こくごの先生の部屋

こくごの先生の部屋

その1

『桃の花の向こうで』






プロローグ
 「…ということでだ。この話から『桃源郷』という言葉ができたんだ。これは、故事成語として使われているんだが、どういう意味か分かるか…。
 じゃあ、そこでぼんやりしている片桐。」
 「えーっと…。」
 本当に、ぼんやりしている所を攻撃された片桐高峯は、少し慌てて苦しまぎれに答えた。
 「…『めちゃ田舎』って言う意味かと…。」
 「アホか。」
 田中先生の軽妙な突っ込みで、クラスはどっと沸いた。
 「じゃあ、樋口…結花。どうだ。」
 「はい。『理想郷』っていう意味で使われていると思います。」
 「その通りだ。…えーっ、ということでだ、桃の花の咲き乱れる、この世とは隔絶した地を、当時の中国人は夢想したんだな。これは日本語にもなっているんだぞ。覚えておくんだぞォー。」
 田中先生ははいつもの口調で続け、黒板に何か字を書き始めた。
 高峯はちらりと後ろの方を振り向いた、するとすぐに結花と目があった。結花はウインクをしながら小さくピースを送ってきた。
 「ちぇっ。」と、高峯は心の中で舌打ちをした。

「…試験範囲が狭いのでだな。もうちょっと頑張って増やそうと思う。ということでだ、次の時間は短い話を読むとするかな。月曜日には…教科書の78頁を予習しておくこと。そこまでが範囲だぞ。」
 高峯は、そんな「漢文オヤジ」こと田中先生の話を聞きながら、再びぼんやりと外を眺めていた。
 まだ寒い2月末だけれど、何となく山の斜面や空の感じが違ってきているのが分かる。そろそろ、山が春の準備をしているのだ。
 高峯はこの、春を待つ山の雰囲気が好きであった。

 そして、「春」はもうすぐそこまで来ているのだった。



 漢文はその日最後の授業だった。今日は金曜日だからこれで今週は終わり。
 来週は、月曜日と火曜日に授業があって、それから卒業式。それをはさんで学年末考査というのが予定だった。
 「学校も、もう少し日程考えろよな。先輩と名残を惜しむ時間もありゃしない。」
 そんなことをぶつぶつ考えながら、自転車置き場まで行った高峯は、そこに自分の愛車がないことに気付いた。
 「そうか、パンクして修理に出してたんだ。折角自転車置き場まで回ってきたのに…。」と、自分のミスではあったが、誰に文句も言えず、高峯は自転車置き場の入り口で立ち尽くしてしまった。
 自転車に乗ったクラスメートの吉田と山崎が「じゃあな、片桐。」と、横を通り過ぎて行った。

 2月の末、学校は試験期間中だった。ということで、部活動も禁止。高峯の通う高校は進学校であり、試験期間中ともなると、さすがに放課後の人の退けは早かった。もう、自転車置き場にも、残っている自転車はまばらだった。
 そこで、高峯は気を取り直して自転車置き場に背中を向けると、校門へ向かって歩き出した。そして暫く歩いていたが、ふと思い出すことがあり、グラウンドの脇を曲がるとその先にある部室へ向かった。

 「ばすけ部」と、誰が書いたのか判らない汚い字の表札のかかったドア。高峯はちょっと埃っぽい感じのする、そのドアノブに手を掛けると確かめるように捻った。
 「カチャリ」と音がして、ドアが開いた。やはり、予想通りカギはかかっていなかった。
 薄暗い部室の中から、静汗スプレーと汗の臭いが混じった独特のニオイのする冷たい空気が流れてくる。その中に高峯は入っていくと、自分のロッカーからバッシューを取り出した。
 「しかし、ついてないよな…。」
 そんなことを呟きながら、そこにあったパイプ椅子に腰掛けると、彼は自分のバスケットシューズを膝に置き、紐を緩めると、それを抜き始めた。

 実は、試験発表前の最後の部活があった今週の水曜日。何となくシューズが緩い感じがしたので、締め直そうとして両手でぐいと引っ張った拍子に、片一方の紐が途中からぷつりと切れてしまったのだ。
 入学以来、ずっと使っているシューズだから、まあ仕方ないかなという気はしたが、靴の紐が切れるなんてあまり縁起のいい話ではない。それでも、そんなに迷信深い自分でもないので、ここは気分一新して新しい紐と取り換えようと思っていた…そして、それをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 最初はシューズごと持って帰ろうと思っていたのだが、あいにく自転車も調子が悪いということで、重くてでかいシューズは部室に置いておき、紐だけ抜いて持って帰り、途中のスポーツショップで新しいものを買おうと思ったのだ。
 抜き取った紐を縛って学生服のポケットに押し込むと、高峯は部室のドアを締め、再び校門の方へ歩き出した。

 高峯の行きつけののスポーツショップは学校から比較的近い場所の、ちょうど帰り道のコース上にあった。
 ちょっとさびれた商店街の外れにあるその店は、決して綺麗ではなかったが、昔から人のよさそうなおじさんがやっている店で、品揃えが良いのと、安いので評判の店だった。
 「こんにちは。」
 と言いながら、ガラガラと引き戸を開けて店に入ると、
 「まいどォー。」
 と、いつものおじさんの、尻上がりの調子の良い声。
 高峯は、自分が買いに来たものが大したものではなかったので、ちょっと控え目に「あの…。」と言い、シューズの紐が切れた由を告げた。
 おじさんは、「ああそうかい」と気さくに言って、すぐに高峯を店の片隅へ案内してくれた。
 「白だったらすぐにあるけど、いい色のがなかったら、カタログで注文してもいいよ。急ぐのかい? …試験中だよね、今。 多分、今日注文すれば、試験が終わるまでには間に合うんじゃないかね。」
 これも、いつもの調子でおじさんは、一方的に次々に話を進めていく。

