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こくごの先生の部屋
「その1」 プロローグ~
『ある塔の記憶』
【プロローグ】
水面は静かに揺れていた。
どこか懐かしいような、香ばしいような…まるで、それらは色づいた樹々が発しているかのようだった。そんな、秋の香りが辺りに満ちていた。
そして…、時折ふっと漂ってくる絵の具の匂い。
それらの入り交じった空気を胸一杯に吸い込むと、まるで世界が琥珀色に染まっているかのような気分にさせられる。
水路の脇の石段の一番上に腰掛けていた彼は、そのまま静かに体を石畳の上に横たえると、その澄んだ瞳で、煉瓦造りの建物に絡まる蔦をぼんやりと眺めていた。
そして、その上にはどこまでも高く、蒼い空があった。
隣から定期的に聞こえてくるのは、…ページを捲る音。
静かにその音に耳を傾けていると、
「いつまでも、この時が続けばいいのに。」
と、そんな淡く儚い願いが、心の中に漂い始めるのだった。
空には、ゆっくりと秋の雲が流れていた。
【第1部】
【1】
幾多の星霜を重ねた石畳にも、またそれ以上に遙か昔から繰り返しこの街を訪れた季節が、今年も新たな風をそこに吹かせていた。
季節は秋だった。
紫苑は、塔の窓からいつもの街並みを眺め、そしてまた、溜息を一つついた。
満月の夜は、…3日前。
決行の日まであと一週間。
そして…、また思うのだった。
「…無事に私の手紙はあの人に届いているのかしら。」
紫苑は今年の冬、ちょうど二十歳を迎える。
そして、彼女と同い年の彼、惣一郎は一足先に二十歳になっていた。
二人が出逢ったのは、もう10年近くも前のことだった。
屋敷の建設が始まった時、紫苑は10歳だった。
古くなった木造の屋敷の隣に、西洋風のハイカラな建物が造られようとしていた。そこでは、数多くの職人が毎日汗を流していた。
そして、煉瓦職人の見習いだった惣一郎は、下働きとしてコマネズミのように動き回っていたが、仕事の合間には自由な時間があり、彼も他の職人達と同じように庭の木陰でお茶を飲んだり、横になったりするのだった。
が、やはり同じ年頃の者というのは、違いに引き寄せ合う力というものを持っているのであろう、彼はそのお屋敷の令嬢だった紫苑といつの間にか仲良くなっていた。
仕事の手が空いた休憩時間になると、現場の横の芝生の辺りで楽しそうに会話をしている二人の姿を見ることは、珍しい事ではなかった。
そして、身分の違う二人の「遊び」の様子も、まだ大人達に見咎められるほどではなかった。
その時、二人は、実際にまだほんの子どもであった。
ただ、子どもではあったが、紫苑にはもうその歳でも家柄に相応の気品が漂っていた。
しかし、惣一郎には「職人相応」という言葉は当てはまらなかった。
彼には、どことなく「気品」というか「知性」のようなものが備わっていた。そして、そんな惣一郎から、紫苑もどことなく自分と同じような匂いを感じ取っていたのであろう。
だからこその二人の出逢いであった。
別段、そうやって二人は会って何かの話をするわけでも無かった。が、紫苑には惣一郎の話がとても面白く、逆に惣一郎には、紫苑の住む、自分とは違う世界のことがとても新鮮に思えるのだった。
惣一郎は、様々な事を面白おかしく語って聞かせた。
習いたての建築技術や資材のこと、街で流行っている遊び、庶民の食べ物…。
それらを聞いて、紫苑はコロコロと笑い、また時折不思議そうな顔をしたりもした。
そして、紫苑の中には、そんな自由な世界に生きる彼を「羨ましい」と思う気持ちすら芽生えてくるのだった。
【2】
紫苑には、上流階級の令嬢としての教育が施されていた。であるから、語学や楽器、作法などあらゆることが「日課」としてあった。
惣一郎は、そんな彼女の毎日を「羨ましい」というより、「驚き」の目を持って見ていた。
こんなことがあった。
紫苑が一人で庭の一角の砂地の上に、小枝で何かを書いていた。勿論、そこは職人が立ち入っても構わない場所で、紫苑は惣一郎が見つけてくれるのを待っていたのだが、やってきた彼は、紫苑が書いたそれが何かを尋ねた。
そこには、アルファベットが記されていた。
「Shion」と書かれたそれは、「シオン」と発音されることを彼女は伝えた。
そして、「イニシャル」というものを彼は知った。
彼女の名前の頭文字は『S』
そして自分の名前「惣一郎」も『S』となることを知った。
