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こくごの先生の部屋
(その1)
主人公の御子神那由太と星崎せつなの命名も風竜胆さんにしていただきました。最初はどうなることかと思いましたが、何とか作品の形に仕上がりました。よければ読んでみてて下さい。(狼)
『From “0” Summer』
プロローグ
「一体、俺は何をしているんだろう。」
時折、そのような思いがふと頭をもたげたりもする。
「…ただ、ここまで来て、もう引き返すわけにはいかない。それに…、これでいいんだ…。たとえ、結果がどうなっても…。」
一時ほどの勢いは失ってはいるが、それでもまだまだ強い夏の日差しが電車の窓越しにじりじりと照りつける。余り日焼けしていない、白い左の二の腕を見つめながら、これが今夏初の遠出だなと思う。
大慌てで飛び出したザックには2日分の着替えと洗面用具、そして卒業研究に必要な専門書などが乱雑に入っている。
ぶ厚い専門書をザックの中から徐ろに取り上げると、膝の上に開く。そして、そこに挟んである、数枚の葉書の束を見つめた。
何度読み返したか分からない、彼女からの葉書であった。
「…しかし、本当に逢えるのだろうか。」
遠くに海が見える。遙か彼方で輝く水面を見つめながら、なかなか定まらない自分の未来を、その光の中に見ようとして那由太は目を細めた。
第1章 『「夏」のはじまり』
「いい気なもんだよな、全く…」那由太は、ポストの中の幾つかの郵便物の中から、一枚の葉書を見つけると、そう呟いた。
御子神那由太 様。
少し小さ目でちょっと丸みをおびた綺麗な文字。少し青みがかかった黒いインクが白地の葉書に映えている。
那由太はせつなの字がとても好きだった。
「旅を続けています」
書面に書かれていたのはそれだけだった。葉書自体はいつもの通り写真付きポストカードである。
「セツのやつ、今度はどこからなんだ…」
那由太は、裏面に広がる美しい景色にしげしげと見入る。
どこかの海岸の風景であった。ただ、自分には全く見覚えのない風景であった。
「それにしても、あいつ大丈夫なんだろうか…。」
大学4年生になって、今は就職活動まっただ中の那由太であった。マスコミなどで批判はされるものの、青田買いは着実に進んでおり、早い者はもう春には内定を貰っているというのが現実だ。早く決めた者たちの多くは、卒業論文や卒業研究に取り組みながら、来春の卒業旅行に向けてのバイト三昧の日々を送っている。
そんな中、那由太は明らかに出遅れていた。
都市部の私立大学に通う那由太は、「就職は故郷で」と、決めていたが、そうなるとどうしても選択肢が少なくなってしまう。そして、限られた企業の中で納得のいく就職を、とこだわっていた彼は、まだ内定どころか2社ほどの2次面接にまで漕ぎ着けるのが精一杯の状況にあった。
…ところが、そんな那由太を尻目に、彼女、星崎せつなは就職活動などとは全く縁遠いところにいるようであった。彼女は那由太と同級の4年生である。しかしせつなは全く就職活動らしいことはしておらず、それどころか夏休みになると、ぷいとどこかに出かけて行ってしまったのであった。
せつなは文学部で美術史を専攻している。
何となく経済学部に進学した那由太と違い、目的意識もしっかりしていた彼女は、教授から進学を勧められるほど学業にも打ち込んでいたので、卒業論文は少々放っておいても大丈夫のようではあった。
ただ、せつなに進学する気持ちがないことも那由太は知っていた。
というのも、彼女は早くから父を亡くしており、大学にも母親が結構無理をしてやってくれていたのだ。それで、卒業したらすぐに就職することが条件になっている…ということを前々から那由太は聞いていたのだ。
彼女の弟は高校を卒業後、すぐに就職して地元にいるそうだから、せつなは自分のことだけ考えて就職を考えればよいはずだった。
