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「その3」
『ある塔の記憶』
【第三部】
【1】
翌日。
開館の9時きっかりにやってきた修也だったが、車寄せの脇にある傘立ての前で紫織はもう待っていた。
今日は、ロングスカートの上にチェックのシャツ。その上にカーディガンといういでたちの紫織。
周囲の秋色にとてもマッチしていて、凄く似合っていた。
修也は制服以外で、スカートを穿いている紫織をあまり見たことがなかったので、一瞬、そんな彼女の姿に目を奪われてしまい、彼女からの「おはよう」という言葉に対して思わず絶句してしまった。
そして、やっと出てきた「おはよう。」の言葉に、紫織は「?」という顔で、
「どうしたの修也?」
と。
修也は、ここで下手な台詞を言うわけにもいかず、
「別に…、大丈夫。ちょっと遅れそうだったんで、急いで来てて息がきれちゃったんだ。」
と、適当なことを口にした。胸が高鳴っていたことに違いは無かったけれど。
…そして修也は、自分はトレーナを替えただけで、他は全く昨日と同じ恰好であることを少し後悔しながら言った。
「じゃあ、行こうか。」
紫織はそんな修也の思いを知る筈もなく、
「うん。…で、何処を調べればいいのかしら。」
と。
「司書さんに聞けばいいと思うけど、まあ、まず『郷土史』だろ。」
「そうね。」
そう話しながらフロアに足を踏み入れた二人だったが、修也はそこで愛想良く「おはようございます。」と声を掛けてくれた若い司書の女性には、軽く頭を下げただけで、さっさとカウンタを通り過ぎて階段に向かった。
郷土史は3階だった。
先程、入り口で司書さんに尋ねても良かったのであるが、そこは一応小説家志望の修也である。まずは自力で、という気概を紫織に見せておきたかったのである。
そして、修也の背中がそう語っているのを頼もしく思いながら、少し笑みを浮かべ、彼に続いて階段を昇る紫織だった。
昨晩。
修也は苦労して、自分の先祖の姓を何とか調べあてていた。
そして、「二階堂」という姓が判明するまでに2時間あまりをを要してしまった。
彼の母は次女であり、現在の「潮崎」に嫁ぐ前の姓「高倉」まではすぐに分かった。
そして、曾祖母が「紫乃」という名前だったことまではつきとめることができた。
しかし、問題となっている屋敷の名前は曾祖母の旧姓である。
しかも修也の祖父母にあたる両親が早くに他界していたため、曾祖母のことが直接分からず、それに、母の兄に当たる跡継ぎの伯父さんが忙しい人で、なかなかつかまらなかったため、結局親戚のあちこちに電話をするハメになった。
結果、「1900年代の頭ごろ」、「地震」「二階堂家の屋敷」あたりがキーワードであることを成果として得ることができていた。
が、郷土史の索引をその言葉であたっても、なかなか見つからない。
少し調べたところで「地震」というのは、きっと1907年にあった地震だろうという予測はたった。しかし、この街における被害というのは、は「全壊16棟、半壊40棟」という記録しか見つけられなかった。
「これじゃあ、分からないよな。」
思わず背もたれに寄り掛かって大きく伸びをする修也。
「他にないかな」
と、すぐに紫織は席を立って、また本棚の方へ行ってあれこれ眺めている。
修也は、もう一度その郷土史を最初から捲ってみたが、それらしい記事や写真を発見することはできなかった。
そして、
「駄目か~。」
結局昼前まで、あれこれと資料を渉猟しつつ、3時間ほど格闘したが、手がかりになるものは見つけられなかった。
「ねえ。気を取り直して、ご飯でも食べない?」
と紫織は修也を誘った。
そして、二人は高校時代によく行った喫茶店に行くことにした。
図書館を出ると、秋の陽が燦々と射しており、空気は澄み切ってキラキラと輝いているようだった。
