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自分を弱いと感じていた。これでは自分は負けてしまうという観念を持ったのはいまではよく覚えていない。ただ夜が怖いと思っていた。夜ではなくそれは暗闇だったのだろう。幼い時遊び疲れて家に帰ってすぐ眠ってしまった。そして半分目覚めて、寝惚けていたのだろう。朝になり、明るくならなければならないのに段々暗くなってきた。あの時の恐怖心は強く印象に残っている。夕方を、朝と勘違いしただけだった。 ・自分を鍛えなければならないと思った。そして、中学になると夜、暗闇を歩くことを始めた。田舎だったので、外灯もない暗い場所はいくつもあった。殊に、墓場のある林道を歩くようにした。満月の時は外は明るかった。目が慣れると昼間のように見えた。そして新月の夜もあった。何度か同じ道を歩いていると、暗い道も何かの明りで見えてくる。それは、昼間太陽がある時と少しも変わらない存在でしかない。昼と夜の違いは、太陽があるかないかの違いだと納得した。そしたら、胸の蟠りがすーっと消える思いがした。恐怖は自分で創り出していた。 ・へ2・・・暗闇で歩いていると自分の足跡が響いて、周囲で反響し誰かがついてくるように思ったりしたものだ。それは奇妙な思い込みであろう。自分がゆっくり歩く時は相手もゆっくり歩くのでいいが、怖くなって早足に歩くと、相手も早足になりどこまでも足音がついてくる気がしてパニックにもなる。当前だ。自分の歩く足音に怯えただけだ。ただそれだけのことを自分で体験しただけだった。それは井戸の中に落ちた人間でないとその恐怖心が分からないのと同じかも知れない。飽くまでも、それはイメージや、想像の世界でしかない。自分で気付き納得できるかでもあるのだろう。 ・へ2・・・夜になって、私の「肝試し」を許してくれた親たちに感謝しなければならない。自分でもがき苦しんでいるのを、親たちは知っていたかどうかは、もう死んでしまって訊くこともできないが、それは、或いは、自分で思うよりも短い期間だったかは知らないが、自分の住んでいる環境を知ろうとしていたのだろう。それは無心であって、無心ではなかったのではない。自己撞着し、自我を持とうとしたか、持つことに拘っただろうか。それから、どんな山道も独りでいることが怖いと思ったことはない。ただそれから何度か、自分が誰もいない所にいると感じて、ぞっと背筋が凍ったことはある。それは、私の脳の中のDNAがさせていたのだろう。>面白い風景を見つけた。
2008.01.31
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ペットボトルで風車を作って、カラス対策だろうか。結構軽やかに回っていたようだ。何とも早や、利口な人もいる。犬も歩けばペットボトルに当たる時代だ。
2008.01.31
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和白干潟は、80ha の国の鳥獣保護の指定地域でもある。236種1万種といわれる野鳥が棲んでいる。先日の番組で和白干潟が紹介されていた。以前は26千羽いたのが、今は1万羽に減少してしまったのは、これも最近できた人工島や、環境破壊の所為であろう。生き物の小宇宙が展開して何とも素晴らしい世界でもある。 ・遠くヨーロッパや中国から飛来する野鳥たちの楽園だ。クロツラヘラサギは、絶滅危惧種で1000羽のうちの一部が飛来している。中国本土の奥地が開発のため追われて来たらしい。もう12年経過した。 ・あとスグロカモメもいる。ミヤコドリも30年飛来している。コウノトリもいる。ここは、都市高速で天神から10数分で来れる場所にある。 ・ひとと野鳥が共存できるかのいいテストケースになるだろう。それこそ、自宅から1キロも離れていない場所に野鳥の楽園があるのは嬉しいことだ。
2008.01.31
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刺激のない日常よりも変化に富んだ多様性が人間性を高めるのだろう。どうしたら都会の中で、それが可能になるだろうか。それが問題だ。そこには発想の転換が必要だろう。そのためにコストを払わねばならない。そのための努力は惜しむべきではない。核兵器を製造するよりか、どれだけましだろうか。 ・小手先で政治が行われようとしている。それに加担する者は誰か、国民は目を皿にしてみなければならない。誰が何をしようとしているか。根掘り葉堀りせねばならない。その試練に耐えたものだけが、政治家足り得るのだ。政治家にプライバシーなどはない。彼が支払う対価は小さいものではないだろう。だからこそ、安易に政治家になろうとするものを信じることはできないのだ。 ・へ2・・・明日から2月だ。体がむずむずしてきた。新しい意欲が湧いてくる気がする。地上に這い出してくる生命が、溢れだすのだろう。このエネルギーこそ、あらゆるものを変化させるだろう。もう気の早い樹木たちがざわめいている。
2008.01.31
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教育とは、知識の習得ではなく、これから起きるあらゆる課題に対して、それを「自分で解決できる能力」を養うことだという。世界で最も教育レベルが高いというフィンランドの教育関係者のことばだ。知識の蓄積だけが重要視されるべきではない。寧ろ自分で想像し、考える力をどうしたら伸ばすことができるかだという。記憶力はコンピュータに勝つことはできない。それをどう効果的に使いこなすかでもある。自分の脳のパワーを引き出すことができなければ、勝ち残れない時代だろう。 ・これまでのやり方を真似ていただけでは先に進めなくなっているのではないだろうか。哲学者でさえ数学ができなければ数式を立てられない。小さな国が、巨大国をリードするようになるのではないだろうか。それは、優れた思想家が、どこで生まれるか分からないからでもある。知識は共有化すべきだろう。それがEUでは始まっているのではないだろうか。まず教育の一元化に取り組んでもいる。日本はどうなのだろうか。アジアはどうなのだろうか。アメリカは孤立化するのではないだろうか。 ・へ2・・・日本はアジアの中ではいち早く西欧の知識を学ぼうとしたが、現在はどうだろうか。新しい知識に対して貪欲であるだろうか。目先の損得ではなく、長い目で教育を考えるべきだ。そして、どんな事態が起きてもそれに果敢に取り組んで解決できる能力を幼児教育から始めねば間に合わない。
2008.01.31
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ガソリンを入れて、図書館とまわり、和白周辺の写真を撮ってきた。ガソリンは1リッター当り144円である。来月からまた値上げの話が出ている。平均の給与所得が減少し、物価はガソリン、小麦粉などの高騰で、消費者物価が上昇しており、一般家庭の生活は苦しくなりつつある。そういう中で、国会で議論されているものは重い話ばかりである。ワーキングプアーのはなしはあり、経済の格差は、弱いものにのしかかってくるのではないだろうか。 ・公立図書館で例の如く10冊借りてきた。最近さぼり気味で、もう一度2週間延長をしようかとも思ったが、目先を変えようと新しい本を借りてきた。その一冊に「西日本新聞社に見る 戦後50年(1945~1994)」がある。パラパラとページをめくりながら、当時西日本新聞は読んではいないが、見たような写真とか記事の内容がある。確か熊本でも西日本は販売網があったと思うが、父は熊日・朝日を読んでいた。二紙が一緒だったわけではなく、そのどちらか一紙だったと思う。ただ中学一年の時、新聞の切り抜きをして夏休みの宿題に提出して褒められたのに、気をよくして、しばらく続けた思い出があるが、その時は朝日だったと思う。そんな関係で、朝日の創刊100年間の本をもっていて、いくつか1年間の縮刷版を揃えていたことがある。最後は1994年だから、この本が出版されてから既に13年余経過している。 ・へ2・・・ガソリンの単価100円時代も、もう昔のことになりつつある。これまであまり気にしたことがなかった物価が堪えるようになってきたのは皮肉だ。これから愈々弱者を実感せねばならないのは憂鬱な話だ。現在のフットワークも、高速から低速にスローダウンしていくのだろうか。太宰の記事もあった。写真があり、荒川上水道の心中現場の写真も載っている。(それらしい二人の遺体も載っている)黒白写真だが生々しい。他の記事も同じだが、やはり、同時代を共有したものがもつ若い頃感じた感性の残影でもあるのだろうか。
2008.01.31
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文春2月号の守屋に関する記事を読んでいた。その中で、月額130万円、年俸1800万円前後という守屋の所得について書かれている部分があった。これは06年事務次官に就任した時の頃らしい。勿論一般人からいえば低い年収ではないが、それこそ一流会社の重役クラスの年収ではないだろうか。これが27万人と言われる自衛隊員の、然もシビリアンコントロールのトップの収入とすれば、これは経済界のレベルからすれば多いとは言えない。何故おねだりのゴルフ接待なのかと不思議だったが、お寒い年俸があったのかも知れない。 ・ものは見方で変わるだろうが、どこかの専務がもう20年ほど前の話だが年収3000万円と言っていた。その人が、勤めていた会社の社長になって乗り込んできた。だから一般的にもそのくらいの収入があるのだと思っていたし、それからも、売れっ子タレントの収入などを聴かされたりするが、それでも、公務員にしろ、威張る割にはサラリーが少ないのではないだろうか。企業サイドとかけ離れているのではないだろうか。それとも企業の幹部たちが分け前を取り過ぎているのだろうか。 ・へ2・・・経済構造の歪みがあるのだろう。守屋に対するマス・メディアの取り上げ方も公平ではないかも知れない。バッジが絡んでいるとすれば、早く糾明しなければならないだろう。守屋には虚栄と幼児性があるのではないだろうか。彼はいわば企業の狼たちが仕掛けた罠にはまったのではないだろうか。自分のポケットマネーでゴルフ場に行ったり、ゴルフセットさえ買えなったのではあるまいが、それができるならばこんなへまもしなかったのではないだろうか。少し哀れにもなるのは私だけだろうか?
