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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.01.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 西郷従道=さいごうつぐみちは、1843年薩摩国鹿児島城下生まれの明治の軍人、政治家、元老です。
 ”西郷従道ー維新革命を追求した最強の「弟」”(2024年8月 中央公論新社刊 小川原 正道著)を読みました。
 従道は、幕末期に兄隆盛のもとで尊攘派志士として活躍しました。
 しかし、西南戦争で反乱軍指導者の兄に背を向け、国家建設を優先しました。
 従道は薩摩藩の下級藩士であった西郷吉兵衛の第六子三男として、鹿児島城下の加治屋町に生まれました。
 母親は同藩士椎原権右衛門の娘マサで、西郷隆盛は従道の長兄です。
 剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。
 有村俊斎の推薦で薩摩藩主の島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号しました。
 兄隆盛の影響のもとで、若くから国事に奔走しました。
 兄・隆盛を大西郷と呼び、弟・従道を小西郷と呼ぶことがあります。
 父親を幼くして亡くした従道にとって、15歳以上離れた隆盛は父代わりの存在でした。
 幕末期に兄や大久保利通のもとで尊王攘夷の志士として活動し、戊辰戦争では大怪我を負いながら活躍しました。
 その後、薩摩藩を代表する若手官僚・政治家として、新政府に登用されました。
 隆盛は従道の出世を後押しし、従道と妻・清子の縁談の仲立など私生活をサポートしました。
 しかし、隆盛の苫悩と破滅への道と反比例するように、成功と栄達を遂げていきました。
 西南戦争で没して以降は賊軍の将として、むしろ従道には重荷となりました。
 従道はそれを背負いながら、自らの意志と才を頼りに主に軍事畑でキャリアを積みました。
 小川原正道さんは1976年長野県東御市生まれ、1999年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業しました。
 2003年に同大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程を修了し、博士(法学)となりました。
 武蔵野短期大学国際教養学科専任講師・助教授、武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部助教授・准教授などを務めました。
 2008年より慶應義塾大学法学部准教授、2013年より慶應義塾大学法学部教授となりました。
 従道は斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じました。
 1858年に島津斉彬が没すると、藩内では革新派の謹王党と守旧派の佐幕派は対立しました。
 革新派は、幕府による朝廷の軽視と藩主の忠義による斉彬の遺志の無視に憤慨しました。
 そして、隆盛ら薩摩藩士によって大老の井伊直弼などの襲撃が計画されました。
 従道は薩摩藩士による大老井伊直弼襲撃計画に加わり、急進的な尊王攘夷運動を行いました。
 1862年には寺田屋事件に連坐して、藩庁より謹慎を命ぜられました。
 まもなく赦され、薩英戦争・禁門の変にも薩軍の一員として参加しました。
 1868年には鳥羽・伏見の戦にも従軍し、重傷を負いました。
 1868年に明治維新により明治政府が成立すると、従道は新政府に出仕しました。
 1869年には山県有朋とともに、兵制研究のため渡欧しました。
 帰国後、兵部権大丞陸軍少将、兵部少輔、陸軍少輔、同大輔に昇進しました。
 1874年には陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ、台湾へ出兵しました。
 1876年には征台の功により、最初の勲一等に叙せられました。
 1878年には参議兼文部卿、次いで陸軍卿に就任しました。
 1781年には農商務卿、1884年には伯爵、1885年には内閣制の成立を機に海軍大臣となりました。
 海軍の基礎確立のために、樺山資紀、山本権兵衛、安保清康らを抜擢しました。
 1890年には山県内閣の内務大臣、1892年には枢密顧問官を歴任しました。
 1893年には伊藤博文内閣の海相に復帰し、海軍の整備拡充に尽力しました。
 1894年には最初の海軍大将となり、1895年には侯爵となりました。
 1898年には元帥府に列せられ、山県内閣の内務大臣となり、1902年には大勲位菊花大綬章に叙せられました。
 従道は兄隆盛ゆずりの包容力に富んだ性格の持ち主で、実務には疎かったといわれます。
 細事に拘泥しない茫洋たる人柄により、終始政府の要柱として広い徳望を集めたといいます。
 1902年に胃癌のため享年60歳で死去し、多磨墓地に埋葬されました。
 明治期に限れば、地元・鹿児島に足を引っ張ら続けた隆盛に比して、東京で勇躍する従道の姿は対照的でした。
 従道は華やかなキャリアを歩みましたが、その道程には何時も偉人な兄の影がありました。
 隆盛は薩摩藩と明治政府との間で板挟みの苦悩を味わいましたが、従道は隆盛と明治政府の問で葛藤しました。
 1873年にその葛藤が表面化し、隆盛は征韓論をめぐる政変に敗れ政府を去りました。
 これに同調した鹿児島出身の多くの近衛将兵、官吏などが、職を辞することになりました。
 陸軍大輔だった従道は天皇の命で辞職を思い止めるよう説得しましたが、願いは届きませんでした。
 従道自身、身の処し方にはかなり迷ったに違いありませんが、明治政府側に身を置きました。
 そして、1877年2月に、鹿児島に帰郷していた隆盛が鹿児島県士族を率いて決起して西南戦争が始まりました。
 従道は、自分も政府を去っては天皇に対する忠誠を欠く恐れがあると痛感して踏みとどまったといいます。
 政府に残ることは、隆盛も了解済みであったそうです。
 従道は、陸軍省を預かる陸軍卿代理として、主に政府軍の編成、兵姑、情報収集活動に従事しました。
 兄の反乱という未曽有の事態に対し、冷静に状況を見通し忠実に幟務にあたりました。
 隆盛が先導した維新大業の基礎を固め国家の発展に貢献し、天皇への忠誠を尽くしました。
 従道は葛藤の末に兄と微妙な距離を保ちつつ、自らの進路を定めていったといいます。
 本書ではまず、従道の幼少期からの成長過程を兄・隆盛との関係を中心に描写しています。
 続いて、明治期以降の従道のキャリア形成と国家建設への関与の内実や過程について、分析を試みています。
まえがき/第1章 幼少期から陸軍官僚への道程/第2章 西南戦争と兄・隆盛の死/第3章 日本海軍建設と日清戦争/第4章 政治家としての軌跡ー宰相待望論と兄の「罪」/第5章 晩年と私生活/終章 「道」に従って/あとがき/参考文献/西郷従道略年譜





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Last updated  2025.01.04 07:58:40
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