こくごの先生の部屋

こくごの先生の部屋

「その2」

『ある塔の記憶』




【第2部】


【1】
 「…で、このお話…どうなるの?」

 パソコンでプリントアウトしたA4版の用紙。その束をホッチキスで留めて、ごく簡単に製本された原稿。

 それを読み終えた紫織は、横で寝そべっている修也の方を向いて言った。

 生成りのトレーナーにジーンズというラフな恰好の紫織。トレーナーについた油絵の具が、何となくセンスの良い模様のように見える。
 高校時代はショートだった髪もいつの間にか肩の辺りまで伸びている。
 少し女っぽくなった紫織は、その髪を指で耳に掛けながら、悪戯っぽい目をこちらに向けている。
 修也は、見慣れた筈の紫織の顔なのに、何だかちょっとドキッとしてしまい、思わず視線を余所に向けて言った。

 「結末は…まだ考え中なんだよ。『次回をお楽しみ』にって感じ。…で、どうだった。感想は?」

 「そうね…。随分上手になったわね。今までの中では…一番いいかな。」

 「ホント…? お世辞でもうれしいな。」

 そう言うと、修也はちょと照れくさそうに鼻の下を人差し指で擦った。そして、腕まくりをしていたシャツの袖をもとに戻しながら、また横目で紫織の方を見た。
 紫織はそんな修也の様子を知ってか知らずか、すぐにこう続けた。

 「うーん。…でも、まだ不自然な表現とか、解説っぽい表現が多い気がする…かナ。」
 「相変わらず…手厳しいね。」
 「でも、なかなかいいわよ。続きが気になるわ…。」

紫織は、そうぽつりと言うと、暫く焦点の合わない眼で虚空を見つめていた。

 再び会話の口火を切ったのはやはり紫織だった。

 「…でも、このお話…。妙にリアルな部分があるわね。」
 「そう…。でも、『妙に』って、どこが?」
 「そうね、色々あるんだけど…。」

 そう言って紫織はまた黙ってしまった。
 修也は、そんな紫織の横顔に向かって言った。
 「…『部分』ってことは、それ以外は荒唐無稽ってこと? …それはそれで、ちょっとショックなんだけど…な。」
 「何言ってんのよ、お互いまだまだ修行中でしょ。私の絵だってまだまだなんだから、お互い様よ。」
 「まあね。」

修也は、つい先日、紫織が「批評して」と言って見せてくれたデッサンに対して、「小さくまとまりすぎている」とか、「線が堅い」とか何とか、結構言いたいことを言ったのを思い出していた。

 「お互い、やっと自分の夢を叶えるために一歩を踏み出したところでしょ、今から『完成』するわけがないじゃない。」

その紫織の言葉には説得力があった。そして、二人ともそこまで話してお互いに「納得」という感じになった。
 そして、お互いに満足げに笑い合うのだった。

 阿南紫織は美大の1年。そして潮崎修也は同じく文学部に籍を置く、私大の1年生であった。紫織は画家、修也は小説家志望で、二人とも子供の頃からの夢を叶えるべく、希望に燃えていた。

 そんな二人は高校時代からの仲良しだった。

 そして、高校を卒業してからは、どちらとも地元からそう離れていない、都市部にある大学に通っていた。

 二人は、別段示し合わせて大学を選んだ訳ではなかった。ただ、結果的にそうなったことには、「結構近いところだね。」と、素直に喜び合った。
 …そんな「恋人未満」の微妙な関係だった。

 高校時代は、二人とも恋人がいなかったので、仲間達は、よく一緒にいる二人を恋人同士のように思っていたようだった。
 けれども、当の本人達はお互いの気持ちを確認したこともなく、何となく「友達以上」の付き合いはするものの、それ以上進展しないという情況が続いていたのだった。