2008.01.31
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先日貰った案内状を見直して、先生方に故人となった方がおられるかみたところ12人中4人が故人だった。自分の年齢からしても、と考えたからでもある。現在相当の年配になっておられるのではないかと思ったが、当時若い先生なら20代の先生もいただろうから、成程と思ったところだ。どうやら私の担任だった先生は、お二人とも存命のようだ。1年の担任と2,3年は同じ先生であった。1年の担任は若い音楽の女先生だったが、それでも、2・3年の担任は30代だったと思うから80歳近いのではないだろうか。その先生がいつも欠席されるのでクラスメートだったひとに尋ねたことがあったが「あいつは、駄目だ。こういうところには絶対出席しない」と吐き捨てるように云ったのを聴いたことがある。教師も辞めてからまで色々言われるのかと、少し可哀想に思った。教師も自分の担当した同窓会に一々出席していたら大変だろうと同情心が湧いたからである。 ・そういう批評する奴が実は優等生で、先生から可愛がられていた男で、東京の大学教授をしているのだから可笑しい。態々東京から同窓会まで出かけてくる。私などは、もう20数年福岡に住んでおり、折角行ったら皆と一緒に呑みたいだろうし、そしたら泊らなければならなくのが嫌で、それほど熱心でもない。それにあまり楽しい話ばかりではないだろうし、先生たちと話したこともなかったが、いまになれば、その先生たちも平均寿命に近づいているのだと思うと、少し思わないことでもない。どんな気持ちで、教鞭をとっておられたのだろうか。あとでは、聴けないこともあるに違いない。 ・へ2・・・中学の頃はといえば、まだ自我の芽生えの頃で、他人を観察するほど余裕もなく生きていたはずだし、先生たちがどういうひとだったのか、その感想も曖昧でしかない。東京の大学教授になったようなクラスメートから見えれば、田舎教師の弱点ばかり目につくのだろうが、少なくとも彼は教師たちからや、生徒たちからも好かれていたのだから、良い思いをしたのだろうと思っていたが、意外と違うらしい。分からないものだ。彼が「君には、いい友達がいた」といわれたことがある。誰がヒーローでもヒロインでもないのだろう。ただぼんやり過ごして遊びまわっていた私が或いは、中学で一番自由だった、と思われてもいたのだろうか。そういえば、「君は、小説家になると思っていた」という奴までいた。私は、クラスメートにどんなふうに見られていたのだろうか。授業を聴くよりも、窓の外ばかり見て、違うことばかり考えていた気がする。さて、今度の同窓会に出るかでないか、まだ決めていない。
2008.01.31
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最近の液晶テレビは大型化し、しかも軽く薄くなったと言われる。テレビでも細木何とか云う女性が偉そうなことを言っている。半分取ってつけたような話を流している。それがテレビ界の知的レベルでもあるのだろう。それとも視聴者を愚弄しているのだろうか。いずれにしてもそれがテレビ局のかおであることに変わりはない。軽くて薄い人間が重宝がられているのは確かだ。逆らわないからでもあるのだろう。従順な人間が権力は好きである。その法則から行くと、マス・メディアもその一翼を担っていることはいえそうだ。 ・それこそ美容整形が求めえいるものは何だろうか。医者も落ちたものだ。それこそ病気とは関係もないことを優先してカネ儲けをしようとしている。そんな悪どい商売を知らないというのだろうか。それは医者のモラルではないのか。心臓移植に反対して人間の生命がどうとか、クローン人間がどうとかいう資格があるだろうか。医は仁術ではないというのだろうか。そうかも知れない、人間性の軽視が横行している中で医者だけが高潔ではいられない。 ・へ2・・・医療も、それは海に面して植えられた防風林でしかない。強風が吹けば、まっすぐに立ってはいられない。医者も人の子でしかない。昔の医者が偉すぎたのだろう。それにしても、鳥渡話を聴いただけで容易に信じてしまうのは、余りにも芝居じみているのではないだろうか。疑うことを知らない無心の子供だろうか。何を持って裏付けにしているのか訳の分からないはなしだろう。これまでも、ウソつきCMを嫌というほど見てきたが、またやらせを堂々とやっている。この21世紀をばかにしている。そんな連中がわんさかいるのがマス・メディアではないだろうか。そして軽くて薄いにんげんが大量生産されているのではないか。ケタケタと嗤う妻子を見ていると冷たいものを背中に感じる。これは、あまり長生きしても嬉しくはないのではないだろうか、とさえ思えてくる。>福岡市の海の中道周辺で。
2008.01.30
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殆んど書いたものは出ているかだけで、大してみていないから、あとで冷や汗もある。その時の気分で書いているので、結構うすらとんかちもある。こうしてみると判るのは、芥川か、太宰かの、違いが判ることでもある。推敲を重ねたら何も残らない。私にはプロセスでしかないことだ。いいのか悪いのか分からないが、ストレスの解消になっているのだろうか。ただ判るのは寄港地がないことだろう。浮く力のある間だ。人がどれだけ続けられるのか。それは「ヘイフリックの限界」の旅でもある。こんなことを書いて何の意味もない。 ・ペシミストでも、アナキストでもない。精々熊本の「モッコス」でしかない。「コスモス」ではない。そのまま「モッ子巣」「もっ子巣」という文字になった。そんな日本語はないが、私のPCは、私の意図に反して、とんでもない文字になって打ち出されてくる。勿論正しくは「モッコス」である。PCはまだミミズの脳でしかない。何故なら、私の思うようなことばを打刻できないからだ。何とも不便な道具である。 ・へ2・・・人間が我儘なのだろうか。日本語は語彙が多過ぎるのだろうか。或いはもっと理由は山ほどあるのだろう。言えることは、人間もPCも不完全でしかないことだ。人間のニューロンの殆どが眠ったまま死滅するのだという。宝の山を探しに行くのはどうも場所を間違っているようだ。自分が思考を生み出している場所が一番遅れている。「灯台もと暗し」なのだろう。もし、一葉や、芥川や、或いは太宰にしたところで、いま私たちが玩具にしているPCがそのじだいにあったなら、どんな小説を描いただろうか。彼らにあるものが私たちにはないが、彼らに決定的にないのは今という時間でもある。過去の偉大な英雄も如何なる天才も、後世のものからは化石でしかない。いまでは、文章ですら、お喋りの延長でしかない。
2008.01.30
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有島武郎「カインの末裔」を読んで思ったのは、決してユダヤの民の話ではない。人間は謂わば、それこそ降ってわいたボウフラのように暖かい血を求めて生きているのであり、この地上で失うものなど初めからありはしないということだ。あると思う永遠などありはしないのだ。それを想像しただけでしかない。ボウフラから進化しないものは、短い一生をただ蚊でしかないのではないだろうか。 ・比喩でしかないが、人間には失うものはないのだろう。元々この世に残すものもないだろう。あるのは足跡でしかない。踏みつけられた人間の重みなどすぐに波に消されてしまう。謂わば砂浜の足跡に過ぎない。そして、それは絶望するほどの存在でもないのではないだろうか。あるのは自分のわずかな1クールのカリキュラムでしかない。それこそ運が良くて、温かくて軟かな皮膚に辿りついて得られるものは蚊ほどの小さな腹を満たすだけではないだろうか。それができたとしてないほどのものであろうか。 ・へ2・・・ヒトは皮膚の色が違ってもそれこそ同じ形質の種のひとつに過ぎない。やることは変わりはしない。人に差別を作ったのは思い上がった一部の人間の欲望に過ぎない。それがいつしか慣習化しただけだろう。何度も作り替えながら住処を変えてもきた。そして、その果てに、多くの言語と、民族を作り上げたのだ。もうその社会システムも変えなければならない。何故なら、この100年で地球を汚し始めたからだ。科学文明の急速な発展による環境破壊で、温暖化が深刻さを増している。このままでは、あと100年もすれば、平均気温が6度以上も上昇し、生態系はズタズタになるという。そして絶滅する種が増え、それはやがて、種としてのヒトの運命にもなるかも知れない。ヒトが成し遂げてきた足跡でさえ、消し去られることになるのだろうか。それでも、それは憂えることでもないだろうか。
2008.01.30
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何が優雅な日々なのだろうか。それはその人次第でいい。誰にも決められないから好いのだ。勝手に決められたくはない。それを、決めたがる社会は、いい社会ではない。優雅であろうとなかろうと、それは変わりはしないだろう。自分でいいと思うことができる社会が一番豊かなのではないだろうか。できないことだから童話にもなる。うそをついて真実を語るのだ。 ・この社会はうそつきである。だからみんな虚偽なのではない。そのなかに真実がある。つくられた真実の中には真実はないからだ。なかは空っぽだ。宝は実体がないから宝なのだろう。簡単ではないから神秘的にもなるのだ。優雅であることは、果して美しいのだろうか?或いは幻想ではないだろうか。それこそ、すべてを失ったホームレスの暮らしが優雅なのではないか。乞食の生活が悟りの道だと説いたひとがいた。 ・へ2・・・山頭火は優雅な一生だったのかも知れないなあ。 うしろすがたのしぐれていくか なんてね。優雅じゃないか。アメリカ人にできるだろうか?
