こくごの先生の部屋

こくごの先生の部屋

第3部~

『猫が見た空』



【第3部】



1 
 「あのね…。」
 「何?」
 「私…、調べたの。」
 「何を?」
 「この間、私…あの黒猫の絵『どこかで見たことがあるような気がする』って言ったでしょ。」
 「ああ…うん。」
 「あれ、ずっと気になっててね…。」

 鈴香が博物館に来た次の週は、サークルも休みだったので、お互い何となく連絡もとらずにいた。そして、今週になってちょっと大学に用事があって出向いた遼介だったが、そこでばったり鈴香と出逢ったのであった。
 鈴香も奨学金か何かの手続きで、学生課に用事があったらしく、折角だからと二人は学生会館に立ち寄って、ソファに腰掛けて話をしていた。

 「私…先週末にちょっと帰省したでしょ。あの時にちょっと聞いてみたのよ。」
 「猫の絵のこと?」
 「うん。」
 「で、何て?」
 そう言うと、遼介は手に持っていた缶コーヒーを口に含んだ。
鈴香は遼介の手元をやや焦点の合わない目でじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
 「…まずね、お母さんにね、『私、小さい頃あの博物館に行ったことある?』って尋ねたの。」
 「で?」
 「無さそうね。」

 「じゃあ、やっぱり何かの思い違いか何かだったんじゃ…。」
 「うん。そうかも知れない。でもね」
 「でも?」
 「ちょっと凄いことが分かったのよ。」
 「え?」
 そこで、鈴香もペットボトルの紅茶でちょっと口をしめらせた。

 「これ…お祖父ちゃんには絶対内緒にしておいてくれる?」
 「うん。」
 遼介は思わず身を乗り出した。

 「あのね。実は、私のお祖母ちゃんなんだけど…。」
 「お祖母ちゃんって、田舎の?」

 「そう…なんだけど。」
 「この間、実家に帰ってた時にね、ちょうど親戚が集まってたのよ。…その時に、あの絵のことや、ここの博物館の話をしてたのよ…。」
 「あ、ひょっとして、鈴香のお祖母ちゃんが、来たことあるとか。」

 「ううん、違うの…。ちょっと、最後まで聞いてよ。」
 「ゴメン…。で?」

 「あのね…。うーん。話す順番が難しいのよ。ちょっと待って。」
 そう言うと、鈴香は暫く空中に何かを書くような仕草をしながらぶつぶつ言っていた。

 鈴香が何か集中して考え事を始めると、よくその仕草をすることに、最近遼介は気付いていた。「自分は気付いているのかな…」と、何となく可笑しいような嬉しいような気分がしたが、今真剣な表情の鈴香にちゃちゃを入れるのは止して、彼は黙って待っていた。

 すると、鈴香は口を開いた。

 「あのね…。まず一度整理すると、私…あの博物館で、猫の絵を見た時、何だかとっても懐かしい気がしたのね。
 …で、ひょっとして私、小さい頃誰かにあそこに連れて行ってもらったことがあるのかなって、母に尋ねたのよ。」
 「うん。」
 「母は、それは、まず無いだろうって…。でね、その時ちょうどそれを横で聞いていたお祖母ちゃんがね。」
 「うん。」
 遼介は一層身を乗り出して聞いた。

 「その『猫の絵』って『黒猫の絵かい?』って聞いてきたのよ。」







鈴香の何だか怪談でも語るかのような口調に、遼介は思わず、ゴクリと生唾を飲んでしまった。
 かまわず、鈴香は続けた。

 「でね…。私、『お祖母ちゃん、何か心当たりあるの?』って尋ねたのよ。
  するとね。何でも、お祖母ちゃんの実家にも黒猫の絵があるんだって教えてくれたのよ。…でも、母の実家ならちょくちょく行ったけど、お祖母ちゃんの実家って、そうそう行く場所じゃないでしょ…。」
 遼介は確かにそうだという感じでコクリと頷く。

 「それでも…ね、小さい頃に一度や二度は行ったことがあるかもしれないって…。
 だから、可能性としてはその時の記憶だってこともあるかも知れないわ。
 …でも、私なーんにも覚えてないのよね。」

