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マナとリンクするもの


そもそも、どうしてマナセラピーって私に合ってるんだろう
って考えてました。

自分の宗教観のようなものがないと、
今思うことにはたどり着けなかったなぁと
あらためて思いました。

てなわけで、マナセラピーの考え方も含めて
ちょっとごちゃごちゃ(笑)書きたくなりました。


それまでアロマテラピーとか、そういう言葉は知っていて
自分が始めようと思ったきっかけはいくつかありました。

「テラピー」とは、治療・治癒などを指している言葉なので、
マナセラピーもきっと誰かや何かの心を癒やすものなのかな、
というイメージでした。

ただ、マナについて書かれている事やネットでの記事を見ていると
最初の頃は「怪しい団体かも」とは思いました(笑)
セミナーへ行き、また記事を色々読んでいくうちに、
自分と向き合う為の考え方を知る場、
という気がしてきました。



日本には数多くの宗教や宗派があります。
宗教によっては食べてはいけないものがある、とか、
お布施を払ってどうのこうのとか、
毎日どこかの方向に向けて祈りをささげるとか、色々ありますよね。

私が一時期、一番身近な宗教だったキリスト教について
子供の頃からの心境の変化も交えて書いてみます。


小学生~中学校の頃に、毎週教会学校に通っていた時がありました。
きっかけは何だったか忘れましたが、友達が通っていて
「来てみない?」って誘われたから、だったかな。

毎週聖書の中のイエス様の行なった
奇跡の数々を先生がわかりやすく話し、賛美歌を歌い、
献金をして、お祈りをして…

聖書を読んだ箇所によって、スタンプを押して
(夏休みのラジオ体操みたいな感じ)
そのスタンプ数に応じて
みことば(聖書の中でイエス様が言ったといわれているお言葉)が
書かれているカードをプレゼントされ、
たくさん溜まると、それがちょっとしたステイタスになる、なんてのもありました。

みことばは、信仰をしていない人にも
非常に心に残る言葉が多いし、共感しやすいと思います。


例えば有名な所で、「コリントの信徒への手紙1 / 13章4~ 7節」の

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

という言葉は、宗教問わずに染み入る言葉なのではないでしょうか。
似たような意味合いを持つ言葉は、他の宗教にも多く出てきますよね。


個人的には、

「コリントの信徒への手紙2 / 4章 8、9節」の

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。


というみことばも、結構好きです。

旧約聖書の「モーゼの十戒」や「ノアの箱舟」といった話も
クリスチャンではなくても多くの人に知られる話ですね。


その教会学校では、
夏休みや冬休みのような長期休暇があると、
何日かの合宿のようなイベントがありました。
福島や群馬へ行ったんじゃなかったかな。

そこでキリスト教信者になると決意をした人が、先生達によってお祈りをされて
正式に信者として認めてもらうような儀式がありました。


その後、その信者として認定をされた人(儀式を終えた人)だけが、
次の日にみんなの前でその状況を話します。

「あかし会(だったかな)」という会の中で、
大勢の前で今まで自分がしてきた罪を述べて、
自分の罪を悔い改めて、これから精進します宣言をして
パチパチパチ(皆から祝福の拍手)…みたいなのがありました。

私は、何度合宿に行っても、なかなか信者になる決心がつかなかったです。
なんていうか…子供心に思っていたのは、
世の中のすべてが、イエス・キリストの教えだけで
果たして動いているのかしら、みたいな気持ちが強かったのかも。

周りの親族たちは、皆別の宗教の話をしていたし、
そんなに神様っていっぱいいるものなのかな、とか疑問も多かったです。

中にはしっくりこないなと思うみことばもありましたが、
子供だった私には、疑問を解決しようという気持ちもなく(知らない、の方が正しい)
難しい事に対しては、大きくなったら考えよう、なんて
お気楽な事を思っていました。

そして、
「いつも親には内緒でこっそり戸棚のおやつを盗み食いしていた」
とか
「毎日飲まなくちゃいけない薬を、親の見えない所で こっそり捨てていた」
といった、当時の私には重犯罪並みに思っていた、後ろめたい事の色々を
全部皆の前で暴露して、二度と出来ないと思ったら、
信者になる勇気がありませんでした(笑)
実はここが一番強く思っていたトコ。小さかったねぇ(笑)

合宿に行くだけ行っても、あかし会で話す事もないままでいたので、
なぜかなんとなく後ろめたくて、
合宿後明けのミサでは先生の目を見て話すことが出来なかったです。

合宿中に信者にならない人がいても、
先生達はすべての人を分け隔てなく接していました。
毎年合宿に来ない人や、途中で辞める人も結構いましたが、
そんな時でも、先生はその事について触れませんでした。

大人になってわかった事ですが、
その合宿中は、奉仕活動をメインにすると共に、
教会学校の先生達は、一人でも多く信者を作り、
布教活動を広めたい、という意図があるんだな、と。

そして信仰する、しないに関わらず、
ミサへ足を運ぶ人を拒まなかったのは、それもキリストの教えだったりしました。
来るものは拒まず、去るものは追わない という事なのかな。
と、そんな言葉は知らなかったけど、似たような気持ちを子供ながらに解釈していました。