「…一刻も早く就職を決めて、母親を楽にさせてあげたいというのが本音ではないのか…。」
那由太は無軌道な行動をとっているせつなに対して少し不満さえ感じていた。
しかし、当の彼女は卒業後のことは全く考えていない様子で、3年の終わり頃からアルバイトに明け暮れる生活を送っていた。「そんなにお金貯めてどうするんだ。」と那由太が訊いても、「ちょっとね。したいことがあるの…。」と、いつも体よく話をぼかされてしまうのがパターンだった。
那由太とせつなはつきあってほぼ2年になる。どちらとも地方の出身で、大学のサークルが出会いの場であった。
活動的で、ちょっとクールだけど男気のある那由太。そして何事もマイペースのように見えて、実は結構淋しがり屋のせつなであった。そして、二人には一見何の接点もなさそうであった。
しかし、そこはフィーリングというやつである。ちょっとしたきっかけで二人は惹かれあい、知らない間につきあい始め、そしていつの間にかサークル内でも公認の仲となっていた。
サークルというのは、キャンプやピクニック、そしてちょっとした登山などをする、所謂アウトドアレジャーを一緒に楽しもうという人達の集まりであった。大した結束力もなく、活動も本当にほどほどで、どちらかというと「何かに属していなければ…」という強迫観念のようなものから入っている、そんな人が多いサークルであった。
だから、サークルとして登山や、キャンプに行ったりすることもあったが、学年が上がるにつれ、そこは単に気の合う仲間と遊ぶ「足場」になっているというのが実際のところだったのである。
そして例に漏れず、那由太も2年の秋頃からはせつなと二人だけでどこかへ出かけることが多くなっていた。
…それは二人のお互いの呼び方が「御子神くん」「星崎さん」から、「那由太」と「セツ」になっていた頃でもあった。
那由太は部屋に入ると、窓を開け、スーツを脱ぐといつものように短パンにTシャツ姿になった。冷房などない安アパートの中はうだるような暑さだった。
「リクルートも楽じゃないな…」
今日は追加採用の募集のための一次面接に、少し離れた場所まで出かけて来た那由太である。競争率は高そうで、採用は望み薄ではあったが、故郷から通える範囲にある結構名の知れた企業の願ってもない募集。それは、少しでも選択肢を増やしたい那由太にとっては願ってもないものであった。
「プシュッ。」
彼は買ってきたペットボトルの栓を開けると、半透明のスポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干した。
「ふぅー。」
と、大きく息をつく。灰汁のように体の中に鬱積していたもやもやが少し抜け出したような気がした。そして、那由太は扇風機の風力を最大にし、生ぬるいけれど心地よい風を受けながら、大きさだけは一人前の安物ソファーに深々と腰を降ろした。
そして、先程のせつなからの葉書に再び見入るのだった。
「しかし、セツのやつ、どうしちゃったんだろうな。今更一人旅なんて…」
那由太は一人ごちた。せつながいなくなったのは7月の最終週だ。今が8月7日だから、かれこれもう2週間ほどになる。
「それにしても、どうしてそんな旅に出たりしたんだろう…。」
ソファーの背もたれに体を預け、伸びをしつつ、机の上に立ててある写真に目をやる。那由太の横で微笑むせつなを見つめながら、就職活動とアルバイト、そして卒業研究に追われ疲れている那由太の頭には「どうして」という疑問符が幾つも連なっていくのだった。
せつなの不可解な行動の原因…那由太に思い当たる節はたった一つしかなかった。
那由太は思い出していた。…それは…今年の2月の出来事だった。
二人でスキーに行った帰りのバスの中で、せつなは自分の就職の話を切り出した。
「那由太は、卒業後は地元に帰るのよね…」
「うん。で、セツは、どうするんだ…。進学はしないんだろ。」
「うん。」
