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こくごの先生の部屋
その2
『桃の花の向こうで』
その日の学校も、何事もなく過ぎていった。ただ、それは「結花がいない」という状況下においてのことでしかなく、高峯にとっては決して「何事もなく」ではなかった。
しかし自分の思いとは裏腹に、全く平然と過ぎていく日常に、高峯は、
「やっぱり全ては自分の妄想で、今までのことが長い長い夢だったのか。」
と、そんな気分にさえなっていくのだった。
その日の帰り道だった。高峯はとうとう、
「やはり、『樋口結花』の存在は妄想だったのではないのか。」
という思いが、自分の心の中で確かな感触を持ち始めていることに気付いてしまった。そして、それは同時に、結花がいないということ以上の喪失感を彼自身にもたらすのだった。
家に着いてからも、高峯の苦悩は続いた。
結花が存在しないことが、はじめは、全く信じられないことであり、それでも「結花がいた」ということに強い確信を持っていたが、誰一人としてそれを認めてくれないし、証拠もない。…そして、何はともあれ「結花」という人格を持った一人の人間そのものがどこにも存在しない…。「本当に結花はいたのか???」
高峯の「確信」は、もはや湧き上がってくる疑念を抑え込むだけの力を失いつつあった。
そして、高峯の感情はあらぬ方向へと動き始めたのだ。
月曜日の朝から、結花のことで頭の中が一杯だった…。その反動もあってか、彼の胸中には怒りにも似た反問さえもが渦巻き始めていた。
「しかし…、だからどうだっていうのだ…。そうさ、『結花』って子が仮に存在していたとしても、オレにとってはただの幼なじみでしかない。別に付き合っていたワケでもないし…あいつがいなくなったって、別段オレの人生が変わるワケでも…。」
しかし、思い詰めていけば行くほどに、心の底に、単純にそう割り切ることはできない「核」のようなものがあることもまた一つの「確信」なのであった。
結花の手紙、結花のメール、結花の写真…、探せば探すほど、自分の周りには結花が存在した確たる証拠が数多くあったことが確認できた。が、しかし、それはあくまで「あったはず」のことでしかなかった。
そして、今となっては「証拠」と言えるものは、自分自身の心の中で生きている結花のみであった。
ただ、それは何の証拠にもならないけれど、何よりもはっきりとした鮮やかな感覚であった。
…だからこそ、逆にそれらが全て妄想だということを認めたくはなかった。
幼い頃からの記憶…。
一緒に遊んだ結花。ランドセルの結花。運動会で先頭を元気よく走る結花。中学校になって、セーラー服を着て照れる結花。体育館で真剣にボールを追う結花。偶然逢った橋の上、夕陽を見ながら話し込んだ時の結花。「一緒の高校だね」と自分の背中をいきなり叩いて満面の笑顔を浮かべる結花。授業中の一生懸命な表情の結花。飼っていた犬が死んだと言って、夜になって突然訪ねてきて泣きじゃくった結花。
…結花、結花、結花。
あれが全て妄想、夢だなんてそんなことがあるはずがない…。
結花という一人の女の子は、「片桐高峯」というの一人の人間の歴史の中にしっかりと刻み込まれている。…いや、結花は或る意味自分の歴史の大切な一部分…。
…何より自分の心の中から消し去ることができそうにない「核」。それは、結花への恋心、結花を愛おしむ気持ちそのものだった。
やっとのことで、それを自覚できた高峯だった。それなのに、皮肉なことにその対象となる相手、結花その人自身は…どこにも存在しないのだ。
少なくとも今、自分のいる世界に結花が存在した証拠はどこにもないのだ。
結花に誘われて一緒に行ったたライブ。顔を輝かせながら舞台を見つめる結花の横顔。
…あれが、幻だなんて…。
「少しは勉強もしなければ…」と思いつつ机に向かっていた高峯であったが、全く手につかないまま、すぐにぼんやりと虚空を見つめてしまうのだった。
