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こくごの先生の部屋
「その1」
『雨の鼓動』
【プロローグ】
目が覚め、ぼんやりとした頭で起き上がりると、陽介はベッドの脇に腰掛けた。そして、自分一人だけがこの部屋にいることを確認した。
次第にはっきりしてくる意識。彼は昨晩の記憶をもう一度辿ってみた。
まるで、それは夢だった。
彼は、大きく息を吸い込み、ゆっくりと確かめるように吐き出した。
それは深呼吸ともため息ともつかないような、妙なものであった。
期待と不安、そして緊張。相反する感情が微妙に交錯した気分が、改めて自分の全身にのしかかってくる。
このまま終わってしまうのか、束の間の休暇と同時に…。
…いや、そんな訳はない。
…ただ、これからどうなるのだろう。
陽介は自分の心の中にある、確かな気持ちを実感しながらも、具体的にそれを行動に移す手立てを見つけられず、ただ、ただ戸惑っていた。
そして、ふと目をやった先に彼が見たもの。…それは、テーブルの上にある見慣れた自分の茶色いカバン…。と、その横にある2つ折りの紙だった。
「あ、これは昨日の…。」
陽介は手を伸ばし、その紙をそっと手に取った。
綺麗に折り曲げられた白い紙。陽介は静かにそれを開くと、締め切られたカーテンの隙間から僅かに漏れる光の方へと向けてみるのだった。
第1章
樋渡陽介は、都会の生活に疲れていた。
彼は、東京の私立大学を卒業した後、特に大した目的もなく、何となく都内で一般就職していた。
ただ、「何となく」とは言っても全くそこに何もなかった訳ではなく、それなりに会社で活躍したいという思いはあった。勿論、就職難のこの時期にそんないい加減では就職できるはずもなかった。
が、いざ職場に入ってみると、期待していた部署にはなかなか配属されず、一定の研修を終えた後はすぐに営業に回され、それからはずっと営業マンとして外回りを続けていた。
陽介は、もともとそれほど社交的ではない性格であったため、営業マンとしての人との接触ははかなりの負担であり、毎月のノルマをこなすことは、当初はかなりキツいものだった。
しかし、習い何とか…というやつで、5年目ともなるとそれなりに業績も上がっていた。ただ、給料の大部分は家賃と生活費にまわっているというのが現状だったのだ。
そして、なにより陽介を苦しめていたのは、半年ほど前から起きていた何をやっても楽しくなく、元気が出ないという一種の精神的なストレス障害のような症状であった。
精神科へ罹るほどではなかったものの、「かなり今の生活に嫌気がさしているのだ」と、自己分析もできている…そんな生活だった。
彼はの出身はというと、東京からは随分はなれた地方であり、実家は工場を経営していた。
父はまだまだ現役であったが、そろそろ跡継ぎも考えなくてはならない時期にきていた。
そして、絶妙のタイミングで一人息子の陽介に声がかかったのだった。
彼自身、二つ返事というわけではなかったが、このまま都会で生活を続けるというイメージは毛頭なく、「そろそろ田舎へ帰るのも手だろうか」と考えていた矢先であり、ここで陽介は心機一転、田舎の工場を継ぐ運びとなったのだ。
ただ、ここ数年働きづめで、都会のストレスが体中に染みついていた陽介は、父と交渉し、ある一つの条件を果たすことで、夏までは自由にさせてもらうことにした。
その「条件」とは、その期間内に取引先すべてに挨拶回りをすること。ただそれだけだった。
陽介の実家の経営している工場の取引先は比較的数多くあるのだが、そこへの顔つなぎをするというのが彼の初仕事であった。
つまり、療養と挨拶をを兼ね、暫くのんびりと旅行気分でぶらぶらするという計画だった。
陽介は5年間勤めた会社に辞職願いを出すと、さっさと東京のアパートを引き払った。そして、実家へ引っ越しをすると、早速実家の「営業車」と言う名目で、退職金と貯金をはたいてステーションワゴンを一台購入した。
こうして陽介は、父のはからいを有り難く思いながら、悠々自適に愛車とともに挨拶回りをして、ここ何日かを暮らしていた。
ただ、取引先は4県にまたがって、約3、40箇所あるので、普通に全部をを回っても、ざっと1ヶ月半ほどはかかるはずだった。
訪問先の件数と場所をざっと把握した陽介は、療養も兼ねているので、当初は約2ヶ月ほどは欲しいと思っていた。しかし、その思いは良い意味で裏切られたのだった。
父の提示した期間は「3ヶ月」であった。