行きつけのその店までは、歩いてでも行ける距離だったので、修也は自転車を図書館の駐輪場に置いたまま、二人で歩くことにした。
店に入ると、運良く空いていた「いつもの」席に陣取ると、
「久し振りだね。」
「懐かしいね。」
そんな言葉を連発しつつ二人は、ついこの間のことなのに何故か「懐かしい」高校時代の話に花を咲かせながら、久し振りのランチを楽しんだ。
そして、アフターの珈琲をすすりながら、紫織は笑顔で言った。
「もう一度図書館に行ってみない?」
「うん。元気も出てきたし。」
「でも、もう探せる所は探しちゃったかも知れないわね…。」
修也は少し間を置いて言った。
「図書館ってのは、オープンになっている所にあるのが全部の本じゃないんだよね。大抵、どこかに大きな書庫を持っていて、適当に入れ替えをしていることが多いんだ。
それに、普段はあまり利用されない貴重な資料は書庫に入ったままの所が殆どだと思う。」
「じゃあ、司書の方に事情を話したら見せて貰えるかな?」
「分からないけど、聞いてみる価値はあるかも知れないね。」
「ようし。」
休憩の後、二人はまた息を吹き返した。修也は何だかんだといいながら、こうして紫織と一緒の時を過ごせることを嬉しく感じていた。
そして、また修也はぼんやりと思うのだった。
…どうやら、自分たちの先祖が恋愛関係にあったのは事実だったようだけど、
それはそれとして、こんな自分たちの結びつきというものも、何かの「縁」なのだろうか…。
そして自分達は…。
と、
「早くー。」
顔を上げると、後ろ向きに歩きながら笑顔を投げてくる紫織がいる。
修也は、「うん。」と言いながら、
「今は、そんなことどうでもいいんだ。」と、余計な思いを振り払うように駆け出すのだった。
【2】
気持ちをリフレッシュして再び図書館の門をくぐった二人は、今度はカウンタの所にいる司書に尋ねてみることにした。
事情は、修也が説明し、紫織がフォローするという形で苦しい説明をした。
司書の女性も最初はきょとんとしていたが、次第に情況を理解してくれたようで、何とか目的は伝わったようだった。
しかし…、「なるほど」という言葉の後にこう告げられたのだった。
「郷土史的なものは、全て3階のギャラリーに出してあるので、書庫にはもうそれ以上資料的なものはないんですよ。」
それを聞いて落胆する二人だったが、先程からのやりとりを聞いていたカウンタの後ろの初老の男性が、
「4階に言ってみると、ひょっとしたら何かあるかもしれないよ。」
名札を見ると、その男性は、どうやら図書館長であるようだった。
少し白髪交じりであったが、背筋がピンとした、なかなか素敵な紳士であった。
それを受け、再び司書の女性が、にこやかに口を開いた。
「そうですね。4階にはこの街や図書館にまつわる資料が展示してあるんですが、何でしたら、行ってみられたら…。」
高校時代に、時々勉強していたことのあるこの図書館であったが、未だ4階には一度も足を踏み入れたことのない二人であった。
大体、勉強するのは自習机のある2階か3階だったからなのだが、不思議と4階の存在などは気にもしなかったのである。
そして、改めて階段を上り始めた二人であった。
実際3階までは見慣れた風景だったが、そこから4階へは通路自体が脇へそれている感じになっており、そこから始まる階段は少し幅が狭くなっていた。しかも、4階に上がってみると、そこはとても狭いフロアであることが分かった。
よく考えれば、この建物は4階の部分だけが、3階までの半分ぐらいしかないのだった。
そしてその小さなフロアには、ガラスケースだとか、額に入った写真だとかが所狭しと並べてあった。
まず、一番に「何かありそうだ。」という予感がし、二人は顔を見合わせて頷き有った。
「じゃあ、始めよっか。」と、二人別々の方向から、手がかりを探し始めた。
そして、数十分が経った。