 それほど多くの種類があったわけではないが、高峯の目には、すぐに目にとまったものがあった。それは、少し赤味がかかった、独特の色合いのものであった。ピンクでも赤でもない、その押さえた色が、自分の持っている白地に赤のラインのバッシューにぴったりだと思ったのだ。
 今までは普通の白い紐だったから、ちょっとイメチェンにもなるかなとも思ったのである。
 高峯はポケットから縛った紐を取り出すと、「長さはいいかな」と思いながら暫く眺めていた。すると、おじさんは、
 「そこに見えているのは男の子のバッシューにちょうどいいぐらいの長さのだと思うよ。隣にあるのは女の子用だからね。色はだいたい同じのが揃ってると思うけど。」
 と、やはりどんどんと先取りして話してくれる。
 高峯はそれを聞きながら、別に女子用の紐と間違えて買ってなければいいや、という感じで、ちらりと横を見ると、おじさんの言うように、少し短めの紐がぶら下がっているのが目に入った。色は男物よりも少し種類が多そうであったが、自分が選んだそれと同じ色の紐がそこにもぶら下がっているのに気付いた。

 その時、ふと高峯の頭に浮かんだ顔があった。しかし、高峯はそのイメージを自分で拭い去ると、選んだ紐を手に持ってレジへと向かった。







高峯は店を出ると、家の方へ向かって商店街をぶらぶらと歩いていたが、ふと思い立って、呉服屋の手前の細い路地を右に曲がると、裏道へ抜けた。そして、そこから山の方へと向かう坂道を上り始めた。

 彼の住む町は山あいにある田舎町であった。しかし、大きな街までは比較的近く、車で30分程度、電車でも駅三つほどで行けた。
 この町は昔から、農業、特に果樹栽培が盛んであったが、最近では都市部のベッドタウン化が進んでおり、郊外には大きな宅地やショッピングモールなどが次々に建っていた。ただ、そういう意味では昨今、全国どこにでも見られるような、ありふれた町だということも言えた。

 高峯の通う高校はちょうど山の南側にあり、その裏手に広がる山のあちこちに蜜柑畑や桃畑があった。彼の家は、学校がある側から言うともう一つ西の谷にあり、自転車だと、大きく麓をぐるりと回るようにして帰らなければならない。しかし、少し山を登ってそこから隣の谷に降りると、すぐに自分の家があるのだった。

 普段なら、当然自転車で町中を通って帰る、行程10分程の距離であったが、今日は何となく、久し振りに山を歩いてみたくなった高峯だった。
 時間的には、それほど変わらないし、自転車屋は自分の家のすぐ近くであるから、ロスはほとんどない。
 「どうせ歩くなら久し振りに山歩きもいいかな」と、ふと思い立ったのである。

 「山歩き」と言っても、果樹園としてかなり整地がなされており、軽トラが行き来できるような道が斜面に張り巡らされているので、ちょっとした散歩程度ではある。
 白っぽいコンクリートで舗装された道を、トレーニングをかねて、爪先に体重を載せて登っていくと、すぐに小高い丘まで出た。
 そこからもまだ、山は上へと続いているが、高峯の家に行くにはその辺りから斜面を真横に突っ切って隣の谷まで渡ればよいのである。

 麓を見下ろすと、高峯の通う学校の校舎はもう半分ぐらいが山の陰に隠れている。それでも、自分のHRの窓の辺りはまだ何とか見えていた。授業中、教室から見えていた通り、山はまだまだ枯れ葉色でモノトーンであったが、どことなくほんのりと緑ともピンクとも言えない薄い靄のようなものがかかっている感じがする。
 それは、実際に山に入っても感じられるものであった。

 先程まで自分が歩いていた、商店街に繋がる辺りの国道が見える。そこを走っている車は米粒ぐらいの大きさであった。

 5分ぐらい歩くと、もう高峯の家のある谷が眼下に見えてきた。そして、今度は斜面を下っていく。その辺りに小さな竹藪があり、そこから下に通じる道がある。そこはもう高峯にとっては庭のようなものであった。
 小さな頃、よくここらで遊んだものだ。と、ちょっぴり懐かしい気分に浸りながら、桃林の間を抜けていく。春はすぐそこまで来ている感じはあるけれど、桃の木の枝にはまだ赤茶色の、堅そうな、ツボミとも芽ともいえないようなものがついているだけである。
 高峯の家の隣にある梅の木にはもう黄色い花がついていたので、もう少しで桃の花も咲き始める頃だろう。

 「『桃源郷』…か。」

 高峯は、今日の古典の時間に習った話を思い出していた。あの話は、桃の花の咲き乱れる林が川を挟んで数百メートルもあったということだったが、幾らここらが広い桃林だと言っても、せいぜい30メートルと言う所が関の山だと思った。
 で、どう考えても、自分がこの桃畑の中で迷ったりはしそうになかった。
 その時、高峯はふとあることを思い出したのだった。


 「あの樹…まだあるかなあ。」
 高峯は道を外れて、脇の桃林の中に足を踏み入れていった。そして、暫く自分の家とは反対方向に斜面を下っていくと、そこだけが少し抉れたようになっている、斜面のへこんだ所に降りた。
 そこには、5メートル四方ぐらいの小さな溜め池がり、その脇には、比較的大きな桃の木が一本生えていた。
 果実を取るための桃の樹には、それほど大きなものはなく、作業がしやすいように低い所で枝分かれさせられているものが普通であったが、その樹だけは別だった。

