Mayuとあなたと。

講談社読書人の雑誌「本」(17.3掲載)



 約束
                        大原 まゆ

 昨年の春、いつも私を助けてくれた「がん友」が亡くなった。知り合ってまだ半年もたっていないのに、別れも言わずに逝ってしまった。ご主人からのメールで彼女の死を知った私は、しばらくの間ベッドに寝転んだままただボーッと天井を眺めることしかできなかった。

そのあと、最後に会った冬の日からの彼女の病状と、本人からも聞かされていなかったいくつかの事実を電話で知らせてくれたご主人の言葉は、そのまますぐに反対の耳から通り抜けて行く。本当はしっかり聞きたいのに、あまりに早すぎる別れに私は何も考えられず、現実から逃げるかのように、お礼の言葉も言わずに電話を切らせてもらうしかなかった。自分が病気を告げられた時よりも遥かにショックだったことは間違いない。

私も彼女も乳がんで同じ病院に入院していたことがあった。当時、私は二十一歳、彼女も二十代。二十代での乳がん発症はとても珍しく、とくに二十歳前後の患者数は厚生省の統計を見ても0パーセントとなっている。

出会った頃の彼女は、私よりもずっと大変な状況にありながら、実によく笑う明るい人だった。私たちは毎晩のように、消灯後の病院の外来ホールでいっぱい話をした。知り合ってしばらくは私たちが向き合っている病気のことが話題の中心であったが、一通り互いの「病気自慢大会(と称されていた)」が終わってネタも尽き、涙も涸れてくると、今度は一転して互いの過去の恋愛事情や、その日来ていた見舞い客との関係に興味津々。
彼女は、「私は結婚してるから面白くないでしょ」と言って、私の話ばかり聞きたがった。当時、これから先の恋愛について悩んでいた私に、彼女は「病気だろうと、恋はしなさい!」と背中をバシッと強く叩くのだった。

日中は患者として必要な治療を受けていても、9時の消灯を過ぎて病棟を抜け出してからの私たちは、ただの普通の女の子のように、ケラケラと笑いながら楽しく話すことの方が多かった。友達と、お茶一杯でカフェに2時間も居座っているかのような、そんな感じだろうか。私よりずっと入院期間が長い彼女の方が先に部屋に戻ることが多かったが、遅くまで話し込んで一緒に病棟へ帰る時は、詰め所の前で身をかがめて笑いをこらえながら、スリッパの音を立てないように忍者のように小走りした。

彼女は、当時の私と違い、自分が若いからという理由で周囲から注目されたりすることをそれほど嫌っていなかった。私はそれまで色々な場所でたくさんの人に「若いから大丈夫」と慰められたり、かと思えば「若いのに」とかわいそうがられたりして、その「若い」という言葉に固執し、過敏に反応していた。実際のところ、病気になってしまえば若くても高齢でも受ける治療は同じか、あるいは「若いから念のため」という理由でさらに治療を追加されたりするくらいで、治療においては条件はみな同じだ。インターネットの世界では、自分の年齢を言うだけですぐに名前を覚えてもらえたり、入院生活を共にした他の患者さんからは、娘や孫でもあるかのようにかわいがってもらえたりという嬉しい点もあることは否めないのだが。

「そんなこと言ったって、ウチらは本当に若いもん。私だってまゆちゃんのこと知った時は、『若いのに』かわいそう! って思ったよ。確かに若いとマイナスポイントの方が多いのは事実だけど、まぁ、そんなもんだよ」
もっと盛り上がるつもりだったのに、彼女からの言葉はそれだけ。しかし不思議なことに、それまで思い悩んでいたのが嘘のように、私まで「ま、そんなもんかね」と思えるくらい、自分の若さなんて「しかたない」ことになってしまったのである。

 ところがある日、彼女のほうから話を切り出してきた。
「ウチらみたいに若い患者っていうのはさ、おばあちゃんになってから発病したっていうのとは全然違うよね。人生経験から何から全部違うじゃん」
私はその意図がわからずしばらく話に耳を傾けた。すると、
「やっぱり、若者患者が『がん患者業界』を変えてかなくちゃいけないのよ!」
いきなりそんな展開だ。彼女は退院してある程度元の生活に戻れたら、同じ病気の人たちとの情報交換や交流というものに積極的に取り組んでみたいと熱く語ってくれた。