2008.01.30
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よくリスク管理ということを聴いたが、実際それがどれだけドラステックに実施されているかは極めて怪しいだろう。土台国の安全でさえ誰が本気でいるだろうか。最前線では違うというだろうか。多寡がそれだけで守れるはずもない。自慰のようなものだろう。会社も放漫経営を続けていたが、幹部は何もできなかった。何故か、現場を知らなかったからだろう。誰も自分の手を汚そうとはしなかった。知ろうとしないものに正しいデータが得られるわけではない。どんなに有能だろうと関係はない。寧ろそのことに気付かないほど能天気であったのだろう。 ・面白いことに手だてを知る人に権限が与えられず、口だけの適材適所が叫ばれてもいた。やがて水が枯れて、生物はバタバタと倒れて行った。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ことがあって動くのは賢い坊主ではない。現代は、多くのデータが氾濫しているが、何を求めるかであろう。その選択肢を誤れば、次代つなげなくなる。 ・へ2・・・リスク管理は、何のためにするかでもあるだろう。守るべきものが価値がなければ無意味になる。真実は容易に知ることはできない。それは、まだ知ろうとするもだけに与えられたチャンスでしかない。そのチャンスを生かすことができるだろうか。無防備なものはリスクに潰されるだろう。自分を取り囲むリスクとどう闘うのか、何から、自分を守るのかを知り、所謂「リスク管理」をどこまで拡げられるかでもあるだろう。
2008.01.30
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「時間」とは、「時」と「時」の間のことだろう。始まりと終わりがある。その時間は、見る視点で色んな時間がある。個人の小さな時間もあれば、個人を集合した時代という大きな時間もある。繊細なひとにとっては、果てしなく繊細な時だろうし、大まかな人にも、それはゆったりとした時の流れの時間だろう。寄せ来る波を見ていると、さまざまな波が押し寄せてくる。それは小波であり、ときには足元を洗う波にもなるし、人間を呑みこむ大津波もあるのだろう。地上に生きる生物も皆海の子孫たちである。 ・限られた時間は有限であり、ある意味生命はひと時の瞬時でしかない。昔こうして波を見ていたことがある。いつだっただろうか。そして人並みに妻子を持ち、いつ終わるとも知れない時間の中に自分がいる。いくつもの生命が、この世に生れ、そして散って行っただろう。私もまたその一片の藻屑でしかない。やがて跡形もなく肉体は滅び、脳も姿を変えていく。それは化学反応の因果律によって起きる1クールの生命現象の一つのプロセスでしかない。 ・へ2・・・自分が感じているものは決して自分だけのものはなく、これまで営々と築き上げてきた種としてのヒトの形質でしかない。自分は決して独りではない。ヒトの姿のプロセスなのだろう。それこそ地上にあふれたヒトの66億人分の1のクールなのだ。奢ることなく、卑下することもない。
2008.01.30
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バカの一つ覚えのように黒か白か、賛成か反対かで、政治が行われているのではないだろうか。国会では審議よりも成立か不成立かだけが注目されて紛糾している。だが同質の政党である自民と民主の二大政党になるのは反対だ。政党としての政治理念が不鮮明でもあるだろう。 ・政治の論争の結論が黒か白かで判断されるという単細胞な議員がいるのではないだろうか。テレビ目線ばかり気にしている議員もいる。問題の先送りばかりしていては、宿題を残すばかりではないだろうか。それと政治的構想も理論もないのにタレントなどが政治家になるのは反対だ。先日大阪府知事当選した橋下弁護士が、どんな施策を持っているのかの質問に「これから皆さんの話を聴いて、決めます」というコメントに驚愕した。それで、そんなことで赤字が解消されるのだろうか。これから有識者に意見を聴いていて間に合う筈もない。それこそ充分研究して、政治構想やプランをもって立候補するのではないだろうか。 ・へ2・・・橋下新知事は、弁護士でありながら、それくらいの識見しかないかと思うと、情けなくなる。それこそ肩書で仕事ができると勘違いしていうのではないだろうか。アホなコメントも・・・だからなのだろう。お寒い政治がつづいているが、そのつけが国民に回されるのは目に見ている話だろう。>遠景は、志賀島。<しかのしま>だが、馬や鹿はいない。
2008.01.30
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人間には性フェルモンなどないそうだが、まことしやかに使われる。兎に角著名人とか、タレントとか、色々ムンムンの人たちがブロガーになりブームらしいが、これは、だから、・・・でもないのだろう。ただのひとが描くから面白いのではないだろうか。メインはコミュニケーションだろう。他人との触れ合いが現実社会では減少して、社会人たちですら、会社と自宅との間を伝書鳩のように毎日を過ごしている人も多いと聴く。実際私も数年前までそうだったから実感もある。 ・世界中でインターネットの時代になり、一つの現象としてのブログがある。メモや日記として利用している人が、書き込んでおり、不特定多数の人が覗くことができる。うまく活用している人もいるし、訳の分からないブログもある。併し、どういうブログがメジャーなのか確立しているわけでもない。バブルだろうか。その利用価値がなくなれば消えるだろうし、多面性を持てば続くかも知れない。メモリーはいつまで残るのだろうか。突然消去されないとも限らない。それはアクシデントもあるだろうし、意図的にされることや、公権力でされるかも知れない。個人の考えがどこまで尊重されるかは、その時代によって異なるからでもある。 ・へ2・・・私は、取り敢えず、今は、過去を後悔しないこととこれからに絶望しないで生きようと思っている。明日は何か増えるかも知れないが。だから、今ブログを書くことに抵抗はない。誰が見ても構わないし、或いはこのブログで腹を立てる人がいたとしても、それは見解の相違であると思うことにしている。それぞれの立場があり、公共の福祉に反しない限りは、言論は自由であると考えている。ただの人が描くから陳腐になる時もある。それは、表現することが下手だからであろう。ことの重大さが変わるわけではない。これでも紆余曲折があったから、まとまりがない話ばかりで恐れ入る。しかし、ただの人も想いが表現されるというのは悪いことではないのではないだろうか。
2008.01.30
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海の中道から、志賀島へ。文字通り、「海の中道」なのである。島への橋が中道である。「志賀島」の由来は「ちかしま」、近い島だったというのだ。その近い島がいつか陸地にに繋がった。北側は玄界灘、南側は博多湾である。博多湾への出入り口になっている。昔の船乗りは、志賀島をみて、故国に帰ったと思ったらしい。その目印になった島でもあったらしい。万葉でも歌われており由緒のある島でもある。 ・その志賀島は、福岡市の一部であり、自宅が同じ区でもあることから気晴らしに行くにはこれくらい手軽な場所はない。夕陽を見に出かけたり、海水浴に家族で遊びに行ったりして懐かしい場所でもある。娘は自転車で出かけたりしていた。自宅方からは片道約10キロの位置である。冬は海風で寒いし、シーズンは一本道で車は混雑するしで、昔のようにはいかなくなってしまったが、時々行きたくなる。そういえば数年前の福岡西方沖地震で、島も被害を受けて、道路が寸断されて長く通行止めが続いてもいた。ようやく最近島を一周することができるようになったが、国民宿舎も休館したりしていた。 ・へ2・・・横浜にいたころ江の島に行って、志賀島を懐かしく思い出したりしていたが、江の島では橋の周辺はゴミで海が汚れていたが、志賀島は、砂浜も清掃もされているようで海もきれいである。多分シーズンオフでもあるからだろうが、海は汚したくないものだ。>海の中道。遠景が志賀島。
2008.01.30
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スポーツが純真だと思うのは、高校野球であったが、その高校野球もプロ野球の予備軍になり、その純真さも失せたようだ。高校をプロへの野球塾としか思っていないのではないか。それだけでは、拝金主義の片棒を担いでいる一般社会がある。セレブや豪邸に住むから、商社であり、サクセス・ストーリーだというのだから恐れ入る。そういう雰囲気つくりに熱心なのだマス・メディアなのではないだろうか。テレビ局であり、新聞社だろう。NHKもその一翼を担ってきた。産経が小泉政権に肩入れし、読売が福田政権に代替わりしたという。どうやら、それが「用心棒」なのだそうだ。 ・やくざ映画のようであるが、それが、通用している現実がある。真面目に勉学している者が報われず、朝から晩まで勉強もしないでスポーツしている者がスターになり、マス・メディアに持て囃されるのだから、コネもカネもない一般人は立つ瀬がない。ぶつぶつ言いながら尻馬に乗るしかないのだろうか。富の分配が偏頗なのだと誰でも感じている。それを変えられないのは政治が悪いのだろう。そして、それを黙過している私たちが悪いのでもある。 ・へ2・・・政治のドタバタ劇は、どこにでもある現象だろう。それは愚衆政治が根幹にある。そうさせているのは政治的な力の均衡であろう。そこでは、だれもまともではありえないということだ。スポーツでさえ道具でしかない。私ですら何かの片棒を担いでいるに違いない。それは正義のためであろうはずはなく、蒙昧であるにすぎないのだろう。>海の中道にて、志賀島への道。
2008.01.30
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宮崎に帰った元同僚が、久しぶりにメールをくれた。まだブログを続けていますかとのことだった。彼はM&Aで、自主退職をして故郷に帰った一人である。今は外資系の会社の仕事をしているようだ。管理の経験を生かして金融機関に再就職できたようだ。法手続きが分かるので、それを生かすこともできるのだろう。口ばかりの「ダラ管」ではなく、下積みでコツコツ仕事を覚えたことが次の仕事に役立つのだ。要領だけ良くても、日本の企業では食えても、外資ではそうはいかない。英語で指示があるから・・・とのことだった。 ・会社では、幹部がやるべきことを部下がやっていた。裁判所に出廷して会社の代理人として出廷するのは管理者のはずだが、幹部は自分では遣ろうとせず、部下に遣らせたから、何が問題かの究明ができないままだった。平社員は解っていて、幹部が問題の所在が把握できなかったのではないだろうか。得てして放漫経営とはそんなものだ。核になるべき部署が問題の本質を分析できなかったのだろう。彼は、外に出て、リーダーになったようだ。もう一人、鹿児島に帰り、転職して大手の損保で仕事をはじめた人がいる。彼も、どうにかやっているようだ。元々地元で仕事をしたいのに、会社の都合で転勤させられていた。それがどれだけ会社のためになり、個人でもモラールを高めることができただろうか。 ・へ2・・・それでも、会社は潰れるものは潰れるだろう。社会のニーズを見極める判断と、社員の意欲を引き出せなければ衰退する。面白いのは、萎れてしまうものとそうではなく、寧ろ生き生きとするものがあることだろう。そのときの常識が如何に一瞬の時間でしかなかったか、ということでもある。二人との再会を楽しみにしている。
