに詰まらせたりする。そういうことが段々身近になってくるだろうか。・・・だから、どうということでもない。リスクが高くなるからなんだろうか。それは確かにみっとも良い話ではないが、それを惨めに思うことはないだろう。私は、行けたら杖をついてでも旅行に行くだろう。今年は万里の長城を観に行きたいと思っている。
2007.01.27
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「クラッシュ」は、複雑な人種の差別と翻弄される人間たちを描いている。皮肉な巡り合わせがあり、如何にも狭い世界で生きているかを表現しているようだ。そこにあるのは善いか悪いかの単純な社会ではないのだ。退廃した世界が広がりつつある現実を思わせた。バイエルン地方に在住(国際結婚)のブログ仲間のsuhさんが一時帰国で、そろそろ東京ではないだろうか。飛行機嫌いだそうで大丈夫だっただろうか。九州は荒れ模様だが東京はどうだろうか。また、面白いプレビューを愉しみにしている。自宅からの定点写真を見るとドイツのバイエルン地方は雪が積もり、深深とした風景が見えてくる。人種の坩堝で生きていかなければならないことは、何と厳しいのであろうか。自由な社会とは程遠い油断のならない世界だろうか。併し、それも訓練なのだろう。この社会で、ヒーローは、いつもは必要ではない。ただ正常か異常かが問題だろう。人間の受け継いだ人間性の形質は、平和ではないだろう。平和になろうとしなければならないし、その努力をすべきなのだ。
2007.01.27
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海外のニュースの中で、韓国が日韓の間の海底トンネルのプランがあることが報じられていたけれど、それは誰でも思うことだろう。それが、日本で余り話題にならないのはどうしてだろうか。必ずしも経済的問題ばかりではない気がする。英仏間のトンネルはもう走っているし、少なくとも可能性を探ることは無駄ではないはずだ。勿論、技術的な問題とか、ルートの問題もあるだろうが、国家間の問題が一番ネックなのではないか。それでも韓国では、青写真ができているらしい。大統領選挙を睨んだ計画のようだが、そんなことは問題ではない。要は、可能性の問題だ。何でも遣ろうとすれば、技術的なことは付いてくるだろう。障害となる問題は多いとしても、日本が物理的に大陸に繋がることは避けられない未来なのではないだろうか。それを回避しようとするのは、蒙昧ではないか。広く知識を世界に向けるべきだろう。何も懼れることなどないのだ。それこそ太古では、日本の島も大陸に繋がっていたのだ。小さいことでなにができるだろうか。借りていた「キューポラのある街」のDVDを返却して、今度は「クラッシュ」を借りた。話題作だ。日本人には、固有の厄介な構造的な問題がある。そして西欧にも存在する苦悩のスケールは、到底日本人には容易に理解できない深刻さでもあるだろう。
2007.01.27
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旅を続けて来ました。これからも平坦ではないだろう。だから愉しいのだというひともいるでしょうね。怠け 者の私は、他人以上に試練の日々を過ごした訳でもない。努力はしましたが、成果が左程ないところを みると相応なのでしょうね。恐らく、修羅場を生きているとは言えない。これからどういうことになるかは、 未定です。これまでのように可もなく不可もない人生でしょうか。敢えて、のたれ死にする道を選ぶのも 良いかも知れない。どんな後世であれ、自分らしく生きれれば良いと思います。誰も皆自分の思いの 儘に身罷ることなどできません。或る意味恨みを残して逝くでしょう。如何に羨ましいような死であろうと 実際はそうではないのでは・・・。私は、母から学びました。遣るだけ遣れば死は安らかに来ることを・・・。利己的なDNAに対するミームは、人種差別、男女差別、民族差別などを当然のようにしでかしてしまう残酷で救いようのない社会に陥っています。このままでは、地球さえ破壊してしまうでしょう。現代社会は、それでもなお反面人間脳の発達にともなう文化がある。ミームは、冒険心と真善美をもとめる心でもあり、貧困と無知に対する闘争心をも持っているのです。ミームは、しなやかで弱い存在でもあるだろう。併し時にヒットラーの狂気にもなった。我執にみちた煩悩具足の凡夫でしかない人間が、ミームの存在に活路を見出すべきではないかと思う。
