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こくごの先生の部屋
プリズム(3)
【4st・ショット】2007.7.26
「カラン・カラン」
木製の扉に付けられた鐘が鳴り、グリーンのポロシャツにジーンズの麻衣の姿が現れた。彼女はきょろきょろと店内を見まわしていた。
そして、窓際の席に、待ち合わせの人物を認めると、ぺこりと頭を下げ微笑んだ。
少し髪が伸びたけれど、高校時代と殆ど変わらない笑顔が近づいて、改めてテーブルの所で頭を下げた。
「先生お久しぶりです。」
「そうね。ご無沙汰だわ。来海さんも元気そうね。
…でも、ごめんね、急に呼び出しちゃったりして。」
それに答える間も与えず、
「いらっしゃいませ。何にいたします?」
麻衣の横にすぐに注文を取りに来た店員が立っていた。
彼女は、ワンテンポ置くと、
「じゃあ、アイスコーヒーをお願いします」
と告げ、額の汗をハンカチで拭った。
「ここ、涼しいですね。外は酷く暑くって。」
「そうね。私もやっと汗が引いたところかな。」
「もう、夏休み?」
「はい。ウチは、前期試験をやっちゃってから夏休みなんで、大学としては少し遅めの夏休みスタートって感じなんですよ。」
「そう。」
「先生、今はどうされてるんですか。」
「うん。この前まで、隣町の坂下高校で産休代員でやってたんだけど、それも終わってね。今は採用試験の勉強に専念してるところなの。
でも、なかなか難しいから、今年もダメだったら、いっそ英語の修行にまた留学しちゃおうかなって。」
「そうなんですか…。で、坂下に勤めてたって…、ちょっと大変じゃなかったですか?」
「あ、知ってる? うん。結構根性いるわよね。でも、実際に教員になったら、ウチみたいに良い学校ばかりじゃなくって、ああいう学校も経験することになるんだから、やんちゃな連中に、負けてちゃいられないわ。。」
そういって、小さく力こぶを出すようなポーズを見せる先生であった。
が、麻衣の目にはどことなく窶れたような彼女が映っていた。
「坂下高校」というのは、県内でも悪い意味でよく話題になる教育困難校で、暴力事件などで、新聞紙上を賑わせる「有名校」なのであった。
「凄い苦労があったんじゃないかな…」麻衣はちょっと先生を気の毒に思いながらも、相変わらずの可愛らしい笑顔にほっとするのだった。
「ところで、先生。『お願い』って何ですか。」
先生はその問いかけに対して、すぐには答えず、ストローで半分ぐらいになったアイスティを少し飲んで間を置いた。そして、ゆっくりと、口を開いた。
「あなた、まだカメラやってるの?」
麻衣はちょっと肩すかしをくったような感じを受けたが、すぐに答えた。
「はい。そんなに本格的じゃないですが、趣味で撮ってます。」
「そう、良かった。…でね…つまらないことなんだけど。」
先生は少し遠くを見るような、ちょっと淋しげな表情を浮かべたが、すぐにそれを振り払うように笑顔で、また口を開いた。
「あなたにお願いするのが一番かなって…。あのね、撮って欲しい写真があるの。」
「はい。私にできることなら。」
そこで、ちょうど、麻衣の頼んだアイスコーヒーがテーブルに届けられ、麻衣はシロップとミルクを少しずつ入れた。その様子を晴菜は優しい瞳で見つめていた。
そして、麻衣が一口それを飲んだところで、にっこりと微笑んで話を続けた。
「じゃあ…、聞いてくれる?」
2007.7.26
【スナップ・ショット 2】2006.10.12
風はすっかり夏の気配を失い、どことなく肌寒さすら感じさせていた。
木々の葉はそれぞれに色を変え、辺りはもう秋の気配を漂わせていた。
「ふう。」
苦しかった。ここまで来ることがこんなにも苦しいなんて、思いもしなかった。 そう思うと、また背中を冷たい汗がしっとりと濡らすのだった。
遠目に学校を望むと、グラウンドにまとまった人影が見える。