 遼介はちょっと眉間に皺をよせて、
 「…ふうん。つまり、お祖母ちゃんは、鈴香がその絵を子供の頃見ていて、それで勘違いしてんじゃないかって思ったってこと?
  …でもそうだとすると、凄く遡っちゃうよな…。」

 「うん、そうなのよ。
  お祖母ちゃんって、母方のお祖母ちゃんなのよね。
 …私も殆ど記憶がないし、聞けばそれほど大きな絵じゃないって言うし…。」

 「でさ、さっき言ってたけど、何が『凄い』の?」
 遼介は歯切れの悪い鈴香に思わず突っ込みを入れた。すると、

 「待ってよ、これからなのよ。」
 そう言って、鈴香は紅茶を二口ほどゴクゴクと飲み、「ふう。」と息を吐いてから話を続けた。

 「…でね。その絵ってのがさ、お祖母ちゃんの妹さんが描いた絵なんだって。」
 「へえ。お祖母ちゃんの妹さんって絵描きさんだったんだ。」
 「それが、違うのよ。」
 「…私も、知らなかったんだけど、お祖母ちゃんって双子だったんだって。」
「そうなんだ。」
 遼介にとっては、それは別段大したことのない情報ではあった。が、鈴香の様子に合わせて少々大袈裟に驚いてみせた。

 「双子かァ…それは凄いな。…でも、まあ、自分の祖父母の兄弟ってのは基本的にあまり会わないし、知らないことが多いよね。
 でも、双子ってのはちょっと珍しいかもね。
 …で、当然そのお祖母ちゃんの妹さんだっけ…には、鈴香は会ったことないんだ。」

 それを聞いて、鈴香はちょっぴり残念そうに言った。

 「それがね。若い頃に亡くなっちゃったんだって。」
 「ああ…。そうなんだ…。ごめん。」
 「ううん、いいの。私も知らなかったのよ。」

 遼介は、ちょっと間を置いて、
 「でも、その方の形見として絵が残ってるってワケだ。」
 「そうみたいなの。」
 「でもさ、まだ確信には至ってないんだよね。」
 「そうなの…。でね?」
 「?」

 「実はね。お祖母ちゃんの実家ってのがさ、意外に近い場所にあるのよ。」
 「へえ。そうなんだ。」
 「…そこを訪ねてみようかなって。」
 「その絵ってまだあるんだ。」
 「うん…。お祖母ちゃんによると、その実家はお祖母ちゃんのお兄さん…つまり跡取りが継いだのね。
 その方も、もう何年も前に亡くなってるんだけど、その息子さん、うーん…と…要するに、その家はお祖母ちゃんの甥っ子に当たる人が継いで、それは今でもあるんだって。
 …お祖母ちゃん、もうかなり前になっちゃうけど、法事の時か何かにまだその絵が掛けてあるのを見たような気がするって言ってたのよ。」
 「そう。それじゃあ、その絵はまだ見に行けるんだ。」
 「それはそうなんだけど。」

 「え、何か問題でも?」
「ううん。特に問題ってほどじゃないけどさ。」
 「何?」
そこまで言って、鈴香は急に笑顔になった。そして、遼介の顔を見つめて言った。
 「見に行く時、遼介にも付き合って欲しいな。」
遼介はちょっぴり驚いた。
 「え、オレが?」

 「何だか、『親戚』って言っても遠縁だから、敷居が高いのよ…。
 お祖母ちゃんは予め連絡しておいてあげるって言ってるンだけど。一人じゃ心細くってさ。」
遼介は、それを聞いて、「ここはポイント高いぞ」と自分で自分に言い聞かせた。そして、
 「うん。いいよ、一緒に行こう。」
 と、ややこわばった笑顔で快諾した。
 鈴香は、
 「やったァ。嬉しい。じゃあ、『善は急げ』だから明日ね。」
 「え…、明日ァ。」