そして、思い出そうとすればするほどに、自分の頭の中の結花の記憶、結花の笑顔の輝きが少しずつ色褪せていくような気がした…。
ただ、それが恐ろしいことのような、しかし、どこか安心するような、不思議な感覚に襲われるのだった。
ふと、高峯は何かを思い出しそうな気がした。
そして…、脱いだ学生服のポケットからおもむろに財布を取り出した。別段、そこに「何かがある」と確信したからではないが、何となくそこに気持ちが向いたのだった。
…そして、財布の中を開いた。
レンタルショップのカードとファミレスのカード。そして、コンビニのレシートが数枚溜まっている。…と、目に留まったのは、札入れの所に千円札と一緒に挟まったオレンジ色の紙だった。
「あった。」
思わず高峯は声を上げた。そのオレンジ色の紙は、結花とコンサートに行った時の半券であった。コンサートから帰っても、何となく捨てられなくて、財布にいれたままにしていた…その、チケットなのである。
その存在をすっかり忘れていたのだ。
高峯は、財布の札入れの部分から、恐る恐るそっとそれを抜き出した。
それは、確かに結花と一緒に行ったライブのものである。時刻も『11月17日(土)午後6時開演』と記されている。日付も自分の記憶通りだ。
そして、高峯は何か、他に手がかりになるものはないか…と、それを裏返しにした時、思わず息を呑んだ。
その半券に決定的なものを見つけたのである。
そこには、「loveタカネ」 …と小さく記されていた。
凄く小さく、遠慮がちではあるけれど、鉛筆であろうか…、それはしっかりと書きこまれていた。その少し丸みのかかった、少し濃い筆跡は、紛れもない結花のものであった。
「こんなベタなセリフ…」そう呟きながらも、その文字を見ていると、高峯はなぜか無性に涙が込み上げてきた。
しかし、高峯には、まだそれが信じられなかった。…それが、結花のものだという確証はどこにもないのだ。
…ひょっとしたら、これは別人の筆跡で、オレは誰か別な人とそのライブに行っていたということなのかも知れない…。
しかし、結花がもし本当に存在しているなら…、手がかりはこれしかない。
高峯は、久し振りに腹の底から湧き上がってくる「力」を感じていた。
外は、知らない間に雨が降っていた。
どことなく、あたたかい感じのする…それは春の雨だった。
次の日、一晩中降り続いた雨は上がっていた。
まだ、芽を吹いていない樹々も、その枝の先に輝く透明な粒をまとい、辺りには春らしい光が漲っていた。
そんな春の気配の中、いつになく元気に自転車を漕いでいく高峯の姿があった。
彼は、学校に行くと早速捜索を開始した。
二人で行ったライブ。その、バンドの名前は「POSTPONE CLUB」。今売り出し中のバンドで、まだそれほど知名度は高くないけれど、やっと地方のツアーを始めた…そんなバンドだった。
高峯は、実のところは結花に誘われるまで、そのバンドの存在を知らなかったのだが、ライブを見て一気に好きになってしまった。ギターとベースとドラムのシンプルな3人編成のそのバンドは、ヴォーカルの声と、歌詞の言葉遣いに凄く特徴があった。
高峯は、よくあるパターンのにわかファンであったが、結花はというと、しっかりとインディーズの頃から目をつけていたらしく、メンバーの経歴なんかについてもかなり詳しかった。
…しかし、それについても自分の妄想なのか…。…いや、そんな筈はない。
高峯は、音楽好きの友人に片っ端から「オレ『POSTPONE CLUB』のライブ行った話したっけ?」と探りを入れた、勿論、自分から「ライブ行ったぜ」って話をした記憶もあるにはあったのだが、ひょっとしたらまた事実と違うことになっているのかも知れない…という恐れがあったからである。
しかし、坂田を始め、バスケ部の仲間からも「ああ、『行った』って言ってたよな。」という返事が普通に戻ってきた。