ガラスケースの中には古い文房具だとか、この街の名士の手紙だとか、そういったものがあまり整理もされずにごたごたと並べてあるだけで、二人とも特に手がかりになりそうなものは見つけられないでいた。
壁に掛けてある写真も眺めたが、その中には、この街の昔の行事やら街並みやらが撮られているものが数点あった。しかし、残念ながらあの絵にあるような「塔」の写真は見付けられなかった。
「どうやら、ハズレだね。」
と、修也。紫織も「そうね。」と小さく言いながら、何となく小さな明かりとりの窓の所に二人ともやってきた。
そこからは外の景色が見えた。
それは、今まで見たことのない高さ、角度からの景色であり、二人ともそこから見える新鮮な街並みの「絵」に暫し見入っていた。
遠くには、ちょうど色づき始めた公孫樹の大木が秋色に輝いている。
こうして見ても、まだまだあちこちに古い建物が残っている美しい街。そのことは確認できるのであるが、あの「塔」のある屋敷は何処にもなさそうであった。
そして、再び二人は何か見つからないものかと、ガラスケースを覗き込んだり、壁の写真や絵を眺めていた。
と、修也はふと顔を上げると、紫織と目があった。
紫織は、
「他に…なにか手がかりになるものはないかしらね。」
と、修也を励ますようなトーンで言った。
「うーん。」
修也も、そんな紫織の言葉に応えたいのは山々であったが、そこは言葉に窮してしまった。
そして、また二人はとぼとぼと狭い階段を降りるのだった。
【3】
調べものが思うように捗らず、少々落胆の色を隠せないまま3階のフロアに行った二人は、そこにあったオープンスペースの端のソファーに何となく腰掛けた。
そこで、修也はカバンから、先程の瓶と手紙を出し、二人でもう一度読み直した。
「…素敵ね。…でも、哀しい。」
ぽつりと紫織。
「そうだね。」
と、修也。
そこで、また暫しの沈黙があったが、それを破ったのは紫織の声だった。
「修也さあ…、あの小説の続き…。やっぱりハッピーエンドにして欲しいな…。」
「そうだね…。」
その時、紫織の言いたかったこと。それは、彼にはその言葉以上に伝わってきた。
しかし、そう考えながらも、修也は苦しい気分だった。
というのも、この手紙を読んでしまってからは、どうもこの「お話」の結末は「悲恋」のイメージであり、何やらそこから脱却できそうにない感じが、自分たちを包んでいるのを否めなかったのである。
そして、修也も「そうだね」と言ったその後の言葉を続けられずに黙っていた。すると、そんな修也に気を遣ったのか、その「空気」を振り払うように、紫織は話題を換えた。
「…後期も、来週から本格的に始まっちゃうでしょ。」
「うん。オレんトコはもう実際は始まってるんだけど…。」
「お互いに1年生からサボってちゃ駄目だよね。」
「まあね。」
そこまで言うと、紫織は視線を外に移した。図書館の窓からは、もう殆ど葉を落としてしまった欅の大木が淋しそうに立っているのが見える。
「…私は、作品を創るのが一番だから、取りあえずもう少しスケッチをしてから帰ろうと思うんだけど。」
「そう…。オレは…」
その次の言葉…「明後日帰ろうかと思う。」を、続けようとして、修也はゴクリとそれを呑み込んだ。
その瞬間、修也はこれまで感じたことのないほどに強く、紫織と離れることを淋しく思う自分を感じていた。
ずっと親しくはしてきたけれど…、紫織を、これほどまでに愛おしいと思ったことはなかった。
…修也はそんな自分の感情に戸惑っていた。
と、少しどぎまぎしてしまった修也だったが、それでも何とかその思いをクールな表情の下に押し込み、
「どうしようかな…。」と適当にごまかし、また暫く当たり障りのない話をしていた。
周囲の高等学校は中間試験中なのか、まだ早い時間なのに、真面目そうな高校生が数人、誰もいなかったフロアーに上がってきた。
修也と紫織のすぐ側のテーブルにも、眼鏡をかけた真面目そうな男子高校生が座って勉強を始めた。