 遼介の慌てる様子を余所に、鈴香は残りの紅茶を一気に飲み干していた。






 翌日は生憎雨模様であった。
 今週末は例のお祭りだから、どうせならここで降っておいて欲しいものだ…と、遼介は思っていたが、雨は朝から本格的に降っており、ちょっと降り過ぎかなというぐらいの雨量であった。
 目的地へは、ここからいつもの路線で4つ程下った駅で乗り換えなければならないので、そこの乗り換え口を待ち合わせ場所にしていた。
 そこはそれほど大きな駅ではなく、到着した遼介は、自動販売機が2台並べて置かれた横のベンチに坐っている鈴香をすぐに見付けることができた。
 遼介の姿に鈴香も、すぐに気がつき、笑顔で手を挙げる。
 鈴香は、今日はジーンズにピンクのポロシャツ、それからキャップという、彼女にとっては「普通」の出で立ちであった。偶然遼介もジーンズにグリーンのポロシャツで、何となく示し合わせたかのような感じになった。
 それをちょっぴり嬉しく感じつつ、遼介は、「この間のワンピースも可愛かったけど、やっぱり彼女はスポーティな恰好の方が似合うかな…。」などと、そんなことを考えていた。そして、
 「待った? 同じ電車かなって思ったんだけど。」
 と、笑顔で爽やかに告げた。
 鈴香もニッコリと笑って、
 「ううん。大丈夫。
  …私、一本前の電車がちょうど出る所だったから、それに乗っちゃったの。ちょうど読みかけの本があったんで…いい時間だったわ。」
 彼女はそう言いながら、肩から掛けたバッグに文庫本をしまいながら立ち上がった。
 「じゃあ、行こうか。」
 「うん。」

 二人は人気のないホームで再び電車が来るのを待っていた。
 雨はまだしとしと降り続いていた。

 「で、…場所、分かるの。」
 「うん。お祖母ちゃんに説明してもらったし、駅から通っている大きな道路沿いだからすぐ分かるって。」
 「そう。じゃあ安心だね。」

焦げ茶色のボディに黄色と緑のラインが入った2両編成のローカル線は、約10分後に到着した。
 乗車時間はそこから約20分ほどである。やや山間部にさしかかる辺りにある小さな町が、目的地であった。
 雨は小降りにはなったものの、まだぽつぽつ降り続いているのが走っている電車の車窓からも見て取れた。

 電車は空いており、二人は横長のシートに仲良く腰掛け、外を眺めながら話をしていた。
 目的の町には、すぐに到着した。
 駅を出ると二人は雨の中を傘をさして歩いた。
 ちょっと足下が濡れたけれど、まだまだ夏っぽい天気であり、素足にサンダル履きという二人には却って気持ちいいほどだった。


 「ところで、その『絵』って、どんな絵なんだろうね。」
 「うん…。でも、『絵』としてはあまり期待しない方がいいと思うよ。だって…。」
 「え?」
 と遼介。

 「お祖母ちゃんの妹さんね、12歳で亡くなったの…。」
 「そうなんだ。…でも、随分若い時に亡くなったんだね…。」

 「うん。詳しくは知らないんだけど、病気だったらしいの。
  体、弱かったんだって。
  …私のお祖母ちゃんが、姉でしょ。で、自分は健康で病気知らずだったらしいから、却ってちょっと辛かったみたいなのよね。
 …自分が色んなものを取っちゃったみたいで。」
 「ふうん。」

 雨は知らない間に小降りになっていた。

 傘はもういらないかなと思いながらも、何となく二人ともそのまま歩き続けていた。足下の水たまりに、時折雨粒が小さな円を描いていた。

 「あ、あれだわ。きっと。」

 鈴香が指さした方向に、ぽつんと一軒だけ田圃の中に家が見えた。
 そこには、赤茶色の屋根に煤けたピンク色の壁の、ちょっと南仏を意識したような新しい家と、青い屋根の古い家が寄り添って建っているのが見える。
 確かに、あそこは大きな道路からもよく見えるし、道路の反対側には駐車所の広い郊外型の大きなホームセンターがある。

 どうやらあれが目印だったのだろう。

 「傘、たたもうか。」
と、鈴香に声を掛けられ、二人は傘をしまいながら、大きな通りから真っ直ぐにその目的の家に伸びている細い道へと曲がった。





 遼介は「お祖母ちゃんの出所」ということで、かなり古い民家のようなイメージを持っていたが、予想は外れて、そこにはかなりモダンな建物があった。
 もちろん、彼の思っていたような家も嘗てはあったのだろう、その脇の古い家の裏手には古い納屋か倉庫のような建物も残っている。
 どうやら、跡取りの息子さんが古い家を少し残して新築したのだろう…ということは明かだった。

