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「その3」
『雨の鼓動』(続き)
第5章1 水夜
週末。陽介は予定を空けて、美耶からかかってくるであろう電話を待っていた。しかし、待てど暮らせど彼の携帯には美耶からの着信はなかった。
美耶は予想以上に、あのノートに手こずっているのであろうか、それとも彼女の身に何かあったのだろうか。
…と、陽介の想いは募る一方であったが、日曜日になっても連絡はなかった。
見上げた空には、梅雨空けとはまだとても言えそうにない灰色の雲が広がっている。そして、それを無数の電線が区切っている。
微妙にカーブしたその黒い直線が描くいびつな空の破片を見ながら、陽介は少し苛立っていた。
その曇り空から明るい陽光が差してくることはなさそうであった。が、同時にそこから雨粒が降り注いできそうにもないのだった。
そして、それは陽介にとっては暫く美耶に逢えそうにないことも暗示しているのだった。
次の週。陽介の挨拶回りはほぼ終わりに近づいていた。
父からも、7月の中旬からは本社に戻り、8月からは正式に社員として働いて貰うという話があった。
3ヶ月以上、ほぼ自由気ままな時間を過ごさせて貰った陽介には、それを断る理由などなかった。
ただ、美耶とのことだけが引っ掛かっていた。
「もう一度逢いたい。」
その想い自体は、最初に美耶にあった時のものとは、異なるものになっていた。 陽介は、美耶を一人の人格を持った女性として愛し始めていることに気付いていた。
「何としても、もう一度逢いたい。そして…。」
結果はどうなろうと、美耶に自分の気持ちを伝えたい。
陽介の心は静かに燃えていた。
そして、その機会は意外にも早く訪れたのだった。
次の週の金曜日。昼下がりだった。
残りの挨拶回りもあと2件ほどだけとなっており、陽介は空いた時間で車の整備をしていた。
この3ヶ月ほどで約1万5000キロ近く走っている。およそ5県に渡って走り回ったのであるから、その距離も納得はいく。
ただ、これで終わりではなく、今後も活躍してもらわなければならない愛車である。オイル交換やタイヤの点検など、気持ちを込めて念入りに行っていた。
と、陽介の携帯に着信があった。
陽介にとっては、美耶の連絡を期待はしていたものの、電話があるとすれば夜であろうと思っていたので、やや不意打ちだった。少し戸惑った彼であったが、見慣れない電話番号の表示を見て、すぐにピンときた。
そして、緊張しながら着信のボタンを押した。
「もしもし。樋渡さんですか、美耶…楠木美耶です。」
何となく懐かしく感じるその声に、陽介の胸は高鳴った。
「うん。…その後、元気?」
「はい。おかげさまで。ごめんなさい。連絡全然しなくって。」
「いいよ。あのノート、随分かかっちゃったんだろ。」
「はい。…で…。」
「で、読めたの? 何か分かったの?」
「はい…。とにかく、凄いっていうか、あの…。」
「?」
「…明日、お時間とっていただけます?」
「もちろんだよ。何か分かったんだね。」
「…はい。」
「で、今は何処にいるの?」
美耶は意外なことに、陽介の住んでいる街のすぐ近くののユースホステルに滞在しているようだった。
ただ、美耶が待ち合わせに指定してきたのはもう少し離れた所にある、比較的大きな地方都市であった。待ち合わせの日時と、「夕食でも」という美耶からの誘いは少々唐突ではあったが、それに対しては勿論二つ返事の陽介なのであった。
第5章2 木朝
土曜日、やはり午後から雨模様になった。
掃除したばかりの車がまたすぐに汚れてしまうと、ちょっぴり悲しい気持ちもあった。が、美耶と逢うときは必ず雨だろうという思いもあり、そこは予め妙な覚悟ができていた。
走り出すと、早速雨粒がフロントガラスに降りかかる。しかし、手入れをしたガラスは綺麗に水をはじいていく。なんだか、とても気分がいい。
陽介の心は、その、風圧でコロコロと流れる雨粒のように軽やかに、美耶との約束の場所へ向かっていた。
待ち合わせの場所まで、車でちょうど1時間ほどであろうか。
「今夜はあっちで泊まりかな」と、何気なくそんなことを思う陽介であった。
午後6:00。