修也は、そのままここで話を続けるのは、ちょっとマズイだろうと思って、
「取りあえず…出よっか…」
と、腰を上げた。
そして二人は、あまり元気の出ないまま、また階段を降り、一階のカウンタに立ち寄った。
もうそのまま外へ出たい気分ではあったが、最低限のマナーは守らなければならないということは良く分かっていた。
カウンタの所まで行くと、修也はぺこりと頭を下げて、
「ありがとうございました。」
と言うと、先程の司書の女性が
「捜し物、見つかりました?」
と、笑顔を向けてくれた。
が、その明るさにちょっと退いてしまい、返事に窮してしまった修也だった。すると、後ろから紫織が「はい。とても参考になりました。」と笑顔で応える。
「こいつ、大人だな…。」と思いつつ、その後司書と紫織の間で交わされていた会話をぼんやりと聞きながら、ふと修也はカウンタの奥の壁に掛かっている写真のようなものを目にとめた。
白黒写真ではあったが、比較的大きなそれは、この図書館を外から撮影したものであった。
見慣れたものと言えばそうであるが、最近では周囲に色々な建物ができており、いつも見ている角度と違う所から撮られたその写真は、結構新鮮なものとして彼の眼に映ったのだった。
そう言えば、この図書館もかなり古く、煉瓦造りが基本になっている建物である。文化財級とまではいかないらしいが、かなり美しい建物として、この街のシンボルとして良く知られたものなのである。
見れば、先程自分達が先程までいた4階の形もよく分かるような構図で撮られたものある。
3階までは普通に横長のこの建物も、4階の部分はそこだけ上に載せたような形になっている。
…しかし、それは普通の洋風建築の最上階と変わらず、どう見ても「塔」とは違っていた。
と、修也の視線はふとその写真の下にあるプレートに移った。
…そこには小さな字で何か書いてあった。遠目だったのでよく見えないのだが、そこに、何か文字があるように見えたので、気になった修也は、
「スミマセン。ちょっとあの写真を見てもいいですか」
と、声のトーンを上げた。いつの間にか彼ははカウンタに両手をついて身を乗り出していた。
「どうぞ。そこからお入り下さい」
と、司書の女性はカウンタとフロアをつなぐテーブルの切れた所を掌で指し示してくれた。
修也は「失礼します」と、足早にその写真の下に行き、プレートを見上げた。
そして…、
「紫織、ちょっと。」
その声が明らかに「何かを見つけた」、という風であることに気付いた紫織は、司書の女性が眼で「どうぞ」と言っているのを察知して、頭を下げるとカウンタのこちら側にいる修也の後ろに立った。
修也は「あれ、見て…。」
紫織は、最初何のことか判らなかったが、そこにある言葉の意味をすぐに察知し、思わず修也の肩に手をかけていた。
そこにはこう書かれていた。
「建築当初の図書館
一部を旧二階堂家より移築、1908年末竣工」
【4】
「ねえ、ねえ。」と、紫織が修也をつつく。
「うん…。判ってる。」
と修也。
二人は昂奮していた。
「1908年」…その年号は、先程調べた郷土史にあった地震の翌年に間違いなかった。
「じゃあ…。ここなんだ。」
修也はぐるりと天井を見まわしながら呟き、すぐさま司書の女性に言った。
「この…、図書館の建築当初の記録ってありませんか?」
そして…。
さすがに当の図書館の資料であるから、それはすぐに出てきた。司書の女性も快く協力してくれた。
そこからは詳しい記述こそ見つけることはできなかったが、資料の中に決定的な一文を、修也と紫織は発見していた。
「地震により、崩れた二階堂家の屋敷は、再建の目途が立たなかった為、市が未だ使用できる煉瓦などの資材を買い取り、本図書館の建築資材とした。特に尖塔の部分は状態が良く、良質の薄色煉瓦が多く用いられており、それは本館4階に使用することと成った。」