毎週のミサの中で、皆から集める献金が教会運営の資金になり、
先生達は普段は牧師以外の仕事もし、
教会学校で行う事については、ボランティアで行っているようでした。


クリスマス会は、キリスト生誕の大イベントでしたので、
皆で手作りをして装飾品を用意し、
手書きの台本を作って、衣装を作って、先生が作曲をした曲で
ミュージカルっぽいお芝居をしました。
(私主役のマリア様演った(笑))

父がお芝居を観に来てくれましたが、母にも観て欲しいって思ってたりして。
終わった後は、先生が作ったケーキを食べて、お祈りをしておしまい。

暖房がない部屋で、夜遅くまで皆でクリスマス会の準備をしていると、
先生が1個50円位の小さいアップルパイを数個買い、
それを皆で分けて食べた、なんて記憶もあります。

擦り切れても破れても、綺麗に縫って
限界になるまで靴下を捨てないとか、
鉛筆も消しゴムも、小さくなっても工夫して使い切るとか、
頂いた飲み物は、1滴も無駄にせず飲み干す、などの
今で言う所のエコな行いも、そこでは当たり前なものでした。

教会学校に通っていた時、人を傷つけてはいけない、とか
すべての人を愛するように、とか
聖書の中のイエス様の話を元にした、人としての正しき行き方、
といった事を学んだのは、学校では聞いた事のない話で
興味深く聞けたし、良い経験にはなりました。

教会で教わった話を、家に帰ってから父に話すと
「いい事言ってる」とか「お前もその教えを学んで、行動しなさい」
とか言われましたっけ。
当時は具体的にどうしたらいいかって、何もわかってなかった(^_^;)

キリスト教について、多少その世界へ入ってみても
なんだか信仰する気があまりなく…
大人たちが一心不乱に宗教を信仰している様子を見て
「理由はわからないけど、信者って何か違う」と感じていました。


聖書の教えや、仏教などの教えの中の
根本的な考え方については、共感しています。
日々の生き方の指針として、今でも役立つ事は多いです。
仏教の世界観、存在論などは、特に共感する部分が多く、
日々の中に活きているものです。

誰かや何かの為に徳を積む事について、
損得で行わない事や、見返りを求めない事、
20代~30代の私はこのあたりが随分と欠落していたです。
あんなに子供の頃に教わったくせに。

結局、特定の宗教を信仰する事への疑問を持ったまま、
だけど時々見聞きする教えは
耳シャッターする事なく受け入れ、気付けば40年過ぎて…
出会ったのがマナセラピーでした。

マナとは、これらの宗教の源で、
イエス様やお釈迦様のさらなる上にあるもの、なんだそうです。
森羅万象、すべての存在である、という位置づけようです。

ハワイでマナとは、すべてのエネルギー、
愛や物が存在する力という位置付けです。

ですから、宗教を否定するという事もありません。
その上にある存在だから、下々の事はすべて後から出来たもので
つまりは否定する理由はない、という考えかな。

マナセラピーでは具体的な教えや、いわゆるみことばのような語録などもなく、
すべてを受け入れる、というスタンスのように感じます。

何でもあり、というとニュアンスが違うのかもしれませんが、
どんな宗教や偉い人の教えの中にある、
精神的な概念や、魂といった自然的存在のつながる所を指しているような
思想なのかな。と思っています。
文章化するのが難しい…


また、マナセラピーには、各宗教毎に異なるような約束事は何もありません。
好きなもの食べて、好きな事をして、徳を積む事。
それこそが、本来人間として生きる上で心地良い生き方である、と言っています。

ということは…

もしも、人類を作った神様が本当にいて、
それがアダムとイヴから始まったのであれば、
いや、そう仮定して人間という生き物を続けていくのであれば、
すべての人間がその命をまっとうするために必要なこととして
イエス様やお釈迦様が説いた事…
それが宗教や教え、という事になるわけですよね。

地上に何もなかった時から、人々が苦労して形にしていった
さまざまなものは、誰かが教えたりしたわけでなく、
知恵を授ける何かがあり、力を持っている誰かが働き、
その繰り返しで今があるわけで…

その原動力や行いのすべてが「マナ」であると
そういう解釈をしています。
「マナ」という単語自体、動詞にも名詞にも形容詞にもなり
セミナーでもそのように使われていました。


マナセラピーのセミナーへ行き、関心を強く持ったのは、
「マナ」というものの考え方に興味を持てた事と、
宗教のような押し付けや、制約がないという部分が大きいです。

最初は知らなかった事を見聞きする事は、それだけで楽しいし、
自分の中に知識を積み、そしてこれからの生き方のヒントを得る事が出来るかも、とか
いつか役立つかもしれないなぁ なんて気持ちでした。


マナの世界をちょっぴり垣間見た時に、自分の持っているものとの
リンクがうまくいくと、私の人生はもっと楽しくなるのではないかと
思うようになりました。

例えば、我流でかじった心理学の内容も、
今回長々と書いたキリスト教についても、
マナとうまいことリンクしているなぁと思う事が多く、
マナの世界観を知ると、すべてが繋がっているように感じたりしています。

…と、導入部としてはここまで。
この先は、より具体的なマナの世界について書きたいと思います。

今月にあるセミナーも、バイトが入っていて行けずですが
いつか行きたいし、自分の中にもあるかもしれない力を引き出したいなと
思っています。


2011.12.19



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