2007.01.27
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そして、いつか、過去の出来事は幻影となり、闇の彼方に遠のくだろう・・・。人は、生きる意味を見出して自分らしく生き て、いずれは自分に相応しい死に方で終わりたいと願う。生物は、寿命が尽きて、個体は失われ、分解して 粒子となる運命だ。誰も皆家族や友人たちの記憶となり、いつか消えて行く。地球も、太陽も何れ宇宙の塵に 戻るだろう。そして、終には、宇宙が静止する。それとも The Big Crunch だろうか。 まるで、セルが巨象の話をしているようだと・・・自嘲的なる。だが、人の知識もコピーから始まりいつか真理を見 出すのだ。 ヒトは、ながい過程を経由して、ようやく言葉をもち、科学を手に入れようとしている。しかし、もう 深い海を原子力潜水艦が、世界を破壊する原子核を搭載して潜行している。知らないところでヒトは、生命の 危機に晒され続けるのだ。この殺し合いが続く限り・・・。
2007.01.27
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泥が何かも知らないとすればそれは、世の中が悪いか、自分が愚かなのだろう。或いは双方だろうか。泥をつくっているのは人間たちだ。初めからあったのではない。世界が泥だけでできているだろうか。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。芥川の見た地獄は本物だろうか。違うのではないか。神や悪魔や地獄が、そんなに近いだろうか。芥川は、たった35歳で自殺した。知ったものは多くの書物だったが、まだ学ぶことはあっただろう。彼を潰したのは、因習と泥の中を目指したからだ。私たち陥れる誘惑はいくつもあるし、虚構の罠が口を開けている。それが泥の中だと自覚できるだろうか。易々と自分の敵に、自分のオールを渡してしまうだろうか。日本丸のオールを漕ぐものが、強かな外交能力を持ち、識見の高い政治家だろうか。コンパスと星座の知識だけで乗り越えようとしているのではないか。クロかシロかだけの賭博師ではないだろうか。誰を相手に、難局に向かおうとしているのか。泥の中にはいる者は、泥の中で死ぬしかないだろう。世界を歩き、人間の何たるかを知っているだろうか。自然の何たるかを感じているだろうか。すぐ萎えてしまうこころを研かねばならない。泥に向かわず、恐怖に打ち勝つことのできるものが、明日を生きる権利があるだろう。
2007.01.27
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他人より高価なものを食べ、リッチな生活をしたからといって、それが何だろうか。それが文化というのか。高い文化だろうか。もし、それが羨望の的だとしたら、そんなものは、似非でしかない。みんなとともに生きればいい。周囲とともに暮らすのだ。いつの時代もそうして庶民は生きてきただろう。援け合って生きてきた。雪が降れば、ライチョウのように白くなるだろう。何故なら、そうする必要があることを知っているからだ。そうして生き残ってきたから。他人より目立ちたがるのは、未熟なものには安易な生き方でしかないからだ。そんなことより、自分のこころを真実にふるわせろ! 21世紀になっても、世界は、未だ遣らなければならないことが、地球サイズであるだろう。ルワンダで、100万人が虐殺されたが、国連でさえ口を噤んでいる。何故、自殺やいじめがあるだろうか。無能な学者が、学生を惑わせるのだろうか。社会のリーダーがうそをついて、人々を不幸にしているだろうか。社会的搾取が繰り返されている。それほど、人間社会は、歴史を学ばない愚劣な生き物だろうか。何が、「美しい日本」なのだろう。本当にそれを描いているのだろうか。そういう人が、今の日本の中にいるだろうか。それは、仮装社会ではないだろうか。日本の首相とは、国民に何を言っているのだろうか、まるで、中学生の作文ではないのか。官僚の頭の中が見えるようだ。世界をひとつに繋ぐことのできる、キーワードは何だろうか。それは、ひとつで足りるだろうか。それが、未来を切開くだろう。くだらない偽善で、自分のこころを貶めるな。そんなことより、心をふるわせろ!!