陽介は、その父の言葉を嬉しく受けとめていた。それだけあれば、十分療養もかねてのんびり回ることができるだろう…そう考えていた。
しかし、やはり父は慧眼であった。最初は、「挨拶回り」と軽く考えていたが、それほど甘いものではなく、取引先の事務所や工場を尋ねた陽介を待っていたのは結構な応対であった。
名前しか記されていない名詞、そこには肩書きも何も記されてはいなかった。しかし、それにも関わらず、それを先方に差し出すと、すぐに「息子さんですか。」という話になってしまうのである。
やはり苗字が「樋渡」という珍しいものであるし、名前も父と似ている。それに陽介自身は否定的ではあったが、背格好も「社長の若い頃に瓜二つ。」であるという。
となると、あっさりと挨拶だけというわけにはいかないのである。
それに、実際この挨拶回りは、「顔つなぎ」という意味もあるのだから、単純な、形式的なものとばかりはいかない。先方も、結構その気で今後の取引や契約内容についての話を始めたり、丁寧に接待をされることもあった。
陽介の父が開拓した取引先。そこには父と、先方の関係というものがしっかりと根付いいた。
陽介は自分の考えの甘さを反省するとともに、自分が守っていかなければならないものの大きさを改めて知るのであった。
ということであるから、挨拶回りはよくて一日2件というところであった。時には1件だけで一日が終わることもしばしばであった。
陽介が挨拶回りを始めたのはちょうどゴールデンウイークの直前、4月の下旬からであった。初めの頃は新緑が美しい、爽やかな天気の日も多かった。新車でのドライブも楽しいものだったが、次第に気温も上がり、そろそろ初夏の薫りがし始めていた。
実際にはゴールデンウイークなどを挟んだために、4月と5月の実働期間は短く、あっという間に5月も最後の週になっていた。
陽介は、既に十数件の挨拶回りを終えていた。
そろそろ調子が出始めた頃で、要領も随分と分かってきていた。営業で慣らした経験が、フルに活用できたのは彼にとってとても嬉しいことであった。
そして、週末は大学時代の友人の家に転がり込んで、学生気分に戻る、というパターンの生活ができ始めていた。
陽介のように地方から東京へ出ていた者の何人かは地元に戻っており、その友人を訪ねるのも、この度の陽介の楽しみの一つだった。大学を出てからほぼ5年あまり。仕事も軌道に乗っている者が多く、しかも、それでいて独身のものがほとんどで、まだまだ学生気分にいつでも戻れるような者ばかりであった。
二人の出逢いは、そんな頃であった。
その日陽介は、多分実家からは一番遠い取引先の一つに向かっていた。そこは、陽介自身も初めて訪れる場所で、全く土地勘が働かなかった。
陽介は「カーナビ」というものが嫌いだったので、車を購入する際にもわざと取り付けずにいた。
理由としては、地図を見ながら旅をするのが好きだということもあるし、カーナビに、手元でああだこうだと喋られるのがどうも気に入らない、というのもあった。
確かに、あると便利なのは分かるけれども、陽介は地図とにらめっこしながらでも、自分で目的地を尋ねることに喜びを感じるタイプだったのである。
「確かこの辺りだと思うんだけどなあ。」
陽介は、少し広くなった道路脇のスペースに車を寄せると、周りを見回しながらひとりごちた。
地図では、ほぼ目的地の「菊池縫製(株)」の辺りにいると思うのだが、どうも道がごちゃごちゃしていて分かりにくい。車一台がやっと通れるような道が何本も交錯しているし、その上、一方通行になっているところが多いのだ。
まさか一方通行を逆走してはいないだろうな、と少々不安になって、陽介は標識を確認した。振り返って車の後方に目をやると、ちょうど近くに進入禁止の標識が見える。
やれやれ、というような顔をしていると、ちょうど後ろから来た原付のおばちゃんが怪訝そうな顔で、彼の方を一瞥して通り過ぎていった。
暫く地図を確認して、再び走り出した陽介であったが、やはり分かりにくく、何度も同じ所を回った挙げ句に、二進も三進もいかなくなった。
「仕方ないな…。」と呟きながら、ここは、一旦広い道路に出て仕切り直すのが得策だと、車を回すことにした。
手持ちの地図は、一軒一軒の家までが記されているようなものではないので、大雑把な場所しか載っていない。しかも、訪問先は番地と電話番号しか分からない。
電話を掛けてもいいのだが、そこは何とか自分の力で辿り着きたいという気持ちもあった。
陽介は、少し広めの通りまで戻ると、そこにあった図書館の駐車場に車を入れさせて貰い、もう一度地図を眺めていた。