もう7月であり、日は長い。けれども、空は雨雲が垂れ込めており、いつもよりは薄暗い感じになっていた。
繁華街の入り口の広場のような所に美耶は立っていた。…やはり、あの紫色の傘を差して。
派手派手しいネオンや看板がぎらぎらする中、あの紫の傘の周りだけが静かな空間を作り出しているかのように見えた。
「お待たせ。」
陽介の言葉に、少し微笑んで顔を上げた美耶。陽介は年甲斐もなく、胸がぎゅっと締め付けられるような切ない感覚になった。
正直、「逢いたかった。」彼の心からの、素直な気持ちであった。
美耶は「やっぱり雨になっちゃったね」と言いながら、ゆっくりと商店街の方へ歩き始めた。
その時、雨が心なしか、少し強くなったような気がした陽介であったが、美耶と一緒に夕食の場所を探すべく、アーケード街の中へと入った。
「あの。今日はもう、予約してあるんですけど。」
美耶の申し出に、少し驚いた陽介だったが、そこは動じることなく、
「そう。それはありがとう。で、どこかな。」
と陽介が尋ねると、美耶は、「あそこなんです」と、傘を畳みながら指さした。
「彼女が示す方向は、アーケードの透明な屋根の向こうに見える背の高いホテルであった。」
「あそこの、上にあるレストランなんです。」
そこは、数年前に出来た、結構名の知れたホテルであり、上階には何軒か店舗が入っている。…しかし、どこもそれほど安くは無いはずである。
陽介は、「結構思い切ったことをするんだな」と心の中で思っていた、すると。
それを察知したかのように、美耶が、
「あ、あの…。気になさらないで下さいね。今夜は、お礼だから。それに…。」
「…?」
陽介は、言葉の続きを聞こうとして美耶の方を見たが、美耶は口ごもったまま黙ってまた歩きはじめていた。
何となく、それ以上聞きづらい気がして、陽介もそのまま違う話題に話を持っていってしまった。
ほぼ最上階のレストランは、高級感はあるが、実際に前まで来てみると、正装で入らなければならないほど格式のあるものではなかった。ウエイターも、あまり敷居を高くしないためであろうか、カラーシャツにノータイでややカジュアルな感じを出していた。
陽介はジーンズにポロシャツという姿だったので、初め、少し戸惑ったが、そのボーイの様子を見て、やれやれという感じであった。
ただ、…美耶の恰好はそれを意識してか、いつもと少し違っていた。
淡いブルーのブラウスにネックレス。長めのスカート。
初めて見る大人っぽい姿の美耶。それに見とれている陽介をよそに、彼女は入り口で名前を告げた。
すると、「どうぞ、こちらへどうぞ。」と背の高い短髪のウェイターが、窓際の席へと案内してくれた。
目の前には、薄暮の街が広がっていた。綺麗に磨かれたガラスについた雨粒が、色とりどりのネオンを、なおいっそう煌めかせて、幻想的な景色になっている。
「わあ。」
と思わず声をあげる美耶。陽介も、
「綺麗だね」と、美耶の横顔を見ながら答えた。
『シェフのオススメ』というコースを二つオーダーし、ワインも頼むことにした。美耶も、「今夜は私も少し飲みます。」と言うので、ハーフのボトルにした。
グラスに美しいワインが注がれ、陽介と美耶の前に並べられた。
「では。」と陽介がグラスを手にとって、「何に乾杯しようか」と言うと、
美耶は
「そうね。やっぱり、『私と陽介さんの出逢い』に…かな」
「じゃあ…乾杯。」
そう言ってグラスを合わせた。
グラスを口に持っていきながら、美耶の顔を改めて見ると、彼女は口元もいつもと違っていた。
色の白い美耶だから、少し濃い目の口紅をひくといっそう際立って見える。
「凄く綺麗だね。」とそう言いたい陽介であったが、うっかり口にすると、その言葉が浮いてしまいそうで、口に出来ずに、ただ美耶の美しさに圧倒されるばかりであった。
コースは進み、次々に運ばれてくる料理は、どれもとても美味しく、会話も弾んだ。しかし、なぜかあのノートの話にはならなかった。
空はもうすっかり暗くなり、赤や青のネオンが闇に滲んでいた。
と、突然「ザーッ」と音がし、雨が強くなったのが、窓越しにも分かった。
二人とも黙ってその雨を見つめていたが、そのうちどちらともなく雨の話題になった。
「やっぱり、雨ね。」
「そうだね。」
「で…。」
「この間のノートだけど。」
「うん。」
「で、どうだったの?」
