こっぱんの日記

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2017.06.06
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今日は、一日中家にいて、俳句の資料をプリントしたり、関俳連への提出物をまとめたりしたあと、小学校の同窓会の報告資料の最終まとめと発送までを済ませた。

同窓会の報告には、急遽、写真の原画をCDに入れることを思いつき、実施した。2日間の写真と名簿をCDに入れ、ラベルの印刷のした。封筒の印刷と封筒への封入作業を行い、郵便局へ持ち込んだ。

先月17日に同窓会が終わって以来、報告作りの作業にほぼ掛かり切りであったが、なんとか一段落し、ほっとしているところである。プリンターのインクの黒がインク切れになった。インクと取り替えろというメッセージが出るが強引にプリントを続けている。

今日の画像は、9日に行った奈良の興福寺の景。左上より、東金堂と五重塔、東金堂、東金堂、中金堂(建設中)、同、南円堂、東金堂と五重塔、五重塔、猿沢池からの五重塔


和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。
(以上ウィキペディアより)





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Last updated  2017.06.06 20:18:38
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