2008.01.30
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なりたくもないけど。社交的なひとが羨ましいと思ったことはないが、偏屈で損したことが一杯あったに違いない。そういう社交的な人間は私には幼いころいなかったというだけのことなのかも知れない。一時あいての顔の見えない電話で喋るのが怖かった時があった。これではいかんと思った。どうも相手の話が重要だと思い込んでいることに気がついたし、それほど世間の人が利口でもないことを知って、安堵した。急に肩の緊張が解れる気がしたものだ。つきものが落ちたというやつだろうか。 何しろ、私は婆ちゃんっ子だった。今考えてみるとこの明治の婆ちゃんの刷り込みは相当なものであったと思う。 ・婆ちゃんの足の爪を切るのを手伝わされていたが、それこそ骨のような爪だった。(それはそれほど過酷な労働をしていた証ではないだろうか)婆ちゃんは魔法使いではないかと恐怖心をもった。本当の話だ。自分が寝ている間に、石川五右衛門のように「窯ゆで」にでもされるのではないかと思って眠れないことがあったくらいだ。朝起きてほっとした。それが不思議と起きている時は忘れていた。どうやら、婆ちゃんは、被差別主義者で、私が風呂に入らないと、風呂には入ろうとしなかった。遊び疲れて寝惚けている私をいつも叩き起こしていた。男尊女卑がこびりついていたのだろう。自分が入りたいので、「早く風呂に這入れ」が口癖だったから、何かあるのではないかと私は邪推したのではないだろうか。 ・へ2・・・婆ちゃんは高等小学しか出ていない人だったが、耳学の達人だったかどうかは知らないが、私の脳に雨垂れの如く、耳学の知識を沁み込ませてくれた。それは思想ではないが、何かの宗教ではあったかも知れない。よく「五木の子守唄」を歌ってくれた。 おどま 盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる おどんが打っ 死 んだちゅうて 誰が泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く おどんが打っ 死 んだら みち ばち 埋 ( い ) けろ 通るひと ごち 花あぐる 花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水 おどんがお父っつあんは あん 山 おらす おらすともえば いこごたる おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる ねんねした子の 可愛さむぞさ おきて泣く子のつらにくさ それを知る者の哀調を帯びたばあちゃんの声が脳の奥にある。懐かしい婆ちゃんの位牌が、両親と一緒にあり、毎日拝んでいる。
2008.01.30
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自分の脳で涙を流す力さえあればいい。脳が委縮して行き、やがてニューロンがネットワークを放棄することがあるだろう。人間には「ヘイフリックの限界」がある。感性は、夕陽の如く静かに消えていくだろう。自分の愚かさを嘆くことはあっても、まだ僅かに残る感動を弱めるものではない。ただ知る者は知り、知らないものが仕切っており、彼らが理解できないだけなのだ。海は青く澄み、空はどこまでも続いていても、人類の海は澱み濁りきっているだけなのだろう。汚染されたミクロの大海でしかない。何を嘆くだろうか、それは自分の吐き出す汚物だろうか。自分の目の濁りを思うのだろうか。恥じることはなかりしか。 ・柵を感じていないものにはコンパスがないだろう。ただの道具でしかない。この地球には66億人の人口があるが、やがて100億人なるだろうか。それとも何らかのブレーキがかけられるだろうか。温暖化にしても、止められないわけではない。その決意が世界のリーダーたちにないだけだ。やろうとしなければ何事も動かない。それがこの世界のルールでもある。選択でもある。絶滅か、生き延びるかの選択をしなければならない。おそらく、このままでは、人類は追い込まれてアポートシスをしなければならなくなるだろう。その選択があるかも知れない。何のための予見であるだろうか。 ・へ2・・・この素晴らしい自然をさえ見ようとしない人間たちがいるのは悲しい。日々の暮らしの中で自然の奇跡を感じないのは、神の奇跡を信じるのとどう違うのだろうか。日本人は無宗教のものが多いが不幸なのではない。寧ろ新しい人間としても可能性を秘めているのではないだろうか。それは宗教という呪縛を知らないからでもあるだろう。恐れを知らないものだけが、進む権利があるスペースがあるからでもあるのだろう。それを信じる。>海の中道から、博多湾より福岡市内を振り返って。
2008.01.29
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何故宗教戦争があるか分からないというほど、軽薄でもないが、時間をかけすぎるだけ、拘りが深くなることを憂う気持ちはあるだろう。それは民族の不幸に止まらないかも知れない。あるいは欧米を狂わせかねない危険をも孕んでいると懸念されるからでもある。それは誰もがもつ未来への漠然とした不安かも知れない。或いはヒトには、そういう予知能力があるのだろうか。自分の死を予感するものでもある。 ・自己否定といっても、自分たちの生きてきたルーツを消去してしまうことはできない。部分的に削除はできても、両親やその先の祖先たちの存在を無視することは、それはできない。どれだけ批判すべきものがあろうと、存在そのまでリセットすることは人生の否定になるからだ。それは、盲目的になることではない。あるがままに受け入れる許容性を持つという意味だ。学問を深くしても、拘りをもってはならないものと、拘り続けるものがあっていいものがあるだろう。併し、それは、宗教戦争を肯定するものではない。絶対神を信じるのは個人の内面の問題であり、その拘りは捨てねばならない。誰と付き合うべきかは選択の問題だ。偶然ではない。そこにその人の意志があり、信条があらねばならない。人生は、墓穴を掘ることではないはずだからだ。 ・へ2・・・自分が、どれだけのものか知らないではない。それでも知らない部分はある。これから自分がどう変わっていくかだろう。「男子三日逢わざればかつ目すべし」、という。どうも、女性も同じだろう。樋口一葉の例もあるようにジャンプがあるのだろう。しかし、それは、死を賭したものであった。世を儚んだ封建社会が存在したからでもある。夢を見ていいものと、そうでないものがあるのはヒトがもつ宿命でもあるだろう。生き残るために、捨ててきたものがすべて価値がなかったものばかりではないように、それは人間の温かさであったかも知れないからだ。私たちもいま目にしている物は一瞬のシーンでしかない。やがて、海は枯れてしまうだろう。それは、自分の肉体の水分がやがて無くなるように儚いものでもある。だが、忘れられないものがある。それは、自分が育ってきた人生そのものであろう。
2008.01.29
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Jan 29, 2006 愛に始まり野心に終わる 「ひとはしばしば愛から野心へ移行するものである。しかし、野心から愛へ戻ることはない」(ラ・ロシュフコーの「マクシム」) 戦争・飢餓・パニック・大災害などの極度の社会的混乱は、恐怖・疑心・自信喪失・無気力・狂乱の状態を惹起する。そこにあるのは意味など存在しない狂気であろう。然もそれは、コトの一つでしかなく単なる事象でしかない。ヘーゲル的な見方に立てばコトそのもの。 コトとは、次のようなモノを指す・事由、事宜、事理・事実、事況、事情、事象、事態・事件、事故、事変・事例、事項、事務、事業 ものの世界とは、客体としてのものと、事物化されたコトで成立つ。 「こころ」の多様性とは、・こころは、知・情・意の根本の働き・思考、志、思惟、思慮・中心・根本・思い遣り、情け・趣向、工夫 etc 感知・認識・思考の能力を意味している。想像力を豊かにし、知性を活性化することでもある。 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」が出てきたので、まあそのあたりの本であろう。それほど興味はないが、面白いフレーズが出てきた。「青春とは、絶えざる陶酔のことである。即ち、それは理性の熱に浮かされた状態なのだ。」 「おおかたの女性たちの才智は、自分の理性よりも自分の狂気を強めるのに役立っているだろう。」 どうも暗い室内で目を悪くしたのか、本が読めなくなったので止めるけど、
2008.01.29
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Jan 30, 2007 人命金 フランクの法史料において従士団は、国王直臣団という特殊な形で現れる。「サリカ法典」によれば、国王の従士団の成員は国王の保護下におかれて、三倍の人命金が認められた。従士の人命金は600ソリドゥスとされた。自由身分のフランク人の三倍の額だ。人命金とは、殺人に対して被害者の親族に支払われる賠償金のことだ。その額は地位や身分にに応じて段階付けられていた。Rectum est, ut qui nobis fidem pollicentur inlesam, nostro tueantur auxilio. Et quia illi fidelis, Deo propitio, noster veniens ibi in palatio nostro una cum arma sua in manu nostra trustem et fidelitatem nobis visus est coniurasse: propterea per presentem precernenus ac iobemus, ut deinceps memoratus ille inter numero antruscionrum conputetur. Et si quis fortasse eum interficere presumpserit, noverit se wiregildo suo soledos sexcentos esse culpabilem.(Formulae Marculfi,MGH Form.S.55)国王の手のなかで「臣服と忠誠」を誓う。宣誓後、国王直臣の仲間に加わり、以後国王の保護を享受した。さればゆかん、サンチョパンサよ!