 いつ頃からここに生えているのだろうか、その樹は幹がすっと上に伸びており、高いところから枝が分かれている。そういう意味では果実を取るには不向きであるが、この樹については、どこの所有とかそういうことが決まっていないようであった。何やら、この辺り一帯を守っている、そんな趣すら感じられる堂々とした樹であった。
 何やら曰くのありそうな雰囲気を持っているその樹であったが、高峯にとっては子供の頃この周りでよく遊んだ、見慣れた樹なのである。

 桃の実の受粉や、袋かけ、収穫の時期は慌ただしく、この辺りでちょろちょろしていると邪魔にもなるし、池もあって危ないと、大人達にひどく叱られもしたが、子ども達にとっては本当に良い遊び場であった。

 高峯はその大きな桃の樹の下に歩み寄った。そして、少し腰をかがめて幹のあたりを眺めながら或るものを探しはじめた。

 …果たして、それはそこにあった。

 高峯が小学校の2年の時のこと。幼なじみの結花と一緒にここで遊んでいて、何を思ったか一緒に背比べをしたのだ。そして、これまた何を思ったのか、その時の結果をその樹の幹に刻んだのである。
 今から思えば、大切な桃の樹に何と馬鹿なことをしたものか、と思うものの、それは自分にとっては幼少の大切な思い出なのであった。

 高峯は子供の頃から身長がすごく高くて、それに対して結花はかなり小さかった。
 そして彼はそれからもすくすくと成長し、高校3年を迎えようという現在では、もう180センチを超えている。
 一方結花は、少しずつ大きくはなったものの、依然として集団の中では小さいままであった。尋ねてはないのだが、きっと150センチ台であることは、一目瞭然であった。
 さすがに、もう背比べなんかはしないし、身長のことなどは話題にすることもなかったため、確かめる術もなかったのであるが。…というより、結花と話をする機会それ自体も、最近では随分と減っていたのが事実だった。

 尖った石で削ったその二つの刻印は、10年が経とうとしている今もしっかり残っていた。
 「幼なじみ」ってそんなもんなんだろうな。
 高峯は、今ではすっかり黒ずんではいるが、それでもはっきりと刻みつけられた樹の幹の小さな傷を見つめながら、暫くぼんやりとしていた。






 幼い時から遊び友だちで、小・中学校、そして進んだ高校も同じ。
 しかも、どちらも文系へと進み、示し合わせたかのように選択教科も一緒だったので今はクラスも同じになっている高峯と結花であった。
 そんな二人ではあったが、中学の終わり頃から少しずつ、会話をする機会は少なくなっていたのも事実であった。
 高峯自身も、決して女の子にモテないワケではなかったし、結花も平均よりはうんと可愛かった。中学校の頃から結花を好きだという男子は高峯の周りにも結構いて、幼なじみということで、羨ましがられたり、結花との仲を取り持って欲しいと頼まれたりすることもあった。
 そんな時感じる、少し嬉しいような、困ったような、くすぐったい思い…。それを、高峯自身どう処理して良いか分からずにいるのだった。
 かと思えば、反対に結花の方から、「タカネのことを好きだっていう子がいるんだけど、どうする…」なんて話を持ちかけられることもあった。
 そんな時は「どう思う?」と、お互いに相談役を勤めるのだった。でも結局はどうすることもできず、結果、どちらも決まった彼女や彼氏を作ることはなく、今に至っていた。

 ただ、そんな結花が1ヶ月ほど前に突然自分を誘ってくれたことがあった。
 それは、最近売り出し中のロックバンドのライブであった。
 「どうして突然…」、と尋ねる高峯に「だって、一緒に行ってくれるはずのミユキがドタキャンするんだもん。で、…。」
 「ちぇっ。仕方なくかよ。」
 「仕方なく、なんて言ってないし。」
 「言ってるのと一緒だよ。」

 …とは言いながら、二人で笑い合った。高峯は久し振りに間近で結花の笑顔を見て、何だか懐かしいような照れくさいような気分で、凄く昂揚している自分を感じていた。
 というのも、秋頃から結花に、「ひょっとしたら彼氏がいるんじゃないか…」という雰囲気が漂っており、実際にそんな噂もあったからなのである。そして、高峯自身、それを確かめることもできずにいたのだった。
 以前なら、気軽に聞くこともできたろうに、それができなくなっていることに、高峯は二人の間にできている確かな距離のようなものを感じずにはいられなかった。ただ、その「距離」とは、子供から大人になっていく上で必ず生じるものなのかも知れない、とそんなことも考えていた。

 だから、高峯は正直結花に誘われたことが嬉しかった。
 ただ、その時のデートと言ったら…電車に乗って、ライブ観て、何処にも寄らずに真っ直ぐ家に帰ってくるという、本当に色気も素っ気もないものであった。
 それでも、行き帰りの数時間の間に、高峯は本当に久し振りに結花と話をした。

 …でも、結局それだけのことでしかなく、それがきっかけで二人が恋人同士に発展するなんて兆しは全く感じられかった。

 木の幹につけた傷…。古い大きな樹木を傷つけるということは、子供心にも少しの罪悪感を感じていたのだろう、それは目立たない木の裏側にこっそりとつけられたものであった。

 「きっと、これを知っているのは自分と結花の二人だけかもしれない。」
 「でも、ひょっとしたら、このこと…結花も忘れているのかもしれない。」
 そんな気もする高峯だった。

 ちょうど陽の当たらない陰の部分に、その傷はあった。高い所と低い所に一つずつ。それは、当時の自分と結花の背の高さを示していた。

 「あいつ、あの頃からちっちゃかったんだ」と、今の自分の腰ほどしかない「結花」の印と、その10センチほど上につけられた「自分」の印。その二つの古い傷に、高峯はそっと指先で触れてみるのだった。

