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久しぶりに世田谷区を歩いた11月10日…… 多宝塔裏の稲荷神社にご挨拶をして出てきました。 たった一つだけ蕾……寒椿かしら? 右・多宝塔と左・本堂との間……巡らした路地のあちこちに工夫がされています。 湧水があるのか? 水を引っ張ってくるのも一苦労でしょう。 右上には多宝塔正面…… 本堂側面に向かうと……石?岩?が立っているけど意味は不明です。 千手観音かな? 井戸……境内にはこの他にもあります。水には恵まれていた証です。 井戸の脇に「五三の桐」……他所でもみられたこの紋章。曹洞宗大本山永平寺の紋は「久我竜胆」で総持寺は「五七の桐」。 天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原攻めで北条氏を滅ぼしたとき。親戚であった吉良氏も滅びる。下総国に一時避難した吉良氏朝は、世田谷城が廃城となっていたために当地に戻るも実相院で隠居生活の末に亡くなったという。氏朝の子頼久は家康に取り立てられるのだが、なんで豊臣家の紋章が使われているのか、今の私には解明されていません。秀吉とは関係ないのかも? 南に走る多宝塔と本堂との間の道…… 左に本堂…… 右に多宝塔…… 多宝塔正面を本堂に向かうと…… 本堂左側面奥に何やら…… 千手観音の後ろに当たります。 道祖神……肩寄せ合って仲良し すごい手水鉢だな~…… きっと道路から見た裏門に行く道でしょう。 と言うことで、今日はここまで……実相院は第5話までありますが、本堂は明日登場します。《おまけ》 今日の空……10時7分 10月31日時点でのコロナによる「入院・療養中」は6,106人で、「うち重症」は161人だったのに、昨日は「入院・療養中」21,144人で「うち重症」462人……1ヶ月で「入院・療養中」が3.46倍・「うち重症」が2.86倍と大急増。医療が追い付かないのに未だ決断をしない都知事。菅首相もなんとかしてよ。第1波では不足していたマスクもいきわたっているけど、それでもこの状況。ハンマー&ダンスなんて言うけど、ハンマーじゃ足りない。1分1秒でも早く大鉈を振るわないと命も経済も両方壊れますよ。
2020.11.30
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世田谷区上馬から弦巻を抜け、桜なんてところを歩き、宮坂って所を訪問した11月10日…… ネジの永井……だって。当日は、地元で夕方に知人と待ち合わせがあったので、ちょっとズルして時短で駒留迄バスを利用した私ですが、降りたらネジ屋さん。 特段必要ではないけど、好きなんだな~ こういうの…… 環七の陸橋を曲がって駒留通りに入ると「区立駒留公園」……ちょっとだけ冬の気配。 駒留陸橋から1㎞ちょいだろうかしら……左に寺院らしき気配……街路樹は、まだ赤々としてたのね~ 寺院の長い塀の途中に……「禅宗のお寺なのね」……予備知識を持たずに訪問する私です。 曹洞宗 実相院……立派な山門と思いきや、寺号碑には「北門」の文字。山門は後で分かることに。 北門扁額……山号は鶴松山…… 同寺の開基は吉良氏朝(きらうじとも)、またはその子頼久と伝えられるようで、寺号は、実相院:氏朝と、鶴松院:夫人の法号から付けられたそうです。氏朝は小田原攻めで上総に逃れた後、再入国して家康から世田谷に1120石を与えられたから考えられる。 北門からいつものショット……丹誠に造られた境内に期待が高まります。 左側…… 右側……あちこちに多数の石灯篭が配されていました。 北門を入ってすぐ右に……鳥居発見!! 細いけど敷石があるから「行け」ってことだよね…… すぐ脇にも広めの通路…… せっかくだから細い鳥居の道から…… 突き当たると岩に囲まれた左奥に……どうやって行けばいいの? お稲荷さん……なんとか二礼二拍手一礼 多宝塔……稲荷の前から 良き姿です。以前すぐそばの浄光寺や世田谷代官屋敷には行ったのに、なぜこちらへ寄らなかったのか? 遅まきながらだけど拝見できて良かった。 平成24年(2012年)に完成したそうです。 多宝塔横から……本堂は樹木の向こう 赤くなった紅葉を見に行きたいけど、今年の再訪は断念…… 奥の稲荷社からはこちらの道を戻りましたが、往復路が別に設けられているのはコロナ対策じゃないですね。ちなみにここにも燈籠がありますが、境内にある徳川家10数基は元々増上寺や上野寛永寺にあったものだそうです。実相院以外にも多くの寺院に配られているとのことですが…… ということで、今日はこれでおしまい。
2020.11.29
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不要不急の外出は自粛だけど、モーニング往復程度では足腰がなまってしまうから今日は散歩に行こうと……なので超簡単日記! いつぞや、居酒屋でお会いした知人が、店主に紙を借りて万年筆でお書きになりました。すごいのは竹or笹……線を書いた直後に指の腹でこすってカスレを描く技法は初めて知りました。絵心もある方とは存ぜず失礼しました。「できました」と、見ていた店主もさっそく自宅に戻ってやってみたようです。みなさんも試してみてはいかがでしょうか。 ちなみに、この万年筆は高いらしいですが、非常に書き心地がいいものでした。ペン先は24金なのかしら? 学生時代はインク瓶を前にしてつけペン派の私。ガラスペンも良かったけど、使い込んで先が程よく削れたGペンが好きだったな~ でもって、少し寂しいからと後日 勝手に色を塗らせてもらいました。水性色鉛筆を水を含ませた綿棒でのばしてチョチョチョッとです。模型用に買っておいたから使いたい色数がなくて不満足だけど、酔っぱらいながら塗ってるんだから良しとしましょう。店主が額を仕入れてきて飾ってくれました。 今日の空……8時47分 田向公園の空 さてさて、散歩に行きましょうか……
2020.11.28
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今持つべき目的は、何か素晴らしいことをしようというのではなく、酷(ひど)すぎる状態になってしまうのを避けることです。 エマニュエル・トッド 民主主義は対立する複数の意見を許容するものである以上、危機に際しても「完璧な解決策を期待してはいけない」と、フランスの歴史家は言う。それを乗り越えようにも「政治的な無秩序の度合いが変わる」だけ。何かに救いを求めるのでなく、もたつきながらも「泥の中を通り抜ける」ことが肝要だと。『大分断』(大野舞訳)から。 (朝日新聞・折々のことば2005・2020.11.26) 11月13日の日記で『11月3日の「入院・療養中」は6,576人で、そのうち「重症」は163人だったが、11月12日の「入院・療養中」は9,791人で、「重症」は226人と急激に上昇していることは火を見るより明らか』と書き、危機感を抱いていたが、あれから2週間(11月26日現在)で「入院・療養中」が18,692人で、そのうち「重症」は410人……23日間で「入院・療養中」は2.8倍、「重症」は2.5倍と急増しているにもかかわらず踏み込んだ決断をしない政府や都知事。 医療関係者からは逼迫具合が日々伝えられ、分科会の尾身茂会長は「人々の個人の努力に頼るステージは過ぎた」「感染拡大地域とそうでない地域の行き来を控えるのは必須」だとし、政府や自治体への対策強化を訴える。 それでも、動かざること山の如しの菅首相……「風林火山」の一番目は「其の疾(はや)きこと風の如く」だが、スピード感なきことにはまったく当事者意識が感じられない。昨夜の記者会見でも「この3週間が極めて重要な時期」とし「皆さんと一緒に感染拡大を何としても乗り越えていきたい」と呼びかけた菅首相だが、トラベルの質問には答えなかった。恩恵に与れるGo Toトラベルのみならず、「そこから出ないことが非常に重要」と語る尾身会長の言葉通り、不要不急の外出自粛を強く求めるのが国を預かる政治家の責務だろうに。「東京からの出発まで止めると事業そのものの意味が薄れる」と考えているのだろうが、不公平感の大きなこれら事業と国民の命とどちらが重いのか。病床数を増やす、保健所で働く人を600人増やしたと言うが、感染による入院患者が増えればその他の治療が受けにくくなるのは経験済み。第1波の最中、コロナではなかったがなかなか引き受けてもらえず数日の自宅待機後、やっと入院できたがあっけなく亡くなった方を知っている。「早く診てくれていれば」と無念を口にする奥さんだが、このままいけば来月にはパンクするだろうし、同じようなことが起こる。 Go Toイートのプレミアム付き食事券の新規発行を9都道府県が一時停止とのことだが、農林水産省が地域に検討を要請していた結果だ。トラベルも地域の感染状況に応じた検討と対策を積極的に要請すべきだろう。出ていくことも含めて「トラベルは国の政策」などと意地を張らず、風の如きの決断を都知事には求める。 そう言えば、接触感染アプリCOCOAはどうなっているのか? すっかり耳にしなくなったが、スマホを持っているGo To利用者には強制しているのか? トラベルも食事券もインストールしていなければ購入資格がないとしているんだろうね。やってないか~ 朝刊にあった週刊ポストの広告『菅首相「2500人 後援者パーティー」は政治資金収支報告書不記載だった』……会費1500円、高級ホテルで支援者を接待。「ゴルフコンペ」も「成田山バスツアー」も7年間報告なし。だって……事実なら同じ穴の貉(むじな)……どうも元気がないと思ったら、悩み事があったのね~ 毘沙門天の根付け……二村亮正作 もったいないから未使用だけど、寺院巡りをする際は携帯していくか。仏法を守護する神様だものね。
2020.11.27