「出版社とか、新聞社とかって何処にでもあるけど、大手は難しいからたいへん だよな」
「分かってる。私…小さいところでいいの。じゃないと、自分が活かせそうにな いし。」
「じゃあ地元に帰るのか?」
我ながら野暮な台詞だったと思うのだけど、そのタイミングでは、それしか言えなかったのも事実であった。
彼女は出逢った頃から、卒業後は小さな出版社か新聞社のような所に勤めたいということをよく言っていた。しかし、特に具体的な社名などを口にすることはなかった。そして、那由太はその意味を真剣に考えたこともなかった。
那由太は、自分の故郷にもそういった出版会社や地方の新聞社などが幾つか有ることは知っていた。でも、その時にはその名前を出して「俺の地元を受けろよ」とは言えなかったのだ。
せつなは、そんな自分の気持ちを察してかどうか、「うーん…」と言ったきりシートに深く滑り込むようにして、ダウンジャケットの中にもぐり込み、顔を隠してしまった。
その時、ちらりと見えたせつなの眼は、那由太がそれまで一度も見たことの無いような、深く、寂しげな色を湛えていた…。
那由太はまだ、具体的にそんなことは考えられなかったが、ぼんやりとせつなとの「結婚」というものも頭の片隅にはあることはあった。
お互いに地方に帰ってしまったなら、遠距離恋愛になってしまう。しかし、そうなったらきっと「自然消滅」ってパターンが待っているかも知れない…、とそんな気がしていた。
先輩達の多くがそうなっていく生々しい様子を知っていた那由太にとって、自分をそういった先輩達の別れ話に重ねることは容易かった。
しかし、それはあくまで一般論だった。
那由太のせつなを思う気持ちは静かだけれど強く、自分がせつなと別れることなど考えられない…それが何者にも代え難い大切な真実であった。
けれども、ただ…。
那由太は、まだ自分にとって「結婚」などというものが、遠い未来の出来事のような気がして、それを言葉として口にすることが躊躇われたのだ。
あの時、せつなに「俺の地元の会社を受けろよ…」ってどうして言わなかったのだろう。…そんな疑問とも後悔ともつかないような思いが幾度となく、那由太の脳裏を訪れ、そして去って行くのだった。
それ以来もせつなとの関係は良好だった。しかし、あれから二人の間で就職や卒業後の話題が出ることはなかった。
明らかにその話題を二人ともが避けている…そんな感じだった。
ただ、実際には那由太にとってもせつなにとっても「卒業後どうするのか」、ということが
最大の関心事でることには違いなかった。
せつなとの未来が見えない…それもあってか3年の12月頃から就職活動を始める友人達を横目に、那由太は何となく「まだ、早い」と適当に流しながら、日々を送っていた。
そして、いよいよ4年を目前とした春先。やっと那由太は重い腰をあげて就職活動を開始した。
…しかし、せつなは那由太の就職活動には無関心な様子で、黙々とバイトをしてお金を貯め始めていたのだった。
そして、夏が来ると突然旅に出てしまったのである。
…那由太は、ペットボトルから「ゴクリ」ともう一口冷たい液体を飲み下すと、先程のポストカードを手にとって寝そべった。
ポストカードは既製品で、写真の右下に、小さく「枕崎」と記されている。「『枕崎』って…鹿児島県じゃないか。セツの奴、そんな所まで行っちゃってるのか…。」そして、那由太は大きく息をついた。
そしてそこに記されていたメッセージは一言。
「旅を続けています。」
であった。
5日ほど前、那由太に届いた葉書には四国の四万十川の流れが写っていた。それを思い出し、那由太は再び呟いた。
「セツのやつ、ホント一体何を探しているんだよ…。」
やりきれない様子の那由太は、せつなの葉書を裏返し、もう一度宛名の方を見る。
せつなの綺麗な文字を見ていると、何だか無性に彼女に逢いたくなって、胸が締め付けられるような思いが湧き上がってくるのだった。