2007.01.26
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それ程のことは何もないけれど。何を書くかも決めていないが、何か出てくるだろう。いつまでこんなことをしているだろうか。それは、何があるか誰にもわからない。安倍首相の施政方針演説は、当然ながら、野党から批判されていましたね。総花的で何もない。それで通用するのだから、日本は凄い国だ。官僚が書きそうな作文だった。それを大声で喋るのだから、これは、厚顔無恥といえるかも知れない。これから、どこでも好きなことが言えなくなるのではないか。という不安感があるのは否めない。それだけ深刻化するのではないか。私の生きている間にそれが来るか来ないか判らないけれど、いまのうちに言っておきたいことはある。でも、私でなくても、誰かもっと有能なひとが遣ってくれるだろう思ってはいる。何でもいいのではないだろうか。為すべきことを見つけることだろうと思う。ひとは環境に支配されているが、そこから這い出す知恵も持っているからだ。足りないものがあれば、補えばいいだろう。自分を甘やかすのは、自分の怠惰でしかない。そうでなければ誰が自分の責任を問うことができるだろうか。人生とは、漱石が言うように「うんうんいいながら死ぬまで押していくのだろうか」キプリング「祈願の御堂」のなかで、あちこち探すが、お墓が見つからず「園丁」に尋ねるのだという。それはヨハネ伝の中にあるその「園丁」は、神なのだという。芥川の作品にもそれにちかい表現がある。彼の作品のなかの省略は、時に多くの余韻を残すだろう。今夜は、みんな外出しており、ひとりで過ごしている。そう三毛猫がまだ見つからない。半分諦めている。猫だって選ぶ権利はあるだろう。気が向けば帰ってくるだろう。
2007.01.26
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「雹が降ってますよ」教授が何時ものように時間間際に教室に駆け込んで来た。今回18回目だ。月2回なので3月までで、1クールのレクチャーが終わる。次回は、太宰治を1年間遣る予定だ。樋口一葉・芥川龍之介と受講している。その前は森鴎外だったようだ。今日は、メインは、「湖南の扇」「点鬼簿」外5作品だ。殊に、「点鬼簿」のもつ意味は、決定的だ。芥川は、それまで母が狂人だったことを隠し続けてきて、この作品で出生の秘密を初めて触れたからだ。この孤独な青年は、屈折した幼児期を過ごしている。芥川は、晩年(?)自伝的な作品も書いている。作品中の「僕は時々幻のやうに僕の母とも姉ともつかない四十格好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守つてゐるやう感じてゐる。」と書いている。 かげろふや塚より外に住むばかりこうしたいという願望をつねに抑え込んで本音が言えない苦しさが「点鬼簿」と僕と芥川の生い立ちと重なるのだ。芥川は、師で漱石が死に、徐々に吐き出し続けた多くの作品に埋もれながら人生に行き詰って行く。 あんこうや孕み女の吊るしきり明治27年頃の作だという。誰の作か聴き取れなかった。凄い俳句だ。漱石は、芥川に送った書簡の中で「・・・牛のように、うんうん死ぬまで押すのです」と書いた。「湖南の扇」は、芥川の中国旅行の成果だろう。人物の選び方や、光の当て方は、鴎外から学んだ。説明の省略は、作品に多く観られるが、その分余韻がある。短篇の余韻を表現しようとしただろう。「湖南の扇」は、自信作だったようだ。「小説の筋らしい筋のない小説」の魅力を訴えている。芥川の深層心理は、読み解くには複雑過ぎる人物なのだろうか。
2007.01.26
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家畜を寄せ集めて主人のところに連れていくタイプの「ヘッダー」と、家畜追い立てて主人から切り離させるタイプの「ヒーラー」がある。これは見張り番のガーディングドッグと違い、群れを纏めるハーディングドックといわれるカテゴリーになる。この「牧畜本能」は、じつは祖先のオオカミから受け継いできたと考えられる一連の「捕食行動」からくるものだ。ヒーラーは、獲物に体をむけ、にらみを利かせ、忍び寄り、追いかけ、捕まえて噛みつき、噛み殺し、切り裂き、むさぼり食らうのだ。人間行動の本質をよくみれば分かるように、遣っていることは、時に動物的な本能を露呈しているのではないだろうか。この社会の差別化を進めているのは、政府を代表とする支配層のしていることだろう。口で言っていることは偽善でしかない。一口に「牧畜本能」などというのは本質的には語弊がある。なにしろ多様性を包含しているからだ。安倍首相の施政方針演説が国会中継されている。安倍首相の演説を全国で国民が聴いているだろう。その演説をどう理解するだろうか。好感だろうか、悪寒だろうか。それとももっと違うものだろうか。これだけ、長い時間をかけて国民に約束しなければならないことに驚く、まだ多くのことがされていないことを表白しているのは、誠意からだろうか、これからも、ただ演説するだけで、何もしないということではないだろうか。