「とにかく。凄かったの。おばあちゃん、凄い人ですね。本当に趣味だったんで すか? あそこまで…。」
「全部、目を通したの?」
「ええ。あまり多くの情報だったので、戸惑っちゃって。だって、今まで図書館で探していても、それほどまとまってお話しや資料は残っていなかったのに。いきなりあれだけ…。」
美耶は興奮気味であった。顔が紅潮しているのは、ワインのせいだけではなさそうであった。
「で、雨に関するものは?」
「ええ、沢山あったわ。おばあちゃんも、特に『雨』や『天候』に関するお話しには興味があったみたい。」
「そうなんだ。それで?」
「いっぱいありすぎて、一度には説明しきれないわ。それに、言い伝えや迷信なんかの断片みたいなものも一杯あって。
…前、言ってたでしょ。『陽介さんの出身地辺りで』って。」
「ああ、そうだったね。で、分かったの?」
「それが、一番の収穫ね。…系図、みたいなものがあったのよ。」
「そう言えば、なんだかそんな図みたいなものがノートの中にまとまってあったよね。」
「そう。そこに、私の調べたかった人の名前らしいものがあったのよ。」
「そう。それは凄いね。」
「で、それはどういう人だったの。」
そこで、少し美耶は間をおいた。タイミング良く運ばれてきた口直しのデザートを口にして、ほっと一息ついた美耶は、何か考えていた様子だったが、いきなり口を開いた。
「これから話すこと、推測の域でしかないこともあるんだけど…。聞いてもらえる?」
美耶の瞳は、不思議な輝きを放っていた。
第5章3 木夜
陽介は、美耶のその言葉に、
「もちろんだよ。」と返事をした。
美耶は、少し表情を和らげ、そして続けた。
「よくある名前だから、他にもいるかもしれないんだけど…。実は、私が調べていた、雨乞いをするためにやって来たって人の名前…『佐吉』って言うの。
…その人、この辺りの出身だってのは分かってたんだけど…。」
「じゃあ、それが、あの系図の中にあったんだね。」
「ええ。」
「それは凄いじゃない。…でも、おばあちゃん、どこからそういう系図を引っ張り出してきたんだろうね。」
「それが、分からないのよ。そういう系図そのものが残っていたのかも知れないし、お寺とかにある台帳なんかを当たって作ったのかも知れないんだけど…。」
「でも、どうして、わざわざ…。」
「…そこなのよ。」
「で、何か、分かったの?」
「うん。」
「?」
美耶はそこで、一口水を口に含み、静かに飲み下した。そして、
「確証はないんだけど、その佐吉って人。陽介さんの先祖かも知れない…。」
陽介は思わず「え」と大きめの声を漏らした。
少し離れたテーブルの所にいる老夫婦が驚いたようにこちらに目線を送ってくるのが分かった。が、そんなことに構ってはいられない、陽介はすぐに、
「そんな…。まさか…。この間のは冗談のつもりだったんだけど。」
「…私も、驚いたわ。…本当に、確証はないんだけど。でも…おばあちゃんは、だからこそ系図まで調べたんだと思うの。」
陽介は混乱していた。祖母からそんな話は一度も聞いたことがないし、確かに自分は「雨男」的なところがあったことは自覚している。けれど…。
何ともいきなりの話だった。
「で…ね。これも、推測だけど、おばあちゃんが民話とかそういうものに興味を持つようになられたきっかけは、そういう…おばあちゃんの家に伝わっているお話じゃないかしら。…きっと、『雨』を降らせる力がある人がいたとか、そう言ったものが残っていたのじゃないかしら。」
それを聞き、陽介は、そんなものがあっただろうかと、必死に思い出してみた。が、全くその記憶の糸は手繰りよせても空回りするに過ぎなかった。
「で、その佐吉って人はどうなったんだ?」
「待って。…ここで出してもいいかしら」
美耶はハンドバッグの中から、ノートとコピーを取り出した。コピーは、ノートでは数ページに渡るその系図の部分だけを一枚になるように継ぎ足したものだった。美耶はそのコピーを継ぎ足した紙を広げて指さした。
「ここなのね。」
美耶が指し示す部分には確かに「佐吉」という名前がある。ただ、「佐吉」と記された名前の下には線は延びておらず、小さく「出奔」とだけ記されている。