ふと目を上げると、フロントガラスに水滴がぽつぽつと小さな模様を描き始めている。
「あ、とうとう降り出したな。」
今日は朝のうちは晴れていたのだけれど、少し前から雲が出て、次第に降り出しそうな気配になっていた。降り出す前に到着したいと思ってはいたのだが、とうとう降り始めたかという感じだった。
と、ちょうど雨粒の向こう、フロントガラス越しに見える図書館の玄関口の所に、一人の女性が立っているのに気付いた。
「地元の図書館を利用している人だから、きっとこの辺りの人に違いない。」と、そう思った陽介は車を降りて雨の中を小走りに図書館の入り口まで駆けた。
自分の方へ駆け寄ってくる陽介の様子を、少し驚いたような様子で見つめていたその女性は、スレンダーな色白の可愛らしい人であった。
綿のパンツに、サマーセーター。下に白いTシャツを合わせた初夏らしい装い。22、3歳ぐらいであろうか。まだ学生のような感じだった。
彼女はちょうど傘を差してこれから雨の中を出て行こうとしていた所だったのだろう。手に紫色の傘を持っていた。それを見た陽介は、「あっ」と思わず声を出しそうになったが、そこは自重してすぐさま本題に入った。
陽介は、地図を取り出すと、
「あの…。ちょっと道をお尋ねしたいんですが。」
と切り出した。
その娘は黒目がちな瞳を真っ直ぐに陽介の方へ向けると、少しはにかむような様子で告げた
「え…。でも、あの…私地元の人間じゃないんで…。」
とても済まなさそうな表情でそう答えられてしまい、陽介は当てが外れたことよりも、彼女の様子に、何だか自分が悪いことをしてしまったかのような気になって、
「あ、それ、は、どう、も…」
と、ちょっと慌ててしまった。
その女性は陽介の慌てた様子が可笑しかったのか、少し口元に笑みを浮かべながら、「ごめんなさいね。」と少し頭をさげた。
その仕草に、何だか陽介は胸がぐっと締め付けられるような感じを受けた。が、今はそんな感情に支配される訳にはいかない。彼はもう一度居住まいを正して、
「そうですか。それは失礼しました。」
と言い、きちんと礼をした。が、どうせここまで来たのだからということで、図書館の中に入って受け付けの人に尋ねてみることにした。
「じゃあ。中で聞いてみます。ありがとう。」
一生懸命、爽やかにそう告げると、彼は図書館の中へ入った。
カウンターの中にいた女性に道を尋ねると、問題はすぐに解決した。
実は、最近新しい道路ができたので、旧道の入り口が分かりにくくなっているだそうであり、それが陽介の迷った原因であった。
陽介の持っている地図は少し古かったのだった。
場所が分かったので、図書館にそれ以上用事があるわけでもなく、陽介はそそくさと立ち去った。
急いで図書館を出た理由には、先程の娘がまだ居はしないか、とちょっぴり期待していたこともあった。しかし、出口の所には、もう人影はなかった。
何となく陽介は残念な気分で、エンジンの掛けっ放しだった車へと走ろうとした。
雨はいっそう強くなっていた。駐車場のアスファルトにはもう小さな水たまりができはじめている。
と、車寄せの石段の所に何かが落ちているのに陽介は気付いた。見れば、ハンカチである。ちょうど、先程あの娘が立っていた所だった。
自分が図書館の中に入っていたのはほんの2、3分であろう。その間に別の人が来てハンカチを落とすとも思えなかった。
濃紺にピンクの模様が織り込んである、上品で丈夫そうなハンカチであった。
陽介は「これはきっとさっきの女性のものに違いない」と思い、雨の降りしきる中、道路を見渡せる所まで出てみたが、それらしい人影も、紫色の傘も見えなかった。
先程、その娘が差そうとしていた傘は、実は自分の所で作っている傘なのだった。
陽介の家は、代々織物の工場を経営しているのだが、特に傘とか幕とか、そういったものの生地を手がけていた。特に傘には最近力を入れており、量産ではなく、一本一本をきちんとした手作業で仕上げていくので、一本1000円ほどの安物とは違い、少々値段も張る。でも、愛用してくれる人や贈答用に求めてくれる人もいる、地元では知る人ぞ知る「樋渡ブランド」なのである。。
柄の所に小さく『hiwatashi』と彫り込まれているので、すぐにそれと分かる。大学時代から、実際に時々持っている人を見かけることがあった。すると、やはり嬉しい気分になるもので、「それ、オレンちで作ってンだぜ。」などと自慢することもあった。
まさにその傘を彼女は持っていたのである。