 そして、迎えた大学1年目の秋だったのである。

 休講や休日の関係で、1週間ほど連続して休みになったことを利用して、久し振りの帰省をした二人だった。

 それはお互いに示し合わせたものであった。

  とはいうものの、ただ何となく「秋にも帰ってくる」ということを確認しあっていただけだった。夏休みにも、帰省中には何度か会ってはいた。向こうに帰ってもメール交換なんかはちょくちょくやっていた。が、やはり二人の関係は良くも悪くも「相変わらず」で、大して進展していなかった。

 「で、どこが『リアル』なの?」

 紫織の手にある原稿を覗き込みながら、修也は再び尋ね直した。

 「うーん。何となく…。このお話の舞台になってる街って、私たちの、この街そのものでしょ。だからかな、って思うんだけど…。
  でも、何だか…それ以上に、不思議に、懐かしいような感じがする。」

「それって、褒め言葉なのかな。」
 そう言うと、少し間を置いて修也は続けた。
 「…言い換えれば『どこかで読んだことのある』=『月並み』ってことにもなるよね。』」
 と、やや自虐的に茶々とも本心とも言える発言をした修也だったが、そんな台詞を口にしながら、ふと目に入った紫織の顔…、
 その眼は真剣だった。

 「修也さァ、私の先祖のコト知ってるの?」
 「…何かの職人だったって、前言ってなかった?」

 「それは言ったかも知れないけど、何の職人かまでは言ってないわよね。」
 「うん。」
 「『ズバリ』なのよ。…お父さんよりもずっと前らしいけど、腕の良い煉瓦職人がいたんだって。…確か、『曾お祖父ちゃん』だったと思うけど…。
 本格的に洋風建築の勉強をして、あちこちに綺麗な洋館なんかを建てたって聞いてる。
 …それに、絵も上手だったんだって。何枚か家に残っての、見たことある。」

 そこまで聞くと、修也は、少しトーンを下げ、やや言いにくそうに口を開いた。
 「あのさ、実は…、この話…。オレのよく見る夢をもとにしたんだ…。」



【2】
 修也の意外な告白に、紫織は怪訝そうな顔で訊いた。
 「『夢』って、夜見る『夢』?」
 「そうなんだ。」
 「そう…。それにしても…。それって、凄くリアルな夢ね。…だから、なのかしら。」

 修也はそこで、少し座り直して、ちょっと真面目な顔になった。

 「うん…。誰にでもあるんじゃないかなって思うんだけど、子どもの頃から何度となく見る夢ってあるだろ…。
  その夢をさ、最近…大学生になってから、特に、本当にリアルに見るようになってさ…。」

 「で、それをもとに小説にしたってこと。」
 「うん…。そうなんだ。」
 「でも、このお話の主人公って女性だよね。」
 「うん。」
 「そうなんだ。ドレスを着た女性が…、洋館の窓から芝生のある広い庭を眺めてる…。そういう映画か何かを観ている、そんな夢のイメージなんだよね。」

 「修也君の家って、前聞いたけど…昔、お金持ちだったんでしょ。」

 紫織はちょっと言いにくそうに言った。

 「そうらしいね。今はもう無くなってるらしいけど、随分昔は立派な洋館に住んでたらしい。」
 「それって、今は何も残ってないの?」
 「うん。何でも、地震で崩れちゃったらしいんだ。…しかも、曾爺さんが事業で大失敗したらしくって、そのまま修理もできず、結局そのまま取り壊しになったらしい。
 …ま、いずれにせよ、今はしがないサラリーマン家庭ってワケさ。」

 「ふうん。じゃ、その『夢』ってのも案外本当かも知れないわね。」
 修也は続けた。
 「前、法事か何かの席で聞いたことがあるんだけど、何でも、オレの曾おばあちゃんって人がそういうことを全く口にしない寡黙な人だったそうで、それに嫁いだ先がそうなってさ、実家の方もかなり影響を受けしまったらしくて…。ホント家財道具も放り出して夜逃げ同然で、…一度、この街からも離れてたらしいんだ。
 …だから、何も分からないんだよね。
 オレのおじいちゃん、おばあちゃんも早くに亡くなっちゃったしね。」