2007.01.26
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渡辺淳一「愛の流刑地」は日経で連載された恋愛小説(H4.11~H6.1)で、つい習慣で毎日のように読んでいた。少し呆れていたが。映画の紹介では、或る朝ひとりの男が情事の果てに愛人を絞殺して逮捕される。豊川悦司と寺島しのぶが演じている。「失楽園」の作家だけに、描写は官能的で、まわりくどいないようで、ennui な感じがする。今朝の「この人にトキメキ!」で、寺島しのぶが出演している。いま遣っている。個性的な女優のようだ。性に対しても日本人は、閉鎖的な感情をもっているが、渡辺の小説は、まわりくどいだけではなく、耽溺し、執着し過ぎる面が強いのではないか。それとそれを自分の土俵に引き込もうとする嫌らしさがある。破滅的な愛が、愛なのかどうかはよく判らないが、快楽で人間の本能を利用して、種としてのヒトが、生き残りという戦略を取っていることは間違いないだろう。エゴ時代ではなかった江戸時代でさえ、庶民向けの滑稽本や浮世絵もあった。愚衆政治の一環に、時代の退廃文化が存在する所以でもある。大衆は浮かされるだろう。愛こそすべてだと。国民大衆が、愛だの恋だの、野球で「世界一を取るためだの」言っているのが、自由の本質なのだろうか。ennui な日本人が、増えているだろうか。
2007.01.26
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「デジャヴ」とは、一度も経験したことのないのに、すでに経験したことがあるように感じること。時々ではないが、ふとそういう感じがすることは誰にでもあるのではないだろうか。知らないひとの顔でもそんな気がしたことは何度かある。無意識にインプットされているものの影響だろうか。風景も最初のはずだが、妙に懐かしい気がしたり、それが生々しかったりする。あれ、こんな経験をしたことがあったような、・・・これも、デジャヴだろうか。午後、女子大で18回目の「龍之介の講座」。「死後」という作品を読む。モノローグだが、龍之介の得意の短篇で歯切れが良い。龍之介は35歳で自殺したが、作中のボクも34歳で死ぬ夢を見る。そして、再婚したらしい妻にどんなひとか尋ねる「ちゃんと人じゃないんだね?」「あたしは悪い人とは思いませんけど、・・・」「子供に父と言わせられる人か?」「そんなことを言ったって、・・・」「駄目だ、いくら弁解しても。」・・・やがて、ボクは目を覚ました。妻が言っていたのは、自分のことだったと気づくのだ。龍之介は多くの作品を残したが、同じモチーフを繰り返し使っている。それだけ凝縮したといえるとしても、実体験を伴っていない。書物で知った知識で書いているからだろう。当時の作家たちが自伝的な作家たちばかりの中で芥川の存在は、特異なものだ。世界で日本文学が正しく評価される日が来るだろうか。それまでの成熟が世界に来るとも思えない。日本人の脳の伝達物質であるミームが、そのことを未来に伝えるだけだろう。それは、デジャヴのようにあるのではないだろうか。
2007.01.26
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横田めぐみさんは13才で拉致された。北朝鮮までの船中で足掻き苦しんで掻き毟った爪の血と自分の嘔吐で、頭が変になり発狂寸前だってという。それは恐怖と絶望がさせたことだろう。拉致したあと13歳と知った後も帰国させなかった国家とは、何と非情な国家だろうか。誤りを修正できないのは、やがて破滅しかない体制でもあるだろう。即ち、硬直化は、終末の証明でもあるだろう。それにしても情けない外交交渉だろうか。日本にもスパイがいるのではないか。相手が手段を選ばない国家であれば、それなりの手段を講じてでも、横田夫妻の願いをかなえてやればいいではないかという気がする。イスラエル政府の「目には目を」の信仰が戦争を拡大していることいえるが、拉致された少女を取り戻すくらいの断乎とした決意くらいは、日本人のプライドとして政府は責任を果たして貰いたいとおもうがどうだろうか。国交がないから何もできないという弁解には理由がない。国交がなければないだけのことをすればいいではないか。要は、理不尽を許さない決意ではないか。そして、日本だけでなく、北朝鮮のひとびとが、「拉致」という、この事実を本当に是認するのかを問うてみたい。それ次第では、日本が、これから北朝鮮に対して、どう取組んでいかなければ危ういのかの判断材料になるのではないだろうか。めぐみさんが、日本に無事に帰ることを祈りたい。