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元麻布善福寺の周囲を歩いた10月21日の最終回…… 一本松坂を南に、元麻布ヒルズのちょっと先……なんで渋滞しているか? この先の仙台坂上交差点が6差路だからでしょう。ちなみに、仙台坂を越えると9月30日に歩いた薬園坂を通り、明治通りを渡ると白金高輪駅……なんて書いても連れ合いは歩けないだろうな~ 余談はさておき、目的地直前…… 麻布氷川神社……社号碑には「郷社」……神仏分離となり、明治4年(1872年)に氷川大明神から「郷社 氷川神社」となったと。村社の一つ上の社格だけど、麻布総鎮守ゆえに住民の出生や住所移動の際には守札を発行するなどの行政機能を持っていたそうです。さすが、江戸時代には「江戸七氷川」に数えられた神社です。渋谷氷川神社で勉強しました。ちなみに、郷社の文字が消されたようになっているのには、何がしか理由があるのでしょう。 港区七福神……毘沙門天と言えば、戦国武将・上杉謙信は自分を毘沙門天の化身と信仰し「毘」の旗を掲げて勝ち戦を重ねたことで有名です。 ちなみに、港区七福神は麻布と六本木の6社2寺をめぐる6㎞ほどのコースだそうです。6+2=8 ?? って思ったら十番稲荷神社の「宝船」が付いています。神社の方が多いから私は今一魅力を感じませんが……大法寺とここをクリアーしたから、残り6か所を巡るにはショートカットできそうです。大昔、半年ほど六本木で板前修業をしたけど、どこへも行かなかったから迷子になりそうだわ。 鳥居をくぐると左に本堂と正面に社務所……『1992年当時社会旋風をおこしたアニメ”美少女戦士 セーラームーン”の「火川神社」巫女・火野レイが住んでいる神社のモデルとなりました。(同社HPより)』だそうです。私は全く知らない。「月にかわっておしおきよ」ってやつか? 「なんや知っとるやんけ~」と連れ合いから言われそう。 麻布氷川神社社殿……『938年(天慶の年 朱雀天皇の御代)、源経基(みなもとのつねもと)朝臣が天慶の乱(平将門)を鎮定したがため東征し際、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(現・麻布一本松の地)に創祀・創建されました。……豊臣時代から”一本松の松の木”をご神木とし周囲には宮村町、宮下町、鳥居坂町、一本松坂下町など麻布氷川神社を中心とした町名が広く在しております。』(同社HPより) 江戸城を築城した太田道灌が氷川社を崇敬していたので勧請説もあるようです。 やっぱり後方にフォレストタワー…… 社殿前から鳥居…… 社殿が鉄筋コンクリート造りなのに対して神楽殿は古いまま。これだけ戦火を逃れたのでしょうか? それにしても珍しい覆いです。 右に神輿庫……関東一円でも有数な千貫神輿と呼ばれる宮神輿が収まっているらしい。昭和15年(1940年)までは牛二頭に引かせて巡行し、荘厳たる姿を披露していたらしい。現在、宮神輿巡行復興に向けて奉讃を募っています。甦るといいですね。 ※ 一貫=3.75㎏だから、千貫は3750㎏……クラウン2台分は重い! 牛2頭で引けるのかしら? 境内、道路側……手水舎左脇は区保存樹・クスノキ 手水舎……小学生の下校時刻でした。 稲荷社……仙台藩主伊達氏ゆかりの稲荷社 江戸時代の松平陸奥守 仙台藩下屋敷内(現在の南麻布1丁目)に祀られたのが始まり。廃藩後に麻布竹谷町でお守りし、昭和初期からはこちらの境内にご遷座してお祀りしていると。 應恭大神を祀る「應恭稲荷神社」と、高尾大明神を祀る「高尾稲荷神社」 小さな祠ですが、霊験あらたかなことでしょう。 氷川神社の御祭神を忘れてました。「素戔嗚尊」「日本武尊」でした。 有栖川記念公園の南側入り口前……麻布氷川神社を後に、もよりの坂をもう一つだけ寄ることに。 南部坂……『有栖川記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)』 昔は各藩の下屋敷で、今は多数の大使館。住むには良い所なんだろう。 大した坂ではないけれど…… 籠を担いでこの坂を上っていったのかしら? ご苦労なこってす。 と言うことで、10月21日の散歩はおしまい。次回からは11月10日の散歩です。 しかし日暮れが早くなりました。今度歩く時は午前中に出発しないとダメそうです。
2020.11.26
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元麻布をブラブラした10月21日…… 一の橋に向かって下って行く大黒坂……途中左に大黒天を祀る大法寺があります。ちびっ子もきちんとマスクしてた。 大黒坂の頂上らしい……すぐ先は変則4差路 写真中央の電話ボックスのすぐ左にひょろっとした松が一本!!! 重要な松でした。 大黒坂の延長で左にカーブしていきます。まったく知らなかったのですが、由来となっている一本松が写真左上に……燈籠もちゃんとあります。知っていたらきちんと全景を撮ってきたのに情けない私でした。 一本松坂……『源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。』と書かれているのに、その場で読まずに歩くからダメでした。いつも反省はするんだけど…… 平将門を討伐にやってきて近くの民家で一夜を過ごした源経基は、装束を改めて出立した翌朝、脱いだ衣服をこの一本松にかけたとか。もちろん現在の松は植え替えられ、何代目からしいが。 当時、源経基が創建した麻布氷川神社へも寄ってきたが、この一本松付近まで広い社地を保有していたとのこと。ここまで境内だったのかしら? 本当に変則な交差点だけど、大黒坂は右から上ってきて、ここから左に一本松坂。正面にワゴンがある所が暗闇坂。でもって、その左の横断歩道を入っていくと狸坂ってのがあるらしい。坂標はもっと先にあるみたいです。坂はまだまだあるから、そのうちに麻布界隈の坂ばかりを歩きに行こうかしら? 大した坂じゃなさそうだけど…… 暗闇坂……『樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。』……途中まで行ってみたけど、右にカーブしながら麻布十番商店街へと下って行くみたい。 暗闇坂から見ると、確かに坂道と分かる大黒坂・一本松坂の正面に…… 長傅寺(ちょうでんじ)……浄土宗の寺院で、山号は一本松だと。林哲和尚と言う方が寛永5年(1682年)に創建したそうです。石段はクローズだったし、なんとなく入りにくかったのでここで合掌して失礼しました。 何とも言えない景色…… 元麻布ヒルズ……周囲はお寺だらけでしたから、上から見るとお墓だらけのことでしょう。 ハロウィンのディスプレイはもうないんでしょう。《独り言》「桜を見る会」問題で、前日に開かれた夕食会の「領収書発行」が明らかとなるや、今朝の新聞では『安倍氏側、補填認める』と。 首相時代の安倍氏は「安倍事務所も、また後援会にも一切、入金、出金はない(だから、収支報告書への記載は不要)」「事務所側が補填した事実も全くない」「(ホテルからの明細書も)発行は受けていない」と国会で答弁していたのだが、一転して秘書が事務所による食事会費補填も収支報告書未記載も認めたと報じている。 国会で問題になった当時、秘書は「安倍首相に虚偽の報告をしていた」と説明したという。また、秘書が安倍氏に事実を伝えたのは地検特捜部が捜査をしているとの報道がなされた23日だったと言うが、にわかに信じがたい。過ちがあったとしても、捜査など大掛かりになる前に正すことがリスクマネージメントの常識であり、秘書が安倍氏に隠してるとは思えない。当時から感じていたが、秘書の説明を聞いた上で「ない」「ない」と否定をくり返す答弁を決めたのは安倍氏と推測する。 その上で安倍氏が執ったリスクマネジメントは、告発に備えて検事総長に黒川氏を起用する対策。国家公務員法に基づく定年延長の特例を持ち出し、定年を迎える黒川氏の勤務延長の閣議決定だった。残念ながらその構想がとん挫することとなり、思い悩んだのだろう安倍氏は突然病気を理由に辞任。いずれ捜査の手が伸びるだろうと覚悟はしていたろうが、結果は秘書の責任で幕引きというところか。 本当に秘書が隠していたとしても、結果的に全国民を前に国会で嘘をつきとおし、国会を空転させた安倍氏の罪は思い。「秘書の過ちは政治家の責任」と始終耳にするが、安倍氏にはその潔さはないだろう。『森友問題 事実と違う答弁139回』……2017~2018年に行った国会答弁でこの数字。「廃棄した」「残っていない」と、結果的にたくさんの記録が残っていたのに虚偽答弁だらけが判明した国有地売却問題。嘘をついても、文書改ざんをしても有罪とならずに出世する佐川宣寿前財務理財局長。これとて安倍政権が徹底して国会を軽視した証だ。国民を愚弄するのが楽しいかのように思えてしまう。 コロナウイルス感染者の急増にともない、やっとのことで札幌市と大阪市を目的とする旅行が3週間トラベル事業の対象から除外された。戸惑う都民・県民をよそに、東京と愛知では見直しは決まっていない。「見直しは各知事の判断」とする政府の姿勢に不信感を持つ。感染収束後に実施する予定を7月に見切り発車したきりで、「状況を的確に判断し、臨機応変に対応する」とする付則条件はその場限りの口だけ。 専門家の分科会提言により、やっとのことで見直しを発表したが、札幌、大阪両市を出発とする旅行は割引対象のまま。当初東京都を両方とも対象外としたのはなぜだったのか。新型コロナウイルスの震源地となった武漢を考える時、「武漢へ行くなら割引しないけど、武漢から来るなら特典使えるよ」と言うこと。観光業界には厳しいかもしれないが、本気で収束させるつもりがあるなら双方クローズにすべきだろう。 今後の感染状況の予測は困難だが、状況に応じて先手先手で運営方法を見直せないような情けない政府であって欲しくない。結果は未検証だが、2月末に全国の小中高一斉休校を突然求めた安倍前首相の政治決断力だけは評価しておく。責任のなすりあいをせず、菅首相にも毅然とした決断を期待する。 たわいにないことを、またブツブツ書いてしまった。
2020.11.25
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元麻布の善福寺を中心に、ぐるっと巡った10月21日…… 大黒坂の中ほどに、坂の名前の由来となったお寺…… 榮久山 大法寺……日蓮宗 掲示板に今月の聖語『法華経は明鏡の中の神鏡なり』……『鏡の前に立ったとします。あなたの顔、映っていますよね。でも不思議に思いませんか? 一番身近にありながら自分の顔は鏡を通さないと見ることができません。同様に私たちの生き様自体も自分では見えているようで実は見えていません。私たちの姿がありのままに見えているのは仏さまのみです。その仏さまの目を「神鏡」というのです。そんな私たちが「神鏡」に映った我が身を見る術は、素直な心で一心に仏さまに手を合わせる。この一点に尽きるのです。(日蓮宗いのちに合掌HPより)』 大法寺本堂……慶長2年(1597年)11月の創立で、開山は慈眼院日利。関東大震災で焼失し昭和14年11月に再建したが、昭和20年4月15日の戦災で再び全焼。昭和29年に仮建築の本堂・庫裏を再建し、昭和42年11月に増改築。創立月の11月にこだわって来られたようです。 子ども用かしら? これなら私にもダンクできる。 本堂扁額は大国天……江戸時代は赤門寺と呼ばれていたと。 表から撮っていたら、ご住職が出て来られ「どうぞどうぞ…」と上がらせていただき、お話をくださいました。ありがたいことです。 本堂正面の左側には大勢の大黒様……江戸時代より麻布一本松大黒天として地域に親しまれていると。それぞれ古いものです。 みなさんが触るから黒光り……「どうぞ撫でてください」と促され、私も撫で撫でしてきました。コロナの時代に大丈夫かしら? 一応、本堂に上がった時に指の消毒はしましたけど……おさわりも写真もOKなんて珍しいです。 米俵が3つは珍しい……出会ったことはありません。ちょっといやらしいけど、やっぱりアレを表現しているとご住職が教えてくれました。女性には言わないのでしょうが……でも「子宝大黒天」って書いてあるわ。 顎鬚(あごひげ)はやしてるのも珍しいかも……それぞれ表情が違います。 5世妙乗院日亮が伝教大師作と伝えられる三神具足の大黒天を祀り、縁日にはとても賑わったとのことですが、現在もご開帳の正月には行列ができるそうです。三神具足の大黒天は、写真右隅に隠れながら写っている厨子に納められています。とても小さく黒くなっていると。三神具足とは、七福神の中で仏教の神である三神「大黒天の福寿」「弁財天の円満」と「毘沙門天の除災得幸」をその姿があらわしているそうです。大黒天の小槌を持ち、弁財天の髪に毘沙門天の鎧を身に着けているのかしら? 江戸時代の小槌……古銭がぎっしり入っていて重い重い。振らせていただきましたが、現在の小銭とは明らかに違う音がしました。柄は少々ぐらついていたものの、振っても蓋がはずれないのは江戸職人の技術でしょう。 鬼子母尊神はご開帳……古くて小さい。千葉から来たそうです。左の扉に「正中山」とあるから「中山法華経寺(市川市)」から譲られたのかも。 私の記憶が正しければ、鬼子母神は日蓮宗・法華宗の寺院で拝見します。法華経の守護神なのかもしれません。 優しいご尊顔の鬼子母尊神……左手に子どもを抱えているから子安鬼子母神とでも言うのでしょうか。「右手に持っているのはザクロです」とご住職が教えてくださいました。鬼子母尊神が魔障を払う「吉祥果(きっしょうか)」なる果実らしく、お経がインドから中国に渡った際、漢訳されたのが「吉祥果」。ところが訳した人は実物を見たことがなかったのでザクロが代用されたそうです。間違っていたらごめんなさい。 本堂左…… 墓石でしょうか……檀家は持たないとおっしゃっていたけど…… 正一位稲荷大明神……鳥居もそうとう古い。年代仰っていたけど忘れてしまった。 左の木は珍しいと思ったら「桐」保存樹。 左に置かれている「東光」は山形のお酒……ご住職もお酒好きなのかしら 稲荷社の脇に…… 門前は大国坂…… 正味30分にも渡ってご説明をくださったご住職に感謝いたします。機会があったら、今度は連れ合いとお邪魔させていただきましょう。