修也は、今更ながらに、自分の家にあった絵の塔が「煉瓦にしては白っぽい…映画に出てくる南仏の建物みたいだ」と思ったことに納得していた。
そして、この図書館の最上階が、他の階と違って白っぽい色をしていることについても…。
思えば、自分たちは…、探していたその当の場所に、つい先程までいたのだった。
そして、よくよく探せば、目的の煉瓦がすぐそばにあったかも知れないという衝撃的な事実がそこに示されていたのだ。
資料からは、もうそれ以上のことは判りそうになかった。
ただ、それで十分だった。
「どうもありがとうございました。」
と修也。
そして、すぐに続けた。
「あの…。もう一度、4階に上がっても良いですか?」
「どうぞどうぞ。あそこは、いつも閲覧しているので、閉館まで大丈夫ですよ。」
と、優しそうな笑顔が帰ってきた。
二人は何度も何度も頭を下げつつ、再び4階へと向かった。
足取りは軽かった。
修也は階段を一コ飛ばしでどんどんと上って行く。紫織は、「待ってよォ」と言いながら必死で後をついていった。
再び4階まで上がった二人は、ぐるりと周囲を見まわした。4階のフロアは、3階までとは随分と雰囲気が違っていた。というのも、3階までは内部を改装して、冷暖房なども完備してあるが、この4階だけは、そういう設備はなく、ちょっと広い屋根裏部屋という感じだったのである。
ただ、煉瓦作りとは言え、色々と壁には掲示物などもあるし、所々は本棚やケースが壁にぴったりとつけてある。
「とにかく、見えるところだけでも探しましょうよ。時間はまだあるわ。」
そう言うか言わないかのうちに、紫織はもう壁の方を向いて煉瓦を一つ一つチェックしはじめた。
二人は、食い入るような視線で壁を見つめ、探索が始まった。
小一時間が経過した。
が、なかなか期待通りそれらしい煉瓦は見あたらなかった。
それは無理もないことだった。
バラバラになった煉瓦は、それがどこに行ってしまっているかは皆目見当がつかない。
『§』という刻印のある煉瓦は壁面の外にあるのかも知れないし、ひょっとしたら掲示物か何かの裏に入ってしまっているのかも知れなかった。最悪は、その煉瓦自体が全く眼に触れない部分に使われてしまっている…、そもそもここに移築される資材に選ばれなかったのかも知れない…。
そう考えてしまうと、少し諦めの気分さえもが頭の中で首を擡げ始めようとするのだった。
「やっぱりダメか~。」
と、つい情けない声を出した修也だったが、しかし、紫織は諦めていなかった。
「修也君の家の絵にあったサイン、あれって…確か。」
「窓枠の横の辺りだった…。」
でも、今いる図書館の小さな部屋には窓は一つしかなく、その周りは当然既に確認していた。
「窓は、オレ、一番に調べたよ、ダメもとでね。」
「分かってる、…でも…。」
「でも?」
紫織は窓を見つめながら言った。
「うん。でもね、あの窓の形…」
そこまで聞いて、修也の頭の中でも、あの「絵」に描かれた尖塔の小窓の形が甦った。それは紫織の懐いているイメージと重なった。
「そうか。」
修也の家にあった尖塔の絵、『§』の刻印があった部分は窓枠の横。
煉瓦はバラバラになったというイメージが先行していたが、あの窓枠の形。
それは、この部屋にある窓の形と全く同じであることに、漸く修也は思い至ったのだ。
「見落としているのかも知れない。」
二人は小走りに窓の側まで行った。
そして、丹念にもう一度その周りの煉瓦を一つ一つ見た。
…が、やはり、そこに『§』の刻印は発見できなかった。ひょっとしたら、削れたり摩耗したりして文字が見えにくくなっているのかも知れないと、かなり丁寧に窓枠の周りの煉瓦を全て丹念に見たが、それでも痕跡すら見付けることができなかった。
「やっぱりだめかァ。この窓枠の形は復元が難しいだろうから、そのまま移築したんじゃないかって一瞬期待したんだけど…。