ただ、高峯にとっては、「結花と一緒に行った」と言うことを伏せていたのが結果的に裏目に出た感じだった。
「オレ、誰かと一緒に行ったって言ってた?」という次の質問には、「知らない。」とか、「お前…、ホント最近大丈夫か?」などと、逆に心配されるような始末だった。
そして、高峯は最後の手段である、結花が最初に「一緒に行く」と言っていたD組の篠崎みゆきに尋ねることにしたのだ。
余り面識のない篠崎だったが、高峯のやや唐突とも思われるような「去年の『POSTPONE CLUB』のライブのことだけど」という質問にも、彼女は真面目に答えてくれた。
ただ、その時彼女は凄く不審そうな顔をした。そして、帰ってきた返事に高峯はまた驚かされることになった。
「片桐くん、『POSTPONE CLUB』好きだって知らなかったから、私本当にビックリしたんだよ。良かったよね、あのライブ。」
「…。」
高峯は絶句した。しかし、それは想定内であるといえばそうであり、ここで怯むワケにもいかない。馬鹿にされるのを覚悟で尋ねた。
「篠崎さんも、行ったんだ?」。
すると、これも、覚悟はしていたものの、驚くべき返事が帰ってきたのだ。
「やだァー。もう忘れちゃったの? 会場で、偶然片桐くんと隣の席になったんじゃない。」
高峯は唖然としつつも、追及の姿勢を崩さなかった。…すぐに話を合わせて言った。
「ごめん。そうだったよね。それで、ライブの後どうしたんだっけ。」
「ホント、片桐くんって頭いいくせに、忘れっぽいんだね。どっちも1人で来てたから、帰りは一緒に電車で帰ったんじゃないの。もう。」
高峯は、それ以上話をすることもできなくなってしまい、「ごめんごめん。」と適当に話を合わせつつ、苦しまぎれに「…今度の新曲、なかなかいいよね。」とつないだ。すると、篠崎は顔を輝かせて、
「でしょー。あのライブの最後にやった曲よね。あの時は聴き慣れてなかったから、あまりピンとこなかったけど。聴き込むと最高だよネ。」
と、笑顔を輝かせながら、凄く嬉しそうなコメントが帰ってきた。
「ありがとう…。それじゃあ。」
そう言い残すと高峯は篠崎を残して慌ててその場を立ち去ったのだった。
…そこで、なぜ高峯が慌てたのかというと、その時の篠崎の自分を観る目に、何となくただならないものを感じたからである。
「…篠崎みゆきは、はっきり言って凄く可愛い。もし、女子の人気投票をしたら必ず学年でもベスト3には入るだろう。結花は…ベスト10には入るだろうけれど…。」
だから、正直言って、この情況に高峯自身が怯んだというのが正直な所ではあった。…が、今はそれどころではなかった。
とにかく、自分には全く記憶がなかった。
「篠崎さんと一緒に帰った? その時何があったんだ?」
高峯は篠崎さんのことは、それほど知らないし、結花の仲良しだという認識があるという程度のことだった。
結花とは全く違うタイプで、控え目で可愛い子だが、彼女にしたいとかそういう目で見たことは一度もなかった…。しかし、それは置いておくとしても…。
「でも…。一体」
高峯は頭を整理することにした。
「どうやら、自分がライブに行ったのは事実のようである。…ただ、どうやら1人で行ったことになっている。で…確か、結花とオレが並んで坐った座席は、結花が通路からすぐの所で、オレがその隣だった…。」
そして、高峯の記憶にもう一つの確信めいたものが甦っていた。
「さっき篠崎さんが言ってたけど、ライブの最後にやった曲は『Little Blossom』ってタイトルだった。最近、新曲として発売になったばかりだから、間違いない。
ライブでの曲紹介の時、そのタイトルが、『可愛い女の子』っていう意味だと説明されていたので、結花は『bloosomって花が咲くって意味だよね。何だか私の為に創ってくれた曲みたいで嬉しい…。』と、そう言っていた。
これははっきりと記憶がある。
ただ、今までのこと…。ライブのことも、全て結花が存在しなかったように説明できる、それはそれとして辻褄があっている。