陽介は、どうしようかと迷った挙げ句、そのハンカチをそのまま持って車に乗り込んだ。ひょっとしたら、またこの辺りを車で回っている時にあの娘に逢えるかも知れないと思ったからである。
傘をさして歩いていれば、すぐに分かる自信もあった。
図書館に預けることも考えてみたが、何となくそれはよしてしまった。
そこに全く邪な考えがなかったと言えばウソになるかもしれないが、陽介は、もう一度どうしてもあの娘に会いたいという衝動に駆られていたのである。
それは、単にその娘が美しかったということだけではない、どことなく「何か」を感じた、それが何なのかを確かめたかったのである。
それから数日間、陽介は挨拶回りを7件ほどし終えて、一旦実家に戻っていた。
父には、「そんなに楽じゃないだろう」と、自分がこれを軽く見ていたことを見透かしたような発言をされてしまったが、自分も社会人一年生ではない身であり、少しはプライドもある。そのまま、父の言葉を鵜呑みにするわけにも行かず、「まあね。」と適当に相づちをうつ。
そんな、父とのやりとりも、「久し振りだな」と陽介を感慨深くさせた。
数えてみると、挨拶回りもちょうど全体の三分の一が終わった所であった。
「無理しなくていいからな。」と、体調を気遣って父は言ってくれるけれど、陽介はこの仕事を全く負担に感じてはいなかった。それどころか、自分の中でどんどんとやる気と情熱が膨らんでいることを感じていた。
それもその筈であろう、自分が今している仕事の、将来性とかやり甲斐ということを考えれば以前とは雲泥の差であった。
モチベーションが上がらないまま都会の人混みの中、営業で外回りをしていたことが実に虚しいものであったと陽介は改めて痛感するのだった。
彼をやる気にさせている要因の多くは、挨拶回りで訪れる、下請けや小売の工場、業者の人達の温かい人柄、そして触れあいであった。
が、それだけではなかった。
陽介を駆り立てる原動力、その一つに「あの紫色の傘を持った娘にもう一度逢えるかも知れない」そんな想いが、確実なものとして存在した。
実家で作っている傘を持った美少女。そして、彼女が落としたであろうハンカチ。「きっとどこかでまた逢える。」そんな、妙な確信に近い期待をいだいて、陽介は車を走らせていたのだった。
ウイークディには挨拶回り。週末には友人宅を尋ねて学生気分に戻る、というパターン。陽介は次第に塞いでいた気分が解きほぐされていくのを感じていた。
それが、新しい彼の「日常」となりつつある、6月のとある金曜日であった。
陽介は、数件の取引先がまとまってある、隣の県の北部に出向いていた。
小さな地方都市であるが、そこは小京都などと呼ばれることもある、なかなか趣のある街だった。陽介は観光も兼ねて、その日は温泉宿を予約していた。
その日も雨だった。朝からしとしと降っていて、実に梅雨らしい天気であった。 ちょうど変わり際の信号。
いつもなら「黄色は加速のサイン」とばかりに、アクセルを踏む陽介であったが、その時は何となくゆったりとした気分で、彼は静かに停止線の少し前で車を停止させた。
ギアをニュートラルに入れて、サイドブレーキを踏む。
と、「ギュイッ、ギュイッ」と目の前のワイパーが突然目に付き始める。
…不思議なものだナ、車を停めた途端にうるさく感じられる…。
そんな愚にもつかないようなことを考えながら、陽介はワイパーもオフにすると、暫く車のフロントガラスを流れる雨水を目で追っていた。
と、ふとその向こうに紫色の傘の花が開くのに気づき、そちらに視線をやった。次第に陽介の視線は雨粒から傘に焦点が合っていった。
「ひょっとして、あの娘だろうか。」
「あの娘だろうか」と思って近づくと、違っていた。…実は、そんなことはあれから何度もあり、陽介は少し慎重になっていた。
しかし、この度は少し違っていた。「傘は間違いなく、ウチのものだ…それに、背格好からして…そうに違いない。」
まだ、確信というには距離があったけれど、陽介はもう慌てて、助手席のダッシュボードの中にあるハンカチを取り出していた。
「これを…渡さなきゃ。」
陽介は車を脇に寄せると、慌ただしく車を降りた。
紫色の傘は、ちょうど上手い具合に自分の方へと歩いてきた。傘の内はまだはっきりと見えなかったが、鮮やかな紫が近づくにつれて、陽介の思いも次第に確信に近づいていった。
「あの。」
陽介は、すれ違いざま遠慮がちに声をかけた。
傘の中はよく見えなかったが、陽介の声で傘のふちがすっと持ち上がる。…と、そこには彼が待ちこがれていた顔があった。
「あ。あの時の。」