…と、宛名の下の右隅に、小さく「-2」と書かれているのが目に留まった。余りに小さいので、最初はもともと印刷されてある何かの記号か何かぐらいにしか気留めていなかったが、よく見れば、せつなの筆跡である。
そして、なぜかそこだけが油性の細いペンで、しっかりと書かれているのだった。
「何だコレ?」
那由太は、ソファーからむっくりと体を起こすと、それまでに届いていた3枚の葉書を取り出し、机の上に並べてみた…。
1枚目の葉書。そこに映っている風景は栃木県の戦場ヶ原であった。那由太の見たことのない独特の風景…。
那由太は目を凝らして宛名書きの隅に目をやった。…果たして、そこにも数字は記されていた。
「-5」である。
メッセージは、「旅を続けています。」と一言記されているだけである。
そして、2枚目は福井県の東尋坊の写真。青い海と断崖が鮮やかである。これには「-4」と記されていた。
言葉は、これもたった一言「まだまだ続きそうです。」と。
3枚目は四国。四万十川を見おろす高台から撮ったような写真で、きらきらと輝く川面に濃い緑がよく映えていた。
これには「-3」が、…そして「就活順調ですか?」という、皮肉ともとれるような言葉が記されていた。
「カウントダウン? いやアップか…。ってことは『0』になったらせつなはここに帰ってくるってことなのだろうか? …しかし、そんなに単純なものだろうか?」
那由太は首をひねりながらも、「もし、それならそれでいいのだけれど…」と考えていた。
このまま順調に行けば数日後には「-1」と書かれた葉書が自分のもとに届くということは簡単に予想できるのだから。
しかし、那由太には何となく分かっていた。せつなの考えがそんなに単純なものではないということを…。ただ、今の段階では、次に送られてくるであろう葉書には、「-1」と記されているのではないかと予想することが精一杯であった。
知らぬ間に夕暮れ時が近づいていた。
見まわせば部屋の中も随分と暗くなっている…。那由太はおもむろに立ち上がると、窓から薄暮の外を眺めた。そろそろ街には灯りがともり始めている。
空だけがまだ青さを残しており、赤味を帯びた入道雲が那由太を遙か遠くから見下ろしていた。
那由太は、せつなが就職活動を放棄していることの責任を感じつつも、もう一つ彼女の不可解な行動の意味を図りかねて、少々苛立ちを隠せなくなっていた。
ただ、ここにきて何かしら、少しずつ彼女の意図が見え隠れし始めていた。
…そして、ますます彼女に逢いたいと思う那由太なのであった。
もう、随分と長いことせつなの顔を見ていない。
今まで、当たり前のように那由太のそばにいたせつな。時には鬱陶しいぐらい、那由太に甘えてきたせつな。笑顔のせつな…淋しそうな顔のせつな…。せつな…。
「いなくなって始めて分かる…」そんな陳腐な台詞では表現したくない…けれど、そんな陳腐な言葉が痛いほど身に沁みる那由太なのであった。
しかし、彼女への連絡の手段は無い。
那由太は、薄暗くなった部屋に灯りも点けず、次第に闇に沈んでいく町並みを見つめて立ちつくしていた。
せつなは旅に出る時に、どうやら携帯電話も放棄してしまっている様子であった。
何とか連絡をつけようと、メールを打っても、電話をかけても、全く返事もなく、応答もない状態が続いていた。
那由太は最初、「セツのやつ…ひょっとしたら、内緒で番号をかえてしまったのだろうか…」、と疑心暗鬼にかられ、おそるおそるせつなが仲良くしていたサークルの女友達に聞いてみたりもした。しかし、その友人も「最近せつなに連絡がとれず困っている…」との返事であった。
それを聞いた那由太は、ほっとしたような、困ったような、どっちつかずの思いにかられたわけだが、いずれにしても音信不通であることに変わりはなかった。
せつなが那由太に送った最後のメッセージは、携帯電話のメールによるものだった。