オレの曾おばあちゃん、印のある煉瓦を見つけて何かを埋め込んだみたいなこと書いてたけど、まさか、外側じゃ無理だものな。」
その修也の言葉を聞いていた紫織は、ちょっと目を伏せて考えていたけれど、
修也の言葉に反応し、ふと顔を上げると、目を輝かせて答えた。
「そうよ…修也、わかったわ。」
【5】
紫織の「そうよ」という言葉が一体自分の言葉の何をさしているのか、そして何が「わかった」のか。修也にはそれが全く理解出来ず、彼は思わず「何が?」とせっついた。
「『外側』なのよ。」
「え?『外側』に…。でも…、どういうこと?」
修也の言葉に、紫織は焦れったそうに続けた。
「あのね、二階堂家にあった尖塔の煉瓦は意図的に内側に向けられていたかも知れないわ。中から気付いて貰えなきゃ意味がないもの。
…でも、ここに移築される時は、内側も外側も関係ないわよね。」
そこで、やっと修也にも理解できたのだった。
窓の形が同じ。…ということは、この壁面は無事であったと考えられた。それが表側と裏側がそっくりひっくり返ったような形で移築された…そう紫織は予想したのだった。
「そうか。…じゃあ。」
「そうよ、ここの窓の外側よ。きっとそうよ。」
しかし、いざ外側を見ようとしても、その窓はガラスが枠ごとがっちりと嵌め込まれ、その上接着までしてある。普通に開けることはどう考えても不可能だった。
「チクショウ、何とかならないかなあ。」
ガラス面に頬をぴったり付けてみても、外側の煉瓦の表面までは確認できず、あと少しの所で、「もはやこれまでか…」ということになってしまった。
しかし、紫織はまだ諦めていなかった。
すぐに4階のフロアをもう一度ぐるりと見渡したあと、「ちょっと待ってて」と言って外へ飛び出して行った。
そして、一度階段を降りていったが、暫くすると駆け足で戻ってきた。
彼女の顔は少し紅潮して、息が弾んでいた。
「修也、何とかなりそうよ。」
「え?」
「ちょうど、ここへ上がってくる途中の踊り場にね…。窓があって、そこから…外へ出られそうなのよ。」
「え、マジで?」
「ほら、ちょうどこの下に出っ張りがあるでしょ」
紫織の指さす方を見れば、確かに窓枠の下に50センチほどの出っ張りがある。出っ張りというか、下の階の屋上部と言っても良い感じであったが、この4階部分だけが少し小さい為、ちょうど良い具合にそれが足場になっているのだった。
修也はそこで、一呼吸ついて、
「で、オレが行くの?」
「当たり前じゃない。これで私に行けるワケないでしょ?」
紫織はそう言って、お嬢様がやるようにスカートの端を持ち上げて微笑んだ。その顔は笑ってはいたが、それは修也に有無を言わせない調子であった。
そしてその直後、修也は紫織に「ドン」と背中を強く叩かれて、恐る恐る踊り場まで降りて行くのだった。
その窓は、踊り場から見上げると少し高いところにはあったが、ここは流石に古い作りの建物であり、窓の手前にちょうど台のようになったスペースがある。
そして、そのスペースは構造上階段の途中まで続いているので、階段の中程からちょっと足をかけると簡単に渡ることができた。そして、そこに出れば案外簡単に窓の側まで行けそうであった。
ズボンがホコリまみれになるのを覚悟でそろりそろりと修也は窓まで渡った。
そこには、当分開けてないだろうなと思われる錆びた鍵がかかっていたが、修也が指先に力を込めて手前に引っ張ると、それは「ギギ」と鈍い音とともに倒れた。
そして、窓を横に引くと、これまた「ガガガガ」というような音がして、何とか人が一人出られそうなだけのスペースが確保できた。
かなり大きな音が階段の吹き抜けに響いたのでので、誰か来るのではないかと冷や汗をかいた修也だったが、そこは普段から誰もやってこないようなフロアであるし、3階の出入り口からはちょうど死角になっている。
それに、そこに紫織が立って見張りをしてくれていた。