 「ふうん。じゃ、その屋敷ってのもどこにあったかも良く分からないのね。」
 「うん。何でも、綺麗な屋敷だったんだそうだけどね。尖塔がついててね。」
 「あ、この話の中に出てくるやつね。」
 「うん。」
 「で、夢にはそのお屋敷って出てこないの?」
 「その辺りが、『夢』の『夢』たる所以さ、妙にリアルな部分があるし、『尖塔』にしても、イメージはあるんだけど…。
 いざ絵や映像に描こうと思ってもなかなかね、…『描く』ってもちろん、心の中でだよ。それでも、なかなか具体的な絵にならなくってさ、
 …オレにもお前みたいな絵心があればいいんだけどね。」

 紫織は、修也の画力が小学生並だということをよく知っていたので、彼が描いた尖塔のイメージを想像して思わず吹き出しそうになりながら、それには、敢えてコメントをせずに続けた。

 「…でも、それにしても、このお話って凄くリアルだわ。
  ただ…この女性の名前だけど、『紫苑』ってちょっと今風過ぎない?
  それに、私の名前をもじったって見え見えだし。」

 「てへへ」と、修也は照れ隠しに、そこへ寝そべって空を見上げた。
 「…でもさ、何となく、『紫』ってイメージっていうか文字っていうか、それも夢にこびりついててさ。
 ウソじゃないよ。…でも、そんなに悪くないだろ。」
「まあね。」
紫織は「仕方ないわね。」という感じでそう言いながらも、その裏には照れというか、嬉しさも隠せず、寝そべっている修也の側で、少し坐っている向きを変えて上向きに空の方へと視線をやった。

 修也は、そんな紫織を下から見上げていた。
 風が少し吹いて、紫織の綺麗な黒髪はさらさらとなびいた。そして、その向こうに、色づいた街路樹の葉が静かにざわめいていた。

 修也は、暫く紫織の横顔をみつめていた。

 「紫」という文字をヒロインの名前に入れたのは、自分にとってのヒロインは紫織だというアピールも確かにあった。が、修也の中には本当に「紫」という言葉というか、漢字というか、何かしらのイメージが強くあった。それは事実だった。

 「でも、悲恋のヒロインってのはどうかな。」

 紫織は再び原稿を眺めながら言った。
 「自分の名前に似てる人が、悲しい運命を辿るってのもね…。」
 しかし、そう言った直後には、

 「うーん。でも、…甘ったるいラブストーリーよりはいいかもしれない…。」
 そんな風にやや一人ごちながら、紫織はそこにあった小さな枯れ葉を手に持ち、指先で摘んでクルクルと回すのだった。


 「さっき『地震』って言ってたけど、本当に昔からたびたびあったみたいね。
  この辺り…。そう言えば、この間も少し大きなのがあったんでしょ。」

 二人が帰省する直前に、比較的大きな地震がこの辺りにあったことは、ニュースで知っていた。彼らのいる都市部は、震源から逆の方向に離れていたので、揺れは大したことがなかったが、この街では少し被害もあったということだった。

 「そうそう。B地区の辺りで…、古い水路が崩れたって聞いた。」
 「だから、この辺りも少し濁ってるのね。」

 紫織は、手に持っていた公孫樹葉を水面にひらりと落とした。

 と、その時だった。
 紫織が眺めていた水面に、何かが浮かんでいるのが見えた。








【3】
 「ねえ、あれ…。」
 紫織のその言葉を聞いて、むっくりと起きあがった修也。彼女が指さす方を見ると、何か水面に見慣れない瓶のようなものが浮いている。

 水は丁度どこかで流れを止めているのだろう、殆ど流れていない状態だった。
 そして、風が撫でるその静まった水の上に、それはたゆたっていた。

 修也は立ち上がると少し離れた所まで歩いて行き、水際に降りられるすぐそばにあった階段を降りた。
 水路の幅は4メートルほどであろうか、跳び越えるにはちょっと距離があるが、この辺りでは比較的狭い所である。
 彼は、水際にしゃがみ込むと、ゆっくりとその瓶が動いてくるのを待った。