彼女も、すぐに自分に気付いてくれた。
陽介は雨に濡れながら、ポケットからハンカチ取り出して差し出した。
「ひょっとして、これ君の…じゃないですか? あの時図書館の前で…」
そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。いや、正確には言葉が喉から出なくなってしまったのだ。
ハンカチから視線を上げた途端、陽介の目に飛び込んできたのは、彼を見つめる彼女の黒目がちな瞳だった。
陽介は、吸い込まれそうなその美しい瞳に射竦められてしまったのだ。
「そうなのだ、この感じなのだ。」
同時に陽介は確信していた。
自分を、もう一度彼女に逢いたい、と駆り立てていたのは、この瞳だったのだ。
ぞくぞくさせるような、痺れるような、それでいてどこか懐かしいような…瞳。
彼はどぎまぎしながらも続けた。
「あの時、図書館の前に落ちてて…。一応、洗濯はしたんだけど…。」
暫く間があったが、その娘はにっこりと微笑んで「…はい。それ、私のに違いありません。」と言うと、ぺこりと頭をさげた。
「あの時、雨の中を飛び出しちゃって、…結構気に入ってたんで、凄く悔やんでたんですよ。本当にありがとうございます。」
陽介は、何かしら無性にほっとした感じを受けながら、言った。
「図書館に預けておいた方が良かったかも知れなかったんですけど、オレちょっと急いでたんで…。」
と、少々事実と違うことを言ったが、それはとても自然に陽介の口から出た言葉だった。すると、娘は意外な返答をした。
「いいんです。そっちの方が…よかったです。」
それだけ言うと、またあの瞳で陽介を見つめた。陽介はまた、年甲斐もなくどぎまぎしてしまった。
「『よかった』って、何が?」と思いつつも、すぐに自分の手にあったハンカチを差し出した。そして、それを受け取るその娘の指が陽介の指に軽く触れた。陽介の胸はまた強く疼いた。「女の子の手に触れたぐらいで、そんなドキドキしている歳じゃああるまいし。」そんな感慨を懐きながらも、彼は何だかもの凄く新鮮なときめきを感じていた。
と、急に雨が強く降り始めた。
陽介は「じゃあ。これで。車もあんな所に停めっぱなしなんで」と、背を向けようとした。すると後ろから声がした。
「あの…。お礼にお茶でも…御馳走させていただけませんか。」
それは、彼にとって願ってもない申し出であった。
そして、それが二人の出逢いになった。
その娘は、名前を美耶と言った。
第2章
見れば、通りを隔てた斜向かいに、とても雰囲気の良いお誂え向きの喫茶店がある。
彼女は、「あそこでもいいですか。」と左手で示しながら微笑んだ。
陽介は余りの展開の早さに少々躊躇いながらも、「もちろん。」と告げると、
「じゃあ車を回しますから。」
と、雨の中を車まで小走りに駆けた。
陽介は、車に乗り込みながら昂揚する気分を抑えきれずにいた。「何だか高校生の時の初恋みたいだ…」と、新鮮な力を持って湧き上がる、その気持ちを楽しんでいた。
ログハウス風のその店の横にある駐車場に車を停めると、陽介はすぐに玄関の木製の階段を駆け上がった。
一番上の軒下の所で、傘を畳みながら彼女は待っていた。
「あの。私、楠木美耶って言います。」
「オレ…、樋渡良介…です。」
お互いに店の入り口に突っ立って、妙にかしこまった自己紹介をした二人。
そして、挨拶をした後で、お互い顔を見合わせて笑いあった。
「まあ、中へ入りましょうよ。」と、良介は笑顔で言った。
店内は、観葉植物がうまくコーディネートされていて、とても落ち着いた雰囲気であった。二人は一番奥の窓辺の席に座って、コーヒーを二つ注文した。
品のいい薫りのするブレンドのコーヒーカップがテーブルに並ぶ頃には、二人はもうすっかりうち解けていた。
彼女は、陽介が最初に感じた通りの印象だった。聞けば、23歳の学生であった。
ただ、「学生」というのは正確な表現ではなく、実際は世間で言う所の「就職浪人」に当たるような立場であるようだった。
しかし、そう言うには少々失礼な感じがするほど彼女はしっかりしたビジョンを持って、研究活動を行っていた。
「オレも、大学は文学部に行きたかったんだけどね。」
「どうして行かなかったんですか。」
「周りから、『就職が悪いぞ~。』なんて脅されちゃってね。」
「そうですか…。それは残念ですね。」
美耶の言葉は本当に残念そうであり、それにちょっと陽介は戸惑いながら、
「いや、まあかと言って文学部に進んでても、何を専攻するかなんて何も考えてはいなかったし。…あ、でもオレ日本史や古典は得意だったんだよ。」