 と、静かに風が吹いた。どこからか漂ってきた甘い香りが高峯の鼻をくすぐった。それは間違いなく、嗅ぎ慣れた桃の花の香であった。






 「えっ」と高峯は思わず声を出した。

 「もう、咲きはじめた…?」
 しかし高峯が振り仰いだその先にあったのは、無数の木の枝のシルエットに区切られた、ぼんやりとした薄暮の空だけであった。

 「どこかに、咲き始めの枝があるのだろうか…。」そう思って、目を凝らして見ても、何も探すことができないまま、高峯は見上げた首を下へ降ろそうとした。
 長い間上を見上げていたためであろうか、その時高峯は軽い目眩のようなものを感じて思わずよろけてしまった。

 そして、気がつくともう甘い香りはどこかへ消え去っていた。

 「どこか他の樹かな」
 と思うものの、まだ時期的に早く、見渡す限り周囲の樹にも花はついてはいない様子であった。
 …しかし、先程の匂いは紛れもない桃の花の香であり、それは否定できない鮮やかな感覚であった。

 高峯は、ちょっぴりノスタルジックな思いを懐きながら、その大きな桃の樹に背を向けて歩き始めた。途中、誰かに呼び止められるような気がして、何度もその樹を振り返りながら…。
 再び、暫く柔らかい桃畑の斜面を踏みしめて歩き、先程のコンクリートの道に出ると、高峯は自分の家のある谷へと少しスピードを上げて降りていった。



 その週末は、取りあえずの試験期間ということで、家から殆ど出ることもなく、高峯も一応テスト勉強に取り組んだ。
 試験は卒業式の翌日の木曜日からなのだが、その前の月曜日と火曜日には授業が思い切りあるので、その予習もしなければならない。しかも、提出物も溜まっていて、することは山ほどある高峯であった。

 日曜日の午後になって、「これでは明日までには到底間に合わない」と思った高峯は「困った時の結花様」で、プリントを写させてもらおうと、お願いメールを打とうかと携帯電話を取り出した。高峯は携帯電話があまり好きではないので、よく机の抽斗に入れっぱなしにしている。思えば、木曜日の夜からそのままだった、と取り出して開いてみたが、寂しいことに着信もメールも殆ど入っていなかった。試験期間中だから、部活動の連絡も入っていないし、そもそも自分から進んで使っていない携帯だから仕方がない。結花のアドレスも知ってはいるが、あまりメール交換はしたことが無いのも事実だった。
 …そして、高峯は暫く待ち受け画面を眺めていたが、一旦取り出した携帯を閉じて、また机の中にしまい込んだ。

 実のところ、高峯は、この間のライブ帰りの電車の中で、「これからは勉強も部活も気合いを入れる。」と、結花の前で格好つけて宣言したばかりだったのだ。
 ということで、さすがにちょっと頼みにくく、「まあテスト範囲だし」と、できるだけ自分の力でやろうと思い直したのだった。

 高峯の家から結花の家までは、ほんの100メートルほど。少しではあるが、高峯の部屋から結花の家の屋根が見える。
 「結花のやつ『ガリ勉モード』でやってんのかな…。」

 中学時代は結花よりも高峯の方が成績も良かったので、結花はよく「タカネくんと同じ高校にいけるように頑張る。」と言っていたものだった。が、高校に入ってからは、のほほんと暮らしている高峯をよそに、結花はこつこつと勉強して、2年の中程辺りからは、定期考査はおろか、実力テストでもすっかり逆転されてしまっているというのが現状であった。

 「今度はオレが追いかける番なんだよな…」そんなことをあれこれと考えながら、窓際に立って外を眺めた高峯であったが、新築の家であろうか、白い幕がかかった建物が結花の家の辺りに建ち始めており、それがちょうど目隠しになって結花の家は見えなくなってしまっていた。
 「あんな所に家が建ってたっけ」と思いつつ、「結花の家はどうせ見えても屋根だけだしな…。」と、高峯は空を見上げた。

 山際にうっすらと黄色がかった靄のようなものがかかっているのが見える。きっと、黄砂であろう、…もう春はすぐそこまでやって来ている。
 それを見て、高峯は「オレにも春がこなくっちゃね。」と少し気合いを入れると、再び机に向かうのだった。

 翌日。いつもより早く家を出た高峯は修理した自転車の走りを確かめるようにペダルを踏みしめた。しっかりと空気が入ったタイヤはぐいぐいとその力を受けてスピードが上がっていく。襟足を抜ける風が冷たい。
 早く家を出た時には、結花と時々遭遇する曲がり角が近づいてきた。

 「結花、ちょうど出てこないかな…。ここで結花が出てきたら今日はラッキーデーということにしよう…。」
 ちょっぴりそんな願いを思い浮かべながら、クリーニング屋のあるその角に近づいた。けれども、カーブミラーにはヘルメットをかぶった中学生の姿しか映っていなかった。
 「残念…。でも、結花のやつ、もう学校に行ってんのかな。ひょっとして、オレが早かったのかな…。ま、とにかく学校、学校。」
 高峯は一段とペダルを強く踏んだ。


 学校が近づくと、徒歩通学の者や自転車通学の者が次々に姿を現し、当然のことながら、その集団は全て校門へと吸収されていく。当たり前のことではあるが、何だか不思議な感じもする。そして、自分も確実にその中の一人なのであった。

 高峯は自転車のスピードを落とすと、いつものように徒歩で歩いている山崎の肩を叩き、「うーっす」と声をかけた。後から、
 「今日の英2のノート貸してくれよ、3限目な~。」と野太い声が追いかけてくる。
 「おお、いいぜ、そのかわり漢文ヘルプな~。」