…しかし。…今の自分の手の中にある唯一の証拠は、この半券に書かれたメッセージだけだ。
でも、それが別な人の書いたものだったら…。一体オレはこのチケットをどこで手に入れたのだろう…。」
まだまだ謎は深まるばかりであった。取りあえず、この筆跡が篠崎みゆきその人のものかどうかは調べてみる価値がありそうだった。
昼休み、卒業式が迫っている学校内では、部ごとに先輩へのプレゼントや送別会の計画が進んでいた。ちょうど、運良く坂本のところに、色紙の束が届いていた。バレー部は、1人の先輩に対して男女が同じ色紙メッセージを書いているようで、高峯は坂本に言って、一枚見せてもらった。
もう、そこにはかなりぎっしりと色とりどりのペンでメッセージが書き込まれていた。そして、高峯はそれを目を皿のようにして眺めた。
もちろん、探したのは結花のものではなかった。
結花のものがそこに無いなどと言うことは期待もしていなかった。…それよりも、今は篠崎の筆跡の方がポイントなのであった。
…そして、高峯が見つけた、篠崎みゆきの文字は、形の整った綺麗な文字だった。 「チカ先輩、また遊びに来て下さいネ。お世話になりました。みゆき。」
それは、チケットに書かれていたそれとは全く違う筆跡だった。
高峯は確信した。「結花はいる。」
高峯にとって、頼りになるものはその半券だけであった。高峯は何度も何度もそのチケットを取り出してはその裏側に記された文字に見入った。結花の存在しない世界において、そのチケットは彼にとって「結花」そのものであると言えた。
…そして、今ここに存在しない結花を、たまらなく愛おしいと思う、その気持ちの拠り所でもあった。
しかし…。
高峯は、その後もそのチケットを頼りに、出来る限りの「捜索」を試みた。が、その結果は虚しいものに終わっていた。どうやら、ライブに行く為のチケットは自分が自宅のパソコンを使ってネットで買ったもののようだった。
それが、パソコンの履歴から確認できたのだ。
数日が過ぎた。
卒業式も終わり、先輩達との別れも終えた。そして、その直後に始まった試験も既に初日が終わっていた。
「学年末こそは。」と思っていたのに、初日が終わった時点で、もう結果が悲惨なものであろうということは容易に想像できる情況になっていた。
「明日はもう金曜日か…。」
その夜、高峯はベッドの中でぼんやりと考えていた。
「…しかし、どうして、あの半券だけが残っているのだろう。他のものはすべて完璧と言って良いほど、残っていないのに。」
そう考えながら、高峯は何度考えたかわからない「なぜ」の答えを探していた。
「やはり、全てが自分の妄想なのか。誰かが自分を陥れようとしているのか。それとも、天罰なのか。はたまた、SFみたいにどこか別の世界に入り込んでしまっったのか…。」
そこで、高峯は中学の時に読んだSF小説の内容を思い出していた。
「『時空連続体』って言うんだったか、この世界と同じような、別の世界が、次元を異にした所には、数限りなく存在する…って。でも、そんなのあり得ないし…。」
結局、「樋口結花」という女の子の存在が、自分が創り上げた妄想だという結論が、一番納得できるものであった。しかし、そうなるとあの半券に書かれた「loveタカネ」の文字の説明がつかなくなってしまうのだった。
そうやって高峯は、ここのところ毎日、悩みながら眠っていく…というパターンを繰り返していたが、今夜も例に漏れず、知らない間に余り安らかでない眠りに陥っていた。
その夜、また高峯は夢を見た。
高峯は蝶になっていた。
そして、あの裏山の斜面に広がる桃畑をゆらゆらと飛んでいるのだった。
スローモーションのように流れていく景色…。いつの間にか、高峯は吸い寄せられるようにあの桃の大木の側へと舞い降りていた。
そこには、美しいピンク色の桃の花が咲き乱れており、高峯はその花の一つにとまった。