完治が難しいとされる自分たちの病気と、それを迎え撃つ「日進月歩」の現代医療。それらに常に関心を持ち続けるためにもどんどんアンテナを張り巡らせなければならない。何よりも私たちが「若いから」珍しいのであれば、その私たちだからこそ発信できる情報というのも必ずあるはずだ、というその意見はもっともだった。私と彼女がこうして出会えたことに運命を感じ、互いのことを珍しがるくらいなのだから、どこかで私たちのことを探している仲間もいるはずだ。何より、私たちもそんな仲間にもっともっと出会いたいと強く願っていた。

そして私たちはその晩、「がん友の契り」を交わしたのである。退院して、治療にひと区切りがついたら、一緒に患者会に入ってメチャメチャ張り切って活動するのだと。

とりあえずしばらくの間はお互いに治療を頑張って、「始動」の日には病院じゃない、もっとオシャレな場所で会おう! と励ましあった。

 彼女が亡くなって半年後、私は中学時代からの親友と一緒に大雪山を訪れ、道内各地から集まった「星見人(ほしみすと)」の方々に混じって年に一度の天文イベントに初参加していた。メインである夜の観望会の頃には、運良く満天の星空になった。

 見渡す限りどこまでも星たちで埋め尽くされた空を見上げながら、私は今まで経験したことのない、言葉では何とも表現できないくらいの感動を味わっていた。私の住む札幌の街では、こんな夜空見たことがない。いや、今日ここに来なければ、私はずっと、いつも見上げている空の上には、本当はこんなに綺麗な星空が広がっているんだということに気が付かなかっただろう。隣で感動している友人と、こんなことを話した。
「地球ではさぁ、今の時代いろんなものが発達して、何でも可能になってきてるけど、人間がどんなに頑張ってあの星をどうにかしようとしたってどうすることもできないで、ただ黙って観てるだけじゃない? それに、今観てる星はもうこの世界に存在すらしていないかもしれないんだよね? なんかこうしてると小さいものだね、ウチら人間なんてものは」
嘘みたいに星だらけな夜空を仰ぎながら、本当に自分なんて「ちっぽけで無力」なものに思えてならなかった。

そんなことを考えていると彼女のことを思い出した。私はあの頃、彼女に助けてもらってばかりで何もしてあげることができなかった。生きていたいとあれだけ強く願って信じていたのに、乳がんという病気を目の前にして、彼女も、そして私も全くの無力だったなぁ。

私は、彼女と交わした「がん友の契り」を実現するため、退院後の数か月間抗がん剤治療を受けながら、現役患者の一人としてできる限りの活動を始めた。患者仲間で立ち上げた新しい患者会の会報作りは、その第一歩だった。夏には自分のホームページを立ち上げ、同年代の仲間も着々と増えてきている。私の住む北海道には同年代の仲間がいないけれど、日本全国には一緒に頑張ろうと言ってくれる「がん友」がいることがわかり、今は寂しくない。唯一寂しいといえば、やはり私をここまで導いてくれた彼女にだけは、もうどうやっても会えないということだろうか。もし今の自分がもう一度彼女に会えたら、どんなことを話すのだろう?

私の心に強く残っていたはずの彼女の顔や声は、毎日のようにあの頃のことを思い出しているにも関わらず、実は少しだけ輪郭がぼやけ始めている。本当の意味で彼女と過ごした短い時間が、私の中で「思い出」になってきているのかもしれない。それだけ、今の私の心にはたくさんの新しい出会いや経験がしっかりと刻まれているのだろう。彼女もきっと今ごろ、私の動向を見守りながら応援してくれているに違いない。
彼女が私にしてくれたみたいに、私も誰かの力になれるのなら、それはとても嬉しいことだ。今回こうして彼女との約束を『おっぱいの詩(うた)』というタイトルの本という形で実現できたことに、心から感謝したい。


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