 二人は家の側まで行き、ちょっと見渡してみた。

 青い屋根の古い家の方にも玄関らしいものはあったが、そちらの方にはちょっと人気が感じられず、鈴香の足は迷わず新しい家の方に向いた。
 門柱には「Hirano」と彫りつけられた陶板が嵌め込まれていた。
 鈴香は、祖母の旧姓が「平野」であることを確認し、ゆっくりと門柱に取り付けられたドアフォンを押した。
 と、すぐにそこにあるマイクから「ブチ」っというような音とともに、
 「はあい。」
 と、やや電子音がかった、くぐもった声が聞こえてきた。
 そこには小さなカメラも取り付けられているので、どうやら中では私たちの姿が見えているのだろう。
 鈴香は少し背をかがめると、マイクに向かって言った。

 「こんにちわ。桜井…鈴香です。」
 「はい、ちょっと待っててね。」
 聞こえてきた声は女性のものであった。
そして、中でぱたぱたと廊下を走る音が聞こえてきた。

 車庫には洒落た軽四が停められており、その横には大きなスペースが空いていた。
どうやら、今家にいるのは奥さんだけなのだろうと予想できた。

 それもそのはず、もう9月である。たいていの学校も2学期が始まっているはずで、子どもがいても、高校生までなら当然学校に行っている時間帯である。御主人も勤め先であることは想像に難くない。
 「大学生は、夏休みが長くっていいね。」と、今年になって、周囲の人から度々言われるが、実際に大学生だけがそうなんだ…と鈴香はしみじみ感じていた。

 「ガチャリ」
 玄関の扉が開いて、中から未だ50歳手前だろうか、という年格好の若作りな女性が出てきた。
 「あ、いらっしゃい。…鈴香ちゃんね。お祖母ちゃんから窺ってますよ。…まあまあ、上がってお茶でもどうぞ。」
 「あ、はい。」
 鈴香は、遼介を紹介するとともに、突然の訪問の無礼を詫びたが、奥さんはとてもにこやかで感じ良く応対してくれた。
 何やら垢抜けていて、人慣れた感じであり、とても専業主婦には見えなかった。
 今日は何か都合でちょうど家にいたのかも知れないな…と遼介は思った。

「お邪魔しまーす。」と言うと、玄関に靴を脱ぎ、限りなく新品に近いスリッパに足を入れ、しずしずと綺麗な廊下を案内されて歩く。
 鈴香は、「親戚」とは言っても、ちょっと離れると本当に何も知らないんだな…。
 と、そんなことを改めてしみじみ感じていた。

 小綺麗な居間に案内され、出されたアイスティを飲みながら、そこで暫く雑談などした。部屋にある家具や置物はどれもセンスの良いものばかりであった。
奥さんは、ちょうど話の切れ目にチラリと時計の方に目をやった。
 何となく、それに急かされるような感じを受け、鈴香は言った。

 「…あの、それで例の『絵』なんですが。」
 「あ、そうね。違う話ばかりしちゃってごめんなさいね。
  隣の、古い母屋の居間に掛けてあると思うわ。」

 何となく、そういうのを待ちかねていたような、ちょっぴりわざとらしい感じで奥さんはすぐに立ち上がった。
 「じゃあ。参りましょう。」

 すぐ隣にある家だが、そこに行くには一旦玄関を出てからぐるりと外を回らなければならなかった。
 隣の家の玄関には門柱も残っていたが、くすんだタイルが剥がれ、下のコンクリートが剥き出しになっている部分が見える。
 「ごめんなさいね。もう、随分掃除もしてなくて。」
 鍵を開けながら、奥さんは申し訳なさそうに言う。
 「いえいえ。こちらこそ、突然申しわけありません。」

 埃っぽい廊下を少し行くとすぐ左にそれらしい部屋があった。
 「多分、ここにあると思うんだけど」と言いながら、奥さんが板張りの引き戸をガラガラと空けると、古い応接セットのようなソファーが見える。