思わず紫織の方を見た彼だったが、彼女は小さく手の指で丸を作って目配せをしてくれた。何とか大丈夫そうだった。
そして、何とか修也は外へ出ることに成功した。
外に出てみると、3階とは言え案外高かった。古い建物であるから、学校の校舎で言うと4階ぐらいはあるような感じがした。
が、先程窓から見た時よりも、実際には4階と3階のギャップの部分は案外広く、難なく修也は飾り窓まで辿り着いた。
そこは図書館の東側で、近くに道路はあるものの、ちょうど街路樹が茂っている側なので、外からは見えにくくなっていた。とは言え、近くのビルからは丸見えだった。
ビルの中にはこちらに背を向けて仕事をしている人影がちらちらと見えたが、まさか通報されたりはしないだろうと、修也は高をくくることにした。
飾り窓まで行くと、いきなり向こうから紫織が顔を出したので、修也は思わず驚いてのけぞった。
「びっくりするじゃないか」と、口パクで志穂を非難すると、紫織も「ゴ・メ・ン」と口を動かし、両手を額の前に合わせて謝ってくる。
「とにかく急がなきゃ」と、修也はすぐに目を凝らして煉瓦の表面を見つめた。
窓の向こうからは紫織が心配そうな目線を寄越している。
そして。
『§』
そこには、確かにそれが刻まれた煉瓦があった。
修也は思わずガッツポーズをし、すぐさま紫織にVサインと笑顔を送った。そして、その刻印のある所を大きく指さして示した。
やはり、それはちょうどあの絵と左右も反対の位置にあった。
…飾り窓の形を活かすために、屋敷の壁面がそのまま移築されたらしいそれは、やはり工事の際、表裏が何らかの理由で反対になったようだった…それはまさに紫織が予想した通りだった。
紫織は、「おおい」と呼ぶような手の形を、そのまま窓に付けて、籠もった声で「そこに、何か無い?」と訊ねてきた。
修也は、彼女の息で少し白く曇ったガラスに右の掌を向け「ちょっと待って」のサインを出した。
そして、もう一度その煉瓦を丹念に調べた。
かなり古くなって、表面は煤けたようになっているが、「§」の刻印があるちょうど真下辺りに薄い長四角のような傷がある。よく見れば、そこだけが少し凹んだようになっている。
修也は何かないかとポケットを探ると、ちょうどキーホルダーがあった。自転車の鍵だ。
そして、それの先っぽの尖った所で煉瓦の中程の凹んだところを擦ってみた。どうやらそこは蝋で固められているようであり、ぼろぼろと白い屑のようなものが出てくる。
紫織は窓を爪の先でつついて「何かあったの」と中から声を掛けてくる。
「ちょっと待って。」
修也は夢中で、その蝋を削り出していた。
その穴は、縦が7、8ミリ程で、幅が3センチほどの小さなものだったが、少し彫ると、鍵の先に何かが当たる感じがした。そして、横に出来た小さな隙間から鍵先を差し込むと、比較的大きな蝋の塊がごっそりと出てきた。
「やった。」
と修也は頭を上げようとしたが、その瞬間、
「ヤベ」
彼はすぐに首を引っ込めて体をかがめた。
窓際には紫織の姿がなく、彼女の姿は少し離れた所に見出せたが、何と紫織の側には司書の女性が立っているではないか。
…しかし、運良く二人ともこちらには背中を向けていた。
そして、それから数分間。
修也は心臓をバクバクさせながら、そこに張り付いた状態で息を殺していた。
【6】
「コツコツ」
暫くすると窓をツメで突く音がした。しゃがんだままの姿勢で、恐る恐る見上げた修也であったが、その視線の先には笑顔の紫織がいた。
紫織は窮地を何とか上手く切り抜けてくれたようだった。
修也はまた、恐る恐る壁をつたい、先程出てきた窓から素速く中へ滑り込んだ。そして、なるべく音がしないように再び錠を下ろして踊り場に降り立った。
「大丈夫だった?」
修也の言葉に、紫織は安堵の表情を浮かべながら、
「うん、危なかったけど、上手く誤魔化せたわ…。