 高峯の学校は、自転車置き場が教室から遠いところにある。特に2年生の教室は自転車置き場から下駄箱まで軽く100メートルはあるので、直接教室に行ける徒歩通の者に合わせてはいられない。「後、教室で。」ということはお互いに分かっているのだ。
 ということで、高峯は山崎を置き去りにして走り去った。

 自転車置き場まで行き着くと、いつもなら遅刻ぎりぎりで停められないほどなのだが、今日はまだまだ空いていた。
 気分よく自転車を降りて、駐輪すると、大きなエナメルのバッグを肩に掛けて歩き出した。いつもなら部活の着替えなどでパンパンのバッグも今日は大きくへこんでいる。
 ふと、高峯は自分の置き場の隣のブロックに目をやった。そこは自分と同じ、2年C組の女子のスペースである。が、そこに見慣れた結花の白い自転車はなかった。 結花が高峯より遅いことなど殆どないというのが事実だった。それも、1年に1回あるかどうかほどの確率だった。
 「どうしたのかな、やっぱり今日はオレが早すぎたのかな…」高峯は思ったが、時計を見るとそれほど早いわけでもない。小学校から一日も休んだことのない「皆勤娘」の結花が休むとも思えないし…。
 ちょっと立ち止まってあれこれ考えたが、歩き始めるとそのままそのことはもうすっかり忘れ、前を少し猫背で歩いているクラスメートの川田の姿を見つけると、高峯は小走りで駆け出していた。

 教室に入ると、いつもの仲間達がすぐに集まってきた。そして、トイレの横にある廊下の突き当たりの出っ張った所、通称「でっぱり」へ移動して暫く喋っていた。
 大体話題の中心はというと、「週末いかに勉強していなかったか」ということで、それぞれが頽廃的な週末の報告を熱心にし合うのだった。が、そんな自虐的な話題に花を咲かせながらも、「もう俺達受験生だよな~」って雰囲気も言外に漂う微妙な時期でもあった。

 予鈴が鳴っても、まだ暫く話していたが、廊下の向こうから数学の山下先生が登場した。いつものように、指示棒をタクトのように振りながら歩いてくる。と、一緒に話をしていた坂本が「やっべ~。オレ板書するの忘れてた~。」と言うや否や猛ダッシュで教室へ駆け込んで行った。皆、苦笑してはいたが、そろそろ本鈴が鳴る頃だということも察知し、三々五々教室へ散っていった。

 異変に気がついたのは、授業が始まって半分ぐらいたってからだった。 はじめ、高峯は自分の目を疑った。
 高峯は2月の席替えで、席が前の方になってしまったので、反対に一番後に席が移動した結花にはそれまで全く目が行っていなかったのだ。
 いつものことながら、正面の黒板に書ききれなかった答案は後ろの黒板にも書かれるのだが、解説のために先生が教室の後ろに移動して、説明を始めた時であった。

 「あれ。結花は?」

 窓際から2番目の列の一番後ろには黒縁眼鏡の池田さんがいる。結花はその列の最後尾だったはずなのだが、結花の姿はそこになかった。というか、そこには机自体が存在しなかったのだ。





 結花の机がないことに気付いた高峯は、もう数学の授業どころではなくなっていた。
 「え~??? 一体どういうこと??? 転校? まさか。 …タチの悪い悪戯?  いや、それにしても… そんなはずは…。 え~???」
 と、高峯は掃除用具入れの前のスペースを穴の空くほど見ていたところ、
 「おーい、片桐。いいかナ。」と先生に注意を受けてしまった。
 高峯は取りあえず視線を黒板へ移したものの、その時間中はずっと、目に映る数字も、頭の中の数字も、全て「?」に自動的に変換されてしまうのだった。

 チャイムが鳴って、「起立」、「礼」が終わるか終わらないかのうちに、高峯は湧き上がってくる不安や疑念の入り交じった妙な気持ちを抑えながら、それとなく後ろの席の高山に尋ねてみた。
 「樋口…さん、休むなんて珍しいよな。」
 しかし、高山は無愛想に「え?誰のこと?」と言ったままぷいと後ろの方へ行ってしまった。
 「何てヤツだ。クラスメートの名前も覚えていないのか。」と、高峯は少し腹が立ったが、次は体育だったため余りもたもたしてはいられなかった。

 着替え始めた男子を後目に、女子たちはそそくさと更衣室へと出て行った。いつものように、お調子者の東は女子がまだ後ろの方に残っているのに、早くもトランクス姿になっている。

 高峯は訊いた相手が悪かったかなと、体操着をロッカーへ取りに行き、そこにいた坂田にもう一度言った。「坂ちゃん、今日樋口どうしたのかなァ。」…と、やはり坂田は「え?」っていうような顔をして、横田と同じ反応をしたのである。
 「誰だそれ?うちのクラス?」

 坂田は結花と同じバレー部であり、キャプテン同士だから、まさか知らないわけがない。高峯はてっきりからかわれているのだろうと思って、
 「何言ってんだよ。樋口結花だよ、おかしいよな…今日は席も無いんだぜ。」
 すると坂田は、
 「おまえ、勉強しすぎで頭がおかしくなっちまったんじゃないか。樋口って誰だよ、そんなやついねーシ。」
 と半分マジな顔になって言う。高峯はきつねにつままれたような気がして、思わず意識がとびそうになってしまった。