…そこから見下ろした所には、ランドセルを背負った小学生の女の子が1人立っていた。
それは、見覚えのある少女…小学生の結花であった。
そしてその少女は1人で樹の幹に向かって何かをしていた。
ちょうど背中をこちらに向けており、よく見えなかったが、高峯には、その少女が何をしているのは分かっていた。その少女、結花は自分の背の高さの所の幹を削っているのだ。
高峯は、結花らしきその少女の側に行こうと飛び立った。
しかし、何故か急に吹き始めた強い風に煽られて前に進めなくなってしまった。それどころか、逆にどんどんその樹から離されて、少女の姿が小さくなっていく。
「結花」、「結花」と声をかけようとしても声が出ない。見れば、自分の口はまさしく、ぐるぐると渦巻いたチューブのような蝶のそれであり、どう足掻いても声など出せそうにないのだった。
「結花」、「結花」と心の中で叫びながら必死に飛び続け…
そして、そこでまた目が覚めた。
時計を見るとまた5時50分であった。
暫くして我に返ると、高峯は淡い期待を胸にベッドから起きあがった。
窓際に立つとカーテンを開けて、窓に付いた水滴を手のひらで拭うと、流れていく水滴の向こうに歪んだ朝の風景が見えた。
しかし、結花の家の方向を見ても、そこには相変わらず白い幕がかかった四角の建物しか見えなかった。
「もう、あれから一週間か…」
そう呟きかけて、高峯はふと或ることを思い出したのだった。
「そうか…。」
結花を最後に見たのは、先週の金曜日だった。あの、漢文の時間のピースサイン…。そして、あの白い幕は日曜日の朝にはもうあった…。
「オレはてっきり月曜日から結花がいなくなったんだとばかり思ってた…。じゃあ、いつから…。」
そして、高峯はもう一度あの金曜日のことを丹念に思い出してみることにした。
学校を出て、自転車置き場まで行って引き返したこと。部室に寄って…それから靴紐を買いに寄ったこと、山道を歩いて帰ったこと。
…そして、あの桃の林を通り抜けたこと…。
そこで、高峯はやっと思い至ったのである。
「ひょっとしたら、あの時…。」
高峯は夢に見たあの桃の大木のそばで、一瞬妙な目眩に似た感覚に襲われたことを思い出していた。そのとき嗅いだ…鮮やかな桃の花の香りとともに。
「あの日、帰りに荷物はあまり持っていなかった。自転車がパンクしていたので、勉強道具もほとんど学校に置きっぱなしで…。携帯も家に置いたままだったし。
…そうか、あの時オレは何かを通り抜けたんだ。
財布だけは肌身離さず持っていた、だから…きっと向こうの世界からそのまま持ってきたのは…、
財布だけ…。あのチケットだけだったんだ。」
その日は、試験が2科目だけだったので、それが終わると高峯は速攻で学校を飛び出した。「いっそのこと、学校に行く前に…」とも思ったが、それは自重することにした。
そして、試験が終わって家に帰ると、「ちょっと出かけてくる」と母に告げ、すぐに裏山への道を駆け出した。
もう、陽射しはすっかり春めいていて、ちょっと山を上り始めただけで、すぐ学生服の下のトレーナーが汗ばんでくるのが分かった。
道脇の枯草の間から緑色の若草が所々顔を出している。芽吹き始めた樹々もあるのだろう、遠目に見ると山肌は浅黄色のベールがかかっているように見える。
暫く歩くと、高峯の目の前に、再び見慣れた風景が広がってきた。
「…この間は、夕暮れ時にここを家に向かって下ったんだ…。ひょっとしたらあの時…オレは、もうこちらの世界に来ていたのかも知れない。」
そう思うと、自分が向かう先が、何か得体の知れない場所のような気がして、少し足が竦むような気さえもした。しかし、高峯の中にある結花への思いが彼をあの桃の大木のもとへと駆り立てていた。
そして、あの桃の樹が見えてきた。
しかし、高峯はすぐにその樹に近寄ることをしなかった。そして慎重に一週間前の自分の行動を振り返った。