2008.01.29
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梅花の頃 もう暖冬のために梅花の走りも早いようだ。ここ数日は寒いが一過性だろう。先日の福岡女子大の構内でほころびかけた梅花を見つけた。あちこちから綺麗な花弁も見えられている。 あちこちWEBを覗いていたらいつの間にか夜になってしまった。どこか梅花でも観に行こうかと思っていたが、あっという間に時間は過ぎてしまう。 ゲルマン人の観念によれば、部族の繁栄のためには、みなが共同で祭祀を行なう必要があった。というのは、つねに敵に対する勝利、豊作、狩猟の成功、健康、子宝などは、超自然的な諸力の善意と考えていたからだ。それゆえ、「部族のための」数々の祭祀、とくに供する犠牲である「供犠」が行なわれる必要があった。 タキトゥスのいう祭司の役目は、「へーグング」と民会の平和の維持と祈祷、供犠、神託のような祭祀の遂行、神々によって保護されている部族の秩序に反する犯罪の処罰だった。 厳しい冬の時代を学ぶことはある意味で、私たちの自由の価値を感じさせるものだと思う。 新しい定住地を手に入れると、ふつうその部族は、先住民と出会い、彼らと対決しなければならなかった。主な対決の方法には追放、隷属化、共生の三つがあり、それらの組み合わせは多様であり、また変化に富んだものだった。
2008.01.29
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期待は裏切られる。「二度と起きないように」と今度の今井NHK新副会長が述べていた。信頼回復というが、信頼されるだけのことをしてきただろうか。NHKがやってきたことが信頼されていたという前提がどうも怪しい。であれば、何が回復だろうか。癌化した新生物を摘出しても、既に癌細胞は脳まで転移してはいないか、重要な臓器まで癌化していないか。どうも、安直な物言いではないだろうか。それともその場限りのことだろうか。政府でさえ、口の奥にものが挟まっているようなことばかり言うではないか。 ・どれだけ個人が信頼される人物だとしても組織としてのNHKの体質が一挙に変わるとも思えない。明日から、どれだけ変わるというのだろうか。政府からどれだけ距離を置いて独立して居れるかでもあろう。それが無理なら、公共放送という名目をやめて、民間にでもなればいいのだ。公共料金まで徴収して、国民の利益にならないようなことをしているのではないか。ただ政府に媚を売っているような組織では意味がない。自分たちの汗も流さないで、くだらない情報を流すくらいなら企業から金でも貰ったらどうだろうか。 ・へ2・・・見せかけの公正中立では意味がない。土台出来る筈がない。それは戦前・戦後を通じたNHKの放送の歴史が示している。それこそ、ニュース専門チャンネルにでもなってしまえばいいのではないだろうか。総合放送などという得体の知れないことをやるから、インサイダーまでする社員が入り込むのだろう。>玄界灘。今日の午後の海の中道より新宮浜の眺望。
2008.01.29
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海の中道の周辺の玄界灘は冬でも若者たちのウィンド・サーフィンが見られる。ここは波が比較的高いためだろう。海も澄んでいて、この海岸から新宮までの海岸は、保安林であり、人の入らない地域でもあるため、とれも日本とは思えないような長い海岸線が見られる。その間には、広大な敷地を有する「海の中道海浜国立公園」があり、また福岡の着陸コースになっており、建築物の規制が厳しいため、比較的自然が残されているエリアでもあるのだ。 ・いつも志賀島に遊びに行く時、この周辺はいつもオンシーズンには人がいっぱいで、車を停めるスペースもないため通過している。今日は、白い波が立ち荒れ模様になっていて人影も少なかった。九州では数少ない国立公園のひとつで、九州のあちこちから夏場は賑わうレジャー施設がある。歴史的にも古代から知られた地域でもある。万葉集でも読まれ、元寇の襲来で有名な地でもある。 ・へ2・・・どうもこころにガスが溜まっているのは、いい景色を見て歩くのが我的浄化方法である。そういう意味では志賀島ドライブは、自宅から片道10キロくらいで、良い気晴らしになる。おまけに風光明媚であり、四季を楽しめるので有難い。今日は午後からガス抜きができたようだ。
2008.01.29
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ひとりで考えるというのは長く続けると独断と偏見にになるのだろうと思う。適度に他人との交流が必要なのだろう。ドライブをしながら、そんな事ばかり考えていました。シーズンオフの行楽地は誰もいないわけではないが裏の顔でもある。人多くてもオンシーズンの良さはあるに相違ない。格安だからとシーズンオフばかり海外ツアーもある意味、欠けるものがあるのだろう。匂いたつようなシーズンとはあるものだろうと思う。市場の小母さんばかりみているのでは、その国の美人を見損なうかも知れない。私は、志賀島や海の中道海浜公園には、それこそ子供が小さいころは、毎週のように遊びに行っていたので、シーズンのオンとオフの状況を知っているので、まるでオンシーズンとは違う空間をドライブしていると、そのことをおもってしまうようだ。 ・あの青い空と太陽が燦燦と降り注ぐころの光景をイメージしてしまうので、どんよりした冬空の然も曇天では物足りなく思ってしまうのだろう。まあ、今日のドライブは、1月下旬のころの気休めのドライブということで、あまり期待していなかった。それでも、海の中道の由来の通り、志賀島に架かる一本の道の博多湾と玄界灘の間にいると、そのダイナミックは光景に今更だが感動を覚えた。つい外国の風景にばかり目がいってしまうが、このポイントだって始めてみる人は、感動するのではないだろうか。自分のそばにこれだけの素晴らしい風景があるのだと再認識した。>和白方面から雁の巣を経由して、海の中道があり、数キロの長い一本道が続いている。直線で4車線道路なので、時々ネズミ取りがある。
2008.01.29
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海の中道までドライブをしてきました。風はそれほど強くもなく、冷たいほどでもなかったけど、流石に平日であり、ウィンドサーフィンしている姿も見えなかった。いつも店を開いている屋台も閉じていました。それでも数台の車が砂地の駐車場に駐車していました。この冬空に、ここまで独りでドライブするのはそれでも、私くらいででしょう。人がいないのを幸いに写真を波打ち際で撮りまくってきました。あとで、ぼつぼつ紹介します。やはり、陽光が足りない感じですが。 ・志賀島を一周しようかとも思ったのですが、今回は海の中道までにしました。もっと晴天で、春らしい季節になってからしようと考え直した。その代わり、いつも素通りしている西戸崎の町に行ってみることにした。(バイパスがあるので、西戸崎の町中を通ることはない。)香椎線の終着駅と、フェリーの船着場がある小さな町です。そこから、博多湾が一望できるし、福岡タワーや、福岡ドームが見えるからですが、あまり曇天でロケーションはよくなかったようでした。 ・へ2・・・若葉のころもう一度行こうと思いながら帰って来ました。帰宅したら、何回目かの熊本の中学の同窓会の案内が来ていました。4月にあるようです。4年に1度やっている。とするとオリンピックの開催されている年にやっていることになる。担当の先生の名前も書いてあるけれど、担任の先生の名前もあるので健在なのでしょう。それでも担任の先生はいつも欠席しているらしい。私は何度か出席したけれど最近は行っていない。何せ単身赴任とか、忙しかったこともありますが、電車で行くのが福岡からだと時間がかかるのと、車で行くと酒が飲めないこともあった。いまは禁酒中ですけどね。どうしようか?>海の中道の玄界灘の海岸。遠景は志賀島。
2008.01.29
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もう2月が見えてきた。梅花も咲きだした。体の奥がむずむずしだした。啓蟄は私の中では始まっている。さて、手軽に、まさにお手軽なドライブでもしてこようと・・・。白猫が外に出されて泣いております。どうやら人の気配がするので、家の中に入れて貰おうとしている。鳥渡寒いからでしょう。私は入れてやりません。もし、これが猫ではなく、人間ならどうするだろうか?変なことを考えてしまいました。若い女なら、鼻の下をのばすだろうか。それは、その時でないと分からないね。 ・その措かれた状況で人間は勝手な判断をするのではないだろうか。写真がブログに載せられない時は、あまり撮影する意欲が湧かなかったけれど、できるとわかると、多少無理をしても、あちこち行ってみたい所は結構ある。未だ、県の博物館にも行っていないし、太宰府の飛梅も、そのうちタイミングを失くすだろうし、冬牡丹も見逃すかも知れない。したいことがないわけではない。だから、どうなるということでもないが。 ・へ2・・・もう少し明るい陽光が欲しい。まだ春ではない。志賀島に行ってみようかと思っているところです。
2008.01.29
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どうですか。上の写真は美味しそうでしょう。これで昼飯ができたわけですが、雨が降らなければ写真でも撮りに出かけたい。何せ気が乗らない。スカッと晴れて暖かくならなものですかね。炬燵の中で、窓から見えるかなり強く吹いている冷たい風と、揺れる木の葉をみていると、現代科学をしても、この光景さえ再現でいないのだと思うと情けない思いもしないではない。動きまわったとしても、一日で地球を一周できるのでもない。勿論人工衛星はあっという間に4万キロを一周するのだろうけど、それは、別の次元での話でしかない。 ・取り敢えず、今できたての手作り。親父の作った<いなり寿司>味は、まだ食べていないから、分からないが、確か、具に人参とか入れていたと思う。にぎり寿司もサーモンとか、鯵とか、刺身をみつけて時々挑戦しています。お米ですか?最近は、菊池米から、矢部米に換えました。うちの奥さんは、料理が科学だということを理解していないようです。
2008.01.29
