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中田 薫は山梨県甲府市生まれの日本の法制史家で、日本法制史を専門としました。 ”中田 薫”(2023年8月 吉川弘文館刊 北 康宏著)を読みました。 自然法観念のうえにドイツ歴史法学と自由法論を応用し、日本の歴史を個人の権利意識から私法史として捉え直した、中田 薫の生涯を紹介しています。 中田 薫は第二高等学校をへて、1900年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業しました。 その後、同大学院に入学し、1902年から東京帝国大学法科大学助教授となりました。 1908年から1911年まで、文部省外国留学生としてヨーロッパに留学しました。 1910年に法学博士の学位を授与され、1911年に教授となりました。 1925年に帝国学士院会員となり、1937年に大学を退官しました。 日本の中世法が、ドイツ中世の制度と類似することを明らかにしました。 後年の村や入会の研究でも、ドイツとの比較を通じてその法的性質を解明しました。 1946年に文化勲章を受賞し、1951年に文化功労者となりました。 1946年に貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年の貴族院廃止まで在任しました。 北 康宏さんは1968年大阪府生まれ、1992年に同志社大学文学部文化学科を卒業しました。 1994年に同大学院文学研究科博士課程前期を終了し、1997年に博士課程を後期退学しました。 1999年に博士文化史学(同志社大学)となり、2001年に日本学術振興会特別研究員となりました。 同志社大学、京都造形芸術大学、その他の非常勤講師を経て、2005年に同志社大学文学部専任講師となりました。 2009年に同志社大学文学部准教授となり、現在、同大学文学部教授を務めています。 中田 薫は、1877年に山梨県甲府市紅梅町で生まれました。 父親は国家官僚の中田直慈、母親はワカといい、四男二女の兄弟の長男でした。 中田家は羽後国、現、秋田県亀田藩の士族であり、直慈はその長男でした。 若くして郷土を離れ、薫の生まれた頃には権中属として山梨に赴任していました。 亀田藩は、岩城家を藩主とする外様2万石、藩庁は亀田城に置かれていました。 東北戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりましたが、同盟を脱退して新政府側に与しました。 しかし、新政府軍の先鋒として酷使され、庄内軍に敗れた際に見捨てられました。 その後再び庄内軍と組んで戦いましたが、新政府軍に敗れ降伏しました。 反新政府軍となり、2000石減封されて維新をむかえました。 直慈は幼くして学を好み、鳥海弘毅・久野謙次郎とともに藩校長善館の三羽烏と称されました。 長じて藩校教授、学監となりましたが、戊辰戦争では斥候として活躍した文武両道の人物でした。 1870年に三人は貢士に抜擢されて、大学南校で洋学を学び、国典は平田鉄胤に教えを受けました。 その後も東京に残って、1874年に大蔵省に入省し、山梨県少属として官僚の道を歩みました。 1880年に大蔵省租税局四等属となって、一家は一時東京に移りました。 1884年に鹿児島県収税長に任ぜられ、鹿児島に移りました。 薫はこの時7歳で、すでに東京の尋常小学校に通い始めていました。 直慈はのちに、内大臣秘書官兼宮内書記官、大正天皇の東宮主事を務めました。 薫は、鹿児島師範学校付属小学校に転校しました。 1890年7月に鹿児島師範学校付属小学校を卒業し、鹿児島高等中学造士館予科補充科に入学しました。 そして1893年に、直慈が岐阜県収税長への転任を命じられました。 家族は岐阜に転居しましたが、薫は第三高等中学校予科に転学し、叔父を保証人として寄宿舎に入りました。 1894年に第三高等中学校が改組され、本科は解散し他校へ転配されました。 鹿児島を除く6校を高等学校と称し、本科二年から大学予科三年へと改正されました。 第三高等学校には大学予科が置かれず、帝国大学進学資格を得られない専修コースに改組されました。 本科生は、一高114名、二高78名、四高31名、五高55名、山口高13名、鹿児島高造士館1名となりました。 転配の選定基準に関する資料は確認できませんが、成績席次で選抜されたようだといいます。 薫は、第一高等学校は落選し、第二希望の第二高等学校転学となりました。 1894年に、仙台の第二高等学校予科第一部第一年に転学しました。 1896年9月に予科第一部第三年に進学し、級長は粟野健次郎教授でした。 翌年3月、予科生たちの吉村寅太郎校長への不満が爆発して、校長排斥運動が起こりました。 校長は温厚な人物でしたが普段から小言を重ねていたため、豪快な旧制高校生には不満だったといいます。 しかし、このとき薫は所信を異にし、全校学友と快を分かって参加しませんでした。 薫は、時代の潮流に左右されない自主自立の毅然とした人物でした。 ボイコットは2週間以上続きましたが、最終的に校長の依願免官と予科生の2週間の停学処分で落着しました。 後任の校長には澤柳政太郎が着任し、その尽力で揃って無事卒業することができました。 1897年9月に、薫は東京帝国大学法科大学政治学科に入学しました。 総長は潰尾新、法科人学長は梅謙次郎が就任していました。 2人は穂積陳重とともに、民法制定の中心的役割を担った人物です。 薫はしばらく青山の自宅から通っていましたが、桜木神社境内に隣接する晃陽館に下宿しました。 講義はゴシック風煉瓦造2階建て本館と、その後の別建て教室2室や大講堂木造建物で行われました。 