ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2023.05.31
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山川捨松は大山捨松になり、鹿鳴館の貴婦人になっていた。小説「不如帰」の「人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」のヒロインの浪子の実家で継母にいじめられるその継母が捨松がモデルだったという。それは事実と違い、虚像だったようだ。捨松は、日本人女性で最初に大学を卒業したひとであり、さらに看護婦の教育も受けたひとで、隔離などしたのは、当時肺病の伝染を怖れた処置だったようだ。捨松は日本赤十字社のボランテイア活動をするなど日露戦争当時のアメリカの世論は日本びいきでもあった。日本の総司令官の夫人がアメリカの大学の卒業生と報じたからだ。アメリカの寄付金は捨松のもとに送られ慈善活動に使われた。当時としては画期的なことだ。


 それこそ鹿鳴館の仇花ではない。蘆花が脚色しただけだろう。それにしても津田梅子が亡くなり、その後捨松が女子英学塾を塾長の就任式までしながら、その翌日から体調を崩し、60年の生涯を閉じているのは惜しまれる。それにしても岩倉使節団の留学生の一人として当時捨松は12歳であった。10年の留学を終えて帰国したが、待っていたのは失望であった。


そして、捨松は日本語を殆ど忘れ、考え方もアメリカ的になっていた。男尊女卑の風潮は、高等教育をうけても女性の活動できる場がなかったからだ。日本語の文章が殆ど書けなかったという。それでも立派に最初の留学生としての仕事を遣り通したといえるだろう。異質な経歴を持つ捨松への偏見が虚像をもつくりあげたのでもあろう。


 指摘されるのは、岩倉使節団の首脳が戊辰戦争の官軍側であったのに対し、女子留学生の親がみな賊軍の娘たちだったということだろう。捨松は8歳の時会津戦争で家族とともに若松城籠城して悲惨な体験をしている。その時弾薬運びをして手伝い、義姉が砲弾に当たり亡くなるのを目の当たりにしている。まれに見る根性の据わった人でもあったのだろう。





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最終更新日  2023.05.31 12:20:21
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