気がつけば、思い出し笑い

ショートストーリー 5



 香りは懐かしい思いや風景を思い起こさせる。
 それもひとつひとつ噛みしめるようにではなく強烈なくらい突然のフラッシュバック。

 昨日のことだった。後輩のエリちゃんが「先輩、これあげる」と小さな箱をくれた。中身はグリーンティのインセンス(お香)だった。

 今 巷で“ちょいプレ”って流行ってて。何でもない日にちょっとしたプレゼントを贈るんです。」
 エヘヘと笑いながらエリちゃんは
 「先週も失敗して先輩にお世話になっちゃったんで」と両手をひらひらさせる。
 なんだか ほっこり嬉しくなったので私もエヘヘと彼女真似をしながら「ありがとね」とお礼を言った。

 今日は珍しく有給休暇を取って、平日の昼間にゆっくりとした時間をすごしている。
 ふと、思いついて昨日もらったばかりのインセンスに火をつける。細長い煙が、窓から流れる風に左右に揺れるのを見ていたら、急に子供のころの夏を思い出した。


 父の仕事の関係で、転校が多かった私は何度目かの小学校で突然、学校へ行けなくなった。仮病ではなかった。朝になると必ず、熱があがり動けなくなるのだ。初めての環境の変化じゃないのに、新しい場所にうまくなじめない自分が不甲斐なく、苛立たしく自分でもどうしていいかわからなかった。

 そんな私に、両親はごくごく普通に接した。「たちの悪い夏風邪だねえ。」と言って朝ごはんも食べずに布団のなかで丸まっている私にタオルケットをかけ直してくれた。
 徐々に朝の喧騒が遠のき、静かな夏の昼が過ぎていく。風鈴がときおり、思い出したように鳴り、隣の部屋からは蚊取り線香のにおいがしていた。

 やがてぱたぱたという、聞きなれた母の足音とふすまを開ける音がして「冷麦 食べない?」という声を合図にやっと私は床から起き上がる。
 子供のころ 冷麦のなかに数本入っているピンクやグリーンの麺が好きで、それが食べたいばっかりに何把もの冷麦を母に茹でてもらった。
 母と向かい合い、朝顔の話や隣のおばさんの話をしながら冷麦をちょっとずつ口に運ぶ。夏の思い出といえば、家族でいった海や花火よりも強烈にこの風景を思い出す。

 その日 デザートは母が庭で作ったトマトだった。「今日は特別ね」といって砂糖をひとさじ、トマトにふりかけてくれた。甘酸っぱいトマトとほおばっていたら涙がこぼれた。あとから幾粒も幾粒も。母は黙ってタオルで顔を何度も拭きながら私の背中をさすっていた。

 不思議なことに その翌日から私の熱はあがらなくなったのだ。

 ふと我に帰り、私は身支度を始めた。
 お昼は冷麦にしよう。
 そして、たまには母に電話をして昔みたいな話をしよう。
 サンダルに足を入れると、ちょうどインセンスは燃えつき、
 あたりには爽やかなお茶の残り香が漂っていた。


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