2020.11.24
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10月21日に元麻布をブラブラ……まだ暖かかったな~ 麻布山善福寺を後に山門を出てみたけど、私には縁のない街…… 存在を知らないから意味なく撮ったけど、中央分離帯のような所(Uberの背中)に小さな小さな「きみちゃん像」ってのが…… 野口雨情の童謡『赤い靴』に登場する少女は実在をモデルに書かれたと。『少女は、岩崎かよの娘、きみ。幼い頃に母親と離ればなれとなった末に孤児院に預けられ、結核に侵されて、横浜から汽船に乗ることもなく、母親との再会も叶わず、わずか9歳で亡くなってしまったそうです。かよは、最愛の娘がアメリカに渡って幸せに暮らしていると思い込んだまま、生涯を過ごしました。(麻布十番商店街HPより)』 なぜここにきみちゃん像が置かれているかと言えば、きみちゃんの最後を看取った孤児院が麻布の鳥居坂教会(跡地は現在の十番稲荷神社)にあったからだそうです。 横浜・山下公園で『赤い靴はいてた女の子像』に会ったのは1年前でした。 東日本大震災の発生から9年半が過ぎた本年9月11日での行方不明の方は2,528名。津波でアメリカに流された少年少女もおいででしょう。改めてお悔やみ申し上げます。 パティオ十番……っていう辺りなんだって 十番稲荷神社を事前に知っていたら寄ったかもしれませんが、私はきみちゃんが向いている坂道へ…… ここで大失敗をした私……目前、カーブミラー対面の山門を見落としました。とても奥深い路地のような参道からは伽藍の気配は察せなかったと記憶しています。本堂は善福寺麻布山会館の後方になるようですが、曹洞宗の寺院で、賢崇寺(けんそうじ)とのこと。浄土真宗ではないのが不思議だから、機会があったら……またの日に。 大黒坂(だいこくざか)……『大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。』……「大法寺があった…」と過去形だけど今もあります。(次回登場予定) 東から西に上っていく大黒坂の途中に、北へ下る道の坂標が…… 七面坂(しちめんざか)……『坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木造が安置されていたためできた名称である。』……現在の本善寺は桜田通り脇にあるみたい。そばの袖ヶ崎神社は遠景で撮ったけど、近所にいくつか寺院があるから今度ぶらっとしてみようか? 七面坂は下らず、大黒坂の左側に…… 業者さんが入っておられるようなので、ささっと…… 徳正寺山門……こちらもきちんと「浄土真宗本願寺派」と明記。善福寺の寺中寺なのかしら? 松本山 徳正寺……釋道教が結んだ庵室が始まりで、寛永15年(1638年)に寺号を得、寛保3年(1743年)から当地にあると。善福寺参道に並ぶ寺院より、少しだけ遅いです。 親鸞聖人がお出迎え…… ご本尊は阿弥陀如来でしょう。南無阿弥陀仏…… 大黒天を祀る大法寺は目と鼻の先…… こんなところで目にするとは……段差でお腹こすらないかしら? しかし大きな口やな~ ということで今日はこれでおしまい。《おまけ》 今日の空……11時29分 柿の葉もすっかり色づいて… 私の歩く所など、さほど人出はないだろうがおとなしくしていよう。皆さんのご健勝をお祈りします。医療機関にかかる負荷を増やしませんように……
2020.11.23
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10月21日に訪問した麻布山善福寺の最終回…… 墓地入り口を入った所に親鸞聖人像…… 親鸞聖人の向こうに逆さイチョウ…… 墓地入り口を入ってすぐ右に「越路吹雪の碑」……お墓があるわけではなさそうだけど、なんでかしらね。 とてもきれいな黒御影石なので、愛の賛歌は読めません。もう一人のお顔は岩谷時子さんかしら? 個人的には、愛の賛歌はエディット・ピアフの方が好きです。 鐘楼…… 今頃はモミジも色づいて奇麗だろうな~ 開山堂手前も奇麗だろうな~ 残念ながら読めません…… 開山堂……はじめは真言宗の蔵王権現として開かれ、古く麻布郷の鎮守だったと。了海上人の父(大井光福寺住職)が子授けを祈願したのが蔵王権現だった。大井の蔵王権現かと思ったけど、こちらなのかしら? 蛇足ながら、後方の元麻布ヒルズもかつては善福寺の所有地だったらしい。 中興開山の了海上人像や豊臣秀吉の朱印状なども収蔵されていると…… 開山堂扁額……またまた蛇足ながら、開山堂脇には福沢諭吉ご夫妻のお墓があります。その他、有名人のお墓も多数あるようですが墓所内撮影禁止なので撮りませんし、そもそもウロウロしません。 開山堂から見る親鸞聖人像と逆さイチョウ……墓所内撮影禁止をちょっと逸脱して申し訳ございません。 言葉にならない…… 本堂前境内のイチョウ…… 本堂前から参道…… 勅使門(中門)…… たいへんお邪魔しました……大満足でした。本当は、紅葉の景色を見たいのだけど、人が多いだろうから諦めます。また機会があったら……《おまけ》 久しぶりの唐ヶ崎電波塔…… 今日の空……9時46分 西小山駅近く 新型コロナの感染者数は、東京や大阪なども過去最多を更新し、全国合計も初の2,500人越えとなった昨日。3連休の初日がどうだったかと思ったら朝刊を広げてビックリ。鎌倉小町通り、金沢近江町市場、京都嵐山に名古屋城などなど人であふれた写真が。20日から開始されたプレミアム付き食事券の購入にも長蛇の列ができていたが、マスクはしていてもソーシャルディスタンスなんて置き去りの光景には開いた口がふさがらない。 そんな中で、Go Toキャンペーンの運用を一部見直すとようやく重い腰を上げた菅政権。しかし、対象とする感染拡大地域の具体的な場所や、開始する時期・期間は未定だと。分科会も医療専門家も月初から警鐘を鳴らしていたのに、「3連休明けに発表できるよう調整を急いでいる(西村経再相)」と遅すぎる対応には幻滅。「鬼滅の刃」ならぬ「幻滅の刃」ってのを向けないと政府は変わらないのか。「国民の命と暮らしとを守るのが政府の最大の責務」と発する菅首相の言葉は口だけか。 退陣まじかだった安倍首相は、8月28日に行われたコロナ対策本部後に「今後の季節性インフルエンザ流行期も見据えた、新型コロナ感染症の新たな取組方針を取りまとめました。」と誇らしげに語ったが、何の役に立ったのか。政治家は結果が全てと言うが、2ヶ月強前よりも事態は悪化している。コロナが終息してから開始するはずだったGo Toを思い付きのように前倒しした責任も忘れてもらいたくない。経済も重要だが、成り行き任せではなく信念を持った施策を願う。それも早急に…… 散歩に行きたいけどどうしようかな? 都内の寺社は観光地ほどの人出はないだろうけど……思案中……
2020.11.22
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大井の光福寺を訪問した時から「行ってみなければ」と決めていた善福寺……10月21日の散歩…… 善福寺本堂……東本願寺八尾別院大信寺に始まり、周り巡って明和4年(1767年)の本堂が今ここに。恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる阿弥陀如来像が御本尊らしい。南無阿弥陀仏! ※ 恵心僧都=平安中期の天台宗の僧だって。 本堂の右に……事務所かしら? 亀子臺……亀子台なのかしら? 「麻布山」以前の山号は「亀子(きし)山」と号したようだから名残かもしれない。 麻布山会館……葬儀式場みたい。 み~つけ!! とってもありがたかった。 本堂前の境内中央に立派なイチョウの木……お目当ては違うんだけど…… 最初のアメリカ公使宿館跡……東京都指定旧跡 安政6年(1859年)、初代アメリカ公使館となってタウンゼント・ハリス公使以下館員を迎えたと……せっかく日米友好を深めたのに…… 足元に……『此の碑は、日米修好通商百年にあたり、同記念行事運営会が復元したものである。昭和35年5月12日』と彫られています。 本堂の左に鐘楼があって…… 墓地の入り口正面に「親鸞聖人像」……逆光だったからアップはなし。でも第3話でお姿は登場します。 善福寺の逆さイチョウ 中央の石碑には『祖師聖人御杖銀杏樹』……親鸞聖人が、貞永元年(1232年)に善福寺を訪れた記念に持っていた杖を地にさしたら枝葉が繁茂したと伝えられるからでしょう。「樹齢750年以上で都内最古の古木であり、国指定の天然記念物」と説明書きにあるけど、800年以上じゃないのかしら? 左の石碑には『善福寺ノ公孫樹』……銀杏を「公孫樹」とも書くのね。中国名なのかしら? 孫の代に実がなるってことらしい。 幹周り10.4m……雄株で、根がせり上がって枝先が下にのびているから「逆さイチョウ」って呼ぶそうな。 ありゃりゃ…自分が写っちゃった。ちゃんとマスクしてるよ~ 枝分けをして育てられた大井光福寺のイチョウ同様に「乳根(ちちこん)」がある。さすがに兄弟だわな。 昭和20年の東京大空襲は本堂が全焼するほどだったけど、これはその時の被害だろうか? それでも今も健在……全景を納めるのは難しかったけど雄大な姿は第3話で……《おまけ》 円融寺阿弥陀堂前……今頃は善福寺のイチョウも奇麗だろうな~ 今日の空……8時43分 田向公園 さてさて、今日は何をしようかしら? これだけ増え続けると散歩も怖いしな~「静かなマスク会食」だとか「5つの小」だとか言ってないで決断してよ。国民の命を守ることが一番の使命でしょう。「神のみぞ知る」なんて論外!!!