 ところが、なかなか思うように修也のいる所まで漂って来ない。上からは紫織が興味津々の様子でこちらを観ている。
 「もうちょっとで手が届くンだけどなァ。」
 「修也、頑張って。」
 などと紫織と声をかけ合いながら、辛抱強く待っていると、ちょうどタイミングよく風が吹いてくれた。それに流され、瓶は何とか彼の手の届くところまでやってきた。
 拾いあげてみると、それはとても古そうなものであった。どうやら、ワインか何かの小瓶である様子だった。

 表面はもうドロドロで中は見えないし、コルクでしっかり栓がしてあった。そのコルクも半分ほどは腐っていたが、辛うじて中に水は入っていないようだった。

 「開けてみようか。」
 「そうね。…しかし、何だかむちゃくちゃタイムリーね。映画でも観てるみたい。」
「中から魔神がでてきたりして。」
 「まさか…。」
 などと軽口を叩きつつ、修也は紫織から細い絵筆を借りると、その柄を使ってコルクを中へと押し込んだ。

 その中には、丁寧に丸められた手紙らしいものが入っていた。

 二人は顔を見合わせながら、それでももうそこまで来て止めるわけにもいかなかった。
 すっかり色褪せ、朽ちているリボンをほどくと、紙をゆっくりと開いた。
 それは、…もともとがそうであるのか、色褪せているからであろうか、判断はつきかねたが、紫色のインクで文字がしたためられていた。



 「荘介さんへ
  今更、こんな連絡なんてってお思いでしょうが、もしも許して頂けるなら、最後まで読んで下さいませ。
 あなたとの約束が果たせなかったこと、本当に残念至極で、もはや私は生きていく希望も喪ってしまいそうです。
 最初は、もう消えてしまいたい…。そんな思いでした。

 でも、今はそれを運命として受け入れる気持ちになっています。

 あの日、
 突然の訪問がありました。婚約相手の方とそのお父様です。もう、お分かりでしょう。急遽、結婚の日取りが早くなってしまったのです。

 あなたは約束の時間に来て下さったのですね。あの日、私は父に連れられて屋敷の外に出なければならなくなったのです。帰りは翌日でした。
 きっと約束の時間にあなたは来ているだろうと思うと、私は気が気ではありませんでした。しかし、どうすることもできませんでした。

 あなたが約束通り、来て下さったということは、屋敷に届けられていた絵で分かりました。素晴らしい絵ですね。わが家の塔を描いて下さったのですね。
 あの塔は、あなたが手がけて下さったわが家の一部ですものね。
 …それに、あの塔だけは、あなたの家からでも見えるのでしょうね。

 そして、

 あなたがお隠しになった絵の中の言伝にも気付きました。
 私は、すぐにあの塔に登って、確かめました。そして、絵の通りにあなたのサインの入った煉瓦を見つけたときは、涙が止まりませんでした。

 あのサイン。私はしっかり覚えていますが、あなたもまだ覚えていて下さったのですね。

 ああ…、それだけで私はもう満足です。

 そして、重ならなかった二人の人生も、これで報われるような気がするのです。

 私は、父の命令通り、あなたとは違う、別の方の家に嫁ぎます。
 そのお相手の方は…とても優しい方です。
 でも、決してあなたとは比べることはできません。

 私の心は…あなたのものですから。

 でも、きっとあなたと私の思いは、この塔の中で一つになって、永遠にこの街を見守っていくでしょう。
 私も、あなたとの愛の証になるものを、煉瓦の中に埋めることにします。