在学中に最も感銘を受けた講義は、第1学年から第3学年まで講じられた梅謙次郎の民法講義だったといいます。 梅はフランス法が基礎にあり、ドイツにおける民法編纂を横目で見つめつつ民法の起草を進めていました。 明治民法は1896年に第一編総則・第二編物権・第三編債権が、1898年に第四編親族・第五編相続が公布されました。 薫は、出来たての前編と起草中の後編について、起草者から直々に学ぶことができました。 薫は梅のことを恩師として、深く敬愛しました。 当事者の梅の魅力的講義から多くを学び、独自の研究視角を獲得していったといいます。 権力関係を軸として描かれてきた公法的歴史の背後に、隠れた私法的水脈を発見したのです。 そして、薫の法制史研究に影響を与えたのが、宮崎道三郎の比較法制史講義と法制史講義でした。 歴史に関心を持っていた薫はその学問に魅せられ、そこから具体的な研究方法を学びました。 宮崎は穂積陳重に次ぐ長老ですが、研究に専念し清貧を貫きました。 薫の学問基盤は、宮崎から学んだゲルマン法研究者の歴史法学に求めるのが一般的です。 しかし、後世の法社会学者やマルクス主義者と比較すると、薫の受容は異質です。 梅から学んだ、柔軟で現実的な視角や自然法に基づく意識や観念を基礎に置いています。 そして、多様性を把握する視角が本源的な思考基盤をなしています。 薫は政治学科に進んで父親と同じ官僚の道に進む予定でしたが、学問に魅せられ法制史研究を志しました。 1900年に、修学年限3年で大学を卒業しました。 薫は法制史研究への志を固め、宮崎のもとで法制史研究を志しました。 1900年9月に大学院に進学し、鎌倉時代の法制を課題として宮崎研究室に所属しました。 薫は日本における法制史学の創始者で、東京帝国大学法学部教授として堅実な学問的人生を歩みました。 ドイツ歴史法学と自由法論を用い、従来の公法史的な日本歴史の奥の私法史の水脈を捉えました。 昭和期には文学部にも出講し、人文科学系の日本史学の発展に決定的な影響を与えました。 また、歴代総長のブレインとして、大学の自治と学問の自由を守るために戦った大学人でした。 本書では、薫の学問を理解する基礎作業として、その人生の忠実な復元を目指したといいます。はじめに/第一 転勤族官僚の子の日本各地での文化体験/第二 東京帝国大学法科大学における学問形成と恋愛/第三 大学院・助教授時代の研究と戸水事件の体験/第四 欧州留学/第五 法学部「若手グループ」の活躍と大学の自治/第六 中田の教育理念と学問の自由/第七 大学行政での活躍と講義準備・学生指導の日々/第八 関東大震災後の大学復興と研究の進展/第九 法学部長としてー左翼運動と学生処分/第十 軍国主義の抬頭と大学自治の危機/第十一 中田の退官と戦時下の大学/第十二 戦中・戦後の生活と静かな晩年/おわりに/中田家関係系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]中田薫[本/雑誌] (人物叢書) / 北康宏/著日本法制史講義 公法篇【電子書籍】[ 中田薫 ]
2025.07.19
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高台院は戦国時代の女性で、豊臣秀吉の正室です。 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。 幼名はねねと言い、織田信長の家臣の豊臣秀吉を支え、のち戦国大名の妻として、さらに関白秀吉の妻として尽力した高台院の生涯を紹介しています。 1549年生まれで、杉原定利の次女ですが、叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野長勝に養女として入りました。 生年については、天文十一(1542)年説、天文十七(1548)年説、天文十八(1549)年説があります。 本書では、寛永諸家系図伝や高台院画像などから、天文十八年説を採っているといいます。 幼名はねね(寧々)といい、いっとき吉子と称しました。 1588年に従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名があります。 諱には諸説あり、一般的にはねねとされています。 秀吉や高台院の署名などは、おね、祢(ね)、寧(ねい)表記もあります。 近代に戸籍ができる前は、女性の名前は大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。 実際の生活の場では、名前を必要とする場面がほとんどなかったいためです。 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで姫と呼べばことが足りました。 姫は若い娘に限らず、老齢の女性であろうと姫は死ぬまで姫でした。 婚姻して妻になれば、夫や婚家の格式に応じて、御台所、御簾中、御前、奥方、御上などと呼ばれました。 ねねの実家は杉原氏といい、尾張国春日井郡朝日村の武家です。 尾張杉原氏は、桓武平氏だと称しています。 南北朝時代に、備後国南部に桓武平氏の杉原(椙原)氏がいました。 室町時代には幕府の奉公衆となるなど、この地の有力武士でした。 1561年8月に、織田信長の家来の木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉と結婚しました。 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、1985年に九州大学文学部史学科国史学専攻を卒業しました。 