2020.11.21
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元麻布を少し歩いた10月21日……もう一ヶ月も過ぎちゃったんですね~ なんと早いことか…… 善福寺山門……参道両側に浄土真宗本願寺派の寺院が並びます。しかしフォレストタワーはでかいな~ どう考えてもタワーが邪魔。お住まいの方々には申し訳ないけれど…… 勅使門……文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名。 昭和20年(1945年)の戦災で消失……昭和55年に再建とのこと。長い年月を要しました。二度と戦争を起こしませんように。 いつものショット…… 平安時代・天長元年(824年)、唐に渡って真言を極めて帰国した弘法大師が真言宗を関東一円に広めるため、高野山に模して開山したと。都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院らしい。 勅使門をくぐると左に手水舎……その向こうに鐘楼 麻布山善福寺本堂……弘法大師が開いた真言宗寺院だったが、鎌倉時代(1260年代と勝手に推定)に同寺了海上人が、流されていた越後から訪れた親鸞聖人に惚れ込んで浄土真宗に改宗。宗教も自由だものね。 本堂扁額…… 了海上人なる人物は、品川区大井の天台宗寺院・神宮寺に生まれる。当然跡取りなんだろうけど、本当に親鸞聖人が好きだったようで、文永2年(1265年)に浄土真宗に改宗し「光福寺」と改称しました。 8月に光福寺を訪問した際、境内の大イチョウは善福寺から一枝を譲り受けて植えたものと知ったのがこちらを訪れるキッカケでした。同寺の逆さ銀杏は今度載せますが、親鸞聖人が立ち寄った記念にと持っていた杖を地面にさしたところ枝葉が繁茂したと。弘法大師の井戸といい、信じる信じないは人それぞれですが…… 亀山天皇から勅願寺とされた善福寺は『安土桃山時代(1568~1600年)の浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦い(石山本願寺と織田信長が戦火を交えた一向一揆/石山合戦)で、当寺は大阪石山本願寺に籠城する僧に援軍を送りました。乱後、豊臣秀吉は関東を平定すると、天正18年(1590年)、当寺に寺領保護を誓約しました。(同寺HPより)』……麒麟がくるの時代か~ ※ 「勅願寺(ちょくがんじ)」=天皇や上皇の発願いによって、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された寺だそうで、勅願寺となれば寺領が得られると。 浄土真宗は金色が好きなのかしら?……キャスターが付いているのは意外 本堂左脇……正面幅約28mに対して、奥行きは約34mと奥深な本堂。 2002年竣工のフォレストタワーと、明和4年(1767年)の本堂 この本堂の歴史がスゴイ!!……始まりは東本願寺八尾別院大信寺の本堂。天明の大火「天明8年(1788年)」によって東本願寺が焼失すると、同年から寛政10年(1798年)まで東本願寺へ移され御影堂として役を勤める。翌年、八尾別院に再建された。何故かは不明だけど、そんな由緒ある本堂が昭和36年(1961年)にここ善福寺に移設されたと。 ということで、今日はここまで……《おまけ》 鶏肉とエリンギ茸の炒めもの……ズッキーニとネギも入って、上品なお味でした。今日も贅沢しちゃいました。ごちそうさま~ シネマカフェには空気清浄機が登場しました。 5つの小……「少人数」「小一時間程度」「小声」「小皿に分ける」「小まめなマスク、換気、消毒」だって。今更のようなことしか言えないのかな~ 今日も500人越えの東京都には特効薬はないんだろうが、いつになったら決断を思い切るか……
2020.11.20
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10月21日の散歩…… お目当ての麻布山善福寺訪問……勅使門まで両側には浄土真宗本願寺派の寺中寺が並びます。現在もここまでが境内なのでしょう。フォレストタワーが威圧しています。 和光 山元会……町会かしら?『麻布山善福寺門番所』の札の横に「山本町会事務所」……昔は寺の門番がいた場所なのかしら? 立派な寺号碑…… 寺号碑の後ろに…… 右の石碑には「最初のアメリカ公使宿館跡」 左の石碑には「開山弘法大師創立・親鸞聖人御舊地蹟・初代米國公使館趾」……どちらかと言えば私は南無大師遍照金剛派ですが、弘法大師と親鸞聖人とが並んでいるのには不思議と楽しい気持ちになりました。 なぜ併記されているか?『平安時代の天長元年(824年)に弘法大師によって開山されました。鎌倉時代に当寺を親鸞聖人が訪れ、迎えた了海上人は、親鸞の高徳に傾倒し、一山をあげて浄土真宗に改宗しました。(善福寺HPより)』 蛇足ながら、同じ石碑で「蹟」と「趾」とを使い分けた理由が知りたい。 ※ 「舊」=古い/以前の/元のなどの意味 昨日スルーした金蔵寺前の柳の下に…… 柳の井戸……「井戸」と名付けられているけど、「湧水」の採水場所…… 楊柳水銘……って書いてあるのかしら? 区の文化財……大切にしましょう。 弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手にしていた錫杖を地面に突き立てたところ、たちまち噴出したんだって。お蔭で鹿島にあった霊泉と呼ばれる7つの井戸のうち、一つが空井戸になってしまったとか…… 柳の井戸は、平成15年1月に東京都が発表した「東京の名湧水57選」のトップを飾っています。 57選に名を連ねる、④目黒不動尊 ⑥清水窪弁財天 ⑦旧六郷用水 ⑨等々力渓谷・不動尊 ⑪岡本静嘉堂緑地は以前訪問しましたっけ。 影が映ってしまった……災害時には救いになったことでしょう。 中央の▼の所に湧き出ていました。南無大師遍照金剛…… 善福寺勅使門前…… 残念ですが、続きはまた……《おまけ》 今日の空……12時36分 昨日は散歩の支度をしながらも、なんとなく断念。コースは決めてあるから行けば良いんだけど、日々更新されるコロナ感染者数を目にして足踏みしています。歩くだけなら大丈夫でしょうが……困ったな~ 東京都の新規感染者数は昨日の493人に続き、今日は500人を越えるみたい。警戒レベルも最高にするようだから都庁が赤くなるのでしょう。経済も大切だけど、病院のことも考えてくださいね。レベルを上げるだけで、なにも具体的対策をとらないと外国みたいになるよ。
2020.11.19
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元麻布1丁目の寺社と坂を歩いた10月21日…… 専光寺前の道を行くと……すでに左側は当日のメイン=善福寺…… 通路を塞ぐようにしているのは善福寺・勅使門への石段…… 善福寺へとはやる気持ちを抑え、ちょっと遠回り……正面にあるのは善福寺ではありません。 善福寺勅使門を背中にして東へ延びる道の両側には寺院がひしめいています。さながら「門前寺を成す」!!! それも「浄土真宗本願寺派」オンリー!!! 西本願寺村とでも呼びたくなります。寺中(じちゅう)・寺中寺あるいは塔頭と言うのだろうか? 昔は確実に善福寺境内だったのでしょう。 前の写真の右側手前から…… 善通寺……善福寺の弟子善通防が慶長12年(1607年)もしくは元和元年(1615年)に建立したと。 2番目に善光寺……こちらも善福寺開基了海上人の弟子・了遵上人が文保元年(1317年)に開基。親鸞聖人が善福寺を訪れた際に塔頭寺院として建てたそうです。モダンな迦藍ですが、第二次世界大戦で焼失したため再建されたのでしょう。 どの寺院もきちんと「浄土真宗本願寺派」とうたってあります。 善光寺の先にも…… 光善寺……『天正11年(1583年)、本願寺11代門主顕如上人のご教導により僧、明藝(みょうげい)、武蔵国世田ヶ谷上宿に一宇を建立し、松本山光善寺と号す。後、藩主の命により芝に寺域を移すが、寛文年間(1661~1673年)、第6世宗善が麻布山善福寺、第17世永海上人の長女、亀女と結婚。善福寺領を割譲され新たに堂宇を建立し、専修念仏の道場として、法燈連綿、現在に至る。』(同寺HPより) 阿弥陀如来……『あらゆる命を平等にお救いくださる阿弥陀如来は、「なもあみだぶつ」の声の仏となってこの命にいたり届き、私を仏に転じてくださる仏様です。』(掲示板より)……南無阿弥陀仏…『「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり』……「自分の心によってつくりあげた信は、自分の都合で変えることができ、また現実によって崩れるので真の依り処(よりどころ)にはならない」と、加來雄之(かくたけし)大谷大学教授は仰る。『法然が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。親鸞の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。』(「歎異抄(たんにしょう)」真宗聖典639頁)……私が信じる心は他力・如来のはたらきによるものだと。ただただ如来の呼びかけに耳を傾けなさいと言うことでしょう。 振り返るとこんな具合……手前から「光善寺」-「善光寺」-「善通寺」 3寺院ともに「善」が付いていますが、紛らわしくないのかしら? 次は道路反対側…… 金蔵寺……善福寺了海上人が親鸞聖人に感銘して浄土真宗に改宗した折、執事だった了源が嘉禄2年(1226年)金蔵防を創建。元和5年(1619年)に金蔵寺と改号したそうです。親鸞聖人のすごさを感じます。 鉄筋で寺院らしくないけど、本堂は左奥みたい。 柳の下に井戸があるけど詳細は続きで……親鸞聖人の聖地のようなのに弘法大師が登場します。 金蔵寺の隣…… 真福寺……慶長年間(1596~1615年)了住上人が麻布日ヶ久保に創建し、寛文年間(1661~1673年)にここに移転したようです。 真福寺扁額……すなおに左から読めると戸惑います。 右に真福寺、左は善福寺の車道……まさに寺中寺であります。 善正寺……天正10年(1582年)の創建だそうです。 ということで、外からだけですが麻布山善福寺の寺中寺を拝見してきました。 そうそう、A級戦犯として死刑になった東条英機は巣鴨に収容されてから親鸞聖人の教えに耳を傾け、懺悔とともに仏に感謝する辞世の句を残したと……『さらばなり ういの奥山今日こえて 弥陀のみもとに ゆくぞ嬉しき』『日も月も 蛍の光さながらに ゆくてに弥陀の光輝く』 さてさて、今日は何をしようかしら?