「もしも、自分が向こうからこちらの世界に来たのなら、全く反対に動けば、ひ ょっとしたら元に戻れるかも知れない。SF小説なんかでも良くある話だ。」
高峯は、自分がよろけそうになった場所に恐る恐る近づくと、前と同じように桃の樹を見上げた。
時間はまだこの間よりも随分と早く、まだ花も芽もついていない茶褐色の枝のバックには薄い水色の空が広がっている。
そして…、高峯はゆっくりと確かめるように、あの時自分が回ってきた方向と反対向きに樹の裏へ周り込むと、恐る恐る幹の裏側にあるはずの二つの刻印に目をやった。
しかし…。
そこにあったのは、高峯の腰の辺りにつけられた一本の線だけであった。それは明らかに、幼い高峯の背を表した、比較的高い所にある刻印だった。少し右上がりにつけられたそれは、間違いなく自分のつけたものであった。
高峯は落胆した。
「やっぱり。だめか…。」
「本当に、結花のことは全ておれの妄想だったんだろうか。」
彼は何度かその樹の周りをぐるぐると回ってみたが、期待していた変化は何も起こらなかった。そして、最後は幹を背に、そこへ座り込んでしまった。
「『胡蝶の夢』か…。 …胡蝶は、桃源郷には行けなかったんだ…。」
虚ろな目で見上げた空。…それは、淡い春の色に満ちていた。けれども、どことなく頼りなげな空だった。
高峯は寄り掛かってた樹の幹に頭を何度もぶつけながら、嫌になるほどの確かな「現実」を感じていた。
「…ったく、どこが『桃源郷』だよ。結花のいない世界なんかつまんねえよ…。」
高峯は暫くぼんやりとしていたが、また財布を取り出して、あのチケットを取り出すのだった。それが、彼女が存在していた唯一の証拠、心の拠り所なのだ。
そして、そこに書き込まれている、可愛らしい結花の文字に目をやった…。
ところが、ふとした拍子に、あらぬ事か、チケットを脇へ落としてしまったのだ。
「しまった」
と、すぐに手を伸ばしたが、そこへ折からの風が吹き、チケットはふわりと樹の向こうへと飛ばされていった。
そして、その先の小さな池の水面に落ちてしまった。
「やべ」
と、高峯は立ち上がると、すぐに側に落ちていた木の枝を掴むと、水面で揺れているチケットをすくい上げた。…見れば、チケットの表面はもう水を含んでひたひたになって、印刷も所々が滲み始めている。
そしてそれを裏返しにした時、高峯は目を疑った。
「ない…。」
そこには、確かに書かれていた筈の、あの「loveタカネ」の文字はなかった。
「濡れて消えてしまったのだろうか…、いや、そんな筈はない、あれはどう見ても鉛筆で書かれていた。鉛筆が水で消えるわけがない、それに、仮に水性のペンだとしても、少し濡れたぐらいで全く跡形もなくなってしまうなんてことは…。」
高峯は混乱してしまった。
文字が消えたこともそうであるが、自分にとってそれは結花がいたことを表す唯一の証拠、結花そのものと言っても過言でない筆跡だったのだ。
それを自分の不注意で失ってしまったことに、もの凄い後悔と、じわじわと噴きあがって来る喪失感を感じていた。
「なんてことを…。ああ、オレは一体…。」
…その時であった。
高峯の鼻を、またあの時のような桃の花の甘い香りがくすぐった。
「えっ。」
高峯は思わず辺りを見回した。
「…今日はあたたかいけれど、まだ花は咲いていない。ここに登ってくる途中も、花をつけている木は一本もなかったし、匂いもしていなかった。」
高峯は、何かしら心の底から湧き上がってくる力のようなものを感じ、その場に立ち上がると、またこの間と同じようにその桃の大きな樹を振り仰いだ。
しかし、やはりどこにも花を見つけることはできなかった。
そして、暫くすると甘い香りもまた何処かへ行ってしまった。
高峯は再びそこへ座り込んでしまった。濡れたチケットが虚しく高峯の手の中で萎れていた。
「本当は、オレは蝶で…これが『夢』なのか。…いっそ、そうだったらいいのに…。」
木の幹を背に、目をつむっていると涙が頬を伝っていくのが分かった。