「出奔」という表現は陽介にはよく分からなかったが、とにかく余所へ行ってそれっきりだということは何となく理解できた。
「…で、ね。」
美耶の細い指先は、佐吉の名前の上に伸びた線、つまり佐吉の親兄弟の方へ戻った。
見れば、どうやら佐吉は四人兄弟の三番目だったようである。長男は跡継らしい「弥太郎」、あとは「シヅ」と記された二番目の長女。そして佐吉。一番左には末弟らしい「富三」の名前が見えるが、弥太郎以外には何の書き込みもないので、どちらも早くに亡くなっているような感じだった。
その「弥太郎」の所から下へ下へと降りていくと、途中から「樋渡」という姓が見える。
系図は途中切れ切れになっている様子であるが、樋渡という珍しい姓は、この辺りにも殆ど見られないもので、飛沼の樋渡と言えば、たいがい一族であろうということは容易に想像できるのであった。
「まいったな。じゃあ、オレの『雨男』ってのは、先祖伝来だったワケか…。」
少し、冗談まじりの感じでそう言った陽介であったが、美耶はまだ真剣な表情で、 「あのね…。まだ話には続きがあるの。」
そう言うと、じっと陽介の顔をみつめるのだった。
「実はね…。」
また、美耶はぽつりぽつりと話はじめた。
「佐吉って人が雨乞いを行ったって記録を見付けたって、前に言いましたよね。あれ…、実は私の住んでいる地域のものなんです。」
「そうなんだ…。」
陽介には、まだそれが何のことかよく分からないまま相づちをうった。
ふと見ると、美耶の黒目がちな瞳は少し悲しげな表情を浮かべているように見えた。
「でね。ちゃんと、系図も残っているの。」
「そうなんだ。凄いね。」
「で、…絶対その陽介さんトコの『佐吉』って人かどうかの証拠はないんだけど …。」
「じゃあ、その系図にも『佐吉』って名前があるんだ。」
「そうなんです。しかも、血縁者じゃなくって、途中から家系に入っている感じ で…。普通、男の人は血が繋がってるのに。」
「なるほど。それは、可能性高いよね。時代は判るの?」
「随分昔だから、何十年単位かで食い違いはあると思うんだけど、同時代だと考えてもよさそうなのね。」
「…で、その系図ってどこのものだったの?」
暫く間を置いて、美耶はまた水を少し口に含んだ。そして、
「その系図はね。…私の、母の出所の旧家にあった系図なの…。」
金朝
「えっ?」
陽介は、先程の美耶の様子から、何かを察してはいたが、それが何なのかは全く分からずにいた。…が、それがやっと彼の中で形になろうとしていた。
「…って、となると『佐吉』って人は美耶…の、ご先祖になるってこと?」
彼女は小さく頷いた。
「私も、何となく予感はしていたの。でも、確信はなかったし。
…最初、母の実家で系図を見つけた時は、何となく不思議なものを感じたわ。で、…雨乞いをした『佐吉』って人を系図で下へ辿ってみると、『紗川』って苗字が出てくるの。それは母の旧姓…。
母の実家は、比較的由緒のある家なの…。」
「ってことは、ひょっとしてオレの先祖と美耶の先祖は繋がっていたってことな んだ。凄いじゃない。」
「そうか…。」
思わず、陽介は呟いた。美耶はその言葉に反応もせず、少しぼんやりしているように思えた。が、小さな声でそれに答えた。
「…だから、陽介さんが『雨男』って言った時。…最初にその言葉を聞いた時から何だか不思議な感じがしてたの。」
「そうかァ。何だか、自分のルーツも少し分かったような気がしてきたな。なんだか嬉しくなっちゃうよ…。しかし、凄いね。」
「ううん。運が…よかっただけ…かナ。」
美耶はまた複雑そうな表情を、笑顔の上に貼り付けていた。
彼女の様子に何処となく、まだ何かを言いたいような感じを受けた陽介は。
「それから、おばあちゃんのノートには…もう何も無かったの?」
「いいえ、それは…本当に沢山。もう…色々な方面に渡って、凄い量の蒐集なの よ…。」
陽介は、言い直した。
「ううん…特に、『雨』とか、美耶が探していたことに関係あることについてっていう意味で…。」
「あ。そうね…。まだまだ、調べてみないと分からないこともあるけど、…一番驚いたのはその系図かしら。…あとは、あちこちで見られる民話のたぐいや、そのバリエーションみたいなものが多かったわ…。」
しかし、陽介はきっと美耶が何かまだ言いおおせてない感じを漂わせていたので、もう少し追及してみることにした。