2020.11.18
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今日はとても簡単に…… ダンテ……と言うらしい… 白っぽいのもあるけど、やっぱりキク科なのか? フォーチュンベコニア……らしい。よく見かけるベコニアとは大違い…… 名前は分からない……連れ合いは知っているでしょう。 実がなっている木がたくさん…… 黄色いのも…… 柿も立派になりました…… 長いこと緑色だった柑橘系も黄色に…… 寒椿…… さすがサザンカのDNAだけあって、一片ずつ散り落ちます。 こっちは何椿なのか? これもキク科でしょう…… 薔薇……頑張れ~ 今日の空……9時45分 元気がないわけじゃないけど、なんとなく昨晩寝付かれなかったから……ほんとうに簡単に、これでおしまい。何をしようかしら? そうそう、来年のオリ・パラは観客を入れての開催を目指すんだと。「人類がウイルスに打ち勝った証」とするそうだが、今が抑制できないのに止めてほしいな。菅首相もバッハ会長も有識者の意見を聞いたのかしらね~
2020.11.17
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品川区大井の「光福寺」を訪問した際、境内にあった立派なイチョウは了海上人が麻布の「善福寺」から一枝を譲り受けて植えた兄弟イチョウだと知ったので、元麻布善福寺を目的に出かけた10月21日でした。今日は登場しませんが、紅葉には早いものの、まっこと見事なイチョウの大木でありんした。 南麻布2丁目を北上…… 区画は変則だけどとりあえず真っすぐ…… 南麻布1丁目に入ると前方に…… 行ったことはないけど六本木ヒルズってのでしょう……直線で1㎞ほどでしょうか? 近くても私は興味がないから行きません。 突当りから向こうは元麻布になります。 こっちから見えるってことは、向こうからも見られているんだろうな~ 道路を渡って路地に入る間、信号待ち。 角に立っていた警察官に「ご苦労様です」と声をかけると、笑顔で「ありがとうございます」と返して下さった。「交通安全週間」かと尋ねたら「大使館が多いから…」とのことでした。本当に日々お疲れ様です。 仙台坂……東西に走っています。写真は西方向……たらたら上って行きます。 ちなみにもう一つ品川区にも仙台坂があります。大井町駅~青物横丁駅あたりの池上通りの一部。昔の仙台坂は現在「旧仙台坂」あるいは「くらやみ坂」になっていますが、いつ頃歩いたんだっけかな~ 仙台藩伊達家の下屋敷があったからだそうです。品川区にも下屋敷があったし、力があったのでしょう。 仙台坂から路地を入ると…… ムムム…… 料亭ではありません…… 専光寺……善福寺了海上人の弟子・了智が延慶2年(1309年)に芝に創建し、14代智慶住職が当地へ移転したそうです。700年以上の歴史ある寺院です。 やはり昭和20年(1945年)の戦火によってすべて焼失とのこと。何処も同じですが、よくぞここまで復興されました。 月寶山 専光寺……浄土真宗本願寺派の寺院。下り藤は本願寺の紋でしょう。 私の背中の方向が目指す善福寺ですが、同寺参道両側は浄土真宗本願寺派の寺院で埋め尽くされていました。まだ詳しくは調べていませんが、善福寺から生まれたのでしょう。 北西の方角に、元麻布ヒルズ フォレストタワーが見えました。直線距離で150mほどしかないでしょう。結局この日はタワーの建つ広大な一画をぐるっと回った私でした。《おまけ》 西小山駅近くのクラフト・ビレッジ……大型ストーブが設置されていることに今朝気付きました。強烈にあったかいでしょう。9時29分だから開店はまだです。平日は11時からだったかしら? 今日の空……10時52分 冬ざれた街 (詞・曲:五輪真弓)『冬ざれた街 石だたみの上を 去りゆく人の 後ろ姿を 見送りながら 今想うのは はじめて会った時は きっといつまでも あなたとなら うまく暮らしてゆけると 思ったの…… すすり泣いてる 枯葉を踏みしめて 二人はたがいに 離れてゆくの 誰も知らない 冬の分かれ道 はじめて会った時は きっとどこまでも あなたとなら うまく歩いてゆけると 思ったの……』 日々街は冬ざれていきます。 寒いのは嫌だな~ 心だけは温かでありますように……
2020.11.16
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南麻布を歩いた9月30日の最終回です。 右(北東)から青木坂を下り、写真前方(北北西)に向かう道。60mほど先の右に新富士見坂入り口…… 兵庫屋酒店……サラリーマン時代に幾度も前を通ったけど、奇麗になったような。あれ? 店先の柵の後ろにベンチがあるじゃないの。感染予防で「屋外角打ち」にしたのかしら? こんな店はなかったな~ ブティックには興味なし。 広尾サクラの木……テイクアウト専門店!だって。どの町もどんどん変わっていきます。 右に広尾稲荷神社の屋根が見えて……(広尾稲荷は以前訪問したので当日はスルー) 神社本殿後ろのこんな所に……まったく気付かずにこの日まできました。興味がなかったからでしょう。 広尾の庚申塔…… 3基ともにとっても塔身が太い笠塔婆型…… 手水盤らしきにも三猿……十二支=「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」庚申の「申(さる)」から信仰に結び付いたと。あるいは「厄が去る(サル)」なんて語呂合わせもあったと。 庚申の「庚」はなんなのか?って……十干(じっかん)=「甲(こう・きのえ)・乙(おつ・きのと)・丙(へい・ひのえ)・丁(てい・ひのと)・戊(ぼ・つちのえ)・己(き・つちのと)・庚(こう・かのえ)・辛(しん・かのと)・壬(じん・みずのえ)・癸(き・みずのと)」 この十干と十二支の組み合わせで年月日を表現してきたんですね。1番目「甲子(きのえね)」・2番「乙丑(きのとうし)」・3番「丙寅(ひのえとら)」……57番「庚申(かのえさる・こうしん)」……60番「癸亥(みずのとい)」ということでした。 左:元禄9年(1696年)・中央:元禄3年(1690年)で、右は年代不詳ながら2基より古いだろうと……そうだろうね~ 一番摩滅が激しいものね。 60日ごとにやってくる今年の庚申の日はすべて終了しました。最後は11月13日金曜日=一昨日でしたね~【三尸(さんし)虫】……人の頭に潜んで首から上の病気を招く「上尸」・腹に潜んで内蔵の病気を引き起こす「中尸」・足に潜んでいて下半身の病を招く「下尸」。三匹の侍ならぬ、三匹の虫でした。 工事をしていたので架設の柵なんでしょう……マンション敷地を通り抜け…… 広尾ガーデン前……かき氷が呼んでました。 どこの何という車か分かりませんが、改造するの大変でしょう。でも格好良いですよ~ と言うことで、朝からぐずぐずしていたのでこれでおしまい。 明日からは10月21日の散歩です。
2020.11.15
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南麻布を歩いた9月30日…… 南麻布1・2・3丁目をブラブラして、こんな場所・4丁目に来ました。北に行けば有栖川記念公園だけど…… 坂を求めて南に……閑静な高級住宅街 前の写真で右から車が頭を出している所……左に「新富士見坂」があるけど、スルーして直進…… マンションの片隅に……かつて井戸があった名残にオブジェとして置いたんだろうと勝手に想像しました。SUN TIGERってあるから外国のポンプかと思ったら、名古屋の慶和製作所……国産でした。ただ、残念なことに今年の6月1日でサンタイガーポンプの取り扱いは終了したようです。溶けた金属を鋳型に流し込む鋳造製品でしょうが、大昔に鋳型の砂遊びをしましたっけ。 フランス大使館公邸前を右に…… 南西に下る坂道…… 青木坂……江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったためにこう呼ばれていると。方角的には充分に富士山も見えたでしょうから富士見坂でも良かったのに、青木氏の方が勝ったということか。 坂標にも青木氏としかないので、探すと「青木重兼」と言う名前が浮上。慶長11年(1606年)に播磨国姫路に生まれ……(途中は省略)……寛永18年(1641年)から京都御室の仁和寺の造営奉行で功績を残す。日本黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげんりゅうき)の招きで中国・明から来日した日本黄檗宗2代の木庵性瑫(もくあんしょうとう)が寛文5年(1665年)に江戸入りし、寛文10年(1670年)に木庵は端聖寺(ずいしょうじ)を開山する。その開基をしたのが当時摂津麻田藩(豊中市)2代目藩主・青木重兼だった。と言うことで、下屋敷がこの辺にあっても不思議ではないだろうと推察しました。 以前(2017.2.16)訪問した「端聖寺」は、庫裏の建て替え工事中でしたが、現在は見違えるようになっているみたい……今度寄らせてもらいましょう。ちなみに、青木坂から端聖寺へは直線距離で1㎞強です。 青木坂下の右には都営住宅……坂上とは雰囲気が異なりますが、私はこっちのほうが馴染みやすい。 下からの景色…… さて、初めの方の位置にワープ……青木坂とともに南麻布4-10に面するもう一つの坂の入り口。 新富士見坂……『江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に、明治末大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。』と坂標に書かれていました。 やっぱり青木坂は富士見坂とも呼ばれていたのね。しかし、こっちは( )書きってのが統一性に欠けると少々お腹立ちの私です。役所仕事だから仕方ないのかしら? 西に向かってしばらくは平…… 正面の突当りを左に…… 振り返るとこんな感じ……F1の緩いシケイン状態 今度は南に下って…… 突当りを今度は右です。 ミラーに自分が写らないように注意しながら……パチリ 大した坂ではありません……6%だものね~ 坂下到着…… と言うことで、坂二つでした。 掃除をして衣替えをするので今日はこれでおしまい。
2020.11.14
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脳みそに風をとおし/はらわたを樹(き)にひっかけて干し/手は椅子の上に投げ出しておこう/足は思う所へ行くがいい 矢沢 宰(おさむ) 10代の半分以上を病院の寝台の上で過ごし、500篇(ぺん)もの詩を残して21歳で逝った矢沢は、もし秋が「もっと青い空」を運んできてくれるなら、その時は「体を分解してみよう」と、詩「ある秋の日に」に書いた。体は寝台に括(くく)りつけられていても、感覚だけは自然の中に心ゆくまで放っていたかった。『矢沢宰詩集 光る砂漠』から。 (朝日新聞・折々のことば1913・2020.8.23)『感染拡大 列島緊張』……昨日の新型コロナ全国感染者は1,662人で過去最多となったが、政府からは緊張感が伝わってこない。菅首相が言っていた「爆発的な感染は絶対に防ぐ」は本気なのか? 西村経再相は「大きな波になりつつある」としながらも「緊急事態宣言を出す状況ではない」と言う。病床や医療体制が逼迫(ひっぱく)していないと考えているのだろうが、逼迫してからでは取り返しが付かないことは経験済みのはずだ。6月後半からの第2波の際に、政府は「感染者の多くは軽症者で、医療体制は逼迫していない」と説明していたが、8月下旬の重傷者は250人を上回り多くの医療従事者に多大な負担を強いた。 今月11月3日の「入院・療養中」は6,576人で、そのうち「重症」は163人だったが、昨日の「入院・療養中」は9,791人で、「重症」は226人。急激に上昇していることは火を見るよりも明らかなのに呑気な観測をしていることに恐怖を覚える。 都内で2日連続して300人超えとなる393人の新規感染者を確認して開かれたモニタリング会議では、4段階で上から2番目に深刻なレベル3の評価を10週連続で維持した。大曲貴夫・国際感染症センター長は「このペースで増加すると4週間後には1日約1,160人に達する」と指摘し「ほとんど赤(最も深刻な警戒レベル)に近いオレンジ(2番目)」との認識を示したが、結果的には「検査体制の充実が感染者数増加の一因」などとして据え置かれた。