『男の方は』って訊かれちゃったけど、『今、トイレです。』って言うと信じてくれたし。」
「そうかァ…。」
と、そこでやっと修也は胸をなで下ろすことができた。が、ふと見ると、体中が真っ白に汚れていることに気付いた。
「あらら」
と、修也はパタパタとジーンズのおしりや腰の辺りをはたいていると、横から紫織も背中や肩を手で払ってくれる。
「クモの巣も付いちゃってるわね。」
紫織は、修也の襟足あたりに絡みついているクモの巣まで取ってくれたが、修也は紫織の手の感触を感じながらてちょっぴりドキドキしていた。すると、紫織は、そうしながら
「で、どうだったの? 煉瓦はあったんでしょ?」
肝心な所の話がまだだった。修也はすぐに答えた。
「うん、『§』のマークは見つけた。予想通り、あの絵とは裏返しの位置にあったよ。」
「そう、それで何か『埋まって』なかったの?」
「小さな穴みたいなものがあって、鍵で削ってみたんだけど、蝋が塗り込めてあっただけだった。」
「そう? ちゃんと奥まで見たの?」
「もちろんさ、出来てしまった煉瓦は凄く堅いから、女の人の手で削って穴を開けるって大変だったんじゃないかな。
それほど深い穴じゃなかった…。」
「そう…。」
「結局、何か入れようとしてできなかったのか、それとも後から思い直して取り出したのか…。それは分からないけど…。」
「残念ね…。」
そう言う紫織の表情は、本当に残念そうであった。そんな彼女の表情は、それまであまり修也自身が目にしたことのないものであった。
修也はそんな紫織を見ながら、「第一志望の美大に落ちた時もあんなしょげた顔はしてなかったのにな…」と思いつつ、ふと何かを思い出そうとしていた。
「ま、自分の力ではどうしようもないことだから、あんながっかりしちゃったのかな…。やはり、自分の肉親に関わるロマンスだからかな…。」
「そろそろ、行かない?」
修也の考えは、その紫織の言葉で遮断されてしまった。
当然、もうそれ以上図書館にいる意味は見出すこともできず、荷物を抱えると二人は階段を降りて行った。
「ありがとうございました。」
と、カウンタの所で声を掛ける。と、お辞儀をする司書の女性の向こうから、館長さんが「あ、君達ちょっと」と、声を掛けてきた。
「はい?」と振り返ると、館長さんはカウンタのところまで来て、
「さっき、変な通報があったんだけど、君達上のほうで何か見なかったかね?」
「え?」と言いながら、修也は心の中で再び「ヤベぇ」と叫んでいた。
「いやね、何やら『図書館の上の方の窓の下に誰かがいるように見える』って、電話があってね。悪戯かなぁ…?」
「私たち、ずっと4階にいましたけど、何も気付きませんでしたよ。窓際で、二人で景色を見てたりはしましたが…。 …ね、修也君。」
「あ、ああ…。」
と、言いながら修也は生唾を呑み込んでいた。
「それにしても、表情一つ変えない紫織って大胆だ…」と思いながら、修也は横目で館長さんの表情を窺っていた。
が、幸い館長さんはそれ以上追及しようとはせず、
「そうかい。ありがとう。」と、表情をまた和らげて事務室の方へと入っていった。
そして図書館を出て、角を曲がった瞬間、二人して、
「ふーっ。危なかったァ~。」
思わず声が重なってしまった二人だった。
そしてその直後、思わず顔を見合わせ、「ハハハハハ」と、今度は笑い声が重なるのだった。
「…ま、悪いことはしてないよね。」
と紫織。
「まあね。でも、暫く図書館には行けないな…。」
と修也。
「でも、イイじゃない。いちおう目的は達成したわ。」
「そうだね。オレも『§』の印を見つけた時は感動したよ。」
「私も見たかったわ~。」
「だろ、だからちゃんと、写メ撮っといたから。」
「ホント~?、修也君やるじゃない。」
紫織は顔を輝かせた。
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