2007.01.25
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旧約のイブと新約のマリアは、キリスト教の変遷で興味深いテーマだろう、。そして、マリアの戴冠という革命的な視点の変換となる。13世紀では、「王のなかの王こそ彼女を母に選ばれた」であり、15世紀になると、「彼女が王のなかの王を息子に選んだ」となり、マリアは「かの乙女こそ神の母なり」となる。騎士道と女性は、男たちの騎士道とは「教育装置」としての愛の文化でもあった。イブは、誘惑と楽園追放の罪多きものであり、マリアは、慈悲深き女 ’La Belle Dame avec Mercy ' である。男女の求愛を主題にした中世の問答詩「慈悲なき美女」は、つれない美女を描き、女性を誹謗したかどでアラン・シャルティエは、宮廷風恋愛精神の復活を図るパリの宮廷から追放される。一方、ロンドンでは宮廷風恋愛の愚かさを暴いた女性のことばが評価を得た。宗教詩という些か厄介な文章に取組んでいる人たちが、どれだけ翻訳を公表しているのだろうか。日本の女性史の貧困は、実に日本の女性自身の世界の女性史に対する識見にあるのではないか。現代の学生たちが、最短距離ばかりを歩こうとせず、中世の宗教詩でも勉強すべきかもしれない。
2007.01.25
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「拉致」何ですね、原題は。館内は、数名でした。福岡では、ここだけなんだろうか。日本人は無関心なのでしょうか。「もしアメリカだったら・・・こんなことにはならないはずだ、・・・」ということばを横田滋氏が洩らしていましたね。気持ちはわかります。少なくとも27年間は無駄にかかることはないでしょう。アメリカの世論が許すはずがない。そんな無能な政府ならすぐさま吹き飛んでしまうでしょう。映画の監督は、カナダ人で日本人ではない。日本のメディアも騒いではいるが、世界にアピールするだけの能がないらしい。日本の公安筋が、こんな事件を知らないはずがないし、もっと愚劣なことを考えて動かないのでしょう。当時の小泉首相が、記者会見で「・・・拉致もあるし、核もある、国交交渉もある」といっていましたし、隣に安倍氏もいましたね。点数稼ぎに行った感じですね。何もできなかったというのが、私の感想です。脚色を余り感じなかった。ドラマ仕立てではなく、ドキュメンタリー・タッチだった。当初から日本の新聞社がタッチしながら、世論を動かせなかったのだろうか。それこそ個人の生命や人権が軽いのだろうか。日本人の100人近くの人たちが「拉致」されたのではないか、という。韓国には200人との説明がありました。その他の国にも及んでいる。その無関心さは驚くばかりです。個人の安全はどうでも良いというのだろうか。大きな顔をして、天下国家を論じれば国益なのだろうか。アジア人の人権とはそんなものなのだろうか。スパイを養成する為に、外国人を拉致をしても構わないという論理が通るはずはない。またそれを黙過するのは、正義をかざす国家たりえないと思う。押入れに頭を突っこんで何もしないのと同じだ。これだけ整理した報道を見たことはありませんでしたね。日本のメディアは、何をしているのだろうか。それこそ・・・不能ではないのか。情けなくなりました。
2007.01.25
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中国は、4年連続の経済成長が二桁という伸びを示している。伴う環境汚染とかバブルの存在は深刻化しつつある。バブルは、どこの国にも付き纏う問題だ。13億人を抱えた大国だけに一度動き出したら簡単には止まらないだろう。その齎す世界への影響も絶大なモノになるだろう。最早大津波を起こすに違いない。軍事への傾斜は、やがて米ソに届くだろう。経済力だけでなく、政治力を強大化した中国は、やがて纏った衣を脱ぐことになるのか。その前に自壊することになるだろうか。バブル崩壊の処理如何にかかるのではないか。日本も、世界もかって、バブルの荒波に翻弄されたが、その処理を誤り続けてきた。中国の統制力はそれを上回るパワーをみせることができるだろうか。利益の分配が齎す格差は、アメリカだけでなく、日本をも社会の破綻を招きかねない。世界が身動きできない多くの課題を中国も処理していかなければならないだろう。台湾問題も、ソフトランデングをさせねばならない責任がある。それだけのパワーを見せるべきだろう。中国系アメリカ人が、果たす役割は、世界の共存への努力を積み重ねることではないだろうか。より多く努力したものが、リーダーになるべき時代でなければならない。
2007.01.25