国も都もどっちを向いているのか、開いた口が塞がらない。 新規感染者が過去最多となる236人が確認された北海道だが、緊急事態宣言下の4~5月には旅行客に向けて「来島自粛」を求めて感染防止に努めてきた北海道利尻島でも計14人の感染が判明。都会から島にウイルスを送り込む一要因となったのがGoToにあることは否めないだろう。 風が (矢沢宰)『風が あなたのふるさとの風が 橋にこしかけて あなたのくる日を待っている』 政府は、来年のオリ・パラで海外からの観客受け入れに関して、新型コロナウイルス対策で通常求めている入国後14日間の待機措置を免除する緩和策の検討に入った。今こそ国内の感染拡大抑止を最優先ですべき時なのに悠長なことだ。この先どのような事態になったらどのような対策をとるのかは説明を差し置いて、来年を検討する国や東京都の無責任さにはあきれるばかりだ。全国一律とは言わないが、GoToの停止・中止をすべきではないのか。今でなくても、ふるさとの風はいつまでも待っていてくれる。コロナで亡くなってしまっては会いに行かれないよ。 全国の医療機関にはコロナ以外の病気で長期入院を余儀なくされている患者さんも多数おいでだ。病室の窓から秋の空をながめて、足だけでもどこかへ行きたいと思っておいでのことだろう。 昭和19年(1944年)新潟県見附市に生まれた矢沢宰氏。小学校2年生にして腎結核を発症し、右腎摘出して以降 小学校へもほとんど通えず10代のほとんどを病院の寝台で暮らした。14歳の頃から詩を綴り始めるも、劇症肝炎により21歳で人生の幕を閉じた。死を意識して生きた10数年は想像だにできない。 小道がみえる……『小道がみえる 白い橋もみえる みんな 思い出の風景だ 然し私がいない 私は何処へ行ったのだ? そして私の愛は』(絶筆)《おまけ》 クラフトビレッジ西小山……って言うんだそうな。駅改札から数十秒に開店しました。高いビルが建つのかと思っていたらあっさりしていますが、たくさんのお店が出店するみたいです。 [BAKERY & CAFE VOICE LACTEE]…洋菓子・サンドイッチ [七福餃子楼]…恵比寿駅前の餃子・小籠包専門店が餃子だけで勝負 [鉄板商会]…鉄板さえあれば、肉、野菜、魚介類、お好み焼き、焼きそば…… [鎌倉や]…古都鎌倉の食材、物販が並びます [スタンド フィエスタ]…関西のクラフトビールと、キューバサンド [DEDE]…本格トルコ料理の神髄を味わえます [食堂西小山]…四季の食材を使った創作和食 [YOKA]…美味しい煮込み、美味しい刺身、美味しい焼鳥 [コーラとハンバーガー]…日本の母がつくる身体にやさしいクラフトコーラとハンバーガー(PRTIMESより) 寒椿と思われます……椿とサザンカの交雑種なんだって。 白いのもあるのね~……サザンカのDNAが入っているから花びらが一枚ずつ散るんだね~ 今日の空……10時13分 秋が青い空を運んできました。杉の木でしょう。 円融寺阿弥陀堂前のイチョウは色づいていました。 仁王門後方のイチョウもキラキラ…… 本堂左脇のモミジは枯れ始めていました。 マスクをして秋を探しに行こうかと思ったけど、日暮れがすっかり早くなったから今日はもうダメだな~ ちなみに今日は坂の予定だったけど、モーニング帰りに撮ってしまったので急遽変更でした。
2020.11.13
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南麻布の寺院と坂を歩いた9月30日…… ちょうど正面が南に落ちていく薬園坂の坂上なのでこの辺りはフラットだけど、右の本村公園脇を右折すると…… 奴坂(やっこざか)……古い地名・竹が谷の小さな坂であることから「谷小坂」、薬王坂のなまりで「やつこう坂」、あるいは「奴が付近に多く住んでいた坂」と三説の由来があるそうです。 ※ 「奴」とは、江戸時代の武家の下僕を指すのか? 西に向かって下り坂……横断歩道までを奴坂とよび、次の上りは別名。残念ながら坂標はなかった。 区立本村幼稚園・小学校から西に向かって上り坂……ありゃりゃ指が写ってしまった~ なんてこった!! 釣り堀坂が足腰に堪えてふらついていたかも…… 阿衡坂(あこうざか)……江戸時代初期、この辺り一帯は保科肥後守の下屋敷だったと……だから奴さんがたくさんいたのね~ 保科正之は、2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれ幼名は幸松。高遠藩主保科家の養子となるが、秀忠は温厚明敏な正之の性格を認めて将軍の侍従に付かせる。その役職が中国でいうところの「阿衡(天子の補佐役)」であることから坂の名前になったと。 ちなみに保科正之は、3代将軍家光と4代将軍家綱を補佐した名君らしい。正之だったらコロナ対策をどうしただろうか? 阿衡坂が平らになったあたりの右はフィンランド大使館と有栖川清水っていう料亭があるみたい。 阿坂衡が終わると正面にパキスタン大使館……右方向隣にはアルジェリア大使館。 パキスタン大使館の交差点を南に…… 新坂の坂上……途中からけっこう厳しい下り坂。 明治通りの光林寺、肉のハナマサ脇に出る坂下……2019年1月13日撮影 新坂上から北を見ると……真っすぐ進むと有栖川宮記念公園。公園脇の南部坂は先月21日に歩いてきました。 ボケてますが人だかり……女性ばかりがフィンランド大使館前に並んでいます。入場制限をしていたのか、『ゲイ・カルチャーのアイコン的存在、Tom of Finlandによる作品日本初個展』だったようです。しかし大盛況だったんだな~ 門灯に灯りが入っているのが料亭 有栖川清水の入り口……でもってどんな料金か調べてみたら、昼会席は12,100円・15,400円・17,600円で「5名さまより承ります」とのこと。さらに「お昼のみお部屋の使用料を頂戴しております」だって。5~8名の室料は17,600円。消費税とサービス料15%は加算されるだろうからえらいこっちゃ~ 夜会席はいかほどか?って……38,500円より だそうです。 有栖川方向へは行かずに西へ…… EUROPA HOUSE…… 駐日欧州連合代表部……らしいっす。旗がなびいていたらよかったのにな~ 大使館だらけのこの界隈でありました。 ちなみに明日も坂道ですよ~《おまけ》 こんなのが届きましたが『フレイル』って何???『フレイルは、海外の老年医学の分野で使用されている英語の「Frailty(フレイルティ)」が語源となっています。「Frailty」を日本語に訳すと「虚弱」や「老衰」、「脆弱(ぜいじゃく)」などを意味します。日本老年医学会は高齢者において起こりやすい「Frailty」に対し、正しく介入すれば戻るという意味があることを強調したかったため、多くの議論の末、「フレイル」と共通した日本語訳にすることを2014年5月に提唱しました。(公益財団法人・長寿科学振興財団 HPより)』 フレイルなんて私は初耳。注釈も書かれていないからチンプンカンプン……高齢者に優しくない。郵送料をかけて送るんだから、意味と意図が伝わる案内にしてくださいませね。若い人が作っているから無理か~ 年寄りの気持ちになって考えてね~
2020.11.12
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南麻布を歩いた9月30日……載せなくても良いんだけど、せっかく立ち寄ったから自分のために記録しておきます。 薬園坂上まで戻って北に…… こんな道をとことこ歩いていると…… 左の路地…… 奥まで行ってみたけど、業者さんの車にさえぎられて入寺ならず…… 稱念寺……「しょうねんじ」とお読みするのか? 浄土宗の寺院らしい。 二十九番は何の霊場番号かと思いきや、どうやら西方三十三ヶ所観音霊場のようです。西方三十三ヶ所はほとんどが港区の寺院で構成されていました。 区立本村公園……工事中でした。 薬園坂の本村公園を過ぎると…… 民家っぽいけどお寺…… 光明山 護念院 偏照寺……寛永元年(1624年)に霞が関に創建された後、ここに移転されたと。稱念寺同様に浄土宗の寺院で、なんと西方三十三ヶ所観音霊場の三十番札所なんだって。六本木-三田-高輪-白金……など、まとまっているから順番通りに歩けるかもしれませんが、西方三十三ヶ所は石碑が残っているものの霊場としての活動を休止・中止している寺院も多くあるようです。 昼寝する小坊主さん…… と言うことで、中身のない今日の日記でした。次回と次々回は坂なので、また面白味はありません。《おまけ》 昨日は駒留通りの西端から北上して小田急線豪徳寺駅近くまでブラブラ……「ずっと後にならないとどっちへ行ったか分からないんですよね」と連れ合いが言うから、秋らしさを感じられた昨日の写真を2枚だけ速報です。 実相院木造多宝塔……駒留通りの西端にある曹洞宗寺院。近くの浄光寺までは訪問していたけど、整備された広い境内を散策させてもらい、もっと早く訪れるべきだったと反省…… 世田谷八幡宮……渋谷氷川神社・大井鹿嶋神社は訪問したので、最後に残った江戸郊外三大相撲のロケーションを目指したのですが、なぜか土俵を撮ってくるの忘れた私。いくつか寄り道をしたから疲れていたんでしょう。なんてこった~ と言うことで、秋らしさの速報でした。
2020.11.11
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南麻布を歩いた9月30日…… 東西に走る「釣り堀坂の」ちょうど坂下にある薬園坂緑地を南に抜けます。 住宅供給公社本村町住宅が並びます。写真右の青緑のフェンス内側を上って行くのが正解だったけど…… どこだろうか? と表に出て探したけど見つからない……ちなみに、本村町ってのがこの辺りのかつての町名でした。 しょうがないから住宅の西の端を入ってみたら…… 石段をもっと左に寄せれば、住宅を拡張できたのに…… 不自然に思いながら少し上ったら、丁寧にフェンスで囲んであって、現状の変更禁止!!!に反応…… 本村町貝塚……看板ありました。ここがそうなのね~ 陽当たりが良く住みやすい場所だったと……だから今、住宅供給公社が立っていても不思議ではない……しかし、近くの古川まで海水が流れ込んでいたとは…… サルボウってのは何者かと思ったら、赤貝よりも一回り小さいもので「味付き赤貝」などの商品名によって缶詰で売られている物の多くがサルボウ貝なんだと。今更ながらだけど「ちょっと違うな~」とは思っていたけど……まぁ、食せるなら良いけどね~ 西か西南か?……とにかく高台。 転げ落ちたら無事では済まないでしょう。サスペンス劇場に出てきそうな石段。コケると困るから下りませんよ~ 石垣で囲われたこの場所だけでなく、近所一帯に昔の人々が暮らしていたのでしょう。 樹木の植わっている場所だけが「本村町貝塚」として保存されているようです。忘れ去られた都会の片隅……私が見届けました。 前方の方から来ればよかったみたいです。右は古い住宅で、左は一段高台の新しいマンション。やっぱり格差社会を感じます。 エレベーターはないでしょうから4階は辛いな~ と言うことで釣り堀坂近辺を終了。再び薬園坂にもどりましたが、続きはまた……《おまけ》 今日の空……10時00分 どこにあるかしら? 3日でずいぶん痩せました。 雲行きが怪しくなったので昨日は歩かなかった。朝食も連れ合いが準備してくれたから、時間にゆとりがある。天気が良いから今日こそ散歩に行ってくる。どっちに行くかは内緒だよ~
2020.11.10
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モーニングの帰り…… ネコと目が合う……10時7分 近寄ったら知らん顔された……なんでやねん! モミジの色変わり状況を見に、円融寺釈迦堂脇に寄り道…… 光が写っちゃったから反対側から…… 本堂前左側のこれはまだまだ……紅葉の見頃の目安にしようと寄ったけど、もう少しかかりそう。 今日の空……9時13分「ウォーリーを探せ」じゃないが、どこに昼の月があるか分かるかしら? 連れ合いのiPadではすぐに見つかるらしい。倍率は同じでも、月は一昨日より小さいぞ~ 撮影時刻はほぼ同じだけど月の高度が違うんだわな~ 散歩に行こうか思案しているから今日はこれでおしまい。
2020.11.09