「『調べてみないと』って…、何かそれらしいものがあったの?」
陽介の優しい追及に、美耶は、やはり何かを言いたかったのだという感じを見せ、言った。
「そうね…これも確からしいことではないんだけど。『雨』とか、そういうことに関してだと、和歌みたいなものや、漢詩みたいなものも沢山記録されてるの。でも、それはなかなか読解が難しくって…。」
「で、その中に何かそれらしいものがあったの?」
美耶は、カバンの中からもう一枚コピーを出した。そこにはは、付箋がついており、中にはアンダーラインを引いたようなものも見えた。
が、美耶はそれを広げようとして突然手を止めた。
「ごめんなさい。これ、また今度…ね。」
ちょっとおどけるような仕草で美耶は首をすくめると、再びその紙を半分に折って手帳に挟んだ。
言葉は明るかったけれど、美耶の目は真剣で、どことなく愁いを帯びているような感じすら受けた。
「…じゃあ、また今度。」
陽介は、美耶の様子が気にかかりながらも、「今度」があるという彼女の言葉に少しほっとするような感じを受けるのだった。
そして、コースの最後の珈琲が運ばれてきて、その話題はそこで途切れてしまった。
雨はまだ降り続いている。向かいのビルの屋上のライトが雨に煙っているのがぼんやりと見えていた。
「陽介さん、これからどうするんですか。」
暫くの沈黙を美耶の言葉が破った。陽介は
「いや、特に予定はないんだけど。美耶こそ…今日はどうするの?」
「あの…。もう少し付き合って下さらない?」
「もちろん…いいよ。」
陽介にとって、それは願ってもない、彼女からの申し出であった。
「このビルの最上階に展望テラスがあるの。そこへ行きませんか?」
「いいね。」
そう言うと、二人は静かに立ち上がった。すぐに、その様子をウェイターが察して出口まで案内してくれた。
今夜はお礼だから、自分が払います。と言ってきかない美耶を説き伏せ、結局は全額陽介が支払った。彼自身、こんなに驚く話を聞かせて貰ったことへのお礼の意味も感じていたし、何となく、今日はそうするべきだという強い気持ちが彼の中に生じていた。
ひょっとしたら祖母のあのノートも、美耶がいなければ誰の目にも触れることなく忘れ去られていたかも知れないのだ。
「済みません、済みません」を繰り返す美耶に、陽介は「いいの、いいの」と笑顔で答え、レストランの階からもう一つ上の階へと繋がるエスカレーターに歩みを進めた。
二人を乗せたエスカレータは静かに上昇し、ガラス張りの最上階が次第に視野に入ってくる。ほぼ、360度の夜景である。
「うわ」と、思わず声が漏れる。
それほど広いフロアではないが、照明も抑えめで、うまくレイアウトされたテラスには、あちこちに観葉植物の大きな鉢が据えられている。
ガラスの向こうには、雨に滲む夜景が広がっていた。
そう遅くない時間であるが、そこは意外に人も少なく、自分達以外には人が殆どいないような感じであった。
二人は、暫くガラスに近い辺りをぶらぶらしていたが、手頃な所にあるベンチに座った。
「ちょうど…一ヶ月ぐらいですね。」
「そうだね。」
陽介は、あの雨の中…紫色の傘を差した美耶の姿を鮮明に思い出していた。
ただ、それよりももっと鮮やかに、その時彼の胸をときめかせた女性は、今すぐ自分の脇にいるのだった。
美耶はそこで、「自分は夏が来ると就職活動を始める約束になっている。」ということをもう一度陽介に話した。
何度か聞いた話ではあったが、今回は何だか正式に自分に告げているような、そんな雰囲気を感じる陽介だった。
陽介も、いよいよ本格的に自分の会社に入って仕事をしなければならない身であり、もうこんなのんびりした時はなかなか過ごせないだろうという話をした。
そして、陽介は言った。
「でも、まだまだ研究や調査は続けるんだろ?」
「はい。そのつもりです。…けど、でも。」
「『でも』って?」
「ううん。何となく、自分のルーツには近づけたかなって感じだから。もう、一区切りつけようかなって。」
「何を言ってるんだよ。まだまだ、これからじゃない。おばあちゃんのノートも未だ分からないことが一杯あるんでしょ?」
「そう…ね…。」