そして、二人ともが偶然にSという名前の頭文字を持つということは、二人にとって少々照れくさい事実であった。
そして、またこんなこともあった。
惣一郎が、いつものように庭の隅にやって来た。そして紫苑も、いつものように芝生の上のベンチに腰掛けて惣一郎を待っていた。
ただ、その時はいつもと少し様子が違っていた。
彼の手には一つの煉瓦が握られていた。
惣一郎はその煉瓦を紫苑に見せ、そして、説明した。
「この煉瓦、普通の煉瓦とちょっと違うの分かる?」
紫苑は細く美しい眉を少し眉間に寄せ、暫く考えてから言った。
「そうね…、何だか普通の煉瓦より綺麗な感じがするわ」
それを聞いて、惣一郎は嬉しそうに、
「だろ。」
と言い、得意げに説明を始めるのだった。
惣一郎の説明によれば、その煉瓦はごく稀にしかできない特別な煉瓦なのだということだった。
しかし、なぜ、そのようなものができるのか、ということについては、まだ彼自身よく知らないのだった。それは、ちょっとした火の加減やら材料とする土の成分によるもので、数百個焼く中で、稀に一つか二つぐらいできるもの…
ということは聞きかじりで知っていたのだった。
「棟梁に見つかると叱られるんだけどさ、これって使う場所を自分で決められるんだ。もちろん、一人前になってからの話なんだけどさ…。」
そう語る惣一郎の目は輝いていた。そして、それを見つめる紫苑の黒目がちな瞳も優しい光をたたえていた。
そして、煉瓦を焼く際、職人が、それに自分の名前や窯の名前を入れる事ができるということも紫苑は彼に教わった。
惣一郎は、いつか一人前になって、その美しい煉瓦に自分の名前を刻むのが夢だと言うのだった。
屋敷の建設にはおよそ2年を要した。
屋敷が完成するにつれ、二人も同じように歳を重ねた。そして、次第にお互いを男女として意識するようにもなり始めていた。
そして、屋敷は完成した。
二人はまた元のように違う世界で生きる…そういう「普通」の状況になろうとしていた。
しかし、二人の間に生まれた絆は、単純に二人を別れさせることをしなかった。
それは、紫苑の申し出から始まった。
【3】
二人の住むこの街は、昔から港町と都市部を繋ぐ交通の要衝として栄え、明治になってからも西洋風の文化をいちはやく取り入れた。
西洋風の屋敷が今も多く建ち並ぶ街並がそれを表していることはもちろんであるが、煉瓦造りの建物が多いということだけがこの街の特徴ではなかった。
背後に高い山があり、そこから生まれる河川が幾筋も街の中を流れ、また近隣には湖もあり、この辺りは昔から水資源にも事欠かなかった。
それに、海も近いということで、街中には水路が張り巡らされており、それがいっそうこの街の観を独特なものにしていた。
紫苑の住む屋敷の中や周囲も、例に漏れず大小何本もの水路が通っており、中には地下を通るものもあった。
紫苑はそこに目を付けたのであった。
工期を終え、立ち去ろうとする職人達に紫苑は声をかけた。そして、惣一郎を呼びとめると、別れの言葉を告げた。
その際、彼に小さな包みをこっそりと手渡したのだった。
それは、ガラス製の小瓶であった。
惣一郎は恐縮しながらも、なるべく平静を装ってその場をとりつくろった。
先輩の職人たちも、惣一郎が何かを受け取ったということには気付いていないようであった。
その日、仕事を片づけた彼は家に帰ると、胸を高鳴らせながらその包みを開いた。
その中には手紙が入っていた。
その時は言葉少なく立ち去った紫苑であったが、彼女からの手紙には、二人を今後も結びつけていく為の作戦がしたためられていたのである。
…それは
これから毎月、満月の夜に紫苑がこの手紙が入っていたものと同じ小瓶に手紙を入れ、水路に流すというものだった。
紫苑の住む屋敷には、その敷地内に水路が流れる所があった。
そして、その水路は屋敷の中で一旦地下に潜るが、外に出ると、すぐ側を流れる大きな水路に流れ出る。
つまり、そこで惣一郎が待っていれば、その瓶を受け取ることができるのだ。
そして、今度は新月の夜、惣一郎は、約束の時間に紫苑の屋敷の外に現れる
…という手筈だった。
単純ではあったが、その作戦はとても巧くできていた。
紫苑が考えた通りに、彼女の流した瓶は流れに乗って外の大きな水路に流れ出た。そして、満月が煌々と照らす水路に浮かぶ瓶を、惣一郎は簡単に見つけることができた。
時間も「午前零時」と決められていた。