「クス。」
慌てて取り繕う陽介の様子に、笑い声を漏らした美耶は、少女のように可愛らしかった。
「遠目・夜目・傘の内」とは言うけれど、こうして近くで見ると、その娘…美耶は本当に美しかった。
美人特有の冷たい感じも持ちながらも、どこかに柔和さ、可愛らしさを残している…ちょうど、それは窓の外で雨に濡れながら、鮮やかに咲いている紫陽花を思わせた。
そして、ちょうど少女から大人に変わろうとしている、そんな、ある独特の時期にしか持ち得ない魅力を彼女は静かに湛えていた。
ただ、その美しさに派手さはなく、どちらかというと「地味」な感じの彼女であったから、街ですれ違いざまに振り返るような、そんな美女とは全くタイプが違っていた。
ただ、それだけに、こうして側で見ると改めてその可憐な美しさが際立つのであった。
そして、何より陽介の心を強く揺すぶったのは美耶の瞳であった。
それは、間近で相対峙してみるといっそう強い力を発しているように感じられた。
しかし、それは決して攻撃的なものではなく、何かを相手に静かに訴えかけるような力であった。
世によく言われる、男の勝手な思い込み…、「美しい人に出逢うと、誰でも『運命的なものを感じる』」というあの皮肉なフレーズ。
自分が感じているのも、ひょっとしたらそれかも知れないな、と思うぐらいの冷静さは持ち合わせている陽介ではあった。しかし、そんなブレーキをかけながらも、何か懐かしいような切ないような、特別なものを彼女の瞳から感じずにはいられない陽介だった。
ただ、それをほぼ初対面の状態で告げるほど陽介は野暮な男ではなかった。
それにしても、最初に出逢った図書館とは随分離れたこんな場所で、どうして彼女と再会できたのか…陽介はそれが不思議でならなかった。
「再び逢える…」という予感や期待は強かったけれど、実際にはハンカチも、あの日の内に返せなかったらもう無理かもしれな、というのが彼の正直な思いであった。
…その辺りについては、ここで唐突に聞いても、それほど失礼はないだろうと、陽介は早速尋ねることにしたのだった。
美耶は少し微笑んで言った。
「変な女の子だと思ったでしょ。」
彼女の瞳は少し悪戯っぽい色を帯びた。そして、続けた。
「…私、その土地土地に伝わる民話とか伝説みたいなものに興味があって、それを採集して回っているんです。」
陽介の疑問は、あっさりと解決した。と、同時に美耶のしていることに凄く興味が湧きもした。
陽介も「文学部に行きたかった」と、先程彼女に言ったのは決して冗談などではなく、本当に以前は真剣に考えていたこともあるぐらいで、日本史や古典の知識はそこそこあるつもりだった。
陽介の口から「柳田国男」の名前などが出されると、美耶の瞳も一段と輝き、そしてまたあれこれと話に花が咲くのだった。
ふと外を見ると、まだ雨は降り続いていた。
窓辺に置かれた観葉植物の、不思議な形の葉の間から、梅雨らしい薄灰色の雲が空を埋め尽くしているのが見える。
「もう、民俗学も、フィールドワークはなかなか難しい時代になっちゃって…。お爺さんやお婆さんに話を聞くって言っても、もうそういう話を語れる人がいなくなってるんですよね。
私の大学の先生は、よくそういう聞き取りをして回ったって言われてたけど…。 …30年程前には、まだまだ明治生まれのお爺さんやお婆さんが沢山元気でいらっしゃったでしょうからね。」
自分の研究対象の話になり、美耶は少し雄弁になった。
「…だろうね。オレのお爺さんだって、昭和生まれだし。戦争の話なら少しは聞けるけどさ。民話とか言うと、なかなかね。」
「そうなんです。だから…。苦肉の策なんですけど、地方の図書館に、そういうものが『郷土史』のような形で…民話の採録などがしてあるものがあって…。そういうものを見て回ってるんです。」
「じゃあ、まだ学生さんなんだ。」
「ううん。大学は、この春に卒業しちゃいました。」
「大学院生?」
「いいえ。そこまで一生懸命研究活動をしているわけじゃないし…。色々あって、今は『趣味』ってとこかな。」
陽介は、「なるほど」と思いながらも、彼女の「色々あって」という所に何故か心が引っ掛かっていることに気付いていた。
しかし、だからといって、初対面でそこを追及することはできないのも分かっていた。
「就職…してるの?」
それが今、陽介にできる精一杯の質問であったが、美耶はそれには笑顔で答えてくれた。