多分、授業でサッカーでもしているのだろう…、ほんの点ほどではあるが、確かに動いているのが分かる。
暫くぼんやりとそこからの風景を眺めていたが、徐に鞄からハンカチに包まれたものを取り出すと、すっくと立ち上がり、目の前の柱に対峙した。
休憩所のベンチ。小さな屋根つきのそこであるが、腰を掛けるとちょうど学校の方向にあたる、その柱。
その木製の柱に…。
ハンカチにくるまれていた…彫刻刀で何かを彫りつけた。
罪悪感を感じながらも、何とかそれを彫りつけると、再び立ち上がって風に吹かれるのだった。
そして、少し恨めしそうに秋の青空を振り仰いだ。
【5st・ショット】2009.2.26
「あと少し…。あと少し…」
知らない間に、天蓋を包んでいた鉛色の雲は去ろうとしていた。西の山の上空には鮮やかな空色がくっきりと輝いていた。
時刻は11時だった。
時間の約束まではしなかったけれど、この時間なら、先に来てもう帰ったなんてことはないだろう。足跡だって、山頂にむかっているものだけだし。
柊哉は真っ白な雪に、次第に明るくなっている反射を眩しく思いながら、その上に確かに付けられている、少し小さ目の足跡を追っていた。
足先は冷たいものの、体の芯が温かくなり、もう胸元から湯気が立ってきそうなほどになっていた。ジャンパーはとっくに脱ぎ、肩にかけていた。
胸元に時折入ってくる冷たい空気が心地よかった。
そして…、
休憩所の向こうに、確かに女性のものと思しき人影を認め、柊哉の胸は激しく鼓動を打っていた。それを何とか抑えながら、柊哉は少し溶けかけたコンクリートパネルの上の雪を踏みしめて近づいていった。
赤のフード付きジャンパーを着たその女性は確かにカメラを麓に向けて構えていた。
あと20メートルほどのところで、その人は振り向いた。
「先生…」
と、もう少しのところで柊哉は声を掛けるところだった。
しかし、そこで振り向いたのは中川先生ではなかった。
それは、髪型こそ変わってはいたが、紛れもない、クラスメートの麻衣であった。
「柊哉…君…?」
「麻衣…だよね。」
二人は、お互いに自分たちが置かれている情況が一体何のことかつかめずに、それだけ言うと、その場で暫く言葉を失っていた。
「どうして、ここに…。」
「柊哉君こそ…。」
二人は輝く雪景色の中に立ち尽くしていた。
2009.2.26
【6st・ショット】2009.3.27
数日前に開花宣言が出て、昨日は、シャツ一枚でも良かったほどに春めいていた。 しかし、一転して今日は冷え込んでいた。
「花冷え」というにはよほど寒かった。
それは、柊哉の心のせいだけではなさそうであった。
上にジャンパーを着てはいるものの、酷く寒かった。
目の前を行く女性の足取りは、そんな訳はないはずだけど、妙に早く感じられた。柊哉はこの情況がまだ信じられずに、呆然と歩いていた。
そしてその横を、少し離れて麻衣がとぼとぼと歩いていた。麻衣の手には大事そうに、パネルが抱かれていた。
その写真には、あの山頂からの雪景色が美しく写っていた。
「この間、一周忌の法要を終えたばかりなんですよ。」
後ろ姿で、表情は見えなかったが、静かに落ち着いた口調で、その女性は告げた。
「そうですか…。」としか言えず、柊哉はまた黙って歩き続けた。
そして、少しなだらかになった坂の途中に、まだ新しい墓石が見えてきた。認めたくはなかったが、それに違いはなかった。
花立てに活けられた花はやや色褪せていたが、その様子からはついこの間法要が営まれたことを窺うことができた。
「中川家之墓」とその墓石にはくっきりと刻まれていた。
「昨年の冬、暖冬だったでしょ。あの子、『雪は降らないの?』ってね。
病院のベッドから空を眺めてそればっかり尋ねてたわ。」
目を細めながら、先生の母はその雪景色の写真を見つめていた。
麻衣は墓前でパネルを抱きかかえて立ち尽くしていた。