1991年に、九州大学文学研究科博士課程を中退しました。 博士(文学、九州大学)号を取得し、専攻は日本近世政治史です。 1993年から、九州大学文学部国文学研究資料館・史料館助手となりました。 その後、東京都立大学助教授、九州産業大学教授等を務めました。 現在、九州大学基幹教育院教授を務めています。 ねねは14歳の時、24歳だった秀吉と結婚しました。 秀吉との結婚について、身分の差から反対されたといいます。 秀吉の出自については諸説あり、定かではありません。 一般的には、父はもと足軽の農民だったといわれます。 ねねは結婚した当時、織田信長の家臣浅野長勝の養女となって浅野家から嫁いでいます。 ねねは浅野家の養女でしたが、母方の姓が木下ということで入り婿の形をとりました。 この後、秀吉は木下藤吉郎と名乗ることになりました。 その後、秀吉は1573年に近江小谷城主となり、1581年に姫路城を築いて本拠としました。 1582年に明智光秀が織田信長を本能寺に襲ったとき、ねねは近江長浜城にありました。 ねねは難を避けて、浅井郡の山中にある大吉寺に逃れました。 間もなく山崎の戦で秀吉が光秀を破ると、長浜に帰り秀吉と再会しました。 その後は、秀吉とともに大坂城に移り住みました。 1585年に秀吉が関白になると、ねねは北政所となり従三位に叙せられました。 北政所と呼ばれた人物は数多く存在しましたが、ねね以降はねねと不可分となりました。 女性の場合は、置かれた立場や相手との関係で呼び名が変化します。 娘なのか、妻なのか、母なのか、隠居なのかによって、これらの呼称を用いれば事足りました。 そのため、名前をわざわざ用いる必要がなく、記録に名前が残されることは少なかったのです。 女性の名前が不明の場合、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。 1588年4月14日に後陽成天皇の聚楽第行幸があり、還御の翌19日付をもって従一位に叙されました。 1598年3月15日に醍醐の三宝院で秀吉の最後の花見の宴が催され、北政所も行をともにしました。 同年8月18日に秀吉が没すると、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称しました。 翌年、徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠棲しました。 1606年に秀吉の冥福を祈るため、徳川家康にはかって京都東山に高台寺を建立しました。 ここを終焉の地として禅床三昧の日々を送り、1624年9月6日に76歳で没しました。 ねねは、秀吉との間に子どもはいなかったものの、仲睦まじい夫婦だったと言われています。 高台院の76年におよぶ生涯を振り返り、人物像を一言で表現するならば、「努力の人」であったといいます。 もともと、高台院自身も尾張庶民出身の娘でした。 秀吉と夫婦になったことで、人臣として最高位の従一位を得て、日本女性を代表するトップレディとなりました。 当時、女の人生は男に左右されましたので、そうした女の性を生きた代表格といもいえます。 その地位上昇の過程において、それ相応の振舞いをするための努力を惜しみませんでした。 そこには、想像を超える努力があったに違いないのです。 その姿は、従来は糟糠の妻として語られることが多かったです。 夫に献身的であったという点については、そうかもしれないといいます。 ただし、それは当時一般の女性に求められた良き妻の資質でした。 しかし、高台院の前半生は、秀吉の身近にいて支える姿からは程遠いものでした。 夫は戦場の日々で、1577年からは播磨姫路に単身赴任となりました。 たまに長浜城に戻ってきても、ゆっくり過ごす時間は多くありませんでした。 子にも恵まれず、長浜城で寂しく秀吉の帰りを待つ身でした。 しかし、時間を無駄にすることなく、自分磨きに努力していたのです。 大名の妻として恥ずかしくない教養を持ち、身なりを整えることに余念がありませんでした。 秀吉が戦陣に明け暮れるなかで、夫婦関係は冷めかけもしましたが、離縁をせずに乗り越えました。 高台院の地位を不動にしたのは、自身を支える人々の存在も大きかったです。 実母朝日、養母七曲は、豊臣家の親族として高台院の家政を助けてくれていました。 兄の木下家定は、常に高台院のよき理解者でした。 姉の長慶院は、同じく子を持たない者同士で精神的な支柱でした。 また、高台院は「慈悲の人」でもありました。 破天荒な秀吉と連れ添うことができたのは、慈悲の心があったゆえです。 何度、家康から裏切られ、ひどい仕打ちを受けても、家康を許し礼節を欠くことはありませんでした。 高台院が一芸に秀でたとすれば、裁縫が得意だったようです。 趣味では、花を愛でていたことが、贈答のありようから窺えます。 高台院にも文才があったかもしれませんが、和歌は嗜んだものの辞世は残されていません。 高台院は現代に至るまで、天下人豊臣秀吉の妻「北政所」として名を歴史に大きく刻んでいます。はしがき/第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)/おわりに/杉原家・浅野家・木下家略系図/豊臣家略系図/略年譜/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]高台院 (人物叢書 323) [ 福田 千鶴 ]【中古】 高台院おね 長編歴史小説 / 阿井 景子 / 光文社 [文庫]【メール便送料無料】【最短翌日配達対応】
2025.07.05
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