 ぼおっとしていた高峯に、すかさず、坂田は突っ込みを入れてきた。
 「おーい、片桐が勉強かゲームのしすぎでおかしくなっちゃってるゼ。」

 後ろの方で着替えていた東たちが、それを聞いて「おいおい」「やベー」などと騒いでいるが、高峯はそれに眼もくれず、すぐに教卓の所に行くと、そこに置いてある座席表に目を落とした。しかし、そこにも「樋口」の苗字はなかった。
 一番左の列の最後尾は「池田」で終わっている。しかも、その後ろには机を表す□の枠さえもないのだった。目を凝らしてみても、誰かが、消しゴムやホワイトで消した痕跡も無かった。

 高峯は本当にあっけにとられてしまったが、取りあえず次の体育に遅れたらマズイということで、そこはてきぱきと着替えを済ませるとグラウンドへ向かった。

 体育が終わって、3限目の地理の授業前、着替えている高峯の所に約束通り山崎がやって来た。「お願ぇしますだ」と、ふざけて揉み手をする山崎に、「英2はバッチリだから、昼休みに漢文たのむぜ」と言いながら高峯は小声で尋ねた「お前さ、オレの幼なじみの樋口さんって、知ってるよな。」と。
 しかし、やはり山崎も同じような反応で「え?」と言うと、「誰それ?」と続け不思議そうな顔をした。そして、ちょうどチャイムが鳴り始めたので、「じゃあな」と言い残すとB組へ帰ってしまった。

 次の時間も、高峯は半分上の空で、授業はほとんど頭に入ってこなかった。
 「ひょっとして、みんなでオレを騙そうとしているのだろうか。でも、そのために結花が休むなんて大がかりなことをするだろうか…。他の奴らならまだしも、クソ真面目な横田までもが一緒になってオレを騙すとも思えないし。まさか、急な転校? いや、それもあり得ない。」 
 高峯はそう考えると、「もし、オレを騙そうとしているのなら、自分の様子を窺って楽しんでいるやつがいるに違いない。」と思い、それとなくきょろきょろとして仲間達の様子を窺っていた。すると、今度は日本史の大島先生にまで注意を受けてしまった。
 「片桐くん。どうしたのかな、誰か気になるのかな?」 
 と、すかさず東が、
 「先生、片桐くんは日本史の勉強のしすぎです。」
 と茶々を入れ、またまた教室を湧かせてしまった。
 「東のやつ、オレが日本史が苦手なのを知っていて、わざと言いやがって…。」

 しかし、東が言うと少々キツいことでも、毒がない。先生も、みんなが笑って雰囲気が良くなった感じを受けて、機嫌を損ねることなく、
 「そうか、じゃあ片桐よ、学年末は期待しているぞ。」
 と言うと、「じゃあ資料集を開いて…」と授業へ戻った。
 そこは、難を逃れた高峯であったが、彼にとってはそれどころではなかった。
 そして高峯は、頭を掻きながら、みんなの様子がごく自然であることにも気付いていた。

 「何かおかしい。一体どうなってるんだ。」

 そして、昼休み。高峯にとって「決定的」なことが発生したのだ。





  気もそぞろのまま4時間目を終え、高峯は取りあえず食欲のないまま弁当を食べていた。いつもなら、5分ほどで食べてしまう彼も、今日は10分程かけても、まだ半分ぐらいしか食べ終えていなかった。
 好物のウインナーも、ゴムを噛んでいるような感触だった。
 仲間達もぼんやりしている高峯にあえて声を掛けない様子であったが、そんな中、校内放送が入った。

 「卒業生を送る会の打ち合わせがあるので、各部の部長は12時45分に第2多目的教室へ集合して下さい。」

 弱小チームではあったが、高峯は一応バスケットボール部の部長を引き継いでいるのだ。その放送を聞き、やっと我に返ると、残りの弁当を一気にかき込んだ。
 そして、「おい、片桐行こうぜ」と、声を掛けてきた坂田と一緒に、集合場所にへ向かった。
 そして、12:45分が来た。生徒会の役員と生徒会係の竹中先生は時計を見ながら、
 「さすが部長たちだな。しっかり時間通りに集まっているようで感心、感心。」
 と、ご機嫌な様子だった。
 そこで、副会長の清水さんが出席を取り始めた。
 「それでは主席をとりまーす。 野球部…、山本くん。」
 「ういっす。」
 「テニス部、男子、吉田くん。テニス部、女子、滝沢さん。…」
 と順番に呼ばれていく。

 そして、バレー部の所まできた。
 「男バレ、坂田くん」
 「はーい。」
 高峯は、そこで息を呑んだ。…そして、坂田の軽い返事の次に呼ばれたのは
 「女バレ、浅野さん…」


 確かに、今普通に「女子バレー部の部長」として、A組の「浅野」が呼ばれて返事をした。
 代役なら、必ず「代わりです」とか言うはずの所である。いつもなら、そうである。しかし、普通に浅野さんが来ていて、普通に返事をしたのだ。

 「やっぱり、おかしい」
 高峯はぼんやりと思っていると、「バスケ部」のところで、思わず返事が遅れてしまい、隣の坂田に突っつかれてしまった。


 「まさか、学校を挙げてオレを騙すわけないよな…。」
 高峯は本当にワケがわからず、混乱した気持ちのまま打ち合わせ会を終えると、すぐに坂田に尋ねた。
 「坂ちゃん…。オレ、ホント頭がおかしくなっちまったんだろーか…。『樋口さん』っていなかったか。…女バレの部長でセッターの。」
 真剣な表情の高峯に対して、坂田はあまり邪険にもできないと思ったのか、真面目な顔で答えた。
 「お前、ホント大丈夫か…?。何か悪い夢でも見たんじゃないか? オレ『樋口』って苗字なんて聞いたこともないぜ。女バレの部長は前から浅野さんだし、セッターは1年だぜ。」