小さな声で呟く美耶の横顔をふと覗いた陽介は、美耶の目がとても遠くを見ているように見えた。そして、同時にそこには強い淋しさが湛えられているように感じるのだった。
「美耶。」
陽介は、その瞳に触発されるかのように美耶の名前を呼んだ。
「はい。」
そう言って陽介の方を向いた美耶の顔は。例えようもないほど美しかった。
美耶の向こうには雨に濡れる街の光が煌めいていた。
知らない間に二人は唇を重ねていた。
「ずっと。一緒にいたい。」
陽介の言葉は数少なかったけれど、心の底からわき出たものであった。
「私も…です。」
美耶の声は小さかったけれど、そこにはしっかりとした気持ちが込められていた。
先程よりもずっと近く、肩と肩を寄せ合って、二人は雨を見ていた。
「初めて逢った時から、何となく…こんな風になれる予感がしてたの…。」
「本当? 実は、オレも…。」
「あのね。」
「?」
「ハンカチ、拾ってくれましたよね。」
「うん。」
「あれ、私…わざと落としたんです。」
「えっ」と言いながらも、陽介はそれほど驚いてはいなかった。
陽介自身、美耶との出逢いには、それほど運命的なものを感じていたのだ。…そして、あの時美耶が言った「そっちの方が良かったんです」という言葉の意味を、再び噛みしめていた。
「それから…。あの。私…。」
「何?」
「凄く…、恥ずかしいんだけど…。」
「何? いいから言って。」
「軽い女だって、思わないで下さいね。」
「どうしたの、何? …そんなこと、思うワケないじゃないか。」
美耶は目を伏せて静かに唇を動かした。
「今日、ここのホテルにお部屋、とってるの。」
「そう…。」
「二人分…。」
「へえ…。」
平静を装って軽く答えた陽介であったが、内心は凄く驚いていた。
しかし、陽介には、今日の彼女の様子に、何となく「期待」というか「予感」というか、そんなものを感じていたことも事実だった。
今日の設定、今日の美耶の服装、ルージュ…。予定調和のように、すべてが、そこへと繋がろうとしていたような、そんな気がするのだった。
そして、同時にそれは二人にとってごく自然のことのような気がするのだった。
金夜
陽介は、美耶のいないベッドに腰掛けて、彼女が残していった紙に見入っていた。
それはもちろん、昨晩彼女が陽介に見せようとして止めた、あのコピーだった。
本当に小さな文字でぎっしりと祖母は書き込んでいる。その中の一箇所に赤のペンでアンダーラインが施されている部分があった。
そこには何やら歌のような文句が記されていた。
『雨を呼ぶ者、陽を呼ぶ者と睦まず。雨を呼ぶ者、雨を待つ者と睦む。雨を呼ぶ者、雨を待つ者と旅して陽を齎す。陽を呼ぶ者、雨を待つ者と睦まず。陽を呼ぶ者、陽を待つ者と睦みて雨を宿す。雨と陽と、相俟ちて天を司る。』
陽介にとってそれはあまりよく理解できないものであった。
『雨を呼ぶ者』とは、要するに「雨男」とか、「雨女」ってことだろう。それは、陽介にも容易に想像できた。ただし、「雨を待つ者」とか「陽を待つ者」は何かはよく判らなかった。そして、「陽を呼ぶ者」というのも。
「陽を齎す」って? 陸むとか、睦まずというのもよく判らない。
陽介は暫く繰り返しそのアンダーラインの部分を繰り返して読んでみた。そして、あることに思い至った。
「美耶は、…そうだったんだ。」
陽介は昨晩感じていた、美耶のちょっと妙な様子。そして積極的な態度…色々なものをトータルに考えてみた。…そして、行き着いたのは、
「美耶はこの文句の意味を知り、その運命に身を任せようとしているのではないだろうか」ということであった。
もちろん、陽介の持ったのは確信ではなかった。しかし、そう考えれば色々なことの辻褄が合うのだった。
「『雨を呼ぶ者』が美耶で『雨を待つ者』がオレだとしたら。『睦む』とは…。」
陽介は、自分が最初美耶を一目見た時、何か特別なものを感じたことを改めて思い出していた。そして、昨晩の美耶の言葉。
「初めて逢った時から、何となく…こんな風になれる予感がしてたの…。」
『雨を呼ぶ者、雨を待つ者と睦む。』
一目惚れ状態だった自分。そして美耶も…。
ただ、陽介にはその後の『雨を呼ぶ者、雨を待つ者と旅して陽を齎す。』という言葉の意味は理解できなかった。
「『旅す』って…」
確かに、自分は美耶と一緒に行動した。が、「旅す」とは?「陽を齎す」?