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またしても、むらむらと想像力が湧き、ならいいけれど。<イナリ寿司>をつくりたくなりました。いま、準備中です。レシピもみていない。妻から、「さしす」をごはんに入れて、ごまをかけて、具をつくるようにいわれ、アゲを砂糖と醤油で、甘辛く煮て・・・。さて、中断してできましたが、・・・途中で、味見がありまして、いま、写真の差し替えをしようと思って操作したのですが、どうもそれはうまくいかないのであとで、写真を載せることにします。 ・何せ趣味で生きているようなもので、気紛れです。思ってことを後回しにしないですぐやることにしている。勿論出来ないことの方が少なくないが、やれることもある。それがばかばかしいとは限らない。昨日できたことが、できなくなることもある。写真も思い通りにはなりませんが、方法はいくつかあるものです。執着するとできなくなったりもする。女子大の図書館に毎日のように出かけていた時はこちらは体調も良かったが、あまり目立つのも、と思い自重している。何せ女子大だから。それでも、意外と講座が多くて、そちらの方が行く機会がある。 ・へ2・・・物事は焦ると元も子もなくなる。狡猾である必要がないひとまであることはないが、知恵はいる。周囲の観察力を身につけないといられなくなる。私には、場所と云い、居心地も悪くはないスペースはいくつか残しておきたいからでもある。それがなくなれば、面白くない。偶には、もつ鍋や、いなり寿司を作って食べても非難されることもあるまい。
2008.01.29
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久しぶりに朝風呂したのは、少し暖かいと思ったからでした。風呂の窓を開けたら、外は強い雨でした。よく聴こえなかったので、それでかと納得しました。寒いと温度差があるし、朝風呂も遠慮していますが、入ると気持ちがいい。前にも書いたけれど、どうも長湯ができない。脈拍が早いので、何か長湯は苦手です。カラスの行水です。でもほんの数分間でも、その至福を感じます。癒しになるかどうかはわかりませんが、その瞬間は確かにあると思います。じっくりと味わって人生を楽しみ天寿を全うすることはなによりも幸福だという人もいるでしょうが、皆同じというわけではない。短いが完全燃焼ではないとしても、それだけ深く満足している人もいるのだと思いたい。それでも、ヘイフリックの限界からいえば、まだ限界を超えた人は第二次世界大戦後にはいないのではないだろうか。その前の記録は精確とはいえない。 ・視点を変えると相当世間の常識と、現実は違うのではないだろうか。誰も朝風呂に入らないではないだろうが、それは何のためだろうか。自分の健康のためだろうか。それで寿命が延びるだろうか。入りたいから入るだけでも気分はいい。 ・へ2・・・「名ばかり管理職」が今朝は話題のようですね。マクドナルドが「会社の見解は違う」というのは、通用するのだろうか?もし、本当に通用すると思っているとしたら、ぞっとするものがある。政府は、検討するとコメントしているが、本気だろうか。他の会社にも影響しそうですね。早く収集しないと、・・・と危機感をもったからだろうか。誰のための政策か分かりはしない。上の写真はいつも撮っている家の前の公園の欅の木ですが、定点観測だけではなく、下から撮ったらこんな感じで、空が見えた。できれば上から見たいですね。大地にへばりついた草のように見えるのではないだろうか。もしかしたら、詳細に空から撮ってある新聞社の写真にあるかも知れませんね。視点を変えてみることが、私たちには必要ではないだろうか。意外と見落としている物があるのではないだろうか。ひさしぶりの朝風呂で、頭髪のふけを落としました。
2008.01.29
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あいつは「腐っても鯛・・・」的な野郎だ。等と使うが、解釈も色々、ありだろう。元来は出自のことではないだろうか。一般化したので、応用編があるのだろう。「喰えないやつ」という意味?「腐ってしまった鯛」だろうか。鯛なのに、もう食えないというのもある。「おれは、腐っても鯛だ」などと威張っている阿呆もいる。そんな奴に限って他人の眼を気にしている。他人の目など気にしてはいないと言いながら小心者だったりする。講座で、一葉・芥川・太宰と読んできたが、何れも小心である。それは庶民がそうであったのではないか。そうなったのは、どうやら日本の社会システムにあるように思う。 ・日本の科学者が、真の科学者になれないのは、科学的認識が持てないからではないだろうか。それを変えない限り、のびのびした科学理論は出てこないのではないだろか。これでは、日本はいつまでも後進国だ。ようやく、1.3億人まで人口を増やしたが、これからは半減するまでに、どれだけかかるだろうか。江戸時代の人口は、現在の半数以下だった。今がどうやらピークらしい。ということは日本人の存在も、これ以上に世界の中でスペースを広げることはないということか。人口が増加していく国と、減少していく国がある。 ・へ2・・・それこそ「腐っても鯛」だろうか。それこそ、食われる「鯛」でしかないだろうか。それこそ長い歴史がしめしているように、頭を押さえつけられた国民が、小心であったことは慰めにはならない。あのちんけな富士山を見て感動するようでは、その高さの2倍以上もある高見には立てることはないのだろう。
2008.01.28
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朝珍しく3時前に起きてきたら、まだ娘たちは起きていた。これも平日では珍しいこと。PCを立ち上げようとしたら、スタートできない。スタートナビが起動している。これまで時間がかかっつてしまったから、いつもと同じになってしまった。またトラブルかと心配したが、どうにか、書けるところまでは来ることができたが、投稿できるだろうか。考えた見たら、これまでも色々あったから、インターネットが、案外、複雑なのだということを知るようになった。私は若葉マークだから、・・・では、通用しない。日本人が抱いているそれこそ多くのものや、それこそ精神にしても、勘違いがあるのではないかと思うようになった。それは、自分が見てきた対社会が、いびつな社会システムでしかなかったのではないだろうか?という疑問である。はたして、それは否定されるべきことだろうか。寧ろ、それは確信に変わりつつある。 ・PCが起動しなければ、投稿もできない。それを管理しているのはこちらサイドではない。媒体から先であろう。そして、私と言えば、そのシステムを使用させてもらっているだけだ。これから、どんな社会になっていくのだろうか。システムを使わなければ無力な存在でしかないだろうか。ローマ字入力をしているが、学生の頃英文タイプをやったおかげで、多少早く叩けるので、入力し易いが、ひらがな字入力しかできない時困った。ひらがな入力では、文字を探すだけで時間がかかり、集中力を欠いてしまう。何でも自分でしているわけではない。それは、そうさせてくれるものがあるからできるということでもある。 ・へ2・・・他のことはあまりしないが、食事の準備だけは手伝うようになり、少し女の仕事が分かってきたが、頭が悪くては効率のいい家事はできないということだろう。私が昨日の<もつ鍋>で、ニラを切るのに、ものさしで6cmの見当をつけるために置いていたら、これは何かと早速妻から訊かれたので、答えると、笑われた。料理は科学である。少しでもミスをすれば全体の出来が悪くなる。妙な料理ができてしまう。だから、台所に立たない女は、役に立たなくなるのだろう。知恵がなければうまい料理はできないのだ。庶民の女性は長く台所に立ってきた。だから知恵があるのだろう。それは物事の段取りを取ることが慣れているのだ。野菜の知識がなければ料理などできないからでもある。男は料理ができないので、妻が早く死ねば、長生きはできなかったのだろう。>室内のブーゲンビリア。一見淋しそうだが、とんでもない小さな芽をつけている。
2008.01.28
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odd eye の猫なのでして、居候猫です。もう5.6年になります。まだ、あまり紹介していないのであります。妻子が可愛がっているのですが、私には余り可愛くない。ただのネズミでない猫なのでして、私には近づかない。妻子がいるときだけ居候している。私が家長というつもりもありませんので、許しているだけでして、これがまた、彼だけが病気一つしない。犬2匹、猫2匹が、バタバタと死にましたが、生き残っている。 ・犬猫の間のサバイバルゲームがあったのか知らぬ。どうも<猫語>がわかないので定かではない。写真を撮ることもなく来ましたが、テストで撮ってみたのですが、目に色が左右で違いますね。だから、オッド・アイなのですがね。私と猫の距離は、常に2m以上です。そろそろ爺さんのはずなのですが、食欲はあるは、逃げ足は速い。「猫汁」にすると脅すのですが、一向ビビらない。でもこの前、妻と間違えたらしく、私の足に触りに来て、猫もぎょっとして跳びのきましたが、みんなで大笑いしましたが、どうやら目が悪くなっているのではないだろうか。 ・へ2・・・猫は家につくというから、妻子は友達で、私は、何に見えるのでしょうか。今度ゆっくり訊いてみようと思っています。
2008.01.28
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<もつ鍋>で温まりました。味噌と醤油で、前半は味噌味で、妻と二人で食べ、後半は醤油味で娘たちが食べております。少し食べ過ぎですが、体中が温まりました。寒い日には
2008.01.28
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マクドナルドの店長が、「管理職か」どうかの訴訟で、原告の請求通り、「管理職」に当たらないと判断して原告勝訴となったらしい。あのマクドナルドでさえ、過当労働をさせ、まともな給料も支払っていないことが明らかになった。名ばかりの管理職というのも、世間では多いだろう。管理職になって給料が減った話はどこにでもある。残業しても、残業時間に対する対価がない。管理職だからこき使えと何度も聴いた。やっと管理職になって、喜んだのも束の間で、それが、仕組まれた罠だと知るのは誰でも経験することではないか。 ・やたら管理職をつくり、企業戦士を過当労働と、低賃金で手足を縛られている管理職は多いのではないだろうか。この店長は、それを撥ね退けて、残業代を請求した。2年間の残業代(慰謝料)は700万円を超える金額だという。黙認していたら、一人の店長の2年分の残業代金がマクドナルドの利益になっていたことになる。全国で1700人店長がいるそうだから、単純計算では、総額で119億円になる。全国で、どれだけの管理職に支払われるべき残業代があるのだろうか、それこそ、それだけの権限の与えられないものが管理職としてただ働きさせられている。 ・へ2・・・この判決によって、これまでの給与システムが変わるわけではない。これくらいで、引き下がるような利益社会ではないだろう。寧ろ訴訟を起こした店長たちは、白目で見られるかも知れない。正しいことをしたから、皆から賞賛されるのでもないが、彼はできることをした立派な労働者であることには変わりはないだろう。裁判制度を利用することは、この社会では有効な手段であることは言うまでもないからだ。企業が、不当な利益を得ているからこそ、巨額の利益を出すのではないだろうか。それは大手であるほど、巧妙でもあるだろう。