 カーテンが閉まったままなので中は暗かったが、すぐに電灯を点けてくれた。

そこは、かなり物置化しているのだろう。奥の方の窓際あたりには雑然と物が積み上げてある。
 鈴香は周囲の壁を見まわしたが、それらしい絵は見付けることができなかった。

 「黒猫の絵だったわよね。確かこの辺りに掛かってたと思うんだけど。」

 奥さんは、そう言いながら隅の方をごそごそとし始める。そこには、横になった絵や掛け物が数枚乱雑に突っ込んであった。

 暫くして、

 「あ、あったわ、これでしょ。」

 そう言って奥さんが取り出した絵は、簡単な額に入れられたちょうどA3サイズほどの水彩の絵だった。

 「鈴香ちゃん。子供の頃、お祖母ちゃんに連れられて何回かウチにも来たことがあるから、これに見覚えがあったってことかしらね…。長いことこの部屋に掛けられてたんで…これ。」
 と、奥さんは側にあった黄色いモップ型の雑巾でホコリを払いながら言った。

 「へえ…。」

 差し出されたそのその絵を見て遼介は思わず声を漏らした。





 確かに似ていた。
 全くそっくりな模倣、コピーとは違うが、構図、色調、そしてそういうものでは説明できない絵の持つ独特の雰囲気。
 「ウチにある絵と同じ…」遼介はそう思った。

 すると、鈴香も口を開いた。
 「この絵…だわ。私、何となくだけど覚えているの。」
 鈴香の瞳には、喜びとも懐かしさとも違う、何かしら哀愁めいたものが浮かんでいた。
 そんな鈴香を余所に、
 「そう。良かったわね。」と、さばさばと奥さんは言う。

 しかし、その絵には遼介の博物館にあるそれとは決定的に違う箇所があった。

 「…ただ、本当に良く似ているけど、この男の子はウチの絵と違うよね。」
 その通りであった。
 遼介の博物館の絵は、猫だけが階段の途中に坐っている構図であった。この絵もそこまでは同じであったが、この絵ではその猫の横に少年が座っていた。

 鈴香は再びその絵に見入っていたが、ぽつりと言った。
 「そうなのよ。だからちょっと印象が違ったのよ。」
遼介は、
 「でもさ、この男の子以外は本当にそっくりだね。タッチとかは違うけど。
 …でも、12、3歳で描いた絵にしては凄く巧いね。」
 「うん。絶対…才能があったんだ。」

 奥さんは、
 「この絵ね、死んだお祖父ちゃん…つまり、私の夫の父が大切にしてたのよ。
  妹の形見だって。でも、こういう応接間に掛ける絵としてはちょっと…でしょ。それに、ウチの主人にしても、全く顔も見たことのない叔母さんの、しかも小さい頃の絵だから、あまり思い入れがなくって。
 …ごめんね。新築のどさくさで外しちゃってたのよね。それに、すっかり私も忘れてしまってたわ。」

 「あ、いいんです。そんな…。恐縮です。」
 と鈴香。
 「…で、思うんだけど。あなた、これ、持って帰らない?」
 「え?」
 「だって、本来はあなたのお祖母ちゃんの姉妹の形見ってことだよね。だから、ウチのお祖父ちゃんも亡くなったから、一番濃い血縁者が持っているべきだと思うのね。」
 奥さんは、ちょっとクールな口調でそう言った。
 遼介は、確かにそうだと思いながら、ただ、その口調があまりに事務的だったので、「結局この奥さんもちょうどいい厄介払いができるぐらいにしか思っていないんだろうな…」などとそんな気もするのだった。

 「それに…、うちの主人とも話をして、今日あなたがきて…良かったら持って帰ってもらおうかって。」
 「はあ…。」

 本来なら、鈴香のお祖母さんが貰うべきだろう…。やっぱり、こんなものは手元に置いておきたくないんだろうな。…と、側でそう遼介も考えていた。

 奥さんの申し出に、生返事だった鈴香は、遼介に判断を求めるような視線を送ってきたので、彼は小さく頷いてみせた。
鈴香は、少し間を置いて、
 「じゃあ…。でも、本当に持って帰ってもいいのかしら。」
 「ええ、おば…お祖母ちゃんには、私からも電話しておくわ。」