 いつか、私とあなたは、別な形で結ばれるような、そんな気がします。その思いを胸に、私は嫁いで行こうと思います。

 あなたを、  愛しています。


  この手紙が無事に届くことを祈りつつ。
                         紫乃 」



 「ゴクリ」
 読み終えたあと、思わず生唾を呑み込んでしまい、その音に驚いた修也は、我にかえると、肩が触れるほど近くに寄って一緒にそれを読んでいる隣の紫織を見た。
 彼女はまだ真剣に読み入っている。
 どうやら、修也の方が少し早かったようだった。が、紫織が読み終わるのを待って、二人は改めて目を合わせた。

 そして…。口火を切ったのは修也だった。彼はもう一度生唾を呑み込んで言った。

 「ウソだろ…。これ、オレの夢の…とおりじゃん。」
 「本当。信じられないわ、でも、…それはそうだけど、この紫乃さんって…」

  紫織は言葉を失っていた。






【4】
 紫織は暫く呆然としていたが、暫く間を置いてから再び口を開いた。
 「ひょっとして、これを書いた人って、もしかしたら、修也君の曾お祖母ちゃんなんじゃ…。」
 「うん。オレも、そう思ってた…。でも、何で今更こんなものが…」

 そこまで言葉を続けた二人は、同時に口を動かした。

 「地震!」

 「そうに違いないわ。きっとこの前の地震で、どこか、水路の中を塞いでいたものがとれて、また流れ初めて…、それでこれが出てきたんじゃない?」

 「つまり、この手紙は…」

 「そうよ、届かなかったんだ。」

 「きっと、この手紙は『荘介』って人には届いていないんだわ。」

 「え、だから…、オレが子どもの頃から見続けてる夢って、正夢…っていうか、
お告げ?」

  だとしたら、お前…。」


 そう言いかけると修也は口を噤み、一瞬遠い目をして何かを思い出そうとした。

 そして、あることを思い出した。

 それは、彼の家にある絵のことだった。
 「今、急に思い出したんだけどさ…。この中に出てくる『塔』の絵ってさ、ひょっとして、オレんちにある絵かもしれない…。」

 「え、…そんな絵が家にあるんだ、」

 修也は昂奮を抑えきれない様子で、少し深く息を吸い込んで、呼吸を整えてから言った。

 「うん、うちって、マジで昔はちょっとした金持ちだったらしいんだけど…、
  さっき言ったように、何代か前で事業に大失敗したらしくってさ。家財道具や貴金属や絵なんか全部売っ払っちゃったらしいんだ。…だけど、何だかその絵だけは売られずに家にあったらしいんだ。

  で、オレのお祖母ちゃんが、絵が好きだったらしくて、それを譲り受けた…、
  そんな話だったような気がするんだけど…、無名の画家だし、サインもないから処分されなかったのかも知れないって、お袋が言ってたのは何となく覚えてる…。」

 「そうかァ…。その絵を貰ったお祖母さんって、お母さんの筋の人だったんだ。」

 紫織は、以前修也が「金持ちだったのは母の家系」と言っていたのを思い出していた。そ

して、話を先に進めた。

 「で、その絵って、本当に『塔』が描かれてるの?」

 「多分、そうだったと思う。あまり大きな絵じゃないし、今は何故か親父の部屋の目立たないところにかけてあるんで、あまりはっきりと記憶にはないんだけど。…子どもの頃は、