「『齎す』って『もたらす』だったっけ。」
よく判らないながらも、陽介には何となく美耶の気持ちが分かるような気がした。二人が初めて逢った時に感じた運命的なもの。そして、二人を結ぶ系図。純粋に心惹かれたのであればもっと素直になれたのかも知れない。しかし…。
自分の思いが、何やら曰く付きのものであるかも知れないことへの抵抗感…それに美耶は戸惑ったのではないか。
しかし、たとえそうであっても、自分の美耶への想いは決していい加減なものではない、そのことも確信できる陽介だった。
そして、きっと美耶も………だからこそ。
陽介は自分の座っているベッドの上に静かに掌をあてた。まだ、そこにはぬくもりが残っているような気がした。
きちんと整えてあるけれど、そこには確実に美耶がいた。美耶は自分を信じてくれたのだ。
だからこそ…。
きっと、美耶は自分に委ねたのだろう。二人がこれからどうするべきなのかを。もし、『雨を呼ぶ者…』の内容が真実ならば、まだ何かが二人を待っているかもしれない。
しかし、もう、陽介の中には、…ただ一つの選択肢しかなかった。
…でも、美耶はどこへ行ったのだろうか。
「探さなきゃ。」
陽介は服を着ると、締め切られていた厚手のカーテンを勢いよく引いた。
「うワッ。」
陽介は思わず叫んでいた。
余りにもその光は強く、一瞬陽介は本当に目が眩んだようになった。
もの凄い勢いで差し込む太陽の光。そして、ホテルの窓から見える景色は燦々と降りそそぐ光を受けて白く輝いていた。
そして見上げた空…。それは、今まで陽介が見たこともないようなもの凄い晴天であった。
空は、紺碧の深い青であったが、その青さえもが白く霞んでしまうような強烈な太陽が陽介を見下ろしていた。
暫く呆気にとられて、その気色に見入っていた陽介であったが、何となく、その太陽の眩しさに、ただならないものを感じ、すぐさま部屋を出ようとした。
久し振りに目にしたその太陽が、美耶を、…その存在そのものを消してしまわんばかりに思えたのである。
そして、美耶が残していったあの紙をもう一度綺麗に畳むと、陽介は机の上の自分のポーチに入れようとした。そして、そのポーチを取り上げた時。
「あ。」と、陽介は声を漏らした。
そのポーチの下に、小さな紙片が敷いてあったのだった。
手にとってそれを見ると、そこには、美耶の綺麗な文字があった。
2階カフェレストラン「アムブレラ」
陽介は光で満たされた部屋を見渡し、他にもう残されたものがないことを確認すると、すぐさまルームキーを持って部屋を飛び出した。
エレベータで2階まで降りる。時計を見ると時刻は9時10分だった。
チェックアウトまではまだ時間がありそうなので、キーを持ったまま陽介は「アムブレラ」に向かった。すぐにそこは見つかった。
胸を高鳴らせながら入り口をくぐると、すぐにボーイらしき人が。「お一人様ですか」と、尋ねてくる。
陽介は奥に目をやりながら、「中に連れがいるかも知れないんです。」と言うと、
「女性お一人の方なら、奥にいらっしゃいますが。」と答えてくれた。
陽介は、それが美耶であることに違いないと確信すると、「ありがとう」と告げ、絨毯を踏みしめながら奥へと向かった。
と、すぐに向こうの窓際に女性が一人いるのが見えた。
しかし、それは美耶ではなかった。見ればその女性のテーブルには向かいにも皿が並べてあり、どうやら二人連れのようで、ちょうど連れが席を外しているような感じであった。
つい数時間まで一緒にいたはずの美耶に逢うのに、どうしてこんなにどきどきするのだろう。
陽介はそんな自分の精神状態を半ば皮肉に思いながら、もう少し奥がある店内へと歩いていった。
ホテルの南側から西側の一角のフロアを店舗にしているそのカフェは、窓側が全てガラス張りである。ガラスの上の方はブラインドがかけてあるが、外には燦々と太陽の光がさしているのが分かる。窓際の席にはレースのカーテンがかけてある。
陽介はゆっくりと歩きながら、ひょっとしたら美耶はいないのではないかと考えていた。
…なぜなら、今まで美耶と逢って雨の降っていなかったことはないのだ。
ちらりと見上げた陽介の目に映った庇の向こうの空。そこには一抹の雲さえ見てとることはできなかった。
そして、陽介は一番奥が見渡せるところまでやってきた。陽介の目は一番向こうの柱のところにある人影に釘付けになった。
華奢な背中。肩までかかっている真っ黒なストレートの美しい髪。
その後ろ姿は紛れもない美耶その人であった。
静かに近づいていく陽介。そして、彼の高鳴る鼓動が聞こえたかのように、あと数歩のところで美耶は振り向いた。