 結局、奥さんはすぐに綺麗な紙袋をどこからか持ってくると、その絵を額のまま中に収め、笑顔で「じゃあ、お祖母ちゃんにもよろしくね。」とさっさと部屋を片付け始めた。

 遼介は何となく、その奥さんの様子に反感めいたものを感じつつも、自分たちも押しかけている立場だし、まあ奥さんの気持ちも分からないでもないな、とその気持ちを押し殺しながら黙っていた。

 そして、そこを出る時、玄関口で、鈴香が聞いた。
 「あの…、この絵って、いつどうやって描かれたのか…ご存知ですか。」
 奥さんは、ちょっと考えて言った。

 「そうね…。私もよく知らないんだけど、まず間違いなく死んだお祖母ちゃんのものよ。絵の何処かに『C・H』とサインがあるわ。お祖母ちゃんは『千代子』でしょ、『平野千代子』ね。
 …あとは、あなたのお祖母ちゃんに聞いてみた方がいいんじゃないかしら。」

 「あ、それはそうですね。」
 鈴香は、確かにそうだと思い、取りあえず笑顔で頭を下げ、その場を後にした。

 そして、その絵を持って二人は鈴香の祖母の実家を後にした。
 雨はいつの間にかすっかり上がっていて、アスファルトの中央辺りはもう乾いて白くなり始めていた。
 歩きながら、遼介が口を開いた。
 「しかし、この絵…ホントによく似てたよな。」
 「うん。」
 「私、もう少し調べてみるわ。…何か分かるような気がするの。」
 「そうだね。ちょっとしたミステリーだね。」
 「うん。きっと何か私たちの知らない何かがあるのよ。」
 「じゃあ。まずはお祖母ちゃんだね。」
 「うん。」

 駅への帰り道、二人の足取りは軽かった。
 駅前の道路脇に植えられた街路樹の葉についた水滴が、少し傾き始めた陽の光を受けてキラキラと輝いていた。






 9月になって、2、3日涼しい日が続いていたので、このまま秋になってしまうのではないかという声もあちこちで聞こえていたが、今日は一転して真夏日が戻っていた。

 鈴香と遼介は冷房の効いた喫茶店に向かい合わせに坐っていた。
 祭の日は明後日に迫っていた。
  後から来た遼介は、アイスコーヒーを注文した後、おしぼりで手を拭いながらまず第一声を発した。
 「でも…、どうしてこんな所で待ち合わせなんだ。」
鈴香は今日は生成り色のサマーセーターにチノパンという恰好だった。 
 「ちゃんと理由があるのよ。」
 「?」
 「それは…、後できちんと話すから。」

 鈴香が指定してきた待ち合わせ場所は、駅前の喫茶店であったが、そこは遼介の最寄りの駅から一つ上った所にあった。また、そこは鈴香の下宿先がある駅からも、一つこちらにある、誠に中途半端な位置にあった。

 「で、お祖母ちゃんと話はできたの?」
 「うん。」
 「あの絵のことは、分かったの?」
 「まあ、焦らないで…。ゆっくり話すから。」

 ちょうど、鈴香が遼介を抑えるタイミングに合わせたかのように、アイスコーヒーとミックスジュースが運ばれてきた。
 「今日はホント暑いわね…、でも、この分じゃ…お祭りは大丈夫そうね。」
 「そうだね。…この間、しっかり降ったから、もう降らないだろ…。」
 そう言うと、遼介はミルクもシロップも何も入れないままコップを持って、アイスコーヒーを美味しそうにグイッと一口飲み下した。

 鈴香は遼介のそんな様子を嬉しそうに見ていたが、自分もストローでジュースを一口飲んで、小さく「ふうっ」と声を出した。

 店内は、カウンタ席もあったが、木製の椅子とテーブルが4セットほど置いてある、比較的小さな喫茶店であった。窓際にはよく手入れされた観葉植物の鉢が置いてあり、濃い緑の葉が空調の風を受けて涼しげに揺れている。