  親父の部屋にもぐり込んでちょくちょく見てたんだけど、

  …どっちにしても、あまり大切にされてない…気がする。」

 「でも、あなたの夢…小説と言い、この瓶の手紙といい、何だか怖いぐらい結びつくのよね。」

 「うん。オレも、自分で書いおいて、怖くなってきた。」

 「…でも、コレって確かめないワケにはいかないよね。」

 「もちろん。で…どうするんだ?」

 「まずは、修也の家の絵からでしょう。」

 そう言うと、紫織は手早くイーゼルをたたみ、絵の具や絵筆を手早く片づけていた。
 修也はそれを聞いて「あ、う…、そうだね。も、もちろん。」と言いながら慌てていた。

 というのも、紫織は今まで修也の家には、玄関口前まで来たことはあっても、中に入ったことはなかったのである。

 「これは大変なことになってきたぞ…。」

 …そういう意味でも、まだ、微妙な関係の二人なのだった。が、修也の心は時めいていた。

これは、色んな意味で何かが起きそうだ、と。
 そして、数分後。
 自転車の後ろに横向きで嬉しそうに座る紫織。ハンドルをぎゅっと握り締めて漕ぐ修也。

 緩やかな坂道を、水路に沿ってのぼっていく二人の姿があった。





【5】 
 赤茶色のシックな門柱に、「潮崎」と記された表札。
 修也の自転車は、新興住宅地の中にある、小洒落た家の前で止まった。

 「お邪魔しまーす。」
 紫織の元気で良く通る声は玄関から奥に響いたが、幸いに、家には誰もいなかった。
 「さあ、お父さんの部屋に行きましょうよ。」
 目を輝かせながら、初めて入る修也の家の中をきょろきょろと見まわしながら、紫織は彼を急かした。
 「わかってるよ。」
 紫織の様子にやや気圧される感じで、修也は紫織の前に立って階段を上った。
 父の部屋は二階の奥。その途中に、自分の部屋がある。修也はもの凄く散らかった自分の部屋を紫織に見せるわけに行かず、「ここは違うよ。」と言い、すぐさまドアを閉めつつ、廊下の突き当たりにある父の書斎へ案内した。

 その部屋は、子供の頃から鍵もついてはいなくて、いつでも出入りできる状態であった。が、特に修也が興味のあるようなものも見あたらないので、普段は足を踏み入れることはない。
 小学生の低学年の頃は忍び込んでよく叱られた記憶はあるが、中学校ぐらいになってからは、父への反感なども芽生える頃でもあり、それと相俟って殆ど寄りつかなくなっていたものである。

 「ギーッ。」
 と、普段なら全く気にならないほどの音が、妙に響きわたる。
 そっと戸を開くと、8畳ほどの薄暗い洋間の中に、本棚やらデスクトップのパソコンの置いてある仕事机やらが見える。

 「確か、この辺りだったと…」
 と、言いながら部屋の隅に回ると、ちょうど入り口からは死角にあたる場所、本棚のかげに当たる場所にその絵はあった。

 「あ、これだこれ…。久し振りだなあ。」

 修也はそう言いながら、壁からその絵をそっと外すと、片手でカーテン引き開けた。
 少し赤味のかかった、夕暮れ前の陽光が入ってきて、くっきりとその絵を見ることができた。

 うっすらとホコリを被ったそれは水彩画であったが、きちんとデッサンされており、比較的写実風に描かれていた。
 それは、紛れもなく「塔」の絵であった。

 ただ、それは「塔」とは言っても建物の一部が高くなっているような形で、建物全体が塔でではなかった。
 そして、あの「手紙」の中にあったように、その絵は、その建物の一部の塔をクローズアップして描いているような構図であった。

 そして、修也は黙ってその絵を見つめていたが、

 「あっ」

 と、小さく声を上げた。
 「え、何か分かったの?」

 「ここんトコ見て…。」

 修也が指さした先には、凄く小さいけれども、確かに小さな文字が記してあった。

 『§』

 そして、その文字は意外な場所に記されていた。
 通常、作者のサインなら、絵の右下か左下隅に施してあるが、それはそのような場所ではなく、ほぼ絵の中程、塔の中窓の脇に小さく記されていた。
 それはあたかも綺麗に積み上げられた煉瓦の一つに刻み込まれたかのようであった。