「旅をしてきます。『答え』を探してきます。見つかったら、連絡します。その 時は…。」
せつなは、たったこれだけの言葉を残し、忽然と那由太の前から姿を消してしまったのでる。
「鹿児島なんか…無理だよ…。」
那由太は、すっかり暗くなった部屋の中、疲れた体を静かにベッドに横たえていた。扇風機が、恰も自分だけがこの部屋にいる生き物であるかのように、小さな唸り声を立てて動き続けている。
時折通り過ぎる車のヘッドライトが、川の流れのような光の帯を天井に走らせる。
…那由太はぼんやりと考えていた。
「せつなのメールの、『その時は…』の『…』には、どんな言葉が当てはまるのだろう…。」
「『帰ってきます。』であろうか、それとも『逢いましょう。』なのか…、まさか『別れましょう。』なんてことはないだろうけれど…。」
しかし、那由太の脳裏を、それまで考えたこともなかったせつなとの「別れ」のシーがよぎり、無性に不安な気分になるのだった。
そして、逆にその不安の大きさだけ、せつなへの思いの深さ、重さを、那由太はその落ち着かない胸の底に実感するのでもあった。
第2章 「盛夏」
それから暫く、せつなからの葉書は来なかった。
もう、8月も中旬を迎えていた。
ちょうどお盆前後に、地元の企業の説明会が実家の近くで行われたので、それに合わせて那由太は6日ほど帰省した。ただ、その企業は那由太にとっては、「安全パイ」であり、実際はそこへ就職することはあまり考えていなかった。
那由太はただ、行き先が無くなってしまうこと…「就職浪人」だけは避けたいと思い、あまり気乗りのしないままに説明会に参加したのだった。
実家には帰ったものの、アルバイトもあるし、卒業研究の下準備はこちらでなければできない。ということで、最後の夏休みを故郷で謳歌している高校時代の悪友たちの引き留めも断ち切って、那由太は蒸し風呂のような下宿へ早々に戻ってきた。
いつもなら夏には最低でも2週間は滞在していた彼であったが、地元でのんびりできる余裕のない最後の夏休みになっていた。
彼が下宿に早々に戻ってきた理由はもちろん、アルバイトや研究のためだけではなかった。
ひょっとしたらせつなからの葉書が来ているのではないかという思いが強く彼を突き動かしていたからである。
もうすっかり暗くなった夜道を歩いてアパートに戻ると、高鳴る胸を抑えながら那由太は郵便受けの中を見た。ダイレクトメールやら、チラシやらが、無理矢理押し込められた郵便受けの中に、期待していた葉書を見つけた時、彼は思わず小さく拳を握りしめていた。
他の郵便物には目もくれず、那由太はその葉書を口にくわえると、荷物を両手に抱えて階段を駆け上がった。「カンカンカン。」金属製の階段が立てる音が、静かな夜の街に響いていく。
部屋へ飛び込むと、荷物を放り出した那由太は、電灯の明かりの下で、葉書に見入った。
宛名の下にあった言葉は、たった一言
「元気です。」
だけであった。…そして、その葉書は今までと同じポストカードであることには変わりはなかった…。しかし、今回のそれは今までの日本各地の名所のものとは違っていた。
意外にも、そこに映っていたのは那由太とせつなが通う大学のものであった。
写真は、その大学の象徴にもなっている古い煉瓦造りの図書館を撮ったものであった。黄色く色づいた銀杏の大木と、蔦の絡まる図書館が抜けるような秋の青空をバックに映っていた。
那由太は、「そうか。」と思わず声を上げた。そして、葉書を表に返すと隅々を眼で探した。そして、そこには期待通り、小さな文字が記されていた。
「0」
那由太はすぐに携帯電話を取り出して「せつな」と登録してあるボタンを押した。
高鳴る心臓の鼓動が呼び出し音に重なっていく。…せつなはいつも3回目のコールあたりで「はい。」と小さな声で電話を取る。
…が、呼び出し音は3回、4回と続いていく…。
「ひょっとしたら、ぎりぎりまで待って取るのだろうか…着信画面には『那由太』の文字が出ているはずだ。」
ささやかな期待が、胸の鼓動とともに浮かび上がる。…しかし、呼び出し音は7回ほど繰り返されたあと、
「只今電源が入っていないか、電波の届かない所に…」
もう、何度聴いたか分からない虚しいメッセージが始まった…那由太は落胆し、伝言も残さずに切ってしまった。
何だか、肩すかしをくらったような気がして、落ち込む那由太であった、でも、
「そんなに事は単純ではないだろう…。」と思い直した。
そして、もう一度、先程のハガキの表書きにじっくりと見入った。
何でもいい。そこから、いつもと違うせつなの意思表示が見出せないかと思ったのである。
暫くせつなの文字を見つめていたが、何も見つけられなかった那由太は、今度は「写真の方に何かがあるのかも知れない」と、ともう一度キャンパスの写真をしげしげと眺めた。しかし、そこからは何も見出すことはできなかった。
そして、もう一度宛名の方へ裏返した時である。那由太はちょっとした違和感をそこに感じ、それが何なのかを暫く考えていたが、その正体にやっと気づくことができた。
「消印がない。」
確かに、そこには切手は貼ってあるのだが、何故かいつもなら押されているはずの消印がなかったのである。
「どういうことなんだ…。」
再び那由太は考え込んでしまった。
どこからか紛れ込んだ蛾が一匹、微かな音を立てながら電灯の周りを淋しげに飛び回っていた…。
那由太はさっぱりワケが分からなくなってしまった。
そして、どさっと椅子に腰を降ろすと大きくため息をついた。
左手に持っていたその葉書を、机の上に重ねて置いてある、今まで届いた葉書の上に重ねて置くと、暫く茫然と眺めていた。
那由太は、締め切っていたアパートの部屋が相当に暑いことにやっと気が付くと、のろのろと立ち上がった。
部屋の窓を開けると、ほとんど風はないが、それでも部屋の中よりは幾らか温度が低いことは肌に触れる空気が教えてくれた。
那由太は扇風機の電源をいれると、おもむろに服を脱いだ。そして、脱いだ服を手に持つとすぐに風呂場へ行って、水のシャワーを頭から浴びた。
体中を覆っていた火照りが冷水で冷やされていき、次第に冷静な頭が戻ってきた。
まず、那由太が考えたのは、「0」が、「ゼロ」ではなく、「オー」と読むのではないかということであった。
「-5」「-4」「-3」と続いてきた数字。カウントが上がっているのならきっと次にくる葉書には「-1」と記されているはずだ。これは簡単に想像できる。しかし、最後に届いたものが「-2」だったのだから、敢えて「-1」を飛ばしたことに何か意味があるのかも知れない…と。
カウントが一つずつ上昇していると見えたのは勘違いで、実は全く違うものなのかも知れない。…もしかしたら、「0」はアルファベットの「オー」かもしれない。
那由太はできる限りの推理を巡らした。しかし、残念ながらそこから何かを導き出すことはできなかった。
ただ、葉書に記されている記号たちは、いずれにせよせつなのメッセージに違いない。それは確実だ。せつなは自分に何かを伝えようとしているに違いない…それだけは那由太も確信していた。そして、同時に
「せつなはまだここには帰ってきてはいない。」
…それも、妙に確信できるのであった。
窓の下の道路から、話し声が近づいて来るのが聞こえた。塾帰りの女子高生であろうか。2,3人の楽しそうな笑い声が部屋の真下までやってきて、そしてまた遠ざかっていった。那由太は、息をひそめて聞きながら、網戸越しに見える煤けたような都会の夜空を眺めていた。
それから数日間、那由太はせつなからの便りを待ちながら、就職活動とアルバイト、そして卒業研究に追われていた。
せつなはきっと何かしら、メッセージを自分に届けているに違いない。そして、那由太は彼の眼に焼き付いている、彼女の残した最後のメールの言葉「その時には…。」の意味をあれこれと模索するのだった。
希望的観測かも知れないけれど、きっといつか彼女は帰ってくる。もしくは、葉書かメールかは分からないけれど、自分と逢うための待ち合わせの時間と場所が指定されて来る…そんな予感はあった。
ただ、日本各地からつぎつぎに送られてくる葉書と、それに記された数字からは、まだ、那由太にとっての『答え』らしいものは何も導き出せてはいなかった。
この前送られてきた葉書は、二人が一緒に過ごした大学のキャンパスのもの。明らかにそこには今までのものとは違う、「変化」らしいものが見て取れた。
そして「0」。那由太はあの葉書を見た時、何らかの違和感を感じ、その原因が消印の無いことであることに気がつきはした。
しかし、あの時、那由太の中ではそのこと以外にも何かが「形」になろうとしている…苦しいような、懐かしいような、そんな感覚があった。
もう少しで何かがつかめそうな所で、それは「消印」に紛れて何処かへ消えてしまった。今となっては、それが何であったのかは良く分からない。
…ただ、何かが浮かび上がろうとしていた。
その「何か」が、今思い出そうとしても、どうしても分からないことに歯痒さを感じつつも、きっかけがつかめそうだったことは確かであり、もう一度あの時の状態に戻らないだろうか…、と、自分の中の自分にあてのない期待を抱くのであった。
せつなは、所謂典型的な文学少女である。初めて出逢った時はサークルの新入会員の集合場所になっていた広場であった。予定時刻を過ぎても、なかなか集会が始まらず、ちょっとやきもきした雰囲気の中、彼女は広場の片隅で悠然と本を読んでいた。
赤いキャップを目深にかぶった、ちょっとボーイッシュな女の子。それがせつなだった。
せつなはいつも文庫本を持ち歩いていたが、それがミステリーであるということを知ったのは二人がかなり接近してからのことであった。
専門の美術史に関する本は大きなものが多いので、持ち歩くには適していないということであったが、せつなの読書はかなり偏っており、読んでいる本はと言えば専門書かミステリーのどちらかであった。
那由太もミステリーは嫌いではなかったが、それほど多くは読んでいなかったため、ちょっと気が向いてミステリーでも読もうかなと思った時にはいつもせつながガイド役であった。
せつなのお気に入りはエラリー・クイーンだった。いつか、その理由を尋ねたことがあった。せつなは、クイーンのものには時々「読者への挑戦状」というものが中に出てくるのだと教えてくれた。
クイーンは、ストーリーが進む過程で、話の途中に「読者への挑戦状」として、読者に対して推理を促すような一筆を書き入れることがあり、せつなはそれがとても好きなのだという。多くのミステリーは、探偵や刑事がどんどんと事件を解決していってしまうので、どうしても自分が推理するということをせず、筋を追って最後までいってしまう。
那由太も、自分が読む時もあまり推理することなく、そういう読み方をしていたので、「確かにそう言われてみれば」と、せつなの言うことは一理あると感心したものだ。
「サービス精神が旺盛なのよね、クイーンは。」
せつなの嬉しそうな顔が、その言葉とともに甦ってくる。
「きっと、せつなは俺に『挑戦状』を投げかけてきているのだろう…そうに違いない…。」
那由太はそう考えてはいたが、ただ、余りにもヒントが少なすぎて、現状を打開することはできそうになかった。彼にできることは、ただひたすらせつなからの次の葉書を待つことだけであった。
そして、とうとう次の葉書が届いたのである。
その日那由太は、午前中は大学で調べもの、午後はアルバイトで、へとへとになってようやくアパートに辿り着いた。もう、すっかり夜になっていた。
そして、それは郵便受けで那由太を待っていた。まだ、昼間の暑さが残っている温かいスチール製の郵便受けを開けると、2、3枚の郵便物と一緒にそれはあった。
期待はしていたものの、やはり胸はそれ以上に高鳴った。
「来た…。」
郵便受けのある場所には、電灯もあるにはあるのだけれど、階段の上がり口の電灯がそこの灯りを兼ねており、ちょうどその辺りが階段の影になるなので、夜にははっきりと文字などを読むことは難しい。
ただ、それがせつなからの葉書だいうことは薄暗い中でも何とか認識できた。それが分かると、那由太はすぐさま薄暗い階段を駆け上った。
階段を上りながら那由太は、その葉書が今までとちょっと趣が違っていることに気づいていた。雰囲気というか、趣というか…手触りそのものがやや今までのものと違っていたのである。
部屋へ入り、ドアを開ける。ムッとした暑い空気が部屋に充満している。その中を縫うように電灯の所まで早足に歩いて行くと暗闇に垂れ下がった電灯の紐を強く引いた。
明るくなった部屋で、背中に担いでいたザックも降ろさず、那由太は食い入るようにせつなからの葉書に見入った。
葉書は、今までのポストカードではなかった。なにやら、肖像画風の外国人が写ったモノクロの写真が印刷されているものだった。今までのものは既製品のポストカードばかりであったが、それはカラープリンタで印刷されたものだった。
官製葉書ではなかったが、パソコンのプリンタ用の少し厚手のものであり、それで手触りが微妙に違っていたのだと分かった。
そして、宛名の下にはせつなの文字が。
「覚えてる?」
いつも通りの短いメッセージであった。そして、那由太が探した表書きの隅にあったのは、数字ではなかった。そこには、
「+α」
と書いてあった。
見れば、消印は前と同様にそこには押されていなかった。それがどういうことを意味しているのかどうかも考えられないまま、那由太は一応せつなの携帯に電話を入れてみた。「つながらないだろう」と思いながら。…それでも一縷の望みをかけてコールした。
結果は悪い意味で、彼の予想通りであった。
那由太は暑いアパートの部屋の中で、再び途方に暮れてしまった。
もう、せつなに腹を立てる気持ちは何処かに消えてしまっていた。
那由太はいつものように冷たいシャワーを浴びて火照った体を冷やすと、コンビニで買ってきた弁当の唐揚げを頬ばりながら、今までせつながくれた葉書を全て机に並べてあれこれと思いを巡らすのであった。
那由太はせつなの思いをひしひしと感じていた。
二人は今まで、本当にごく普通の大学生カップルとして楽しい日々を過ごしていた。それが、大学4年になり、就職や卒業が頭にちらつくようになって、せつなのことを愛おしく思う気持ちが他のことに紛れてしまっていた。
そして、そのことすら自覚できずに自分は何となく日々を過ごしていた。
…せつなの「挑戦」を受け、あれこれと思いを巡らせているうちに、那由太はそんな自分にイヤというほど気づかされていた。そして、せつなはどんな気持ちで過ぎて行く季節を観ていたのだろう…。そう思うと、胸が苦しくなった。
せつなに逢いたい。逢って抱きしめたい。那由太はここにきて、初めてせつなに出逢い、好きになった頃の気持ちを再び取り戻していた。
そして、こうして送られてくる葉書に込められたせつなの思いも、那由太がせつなに対して感じている今のそれと同じように強く、那由太の心を射抜いていた。
「せつなはきっと、俺がメッセージを理解してくれると信じている。」
そう思うと、嬉しかったが、同時に焦りも生じるのだった。
数枚の葉書と少ない言葉、謎めいた数字からは、せつなの「逢いにきて」というメッセージ、もしくは待ち合わせの場所や時間というものは見て取れなかった。
ただ、那由太には、次に送られてくる葉書がきっと最後であろうという予感が、強く覆い被さっていた。
扇風機が静かに首を振りながら、ぬるい風を那由太に送り続けている。せつなと一緒にこの部屋で笑いあっていたのが、随分遠い昔のことのように思えた。
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