そこには、きっと先生が見たであろう数年前と同じ、鮮やかな雪景色が映し出されていた。
その景色の中央やや左には、学校が写っていた。
「先生。約束の…写真です。」
麻衣は涙声でそう言いながら、墓前にそのパネルを静かに置いた。
柊哉は言葉を失ったまま、その様子を見つめていた。
先程、先生の実家で見せてもらった遺影…あの先生の笑顔、あれがもうこの世に存在しないということが、未だ全く実感として湧いていなかった。
しかも、それはもう1年以上の前の出来事だというのだ。
「晴菜…。生徒さんが来てくれたわよ。」
先生の母は墓石に話しかけながら、手際よく萎れた花を抜き取って、水を供えた。 柊哉は先生の母にすすめられるまま、線香を立てて、静かに手を合わせた。
凄く寒かった。
咲きかけた桜の花が凍えてしまうほど、寒かった。
あの日、雪の山頂で麻衣と逢った柊哉は、写真ができあがったら二人で先生の家を訪ねてみようという話になった。
麻衣は先生に依頼されて、写真を撮りに来た…と言い、先生はその時の話では、撮った写真は郵送してくれるように頼んだということだった。
が、柊哉は何となく、その申し出に腑に落ちないものを感じたのだった。
先生は、きっと自分で来たかったに違いない。
何か、そこには理由がある筈だ。
ひょっとしたら、外国などのような、先生はすぐに来ることの出来ない場所にいるということも可能性としては充分にあった。
麻衣も、先生がそんなことを言っていたというので、そうかも知れないという気はした。
ただ、柊哉にとって、それは何となく薄暗い予感として彼に覆い被さったのである。
そこで、「どうせなら、一緒に先生に会いに行こう。」二人して写真を持って。
そんな話になったのだった。
写真が現像できて、二人の予定が合うのに、少し時間がかかってしまった。
二人が雪の中で再会してから1ヶ月が経っていた。
電話でアポを取ることを、柊哉は敢えてしなかった。
電話番号をどちらも知らないという事実もあったが、調べればすぐに分かるそれを、二人ともしないままだった。
麻衣にも何となく察知するものがあったのかも知れなかった。
住所を頼りに訪ねて来た二人に、先生のお母さんは、最初驚いたが、すぐに事情を判って下さり、色々と話を聞かせてくれた。
白血病だった。
先生は昨年の2月、25歳という短いの生涯を閉じていた。
つい半年前までは教壇に立っていたのが嘘のようなほど、倒れてからはあっという間だったということだった。
麻衣は思い出していた。「写真を撮って」とお願いされたあの時には、先生はもう自分が長くないことを知っていたのではないか…と。
できることなら、自分であの雪景色を写真に収めたかっただろう。そして、そこで柊哉と再会できれば…。
しかし、皮肉な事に、彼女はその場に来ることも、柊哉と再会することも、そして、その写真すら見ることもできないのだった。
麻衣は手を合わせながら溢れる涙を拭うこともできず、静かに啜り泣いていた。
柊哉は、自分の心を整理できないまま、過去の様々なシーンが壊れた映写機のように心の中で同じ映像を繰り返されているのを呆然と受け入れていた。
そして、そのままどの位時間が経ったのだろうか、柊哉にとっては永遠にも思えるような空虚な時間だった。
「あ、雪。」
その空間から、麻衣の声によって引き戻された柊哉が見たものは、空から舞い落ちる雪片であった。
最初は信じられなかった。
けれども、ほんの少しではあるけれど、確かに雪がひらひらと静かに舞い降りていた。
2009.3.27
【エピローグ】
「私、時々思うの…。」
「何を?」
「先生は、どうして私を選んだのかしらって…」
「…それは、写真部だったからだろ…」
「ううん。きっと…それだけじゃない。…写真部の同級生って他にも沢山いるもの。」
「そう…だよね。」
柊哉は、麻衣の言葉を噛みしめながら、慎重に言葉を選ぼうとしていた。