【6】
紫織はその『§』を黙って見ていたが、小さく息を吐くと言った。
 「これって、SとSの重ね文字よね…驚いたわ。…あなたのお話しの通りじゃない。」

 「そ、そうだね…。でも、そこは夢の中でも凄くリアルな部分で…。
  それにしてもビックリだよ…。」

 そして、絶句している修也を横目に紫織は続けた。

 「私、このサイン、見たことある。」

 『§』の文字は、日常生活で全く見ない文字では無かったが、紫織の言っているそれは、そういう意味ではなかった。

 「え、それって」

 「…私んちの絵にもこのサインがあるの。」

 聞けば、紫織の曾おじいちゃんは、もともと職人だったが、仕事が安定してからは、趣味として絵も描くようになっていたのだそうだ。
 その絵はなかなか玄人はだしで、画家として名を為すほどではなかったが、身の回りの風景を描いて自分で飾ったり、親戚に頼まれてプレゼントしたりする「趣味の画家」だったそうであった。
 修也の家にある絵は水彩だが、ただ、残っているそれはすべて油絵とのことだった。
 自宅に今でも、何点か残っているそうであったが、それに『§』のサインが施してあるものがあるのだということだった。
 紫織は、曾祖父の氏名は「阿南荘介」で、「S・A」なのに、どうしてサインが「S」の重ね文字になるのだろう、とよく思っていたので印象に残っているということだった。

 「じゃあ、やっぱり、あの手紙に出てくる『あなた』ってのは」
 「たぶん、間違いないわ。…私の曾おじいちゃん。」
 「そして、このお嬢様は…。」

 「オレの曾おばあちゃん。」

 「今、ふと思ったんだけど。この差し出し主の人の名前…『紫』がつくわよね。私、子どもの頃聞いたことがあるのよ。『どうして私の名前には紫って字がつくの?』って。その時にね、お母さんが、言ってたことがあるのよ。」

 「何を?」

 「私のおじいちゃんだか、曾おじいちゃんだかが、女の子が生まれたら、必ず『紫』って字を名前に付けて欲しいって言ってたって。…で、その理由はって聞くと、お母さんもよく知らなからなかったんだけど…。」

 「え…、で、どういうことかな。」

 「あのね、私の家って、父方は凄い男系でね、男ばっかり生まれてたらしいのよね。おじいちゃんの兄弟も男ばかりだし、父も3人兄弟全部男。私も上二人はお兄ちゃんでしょ、だから、『女が生まれたら』って話がずっと続いてたみたいなのよ。」
 「だから…。」
 「鈍いわね…。この紫乃って人の好きだった人よ、その彼が私の曾おじいちゃんだとしたら、全部説明がつくわ。」

 「えーっ。てことは。」
 「想いを寄せていた女性の名前の一文字を、是非自分の娘にって。あり得る話じゃない。」

 「信じられない…けど。」
「うん。」

 「そして、二人は…。」

 「やっぱり結ばれなかったのか。」
 「そうみたいね。」

 「ただ、その…。」

 何か言いかけて、言葉を継ぐのをやめてしまった修也に、紫織は問いかけた。
「どうしたの?」
 「ううん、何でもない。」
 「何…。夢の続きでもあったの?」
 「いや、いいんだ。…それより、もう出なきゃ。」
 修也は、絵を元あった場所に戻すと、カーテンも元のように掛け直した。そして、そそくさと紫織の前に立って父の部屋を出た。

 紫織も何かを考えていたのか、暫し二人は無言で修也の家をあとにしたのだった。




【7】
 外へ出ると、修也は自転車を押しながら、今度は二人肩を並べて歩いた。

 もう、辺りはすっかり夕暮れの空気に包まれていた。
 まだ、夕陽は街のあちこちを照らしてはいるけれど、時折吹く冷たい風がその温かみを消し去っていくかのようだった。

 突然、紫織が口を開いた。
 「あの、修也の小説の中の、煉瓦のサインの話ってのは?」

 「ああ、あれね。今、オレもちょうどそのコト…考えてたんだ。
  あの『稀に綺麗な煉瓦ができる』ってのは、デタラメなオレの脚色だけどさ、…煉瓦にそれを焼いた工房や窯のサインを入れるってのは、よくある話らしいよ。」