すると目をつむっていた高峯の鼻に、また桃の花の香り漂い始めていた。そして、誰かが坂を上ってくる気配がした。
「…高校生の男がこんな所で泣いているなんて、端から見るとおかしいと思われても仕方がない。」
高峯は学生服の右袖で涙を拭うと、立ち上がって学生服に付いた枯草や泥を払った。
その足音は次第に高峯の方に近づき、ついにその主は姿を現した。
結花だった。
それは、紛れもない結花その人だった。
高峯は思わず駆け寄ると、結花の肩を両手で掴むと強く揺すぶった。
「結花、結花だよね…。」
結花は少し驚いたような顔で、「どうしたの、タカネくん。今更…。私に決まってるじゃない。樋口結花、17歳よ。」
そう言って微笑む結花は結花そのものだった。
高峯は掴んでいた結花の肩から手を離すと、すぐさま桃の樹の裏に回ってみた。
そこには、確かに二つの刻印があった…。
エピローグ
「ふうん。で、それ…『全部夢だった』ってオチなワケ?」
「うーん。上手く言えない。」
「じゃあ、妄想?」
「ううん。…たぶん、現実。」
「じゃあ、私をここに呼び出すメールを送ったの…誰?」
「えっ? あ、…たぶん…オレ。」
高峯は全てを説明しようとしたが、到底それはできそうになく、諦めることにした。
きっと信じて貰えないだろうし、自分自身、どういうことなのか説明できそうにないと思ったからである。
「でさ…、オレ気付いたんだよ。」
「えっ。何に?」
「…色んなこと。」
「例えば?」
「うーん。…勉強も、バスケももっと力一杯やらなきゃってこととか。」
「いいんじゃない。…でも、それだけ? 向こうの世界ではバスケも勉強も普通だったんじゃない?」
「そうなんだ…。で、それだけじゃないよ。」
「何が。」
「うーん…。」
「向こうでは私だけがいなかったんでしょ?」
「そうなんだけど。」
「…でも、タカネくん、よりによって何でそんな世界に行っちゃったのかな。」
暫く沈黙があった。
なぜ、結花がここに現れたのか。
それは高峯にとって謎だったのだが、結花によれば、それはどうやら自分が呼び出したということであった。自分が結花にメールを打ったとういうことも、彼自身全く身に覚えがないことであったが、今となっては、もう「何もかもが信じられなくて…、逆に何もかもが信じられる」そんな情況であった。
そして、こちらの世界で何があって、自分がどうして結花を呼び出したのか、それは自分にとっても謎のままであった。
結花はそこで、不思議なことを言った。
「私ね。この間、夢を見てさ。この桃の樹が出てくるの…。覚えてる?小学校の時、ここで、背比べしたよね。」
「うん…。でも、オレ…お前はもう、あんなこと忘れちゃってると思ってた。」
「忘れるわけがないじゃない。もう…失礼ね。でね…。」
結花は、そこでその夢の続きを語った。
「私ね、その夢の中で…、1人でここにいるのよ。それで、1人でこの幹に印を彫ってるの。…それがね、何だか凄く寂しくって。どうしてタカネくんがいないんだろうって。」
「…で?」
高峯は、結花の見たそれは、自分の見た夢とそっくりだと思ったけれど、そこは黙って聴いていた。
「でね…。私…。目が覚めてからも寂しくって…。その夢を見た次の日の学校の帰り、この樹の所に来たの。」
「それで?」
「この樹に向かってお祈りしたのよ。」
「何を?」
「ひみつ。 …うそ。告白すると、『タカネくんとずっと一緒にいられますようにって。』あ~あ、言っちゃった。」
高峯はその言葉を凄く冷静に受けとめていた。そして、結花に向かって言った。
「オレも、お前がいなきゃだめだ…。」
「え?」
「今度さ…。またライブ行こうよ。今度はオレがおごるからさ。」
「うん。でも…、いいの?」
高峯は半券を取り出した。
「ちょっと、濡れちゃったけど…向こうの世界でも、これだけはそのまんまだったんだ。…でさ、お前…これに何か書いてなかった?」