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今日は寺社でなく、9月30日に歩いた「釣り堀坂」の往復…… 南麻布3丁目を北から南に下って行く薬園坂を下り、青い車のすぐ先を右折……薬園坂上から二本目の路地です。一本目を右折すると、昨日の最後の写真のように行き止まりになっちゃいます。 釣り堀坂入り口…… 東から西へ抜ける坂道…… 下り切ると今度は上りになりますが、両方合わせて釣り堀坂と言うみたい。残念ながら坂標はありませんでした。「あっても良いだろう」と真剣に探したんだけど……港区さん、立ててくださいよ。 東方面を振り返ると……ちょこっとだけど右に石段が作られています。勝手な推測だけど、元は左側の幅の道だったのを、右側に立派なマンションなどを建築した際に少しだけ広げたのかもしれません。 下り切ると、西に向かって上り。 大した坂には見えないでしょ? でも西の坂上から見下ろすと結構な坂なんだな~ 引き返して坂下まで来ると、右(南)に……マンションの間に作られた歩道だと思ったら…… 港区薬園坂緑地……だって。なんで釣り堀坂緑地にしなかったのかしら? マンションの間を抜けて反対側から見るとこの状態。これでも緑地って命名するのはすごい。(この写真と次の写真の間には「本村町貝塚」が数枚あるけど、掲載枚数の都合上から次回です。) 釣り堀坂の底から東の坂上に戻ります。右手はマンションで、左手は昔ながらの住宅。 坂の北側の住宅街……10数年前、仕事をサボってこのあたりにあった釣り堀を見に行ったことがあります。10m四方ほどの小さな釣り堀でしたが、坂の名の由来になっているのでしょう。 横を通っても座り込んで微動だにしないネコ…… ちょっと近づいたら、さすがに立ち上がりました。僕はいじめないよ~ 釣り堀を探して路地奥に入ってみたけど、この道も行き止まり……調べたら、衆楽園という釣り堀は2018年5月29日で閉園したそうです。 結局引き返しましたが、地域住民にとって釣り堀坂は重要な道だと確信しました。 電チャリなら平気なのかもしれないけど、毎日のことだと少々しんどいかも。私は一度で降参です。《おまけ》 今日も贅沢をしてお昼は鶏肉のチリソース醤油味……「よく連日同じものを食べられますね」と連れ合いから言われるでしょうが、昨日の写真が良くなかったからお店・シネマカフェさんのために撮り直しです。今日は明るいシネマで撮ったから昨日よりましでしょう。ちなみに、副菜2品は日々変わるし、主菜も今日の方が一段と美味しかった。チリソースが昨日より多く、これが本来なのでしょう。ごちそうさまでした。《独り言》 テレビは朝から米大統領選に勝利したジョー・バイデン氏ばかり。この先どうなるか分からないが、大統領の交替より直近の国内コロナ対策の方が重要だろに。 北海道の昨日の感染者は過去最多の187人。神奈川県も過去最多の137人。大阪は8月14日(192人)以降で最多の191人。愛知県でも8月9日(129人)以降最多の113人。3日連続200人越えの東京でも8月20日(339人)以降で最多となる294人。その他府県においても増加がみられ、1000人越えが3日連続した全国での昨日の感染者は1332人。第2派か3派か分からないが、どう考えても急増期に突入しているだろう。 始まった国会では学術会議ばかり。日々変わり辻褄の合わない答弁で誤魔化すのはやめて、行った事実をきちんと説明して終わらせ、コロナ対策に向きあうのが菅総理率いる内閣の役目だろう。 医療機関が崩壊していないからまだ良いなんて考えは甘くないか? 3日連続の100人越えで北海道は警戒ステージを引き上げ営業自粛を求めた。自粛要請は地方自治体が出すものだが、国民の命と財産を守るのは国の責任。地方任せでなく、連携を密にして国の指針を打ち出すべきだろう。このまま行ったら、本当に経済は死んでしまう。
2020.11.08
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9月30日のブラ散歩……もう11月だって言うのに古い写真載せてます。 絶江坂を上って、延命寺・淨専寺を過ぎると……停車中の車のあたり…… お寺さんありました…… あったんだけど入寺を断られている気分……理由は推察できます。 日蓮宗不受不施派……「他宗には施さず、また他宗には施しを受けない」不受不施の教義は知っていたけど、この宗派を名乗る寺院があったとは……初めて遭遇しました。 時は文禄4年(1595年)、京都東山の方広寺に大きな大仏を建立した豊臣秀吉は、亡き父母の供養のための法会を営む際、「天台・真言・浄土・律・禅・浄土真宗・日蓮・時宗」の8宗から各百人を招集する千僧供養会(千僧供)を企画。 出席欠席をめぐり日蓮宗内で激しい論議が起こるなか、断れば秀吉の怒りをかって日蓮宗の僧侶が追放されることを懸念した本満寺・日重が「日蓮宗門としては出来ないことだが」としながら「一日だけ出席して、以降は宗旨を申し上げて断ろう」と妥協案をだす。 ところがどっこい「日蓮聖人の掟を一度たりとも破ってはならない」と妙覚寺住職・安国房日奥が毅然と異議を唱える。他宗の信者に経を読むことも不受不施の教義に逆らうことなのだろう。この日奥を派祖として日蓮宗不受不施派が生まれる。 時は少し移り秀吉がな亡くなった後、慶長4年(1599年)今度は徳川家康は日奥を呼んで「一度でいいから千僧供に出てよ」「他宗と一緒がいやなら別室でもいいよ」「食事(施し)がいやなら食べなくてもいいよ」と折衷案を提示したけど不受不施の教義を頑なに貫き通した日奥。結果として、家康は日奥を対馬に流した。(逆らうものは排除する……今も真っ只中) 流罪を解かれて日奥が戻ってくると、池上本門寺の日樹や中山法華経寺の日賢など有力な僧侶たちが彼に同調しはじめる。二代将軍秀忠の夫人・江(ごう)の供養を辞退した日樹は信濃に流罪となり、さらに影響を与えたとして日奥は再び対馬に流された。同時に不受不施を唱えることを一切禁じてしまわれ、信奉者は地下に潜るようなかたちで長いこと法脈を守り続ける。晴れて不受不施が認められたのは明治9年(1867年)、徳川幕府が倒れて後のことでありました。 龍華山若松寺……市谷にあった自證院が不受不施の禁令によって改宗することになる。でもって日正上人が麻布本村町に自證庵として再建し、昭和17年に(1942年)若松寺と改称したようです。理由は二つ考えられますが、憶測はやめておきます。 ちなみに自證院は日蓮宗を改め、現在は天台宗寺院みたいですが、見せしめの流刑や禁止令によって改宗せざるを得なかった寺院は全国に多数。弾圧はあかんな~ 失礼してフェンス越しにパチリ…… 私も日蓮宗寺院の檀家の一員ですが、立ち入りは遠慮しました。宗派にこだわらず手を合わせる私は資格がないでしょうから…… 門前はT字路……右が絶江坂で…… 山門正面にも東に下る坂……200mほどかしら? 名前があっても不思議ではありませんが見当たりませんでした。 若松寺をちょいと北に…… 左折した突当りに…… 北から南に走る道…… 薬園坂……ここが坂上『江戸時代前期 坂の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。』 南に向かって下り…… サラリーマン時代このあたりにあった釣り堀を見に行きました。まだあるか探して横丁を……結果はありませんでした。代わりに釣り堀坂ってのを訪問しましたが、続きはまた今度。《おまけ》 昨日の空……15時54分 崩れ始めているウロコ雲 秋らしい空でした。時代遅れのアンテナ入っちゃった~ 今日の空……9時8分 昼の月……前の写真でも小さく小さく映ってます。 今日も贅沢をして早めのランチ。正式名称は忘れましたが、鶏肉の醤油チリソース炒めみたいなもの。暇を売る店に出前をしてもらったので、ちょっと暗っぽいですが、美味しかったです。
2020.11.07
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9月30日の散歩…… 絶江坂の途中にある延命院からさらに上ると…… この坂道は南麻布3丁目(左)と、2丁目(右)の間です。 淨専寺山門…… 真宗大谷派の寺院……坂下の西福寺も大谷派(東本願寺)だった。 米澤山の山号からうかがえるように、元和7年(1621年)に山形の米沢で創建されたようです。 参道……春には桜がきれいでしょう。 さすがに絶江坂上だけあって見晴らしは良い……南東の景色 淨専寺本堂……米沢で創建され、麻布今井村を経て、寛文元年(1661年)にここに移転したそうです。絶江和尚が開山した曹渓寺も、最初は麻布今井村でしたっけ。 今井村は今の六本木あたりらしく、寺が多かった江戸期には「今井寺町」なんて呼ばれていたと……間違っていたらごめんなさい。 いつ建てかえたかは不明ですが、モダンな本堂です。 本堂右に……南無阿弥陀仏 往きには気がつかなかったけど…… 桜の木の幹も立派だけど、いくつか石仏が…… 私の好きなお昼寝ポーズ…… 手にしているのがザクロだったら鬼子母神なんだけど、左手だし、子供もいないから違いますね。 この色の彼岸花は初めて……妖艶さがたまりません。曼珠沙華って呼び名の方が似合います。 いつもの遊び……懲りない暇人。 と言うことで、詳しいことは分かりませんでしたが淨専寺にお邪魔しました。《おまけ》 早い時間に混んでいない居酒屋に行き、おとなしく黙々と折り紙をする私。酔いがまわるとそこで終わり。何日かかけて昨日出来ました。前回は尻尾と頭につながってしまったためリベンジした暇な私です。 今日は連れ合いモーニングでした。 定期健診に出かける前だったのにありがとうね~
2020.11.06
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天気が良かったから、ふと南麻布を探訪した9月30日……目黒、世田谷、大田や品川区は結構歩いてしまって徒歩圏内のコースがなくなった私なので港区に進出です。 曹渓寺から少し戻って、圓澤寺と西福寺の境内後方の道……左に両寺の墓地。 写真の右から来た私ですが、北に向かって坂……右の電信柱の後ろに… 絶江坂(ぜっこうざか)……なんで電信柱に隠れるように坂標が立っているの? 少し離せばいいのに……ったく! 配慮に欠けるよね~『承応2年(1654年)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。』と書かれていましたが、承応2年は1654年なのか? 昨日の日記は1653年にしたけど、私が間違っているのか? 深くは追求しませんが…… 南に下った先は明治通り……高速の下を渋谷川の下流・古川が流れているから当然下り。 絶江坂をちょいと上ると…… お寺っぽくないんだけど…… 延命院……真言宗智山派!!! 私のお気に入りじゃないの。 不動尊霊場第28番は、御府内二十八不動霊場です。不動霊場は全国各地にあります。 弘法大師霊場第5番……とありますが「御府内八十八ヶ所霊場」のことでしょう。5番は若い番号です。御府内八十八ヶ所は、1番から港区➔中野区➔世田谷区➔品川区……なんてランダムだから番号順に巡ることは無理です。 立ち入り禁止の風情だったからフェンス越しにパチリ……一般住宅に囲まれて 金剛山延命院寶幢寺……法印秀圓が開山し、宝永年間(1704~1710年)本村町の内新町と呼ばれる場所からここへ移転したとのこと。御本尊は大日如来。 文化8年(1811年)に、当時の住職が四国五番札所である地蔵寺から、弘法大師作と伝えられる子安地蔵を遷したそうです。 延命院前から見た絶江坂……45階建ての白金高輪駅にそびえるマンション。数年後には手前にも高いのが建ちます。 延命院門前の少し右に「地蔵尊」と……なにも見えなかったのですが、写真を拡大したら手前の両サイドに小さい石仏が2基ありました。ちゃんと覗いて来ればよかった~《おまけ》 コロナ禍にあるからでしょうか? 「疫病退散」がありました。 今日の空……12時00分『文化功労者に経済人』……昨日の衆院予算委員会を見て知ったけど、文化功労者には国から終身年金が支払われるんだと。現在233人の文化功労者に対し、一人当たり年350万円が支払われ、今年度予算は8億1550万円だと萩生田文科相が答えた。コロナ禍で職を失い苦しんでいる多くの方がいる中で、平気で税金を支出する政府の気が知れない。 学術会議に10億円の予算が使われていることを問題のように言う菅首相だが、文化功労者には大手食品会社やグルメサイト会社も入っていると。さらに最近選ばれた人は菅首相の知り合いらしい。対象の会社経営者からは、政治資金として還流されているかも、なんて勘ぐってしまう。とにかく、どちらの人選にも深く関わっているとされる杉田官房副長官、いつまでも隠れておらず自ら国会で答弁されたし。