どこからか、鳥の囀りが聞こえていた。
「…先生、さ…。私がずっと柊哉君の事好きだってこと、知ってたんだ。」
「そう…なんだ。」
「2年の時、ちょっと噂があったりしたよね…。柊哉君と私…」
「あ、うん…。そうだね。」
「一度ね、部活の時に、私…先生とね、柊哉のこと、話したことがあるの。」
「…。」
「先生、柊哉のこと凄く褒めてたわ。」
「…でね。」
「で?」
「ううん。」
そこで、麻衣は言いかけた言葉を口元で抑えて暫く黙っていた。
麻衣の口にした「でね」の後に、どんな言葉が匿れているのか…。柊哉は、ぼんやりと考えていた。
あの時。二人して、何も知らないまま写真を持って先生を訪ねたあの日。
「先生の死」それは、あまりに突然のことであった。
あの、春の雪が降ったあの日の帰り際。
「もう一度ちゃんと二人でお墓参りをしよう。」と、そう約束をした柊哉と麻衣であった。
そして、ゴールデンウイークを利用して、帰省した二人は、再び先生の墓を訪れ、その足で、またあの山の上に来ていた。
新緑の向こうに、学校が見えていた。
爽やかな初夏の風が吹いていた。
「…柊哉って、先生のこと好きだったんじゃない?」
暫く間を置いてから、その直後の麻衣の言葉があまりの直球で、柊哉はたじろいでしまった。
そして、
「…べつに、好きとか…。そんなんじゃないよ…。先生、みんなに人気あったしさ、オレも…ちょっとぐらいは憧れてたけど…」
「そう? …私、柊哉君と先生の間に何かあるんじゃないかって思ってた。」
「…。」
麻衣は、ベンチに座っていた足を前にピンと揃えて出すと、膝小僧を両手で押さえながら、肩を窄めて言った。
「恥ずかしいけど…、卒業アルバムの、クラスページの、文化祭の記念写真さ…」
「あれ…が、…どうかした?」
「あれに写ってる、私…全然カメラ目線じゃなくって…。横向いてるの、知ってた?」
そう言うと、麻衣はちらりと柊哉の方へと視線を寄越した。
そして、続けた。
「…あれって…、柊哉の方…見てたのよ。」
「そうなんだ…。」
「あの時…、私、柊哉君の隣で写りたかったんだけど、何となく側に行けなくっ て…それで、先生が柊哉隣にすっと立ったのを見て、…ピンときたんだ…。
で…、凄く妬いちゃった…。」
「そ、…そう。」
柊哉は、そう言いながら、思わず右手の掌を静かにむすんでいた。
「でも…、正直言ってホッとしたの。そんな風に見えたのはその時だけだったから…。
…それから…特に何もなかったよね、お互いに…だけど。
もう、みんな受験勉強に突入しちゃったし…。」
「…うん。そうだね。」
そう言うと、柊哉は顔を上げた。
向こうの山の空の遙か向こう、青い空をバックに鮮やかな白い雲が湧き上がっている。梅雨入りもまだの5月には、まだ入道雲は早いかも知れないが、その夏はすぐそこまでやって来ていることが感じられた。
しかし、これから迎えようとする大学3年の夏…それは、自分にとって何だか人ごと以下のような実感しか湧いてこないのだった。
茫洋とした、未来…。でも、それでいて、過去…高校時代はもう遙か昔のことになったような気がして…、それでもまだ心の中に残っている、痛みにも似た感情…それには確かな手触りがあって…
柊哉は錯綜する思いを未だ整理できずにいた。
ただ、自分自身…今はそうしているしかないような気がしていた。
「先生、自分の病気のこと、いつ知ったのかなって…。」
麻衣がぽつりと言った。
「ひょっとしたら、もうあの頃には分かってたのかも知れないなって…。」
「『あの頃』って?」
「私たちを教えてた頃…。」
「どうして?」
「うーん。上手く言えないけど、女の勘…。」
「だとしたら…。」
柊哉は、先生の台詞を思い出していた。
「私たちには時間が必要かもしれないわね」
先生は、どんな思いで、自分にあの言葉をかけてくれたのだろう…。