高峯のその言葉に対して、結花はかなり驚いたような反応を示した。そして、「えっ? 何で?」と言うと、高峯の手からチケットを奪い取るようにして手に取ると、すぐに裏返しにして食い入るように眺めていた。
「…書いてたんだけど、消しちゃったの。…どこにも、書いてないよね。…でも、なんで知ってるの?」
「いいからさ…。で、おまえ何て書いてたんだ。」
「これは絶対、ひみつ。」
結花は少し赤くなった。高峯は、それについても、もうそれ以上追及しなかった。
そして続けた。
「これがなかったら、オレ、こっちに帰ってこれなかったかもしれないんだ。」
「おおげさね。それって、夢じゃなかったの?」
「わかんない…。でも、これで、オレ確信したんだ。」
「何を?」
そう言って高峯を見上げる結花の顔は輝いていた。そして、次の言葉を継ぐことができずに戸惑う高峯をよそに、結花はバッグから何かを取り出した。
それは、高峯と同じ、あの時の半券であった。
「なんで、お前もそれ持ってんの?」
「だって…、これ私の宝物だもん。」
「…。」
「それから、…これ。」
結花はバッグからもう一つ小さな袋を取り出した。
「プレゼント。開けてみて。」
高峯は言われるまま、その袋を開けた。
中に入っていたのは…何と、バスケットシューズの紐だった。
それは高峯が先日買ったものと同じメーカーのものだった。しかも、色も全く同じ、あの、薄いピンクがかったそれであった。
そして、高峯は思わず学生服のポケットを探った。…しかし、そこにあるはずの靴紐は姿を消していた。
けれど、もう高峯は少しも驚くことはなかった。それどころか妙に納得していた。
そんな、靴紐を見つめたまま何も言わない高峯に、結花は構わず続けた。
「紐…切れちゃってたでしょ。だから…」
「あ…。」
あの時…、先週の部活の時、紐が切れてしまって、体育館の隅に坐っていた自分に…結花は気付いてくれていたのだ…。バレーボールを追うのに夢中で、全然オレのことなんか気にもかけていないと思ってた…結花
…ちゃんとオレのこと…見ていてくれたんだ。
その事実を知って高峯はちょっぴり感動した。
そして、「それでね…。」と、結花は再び高峯の手にあった靴紐を取って何かを説明しようとした。…その結花の白い手を、高峯は紐ごと握りしめ、自分の胸に引き寄せた。
高峯は結花を抱きしめていた。
小さな結花の背は高峯の胸にようやく届くほどでしかなく、高峯は結花の頭を包み込むようにそっとその手を背中に回した。そして、そっと告げた。
「オレ、お前が好きだ…」
結花は直接その言葉には返事をしなかった。
しかし、自分の背中に回っている彼女の手…その指先に加わった仄かな力がそれへの確かな返事になっていた。
そして、結花は高峯の腕の中で続けた。
「紐、気に入ってくれた…?」
「うん。ありがとう。」
「ちょっと赤っぽいけど。タカネのシューズにもあうでしょ。実は…私とオソロなの。…私のシューズにはちょっと合わないかも知れないけど…、女バレのユニフォームが赤だから試合の時はいいかなって。
あ、…でも、目立たないから大丈夫よ…オソロって分からないから…。」
高峯は自分の胸に向かって喋っている結花の言葉を聞きながら、
「…うちの女バレのユニフォームって『青』じゃなかったっけ…」と、そんなことをぼんやりと考えていた。
…でも、そんなことはどうでもいいことだった。
「どうせ、この世は矛盾だらけなんだ…。」高峯は心の中で呟いていた。
自分にとっては、結花さえいてくれればよかった。
自分にとって、何よりも大切なもの、確かなもの…。そう、それは今自分の腕の中にあった。
それだけで十分だった。
「結花と一緒なら、どこだっていいさ…。」
高峯は、今度は結花に聞こえるように小さく呟いた。
と、またどこからともなく、静かに風が吹き始めた。
そして、また、あの甘い桃の花の香りが二人を包むのだった…。
《了》
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