 遼介はちょっと店内の様子をきょろきょろと窺っていたが、鈴香が一口飲み終えたところで、待っていましたとばかりに、
 「で?」
と、視線をよこしてきた。

 「うん。あのね…。」
 鈴香はちょっと伏し目がちに話し始めた。

「お祖母ちゃんの妹さん…つまりあの絵を描いた人ってさ、私もよく知らなかったんで、びっくりすることばかりだったんだけど。 
 …あの絵ってね、病院で描いたんだって。」

 「え、そうなんだ。」
 「うん。それでね、ちょうどその絵を描き終わったぐらいに亡くなった…んだそうよ。」
 「そう…。残念だね。中学生ぐらいであれだけの絵が描ける才能があったのに。」
 「うん。」
 「で、ウチにある絵との関係って何か分かった?」

 「それなんだけど、ここからはかなり私の憶測が入ってしまうんだけど…。」
 「いいから、言いなよ。」

 遼介は、今度はストローを使って少しアイスコーヒーを啜った。

 「お祖母ちゃんの妹さん…千代子さんね。子供の頃、養子に出されてたんだって。」
 「ふうん…、でも『子供の頃』って? どういうこと?」

 「あのね、ウチのお祖母ちゃんの出所はそれほど裕福じゃなかったそうで、お兄さん…つまり跡取り息子はもういる状態で、次の子が双子の女の子でしょ。」
 「だから…。」
 「親戚に、子どもの出来ない夫婦がいたそうでね、そこへ養子に出てたんだって。」
 「でも、千代子さんは病気がちで、入退院を繰り返すばかりだったんで、最後には養子縁組が取り消しになったらしいの。」

 「それって、何だかえげつない話だね。でも、そんなに簡単に養子縁組って破棄できたりするのかな?」
 「お祖母ちゃんも子どもだったんで、よくその辺りは知らないんだそうだけど、死ぬ直前は、実家に戻っていたそうなのよ。」
 「でね、あの絵をいつも枕元に置いて眺めていたんだって。…お祖母ちゃんは、千代子はあの絵を見ている時だけ、幸せそうだった…って。」
 「で、ウチの絵とあれがどう繋がるの…。」
 「それがね、千代子さんが養子に出されていた家ってのが、…実はこの辺りなのよ。」

 それを聞いた遼介は、思わず飲みかけたコーヒーを吹きそうになった。
 「ええっ、…そうなんだ。」
 「しかも、…これは多分…なんだけど、千代子さんが入院していた病院ってのはね…。

そこで先に口を開いたのは、遼介だった。

 「大竹病院…。」

 そこで鈴香はしっかり顔を上げて遼介の顔を見上げた。
 「きっと…そうに違いないの。」



7 
 喫茶店から出た二人は、じりじりと照りつける陽射しの下、鈴香のメモを頼りに暫く歩いた。
 そして、20分ほど歩いたであろうか、道路脇の案内標識と、鈴香が聞いてきていたその地名が一致した。
 「この辺りね。」
 「うん、そうみたいだ。」
 鈴香は、絵の話を祖母から聞いた時、妹の千代子が養子に出されていた場所も尋ねていたのであった。そして、それが案外近い場所であるということから、具体的な地名も分かる範囲で教えて貰っていたのだった。
 流石に、その家の場所までは分からなかったが、たとえ分かったとしても今更尋ねて行くわけにはいかない 。
 とにかく、その辺りまで行ってみよう…ということで、こうして今日この駅前に待ち合わせたということなのだった。

 その辺りは、古い街並みが幾らか残ってはいるが、大きな幹線道路が近くを通ったために、マンションや郊外型のショッピングモールなどがあちこちに出来ており、かなり雑然とした感じの雰囲気になっていた。
細い路地の向こうにコンビニエンスストアが見える角まで二人は歩いた。
 見上げると、昔の商店街の名残のような、奇妙な形の色褪せた電灯がぶら下がっている。
 遼介がしみじみと言った。
「…こんな所、用事がないからあまり来たことがないんで、何となく感覚が分からなかったけどさ…。
 よく考えてみたら、ここからウチって案外近いな。」
 「そうね。歩くと大変だけど。」
 真夏に戻ったかのような陽射しを浴びて、鈴香はちょっとしんどそうだった。 