「一応、名目は『就職浪人』ってことにしてあるの。だから、そろそろ就職活動しなきゃねって思ってるんだけど、特にやりたいこともなくって。…実は、司書の資格は持っているんで、ひょっとしたらどこか臨時にでも雇ってくれる図書館があればな~って、そんなことを考えながら図書館巡りしてるの。…あ、でもそんなに甘くないのは知ってます。」
そう言って微笑む美耶であったが、陽介はその言葉と表情の裏にある「何か」を感じ取っていた。
陽介は言った。
「まあ、オレも似たようなもんだね。都会で仕事してもうだつが上がらないんで、諦めて実家を継ごうって田舎へ帰ってきたところなんだよ。だから、挨 拶回りであっちこっち行ってるってワケ。取りあえず、夏まではそれだけでいいって言われてるんで、ちょっと静養も兼ねて、ぶらぶらしてるんだ。」
大学は経済学部に進みながらも、大した勉強もしないまま、卒業するとすぐに就職してしまった陽介には、美耶の立場を、何だか羨ましいような不思議なような、そんな思いで聞いていた。
ひと歳とると改めて「学問」の意味や大切さが分かるものである。陽介自身、そんな彼女に、静かに憧れのようなものも感じていた。
「ご実家の商売って何なんですか?」
今度は美耶からの質問であった。
「うーんとね。昔風に言うと、織物。でも、今はそんな機織りって感じじゃなくって、コンピュータ制御で自動的に機織機が『ガッチャン・ガチャン』ってやってる。色々な布を作ってるんだ。」
「じゃあ、服なんかの生地なんかですか?」
「服はあまりやってないんだよ。…今、力を入れてるのは、テントとか、傘とかの防水系の、撥水性の丈夫なやつかな。
傘については布地だけでなく、仕上げまでうちでやってる、力の入った商品なんだ。」
「そうなんですか。」
「…でさ。今日君が差してた傘、多分、うちの製品じゃないかな。柄とか色で大体分かるんだ。」
すると、美耶は凄く驚いたような顔で
「ええーっ。そうなんだ。凄いですね。…あの傘、気に入ってるんですよ。凄い、凄い。」
陽介は、自分はまだ社員としてそれほど関わっていないのに、彼女にあまり「凄い」を連発され、少々困惑してしまった。
が、本当に驚き、無邪気に嬉しそうにしている美耶を見ながら、陽介は、悪い気はしなかった。
「防水性と濡れた時の発色が売りでね。特に、あの紫色が一番色がいいということで人気があるんだ。…柄の所に『hiwatashi』って刻印があるんだけどな。」
「あっ。」
そこまで言われて、やっと美耶の頭の中で、初めて陽介の名乗った「樋渡」と「hiwatashi」が一致したようだった。そして、いっそう彼女の顔が輝いた。
「そうなんだー。『hiwatashi』って『樋渡』さん、だったんだー。」
美那はとても嬉しそうに、ちらりと入り口の方に目をやった。そこには傘立てにそっと入っている紫色の傘があった。
「まあ、子どもの頃から傘には事欠かなくてね。おかげで、オレってすっかり『雨男』になっちゃって。よく、降るんだよね…何かあるたびに。」
陽介は話をしながら、自分の発した言葉の「雨男」という部分に美那が微妙に反応するのが分かった。…けれども、それが何なのかは全く分からず、何となく間を取るために、カップにもう少し残っているコーヒーを一口、口に含んだ。
「で、今度はどっちへ行く予定なの?」
陽介は尋ねた。
美那は外の雨を見ながら少しぼんやりしていたのか、ふと我に返ると、
「え? …すみません…今、聞いてませんでした。」
と、すまなさそうな顔で答えた。…その表情がまたとても愛らしく、陽介は逆に済まないような気がしながら告げた。
「いや、これからどっちに向かって行こうと思ってるのかなって…。」
美那はすぐに答えた。
「そうですね。…明日ぐらいまではこの辺りにいて、それからもう少し北の山間部に行こうかなって。ちょうど県境のあたりに小さな町が点在しているから、収穫があるかも知れないなって。」
陽介は「ふうん」と、相づちを打ちながらそれを聞いていた。
自分も、もう一日はこの辺りにいることになるだろうけれど、その後は西の方へと行く予定であり、もう既に先方にはアポをとってある。
残念ながら、それはこれから彼女の行こうとしている方角とは反対であった。
と、今度は美耶の方から
「樋渡さんは、この後どうされるんですか? まだまだ挨拶回りは続くの?」
陽介は、
「うん。この辺りに取引先がもう2件ほどあるんでね。もう少しこの辺りにいるんだけど、その後は…気分次第かな。」
ひょっとして、美那と一緒に北の方へ行けたら…という淡い期待が、陽介に小さな嘘をつかせていた。
美耶は、陽介のその言葉に対して「そうですか。」とだけ告げた。