 高峯はもう、坂田にそれ以上言う言葉を失っていた。



 皮肉にも、5時間目の漢文の授業はそんな高峯に追い打ちを掛けるような内容であった。
 先生は、いつもの調子で授業を始めると、
 「えーっ…とだな。前回やった『桃花源記』は、今回の試験では一番大事な所だから、よく復習をしておくようにな。
 …しかし、この辺りは桃の産地だから、お前達にも関わりがあるよな。この話を創った陶淵明という人は、賄賂政治なんかで乱れていた世の中を憂えて、こういう場所を夢想したんだな。そういえば、…この間、『桃源郷』って言葉の意味を尋ねたよな。片桐。」

 高峯は、この前「田舎」と答えて笑われたのを思い出しながら、
 「あ、理想郷…」
 と、ぽつりと口にすると、
 「はい、よろしい。…そうだ、この前もお前に尋ねて、ちゃんと答えたから褒めてやったんだったな。悪かった悪かった。ワシも最近忘れっぽくなってるな。ははは。」

 漢文の高田先生は、そう言って一人で笑ったが、高峯は全く笑えなかった。
 「この間、質問にきちんと答えたのは結花である。オレじゃない…。結花がオレに向けて出したピースサイン…。あれは、絶対夢なんかじゃない…。でも、なぜかそうなっている…。」

 そして、その5時間目の漢文の授業内容も、実に意味深なものだった。
 高田先生は、「今日やるのは『荘子』という、思想書です。思想については、本格的には3年になってやるが、これは面白い話だから、ちょっと齧ってみようかなと思ってな…。」

 教科書の内容は『胡蝶の夢』というものであった。
 高峯は予習をし忘れていたので、山崎に英語2のお返しとしてノートを借りていたが、読んでみればその話の内容はとても短く、予習なしでも乗り切れそうなものだった。
 そして、その内容はというと、「荘周」という登場人物の、夢物語のような話だった。
 荘周は夢の中で、蝶になって空を飛んでいたのだが、夢から醒めて、ふと「さっきまで、自由気ままに空を飛んでいた蝶が本当の自分で、今ここにいる自分はその蝶が夢を見ているのではないか…」と考え始めた。すると、何が現実で、何が夢なのかが分からなくなってしまった…というものであった。
 先生は、
「これは、難しく言うと『懐疑論』といってな、自分が普段『絶対』とか『常識』だとか思っているものってのは、実は非常にもろいものなのだ、ということを比喩として示しているんだよ。なかなか面白いだろう。」

 高峯はその言葉を呆然として聞いていた。
 自分にとっては、本当に洒落にも何もならない内容だった。
 まさに高峯自身、その話の中の「荘周」か「胡蝶」かというような情況にいた。

 しかし、本当にどうなっているのだろう。高峯は、ベタな漫画のワンシーンのように本当に自分の頬をつねってみた。

 激しく痛かった…。

 こうなると、学校では埒があかない。高峯はそう考えて、7限目が終わるや否や、掃除当番も放り出して、すぐさま学校を後にした。

 そして、自転車で向かったのは…当然結花の家であった。





 昨日、自分の部屋の窓から見えなかった結花の家。
 実は、高峯はそれも気になっていたのだ。

 全速力で自転車を漕ぎ、高峯が辿り着いたそこには、建築中の家が、白いシートを張って立てられていた。
 そして、その場所は………結花の家があった所だった。
 白いシートで、結花の家が見えなくなっていたのではなく、結花の家そのものが無くなっていたのだ。

 絶句して立ちつくす高峯であったが、そこへちょうど隣の家のおばさんが自転車を押して門から出てきた。昔から顔を知っているおばさんだった。

 すかさず高峯は尋ねた。

 「あの…。ここに樋口さんって方の家がありませんでしたか。」
 おばさんの方もどうやら高峯の顔に覚えがあったようで、一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに表情を緩め、
 「あら、片桐くんじゃない。大きくなったわね。えーっと、…樋口さんって言った? …いいえ、ここは空き地だったのよ。おばさんがここに家を建ててからずっとだから、もう20年以上になるかしら。ずうっと空き地だったわよ。片桐くんも小さい時にここらでよく遊んでたんじゃなかったかしら?」

 高峯はその言葉を聞き、言葉を失い、「あ、どうも。」と、返事をするのが精一杯だった。
 …そして、力無くふらふらと自転車を漕いで家に戻って行った。

 時折吹く風にはもうすっかり春の匂いが込められていた。しかし、高峯にとって、それは冷え切った真冬の風よりも冷たく感じられるのだった。

 「ただいま。」

 小さな声で家に入ると、母がすぐに、
 「どうしたの。元気がないわね。それに、今日はいつもよりずっと早いのね。…調子でも悪いの?」
 「べつに、そんなじゃないけど。」

 心配そうな顔をする母に、高峯はダメもとで尋ねるのだった。

 「母さん。オレの幼なじみの女の子っていたっけ。」

 母は、いきなり何よ…というような表情をしたが、すぐに彼の質問に答えるべく、少し間を置いて言った。
 「…男の子はいっぱいいるわよね…。そこの達哉くんでしょ、それから敦司くん…。でも『女の子』、よね…。この辺りにあんたと同じくらいの歳の女の子はいなかったんじゃないかな。でも、どうしてそんなこと唐突に聞くの?」

 「樋口さん…樋口結花って子、この辺にいなかったっけ。」
 「『樋口』さん…? 誰かしら。初耳ね。あまりこの辺りでは聞いたことない苗字だけど。その子がどうかしたの?」
 「いや。いいんだ。」
 そう言い残すと、すぐに二階の自分の部屋に駆け込んだ。