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朝シャワーは、久しぶりだ。すっきりした気分になった。未だ少し寒いけれど、一月だものこんなものだ。平易な文章しか書けないようにできているのだろうか、できないだろうか。書きながら思うのは、狭苦しさでしかない。だからといって手で書き残すことがどこまでできるだろうか。臭い社会に俺たちはいる。それこそ、異臭を振りまきながら生きていもいるだろう。他人が臭いと思っていたら自分のニオイだったりするようになった。他人への哀れも同じだろう。いつかすべて自分に還って来るブーメランのようなものばかりが思われる。気分の良い時がだんだん遠のいているのだろうか。社長が老害だと思っていたが、なるほど同じ年齢になってくるとイライラするのが判るようだ。要するに自分がわからなくなったのだ。ひとり書物と向きあっていると、この社会はどうなるのだろうかと不安になってくる。国際金融資本が暴れまわっている世界があり、それに翻弄される人びとが増え過ぎるようになってなっているのではないか。身につけるべき道徳体系をもつ国だけが生き残るだろう。国が大きいだけで生き残れる訳ではない。道徳を無視する国は何れ滅ぶだろう。知能が高ければ高いほど訓練がしやすいとの思い込みがある。それは学習意欲があるかどうかに拠って決まるもので、あるなら、そのときは知能は大きな強みになるだけだ。ところが、本能が優先してしまうのが常なのだろう。それこそ動物だから仕方がない。思索を深めるというのは、中々できるものではない。余計なものが世の中にあり過ぎるから、ついつい喧騒に塗れることになってしまう。どうも他人から期待されない方がいいのではないだろうか。そういう努力も必要だ。静穏の時をもつことだろう。>逃げた猫が帰りません。どうも厄介な病気を抱えているかも知れません。免疫検査が必要なのですが、・・・。時々、自宅の周辺を捜しているのですが。午後は、映画「めぐみ」を観に行ってきます。
2007.01.25
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話題の「硫黄島からの手紙」で栗林の最期については、投降説もあるらしい。栗林の冷静な現実認識と合理性をもってすれば、投降もありえないことではないというニュアンスを滲ませたものだ。名将とされる将軍は、何に苦悩し、どんな欠点があったのか。指揮官としての資質に欠陥があったのではないか、という疑問だ。認識の混迷は看過しえないという。如何にもありそうな議論がされている。私は、それが史実かどうか、いつも曖昧になってしまうことが問題だと思う。名将に仕立て上げる必要を認めないだけだ。人間が局限でする行動が英雄にするかどうかでしかない。勿論大本営は英雄にしたいだろうが、部下たちは必ずしもそうは思わないだろう。その限界はある。当時の日本人の考えは、世界には異質に見えたのではないだろうか。少なくとも現在の私たちの客観的な認識ではそうである。昨夜、NHKの、「その時、歴史は動いた」で「島原の乱」を扱っていた。領主の過酷な圧制に対する一揆なのか、宗教弾圧なのか、これも史実が少ないために曖昧な論議がされている。冷酷な領主の過酷な収奪と、飢饉による明日への絶望が根底にあったのは事実だろう。そこに宣教師のキリスト教布教があり、体制破壊のエネルギーになったのではないか。それを恐れた幕府が、キリシタン弾圧という称したのではないか。即ち、根底には、住民全体を巻き込んだ生死の選択の強迫という宗教の殉教と、圧制への絶望が重なり合っていたのだろう。誰も、生か死かの逼迫した極限という状況に立ちたくはない。あとでどう評価されるかを考えるのは、英雄になりたいものだけだろう。追い込まれた人間の周辺には極限という限界はあるとしてもそれは、いつも大きな犠牲を強いることになる。上記のNHK「島原の乱」にも問題意識のズレを感じた。宣教師は、単なる布教に来たのではなかっただろう。野心なしに危険を冒してまで遠い航海をしてくるはずはないのだ。「限界」の意味とは、何だろうか? 常に私の脳から離れないテーマであり、問題の所在でもある。
2007.01.25