柊哉は、まさか…と、その時到来した思いを打ち消そうとはしたが、それはとてもリアルなものとして彼の心に刺さっていた。
「私たちには時間が必要かもしれないわね」
確かに、あの写真撮影の時。
先生の手は確かに自分の手を強く握り締めた。それは、決して「先生」の手ではなかった。それは、確かに「恋人」のそれのようであった。
しかし、奇しくも麻衣が鋭く察知していたように、先生と自分のそんな「接点」はあの時だけだったのだ。
というよりも、逆に先生は秋口頃から急に冷たくなったような気がしたのだった。
自分が、卒業を前にして先生への想いを手紙にしたためたのも、そんな不完全燃焼している自分の気持ちを整理するのが目的の半分以上であったのだ。
「『時間』か…。」
柊哉は呟いた。
「先生の『時間』は停まってしまったんだ…。」
と、その時だった。
「私たちにも『時間』が必要かしら…。」
確かに、そう聞こえた、…ような気がした。
はっとして、横にいる麻衣の方を見たが、麻衣はいつの間に立ち上がって風に髪を靡かせていた。
柊哉はベンチに腰掛けたまま、麻衣の後ろ姿を見ていた…が、ふと視線を側に移すと、そこに何か目に留まるものがあった。
それは、そこの柱にあるものだった。
そこには、確かに「☆」のマークが彫りつけられていた。
「☆」などという星のマークなんてものは、実にありきたりで、何処にでもあるものであるが、そこに彫りつけられていたそれは、非常に特徴のあるものだった。
少し丸味を帯びたその星に、三つの「′」がついたそれ。
それは、中川先生のお得意のマークであった。
そして、それが意味するものを、柊哉は知っていた。
授業の時、とても大切なものがあると「これは大切だから、忘れないでね。」
そう言いながら、先生は必ずその星を黒板に書き込むのだった。
「忘れないでね。」
そこにある「☆」は、それを、柊哉に静かに語りかけていた。
先生は、一体何時、これをここに刻んだのだろう…。
柊哉は、そう思いながら、同時にそこのマークに見覚えがあり、きっと自分が見出したのと同じ意味をそこに見るであろう麻衣にそのことを告げようかと思った。
…けれど、その言葉を柊哉は呑み込んでしまった。
「もう、麻衣は気付いているのかもしれない。」
そんな気さえした。
そして、柊哉は、立ち上がると、麻衣の背中に向けて、言った。
「待ってて…くれる?」
と、それだけを告げた。
「ウン」
麻衣は後ろ向きのまま、こくりと頷いた。
麻衣は、柊哉の視線を痛いほど背中に感じながら、きっと柊哉は、まさに今そこに彫りつけられたサインに気付いたに違いない…そう察していた。
そして…、
麻衣は思い出していた…卒業アルバムの寄せ書きを。
…そこに記された中川先生の言葉を。
先生は、みんなで一言ずつ書いたアルバムの中の寄せ書きに、綺麗な文字で、「☆」のマークとともにこう記していた。
「忘れないよ。君達をいつまでも見守っています…。」
麻衣と柊哉は、それぞれに思いを巡らせていた。
けれど、結局二人がかわしたのは、
「待っててくれる?」
「うん」
ほんのそれだけだった。
…しかし、それは、全てを受け入れ、そして同時に全てを未来へ向けて解き放つ、二人だけのサイン交換だった。
「帰ろうか」
柊哉が、言い、麻衣が頷いて後をついて歩き始めた。
二人は無言で歩いていたが、ゆったりした坂道にさしかかると、どちらからともなく横に並んで歩いていた。
そして、どちらからともなく、手をつないでいた。
柊哉は、その温かく柔らかい麻衣の手を静かに、けれども強く握り締めていた。
けれども、その掌はどこか儚げで、そして冷たかった。
二人は無言で、何処までも続くかのように思われる坂道をゆっくりと、ゆっくりと歩いていった。
風は、もう初夏の薫りがしていた。
《了》
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