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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.12.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 柴田勝家は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えた戦国武将です。
 ”柴田勝家 織田軍の「総司令官」”(2023年6月 中央公論新社刊 和田 裕弘著)を読みました。
 織田家きっての重鎮であったが、信長没後の争いで羽柴秀吉に出し抜かれた柴田勝家について、その実像に迫ろうとしています。
 斯波氏の諸流柴田土佐守の子として尾張愛知郡に生まれたとされていますが、生年未詳です。
 出自は不明で、柴田勝義の子といわれますが確実な資料はありません。
 生年も不詳で、1526年説や1527年説もあり明確ではありません。
 1568年の上洛以来、各地で奉行職をこなし、伊勢の北畠攻め、北近江の浅井攻め、越前の朝倉攻めなどに従軍し活躍しました。
 1570年に六角丞禎に攻められて近江の長光寺城に篭城中、城には戻らない覚悟で猛襲しついに敵を破りました。
 1575年の越前再往後は越前国の支配を任され、以降、北陸道の総督として、越前国の支配を強化しました。
 さらに、加賀国、能登国、越中国へ侵攻し、着実に成果を上げました。
 同年に信長が越前の一向一揆を滅ぼすと、越前の内49万石を与えられました。
 宣教師ルイス・フロイスから、日本で最も勇猛果敢な武将と評されたことで知られています。
 織田信長の筆頭家老で、戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨として知られています。
 織田家随一の重鎮として信長の信頼が厚く、北陸方面軍司令官に任じられました。
 北ノ庄、現在の福井市中心部に、壮大な天守閣を持つ城を築きました。
 一乗谷から商人や職人を寄せて足羽川に九十九橋を架橋し、城下町の形成に努めました。
 また、国中掟書を掲げて刀狩りを行うなどして、安定的な統治を行いました。
 59歳まで独身でしたが、60歳のときに織田信長の妹のお市の方の再婚相手に選ばれました。
 お市の方は1547年生まれで、浅井長政の妻の小谷の方でした。
 1573年に夫の長政が信長に攻め滅ぼされた後、茶々、初、江の3人の娘とともに尾張に帰っていました。
 ですが本能寺の変により運命は暗転し、主君の弔い合戦で後れをとりました。
 そして、1583年に賤ケ岳の戦に敗れ北ノ庄に敗走し、妻お市の方と共に城にて自害しました。
 和田裕弘さんは、1962年奈良県に生まれの戦国史研究家です。
 織豊期研究会会員で、著書に、『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』ほかがあります。
 織豊期研究会は1995年3月創立で東海地域に基盤を置き、会誌『織豊期研究』は第18号を数えます。
 三重県津市栗真町屋町1577の、三重大学教育学部日本史研究室内に事務局があります。
 柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、大名として織田氏の宿老でした。
 もともと信長の父信秀に仕え、尾張国愛知郡下社村を領したといいます。
 1551年に信秀が死去してから、信長の弟信勝の家老として歴史に登場しました。
 信長の家老の林秀貞兄弟と共謀して、信勝を織田家当主にしようと画策しました。
 しかし、信長との1556年の稲生原の戦いに敗れて降伏しました。
 その後、信勝が再度の謀叛を企てた時、信長に密告して信勝が誘殺されることになりました。
 これを機に信長に転仕し、信長の家督継承のころには織田家の重鎮でした。
 のちに越前国の支配を任され、主君の織田信長に従い、天下統一事業に貢献しました。
 歴史好きの人で柴田勝家という戦国武将を知らない人は、まずいないでしょう。
 知名度は抜群ですが、勝家にはどうしても秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまといます。
 1566年の墨俣一夜城の築城に失敗し、その功を秀吉に奪われました。
 1582年の本能寺の変後の対処では秀吉の後手に回って、清須会議で秀吉の独断を許しました。
 最後は1583年の賤ケ岳の戦いで、猿冠者と蔑んだ秀吉に敗北して自害して果てました。
 織田信長在世時から、勝家と秀吉は仲が悪かったといいます。
 猪突猛進型の猛将が、抜け目のない秀吉にまんまとしてやられたという風情です。
 しかし、秀吉が名乗った「羽柴」という名字は、織田家重臣の丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴組み合わせたものと推測されます。
 もし勝家と仲が悪ければ、勝家の名字から一字を拝借することはないでしょう。
 勝家に対する研究も、信長の家臣に対する研究の進展とともに深まっています。
 北陸車の総大将として上杉氏を滅亡寸前まで追い詰め、北陸道の総督として伊達氏などとの外交にも手腕を発揮しました。
 また、本能寺の変後の勝家は、中国人返しを成功させた秀吉を上回るスピードで光秀討伐に向かったといいます。
 ただし、地の利か悪く秀吉に後れをとったため、実現はしなかったことが明らかになっています。
 織田一門として、野心に燃える秀吉を掣肘するため、信長三男の信孝、織田家重鎮の滝川一益らと結び、反秀吉の行動を起こしました。
 最終的には秀吉と全面対決し、賤丿岳の戦いで敗れ、本城である北庄城に戻って壮絶な最期をとげました。
 その後、秀吉は勝家を斃した勢いをもって、天下統一を成し遂げました。
 秀吉にとって最大の敵は、明智光秀や徳川家康などではなく、織田家の総司令官と評された勝家だったでしょう。
 秀吉は勝家が最大の敵であると自覚し、賤ケ岳の戦いを天下分け目の戦いと認識していました。
 勝家との戦いが、秀吉の天下を決したのです。
 徳川四天王ならぬ織田四天王という言葉があるらしいですが、当時の史料には登場しません。
 検索すると、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人を指す場合が多いといいます。
 この中に、羽柴秀吉も佐久間信盛も入っていないのです。
 秀吉はのちに天下人となったので別格扱い、佐久問信盛は追放されたことで除外されたのでしょうか。
 しかし、信長の家臣の中で吏僚系などを除いた武臣としては、佐久間信盛と柴田勝家が最有力家臣です。
 信盛追放後は、筆頭家老ではありませんが、勝家が晩年の信長の家臣の中ではナンバー1でしょう。
 秀吉や光秀より格が上でしたが、本能寺の変後の秀吉の武功によって立場は逆転しました。
 勝家は信長亡き後も織田家に忠実な家臣であり、野心は感じられません。
 守勢の勝家が、強烈な野心を持つ秀吉に勝利することは困難だったでしょう。
 それでも勝家は織田家を守ろうとした、いわゆる忠臣でした。
 これが勝家の限界だったという見方もできようかといいます。
第1章 尾張時代/第2章 近江時代/第3章 越前時代/第4章 本能寺の変と清須会議/第5章 賎ヶ岳の戦い/終章 勝家王国の崩壊

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Last updated  2024.12.21 09:16:53
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