 「そう…。で、絵に描かれていた『§』は?」
 「あの文字自体は、ピンと来るようなこないような、…微妙な所なんだけど。『二つのS』ってのは、ばっちり夢の中にイメージとして出てくるんだ。
 …だから、びっくりした。…やっぱり何かお告げみたいなものだったのかな。」

 修也のその言葉を聞きながら、まるで何かのリズムをとるように、紫織は足を一歩一歩確かめるように踏み出して歩いていた。
 そして、彼女は少し間を置いて、また次の言葉を続けた。

 「…でも、もうあの『塔』ってのはないんだよね。」

 「残念ながら、そうらしいね。調べた事はないんだけど、地震で崩れてそのままになっちゃったって聞いたよ。」

 「そうかあ…。でも、あの手紙によれば、そこにあなたの曾おばあちゃんは何かを埋め込んだんだよね。…それってどうなったのかな。」

 「うーん。それは…、もう失われちゃったんじゃないかな。」

 修也のその言葉は、少し頼りなさげであったが、紫織は前方を直視しながら、しっかりした口調で次の言葉を告げた。

 「でも、夢に見るって…。私、何となく、それってまだどこかにあるんじゃないかなって気がするのよね。」
 修也は、足を止めると、横にいる紫織の方に向いた。彼女は、優しい目をしていたが、表情は真剣だった。

 「でも、どうやって探すんだ?」 
 「それを、これから考えるんじゃない。」
そう、強く言うと、紫織は続けた。
 「修也、その『塔』ってさ、地震で崩れたって言ったわよね。」
 「うん。たぶん、それは間違いないと思う。それにあんな塔みたいなものがついている屋敷なんか、街のどこにもないだろ。」

 「そうね…。」

 彼女は、高校時代からこの街の至る所をスケッチして回っているので、そんな絵になる塔があれば必ず知っているはずだった。

 「もしかして、地震で崩れたのなら、何か証拠が残ってるんじゃない?」
 「どこに?」
 「記憶、か記録。」
 「もう明治の話だから、記憶は無理だろ。」
 「わかんないわよ。聞き伝えで残ってることだってあるし。」
 「それはそうだけどさ。」
 「そもそも、そのお屋敷はどこにあったの?」
 「B地区だったってのは聞いたことがあるけど、詳しくは知らないんだ。」
 「そう…あの辺りも、最近は新興住宅地になってるものね。」
 「うん。」

 並木道に沿って、二人は何処ともいうことも無く、自転車を押しながら歩いていた。
 街路樹の公孫樹の鮮やかな黄色も、やや夕闇に押され始めていた。

 そして、修也の足取りは次第に紫織を送るべく、自然と彼女の家の方へと向かっていくのだった。


「記録…の方だけど、何か図書館とかに残ってないかな?」
 「そうね。ひょっとしたら何か分かるかも知れないわね。」
 時計を見るともう4時50分だった。確か、図書館は5時までだった。

 「今日はもう無理だね。  …明日、暇?」
修也のその言葉に、「もちろん。」と笑顔の紫織。
 その生き生きした笑顔に、修也はまた思わず胸がドキドキするのだった。


 …そして、同時に修也は考えていた。

 もし、この話が本当なら、百年近くも前、自分の先祖と彼女の先祖は悲恋の主人公を演じていたんだ。
 そして、今。
 オレと紫織…微妙な関係の二人だけど、この恋の結末は…どうなるんだろう…。

 修也が、そんなことをつい意識してしまうのも、この情況からして無理もないことだった。

 もう、街並みの向こうに太陽は消えてしまっていたが、空にはまだ夕陽が雲を紅く燃え上がらせていた。その輝く雲の方へと向かって、二人は長い影を延ばしながら歩き続けていた。



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