 高峯はどうしても諦めきれず、すぐに本棚から中学の卒業アルバムを引っ張り出した。
 久し振りに開くそれは、とても懐かしい感じがしたが、そんなノスタルジックな感傷に耽る間もなく、急いで堅い厚手のページを一枚一枚めくっていった。

 「結花は中3の時は確か3組だったよな…。」
 しかし、案の定「3組」の所に結花の姿はなかった。
 「ひょっとしたら自分の思い違いだったかも知れない…。」
 と、もう一度全クラスを見渡したが、どこにも結花はいなかった。

 そして、小学校のアルバムにも、自分の持っていたスナップ写真にも、どこにも結花の姿はなかった。

 高峯が次に思いついたのが、携帯電話であった。しかし、そのメモリーの中にも、メールはおろか、アドレスも着信履歴も何もかもが無くなっていた。携帯電話があまり好きでない高峯ではあったが、たまには結花とメールのやりとりをすることもあった。
 高峯に来るメールのほとんどが男友達やバスケ部の連絡などであったが、結花にもらったメールは、何となく特別な感じがし、メモリーを超えて消えてしまうのが寂しくて、プロテクトをかけていたのだ…。
 しかし、それについても、影も形もなくなっていた。 登録していた筈のアドレズや電話番号についても、同じであった。

 「やっぱり、夢だったんだろうか、いや…、でも、そんなワケはない。」

 高峯の精神状態は、もう勉強どころではなくなっていた。
 必死で、どこか自分の周辺に「樋口結花」という女の子ががいた証拠がないものか…と、あれやこれやと探し回った。
 本棚や抽斗の中をひっくり返して、どんな小さなものでもいいと思って探しまくった。しかし、どこにも結花の痕跡を見つけることはできなかった。

 そして、途方に暮れてしまった高峯はベッドに仰向けになって、ぼんやりと天井を見つめていた。
 その時点で、高峯はもはや半ば「結花」の存在を確かめる術を失っていた。
 そして、疑心の矛先を自分自身に向けざるを得なくなっていた。

 「本当に、俺どうかしちゃったんだろうか。それにしてももし、結花が存在しないこの世界が現実なんだったら、どうして、オレは結花なんて子がいたなんて信じてるんだろう、どうして…。」

 夕食の時も、風呂に浸かっている時も、ベッドに入っても、高峯の頭の中は結花のことばかりが巡っていた。そして、これがもし悪い夢なら、一度眠りについて、目が覚めれば、ひょっとしたら何もかもが元通りになっていないだろうか…、と淡い期待を胸に目を閉じるのだった。
 高峯は布団を頭から被って、「夢なら醒めてくれ」と本当に口に出して何度も繰り返した。そして、布団にもぐったまま体を丸くしていると、知らない間に眠りに落ちていた。

 その夜、高峯は夢を見た。

 そこでは、もう既にあの、新築の家は完成しており、そこに入る新しい入居者が挨拶回りをしていると母が自分に告げるのだった。
 そして、高峯の家にもそこに転住してきた一家が挨拶に訪れた。
 呼び鈴が鳴って、高峯がドアを開けると、そこにいたのは中学校の時の担任の先生、中原先生であった。そして、先生が「お世話になります。これは娘です…」と、そう言って紹介した女の子は、何と結花であった。
 …しかし、高峯自身はそれに対してあまり驚くこともなく、平然とし、妙に納得していた。
 ただ、結花には何となく「どうして」って声をかけるのだった。
 すると、結花は悲しそうな顔で「ごめんね。」と一言い、その後で「うちの家族はみんなあの家に住むんだけど、私だけ、また遠くに行っちゃうの。だからサヨナラを言いに来たの…。」と。
 高峯は、それを聞いて何だか凄く淋しくなり、それで何かを残そうと思い立ち、「じゃあサインして」と自分の部屋に中学の卒業アルバムを取りに行った。
 卒業アルバムの一番後ろのページにサインをしてもらおうと考えたのである。しかし、自分の部屋に取りに入っても、そこにあった筈の卒業アルバムが何故か見つからない。「おかしいな」と本棚を幾ら探しても見つからない。
 気持ちはとても焦るのだが、どうしても見つからず、困り果てながら、それでも本棚をかき回していた…。
 …ところで、目が覚めた。

 背中は汗びっしょりだった。布団を被って寝たから暑かったのかもしれないな、と意外に冷静な自分であったが、時計を見ると5時50分だった。


 2月末の夜は6時前でも、まだまだ明けてはいなかった。
 高峯は布団から起き出してカーテンを開けると、仄暗い外を眺めた。はっきりとは分からないが、結花の家の屋根が見える辺りに、白っぽいものがぼんやりと浮き上がって見える。
 …それが、新築の家を囲う白い幕であることは、容易に見て取ることができた。
 「やはり、夢じゃないんだ。」
 高峯は秘かに懐いていた淡い期待も、その薄闇に溶けていくような気がしていた。そして、洞窟の中に溜まる水のように、暗い気分がゆっくりと心を充たしていくのを感じ取っていた。

 窓ガラスにかかる息が、白い生き物のようにふわふわと波打つのを、焦点の合わない目で眺めながら、高峯は随分と長い間、そこに立ち尽くしいた。
 次第に外は明るくなり、素足の足先はいつの間にか冷え切っていた。
 …そして、

 「やはり、これは夢ではないのか?」
 しかし、幾らそう思ってみても、それだけはどうしても否定できそうになかった。高峯は、嫌という程全身に感じられる、自分の生々しい現実の生の感覚を、これほどまでに腹立たしいものに思ったことはなかった。











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