その様子は、特に残念そうでも、嬉しそうでもなかった。そして、その反応に、陽介は何となく残念な気もするのだった。
柱にかかった時計を見ると、店に入ってから約一時間ほど経っていた。
陽介がそれにふと時計に目をやるのを、美那は見逃さなかった。
「あ、もうこんなに時間が経っちゃいましたね。もう…あまりお引き留めしちゃ悪いですよね。
もう、このぐらいで…。」
そう言う美耶に対して、陽介は「いや、まだ」と言おうとしたが、その前に、もう美耶は少し椅子を後ろに引き、腰を上げようとしていた。
陽介は、実はもっともっと美耶と話をしていたかったが、そうする必然性が状況的に無いことも分かっていた。
何となく空にしたくなくって、カップの底にほんの少しだけ大切に残していたコーヒーを、最後に陽介は飲み干しながら、さりげなく言った。
「また、どこかでばったり逢うかも知れませんね。」
今は、せいぜいそう口にするのが精一杯であった。
普通なら、ここで携帯電話の番号やメールアドレスを交換するのだろうが、先程からの会話の中で、美耶が携帯電話を持っていないことを陽介は知っていた。
しかし陽介は、もうこのままそれっきりになってしまうのが残念で堪らなかった。
そして、陽介は「ちょっと、いいかな。」と言いながらポケットから手帳とペンを出すと、ページを一枚破り取って、書き付けるのだった。
「これ、オレの携帯の番号。…もし何か困ったことでもあったら、遠慮無く電話して。気軽にさ…。…傘の注文でもいいから。」
最後のセリフは、苦しまぎれの冗談だった。…が、美耶はちゃんとそれを冗談と解してくれ、「クスっ」と笑うと、陽介が破った手帳の切れ端を両手で丁寧に受け取ってくれた。
そのちょっとした礼儀正しさが、また陽介の心をくすぐるのだった。
陽介はテーブルの端に置かれていた注文票をさっと手に取ると、言った。
「ここは、オレが持つから。」
美耶は驚いた様子で、
「え、それはいけませんよ。私が誘ったんだし。」
「いいよ、いいよ。ウチの傘、買って貰ってるし、楽しかったから。」
「でも…。」
「気にしない、気にしない。オレは給料貰ってる身だから。それに、君はまだ学生みたいなものだし、ね。」
陽介は、そう告げると、困ったような顔の美耶の前に立ってレジへと進んだ。
支払いを済ませる陽介を、美耶は店の出口の所に立ってかしこまって待っていた。
「…却って、申し訳なかったです。すみません。本当に。ごちそうさまでした。」
とても済まなさそうな美耶であったが、「いいの、いいの」と陽介は明るく言いながら木製のドアを押した。「カランカラン」と、ドアの所にある鐘が温かみのある音を響かせた。
外に出ると、まだ雨はしとしとと降り続いていた。
軒下の紫陽花が、独特の、赤とも青とも言えないような絶妙の色彩を雨に滲ませている。
陽介は傘を開きながら、
「これからどうするの? 何だったら、送っていこうか?」
と美耶に告げた。
が、美耶は、
「このすぐ裏辺りに、この街の図書館があるんです。これからそこで調べものをしようと思って。…もう、ここからすぐの所ですから。」
そう告げると、紫色の傘を開き、敷石の上に出た。
その傘はまだ新しいのか、光沢のある布地の上で雨の水玉が輝きながら踊りはじめた。
先程自分でも「発色がいい」なんてちょっと専門的な言葉を使って、恰好をつけて説明したのだが、こうして見ると先程の紫陽花に負けないほどの、本当に綺麗な紫色の傘である。
…ただ、陽介にとっては、その美しい紫よりも、傘の中で微笑む美耶の可憐な美しさの方が、数倍心惹かれる対象なのであった。
美耶は、陽介の視線を感じたのか、自分の差している傘を改めて見直すように、少し上を向き、柄の部分を握ってクルクル…と少し回転させた。
そして再び陽介の方を見てにっこりと微笑んだ。
そして、
「じゃあ、これで。…本当にお付き合いありがとうございました。」
「うん、じゃあ。…また。」
「『また』だなんて、野暮だったかな…」と思いながら軽く右手を上げ、歩き出した美耶を見送りながら、陽介はとても爽やかな気分に包まれていた。
美耶はもうそれ以上何も言わなかったが、その優しい口元が「はい。また。」と言っているように陽介には感じられた。
ただ、それと同時に「本当にもう一度この女性と逢えるだろうか」、という妙な期待感と不安感の入り交じった思いも、雨にかかる靄のように陽介の心の中にうっすらと漂っていた。
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