2020.11.05
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今日はとてもいい日…… モーニングの帰りにここに停車するのを遠くから目にしました。急いで近づいてパチリ……停め方から分かるようにあくまで一時停車。 実物を見るのは初めてで「やっぱり小さいな~」が第一印象。1/24スケールの模型も他車と並べると極端に小さかった。全長3850mm・全幅1550mm・全高1118mmほどだから小さくて当たり前だが、圧倒的にコンパクトな姿にも関わらず雄姿の雰囲気が伝わってきました。 1963年、ルノー製エンジンを搭載して誕生したGTカーがアルピーヌ・ルノーA110。ラリー界を席巻し、1973年に初代WRCマニファクチャラーズ・チャンピオンを獲得。 写真のA110は1600SCのようだが、1973年ぐらいの車と思われます。4気筒1.6リッターエンジンは130PS程でしょうが、高回転を維持すれば800kg程度の車両重量を操るには充分かもしれません。楽しいだろうな~ ちなみに、新アルピーヌA110が2017年から生産されていました。1993年にトヨタが発表した6代目T200系セリカは、開発に際してA110をイメージしてデザインしたとのうわさがあったようです。 しかし、国内にこの車が現存していたとは驚き。ピカピカの車体からは、大切にしているオーナーさんの心遣いが伝わってきました。素敵なものを拝見させていただきありがとうございました。 タミヤ1/24……1971年のモンテカルロ・ラリーを1.2.3フィニッシュで制したアルピーヌ・ルノーA110。 2015年8月に作りました。たった5年前だけど、すっかり制作意欲が減退してしまった昨今です。ダメだな~《おまけ》 モーニングのホットドック……長いウインナーが終わって、短く太いのになってました。私はこっちの方が好きだから嬉しかったし、良い日の幕開け。 桜の葉が色好き初めて秋の景色……いよいよ冬到来でしょう。 今日の空……10時16分 天気もいい。イチョウはまだ緑。 円融寺本堂裏で露店販売やってました。「おでん作ってくださいよ」と連れ合いから言われていたので、鰹節には心惹かれたけど素通り。でもスルーして大正解。見学していたらアルピーヌは居なくなっていたと思います。良かった良かった…… と言うことで、本当は絶江坂を掲載予定だったけど、急遽変更でした。 みなさまにとりましても良い一日でありますように……
2020.11.04
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南麻布2丁目の寺院と坂をいくつか歩いた9月30日…… 西福寺-円澤寺を訪問した後、裏路地を右に左に……行き止まりのこの道も、車の脇を右折。 突当りに公園……「絶江児童遊園」(ぜっこうじどうゆうえん)と読みます。「絶江」とは珍しい名前ですが、曹渓寺の絶江和尚に由来します。付近の地名や坂名にもなっていて、坂標は明日あたりに登場します。 やっと山門到着……昭和7年(1932年)この公園のあたり(当時曹渓寺境内)に、日本最初の体の不自由な児童を対象とした小学校に類する各種学校として「東京市立光明学校」が開設されたと。昭和14年(1939年)に世田谷区松原の新校舎が完成。麻布分校として残っていた当地の建物は昭和20年(1945年)戦災にて焼失。現在は「都立光明学園」と改称されている松原の学校も拡張されて、小中高の生徒さんが学んでいるようです。 曹渓寺山門……山門扁額には「日東山」 臨済宗妙心寺派の寺院……東北寺のそうだったけど最近は禅宗の寺院によくお邪魔しています。こちらの御本尊は釈迦牟尼仏かしら? いつものショット…… 本堂扁額……曹渓寺は、元和9年(1623年)に麻布今井に絶江和尚によって開山され、承応2年(1653年)に現在地へ移転してきたとのことです。名僧と称されたこの和尚の名が今でも近くに残っています。 本堂前から……教育にも熱心な寺院だったみたいです。『境内にできた私立慈育小学校の一部を借りて、明治23年(1890年)に麻布獣医学園麻布大学の前身となる東京獣医講習所が開設される。全国から選抜推薦された獣医師に六か月間、解剖、生理、薬物、内科、外科や病院実習などを教授した。幾たびか校名変更の後に戦災で消失。昭和25年(1950年)に相模原市に移転し、麻布獣医科大学として開学。昭和50年(1980年)「麻布大学」と改称して現在に至っている。(港区教委)』……絶江和尚の名前は使われなかったようです。小学校などの発祥の地が寺院であることは珍しくないけど、2校はなかなかお目にかかれないでしょう。 檀徒さんたちが利用する法要施設でしょう。 浄水軒って書いてあるのかしら? こういう書体は苦手…… 本堂左から……逆光のせいもあって本堂正面の写真が撮れなかった。 赤穂義士の中で、切腹を免れたった一人生き残った寺坂吉右衛門信行が寄寓(きぐう)し、夫婦で晩年を過ごしたのが曹渓寺だと。お墓もあるそうです。私は立ち入りませんが…… ※ 「寄寓」=他人の家に一時世話になること。あるいは、仮の住まい。 本堂右……小さい梵鐘 事務所・庫裏…… 井戸はまだ使えるのかしら? どんな音がするか聞いてみたい…… と言うことで失礼しました。 日本学術会議の任命拒否に口を閉ざし続ける菅首相に読んで差し上げたい。「あきらめも肝心だよ~」 薄日が差してきました。何をしようかしら?
2020.11.03
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地方自治体の政治は、真に住民自身が、自身のために、自身で行う政治たるを得る。 石橋 湛山 戦後、首相も務めたこの言論人は、大正期末にすでに「分権主義」を唱え、市町村にもっと独自の財源を充てるべきだと主張していた。理由は、東京一極集中がだめだというのではなく、人々が政治の見物客にならずにそれを身近で見、判断し、関与すること、つまり地方自治体が「国民の公共心と聡明とを増進する実際教育」の場だというところにあった。『石橋湛山評論集』から。 (朝日新聞・折々のことば1931・2020.9.10) 賛成49.4%・反対50.6%……大阪維新の会が主導して2度目になった「大阪都構想」住民投票の結果が出た。投票権がないので構想の中身を詳しく考えたことがなく無関心だった情けない私だが、公明党が賛成に付き、自民党が反対に付いたことには注目していた。広告宣伝・ポスター・チラシなどにかける資金力は圧倒的に賛成派が有利だったし、賛成多数で可決されると目されてスタートしたが住民の声は「嫌(いや)」が勝った。前回同様に僅差での否決であり、どちらの声も尊重されるべきだろう。描いた構想に落ち度はなかったのか? 反省を基に住民のためになるであろう構想をさらに書き換えつつ、次の道を模索してもらいた。すべての国民が聡明とはいかないのだから分かりやすい言葉で丁寧に説明を尽くし、反対意見を論破することなく共に考え歩み寄る姿勢を持って、より明るく住みやすい地方自治体を目指してもらいたい。 明日投票開始のアメリカ大統領選挙。トランプVSバイデンによって米国民が分断されているようだ。支持する候補者の違いによって、仲の良かった隣人とも、あるいは親子でさえ口をきかなくなっていると。大統領選挙と同時に発生した警官による黒人殺害へのデモが分断を大きくしている要因と見る。「Black Lives Matter」を主張する人たちは沈静化とは反対に暴動の拡散も試みているらしい。自衛のために銃を持つ一般人が急増中で弾薬も不足していると。「Black Lives Matter」=「黒人の命も大切だ」と思いきや、米国では「黒人の命が大切だ」の声が多いと聞く。民主主義の国・アメリカがとんでもないことになっている。 大阪の有権者は、どうぞ喧嘩されませんように。それぞれの主張はすべきだが、どうか「All Lives Matter」であってください。 ※ 「石橋湛山(たんざん)」=日蓮宗の僧侶杉田日布(のち身延山久遠寺第81世法主)を父に持ち、明治17年(1884年)東京都麻布区に生まれる。毎日新聞社(現在の毎日新聞社とは違うらしい)に記者として入社。退社して1909年、麻布歩兵第3連隊に入隊。1911年、東洋経済新報社に入社。1946年、吉田内閣成立にともなって大蔵大臣に就任。鳩山内閣では第1次~3次まで通産大臣を勤め、鳩山首相引退後の1956年12月14日に石橋湛山が自由民主党第二第総裁に選ばれる。この時の総裁選で戦ったのは岸信介……石橋(258)に対して岸(251)の僅差で勝ち、12月23日に石橋内閣誕生。病のために1年わずかと短い在任だったが、「平民宰相」と呼ばれ、「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表して、大衆的人気を集めたと。(一般財団法人 石橋湛山記念財団HPより抜粋)「五つの誓い」……現在でも十分通用する公約だが、「誓い」ってのが良い。「三本の矢」なんてどこへ飛んで行ったかしら? と言うことで、中途半端な日記だけど今日はこれでおしまい。 色付きだすと鳥たちがついばみます。あと数日経たないと食べられません。私は好きじゃないからいいんだけど…… 柑橘系の実……長いこと緑だったのが、やっと黄色くなりました。今年はじめてなりました。 今日の空……11時12分 これから雨になるそうです。嫌だな~
2020.11.02
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南麻布をブラブラ……坂もいくつか上り下りしたからちょっと疲れた9月30日…… 西福寺のすぐ東隣…… 圓澤寺……「えんたくじ」と読むそうです。曹洞宗の寺院(残念ながら大本山・派は不明) 江戸時代までに多数伝えられた禅宗だけど、現在残っていて目にするのは臨済宗・曹洞宗と黄檗宗の3つ。曹洞宗の坐禅は、ただひたすら坐る「只管打坐(しかんたざ)」……坐禅をする姿そのものが「仏の姿」「悟りの姿」……常々思うが私には無理そう。 山門の彫刻がとっても気になってパチ…… アップでパチ…… こっちもパチ…… もっと撮りたかったけど首が痛いから断念……本堂に手を合わせていたら、姿を見られていたようで、ご住職が出てこられてしばしお話してくださった。「山門は左甚五郎」だそうで「甚五郎は4人いた」と。各地で腕を振るった工匠たちの代名詞だったのかもしれませんね。 いつものショット…… 圓澤寺本堂……とってもモダン……正保2年(1645年)附山栄伝大和尚によって開創されたようです。江戸時代初期から続いているんだわな~ お隣の西福寺よりちょっと早い。 時代・歴史はまったく異なりますが、以前訪問した「源照寺」もモダンでした。曹洞宗寺院には多いのかしら? 本堂扁額……龍興山 圓澤寺 御本尊は地蔵菩薩らしいけど釈迦牟尼仏じゃないのかしら。せっかくお会いしたのだから、きちんとご住職に聞いて来ればよかった。スマホのボイスレコーダーを使えるようにしておかねば…… 南北朝時代に大森彦七(盛長)の念持仏と伝えられる、胎内に金銅の十一面観音像が納められた魚籃観音像も安置されているって。 ※ 「大森彦七(盛長)」=足利尊氏が九州から都に攻め上がった折、楠木正成を破った伊予の武将。歴史は好きじゃないけど、ちょこっと勉強…… 本堂前から……45階建てが建ったら陽当たり悪くなるだろうな~ 境内右に…… お稲荷様…… 足元にはちゃんと手水盤……使われてはいないけど… 後方の庫裏からご住職が登場されました。お世話になりました。 小さいですが風格がありました。 稲荷社の彫り物も本格的でした。 ブラブラさせていただき失礼しました。南無釈迦牟尼仏 路地に入って、突当りを右……西福寺、圓澤寺の北側にある曹渓寺へ向かいます。 また突当りを左に…… 左折したら、すぐに左の脇道へ…… 正面を右折…… 今度は左折……なんでこんな道を選ぶかね~ と言うことで、今日はこれでおしまい。おまけもないよ~ 昨晩はブルームーンを拝みながらオールドを舐めたから今日はノンアルデー。寂しいけど我慢します。
2020.11.01
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