 どうせやって来るのなら、涼しかった昨日にすればよかった…とちょっぴり後悔する鈴香だったが、それはもう後の祭りである。

 博物館は一つ向こうの駅で降りれば近いが、駅から博物館は少し東へ歩いた所にある。逆に、今彼等がいる場所は、こちらの駅から西へ向かった所にあるので、結果的に二つの地点を結ぶ距離はかなり近くなっている…という情況だった。

 そして、彼女が口にした「大竹病院」というのは、この辺りでは有名な、昔からある大きな病院であった。
 鈴香はその病院の名前を祖母から聞いた時、何かどこかで聞いた覚えがあると思た。そして、その時は思い出せなかったが、それはすぐに判明した。
 鈴香がいつも通っている沿線の、駅のホームに大きな「大竹病院」と記された看板があるのだ。それを鈴香はいつも見ながら通学していたのだ。

 そして、改めてそれを見付けた時、
 彼女の中で、博物館の絵と、自分の記憶にあった絵、そして祖母の妹の千代子の姿が一気に結びついたのだった。ただ、それはまだ憶測の範囲を出るものではなかったけれど。

「大竹病院」という名前は、遼介にとっては子どもの頃から馴染みのある名前であった。自分自身、昔から何かあるとその病院に連れて行かれたし、そこには産婦人科もあるので、祖父も、遼介の父もそこで生まれた。勿論、遼介自身もそこで生まれたのである。
 そして、その「大竹病院」は、もうこの辺りから見えてもおかしくないほどのところであった。
 …つまり、「大竹病院」から遼介の家、博物館までは充分歩いても行ける距離であった。

 再び、口を開いたのは遼介だった。
 「そうか…。じゃあ、あの絵は。」
 「そうね。」
 鈴香は噛みしめるように言った。
 「やっぱりあの絵のもとになったのは、遼介んちの絵じゃないかしら。」
 「じゃあ、あの少年は…。」

そこで、暫く沈黙があったが、鈴香が突然言った。
 「お祖父ちゃんって、そのこと知ってるのかしら。」
 遼介も、鈴香の言いたいことは判っていた。
 「多分、知らないと思うんだ。でもさ…。」

 遼介は、初対面の時の、祖父が鈴香を見た時のちょっとした「異変」について説明した。
 鈴香も、遼介の言葉を真剣に受けとめながら、その時の様子を思い浮かべていた。
「私…、そう言えば、よく『お祖母ちゃんの若い頃に生き写しだ』って…言われてた…。」
 遼介はもう驚かなかった。
 「そう…。やっぱり…、そうなんだ。」
 「でも、これって…ひょっとして、凄いことなんじゃない?」

 そして二人は暫く考え込んでしまった。
 「お祖父ちゃんに、このこと知らせるべきなんだろうか…。」

 そして、二人は歩きながら話し続けた。そして、再び今日のスタート地点であった駅前まで戻って来てしまった。結局、結論は出ないままだった。

 「お祖父ちゃん、お祭りに鈴香が来るの、凄く楽しみにしててさ…。」
鈴香はやや間を置いて言った。
 「もちろん、行かせて貰うわ。でも…。」
遼介はちょっぴり困った顔の鈴香を横目に見て、
 「そうだね。やっぱり…この話は、しない方がいいかも知れない…。」
 「うん。そうかも知れないわね。」

 「じゃあ…、そういう方針で…。」
 「うん。」
 「じゃ、明後日な。」
 「…うん。」
 「待ってるから。」
 「分かった。」

 別れ際の二人は言葉少なだった。

 二人は駅のホームで別れた。遼介と鈴香はちょうど反対方向に向かう形になり、線路を挟んで二人はベンチに腰掛けて列車が来るのを待っていた。
 暫くして、先に鈴香の乗る電車がやって来た。

 鈴香は乗り込むと、遼介のいるホーム側のドアの所に来て、小さく手を振った。
 そして、電車が茜色に染まりつつある西の空に向かって走り去って行くのを遼介はぼんやりと見つめていた。

 夕暮れ時になって、やっと幾らか涼しい風が吹き始めていた。


                             第3部終




© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: