こくごの先生の部屋

こくごの先生の部屋

その2



続き





 あたりは少し薄暗くなっていた。
 遼太の目に、クリーニング店の看板のオレンジ色の文字が見えてきた。
 街灯や、店舗の看板にも灯りがともり、煌々としたそれらの明るさが、周囲の暗さを一層強調しはじめていた。
 寮までの道のりの、ちょうど半分を過ぎたあたりであろうか。遼太はちょっと立ち止まり、そこに2台並んでいる自動販売機で缶コーヒーを買うことにした。
 ちょっと一休みである。
 いつもなら、無糖とかブラックを好んで飲む遼太であったが、今日は何となく甘いコーヒーが飲みたくて、コインを投入すると、新製品らしいグリーンの渋いデザインの缶コーヒーを選んでボタンを押した。

 遼太の脳裏には、また、祖父武一との思い出が甦っていた。



 そもそも、こんな自分の一本気な性格はというと、祖父の影響を大きく受けてのことに間違いはない。
 遼太の父はというと、きっと祖父の性格の反動であろうかと思われるが、控え目で物静かな性格であった。…ただ、その父にしても、「しっかり者」であることには間違いはなく、理数系が得意であることや生真面目な所は北城家の血筋であろうと思われた。
 ただ、父には悪いが自分にとってはあまり影響力のない父であった…そう遼太は思っていた。

 しかし、自分が祖父の影響を強く受け始めたのはいつ頃のことだろうか…。

 そんなことは考えても仕方がない…とは思いながら、遼太は自分の人格を形成する上でとても大きい出来事になった、ある事件を思い出していた。

 あれは幼稚園のころではなかったか…。

 遼太はある時、何となく祖父の部屋へ入って、戸棚を開け、そこに、茶色の焼き物が色々と収めてあるのを発見した。幼い遼太としては、何だか秘密の宝箱を開けたような興奮を感じた。
 そこに並んでいる焼き物たちは、一つ一つ形も大きさも違っていた。それまで形の整ったコップや茶碗しか見たことのなかった遼太にはそれが面白くて、「変な茶碗や花瓶だなあ」と思いはしたが、幼いながらに、そこはかとなく漂う気品のようなものを、それらに感じ取った遼太は、一番形が面白いと思った小さな花瓶のようなものをそっと取り出した。
 そして、独特の手触りを感じ取ったり、中を覗いて見たりしたのだった。不規則な赤銅色の模様が何か動物の顔のように見えるな…というような事を考えて暫くそれをじっと眺めていた。

 「いけないことをしている」と言う緊張感もあったのだろう、普段なら決して落としたりはしないだろうそれを、なんと遼太は落としてしまったのだ。
 下は畳だったのだが、運悪くそれは小さな棚の下にある出っ張りに当たってしまい、その拍子に畳と床の間の境目にある、太い木の上にまともに落ちてしまった。 そして、綺麗に首の所が割れて欠けてしまったのだった。

 それはとんでもないことをしたということは、幼い自分にもよく分かった。しかし、残念なことにその時の遼太の心には、祖父に正直に言ってあやまろうなどという発想は微塵も浮かんでこなかったのだ。

 それにしても、その時自分が起こした行動はなんと子供らしいことだったろうか…。
 遼太は今更ながらに苦笑いした。

 幼い遼太は自分のお道具箱から工作用の糊とセロハンテープを持ってくると、それを使ってその欠けた部分をもとに戻そうと試みたのである。
 祖父がいつ部屋へ戻ってくるか、とはらはらしながら、息をひそめ、糊が乾くのを待っていたあの時のことは、裸足の足の裏に感じたひんやりとした畳の冷たさとともに今でもよく覚えている。

 本当に、今から思えば噴飯ものであるが、その時は必死で、その出来上がりにも自分なりには巧くできた自信があった。
 その花瓶を、祖父が飾っていたり使ったりしているのを遼太は一度も見たことがなく、そのままこっそり戸棚の奥にしまっておけば、きっと半永久的に見つかることは無いだろう。と。そんな大それたことを思ったのだった。

 しかし、悪いことはできないものである。その日の夜に祖父の部屋に遼太は呼び出された。
 机の上には、遼太の修理した作品が鎮座ましましており、祖父がその向こうに正座していた。その時の祖父の顔…、穏やかだけれども激しいものをその裏に隠した顔。それは幼い自分にも十分理解できた。

 遼太は当然鉄拳制裁を覚悟していた。それまでも、明らかに間違ったことをした時に祖父から拳骨を頂戴することはちょくちょくあったからである。しかし、その時は違っていた。
 何故か祖父は落ち着いた声で、まず遼太に坐るように命じた。

 そこから先はあまり覚えていないが、祖父のとても悲しそうな様子が心に刻まれている。祖父は、自分が花瓶を割ったことよりも、それを「ごまかし」たことを酷く怒っていた。

 「自分でやったことは、自分で後始末をしなければならん。そして、それに『嘘や偽り』があってはならん。」

 その「言葉」と、目から火が出るほどの拳骨の「痛み」。

 自分の内面がまだどれほど成長していたかどうかは分からないが、その時自分がやったことの大きさは拳骨の痛さよりも、祖父の哀しそうな目によって測り知ることができた。

 「うそやごまかしはいけないこと。」

 あれから自分は変わった…。そんな気がする。それから、剣道の稽古にも身が入るようになったし、子供の頃、体が弱く、また一人っ子であるということで随分甘やかされていた自分であったが、その「甘やかし」にも自分で気づくようになり、次第に自ら厳しい道を選んで歩むようになっていた気がするのである。




 …あれ以来、自分自身のことを厳しい目で見ることができるようになった。
 遼太はそんな随分昔のことを思い出していた。

 ただ、自分がそれと同時に他人に対しても厳しく接するようになったのも事実だった。その辺りの調節ができないところが子供らしいと言えばそうかも知れないが、まだ小学生の低学年であった自分にそれを望むのは少々酷だったかも知れない。
 しかし、子供同士のつきあいである。そんな自分を、友達はちょっと面倒なヤツだなと思いながらも、小学生の頃は結局何人かで群れて仲良く遊んでいた。

 中学生になり、思春期になってくると、次第に周囲は遼太を「真面目で融通の利かないヤツ」という感じで思うようになったのか、それまで友だちとして付き合っていた者たちが少しずつ自分から離れていった。

 ただ、そんな中、新しい友人もできた。
 「木之下英二」…「エイジ」と呼んでいた彼とは、妙に気が合った。
 彼は頭もよく、将来は検事になりたいという希望を早くから持っていた。「弁護士」ではなく「検事」というところが彼らしいところで、聞けば、「この社会の悪い奴らを、法律を武器に、徹底的にやっつけてやる。」というものであった。

 「検事」などという職業は、遼太にとっては、考えもつかないものであり、理工系の技術者を夢見ていた遼太にとって、エイジは住む世界が違うような気がする相手ではあった。しかし、正義感の強いエイジのそんな所が、自分の性格と合ったのかもしれない。
 遼太とエイジは二人とも一本気で、よく似ている性格であったが、しかし反発することもなく、いつも一緒にいた。

 …今思えば、学校では先生も、そんな自分とエイジをちょっぴり敬遠していたようだった。
 中学生にもなると、大人のごまかしってのに気づく頃だから、タダでさえ先生の間違いを指摘することに喜びを感じるものである。ただ、黒板の文字の違いを指摘するような小さな、誰もがするようなことには興味はなかった。
 自分はそんな細かいことではなく、先生の「先生」としての態度や言動の矛盾などに手厳しいチェックを入れていた。
 「掃除は必ずしなければならない」、といいながら、ホームルームが長引いて、隣のクラスと足並みが合わなくなり、「今日は掃除はやめにしましょう」などと妥協案を担任が言ったりすると、「掃除はするべきでしょう。いっぱいゴミが落ちています。先生は『掃除は必ず』っていつも言われてますよね…。」などと切り返す。
 今思えば「それは、生徒からも教師からも嫌がられるような発言だったな。」とは思うけれど、今になってもそれが間違っていたとは思わない…。

 遼太は、しかし、そういう正義感ばかりかと思うと、そうではなく、結構悪戯などは仲間と一緒にやったものだった。気に食わない先生の授業中には、先生を困らせるようなこともやった。それに、困っている者がいると、率先してかばってやったりもした。だから、周囲の者からそれほど疎ましがられることはなかった。
 まあ、はやく言えばちょっと正義感が強くて勉強もできる田舎のガキ大将だったというところだろう。

 初めて「親友」と思える存在だったエイジはやはり、街の進学校へと進んだ。自分は工業高校だったが、同じ街にあり、二人とも山間部の家から通うことができなかったので、学校の寮に入っていた。だから、時々街で遊んだりすることもあった。
 お互いに剣道は続けていたので、試合や昇段試験の会場で一緒になることもあった。

 そして、遼太は地元の企業に就職を決め、エイジは関西の有名私大の法学部に合格した。最初のお盆には連絡をとって一度逢って話をしたが、ちっとも変わっていないエイジだった。
 「検事になる」という夢もきちんと具体化していたエイジ。遼太も、大学にはいかないけれど、腕と知識の両方を兼ね備えた技術者になるという夢に向かって歩き出していた。
 互いに道は違うけれど、歩き方は同じ二人であった。

 …エイジもきっと、どこかでぶつかりながら真っ直ぐ歩いているに違いない。
 遼太は暗くなった空に滲む街灯の光をぼんやりと見つめていた。

 工場での出来事も、自分が祖父の背中を見て歩んできた道の途中にある障害だと思えば、「修行」のようなものだと割り切れる。こんなことを一々気に病んでいてはいけない。
 そうして、前向きな気持ちがまた自分の心の底にあたたかい波紋のように広がっていくのを感じ取っていた。

 少し残った缶コーヒーを飲み干す。最初は熱くて握れないほどであった缶も、いつの間にかほんのりとしたぬくもりを残すだけになっていた。その、僅かな温かみを愛おしむように、遼太は缶をゴミ箱にそっと落とした。
 そして、そこから大通りに背を向けて薄暗い道へと足を向けた。




 車道を離れると、急に辺りは静かになった。
 遼太は、ポケットからiPodを出すと、少しボリュームを下げた。相変わらず、耳元ではアコースティックギターの曲が流れ続けている。先ほど、道を曲がった所で、ちょうど遼太の好きな静かな曲にかわった所だった。
 題名は確か『going home』ではなかっただろうか…。
 何か、音楽までもが今の自分の心境を演出してくれているような気がして、遼太は暗がりの中で少し微笑んだ。

 大通りを離れると、あと4、5百メートルといったところである。
 ただし、遼太の住む会社の独身寮は、少し小高い所にあり、この辺りからやや勾配のある坂道が続く。
 上り坂を少し歩いて、遼太は「やっぱりタクシーを拾えばよかったかな…」、とほんの少しだけ後悔した。肩に掛けたスポーツバッグの紐がジワジワと食い込んでくる。

 しかし、自分にとっては、寒い道を一歩一歩すすんでいくことで、実家で行われた法要の最中には感じられなかった満足感が、心の中の空洞を少しずつ充たし始めているのを感じていた。
 遼太には、訳の分からない念仏を幾ら唱えるよりも、こうして一人で祖父の思い出を噛みしめながら歩くことの方がよっぽど供養になるという気がしていた。

 大通りを一本中へ入ると、急に街灯の間隔も広くなり、次第に家もまばらになっていく。民家も街灯もない所では周囲に何も明かりがなく、所々は足許も見えにくいような場所がある。
 暗い場所から、街灯の真下の明るい所へ入っていき、そこを行き過ぎると、ちょうど自分の影がすぅーっと自分を追い越していく。遼太は、何だかその影が何かを表しているような気がして、何となくぼんやりとその繰り返しを眺めていた。
 と、小さな石でも踏んだのか、遼太は左足に違和感を感じて少しよろけそうになった。
 「ツっ。」
 遼太は左足のくるぶしあたりに突っ張るような疼痛を感じて思わず声を漏らした。
 「挫いたかな」と、ちょっぴりヒヤリとして、荷物を降ろして屈伸をする。
 左手で、恐る恐る足首を触ってみる。
 特に痛みはなく、少し強く握るようにしてみても大した痛みはない様子だった。「ふぅ」と遼太は息をついたが、それは、「ほっとした」というよりも、慣れっこになっていたその感覚に対しての、「またか」という思いであった。

 「しかし、今日は本当に良いタイミングで色々なことが起きてくれるものだ。」
 遼太はそんなことを考えていた。
 …というのも、その左足にも、祖父との間の、忘れられない思い出が刻まれているのである。

 実際は「思い出」と言っても殆ど覚えていない出来事…。
 記憶はすごく断片的である。遼太自身、ひょっとしたら、これが自分の最古の記憶かも知れないな…そんな気もする出来事である。

 左足の痛みと、冷たさ。雪を染めた血。ごわごわした祖父の背中。そして妙な心のあたたかさ…。それらがコラージュのように、鮮やかに脳裏に焼き付いている。

 今日、久しぶりに祖父の遺影を見た。きりっとした顔の左の頬にある傷跡。それは写真の中にもはっきりと見て取れた。
 その傷は、自分のせいでつけられたもの…。



 それは、自分が小学生の時に、母から聴いた話…

 自分がまだ四つか五つだった頃、祖父が自分をつれて散歩に出かけた時のこと。
 ちょうど、大雪が降った後で、山道の脇の斜面にはまだ雪がたくさん残っていた。
 とても天気がよく、白銀の峰峰が美しく輝いているので、祖父は幼い自分を連れて雪景色を見に、家から少し離れた見晴らしのよい所へ行こうとしていた。
 自分が、ちょっと斜面を上がったところにある赤い木の実かなにかを見つけ、取ってくれと祖父にねだったため、祖父は仕方なく自分を降ろして斜面を少し登った。
 祖父が斜面に登る間は、ほんの僅かな間であった。…が、自分は祖父が実を採っている、そのほんの少しの間に、下側の斜面に盛り上がった雪の上に上がろうとして、雪だまりに落ちてしまったのだ。
 その前後の記憶は全くないのだが、何となく雪の中に落ちていく感覚だけは幾らか残っている。
 ちょうど、その時自分と祖父が立ち止まっていた辺りは、運悪く斜面の内側がえぐれたように急になっている場所だった。そこは吹きだまりのようになって、新雪が何メートルもの深さに溜まっていた。
 どういうタイミングだったのかは分からないが、とにかく幼い自分はわけも分からず雪の上を歩こうとして足を出して転んでしまい、結構な勢いでそこにはまってしまったのだ。そして、数メートル落ちた所で雪の中にある木の枝の又に足を挟んでしまったのだ。
 実を手にして振り向いた祖父は、そこに自分がおらず、雪だまりに大きな穴があるのを見て、慌てて自分を助けようと雪だまりに飛び込んだのだ。そして、その拍子に折れた枝で頬をざっくり切ってしまったということだった。
 自分はというと、木に引っ掛かったことで、最悪の事態は免れたけれど、ズボンの裾ががめくれ上がった所に、ちょうど折れて尖った鋭い枯れ枝が、下から擦り上げるような形になり、くるぶしから膝にかけて激しく切り裂いてしまったというわけだ。

 多分、自分の記憶はその辺りのシーンが断片的に焼き付いているのだろうと思うが、自分の足の痛みや不安よりも、祖父の血だらけだけれど優しい笑顔と温かさに包まれる感覚が今もしっかりと残っている。

 幸いどちらもケガは大したことはなかった。自分も、傷は浅くはなかったけれど、骨や筋は大丈夫だった。
 ただ、大したことはなかったというものの、自分の左足はかなりの裂傷になっており、治った後も跡が残った。祖父の顔の傷もそれほど大きくはなかったが、ささくれた木の枝で削り取るような形で傷ついてしまったために、左の頬に3センチあまりの傷跡が残った。
祖父は、自分から目を離したことをもの凄く反省して、暫く元気がなかったそうである。しかし、自分はそのことがきっかけでますますおじいちゃん子になっていった…そんな気がするのだ。
 遼太は子供の頃、祖父に抱かれると顔の傷をさして「じいちゃ、いたいいたい」とよく言っていたそうだ。

 今思えば無邪気なものであったと言えるが、物心ついたころから、祖父の顔には傷があったので、まさかそれが自分の所為でついたものだとは思ってもみなかった。そして、それが自分の足にある傷跡と関係があるということも…。

 結果的に自分の傷はは左足のくるぶしからすね辺りにかけてかなり広範囲に残ってしまった。幼稚園ぐらいの時は気にならなかったその傷跡も、小学校3年のぐらいの頃から気になり始めた。
 長いソックスをはかない限りは膝の下あたりに傷がのぞいてしまう。剣道をする時に胴着を着ると、膝下は隠れるものの、今度は裸足になるために、くるぶしの辺りが丸見えになってしまう。
 少しずつ異性の目も気になり始める頃であったし、体育やプールの時にはどうしてもそれが丸見えになってしまう。友達から、別段何か言われた訳ではないが、一度気になり始めると、みんなが自分の足をみて気持ち悪がっているような気がして、いても立ってもいられない気分になる…幼心だった。

 母から、真実を聞いたのは、ちょうどそれが気になっていた頃であった。
 4年生になって新学期の四月。あたたかくなっているのに、半ズボンをはきたがらない自分の様子を見て、母は察したのだ。

 「遼太。あなたの足の傷だけどね。あれってどうしてついたか知ってる?」

 自分にとって、母に聞かされたその真実は小さな衝撃であった。そして、母の話を聞いて、それまで、断片的だった記憶が、完成したジグソーパズルのように一つの絵として意味を持つことになったのである…。

 当然遼太は自分を責めた。しかし、記憶もないほどの昔のことである。その時点で幾ら反省や後悔をしてもはじまらなかった。
 ただ、見慣れた祖父の顔の傷が、自分が原因でついたものだったということ…それは遼太自身に、とてもしっかりとした重みを持ってのしかかったのである。

 そして自分自身、祖父に対して申し訳なく思うとともに、自分がその傷跡を気にしていたことを恥じた。そして、暫くして遼太は祖父にそのことを詫びた。

 「じっちゃん。母さんに聞いたんだけど。その顔の傷って、僕を助けるためについたんだって?」
 「…ん。そうじゃが、誰に聞いたんじゃ?」
 「じっちゃん、それ本当なの?」
 「まぁのお…。でもな…あれは儂が悪かったんじゃよ…。よちよち歩きのお前から目を離したんじゃでの。」
 「でも…。僕が何かワガママ言ったんでしょ。それで…。僕の所為で…。」
 「何を馬鹿なことを言うとるか。四つや五つの子供が我が儘言うのは当たり前じゃ。それより、儂のせいで、お前には悪いことをした、足に傷が残ってしもうて。」
 「ううん。全然気にしない。」
 「そうか。そう思うてくれるか。儂ものォ…お前の命を救うたんなら、この傷も『勲章』じゃと言えるんじゃが、自分のミスじゃからの。自業自得っちゅうもんじゃ。はっはっは。」
 そこまで言い、豪快に笑う祖父を見て、小学生だった自分に、もうそれ以上の言葉は必要なかった。
 そして、自分はそれ以来、足の傷のことも、大好きなじっちゃんとの「絆」だと思うようになった。それからは、恥ずかしがるどころか、かえって自分からその傷の理由を友達に誇らしげに話すようになった。



 時々、こんな寒い日にはくすぐったいような痺れるような、独特の軽い疼痛がその傷の辺りにまとわりつく。ただ、それも「真実」知っている遼太にとっては自分と祖父が繋がっている証…そんな意味を持つようになっていた。



 辺りはかなり暗くなっていた。
 遼太の住んでいる会社の独身寮が大きな灰色の塊にのように見えてきた。
 今日は日曜日の夜。まだ寮に帰っていない者もたくさんいるようで、灯りが点いている部屋はまばらである。

 「ふーっ。」
 寮の玄関先まで到着した遼太は、思わず大きく息をついた。白い息が薄闇に溶け込んでいくのを目で追いながら、耳に当てていた小型のヘッドフォーンを外した。
 耳当て代わりになっていたヘッドフォンを取ると、そこだけに留まっていた僅かな温かみも、一瞬のうちに風の中に消えていく。
 遼太は思わず身震いをした。
 と、隣の棟の二階の一番端の部屋に電気が点っているのに気が付いた。
 確か、そこは吉原の部屋であった。
 この間はあんなことを言ってくれたが、もし、自分の立場が悪くなったら本当に庇ってくれるのだろうか…。
 遼太は別に、吉原にそれを期待していたわけではない。ただ、自分が間違ったことをしていないということ、それを理解していてくれる者がいるという事実だけで、心は不思議と落ち着くのであった。
 吉原の部屋に点っている灯りは、遼太の心に点った灯りのようでもあった。

 2階にある自分の部屋を目指して階段を一段一段上がっていく。ここにきて、肩に掛けていたバッグの重さが一段と重く感じられた。

 「しかし、体…かなりなまってるな…。また、鍛え直さなきゃ…。」
 呟きながら見上げる階段。その視線の先には暗くどんよりとした空が見える。空気はどんどんと冷たくなっているようで、頬はぴりぴりとするような感じであった。
 遼太の部屋は2階の奥から3つ目である。遼太の両隣の部屋にはまだ人の気配はなかった。手を掛けた鉄製のドアノブは驚くほど冷たかった。

 台所と一緒になった廊下を抜けて6畳一間の部屋へ入ると、遼太はまず荷物を下ろし一息ついた。
 当たり前と言えばそうであるが、土曜日の朝、自分が出たときのままの部屋の状態であった。テーブルの上のカップにコーヒーが少し残っている。
 夕食にはまだ早い時間帯であったし、それほど空腹感も感じなかったので、遼太はまず部屋を少し片づけることにした。

 帰り道にあれこれと考えを巡らせ、何となく「心機一転」という気持ちになりかけていたのが、このまま散らかった部屋に馴染んでしまうと忘れてしまいそうな気がしたからである。

 遼太はファンヒーターのスイッチを入れようと思ったのを止めて、窓を開けた。外から冷たい空気が流れ込んでくるが、部屋の中も遼太の体も外から帰ってきたばかりで冷え切っているので、それほど寒いとは思わない。
 遼太はその勢いで掃除をはじめた。

 雑誌を重ね、座布団をはたいて掃除機をかける。台所に少したまっていた洗い物も片づけて、干しっぱなしだった洗濯物も取り込み、全て畳んでタンスに入れた。
 ものの15分ほどで、見違えるような部屋になり、部屋の入り口に立って中を見回すと、遼太は満足げに再度ファンヒーターのスイッチを入れた。




 綺麗に片づいた部屋の真ん中に、家から持ってきた大きなカバンを置くと、遼太はどっかと腰を降ろした。
 そしてカバンを開け、中の物を一つずつ出していった。
 例の如く、あれもこれもと持たせようとする母に抵抗しつつ、荷物は厳選したつもりであったが、カバンの中には結構色々なものが入ってしまっていた。

 丸ごとのリンゴ。タッパーに入った野菜の煮付け。法要で出された餅や饅頭…。それは重いはずである。遼太は次々に出てくるものを手にとって眺めては苦笑いしつつ、それらをカバンの脇に並べていった。

 そして、カバンの奥の大部分を占めている大きな木箱に目をやった。

 荷物をまとめていた遼太の側に母が持ってきたその箱。遼太もまさかそれを母が「持っていきなさい」と言うとは思わずにいた。
 しかし、母は「これは、おじいちゃんの形見みたいなもので、あなたが持っておくべきものなの。だから、必ず今日持って行きなさい。」

 その母の言葉はいつになく厳しい口調であり、遼太はそれに気圧されて、結局その箱もスポーツバッグの中に入れる羽目になってしまった。

 しぶしぶながら、遼太がその箱を入れるのを見届けると、母はゆっくりと、
 「今日の夜、ゆっくりと開けてごらんなさいね。」
 と、これもいつになく優しい笑顔で告げた。

 その箱は、綺麗にたたまれたトレーナーの上に置いていた。

 遼太はそれを徐に取り出すと、部屋の脇に寄せていたコタツ机の上にそっと置いた。
 すぐに開けたい気もしたが、綺麗な編み紐で厳重に縛ってあったので、とりあえず、それ以外のものを片づけてから開けることにした。
 時刻はもう6時30分を回っていた。

 少し腹も減ってきたので、母のことづけてくれた料理でもつつきながら、カップラーメンでも啜ろうかと思い、湯を沸かそうと薬缶を火にかけた。

 「シュボッ」と音がして、ファンヒーターも動き始めた。遼太は部屋着に着替えると、畳の上にあぐらをかいて、先程の包みを解きはじめた。
 紫と白の網紐がしっかりと結びつけられており、結び目をほどくのに少々苦戦した遼太であったが、何とかそれをほどくと、木製の蓋を開けた。
 …と、まず目に入ったのは封書であった。

 「遼太へ」と、それには記されていた。

 箱の中には、新聞とビニールで梱包された物が数個あるのが目に入ったが、遼太はまずその封書を開けてみた。便せんの間に、遼太と祖父が一緒に写っている写真が一枚挿んであった。
 遼太が高校生になったばかりの時、玄関で何気なく撮った写真であった。思えば、それから祖父と写真を撮るなどということは一度もなかった。そこには、祖父の真面目な顔と、照れたような顔で、少し祖父と距離をとって立っている自分の笑顔があった。
 写真以外に入っていた便箋は一枚だけであった。
 母の、ちょっとくせ字だが、女性らしい綺麗な文字がぎっしり並んでいた。


『遼太へ
 まずは、二十歳の誕生日おめでとう。ひょっとしたら、まだ二十歳になる前かもしれませんね。でも、ここでおめでとうと言っておくことにします。

 この中に入っているのは、おじいちゃんがとても大切にしていたものです。
 おじいちゃんは、遼太のことが本当に大好きでした。それは分かってますね。

 おじいちゃんは、遼太が大きくなったら、一緒に酒を飲むんだと、それをずっと楽しみにしてきました。
 でも、遼太が知っているように、おじいちゃんは、お前が18歳の時に亡くなってしまい、夢を果たすことができませんでした。
 おじいちゃんの病気が重いということが分かった時、みんなでおじいちゃんの長年の夢を叶えてあげようと提案したんだけど、それは結局おじいちゃんに断られて、今回、こんな形でお前にことづけることになりました。

 遼太には悪かったけれど、おじいちゃんが就職祝いに買ってくれた「アイポッド」っていうのかな、あれの中におじいちゃんからのメッセージをこっそり入れさせてもらっています。
 探してみなさい。見ればすぐに分かるようになっているはずです。

 遼太には、まだ事情がよく分からないかも知れませんが、それを聴けば、きっと分かると思います。あなたは、おじいちゃんをはじめ、色々な人たちに愛されてそこまでになったんですよ。それを忘れずに、自分の道を信じて進んで下さい。

                               両親より 

 遼太にはもう一つ釈然としない話だったが、それも母は分かっている風の書きぶりであった。

 iPod に祖父のメッセージが? 誰が? いつの間に? 

 まさか、最初から入っていた…とも考えたが、祖父がくれた時、それは新品であった。…きっと、昨晩だろう。
 考えてみれば、昨晩は居間のテーブルの上にキーや携帯やiPodを置きっぱなしにしていた。だから、細工をしようと思えば誰にでもできたはずだ。
 しかし、「誰にでも」ではない。うちでそんなことが出来るのは父だけだ…。
 遼太は暫く虚空を見つめていた。





 寮の駐車場に戻ってきた車の音で、ふと吾にかえった遼太は、すぐにiPodを取り出して電源を入れた。画面をスクロールしていくと、最後のところに見慣れないホルダがあった。

 「遼太へ」
 母の言葉通り、先程の手紙と同じタイトルのホルダがそこに作られていた。

 遼太は緊張しながら、ヘッドフォンを耳にあてて、そこに何が入っているのか聴いてみることにした。
 暫くは無音が続いていたが、緊張している遼太の耳に飛び込んできたのは音楽ではなかった。
 最初、ガサゴソというような雑音が入り、咳払いが聞こえた。そして、聞こえてきたのは、忘れもしない祖父の野太い声であった。

 最初は少し違和感もあったが、それは音源のせいかもしれないし、祖父の声を暫く聴いていないせいかもしれない…そんな気がした。しかし、それは紛れもない祖父の肉声であった。

 「遼太よ。これをお前が聴いとるということは、おじいちゃんはもうこの世にいないということじゃろうな…。残念じゃが、まあ仕方があるまい。人には与えられた寿命っちゅうもんがあるもんじゃからの。
 これから話すことは、多分お前にとっては初めてじゃろうし、少々驚くかもしれんが、全部本当のことじゃ…。」

 そこで、祖父はしんどそうな咳払いを数回した。

 「お前のお父さんとお母さんは、早く結婚したんじゃが、なかなか子宝に恵まれんでの。もう半分あきらめとったんじゃ。お父さんも一人っ子じゃったから、儂はもう孫を抱くことができんと思うとった。…それが、何とひょっこりお前ができての。それは嬉しかったもんじゃ。
 …じゃがのぉ、儂らが早く顔が見たいゆうて期待しすぎたんか、お前は少々早くお母さんの腹から出てきてしもうての。
 …ひどい未熟児じゃったんじゃよ。」

 そこまで聴いて、遼太はふと、台所の薬缶がピューピュー音を立てているのに気づき、ポーズボタンを押すと慌ててコンロの火を消しに行った。お湯はカンカンに湧いていたが、到底今はカップラーメンなどを作る気にならず、遼太は再び祖父の話を聞き続けた。

 「病院の先生が、『大変危険な状態です』『命は取り留めても、うまく育たないかも知れません』なんて厳しいことを言うでな。それは大変じゃったんじゃ。お父さんも気が気じゃのうて…一日中おろおろしとっての。
 儂らも、何もできんでばたばたしておったんよ。…しかし、一番心配じゃったのはお母さんでの。それはそうじゃ、予定日よりもえらい早う出てきたんじゃからの。…それで、儂も、何かできんかと思うてのお。
 …お七夜の晩に、親戚がうちに集まっとる時に、宣言したんじゃよ。
 『この子が二十歳になるまで儂はもう酒は一滴も飲まん。』
 との。はっはっは。笑うかも知れんが、儂にとっては一大決心じゃったんじゃぞ。」

 そこで、もう一度祖父の大きな笑い声が入り、すぐその後で少し咳き込むような声がして、音声が一度途切れた。
 そして、再び祖父の声が聞こえてきた。

 遼太は、自分でも気づかないうちに正座をして聞いているのに気づいていた。

 「お前は知らんじゃろうが、以前儂は実は大酒飲みじゃったんじゃよ…。それが、あんまり調子が悪いんで、しぶしぶ病院へ行ったら、『このままだと内臓をやられて長くは生きられん』と、そう医者に脅されたんじゃよ。
 …ちょうどその頃、お前が生まれたんでの、ええ機会じゃわいと思うて、しょぼくれとるお前のお父さんやお母さん、親類の者たちを元気づけてやろうと思うて宣言したんじゃ。そしたら、『武さん、そりゃ無理じゃろ。でも、武さんがほんまに断酒できるんなら、願いは叶うわい』と皆そう言うんでの。『それならやったるわい。』となったんじゃよ。はっはっは。
 それで、裏の岩山様で、お百度を踏んだんじゃ…。」

 「岩山様」というのは、遼太の家から近い所にある神社のことである。遼太は、そう言えば、以前父か母から『昔、じいちゃんがそこでお百度参りをした。』と、そんなことを聞いた記憶があった。
 あれは本当だったのか…。しかも、「じっちゃん」は自分の為にお百度を…。

 「岩山様」というのは遼太の故郷の神社のことであるが、本殿がかなり高い所にあり、参道の入り口の鳥居から見上げると、先が見えないほど延々と石段が続いている有名な社である。一度上がって降りるだけでも、十分息が切れる。
 遼太は子供の頃、剣道の稽古の一環で、よく岩山様の石段を駆け上がらされていたことがあった。
 「しかし、『お百度』って…じっちゃん…あれを百回往復したなんて…。」




 祖父の声はまだ続いていた。

 「まあ、何が効いたんかどうか分からん。お父さんやお母さんの思いが届いたんかも知れんし。儂の願掛けが効いたんかも知れん。でも、今お前がそうやって元気に育ってくれておることが何よりじゃて…。
 いずれにせよ、儂は願掛けをしたんでの、それからほんまに酒を断ったんじゃ。まあ、あのまま酒を飲み続けとったら、お前が物心つく前には、ばあさんを追いかけて一緒に逝ってしもうとったかも知れんから、まあよかったっちゅうことじゃの。」

 そこで、また暫く間が空いた。祖父が大きく息をついているのが分かった。

 そしてまた少し沈黙が続いたので、遼太は、もうこれでおしまいか…と思った、すると再び祖父の声が聞こえてきた。
 「儂は、お前が二十歳になった時に、一緒に一杯やろうと思っとったんじゃ。それが、残念なことにどうも果たせそうにないわい…。今、こうやって、お前あてに喋っとるのも、先が長うない言うことじゃからの。
   お前が二十歳になるまでにはまだ少しあるからのお…。
   遼太よ。儂が死んだら、お前の二十歳の誕生日に、これをお前に聴かせてもらおうと思うとる。これを聴いたら、儂と一緒に一杯やってくれるかの。」

  最後の辺りで、祖父の声は急に小さくなり、再び咳き込む声が聞こえた。少し離れた所で「オヤジ、もういいよ。」という声が微かに聞こえた。その声は間違いなく父のものであった。
 祖父は父に厳しく、父は祖父に対しては従順であった。しかし、遼太は、面と向かって祖父に反抗はしないものの、どうも二人の仲は良くないのではないか…そんな風に思っていたこともあった。けれど、成長するにつれ、少しずつ感じ方も変わってきていた。
 自分に向けて届けられたこのメッセージは、どう考えても父の仕業である。
 「親父とじっちゃんの関係はそれほど悪いものではなかったのかも知れない…。」
 幾らか予想していたそれを、遼太は先程の声で確信することができた。
 勿論、祖父が頼んだのかも知れない…けれど、父が協力してこの祖父の話を録音し、それをデジタル化して自分の iPodに入れたのだ。これは、我が家では父以外にできる者はいない。
 遼太は、もうこれで本当におしまいかと思った。
 …が、液晶のカウンタはまだ動いている。遼太は何かまた音が聞こえてくるのではと息をひそめて待っていた。
 すると、暫くして本当に最後のメッセージが聞こえてきた。


「遼太…。しっかり生きろ。何事も『修業』じゃと思うて、苦難を乗り越えろ。そして、お父さんやお母さんを大切にするんじゃぞ…。」

 祖父の最後のメッセージは、小さいけれど力のこもったものであった。それを聞いた遼太は、思わず大きく頷いていた。
 そして、また暫く沈黙があり、そこで本当に音声は途切れた。

 遼太は呆然としてそこに座り続けていた。

 …すると、「プツッ」と音がして、意外なことに今度は父の声が聞こえてきたのである。
 「遼太よ。聞こえるか。お父さんだ。おじいちゃんは、お前がちょうど就職を決めた頃から悪くなってな…。正月にお前が帰って来たときに、おじいさんから祝いを貰ったろう。このメッセージを入れているiPodだ…。
   それでな、おじいちゃんはあの正月明けに急に悪くなってしまってな。
  『…お前と一緒に酒を飲むまでは絶対に死ねん。』と、最後まで頑張ったんだが、残念だったよ。
   実は、このメッセージはおじいちゃんの発案なんだ。おじいちゃんも或る程度察していたんだろうな。…自分がだめでも、遼太が二十歳になった時、必ず聴かせてやってくれ、
  ってな。それで病院のベッドで私が録音したんだよ。
   …本当に、おじいちゃんは、お前が生まれる前は大変な酒のみでね。それが、願掛けをしてからは本当に一滴も口にしなかった。
   そして、本当にお前がすくすくと育ちはじめたんだ。これには皆嬉しいやら驚くやらでな…。「御利益があった」っておじいちゃんも大喜びで、「誓いは絶対に守る」って言う
  し、私が、もともと酒が飲めないたちだから…、それで、我が家から『酒』ってものが完全に姿を消してしまったんだよ。親戚も、おじいちゃんの願掛けを知っているし、おじいちゃんがしつこくお前が二十歳になるまでは内緒にしておいてくれと言ってたんで、お前はこのことをきっと何にも知らなかっただろう…。
   お母さんがことづけた箱の中には、おじいちゃんが大事にしていた備前焼の徳利とぐい呑みが二つ入っている。それと、おじいちゃんが大好きだった地酒がな。
   おじいちゃんの供養じゃと思うて、どうかおじいちゃんと一緒に一杯やってくれ。
 お前を誰よりも愛しておった『じっちゃん』だ。分かったな。遼太。」

  そこで、再生は終わっていた。
  遼太は、祖父の言葉と父の言葉を何度も頭の中で反芻しながら、改めて自分の抱えている「今」、そして「自分」を、何か途方もないもののように感じ取っていた。

 「俺は何て幸せな男なんだろう…」と。

 そして、遼太は包みを丁寧に開けていった。一番大きい包みは、父の言っていた地酒の小瓶であった。遼太自身、家では見たことはなかったが、地元では有名な銘柄「雪見鶴」であった。

 そして、小さな二つの包みを開けると赤茶色の形の良いぐい呑みが姿を現した。

 そして、最後の包みを開けると、…やはり、それは徳利であった。

 これも、備前焼独特の落ち着いた色合いと、絶妙に変形した「姿」の美しいものであった。
ただ、それは口の所に割れを修理をした跡があった。罅が入っていたところに、はっきりと金のスジがはいっている。

 その時、遼太は思い出した。

 「これは…」

 そうなのだ。幼い頃自分が壊した、小さな花瓶。…花瓶だと思っていたのは、幼い自分の思いこみだった。間違いなく、自分が壊したのはこの徳利だった…。

 糊とセロハンテープで「修理」して大目玉を食らった、あの…。

 遼太の目から大粒の涙が流れ落ちた。


 今日、駅からの帰り道、自分の頭の中に到来した祖父との思い出の場面が、再び次から次へと浮かび上がった。

 「じっちゃん。」

 遼太は男泣きに泣き、涙は後から後から溢れ出していた。



 時計は、もう少しで午前0時になろうとしていた。

 遼太はあの後、母の手紙を二度、そして、祖父のメッセージを三度繰り返して聴いた。
 そして、実家に電話をして、「ありがとう。メッセージ、聴いたよ。じっちゃんの約束、これから果たすから…」と、ただそれだけ言うと、手短に切ってしまった。
もっと、何か言わなければいけないような気もしたが、遼太自身、それ以上何をどれだけ話せばいいか、見当がつかなかったからである。

 そして、気持ちが落ち着いたところで遼太は腹ごしらえをし、風呂にも入った。 いつもなら、烏の行水なのだが、今日は気分的にも何となく「清める」という心境であり、いつもよりもかなり丁寧に洗った。

 そして…

 机の上には酒瓶と徳利とぐい呑み二つが綺麗に並べられていた。母の手紙の中に入っていた写真も目覚まし時計を写真立てがわりにして側に立てられていた。

 もうすぐ、日付がかわり、「3月7日」になる。
 遼太の二十回目の誕生日は目前だった。

 遼太は、何となく日付が変わるまでは、祖父の願掛けが達成しないような気がして、それを待つことにしていた。…ただ、それもあとほんの少しになっていた。
 ファンヒーターは動き続けていたが、それほど部屋は暖かくならない。それだけ、今日は冷えているということであるが、さすがに締め切ったままだと空気が悪い。
 何となく部屋の中の空気が澱んでいるような気がして、「換気でもするか」と、やや手持ちぶさたであった遼太は立ち上がり、カーテンを開けた。
 水滴がついて曇ったガラス窓の向こうに暗闇が見える。遼太は静かにサッシを開けた。

 そこには遼太の目を疑うような光景があった。

 雪。 …雪。 ……雪。

 いつから降っていたのだろう。遼太の目の前には一面の銀世界となりつつある街が広がっていた。
 見上げれば、窓枠に切り取られた黒い四角の空から、静かに白い雪片がひらひらと舞い降りているのが見える。

 遼太の田舎では当たり前のように降る雪も、こちらではあまり目にすることはなかった。…ましてや積もることなど、高校時代から田舎を離れて過ごしている遼太にとっても初めてのことであった。

 遼太は寒いのも忘れて暫く窓越しに雪を眺めていた。

 気づくと、時計はもう12時になろうとしていた。遼太はそのまま、窓を開け放ったままで、テーブルを前に腰をおろした。そして、小さな酒瓶の栓を抜き、二つのぐい呑みに少しずつ酒を注いだ。

 甘く、華やかな、芳しい香りがたちこめる。
 遼太にとって、初体験の「酒」であった。

 というのも、遼太の家では本当に酒を見ることがなく、家族全員が「下戸」ということで、子供の頃から育てられたため、盆や正月はおろか、冠婚葬祭の席でも親戚を含め、酒を飲んでいる人を殆ど見ることはなかった。
 そして、遼太自身そういうものだと思い込んでいた。だから、高校時代に学園祭の打ち上げと称してこっそり集まった時も、就職が決まって職場で歓迎会を開いてもらった時も、いくら勧められても遼太は固辞してきた。

 きょうび、無理矢理に飲ませようとする強引な友人も上司もいないので、それで遼太は一度も酒を口にすることなく二十歳を迎えようとしていたわけであった。
 遼太は二つのぐい呑みに酒を注ぎ終えると、正座をして、そこに居る祖父と対峙した。

 「じっちゃん。俺、二十歳になったよ。」

 彼は右手にぐい呑みを持ち、机の上に置かれたもう一つのそれに軽くぶつけた。そして、戸惑うことなく、一気に自分の器に注がれた酒を飲み干した。
 甘いような辛いような、今までに感じたことのない独特の感覚が口の中に広がり、喉が焼け付くような感じがして、遼太は思わず咳き込んでしまった。
 少し頭がくらくらした。
 そして、体の中心に火が点ったような、温かい感触が腹から胸のあたりにじわりと広がっていくのが感じられた。

 「これが酒か…。」

 遼太は、初めての酒の味を噛みしめながら、自分がこの世に生を受けてから今に至るまでの20年間という歳月を思った。そして、そこにはいつも祖父や父母の姿があったことを、今更のように有り難く思うのだった。

窓を閉めるのも忘れて、遼太は暗闇の中で降り続く雪を見ていた。

 「遼太よ、春の雪は里に降るんじゃ…」

 また、何処かで「じっちゃん」の声がしたような気がした。


《了》


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