2008.01.28
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今夜は、<もつ鍋>の準備をするために買物に。博多名物「もつ鍋」。「越後屋」本店とか、前の会社の近くにあったのでよく出かけた。娘が、最近博多で食べらしく、スープを買ってきたので、材料を揃えてきた。店のようにはいかないが、まあワイワイ云って食べれば、寒い日には温まるだろうと思う。<もつ鍋>も、博多にきて知ったが、冬には博多の定番である。 ・食材はキャベツ・ニラ・豆腐・牛蒡・蒟蒻・牛ホルモン。特製のスープがあるので到って簡単だ。だからどこでもできるのだろう。博多では<もつ鍋用のホルモン>どこでもスーパーで売っているが、よそではどうなのだろうか?その土地ならでは、美味しさもあるのだろうが、東京にも有名店があるらしいし、越後屋という店名からして、博多ばかりではあるまい。昼から雨が降り、写真を撮りにもいけない。九州一円は雨で、東に広がっている。東北は雪になっているらしい。北海道のひとのブログでは、かなり積雪があっている様子だ。どうやら荒れ模様の天候がつづいている。 ・へ2・・・会社の帰りに、よく皆と<もつ鍋>を一緒に食べに行ったが、もう随分昔のようにも思えてくる。20年以上も一緒だった人もいるが、いまはどうしているのか安否さえ知らない人もいる。ひとは、生まれ、生殖し、子を育て、移動して、死ぬ。移動は、人間社会につきもののことではある。思えば、人間の付き合いもはかないものだと思う。
2008.01.28
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どうも少しおこがましいタイトルになってしまったが、それでも特異だと思われるから書くのだが、余りに肺結核で死んだ作家が多いことと、一葉をはじめ生前大事にされなかった作家たちが多過ぎると思われることだろう。それは彼らが社会から敬意払われなかったという事情があったことではないか。死んでからでは遅すぎるのであって、作家が最大限の力を尽くしていないまま夭折している人が多いということだ。道半ばで逝ったのは作家だけではなく、読者にとっての不幸でもある。つまり作家が燃焼し、成熟した最高の作品を見ることなく、その機会を失ってもいる。短編で異彩を放つ作家もいるが、それはあくまでも<点>でしかない。 ・豊かな経験を持つ作家の話は面白いが、日本の小説が、どちらかといえば私小説が多いからだ。読者には身近でわかりやすいからでもある。併し、それは、余りに手軽なパステル画でしかなく、毛の生えた作文の延長ではないだろうか。余りにハードルが低過ぎて、タレントでも自伝ができてしまう。作家は皆一様ではないが、作品は同じようなステレオタイプばかりだ。心に強く響く、インパクトのないものばかりではないだろうか。何故だろうか。 ・へ2・・・日本の作家たちは、高い木の上の蓑虫のようにぶら下がっているだけではないだろうか。誰も振り向いて見上げる者はいない。高い所に自分の身を置こううとばかりしているのではないか。芥川賞や直木賞が目標ではないだろう。それは入口でしかない。学生たちが有名大学に入学することを目標に努力するが、入学したら勉学に熱意を失うように、一流の作品を残すことなく消えていく人が多いのではないだろうか。それは、読者たちが作家を甘やかしいる背景があるのではないか。厳しさのない選択がそうさせている。 ・独創性のある作品が豊富に出てこなければならない。それは、日本人が自分たちのタイプを破ることから始まるのではないだろうか。それは国境さえ乗り越えて広がるものでなければならない。人間は皮膚の色が違っても、同じ多細胞でできた形質をもち、争うのではなく民族が皆共存できることを提案できる作家でなければならないのではないか。
2008.01.28
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ひとはそれぞれのエリアの中で虚構と誠実さとの間を揺れているようだ。どちらに針が振れているかであろうか。日々も朝から夜のあいだである。すべてが始まり、そしてすべてのことが終わる。点を線に考えられるのは人間には記憶があるからだ。刹那で生きている動物もいる。人間でさえいつも同じ感情をもつのではない。虚構を作り自分を守ろうとする。許されるものと許されないものがあることを識別しなければならにだけだろう。そして誠実さも、自分に対してだけではなく、他人にもあまねくそれを証明できるかでもある。 ・作家たちが激しく虚構と誠実さを揺れつづける生き物であるかを見るだろう。彼らは何時までも虚構だけにいるのでないが、誠実さにも留まり続けるのでもない。読者を騙そうとさえする。それは、決まり文句のことばで表現されるようだ。松林は、幼い頃心を寄せた場所であり、古里の安らぎをさしていたりする。起伏の激しさがあるから、小説が書けるのかも知れない。決してウソつきではないのだ。誠実さにとらわれていては、小説は死んでしまう。 ・へ2・・・香椎に冬牡丹を見に行こうかと思っている。そのタイミングを狙っているが、そのふんぎりがつかないでいる。どうもそとが薄ら曇りで、太陽の光を浴びた美しさが得られないのではないかおもうこともあるから。こころを奮い立たせるものがまだ足りない気がしている。どうも慾張りだ。色々と注文を付けたがっている。どこでも読書はできるし、真理に近づくことはできるだろう。こころに怠惰が巣食っている。
2008.01.28
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今朝のニュースでいつも行っている大学が日本で大正末、初めての公立女子大だという。現在合格者の20%が辞退しているため、有識者に提言を求めていたらしい。共学にするか、どうか等の検討をしたようだ。女子大としての特色を生かして共学にはしないという結論になりそうだという。20%も辞退者がいるというのは、この大学よりも魅力的な大学が他にもあることだ。それだけ女子大の存在理由がなくなりつつあることは言えるのだろう。共学にすれば男子も入学して特色がなくなるのだろうか。寧ろ、反対ではないだろうか。この女子大には文学部と人間環境部の二部しかない。それが、辞退の理由でもあるだろう。滑り止めにテストを受けたのだろう。入学したくて受験したのではないのではないか。 ・それこそ、反対方向の方針が出されるのではないだろうか。文学部で、現実社会でどれだけ働けるのだろうか。恐らく研究者になるか、教職くらいなのではないだろうか。人間環境部にしても、大学院にいかないと通用しないでは魅力はない。入学し易くしたところで、卒業してつぶしのきかないようでは、入学者は減るに違いない。公立法人のメリットは、授業料が私大より廉いくらいでは、学生が辞退するのは当然のような気がする。 ・へ2・・・大学の敷地も狭いし、歴史は長いがスケールも教職員が200人弱の組織である。こういう大学が現代のニーズをどこまで消化できるのだろうか。こじんまりとした大学の良さというものがあるのは間違いがないだろう。こせこせしたところがないおおらかさが好きである。それは、「親方日の丸の意識」があったからでもあるだろうか。それが、そうはいかなくなり、有識者の提言を期待したのだろうが、どうも、それは他人任せではうまくいかないのではないだろうか。大学サイドが必死になって取り組まない限り、良いアイデアが出てくるはずもない。学生たちが日ころ何を考えているのか、受験生の大学への期待がどこにあるかを真剣に考えねばならないだろう。
2008.01.28
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人も物も、その見ようによっては、美しくもあるし、醜いかも知れない。白人社会になれたひとが、非白人をどう思うかはその生い立ちの環境でどうにでも変わるに違いない。それは責められないが、それはだからそれでいいということではない。人間性の問題にもなる。人の品格にもなるかも知れない。ある女性の白人兵士が、捕虜になった日本兵の前で、「裸になっても恥ずかしくない」といったという本を読んだことがある。「彼ら(日本兵)は、人間ではないから・・」。これは、昔の皇族が、裸になり、体を洗ってもらっていた下僕に対するのに似ていると思う。差別意識の所以だろう。これに対して、ある評論家が、「そんなことは、上流社会の人はいわない・・・」と、弁明していた。言った言わないの話ではない。白人社会のそういう差別意識が問題なのだ。 ・判っているようで判らないひとはいる。そして、平気な顔をしている。知らないふりをしている。それが一番の強敵だろう。本当は知っているし、内面では感じてもいる。併し、それをおくびにも出さない。そうして君臨しようとする。「君臨すれでも統治せず」だ。それを「支配」とは決して言わない。やんわりと相手にわからせる。それでも判らないようなら、強権発動である。そうしてイギリスは中国を植民地にしようとした。植民地時代は、そうした人間の弱みに付け込んだ政治でもあった。 ・へ2・・・キリスト教は、政治や国家権力を利用して世界制覇を狙って行動したのだ。それが彼らの宗教活動でもあった。国家の国益と宗教の布教が協力したのだ。それは隠しようのない事実だろう。すべてが明らかになったわけではない。またぞろ復古調がある。何故か。それで多く利益を得るものがいるからだろう。人の欲望は油断のならない強敵である。ひとは善意だけで生きてはいない。寧ろ人は悪だという西欧思想だ、より多くの富を手にしている。血に飢えたるものが多くを収奪したのだ。>福岡市東部。
2008.01.28