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1638年島原の乱で、老若男女37,000人が原城で惨殺された。組織された反乱軍ではない。しかも宣教師に指示されたキリシタンばかりではなかった。半強制された素朴な農民たちではないなかっただろうか。本当に反乱軍と言えるのだろうか。甚だ疑問だ。宣教師は、布教し、信徒に、異教徒を排除するように指導したのだ。家康は、それを危惧して弾圧にした。幕府は改宗によって信仰を棄てさせようとした。然し、ローマ・カトリック教皇は島原の乱の10年前にキリシタンに、「殉教」を指示した。それは、聖戦としてだろう。ポルトガル・イスパニアの宣教師たちが、農民たちに布教したキリスト教とは、幕府転覆を狙う意図があっただろうか。ローマ教皇は、宣教師の大群を送る約束をし、殉教を指示したのだ。それは事実ではないが、少なくともそれを信じた人たちがいた、神が奇跡を起こすと信じたのだ。利用されたのが天草四郎だっただろうか。キリスト教国からの援軍が来るまでの原城の籠城だった。圧制者に日々餓えながら搾取されて殺されるか、絶望した死だろうか、それともいわれている殉教であっただろうか。いまは知る術もない。キリシタンは、なで斬りにされた。島原の乱後、ポルトガルとの国交は断絶され、230年間の鎖国となった。島原の乱は、単なる圧制に対する農民一揆だったのだろうか。それにしても幕府と農民との戦いは熾烈を極めたものだ。生か、しからずんば、死かの宗教戦争の態を示しただろう。それとも、幕府による、ホロコーストでしかないだろうか。宣教師は、世界への布教を通じて、植民地政策の尖兵として働いたといわれている、キリシタンのカトリック教会への信仰は、当然幕府への反逆を意味してもいただろう。幕府の異常な反応は、それを感じさせる。そして、それは戦場となった原城を跡形もなく土で埋め尽くしてしまうという行動になったのだろう。宣教師たちの思惑は、所期の目的を果たすことができなかった。日本にとってそれは幸か不幸かは判らない。
2007.01.24
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TOHOシネマのネットをみたら「めぐみ」がありましたので、明日にでも観に行こうかと思っています。報道が一時は過熱気味でしたが、少し最近静かになったのでしょうか。どれだけ放映されているのでしょうか。「拉致」という犯罪行為が、国家という機関が関与しており、それが30年間も解決できないという異常事態を日本政府は、相手国を非難することしかできないという現実がある。横田夫妻は、既に70歳を超えており、悲願は叶うのだろうか。北朝鮮政府は、既に横田めぐみさんは死亡したと報じ、その骨さえ示したが、日本の専門家の鑑定では別人だと言っている。それなら、第三国にさせればいいではないか。どうも、何故それくらいのことができないのだろうか。勿論、そこには国交がないという壁があること分かるが、幼稚過ぎる争いだろう。そこには、人権がかかっている。ブッシュ大統領でさえ、人権問題を聞くだけの時間がない訳ではないと言わしめたではないか。国家は時として、個人の生命を軽く扱おうとさえするだろう。「一人の生命は地球のそれよりも重い」と日本の裁判官は判決で表明したが、そのために政治は何をしただろうか。政治体制の違いが、複雑な国際関係を惹起させていることは判らないではないが、個人の基本的人権は、どこの国でも守られるべき国家の責任であり、義務である。それを履行できない国家は、国連から糾弾されても仕方がない。それでも、従わない国家は、国家であっても真の国家ではない。せめて、国際社会で、表面化した個人の生命くらい守ってやりたいものだ。
2007.01.24
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「川の流れは真っ直ぐではなく、絶えず蛇行しながら、あたかも下流の水が流れ下るのが嫌で水源地に戻ろうとしているのか、或いは、川自体が自らと遊び戯れるのが楽しいのか、そのような趣を湛えている」But rather to tell how, if art could tell, How from that sapphire fount the crisped brooks, Rolling on orient pearl and sands of gold, With mazy error under pendant shades Ran nectar, visiting each plant, and fed Flowers worthy of Paradise ... (Alastair Fowlar ed. Paradise Lost. Longman,1968.)流れる川は、くねくねとした蛇のイメージだろうか、but と yet を多用し、反復と逆説の手法が使われる。これは、まるで、男女の恋愛であり、より多く女性的だ。シドニーの「アーケイディア」1590年未完のまま出版された。少なくとも、17世紀の終わりまでは、数多くの版を重ね読み継がれた。人間の求めてきた愛情の究極にあるものは、即ち、この「まどろっこさ」にあるのではないだろうか。これを快感とみるか、或るいは、苦痛とみるのか。
2007.01.24
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