惣一郎が現れる時は、月のない夜であった。暗闇に紛れて塀の外に立つ惣一郎と、窓辺の紫苑は、時にはひそひそ声で話をし、話ができそうにない時は、したためた手紙をあの瓶に入れ、屋敷の中に投げ入れておくのだった。
そうやって二人は、連絡を取り合った。
そして、月日は流れた。
二人のこの絆は、細いものではあったけれど、決して弱いものではなかった。
それは、驚くほど長く続いた。
勿論、時には紫苑が旅に出たり、惣一郎が修行の為に遠くに出かけたり…と、一定期間どちらかがこの街を離れなければならず、途切れることはあった。
しかし、そんな時は、その由を事前にきちんと知らせ合っておくのだった。
そんな秘められた交流を続ける傍ら、二人はしっかり自らの歩みも進めていた。
紫苑は上流階級の令嬢として。
惣一郎は職人として。
それぞれ、しっかりとした女性と男性に成長していた。
そして、それと同時に、二人を結びつける絆も、緩むどころか逆に強くなっていくのだった。
そして、二人に転機が訪れた。
紫苑の屋敷を改修する事が決まったのだった。それは、地震の為にひび割れた屋敷の西側を補強すると同時に、そこに塔を創ろうというものだった。
そして、その職人として選ばれたのは、惣一郎の工房であった。
それは二人の再会のチャンスであった。
…ただ、それは同時に悲しい別れの前触れでもあった。
【4】
紫苑に、急な縁談が持ち上がっていたのである。
しかも、新しく建てられる塔はそのお祝いと記念の意味で、…という皮肉なものだった。
そして、…果たして、惣一郎と紫苑の再会の時は訪れた。
二人は、公の場では違いに会釈をする程度しかしなかったが、それでも白日の下で、お互いを見たのは本当に久し振りであった。
何より、惣一郎は、紫苑の、その息を飲むような美しさに、改めて驚くばかりであった。
もちろん、紫苑も、逞しくなった惣一郎に、改めて強く心惹かれていた。
建設が始まり、屋敷の外で作業をする惣一郎は、時折屋敷の庭などで紫苑を見かけた。それは嬉しいことに違いはなかったが、自由に会話ができたあの幼い頃とはすっかり情況は違っていた。
紫苑の姿を、惣一郎はいつも探していた。そして、彼女が視界に現れるとすぐに気付いた。それは紫苑にとっても同じであった。
しかし、彼は、遠目からでもはっきりと見て取れる、彼女のあまりの美しさと気品に、やはり自分の超えられない身分の差というものを感じずにはいられなかった。
…そして、いよいよ塔が完成する時が近づいていた。
それは晩秋の頃であった。
屋敷の広い庭に、夏は広い木陰を作っていた欅も、その色づいた葉をほぼ散り終えていた。風にはもう冬の気配が漂っていた。
11月。二人にとって、これが最後になるかも知れない…満月の夜が来た。
惣一郎は、何度受け取ったか分からないほどに回数を重ねた、紫苑からの手紙の納められた瓶を、いつものように石段を降りた水路の水面に見つけていた。
満月の白々とした光が、その幻想的な光を、美しく積み上げられた石垣とその周囲の建物の壁に揺らめかせていた。
そして、惣一郎が手にした、紫苑からの手紙…。それには驚くべきことが書かれていた。
それは、彼女に突然降って湧いた縁談の話だけではなかった。
紫苑は、惣一郎に駆け落ちの申し出をしていたのだった。
それによれば、紫苑は今日から2週間後、結婚式の為に、屋敷を後にしなければならないとのことだった。であるから、これから10日後の夜、屋敷を抜け出して惣一郎と何処かへ行きたいというのだった。
惣一郎は、驚き、喜び、そして戸惑った。
しかし、紫苑は本気だった。
…まだ数度しか会ったことのない男性、しかも歳が10歳も離れている男性との結婚。
事業拡大のための政略結婚だと、誰もが知っている結婚。
豊かな暮らしを捨てても、本当に心惹かれる男性…惣一郎と一緒になりたい、という一途な紫苑の思い。
それは庶民である彼にも痛いほど分かった、
ただ、彼にそれを受け入れるだけの自分の心の準備は無かった。
紫苑と一緒に暮らせたらどんなにいいだろう…、と夢想することはそれまでに何度もあった。
しかし、それは決して具体的なものとして彼の中には宿ることは無かった。
「駆け落ち」…それは、余りにも現実離れしたものであった。また、それを行う事は、同時に自分が血と汗を流して築いた職人の地位すらも捨てるものであったのだ。
そして、塔は完成した。
約束の日が迫っていた。
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