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自分の思いや気持ちを伝えるのはことばの専門家でさえ難しいとつくづく思う。お喋りがうまく、自分を表現しているかというとそうではなく、寧ろ背中でものをいう無口の方が雄弁かも知れない。生活が単調になり、自分が心理的な失語症になっていくような気がしないでもない。そして、どれだけ、個人としての自分が表現できたとしても、それは66億人分の1なのだということでしかない。ひとりの人間の存在など、「ひとりの人間の生命は、地球のそれよりも重い」というのは比喩でしかない。 ・こうして、朝起きて気づくのは数年前の自分ではないということだろう。(或いは、昨日までかも知れない)。それは、頭皮に触れるとわかり、手足を動かしてみると明らかにわかり、呼吸をすれば鈍感な私でさえ感じるほどの変化でもある。自分では気づかないか、気づこうとしないかは判らないけれど、硬化している。というより、日々老化しているだろう。それは、確かに、数年前から、耳の奥で聴いている足音でもある。 ・へ2・・・強がっても仕方だない。現実を有体に受け止めるしかない。私の話したい人たちと、心の交流をしたいと思っているのではない。それは自分の慰めにはなるのだろうが、井戸端会議がしたいとは思わない。それはしたい人たちがやればいいだろう。私は、一人っ子で育ったからいつも独りだった。周囲は大人ばかりで、話し相手は「同行二人」のように生きてきたから、自分の中にいた。別に寂しくはない。「狼少女」のように狼に育てられたわけではないし、両親や、親戚や、僅かだが友人たちもいた。それでも、孤独は連れ添った一番の友だったかも知れない。孤独が寂しいというのは、嘘ではないだろうが、それは、そのひとの全部ではない。耳を澄まし、目を開ければ飛び込んでくる生き生きとした自然がある。四季折々の自然の躍動がある。それはダイナミックであり、わくわくさせるものだった。それは、じめじめとした生活でも、失語症的生活でもなかっただろう。寧ろ、そちらのほうに気を取られていただけなのだろう。教室よりも外の方が好きだっただけだ。その気分は今も変わらない。
2008.01.27
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人の住むところと、草木のあるところと、西欧は違うのだろうか。もっと身近な所に東洋では人間と草木があるように思う。それは信じる宗教にも原因があるのかも知れない。人間を中心にした世界が造られたと考えるからだろう。もう日本人と言っても西欧的な思想を持つ人も多くなっているし、自然を敵とした考えをもつ人たちも増えているだろう。多神教というわけではない。いまは21世紀だ。だが、祖先が信じたDNAが脳の中に刻まれてもいる。それは時には、人を迷わせるかも知れないが、私たちは脳外科のように、それを切り分けるメスをもってもいる。繊細な感性を持ち、これから生きていこうと思い続けてもいる。いつか、帰ってくるだろう。旅の果てに・・・。 ・日本の自然が残っている限り、古里はあるのだ。
2008.01.27
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以前とはまるっきし反対の過ごし方だ。それも「あり」の人生だから、面白いとも言えるし、悲哀もなし、としない。考え方次第だろう。「良い人生ですね」といわれれば、「そうではない」と私はいうに違いない。だが「哀れですね」といわれたらどうだろうか。「そうですね、私は哀れな人生でいした」素直にお応えられるだろうか。それほど大きな人間でもない。自分自身の思いもその時々で違いもする。いいとも思えるし、くだらないとも僻みもする。 ・何も確信などありはしない。よく世間が見える時と霞んでしまいもする。その時に、何をするのだろうか。その時次第ではないだろうか。だから弁解を先にしておこうというのかも知れない。ひとの思いなど大したものではない。好きが嫌いにもなるし、嫌いが好きにもなる。好いと思ったのに嫌いなことが目につきだすと嫌気がさす。だから可愛いなどと安直にいう女性は危ないのではないだろうか。あとで、仕返しされることになる。今日は調子がいいと朝から思うと、昼から土砂降りになる。 ・へ2・・・無心であることは、非情でもあるという。非情は必ずしも悲惨ではない。あるがままなのではないだろうか。物理でもある。人間の思いとかけ離れたところに自然があるだろうか。それにしては、美しい。日本人のこころは、ユダヤの民に比べて浅いだろうか。「幽玄」とか、「雅び」とか、「わび」とか「さび」とか、それは、よくわからないが、到る所に何かが溢れているのではないだろうか。それを受容する精神の鍵を見つけられないだけではないだろうか。日曜日の落ち着かない一日が過ぎようとしている。
2008.01.27
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他に楽しむことと言えば、それほどあるわけでもない。だから楽しめることは大切にしたいと思う。ネガテッブ・マインドに負けないために、生きる知恵が必要だ。自分なりの真の楽しみのためには、マイロードがなければならない。個人の受容体には、自分しか開けられないカギがあるのだろう。そのメカニズムを知らねばならない。それが現代という時代に生きるものが知った得難い知識でもあるのだろうと思う。 ・過去の人は、現代を見ることができずに散っていったのであり、私たちは大いなる恩恵の中で生きているというべきだろう。そして、未来に憧れてもいる。限られた時間の中で、この光を楽しむかけがえのない瞬間を喜ばずして、何をかいわんやであろう。どれだけ苦しみながら他人は生きているのだろうか。それは想像することしか知りえない。その人も喜怒哀楽はそのひとのものだからだ。苦しみや怒りの中から、ひとはより深く、喜びや楽しみを得るのだろう。易々と生きる者にはその感動を知ることはない。世の中を軽佻浮薄であるものはそれだけの世の中である。 ・へ2・・・自然を深く愛する者は、より深く喜びを味わうのではないだろうか。苦労したものには、深い眠りがあり、深い水底を蹴って、水面高く、飛び上がることができるに違いない。深い悩みは、人間をより思慮深くすることだろう。今日は、あちこち小さな春を探してみた。>玄関横の南天。
2008.01.27
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自然に順応して人間は生き延びたのであって、人間が自然を克服したのではない。人間の驕りには果てしがない。自分のことを過信して尊大に振舞う人がいるが、あさましいというべきだろう。雑草でさえ、光をあてさえすれば宝石のように輝いて見えるものだ。まだその価値を知らないだけだろう。何かを支え健気でさえある。一人の人生もそうではないだろうか。自分が凡庸だとしても卑下することは何もない。 ・人としてあるべき生き方を謙虚に学び、他人とともに生きようとさえすれば、やがて道が開けると信じたい。アメリカの大統領選が注目されている。殊に民主党でのオバマ候補とクリントン候補の争いの行方が、これからのアメリカの伏線になるのだろうか。少なくとも暫くは紆余曲折が予想されるだろう。直線ではなく、スパイラルだろう。予断を許さぬ現実を忘れてはならないと思う。 ・へ2・・・軽佻浮薄が一般的な社会になっている。安易な判断が、人々を苦しめている。容易に落胆しない強い精神を鍛えねばならない。それを自然に学ぶことができるだろう。自然に親しむということが、そのことを必ず教えてくれるだろう。草花を愛することができれば、人間をもっと好きにもなるのではないだろうか。歪んだ価値観が、世界を覆っているのではないだろうか。
2008.01.27
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うまく書こうとするから書けなくなるのであって、西鶴のようにお喋りのつもりで書いていれば、そのうち自分の書いたいことも見えるかも知れない。あろうとするからありえないことをしてしまう。福士が初めてのマラソンに転んだようだ。転んだから言うのではないが、挫けることがないとジャンプできない人間は多いのではないだろうか。しかして、それが容易ではない。大抵そのまま萎れてしまうひとが多いのだろう。多くのマラソン選手たちは、日頃絶望しながら練習をして、自分の限界を知る。そして、徐々に長く走ることを覚えていく。42.195キロという距離は、人間の生命の限界をも超えるものだろう。これだけの長距離を走れる生物は陸上ではいない。 ・トラックで早いからと云って、マラソンで勝つとは限らない。他人より多くを経験していないものが簡単に越えられるような話はない。そして「慌てる乞食は貰いが少ない」、結果になりがちだ。数字に拘りを持つ中国の経済成長は10%以上を5年続けたというが、それは何かの犠牲の上で、達成したかも知れない。その反動が必ずあるだろう。いいことは必ずしもいいばかりではない。それが強調されるだけで注目されることが多い。偉大な毛沢東思想も随分影が薄くなった。その蔭隠されていた問題があったからだ。持て囃される蔭には何かあるものだろう。田中角栄の列島改造も、池田の所得倍増も、当時は持て囃されたが、あとで問題が山積した。小泉純一郎も同じではないか。 ・へ2・・・日本人の脆さが際立つのは、安易に持ち上げるからだろう。そして、高い所に押し上げておいて梯子を外すようなことを平気でする。そういうことをする奴を追及すべきなのだ。そういうやつを叩くべきなのだろう。堀江貴文や小泉チルドレンを持ち上げた連中がいた。マス・メディアが毎日のように報道していたことは、まともな報道だったといえるのだろうか。寧ろ偽善的だった。そして、梯子を外した。
2008.01.27
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どうもPCにバカにされている。漢字が出てこない。アホになりそうだ。どうやら、言葉が喪失され、漢字が消えている。それこそ、愚衆化の陰謀が進みつつあるのではないだろうか。使う言葉がすぐに出てこないというのは、親切とか、不親切の類ではない。そうさせようとしない操作があるのだろう。いまテレビで日本の女子バレーボールの中継があっている。大型の選手たちの中で、取り巻かれた普通でいえば小柄でもない男の監督が映っている。違和感が無くなってのはもう見慣れているからだろう。ファッションシーでも、でかい女性が奇妙は服を着ている。それをおじさんのデザィナーたちが指図している。自分でその服を着るためではない。服を売るのが目的であり、それが仕事なのだろう。 ・どうやら、まともではいられない、これまでの世界観や、価値観や、識見がひとびとから遠ざかっているだろうか。人々は仕事をするために、その仕事を自分たちで創りあげようとしてはいないか。それは本当は無為ではないのか。遊ぶために苦労しているのだろうか。痩せるために運動をし、仕事をしているというのか? ・へ2・・・よくわからない。分からないスペースを理解できているだろうか。何のために高校野球はあるのだろうか。たった数名のスター選手を作り上げ、それを大リーガーにするために、多くの選手が挫折感を味わうというのだろうか。そのスター選手を指をくわえてみていろ、というのだろうか。それが「社会」だというのだろうか。>白川水源に水缶を持っていきました。
2008.01.27
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