少し驚いたような表情が、すぐに静かな微笑みに変わった。
陽介は、もう何も言葉は必要ないような気がして、黙ったまま美耶の向かいの席に座った。そして、真っ正面から彼女の黒い瞳を見つめた。
太陽の日ざしのもとで見る初めての美耶。その透き通るような笑顔の向こう、そこにはどこまでも続きそうな青い空が広がっていた。
土朝
エピローグ
「じゃあ、美耶行ってくるから。」
「はい。行ってらっしゃい。光にもバイバイしてね。」
「もちろんさ。光。父さん行ってくるからね。」
あれから、1年と少しの歳月が流れていた。
長男の光は今年の春に生まれた。生まれたばかりの時は真っ赤でしわくちゃだったけれど、やっと最近人間らしくなり、日に日に可愛らしくなっていく。
時折見せる愛らしい笑顔が堪らなく愛おしい。
陽介は、美耶の腕の中にいる光のほっぺたに何度もキスをした。
その様子を美耶は幸せそうに見つめていた。
空は快晴であった。
あの日から、何故かとても晴れの日が多いような気がする陽介であった。それが、本当の所、一体どうしてなのかは分からない。
美耶にノートを託した祖母はあのあと、すぐに体調を崩して他界してしまった。 結局、あのノートは形見になってしまい、その中の膨大な資料は美耶に託されたままであるが、あの文句の出所が何なのか、内容は一体どういうものな真相は分からないままである。
ただ、自分と美耶が惹かれあい、結ばれたことは紛れもない事実なのだった。
『雨を呼ぶ者、雨を待つ者と旅して陽を齎す。』
ひょっとして、『陽を齎す』の『陽』とはこの子のことではないかと、そんな思いにとらわれる陽介だった。
彼は美耶と昨年の秋に式を挙げた。仲間からは「手が早い」とか、「速攻」だとか冷やかされたが、実は美耶の妊娠が夏の終わりに分かったのであった。
ただ、自分の両親や先方の両親も不思議に彼等を咎め立てすることはなく、「結婚してできないよりはいい。」などと、冗談とも本気とも思えるようなコメントで二人を祝福してくれた。
きょうび、こういう形の結婚も増えているということもあったのかも知れないが、美耶の父親に殴られるぐらいの覚悟であった陽介には、何だか拍子抜けするような展開であった。
家族には、あの系図の話はしていない。
美耶とも特に打ち合わせたわけではないけれど、美耶も、あのことは誰にも言っていない様子だった。何となく、暗黙の了解になっているような感じであった。
そもそも陽介は、まだ美耶とも、あの文句の話はしていない。
でも、美耶は当然気づいているような気がするのだった。
美耶はあの言葉の内容を自分なりに理解した上で、それでもオレのもとへとやって来てくれたのだ。あの、「空白の一週間」は、きっと美耶の覚悟の時だったのだろう。
そして、あの朝…もの凄い晴天だったのは、この子の誕生を示していたに違いないのである。
そして、あれ以来雨は止んだ。
あれから、自分はもちろんのこと、美耶も「雨」を降らせる力を失ってしまったようであった。
逆に、今年は春先から水不足が深刻化しており、梅雨も近年ないほどの空梅雨であった。陽介は、「まさか」とは思いながらも、自分たちの住む地方が、昔から洪水や日照りなどの天災に悩まされて来た理由を知ったような気がした。
しかし、現代はそんな悪天候をものともしないだけの土木技術や科学技術があるわけだし、そう深刻に考えることもないだろう。と、そう思い直すのだった。
自分には美耶と光がいる。それだけでいい、とそんな気がした。もしもこの子が『陽』なら、成長して『陽を待つ人』を探せばいいだろう。究極の「晴れ女」はきっとどこかで待っていてくれるだろう。
美耶と自分が出逢ったように。
「今日も暑くなるぞ、さあ仕事だ。」
車に向かって歩きながら、陽介は、父が「最近晴れが多いようで、傘の売れ行きが落ちている」とボヤいていたのを思い出していた。
「じゃあ、テントに力を入れることにすれば。」とそんな考えを父に話した陽介だが、「もう、お前に任せたからな。」と、父。
彼はもっぱら初孫の光にでれでれで、発言にも商売の方からは本当に引退するつもりのようなことを匂わせている。
もう、夏本番であるが、どこか秋を思わせるような、少し紫がかってさえ見える高い高い天蓋を見つめ、陽介は目を細めた。
車のドアを開けて乗り込もうとした陽介は、ふと何かを感じてもう一度空を見上げた。
ただ、そこにはひとひらの白い雲が静かに流れているだけだった。
《了》
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